2020年9月30日水曜日

  今日は十四夜で昼は晴れていたけど夕方になって雲が広がった。最初は雲に霞む薄月が見えたが、だんだん雲が濃くなってゆく。明日は雨なのか。
 コロナの方も横ばいというのか、減るでもなく増えるでもなく、照りもせず曇りも果てぬころなかな。
 「舞都遲登理」ほうはまたちょっとお休みして、俳諧を読んでみたい。
 名月といえば元禄三年、猿蓑調の頃の歌仙を読んでみようと思う。八月十五日、膳所義仲寺の無名庵での興行された芭蕉、尚白両吟で、発句は、

   古寺翫月
 月見する座にうつくしき顔もなし  芭蕉

 まあ、野郎二人の興行では「うつくしき顔もなし」だろうな。
 脇。

   月見する座にうつくしき顔もなし
 庭の柿の葉みの虫になれ      尚白

 蓑虫というと、芭蕉の貞享四年の句に、

 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵    芭蕉

があり、伊賀の土芳が貞享五年三月に蓑虫庵を開いたときに、「蓑虫の」の句の自画賛を送られたというが、現存しない。これとは別に鯉屋杉風のところに伝来する芭蕉庵を描いた自画賛と英一蝶画の「みのむしの発句賛」が現存している。
 芭蕉の蓑虫の句を意識したのであろう。この無名庵にも柿の木があるから、柿の葉で蓑虫になれば芭蕉庵や蓑虫庵と肩を並べることになる。
 第三。

   庭の柿の葉みの虫になれ
 火桶ぬる窓の手際を身にしめて   尚白

 
 火桶は丸い木製の火鉢で、漆を塗って仕上げた。蒔絵を入れた高級なものもあった。
 ここでは漆を塗って仕上げる職人の手際を詠んだもので、製作中の火桶だから冬季にはならない。「身にしめて」で秋になる。
 四句目。

   火桶ぬる窓の手際を身にしめて
 別当殿の古き扶持米        芭蕉

 別当は神仏習合の際の神社を管理する僧のことで、修験の寺にも別当がいた。
 前句を完成した火桶を納品する場面とし、別当から扶持米をもらう。
 五句目。

   別当殿の古き扶持米
 尾頭のめでたかりける塩小鯛    芭蕉

 ここでいう小鯛はチダイではなく単に小さな鯛という意味だろう。保存するために塩漬けにする。塩漬けにすると小さな鯛がもっと小さくなるが、それでもちゃんと尾頭がついていてお目出度い。
 別当は仏者だが、他人の殺生した魚は食べる。ただ、贅沢はせずに、塩漬けの小鯛くらいに慎ましく止めておく。
 六句目。

   尾頭のめでたかりける塩小鯛
 百家しめたる川の水上       尚白

 これは尾頭を「御頭様」に取り成しての展開だろう。百家を従え川上に屋敷を構えている。

2020年9月28日月曜日

  今日は朝から秋晴れで、今年初めての雲一つない秋晴れとなった。富士山も雪をかぶり、くっきりと見えた。
 夕方頃から雲が出てきて、十二夜の月はかろうじて雲間に見えただけだった。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 「陸地以の外難所、鮎川と云獵浦より舟路三里、黒崎と云へ、渡しに乘て島着ス。麓ヨリ四十六丁、陸ヨリ三里離て海中ニアリ。丸キ嶋山也。是なん陸奥山。五丁登テ大林寺、護摩堂・辨財天・神明、嶺に權現堂幷愛宕、五丁下りて御手洗、旱魃にも水不絶、嶺より二丁下りて廿鉾の水晶アリ。此水晶高サ貳拾尋、根の深サ不知、自六角にして一角の幅七尺余有、但末七尋ハ震動ニ折レテ、谷ニ落埋半見へたり。万劫經タル石故、空ハ松杉の寄生、枝はを連ね、石は莓覆て光不明也。誠靈山の印、稀有の一物、三國第一の珍寳、末代の記念。

     こがね花さくとよめるは此山にて、
     千歳の莓八重に厚く、木立春秋を
     しらず、鶯塒を求れば郭公鳴ず、
     四時の風全凩のごとし。白雲空に
     消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立
     迷ふ。南の磯に海鹿日を待て眠る。
     東に金砂潠漂泊、黙然として是を
     おもひ、彼を考れば、七寳の一ツ、
     金生水の故ありやと、猶尊く、御手
     洗を咶れば、五ツの味をなす。冷
     水輕して、色は青天に等し。比は
     さつきの末つかた夏を忘れて、
     しばらく木のねを枕になしぬ。
    〇御手洗や夏をこぼるゝ金華山
    〇黄精の花やきんこの寄所
    〇水晶や凉しき海を遠目鑑」(舞都遲登理)

 石巻より十三里の船路を避けて牡鹿半島の先端にある鮎川港まで陸路で行ったようだが、かなりの難路だったようだ。山の迫るリアス海岸で、今の宮城県道2号石巻鮎川線もコバルトラインもうねうねと山の中を行く。
 鮎川から船路三里、牡鹿半島先端の黒崎を廻り、金華山に到着する。今の金華山港のあたりか。
 金華山は陸奥山(みちのくやま)とも言われていた。

 すめろぎの御代さかえんとあずまなる
     みちのく山にこがね花さく
            大伴家持(万葉集巻十八 四〇九七)

と歌にも詠まれている。
 今は金華山黄金山神社があるが、ウィキペディアによれば、かつては、

 「近代以前は弁財天(弁天)を祀る金華山大金寺(だいきんじ)という女人禁制の修験の真言宗寺院であり、広島県の厳島神社等とともに日本の「五弁天」の一にも数えられるとともに、霊場として山形県の出羽三山、青森県の恐山に並ぶ「東奥三霊場」に数えられた。」

という。大林寺は大金寺の間違いであろう。かつてここに大伽藍が存在していたようだ。明治の廃仏毀釈でここも跡形もない。
 御手洗は今のこの金華山黄金山神社の御水取場でいいのか、よくわからない。
 山頂もかつては竜蔵権現だったが、今は大海祇(おおうみつみ)神社になっている。
 水晶は今は天柱石と呼ばれ、山頂の東側にあるという。高さ二十メートルだから一尋が五尺(約百五十センチ)として、十三尋ちょっとというところか。「七尋ハ震動ニ折レテ」とあるから、それを加えれば二十尋になる。
 ただ、今の写真で見る限り、一般的なクリスタルのあの透き通った六角の柱とはかなりイメージが違う。普通の岩のように見える。まあ、当時も苔むして「光不明」とある。
 さて、句の方も長い前書きがついている。俳文として読んでもよさそうだ。

   こがね花さくとよめるは此山にて、
   千歳の莓八重に厚く、木立春秋を
   しらず、鶯塒を求れば郭公鳴ず、
   四時の風全凩のごとし。白雲空に
   消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立
   迷ふ。南の磯に海鹿日を待て眠る。
   東に金砂潠漂泊、黙然として是を
   おもひ、彼を考れば、七寳の一ツ、
   金生水の故ありやと、猶尊く、御手
   洗を咶れば、五ツの味をなす。冷
   水輕して、色は青天に等し。比は
   さつきの末つかた夏を忘れて、
   しばらく木のねを枕になしぬ。
 御手洗や夏をこぼるゝ金華山
 黄精の花やきんこの寄所
 水晶や凉しき海を遠目鑑

 頭は大伴家持の歌で、「春秋を知らず」は、

 春秋は知らぬときはの山河は
     なほ吹く風を音にこそ聞け
             清少納言(清少納言集)

の歌や、水無瀬三吟七十六句目の、

   山がつになど春秋のしらるらん
 うゑぬ草葉のしげき柴の戸    肖柏

といった用例がある。あたかも仙郷のように生き物の生死を知らぬことをいう。
 鶯もホトトギスに子を取られることもなく、一年中凩のような強い風が吹いている。
 このあたりは神仙郷をイメージするための言葉の綾で、一年いてここの春秋や一年中吹く凩を経験しているわけではない。
 「白雲空に消て、谷は霧に埋れ、梺は汐烟立迷ふ。」は夏の湿気の多い季節では実際にそうだったのかもしれない。「南の磯に海鹿日を待て眠る」とあるが、当時ならニホンアシカの姿を見たとしても不思議はないだろう。江戸時代には日本の沿岸に数多く生息していた。
 ウィキペディアによるとニホンアシカは「一九七五年に竹島で二頭の目撃例があったのを最後に」絶滅したとされているが、はっきりとニホンアシカだと確認されてない目撃例は、その後も三回ほど(最後のはニ〇一六年)あったという。
 「金砂潠漂泊」は「金砂潠(キンコ)漂泊(タゞヨフ)」とルビがふってある。砂は沙、潠は噀と同じで、「沙噀」はナマコと読む。「潠(噀)」は口から噴き出すもの、唾液などを言うが、ナマコは刺激を受けると腸管を肛門や口から放出するため沙噀というのであろう。
 ナマコの中でも「金海鼠・光参(きんこ)」と呼ばれるものがあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「① キンコ科に属するナマコ類の一種。全長二〇センチメートルに達する。体は長楕円形で、前端に樹枝状の一〇本の触手がある。灰褐色に褐色の斑紋がある個体が多いが、体色の変異は大きい。腹面は湾曲するが背面はやや平たい。常磐地方から北海道、千島などの沿岸に分布。昔から宮城県金華山産が賞味された。煮て干したものを中国料理につかう。ふじこ。《季・冬》
  ※俳諧・桜川(1674)冬二「料理てばひかりやはらぐ金海鼠哉〈季堅〉」

