2019年8月29日木曜日

 旧暦七月は今日で終わり。明日からは中秋になる。もうすぐ名月だ。
 ということで「哥いづれ」の巻は今日で終らせよう。

 名残裏、九十三句目。

   こころざしせし日よりはらめる
 文を付る薄のやうになびききて   貞徳

 貞徳自注に、

 「すすきは胎(はらむ)也。艶書を荻すすきに付るなり。志はこひにこころざす也。」

とある。
 薄が孕むというのは『連歌俳諧集』の注に、

 「薄の穂をはらんで、まだ表にのび出ないものを、はらみ薄という。」

とある。

 あひはらみくるしからぬや荻薄   貞徳

の発句もある。
 「艶書」は恋文のことで、平安時代には香を焚き込んだ文を花の枝に刺して渡した。季節の物を用いるので秋には薄が用いられることもあった。
 薄は風に靡くことから、上句は薄に恋文を刺して渡したら、薄のようになびいてきた、となる。下句の「こころざしせし日」は恋に落ちた日だと思うが、最後の「はらめる」はそのまんまの意味(その日のうちにやっちゃったということ)なのか、比喩なのか。
 九十四句目。

   文を付る薄のやうになびききて
 鹿もおよばじ妻のかはゆき     貞徳

 貞徳自注に、

 「しかは妻を思ふ物也。我はそれよりなびききたるつまかはゆきと也。」

とある。
 「妻恋う鹿」はweblio辞書の「季語・季題辞典」に、

 「交尾期に牝鹿を呼ぶためにピーッと高く長く強い声で鳴く牡鹿」

とある。男が女を恋う。

 さを鹿やいかがいひけむ秋萩の
     にほふ時しも妻をこふらむ
               紀貫之(古今和歌六帖)

ほか多くの和歌に詠まれている。
 その妻恋う鹿も及ばないほど、文を付る薄のやうになびいてきた妻が「かはゆき」となる。
 「かはゆし」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①恥ずかしい。気まり悪い。
 出典右京大夫集 
 「いたく思ふままのことかはゆくおぼえて」
 [訳] あまりに自分の思っているままのことでは恥ずかしく思われて。
  ②見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。
 出典徒然草 一七五
 「年老い袈裟(けさ)掛けたる法師の、…よろめきたる、いとかはゆし」
 [訳] 年をとり、袈裟を掛けた法師が、…よろめいているのは、たいそう見るにしのびない。
  ③かわいらしい。愛らしい。いとしい。
 ◆「かほ(顔)は(映)ゆし」の変化した語。
 語の歴史:室町時代から③の意味でも用いられるようになり、形は「かはいい」に変わり、現代語「かわいい」につながる。」

とある。
 今や世界の言葉となった「かわいい」は、顔が真っ赤になる「顔映ゆ」が語源だと言われている。そこから①はそのまま恥ずかしいという意味で、②は「かたはらいたし」と同様に傍で見ていて恥ずかしくなるというところから「見るにしのびない。かわいそうで見ていられない。」になる。
 それが③の意味になるにはやや飛躍があるが、恋するときにはやはり顔が赤くなるし、その赤らんだ顔に惹かれる、というのが室町時代から生じた意味で、それが後に拡大されて、自分を求めているものを守ってあげたいというところから、子供や小動物にも拡大され、保護欲求を掻き立てるものに使うようになっていったのではないかと思う。
 貞徳のこの句ではまだそこまで拡大されず、薄のようになびく妻が「かはゆき」としている。
 九十五句目。

   鹿もおよばじ妻のかはゆき
 漸寒き比はとらする木綿たび    貞徳

 前句の「かはゆき」を可哀相という古い意味に取り成して、寒い頃は木綿の足袋をとらせてやる。裸足では辛いだろう。
 この句には自注はない。
 九十六句目。

   漸寒き比はとらする木綿たび
 あかがりあればつかはれぞせぬ   貞徳

 「あかがり(皹・皸)」はあかぎれのこと。
 貞徳自注に、

 「あかがりは足にきるる物なれば、たびをとらするなり。」

とある。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「[1] 〘名〙 あかぎれ。《季・冬》
 ※神楽歌(9C後)早歌「〈本〉安加加利(アカカリ)踏むな後(しり)なる子」
 ※平家(13C前)八「夏も冬も手足におほきなるあかがりひまなくわれければ」
  [2] 狂言。各流。主が、太郎冠者に自分を背負って川を渡るように命じるが、冠者はあかぎれを理由に断わるので、主は、逆に冠者を背負って渡り、川の中で振り落とす。
 [語誌]アカガリのアは足で、カカリは動詞「カカル」の連用形名詞。「カカル」は、ひびがきれる意の上代語。