とある。キンコは水を吸うことで浮力を付け、海を漂うという。
 七宝はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「仏典中に列挙される7種の宝。7種は必ずしも一定しないが,代表的なものとしては,金,銀,瑠璃,玻璃 (はり。水晶) ,しゃこ (貝) ,珊瑚,瑪瑙 (めのう) 。金,銀,瑠璃,玻璃 (はり。水晶) ,しゃこ (貝) ,珊瑚,瑪瑙 (めのう)」

とあるが、キンコはその一つの金の子で、そのキンコの獲れる金華山は五行説で「金は水を生ず」とあるように、水を生む島なのではないかと思うと尊いことで、その金華山から湧き出る御手洗の水も五つの味、つまり五味(酸味,苦味,甘味,辛味,鹹味 )をすべて兼ね備えていると言うのだが、実際どういう味だろうか。
 五月の暑くじめじめした季節だが、ここではそれを忘れて「しばらく木のねを枕になしぬ。」
 そして発句になる。

 御手洗や夏をこぼるゝ金華山   桃隣

 「夏をこぼるる」は現代語だと「夏にこぼれる」だろう。金華山の金が水を生じ、零れ落ちている。それで「夏を」は放り込み。

 黄精の花やきんこの寄所     桃隣

 「黄精(おうせい)」はナルコユリから取れる漢方薬で、ナルコユリの花が白いところから、これは波しぶきを黄精の花に見立てたのかもしれない。キンコがそれに寄って来る。

 水晶や凉しき海を遠目鑑     桃隣

 実際には天柱石は普通の岩のように濁っているし、当時はさらにそれに苔が生えていたが、それだけに、磨けば透き通るのではないかと想像したのだろう。磨かれた水晶は海を見る遠眼鏡になる。とはいっても多分遠眼鏡は話に聞くだけで、普通の眼鏡のようなものを想像してたか。それすら当時は滅多に見ることはなかっただろう。

2020年9月27日日曜日

  「舞都遲登理」の続き。

 「松嶋より平和泉へ心ざし、遙分入まゝ海道より半里斗右へ入て、とみの山登て見れば、富山大仰寺、高泉和尚額アリ。此所より松島・雄島其外島々浦々目に下に見おろし、手も届く程のけしき、詞に絶たり。松島を岡より見渡したるよりも猶增りて、國主も度々登山のほし行人必尋て見るべし。
    〇麥喰て嶋々見つゝ富の山」(舞都遲登理)

 前に「外ニ金花山・富ノ山」とあった、その富山に行く。大仰寺は観音堂の近くにある。高泉和尚の額があったという。松島の島々が一望できる。

 麥喰て嶋々見つゝ富の山     桃隣

 「貧乏人は麦を食え」といった政治家が、確か高度成長の頃にいたが、麦を食っていても松島の絶景を眺めたならリッチな気分になれる。

 「行々て石の巻、仙臺領也。諸國の廻船を請て大湊、人家富たり。石の巻といへる事、川の州に立石有、行水巴に成て是を巻く。昔より今に替らず、されば石の巻とはいひめる。所ハ邊土ながら詩歌・連誹の達人籠れり。
    〇茂る藤やいかさま深き石の巻」(舞都遲登理)

 JRの石巻駅の東側の旧北上川河畔に住吉公園があり、そこの川の中に巻石という岩があり、それがここでいう立石であろう。
 北上川は江戸時代初期に大規模な河川改修が行われた。登米のあたりで北上川はこの旧北上川と北東へ曲がる追波川とに分かれ、湿地が広がっていたが、登米城主伊達相模宗直が新田開発のために北上川を柳津から豊里の方に迂回させルルートを新たに切り開いた。
 そのあと伊達政宗の家臣川村孫兵衛が豊里から和渕で江合川に合流させ、鹿又へと迂回させるルートを切り開いた。これによって、登米の辺りで北上川は三つのルートで流れることになった。
 この時は旧北上川が北上川だったが、明治になると北上川から鹿又へと流れる一番最初のルートを断って、水をすべて北東へ曲がる追波川に逃がし、こっちの方を北上川としたため、石巻市街を流れるのは旧北上川になった。そういうわけで、桃隣の時代は巻石のある方が北上川だった。おそらく当時の方が水量が多く、岩を巻く波の姿が見られたのだろう。今は東日本大震災による地盤沈下で干潮時にしか姿を現さないという。
 石巻は「詩歌・連誹の達人籠れり」とあるが、具体的に誰が滞在したのかはよくわからない。

 茂る藤やいかさま深き石の巻   桃隣

 藤の蔓の石を巻くに掛けた句であろう。巻石のあたりの北上川は深く渦を巻き、あたかも茂る藤のようだ。

 「牧山の道、船渡し、此あたりを袖の渡。こふちのみまき・まのゝかやはらは、牧山のうらに有。石の巻より一里行て、牧山、法華不退の道場、奥ハ千手観音。湊入口石高キ峯は日和山、愛宕立給ふ。
 金花山、石の巻ヨリ十三里、舟路日和見合スべし。」(舞都遲登理)

 牧山は旧北上川を渡った向こう側にある山で、巻石のある住吉公園に袖の渡りの碑があるという。曾良の『旅日記』には、牧山を廻った後、「帰ニ住吉ノ社参詣。袖ノ渡リ、鳥居ノ前也。」と記している。住吉公園は住吉神社があるから住吉公園なので、この位置に間違いないようだ。「住吉ノ社」は今は大島神社になっている。おそらく明治になってかつて式内社の大島神社に比定され、名前が変わったのであろう。
 袖の渡りは、

   実方の君の、みちのくにへ下るに
 とこも淵ふちも瀬ならぬ涙川
     そでのわたりはあらじとぞ思ふ
               清少納言(新後拾遺集)

など、歌に詠まれている。
 「こふちのみまき」は曾良の『旅日記』には「尾駮ノ牧山」とあり「おふちのまきやま」ともいう。牧山に比定されていたのだろう。『奥の細道』にも、「袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて」とある。
 曾良の『旅日記』には、「日和山と云ヘ上ル。石ノ巻中不レ残見ゆル。奥ノ海(今ワタノハト云う)・遠嶋・尾駮ノ牧山眼前也。真野萱原も少見ゆル。」とある。日向山は旧北上川河口の今の日向山公園であろう。眺めが良く、万石海(奥ノ海)、牡鹿半島の山々(遠嶋)、牧山を見渡し、真野萱原も少し見えたという。遠嶋は牡鹿半島全体が流刑地だったことからそう呼ばれていたらしい。
 「すさまじきもの~「歌枕」ゆかりの地★探訪~」というサイトによると、仙台藩四代藩主伊達綱村も磐城平の内藤家二代忠興三代義概と同様、みちのくの有名な歌枕を自分の領内に置き換えて作っていたようで、おそらくほかの藩でも競うようにこういうことをやっていたのではないか。どうりで緒絶の橋がたくさんあるわけだ。その意味では尾駮ノ牧山も真野萱原も本当にここなのかは怪しい。
 牧山には零羊崎神社(ひつじさきじんじゃ)があるが、ここは古代の式内社零羊崎神社があった所で、その本地として魔鬼山寺があった。その後神社の方は廃れ、魔鬼山寺も後に牧山寺、長禅寺と名前を変え、桃隣が来た頃は「法華不退の道場、奥ハ千手観音」だったのだろう。明治の廃仏毀釈で零羊崎神社に戻ったようだ。
 それにしても「魔鬼山寺」とは何か漫画やラノベに登場しそうな名前で、牧山もこの表記に戻した方が人気が出るのではないか。
 「湊入口石高キ峯は日和山、愛宕立給ふ」とある。日向山は芭蕉と曾良も登った日向山公園で、愛宕山は旧北上川を少し登った所にある曽波神社のある愛宕山であろう。
 「金花山、石の巻ヨリ十三里、舟路日和見合スべし。」とあるのは金華山で牡鹿半島の裏側になる。距離があるので天候の悪い日は避けた方がいいという忠告を受けたのだろう。
 芭蕉が金華山に行かずにそのまま平泉へ向かったのは、曾良がこの季節は無理しない方がいいと判断したからかもしれない。その芭蕉の見残しを桃隣が訪ねることになる。

2020年9月26日土曜日

 今日も一日雨が降った。
 BLMだが、日本語に訳すなら「黒人の死活」がいいのではないか。死活問題の問題の省略だが、ここにマターが含まれている。
 人種差別に限らず、あらゆる差別の根底には「わからないものへの恐怖」があると思う。この恐怖は原始的には一種の神とみなされ、鬼神と同様「敬して遠ざける」の対象となった。折口信夫のいう「マレビト歓待」もこうした一種の神としての対応だったと思う。もちろん現実的には異民族をひどい目に合わせると後、で仲間を引き連れて攻めてきて、最悪の場合村が焼き払われ殲滅させられる危険もあっただろう。
 恐怖が薄れてくると、遠ざけるという行動だけが残る。そこでいわゆる「いじり」というのが始まる。いじりは相手の反応を試すというのが基本にあり、一種の探索行動だと思う。つまり、あれを言えば笑って流すだけで済むし、それを言えばかなりムッとする、これを言えば激怒するというのを確認して、どこまでが大丈夫かを見極める作業が根本にある。
 いじりで済んでいるうちは、差別はそれほど深刻なものにはならない。最初はわからないからやっているから、限度を越えることもあるが、ここまでするとヤバイというのがわかれば、自ずと冗談で済む範囲に落ち着く。人権派の人たちはこのレベルでも差別として問題視し、法規制が必要だと考えているようだが、これを禁ずると、そもそも相手がどういう人なのか確認する手段がなくなってしまうから、相手への正確な認識や理解が困難になる。仲が良いほど喧嘩するというのは、この段階が人間の相互理解に必要だからだ。
 いじりといじめとの間には一つ大きな飛躍がある。いじめは集団に溶け込ませるための理解を促すものではなく、むしろ排除の開始となる。
 排除は基本的に人間が生存競争にさらされている限りなくならないもので、有限な大地の有限な生産力に対し人口が増え続ければ、必ず誰かを排除しなくてはならない。多くの動物は一対一での力関係で弱い者から排除される。これを順位制社会と呼ぶ。人間は弱くても力を合わせればどんな強い者にも勝てるということを知ってしまったから、生存競争が順位の争いではなく多数派工作の戦いになってしまった。ここから仲間を思いやる気持ちが進化すると同時に、仲間でない者に対しては(仲間を守るという名目で)どんな残虐な仕打ちもできるようになった。
 差別が過酷になり死活になるには、単に未知な相手への恐れというだけでは不十分で、それに生存競争による排除の原理が働いたとき人は異質なものに対し残虐になる。ここの一線は重要だ。
 日本で黒人が差別されているといっても、その多くはいじりのレベルで留まっている。
 差別は排除の原理が働く限り、個人の問題ではなく集団の問題になる。人間が生存戦略として多数派工作を行ったさい、その多数派集団から排除されたものが差別の対象になる。それは集団のルールの問題であり、個人の良心を越えたものになる。
 つまり、いくら個人的には友人で差別をしてはいけないと分かっていても、集団の圧力には抗しがたいという事態が生じる。内戦の状況下ではたとえ古くからの親友であっても過激派組織に引き渡さなければならないという悲惨な事態も生じる。引き渡せば殺されると分かっていても、それをしなかったら自分のみならず自分の家族も命の危険にさらされるという究極の選択だからだ。
 かつての南アフリカでのアパルトヘイトの問題は集団の問題であることがわかりやすかった。だが、今のアメリカの人種差別は違う。白人の多くがBLMデモに参加することで、どの集団が排除を行っているかを見えにくくしている。
 個人としてはデモに参加してアリバイ作りはできても、普段の生活に戻った時に彼らはどういう集団に所属しているのだろうか。個人としては差別に反対でデモをやって声も上げているが、実際日常生活の中で彼らはそれを貫いているのだろうか。彼らが二重の生活をしているとするなら、差別の根っこはそこにある。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 「長老坂手前に、西行戻。をしまの内に、坐禪堂・石灯籠 南村宗仙寄進。
  骨堂ニ地蔵、奥院是也。見佛上人碑、銘有。鎌倉巨福山越長寺一山和尚筆也。此石鎌倉より下ル、高一丈一尺・横三尺五寸・厚一尺。松嶋海而殺生禁斷。」(舞都遲登理)

 「長老坂」は利府から松島に入る今日の県道144号線の辺りの坂道で、その途中に西行戻しの松公園がある。
 西行戻しというのは、おそらく西行に松島を詠んだ歌がなかったことで、後から生まれた伝承であろう。
 聖護院門跡准后道興の長享元年 (一四八七年) 成立の『廻国雑記』に、既に「西行がへり」と呼ばれる場所があったことが記されている。
 今日に知られている伝承は、西行が「あこぎ」の意味を知らなくて恥じて帰ったというものと、もう一つは西行戻しの松のところの松島町教育委員会の説明板にある説で、

 「歌人西行(1118~1190)がこの地にて「月にそふ桂男(かつらおとこ)のかよひ来てすすきをはらむは誰(た)が子なるらん」と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて「雨もふり霞もかかり霧も降りてはらむすすきは誰れが子なるらん」と詠んだ。西行は驚いてそなたは何の業(なりわい)をしているのか聞くと「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としていると答えた。西行はその意味が分からなかった。童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。」

とのことだ。
 西行が詠んだと言っている、

 月にそふ桂男のかよひ来て
     すすきをはらむは誰が子なるらん

の歌は月には巨大な桂の木があって、それを刈る桂男がいるという伝承に掛けて、月の日に通ってくる男が薄の中でひっそりと暮らす女をはらませた、そいつは誰なんだという歌で、おそらく民間に伝わる春歌のようなものだろう。まあ、はらませたのは自分ではないという言い訳の歌だろう。
 それに対する童子の歌は、

 雨もふり霞もかかり霧も降りて
     はらむすすきは誰れが子なるらん

だが、雨や霞や霧で月のない夜もあったというのに誰の子をはらんだんだ、おまえだろ、というもので、そんなに機知に富んだ返しとも思えない。それにここは「だれが子なるらん」ではなく「たがこなるらん」と雅語で応じてほしい。
 それに「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈って業としているといるという謎々も別にちょ~難問というわけではない。本物の西行法師なら瞬殺だろう。
 雄島の座禅堂は『奥の細道』に、

 「雄嶋が磯は地つゞきて海に出いでたる嶋也。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、坐禅石など有。」

とある。曾良の『旅日記』には、

 「御島、雲居ノ坐禅堂有。ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有。北ニ庵有。道心者住ス。」

とある。「一山ノ碑」は「見佛上人碑、銘有。鎌倉巨福山越長寺一山和尚筆也。」のことだろう。島の南の方にあり、今は奥州御島頼賢碑と呼ばれ、六角形の鞘堂で囲って保存されている。
 宮城県のホームページには、

 「この碑は、徳治2年(1307)に松島雄島妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子30余人が雄島の南端に建てたものである。板状の粘板岩の表面を上下に区画し、上欄には縦横おのおの7.8cmに一条の界線で区切り、その中央よりやや上に梵字の阿字を大きく表わし、その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘并」と楷書で記してある。下欄には、縦1.68m、横0.97mに一条の界線をめぐらし、その中に18行643字の碑文が草書で刻まれている。
 また、碑の周囲には雷文と唐草文、上欄と下欄の問には双竜の陽刻を配している。
 碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の10世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名である。」

とある。頼賢は見仏上人の再来といわれた僧らしい。
 さて、その碑の寸法だが、松島町のホームページに「高さ3.5m、が下部1.1m、中央部1.05m、厚さは約20cm。」とある。
 桃隣の「舞都遲登理」の「高一丈一尺」は約3.4メートル、横三尺五寸は約1メートル、厚一尺は約30センチ。まあ、大体あっている。扇での採寸にしては正確といったところか。
 「松嶋海而殺生禁斷」というのはここが伊勢の阿漕が浦と一緒だということで、西行戻しの「阿漕が浦」の方の話はそこから生まれたのもかもしれない。
 あと、さっきの謎々だが、冬に芽が出て夏に収穫するのだから答えは麦作農家。