とあるように、本来は足にできるものだった。手のあかぎれは別の呼び方ががったか。
 「つかはれぞせぬ」は今日でいう「つかえねー」ということか。みんなあかぎれでは仕事にならないから、足袋を支給する。
 九十七句目。

   あかがりあればつかはれぞせぬ
 稲茎は鷹場にわるき花の春     貞徳

 貞徳自注に、

 「いなくきは赤きもの也。あかがりを刈てに取なす也。鷹をつかふといへば也。」

とある。
 「稲茎」は稲株と同じ。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「稲を刈ったあとに残る切り株。稲茎。いねかぶ。」

とある。この稲株が赤いので、これを赤刈りと呼んだか。
 桜の咲く頃はまだ苗代の頃で、田んぼには去年の稲株が残ってたりする。鷹狩りは田んぼで行うことも多かったようで、田んぼに来る鳥を狙うのだが、稲株があると邪魔になるのだろう。
 九十八句目。

   稲茎は鷹場にわるき花の春
 雪間をしのぐ辺土さぶらひ     貞徳

 花の春といってもここは雪の花。辺土というのは陸奥か北陸か。ここでも鷹狩りが行われている。
 この句に自注はない。
 九十九句目。

   雪間をしのぐ辺土さぶらひ
 百姓と富士ぜんぢやうに打交    貞徳

 貞徳自注に、

 「ふじの雪にとりなすなり。」

とある。
 「富士禅定」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 富士山・白山・立山などの高山に登って修行し、所願成就を祈ること。《季・夏》 〔経覚私要鈔‐康正三年(1457)七月二三日〕
  ② 富士山頂の浅間神社に登山参詣の行者と称して物ごいをする乞食(こじき)。
 ※浄瑠璃・凱陣八島(1685頃)一「するが二郎はふじぜんぢゃう、ひたちばうはこもぞう」

とある。
 ただ、「花の春」「雪間」と来てもう一句春の句にならなくてはならないのに、「富士禅定」だと夏になってしまう。もっとも、『応安新式』には「春秋恋(已上五句)」とあるだけだから、式目上は違反しない。
 挙句。

   百姓と富士ぜんぢやうに打交
 をがまれたまふ弥陀の三尊     貞徳

 貞徳自注に、

 「彼山にて三尊を現にをがむといひならはせり。仏の人間にまじはり給ふと云心也。」

とある。
 「富士吉田観光ガイド」というサイトの西念寺のところに、

 「西念寺は、養老3年(719)、行基が富士山で修行したおりに山頂に阿弥陀三尊が来迎したことから、この地にお堂を作り阿弥陀三尊を安置したのが草創という。その後、永仁6年(1298)、一遍の弟子時宗の他阿真教(たあんしんきょう)上人が、時宗道場を開基したという。富士道場とも称している。本堂と大門との間には清光院・観音院があり、本堂裏には大塔中と呼ばれる塔頭(たっちゅう)があった。開創の由来からも見られるように、西念寺と富士山信仰との関係は深く、江戸時代、富士講の人達は西念寺が定めた「西念寺精進場」で身を清めた後、富士に登拝したといわれています」

とある。富士禅定は山頂に登って阿弥陀三尊の来迎を拝むためのものだった。
 挙句が釈教になるのは珍しいが、とにかくお目出度く終わる。

2019年8月28日水曜日

 京アニの放火事件で亡くなった人の全氏名が昨日公表された。これで、ファンの人も心の区切りをつけることもできるだろう。生死不明で怪しげな情報の飛び交う状態というのは決していい状態ではない。公表は正解だと思う。
 事件があるたびにマスコミがどうでもいいことまで詮索したり、死者の恥部まで暴き出そうとするもんだから、マスコミに対して不信感があるのは当然のことだが、氏名の公表はそれとは切り離して考えた方が良いと思う。
 特に京アニは世界中にたくさんのファンを持つ、世界に誇れる芸術家集団なのだから、氏名の公表を何ら恥ずべきものではない。くだらないことをいうやからも多少はいるだろうが、その何千倍、何万倍の人がその死を惜しみ悲しんでくれている。
 真面目な話、遺族が独断で氏名の公表を拒否できるなら、巨大な陰謀があって邪魔者を処分した場合、遺族に圧力をかけて永久にその名を消し去ることも出来てしまう。
 まあ、そういうわけで一体何をもめているのか、私、気になります。
 それに付けても「哥いづれ」の巻の続き。