 「瑞巌圓福禪寺、妙心寺末寺 紫衣、改て瑞岩寺、仙臺城主菩提所。
 右ニ陽德院、左に天麟院、何も紫衣。
 瑞岩寺仲ニ松嶋根深の松とて、古キ松一本有。庭ニ雙梅。額、虎關の筆、方丈の記也。
 松嶋眺望 五十七嶋、四十八濱、二十二浦、三十一崎、外ニ金花山・富ノ山。」(舞都遲登理)

 瑞巌寺はウィキペディアに「山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。」とある。「右ニ陽德院、左に天麟院」今もその位置にある。陽徳院は慶安三年(一六五〇年)に開創され、現在は非公開。天麟院は万治元年(一六五八年)の創建といわれている。
 紫衣はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紫色の袈裟(けさ)および法衣の総称。古くは勅許によって着用した。紫甲。しい。」

とある。
 根深の松は不明。
 雙梅は臥龍梅のことか。瑞巌寺のホームページに、

 「政宗公が朝鮮出兵の際に持ち帰り、慶長14年(1609)3月26日、瑞巌寺の上棟祝いにお手植えしたと伝わる紅白の梅です。」

とある。
 「額、虎關の筆」も不明。虎關は虎関師錬(こかんしれん)のことだろう。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧だが、瑞巌寺との関連はよくわからない。
 松嶋眺望 五十七嶋とあるが今では二百六十余の島があるとされている。金華山は松島湾の外側にあり、石巻の先の突き出たところにある。富山は瑞巌寺の辺りから北東の方角にある山で富山観音堂がある。

   「松嶋辨    芭蕉翁
 抑松嶋は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を耻ず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。
島々の數を盡して、欹ものは天を指、ふすものは波に匍匐。あるは二重にかさなり、三重に疊みて、左にわかれ、右につらなる。屓るあり、抱くあり、兒孫愛するがごとし。松のみどりこまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、窟曲をのづからためたるがごとし。其氣色、窅然として美人の顔を粧ふ。千早振神の昔、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を盡ん。予は口を閉て、窓をひらき、風雲の中に旅寢するこそ、あやしきまでたへなる心地はせらるれ。
    〇松嶋や鶴に身をかれ郭公  曾良
    〇松嶋や五月に來ても秋の暮 桃隣
    〇松嶋や嶋をならべて夏の海 助叟
    〇橘や籬が嶋は這入口    桃隣
    〇橋二ッ滿汐凉し五大堂   仝
    〇月一ッ影は八百八嶋哉   仙化」(舞都遲登理)

 この松島弁は素龍本の『奥の細道』にくらべると「抑(そもそも)」のあとの「ことふりにたれど」が欠落しているが、芭蕉自筆本にも同様の欠落がある。桃隣は初期の稿本を読んでいたのだろう。それ以外は「筆をふるひ、詞を盡ん。」まではほぼ一致する。「抱るあり」が「抱くあり」になっているが、これは桃隣の書き間違いだろう。
 そのあとの部分の「予は口を閉て」は『奥の細道』の曾良の句の後に「予は口を閉て眠らんとしていねられず」から取ったもので、「窓をひらき、風雲の中に旅寢するこそ、あやしきまでたへなる心地はせらるれ。」は「二階を作りて」が欠落しているが、曾良の句の直前にある。「雄島が磯」の辺りを大幅にカットして、うまいこと切りつないで短縮バージョンになっている。ひょっとしたら『奥の細道』に先立つ「松島弁」が存在していたのかもしれない。
 さて、発句だが、

 松嶋や鶴に身をかれ郭公     曾良

 この句は有名すぎるから別にいいだろう。

 松嶋や五月に來ても秋の暮    桃隣

 これは曾良の句の影響を受けて、あえて松島にふさわしい季節外れの景物を持ってきたのだが、秋の暮‥‥うーん。

 松嶋や嶋をならべて夏の海    助叟

 これはそのまんまだが、

 島々や千々にくだけて夏の海   芭蕉

の句に比べると今一歩。

 橘や籬が嶋は這入口       桃隣

 確かに仙台側から来ると最初に見るのは籬が嶋だ。

 橋二ッ滿汐凉し五大堂      桃隣

 今は橋を三つ渡るが、昔は二つだったか。五大堂には橋を渡ってゆくというネタに滿汐凉しを放り込んだといえばそれまでの句。

 月一ッ影は八百八嶋哉      仙化

 仙化は貞享の頃からの芭蕉の江戸の門人で、『陸奥衛』の巻頭の俳諧百韻でも桃隣、其角、嵐雪らと名前を連ねている。
 たくさんの島があってもそれを照らす月は一つだけ。この句だけ秋の句で、この旅に同行していたわけでもないから、別の時に作った句だろう。

2020年9月25日金曜日

  今日は一日小雨が降り、夜にはわずかな雲の切れ目に薄月が見えた。秋の長雨が続き、今年は名月が見えるだろうか。
 それでは「舞都遲登理」の続き。

 「鹽竈宿、門前より小舟にて松嶋へ渡る。内海三里、左右色々の嶋、姿をあらそふ。風景物として殘らず。左を見右を見るにいとまなし。舟子に酒をくれてしづかに棹をささせ、一ツ一ツ問ば、あらゆる嶋の名也。さしかかりは籬が嶋、高ク見えたるは大澤山住鵬雲和尚隱居所、經が嶋は見佛上人讀誦の閑居、ふくら嶋は田畑有て辨慶守本尊不動有。五大堂ハ五智の如来、松嶋町より橋二ツ越て渡ル。
 雄嶋、是も橋有。船よりも陸よりもわたる。」(舞都遲登理)

 「月涼し」の句は船出の時の句だったのだろう。五月に入り二十日も病気で寝込んだ後だから、二十日過ぎの月で明け方に出発し、有明の月が見えたのだろう。
 左右に様々な島があって、あちこちきょろきょろしているうちに次から次へと通り過ぎて行き、とてもではないが覚えきれない。
 舟子に酒をやってというのは飲ませるのではなく付け届けということだろう。サービス料ということか。気を良くした舟子は聞けばいろいろと説明してくれる。
 籬(まがき)が島は今は堤防で囲われた港の中にあり、橋が架かっていて、曲木神社がある。

 わが背子をみやこにやりて塩釜の
     まがきの島の松ぞ恋しき
            よみ人知らず(古今集)

など、歌に詠まれている。
 「高ク見えたるは大澤山住鵬雲和尚隱居所」というのは扇谷の金翅堂のことであろう。元禄八年(一六九五年)に瑞巌寺第101世鵬雲東博禅師が造営したというから、桃隣が行ったときはできたばかりだった。当初は慈光院や海無量寺の大伽藍があったらしいが、今は金翅堂だけがひっそりと残っている。
 経が島は瑞巌寺の近く、福浦島の隣にある小さな島で、「ふくら嶋」とあるのが福浦島であろう。今は公園になっていて田畑はない。多分多目的広場の所に畑があったのだろう。福浦橋という赤い長い橋が架かっている。「辨慶守本尊不動」も今はなく弁天堂がある。瑞巌寺の126世・盤龍和尚がここに移したというから近代に入ってからであろう。
 五大堂は瑞巌寺の方にある。伊達政宗が慶長九年(一六〇四年)に創建したもので、松島町の海岸のすぐそばに小さな三つの嶋があり、それぞれ短い橋でつながっていて、五大堂は一番奥の島にある。五大明王を祀ったものだが、五大明王はそれぞれ如来に対応しているので「五智の如来」も間違いではない。不動明王─大日如来、降三世明王─阿閦如来、軍荼利明王─宝生如来、大威徳明王─阿弥陀如来、金剛夜叉明王─不空成就如来がそれぞれ対応する。
 雄島は五大堂、経島、福浦島の西側の海岸近くにあり、今も橋が架かっている。仙石線の松島海岸駅に近い。見仏上人が法華経六万巻を読誦したという見仏堂は雄島にあった。

2020年9月23日水曜日

  「舞都遲登理」の続き。

 「仙臺より今市村へかかり、冠川土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十苻の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。兩所ながら垣結廻し、菅は彼百姓が守となん。
    〇刈比に刈れぬ菅や一掃」(舞都遲登理)

 仙台から北東へ、今の東北本線の線路に沿って行くと、七北田川の手前に仙台市宮城野区岩切今市という地名がある。この地域が直線的な道路に沿って存在しているところから、ここが旧街道だったのだろう。七北田川を渡ると東光寺がある。七北田川には冠川という別名もあり、ここにかつて冠川土橋があったのだろう。近くに八坂神社があるが、ここにはかつて式内社の志波彦神社があった。
 古代道路を捜し歩いていると、何回かこの東光寺という名の寺の前を通ったりする。ウィキペディアには、

 「関東では白山権現(白山社)とセットであった例がみられる(多くの小祠の白山社は神社合祀の際に廃されており、また改称したところも多い。東光寺も廃寺となっている例がある)。また、関東ではハンセン病などでの行路行き倒れ人や遊女、罪人、動物などの供養を行ってきた来歴を持つ寺が多い。」

とあるところから、やはり街道の寺という意味合いがあったのかもしれない。
 東光寺から脇の三丁は三百メートルくらいなのですぐだ。東北本線岩切駅の北西側の地域が岩切新田だったのだろう。今はすっかり街になっている。
 「十苻の菅」は『奥の細道』の壺の碑のところに、

 「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十苻の菅有。今も年々十苻の管菰を調て国守に献ずと云り。」

とある。ここで「おくの細道の山際」とあるのは、仙台道から先の多賀城を経て塩釜の方へ行く塩釜街道のことを当時「奥の細道」と呼んでいたからだという。「山際」は高森山の麓ということだろう。岩切城跡がある。おそらく古代の道は東光寺の前で東に折れて直線的に多賀城・塩釜を結んでいたのだろう。
 国分寺・国分尼寺のある仙台と国府のある多賀城を結び、さらに塩釜で海路に出る古代の主要道路だったから、そんなに細い道だったとは思えないが、幅十二メートルの駅路に比べれば細かったのだろう。
 十苻の菅菰はこの街道沿いではなく、北に三丁入った所だったと思われる。それを図画に書いてもらったのだろう。今は住宅地になっているが、高森山と羽黒前遺跡のある小さな丘に挟まれた地域がそれだったのではなかったか。
 十苻の菅菰は『夫木抄』に、

 みちのくの十符の菅薦七符には
     君を寝させて三符に我が寝む
             よみ人知らず、
 陸奥の野田の菅ごもかた敷きて
     仮寐さびしき十苻の浦風
              道因法師

の歌がある。貞享三年正月の「日の春を」の巻九十九句目には、

   をなごにまじる松の白鷺
 寝筵の七府に契る花匂へ     不卜

の句もある。また、元禄七年春の「五人ぶち」の巻十七句目にも、

   近い仏へ朝のともし火
 咲花に十府の菅菰あみならべ   野坡

の句がある。
 その十苻の菅はこのあたりの百姓が田んぼの脇で育てていて、「垣結廻し」守っていた。大きな菅田で育てているのではなかったようだ。

 刈比に刈れぬ菅や一掃      桃隣

 菅は十分成長した夏の土用の頃に刈るという。今ある菅もみんな刈り取られてしまい、残るのは箒になった一束だけ、ということか。

 「此所より又本の道へ戻り、土橋より一丁行、右の方に小橋三つ有。中を緒絶ノ橋と云。所の者は轟の橋と荅ゆ。是より市川村入口、橋を渡り右の方小山へ三丁行て、
 壺の碑 多賀城鎮守府將軍古舘也。
    神龜ヨリ元禄マデ千歳ニ近。
      右大將頼朝
   みちのくのいはてしのぶはえぞしらぬ
   かきつくしてよつぼのいしぶみ

      西

       去京一千五百里
       去蝦夷國界一百廿里
       去常陸國界四百十二里
       去下野國界二百七十四里
       去靺鞨國界三千里
 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守府將軍從
 四位上勳四等大野朝臣東人之處里也天平寶字
 六年歳次壬寅參議東海東山節度使從四位上仁
 部省卿兼按察使鎭守府將軍藤原惠美朝臣朝獦
 修造也
     天平寶字六年十二月一日

            高 六尺三寸
       碑之圖  横 三尺一寸
            厚 一尺  」(舞都遲登理)

 桃隣のここに記した文字には三か所誤りがある。「鎭守府將軍」の「府」の文字は碑の方にはない。これが二か所。「東人之處里也」は「東人之處置也」であること、計三か所。なお、『奥の細道』本文にも同じ間違いがある。この当時はまだ判読が難しく、碑文の文字が確定してなかったのだろう。
 さて、東光寺の前の冠川土橋に戻り、そこから東へと向かう。「緒絶(おだえ)ノ橋」は宮城県大崎市にあったとされているが、ここにも同名の橋があったのだろう。前にもどこかで聞いたような、だが。『奥の細道』には、松島から石の巻に行くところで「十二日、平和泉と心ざし、あはねの松・緒だえの橋など聞伝て」とある。
 場所も土橋より一丁ではなく半里くらい行った砂押川の橋ではなかったか。ここが市川との境になる。
 「右の方小山へ三丁」とあるから、奥の細道は国府のあった多賀城跡より北の小高い丘を通っていたのだろう。仙台市内で一番古いと言われる多賀神社や、国府に付随する陸奥総社宮がある。南の方へ三百三十メートルほど行って、当時壺の碑ではないかと言われていた多賀城碑を見ることになる。
 なお、江戸時代の仙台道は広瀬橋で広瀬川を渡るが、ここと東光寺前の土橋を直線で結ぶと、ちょうど国分寺の西を通り、榴ヶ岡の脇や宮城野を通ることになる。土橋から先も、川で向きを変えながら一直線に塩釜に向かうため、国府多賀城の北側を通ったのであろう。
 多賀城碑はかつて国府のあった多賀城の南側にある。
 壺の碑(いしぶみ)は『袖中抄』に

 「陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但、田村の将軍征夷の時、弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば、石文と云と云り。」

とある。のちに、

 みちのくの奥ゆかしくぞおもほゆる
     つぼのいしぶみそとの浜風
              西行法師
 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ
     書きつくしてよ壺の石文
              源頼朝

など歌に詠まれた。
 ただ、この多賀城碑は坂上田村麻呂の書いた壺の碑ではない。坂上田村麻呂は天平宝字二年(七五八年)の生まれとされているが、多賀城碑は神亀元年(七二四)年に多賀城が造られた多賀城が天平宝字六年(七六二)年に改修したときのもので、坂上田村麻呂が四歳の時のものだ。

 「此所より八幡村へ一里余、細道を分入、八幡村百姓の裏に奥の井有。三間四方の岩、廻りは池也。處の者は沖の石と云。是ヨリ末の松山、むかふに海原見ゆ。千引の石此邊といへども、所の者曾て不知。一里行て松の浦嶋、是ヨリ鹽竈への道筋に浮嶋・野田玉川・紅葉の橋、いづれも道續なり。緒絶橋は六社の御前有。鹽竈六社御神一社に籠、宮作輝斗也。奥州一の大社さもあるべし。神前に鐵灯篭、形は林塔のごとく也、扉に文治三年和泉三郎寄進と有。右本社、主護より造營ありて、石搗の半也。
    〇法樂 禰宜呼にゆけば日の入夏神樂」(舞都遲登理)

 芭蕉も壺の碑を見た後末の松山に向かったが、桃隣も同じように壺の碑の南西にある末の松山に向かう。街道から外れるため、「細道を分入」だったようだ。
 ふたたび砂押川を渡ると、ここも小高い丘になっていて、今の宝国寺の辺りが末の松山だと言われている。
 「奥の井」は興井(おきのい)のことであろう。グーグルマップだと今でも「沖の石」と表示される。池の中に岩があるのは今も変わらない。グーグルストリートビューだと、この沖の石のところから北を見れば、坂道の上に大きな松があり、ここが末の松山になる。
 かつて貞観地震の大津波の時に、この末の松山の頂上が波をかぶらなかったことで、

 君をおきてあだし心をわがもたば
     末の松山波もこえなむ
            よみ人知らず(古今集)

の歌が生まれたという。それ以降ありえないことの例えとなった。
 もっとも、恋の約束はえてしてそのありえないことが起きてしまうので、

 契りきなかたみに袖をしぼりつつ
     末の松山波越さじとは
            清原元輔(後拾遺集)

になってしまったが、二〇一一年の東日本大震災の大津波が末の松山を越えなかったことで、伝説が本当だったことが証明された。宝国寺には大勢の人が避難してきたという。
 今は住宅地だが、昔はここから海が見えたのだろう。
 八幡村の由来になっている多賀城八幡神社の方は津波が来て、最も被害の大きかった地域の一つだったが、八百本の鎮守の森の木に守られて、本殿だけがかろうじて残ったという。
 桃隣の見つけられなかった「千引の石」は志引石とも呼ばれ多賀城跡から見ると砂押川の手前の東田中というところにある。通り過ぎてしまったようだ。
 志引石は多賀城観光協会サイトに、

 「田中村の『書出』に、縦横6尺と4尺の二つの石があって『千引石』と記している。昔、岩切村の台という地に大石があって通交の妨げになっていた。村人が大勢でこの石を除こうとしたが、どうしても動かすことができなかった。困り果てていると一人の娘が来て、私にその石を任せよという。村人はそんなことはできるものかと見守っていると、娘は紫の襷(たすき)と鉢巻をして身支度をし、石に手を掛けると、石は飛び上がって東田中のデンジョウ山の山裾に落ち二つに割れた――現在あるのはその一つで、他は土中にあると―― 。この石は千引の石と呼ばれたが、のちに志引石と改められた。この娘を祀ったのがこの地にある志引観音で、石が落ちた場所が赤井家の田であるため観音堂の別当を当家が司っている。当家ではこの田に肥料を入れず、紫の布を用いることを戒めている。」

とある。岩切村は東光寺のあった方で今の岩切分台か。かなり距離がある。古代道路を建設したときの話であろう。土橋と陸奥総社宮を直線で結べば岩切分台を通る。

 君が代は千びきの石をくだきつつ
     よろづ世ごとにとれどつきせじ
            源顕仲(堀河院百首聞書)

の歌にも詠まれ、歌枕になっている。
 末の松山を出て一旦壺の碑の方へ引き返したのだろう。壺の碑のやや東に浮島という地名がある。その東、東北本線塩釜駅の手前に野田玉川の碑がある。紅葉の橋は「おもはくの橋」のことで、野田玉川の碑のからはやや下ったところにある。そのあと塩釜神社を経てその先の海に出れば松の浦嶋(松島)が見える。ここまで一里とそう遠くない。
 『奥の細道』には、

 「それより野田の玉川、沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。」

とある。かなりおおざっぱなので、曾良の『旅日記』を見ると、

 「一 八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立 。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮嶋等ヲ見廻リ帰 。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。」

とあり、先に塩釜まで行って昼食をとってから末の松山の辺りを見て回っている。沖の石は末の松山とセットなので省略されている。桃隣の見つけられなかった興井にも寄っている。
 浮嶋は壺の碑(多賀城碑)のそばで小さな塚のような山に小さな社がある。

 塩釜の前に浮きたる浮島の
     憂いて思ひのある世なりけり
             山口女王(古今集)

 この歌を聞くと塩釜の海の上に浮かぶ島のようだが実際は内陸にある。
 野田玉川は今では両岸が固められたり地下にもぐったりしている町中の川だが、かつてはきれいな小川だったのだろう。

 ゆふされば汐風こして陸奥の
     野田の玉川千鳥なくなり
             能因法師(新古今集)

などの歌で知られていた。
 紅葉の橋(おもはくの橋)は、

 踏まま憂き紅葉の錦散り敷きて
     人も通はぬおもわくの橋
              西行(山家集)

の歌があり、ここから「紅葉の橋」とも呼ばれていたのだろう。本当にこの場所だったのだろうか。
 古代の道はおそらく陸奥総社宮の方から真っすぐ塩釜神社の方へ向かっていたのだろう。
 ただ、平安末や中世になると、多賀城碑や浮嶋の方を廻るようになっていたとは考えられる。ただ、今の「おもわくの橋」はそれよりかなり南にある。
 さて、塩釜神社だが、「鹽竈六社御神一社」と桃隣が記しているように、塩釜神社は長いこと祭神が定まらなかった。ウィキペディアには、

 「歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。 貞享4年(1687年)には吉田家に神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主吉村の宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。」

とある。曾良は『旅日記』のなかで「塩竈明神」と記し、『奥の細道』も「塩がまの明神」としている。おそらく吉田兼連によって今の祭神である鹽土老翁神(しおつちのをぢ)に定まったのだろう。
 「緒絶橋」はここにもあったようで、鹽竈六社御神一社の前だという。緒絶橋はこれで三度目で小名浜でも「緒絶橋・野田玉川・玉の石。いづれも同あたり也」と書いている。
 「神前に鐵灯篭、形は林塔のごとく也、扉に文治三年和泉三郎寄進と有」というこの灯篭は『奥の細道』にも記されている。この灯篭は今もある。林塔は輪塔のことで五輪塔ともいう。
 「右本社、主護より造營ありて、石搗の半也。」というのはウィキペディアに「元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し」とあるそのことで、桃隣の来た元禄九年五月の段階では石搗つまり地固めが半ば終わった状態だった。

 禰宜呼にゆけば日の入夏神樂   桃隣

 宮城県のホームページの薬莱神社三輪流神楽のところを見ると、

 「法印系の神楽で大崎氏以来社人たちで舞っていたが、現在は氏子の有志の手で行われ、宮司大宮家が管理している。天和3年(1683)4代藩主綱村が、伊達氏の氏神亀岡八幡神社造営の時、藩命によって召し出され神楽を伝授し、亀岡八幡付属神楽を派生し、監竈神社にも奉納を命じられた。薬莱神社蔵、天保2年書改めの『神楽秘抄』によれば、所伝は26番とあるが、現在は12番を伝えている。」

とある。
 三輪流の法印系の神楽だとしたら、禰宜さんも参加する。日没まで神楽をやっているので、禰宜さんを呼びに行っても夜まで待たなくてはならない、多分そういう意味だろう。
 夏神樂はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「夏祭りまたは夏越(なご)しの祓(はらえ)のときに行う神楽。《季 夏》「若禰宜(ねぎ)のすがすがしさよ―/蕪村」

とある。

 「麓は町家、町の中に鹽竈四ツ有。三ツはさし渡し四尺八寸。高八寸・厚貳寸八分、一ツは四尺・高六寸五分・厚貳寸五分。往昔六ツ有けるを盗出し、海中へ落したると也。此所隣ニ牛神とて、牛に似たる石有。明神の鹽を運し牛化して、かくは成ぬと云。今は鹽不焼   芭蕉翁
    〇月涼し千賀の出汐は分の物」(舞都遲登理)

 これは御釜神社の「四口(よんく)の神竈(しんかま)」で、東北本線本塩釜駅と鹽竈神社の中間あたりの本町通り沿いにある。ウィキペディアには昭和に書かれた『塩竈町方留書』に記された寸法が載っている。

 1、御臺の竈 - 深さ1寸6分(48.5mm)、廻り1丈4尺6寸(4,423.8mm)、差渡4尺(1,212mm)、厚1寸3分(39.4mm)。
 2、西の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm) 。
 3、北の方 - 深さ6寸(181.8mm)、廻り1丈5尺6寸(4,726.8mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。
 4、東の方 御宮脇 - 深さ5分(15.1mm)、廻り1丈5尺(4,545mm)、差渡4尺7寸5分(1,439.2mm)、厚2寸(60.6mm)。

 三つ(西、北、東)は差渡四尺七寸五分、深さ六寸(東だけ五分)、厚二寸で、桃隣の「三ツはさし渡し四尺八寸。高八寸・厚貳寸八分」とそれほどは違わない。差し渡し(直径)は五分の差で、深さと高さは底の厚さの分差が出るから、深さ六寸プラス厚さ二寸で高さ八寸になるからピタリ賞。東の方については見た目同じようだから省略したか。
 御臺の竈は差渡四尺、深さ一寸六分、厚一寸三分で、桃隣の「四尺・高六寸五分・厚貳寸五分」は直径はあっているが、高さが合わない。底が五寸くらいあるならわかる。
 ウィキペディアにはさらに、

 「『別当法蓮寺記』では、往古は7口の竈が存在したと伝える。それによれば、「赤眉」という者が3口を盗んだが、神の怒りにあって遠くに持ち去ることができなかった。そのため3口は、当地の野田、松島湾の海中、加美郡四釜にそれぞれ1口ずつ残されたという。」

とあるが、桃隣の説だと「六ツ有けるを盗出し、海中へ落したる」とあって若干の違いがある。「『奥羽観蹟聞老志』では6口あったとする説がある」というので、この辺は諸説あったのだろう。
 この塩釜の水の色は異変があると変化するという言い伝えがあり、東日本大震災の直前にも色が変わり、津波は神社の前まで来て止まったという。
 牛石に関しても、ウィキペディアに、

 「境内には牛石藤鞭社の脇の池中に「牛石」と称される霊石がある。『別当法蓮寺記』および『鹽社由来追考』によれば、鹽土老翁神が海水を煮て製塩する方法を人に教えた際、塩を運ばせた牛が石と化したという。」

とある。
 「今は鹽不焼」と、当時は既に藻塩を焼くのには用いられてなかった。その下の離れたところに「芭蕉翁」という文字があるが、何を意味するのかは不明。

 月涼し千賀の出汐は分の物    桃隣

 塩釜の辺りの海を千賀の浦という。謡曲『高砂』の、

 高砂やこの浦船に帆をあげて
 この浦船に帆をあげて
 月諸共に出で汐の(宝生流のページより)

を踏まえたものであろう。「分の物」は「分(ぶ)のあるもの」つまり、儲けものということか。

2020年9月22日火曜日

 今回の連休はお盆休みと打って変わって、みんな遊びに出たようだね。観光地は満員、高速道路は大渋滞でお疲れ様。さあ、十月が怖い。おもしろうてやがて悲しきGo To travel、にならなければいいが。
 昨日の人権思想の問題点を求めておくと、差別をなくすだとか経済格差をなくすだとか、その志がいくら立派でも、それが結局法整備による権力の介入を強化し、人々の自由を奪ってゆく。そして極端な場合は自助努力の禁止にまでつながりかねない。
 本来一人一人の努力によってなくさなくてはいけないものを、独裁的な権力にゆだねることになればディストピアに陥る。何でもかんでも法で規制するという発想には注意しなくてはならない。

 それでは今日は久しぶりに「舞都遲登理」の続きを。確か前回八月十六日で伊達の大木戸を越えたので、今回は仙台へ。

 「是ヨリ白石城下、此所と刈田との間、西の方にわすれずの山アリ。所にては不忘山といふ。金が瀬ヨリ岩沼へかかり、橋の際左へ二丁入て、竹駒明神アリ。社ヨリ乾の方へ一丁行テ、武隈の松アリ。松は二本にして枝打垂、名木とは見えたり。西行の詠に、松は二度跡もなしとあれば、幾度か植繼たるなるべし。
    〇武隈の松誰殿の下凉」(舞都遲登理)

 白石(しろいし)は白石城のある城下町で、そこを出ると今の蔵王町のあたりは今も刈田郡になっている。西に蔵王連峰の南端の御前山(不忘山)が見える。

 みちのくにあふくま川のあなたにや
     人忘れずの山はさかしき
              喜撰法師(古今和歌六帖)

の歌がある。
 白石川に沿って下ると東北本線北白川と大河原の間辺りに金ケ瀬という地名がある。岩沼はさらに先で白石川と阿武隈川が合流するさらに先の方に今も岩沼市がある。阿武隈川はここで南東へ大きく曲がり太平洋にそそぐ。
 この岩沼市に日本三大稲荷の一つといわれる竹駒神社がある。(もっとも、日本三大稲荷は伏見稲荷大社以外は特に決まったのもがなく、豊川稲荷、笠間稲荷神社、祐徳稲荷神社辺りから二つ選ばれるのが普通だが、竹駒神社が含まれる場合もある。)
 かつては武隈明神だったが、「武隈」と「竹駒」は音が似ているので、竹駒明神とも呼ばれていたのだろう。ウィキペディアには、

 「社伝では、承和9年(842年)6月に小野篁が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝える。後冷泉天皇の治世(1045年 - 1068年)に陸奥国を歴遊中の能因が、竹駒神社の神が竹馬に乗った童の姿で示現したとして、当社に隣接した寶窟山に庵を結び、これが後に別当寺の竹駒寺となり山号の由来となった。戦国時代には衰微していた当社に伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展した。文化4年(1807年)には正一位の神階を受けた。」

とある。稲荷神社というと今でも「正一位稲荷大明神」の幟が立ってるように、かつては稲荷神社は明神を名乗っていたが、明治の神仏分離で神社の名前から「明神」「権現」が外されることとなった。
 この武隈明神から乾(北西)の方へ一丁(約110メートル)行ったところに武隈の松がある。今の地図で見ると武隈神社の位置が変わったのか、ほぼ真北に二木の松史跡公園がある。
 初代の松は貞観地震の時の大津波に流され、『奥の細道』に、

 「先能因法師思ひ出。往昔(そのかみ)むつのかみにて下りし人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、松は此のたび跡もなしとは詠みたり。」

という松は四代目だという。その後五代目の松が植えられ、芭蕉が見たのも桃隣が見たのもこの松になる。今ある松は七代目だという。
 その能因法師の歌は、

 武隈の松はこのたび跡もなし
     千歳経てやわれ来つらむ
            能因法師(後拾遺和歌集)

 さて桃隣の句だが、

 武隈の松誰殿の下凉       桃隣

 今ある松が昔和歌に詠まれた松ではないと知っているから、「誰殿の下凉」ととぼけている。
 曾良の『旅日記』には、

 「岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。」

とあるが、別に誰殿が古市源七殿というわけでもないだろう。

 「岩沼を一里行て一村有。左の方ヨリ一里半、山の根に入テ笠嶋、此所にあらたなる道祖神御坐テ、近郷の者、旅人参詣不絶、社のうしろに原有。實方中将の塚アリ。五輪折崩て名のみばかり也。傍に中将の召されたる馬の塚有。
  西行 朽もせぬをの名ばかりをとどめ置て
     かれののすすきかたみにぞ見る
    〇言の葉や茂りを分ケて塚二ッ」(舞都遲登理)

 岩沼を出て東北本線なら一駅、館腰の辺りから北西に行き、今の東北新幹線の線路を越えたあたりに佐倍乃神社(笠島道祖神社)がある。ウィキペディアによると、

 「享保17年(1733年)には宗源宣旨を受け、神階「正一位」を授与。往古から社名を村社「道祖神社」としていたが、明治時代初期に現在の社名である村社「佐倍乃神社」へ改称した。」

とあるから、芭蕉や桃隣の時代は道祖神社だった。
 芭蕉が「此比(このごろ)の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐる」とした社に桃隣は無事にたどり着いた。
 曾良の『旅日記』には、

 「笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間、左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、行過テ不見 。」

とある。下調べはしていたが、通り過ぎてしまったようだ。仙台道の岩沼宿の次は増田宿で、その間のどこかから左の方に一里というのはわかっていた。今は住宅地になっている名取が丘、愛島(めでしま)を通る愛島丘陵(めでしまきゅうりょう)の山道だったか。
 古代道路は白河から来る東山道が仙台道に近いルートを取っていたが、名取駅から西へ出羽路が分岐していたらしく、おそらく道祖神の社は出羽路の脇にあったのだろう。仙台高専名取キャンパスのある突き出した野田山丘陵を通っていたのではないかと思う。
 「舞都遲登理」には「近郷の者、旅人参詣不絶」とあるから、天気がよければ結構通う人も多くにぎわうところだったのだろう。今では塚はなく墓石が立っているようだ。

 言の葉や茂りを分ケて塚二ッ   桃隣

 道はやはり草の生い茂る山道だったのだろう。

 言の葉のさかふる御代に夏草の
     深くもいかで道をたづねむ
              頓阿法師(草庵集)

の歌が思い浮かぶ。

 「是ヨリ増田の町中へ出る。行先は名取川、橋を越れば仙臺、大町南村千調亭に宿。
    〇落つくや明日の五月にけふの雨
      雨天といひ所はいまだ寒し
    〇奥州の火燵を褒よ五月雨  千調
      端午
    〇菖蒲葺代や陸奥の情ぶり」(舞都遲登理)

 増田宿は東北本線の名取駅のすぐ南辺りにある。次に中田宿があり、その先で名取川を越える。長町宿があり、その次が仙台だ。
 大町南村がどの辺なのかはよくわからない。仙台市青葉区大町は仙台の中心部で青葉城にも近いが、その南側ということなのだろうか。
 千調は巻二「むつちとり」の「仙臺杉山氏興行、山川の富を祝す」の世吉(四十四句)興行に参加し、四句目の、

   並べたる木具に羅打かけて
 五段の舞は皆眠るなり      千調

をはじめとして三句を付けている。能の舞は正式には五段で演奏されるが、三段四段に省略されることも多く、五段で演奏されると長すぎて眠ってしまう客が多かったようだ。
 また、夏の部には、

 朝湿り紫陽草轉て水の隈     千調
 唐芝や四人目よりは簟(たかむしろ) 同
 若竹や喰気はなれて風の音    同

の発句もある。

 落つくや明日の五月にけふの雨  桃隣

 仙台到着は四月の晦日だったか。まだ五月ではないが雨が降っている。

   雨天といひ所はいまだ寒し
 奥州の火燵を褒よ五月雨     千調

 これは千調の返事であろう。雨が降って五月雨の季節なのに、ここ仙台の地はいまだに寒い。まだ火燵を仕舞わないで残しておいたことを誉めてくれ、と返す。

   端午
 菖蒲葺代や陸奥の情ぶり     桃隣

 「菖蒲葺(あやめぶき)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「端午の節句の前夜、邪気払いのため軒にショウブをさすこと。」

とある。ここにみちのくの人の心を感じられる、ということであろう。

 「青葉山ハ仙臺城山、本丸・二ノ丸ノ間をさして云。此者、清輔抄には當國といへり。勅撰名所集には若狭、宗祇抄には近江とあり。
 山榴岡・釋迦堂・天神宮・木の下藥師堂。宮城野、玉田横野 何も城下ヨリ一里に近し。

     みさむらゐみかさと申せ宮城野ゝ
     木の下露は雨にまされり
     とりつなげ玉田横のゝはなれ駒
     つゝじが岡にあせみ花さく
     さまざまに心ぞとまる宮城野ゝ
     花のいろいろ虫のこゑごゑ
    ○もとあらの若葉や花の一位」(舞都遲登理)

 仙台青葉城のあるところは青葉山だが、「あおばやま」という地名は古来和歌に詠まれて歌枕になっている。これがどこなのかは諸説あってよくわからない。

 常葉なる青葉の山も秋来れば
     色こそ変へねさびしかりけり
            大僧正覚忠(千載集)
 立ち寄れば涼しかりけり水鳥の
     青羽の山の松の夕風
            式部大輔光範(新古今集)

などだが、藤原清輔の『和歌初学抄』には陸奥とあり、『勅撰名所和歌抄』には若狭とある。「甘藷岳山荘」というホームページの「歌枕の青葉山」には、

 「天和2(1682)年版の八代集抄には式部大輔光範の歌に「宗祇国分に近江云々。若狭陸奥等に同名あり。然共(しかれども)大嘗会悠紀の国なれば此集の青羽山可為近江(おうみとなすべし)」と頭注があった。近江生まれの八代集抄作者北村季吟にも、歌枕としてはともかく、若狭の青葉山が知られていたことが読み取れる。また、近江生まれの教養人をして青羽山が近江にある根拠が500年近く前の宮中の儀式の和歌の詞書しかなかったようにも読める。」

とある。『宗祇抄』はこの宗祇国分ではないかと思われる。季吟の『八代集抄』なら、桃隣も読んでいたのではないかと思われる。
 若狭の青葉山は若狭富士とも呼ばれ、若狭高浜の辺りにある。近江の青葉山はよくわからない。
 山榴岡(つつじがおか)は今の榴ヶ岡で、仙台駅の東側に榴岡公園がある。ウィキペディアによれば、

 みちのくのつつじが岡のくまつづら
     辛しと妹をけふぞ知りぬる
            藤原仲平(古今和歌六帖)
 みちのくの千賀の浦にて見ましかば
     いかにつつじのをかしからまし
            右大将道綱の母
 東路やつつじが岡に来て見れば
     赤裳の裾に色ぞかよへる
            二条大后宮肥後(夫木和歌集)
 名にし負ふつつじが岡の下わらび
     共に折り知る春の暮れか
            道興准后

などの歌に詠まれている。
 今の榴岡公園のすぐ南にある孝勝寺に釈迦堂がある。元からここにあったわけではないが、山榴岡に伊達綱村によって元禄八年に建立された。桃隣が来たのはその翌年の元禄九年だった。
 天神宮は榴岡天満宮のことであろう。
 木の下藥師堂は仙台市若林区木下にある陸奥国分寺の薬師堂のことで、榴岡の南東にある。
 宮城野はウィキペディアに、

 「江戸時代に入って、仙台城とその城下町の建設や田畑の開墾が行われる中で、城下町の東側、陸奥国分寺の北側の区域は、藩主の狩場として野原のまま残された。そのため「生巣原(いけすはら)」とも呼ばれた。野守がここに置かれ、人々がこの野原にみだりに入ることは禁じられた。仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』によれば、この頃の宮城野原は、ハギやオミナエシ、ワレモコウ、フジバカマ、キキョウなどの草花が茂り、ヒバリやウズラが生息する野原だった。仙台藩第4代藩主伊達綱村は、宮城野の萩が絶えることがないよう、これを他の5箇所に植えさせた。また、宮城野原の東側には鈴虫壇と称されるところがあり、仙台城の奥方や姫君がここにスズムシの音を聞きに来たという。仙台藩では、藩主の伊達家が徳川将軍家にスズムシを献上する習わしがあった。」

とある。
 玉田横野は仙台駅の北側、地下鉄南北線の北仙台駅の近くにある光明寺、鹿島香取神社から榴岡の北側にかけての広い範囲だと言われている。

 とりつなげ玉田横野のはなれ駒
     つつじの岡にあせみ咲くなり
            源俊頼(散木奇歌集)

の歌に詠まれている。
 なお、このあたりの歌枕は、『奥の細道』には、

 「宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、躑躅が岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。」

とある。この頃はまだ釈迦堂はなかった。
 曾良の『旅日記』には、

 「一 六日 天気能。亀が岡八幡ヘ詣。城ノ追手ヨリ入。俄ニ雨降ル。茶室ヘ入、止テ帰ル。
  一 七日 快晴。加衛門(北野加之)同道ニ 而権現宮を拝。玉田・横野を見、つゝじが岡ノ天神へ詣、木の下へ行。薬師堂、古へ国分尼寺之跡也。帰リ曇。」

とある。
 亀岡八幡宮は広瀬川を渡った仙台青葉城にあり、大手門から入る。
 翌日、今の北仙台駅の東に東照宮駅があり、そこに東照大権現を祀る仙台東照宮がある。そこから南へ行くと玉田・横野があり、榴岡天満宮に出る。さらに南東に行くと木の下薬師堂に着く。国分尼寺とあるのは曾良の勘違いだろう。国分尼寺跡は国分寺の東の白萩町にある今の国分尼寺にある。木の下薬師堂は国分寺跡にある。

 みさむらゐみかさと申せ宮城野ゝ
     木の下露は雨にまされり
 とりつなげ玉田横のゝはなれ駒
     つゝじが岡にあせみ花さく
 さまざまに心ぞとまる宮城野ゝ
     花のいろいろ虫のこゑごゑ
 もとあらの若葉や花の一位    桃隣

 珍しく和歌が三首記されている。仙台の歌枕が詠み込まれている。
 そのあとの発句の「もとあら」は「本荒の萩」のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「根元がまばらに生えている萩。一説に、下葉が散ってまばらに見える萩とも、枯れ残った古枝に咲く萩ともいう。《季・秋》
  ※古今(905‐914)恋四・六九四「宮木野のもとあらのこはぎ露を重み風をまつごと君をこそまて〈よみ人しらず〉」
  ※拾遺愚草(1216‐33頃)下「宮きのはもとあらのはきのしげければたまぬきとめぬ秋風ぞふく」

とある。季節が夏なので「もとあらの萩の若葉」だが、萩を省略している。宮城野のもとあらの萩の若葉は花にも劣らぬもので、官位で言えば一位に相当する。

 「芭蕉が辻 大町札の辻也。
    神社仏閣等所々多テ略ス
 南村に廿日滞留、いまだ松嶋をかゝえて、たよりなき病苦、明日もしらず、然どもあるじ心づくしによりて蘇生、旅立時の嬉しさ、いつか忘んと袖をしぼりぬ。
    ○陵霄の木をはなれてはどこ這ん
    ○一息は親に増たる清水哉
       賀行旅
    ○くつきりと朝若竹や枝配り 千調」(舞都遲登理)

 「芭蕉が辻」は今は「芭蕉の辻」と言うが、仙台市青葉区大町、地下鉄東西線青葉通一番町駅の近くにある。
 ウィキペディアには、

 「仙台城の城下町は、大手門からの大手筋(大町の街路)とこれに直交する奥州街道(国分町の街路)を基準に町割がなされた。この十字路が芭蕉の辻であり、この沿道の大町、国分町の両町は城下の中心地、いわゆる目抜き通りだった。」

とある。
 この中心地にも神社や仏閣がいくつもあったのだろう。ここでは省略されている。
 南村は大町南村千調亭のことだろう。病気のため結局二十日間滞在することになったか。着いたのが四月晦日だったから五月十九日までいたということか。
 「あるじ心づくしによりて蘇生」と千調さんも大変だったようだ。

 陵霄の木をはなれてはどこ這ん  桃隣

 「陵霄(りょうそう)」は「霄(そら)を陵(しの)ぐ」で高く飛ぶことをいう。病気も全快してさながら木の上から空に向かって飛び立ってゆくようなものだから、もう病で這うことはないだろう。

 一息は親に増たる清水哉     桃隣

 実の親にも勝るような手厚い看護を受けて、清水で一息ついたような心地です。
 これに対し千調は餞別として、

   賀行旅
 くつきりと朝若竹や枝配り    千調

の句を返す。今朝見る若竹の枝ぶりは大変しっかりしたものです。