 八十五句目。

   こと浦までも月の遊覧
 秋は唯白き衣裳を表ぎに      貞徳

 貞徳自注には、

 「月見のしやうぞくをうら表白くしたる也。」

とある。
 月見のときに実際何か決まった服装があったのかどうかはよくわからない。白装束というと、神仏に仕えたり、花嫁衣裳だったり、死んだ人の着るものだったり、いずれにせよ日常とは違う何か意味合いがあったのだろう。
 加えて、五行説では秋は白になる。青春・朱夏・白秋・玄冬、そして各々の季節の土用が黄色になる。
 八十六句目。

   秋は唯白き衣裳を表ぎに
 いそぐよめりときくや重陽     貞徳

 前句の白装束を花嫁の衣裳とする。「よめり」は「よめいり」の縮まったもの。
 「きくや」は「聞くや」と「菊や」に掛けている。菊から重陽(九月九日)を導き出すが、秋の季語が欲しいので一種の放り込みといえよう。
 貞徳自注には、

 「よめいりには白きしやうぞくさだまり也。」

とある。
 八十七句目。

   いそぐよめりときくや重陽
 たのめたるたのもの比もつい立て  貞徳

 貞徳自注に、

 「たのむの朔日(ついたち)の比とやくそくしたるよめいりも、延引してとのけたり。」

とある。
 「たのむ」は田実(たのむ)の祝いのことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 陰暦八月一日に、新穀の初穂を田の神に供える穂掛けの儀式。また新穀や品物を互いに贈答する行事。たのみの祝い。たのもの寿(ことぶき)。たのみ。〔俳諧・毛吹草(1638)〕
 ② (「たのむ(田実)」が「たのむ(頼)」(主として頼みにする意)と同音であるところから) 武家の年中行事の一つ。陰暦八月一日に、家臣から主君に太刀・馬・唐物などを贈り、主君からも答礼に物を賜わること。鎌倉中期以後にみられ、室町時代には、朝廷にも及んで幕府より太刀目録を献じ、公家・武家が将軍家に礼物を献進した。江戸時代には、徳川家康が江戸入城を八朔の吉日に選んだことから、元日に次ぐ重要な式日とし、諸大名は登城して太刀を献上し、賀詞を述べ、また、幕府から朝廷に馬を献上し、当日天皇がこれを御覧になった。町家では、赤飯をたき、裃(かみしも)または羽織姿で平素恩顧を受けている人に挨拶まわりをし、その時に葉生薑(はしょうが)を持参するのが例となっていた。」

とある。八朔ともいう。
 句の意味は頼んでいた田実の比もつい経って、急ぐ嫁入りも重陽となってしまった、とまる。一ヶ月以上も遅れたことになる。
 八十八句目。

   たのめたるたのもの比もつい立て
 とらへがたしやかへるかりがね   貞徳

 前句の「たのも」を田面(たのも)とし、田んぼに雁が舞い降りた比もとっくに過去のものとなり、今は春も終わりで雁も帰ってゆく。
 「とらへがたし」は別に獲って食おうということではなく、月日の経つ早さの比喩のように思える。
 貞徳自注に、

 「田面(たのも)のかりと付る也。とらへんたのめたるはつい立てさる也。」

とある。
 八十九句目。

   とらへがたしやかへるかりがね
 生姜手が三へぎと筆に霞せて    貞徳

 貞徳自注には、

 「手がはじかみならば、生姜みへぎかへるかりがねと云俗語、寄合用なり。」

とある。
 前句を取り立てることの難しい借金とし、「生姜三へぎかへるかりがね」というかつてあった諺で付ける。この諺やよくわからないが借金が返ってくるまじないか。「三へぎ」と書けば借金が返ってきたのだろうか。
 「生姜手」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 指がなくて、生薑のような形をした手。生薑。
 ※俳諧・毛吹草(1638)一「支体の難 寒帰る比やしゃうか手初蕨(はつわらび)」
  ② 思うようにものの書けないこと。字がへたなこと。生薑。
 ※俳諧・貞徳俳諧記(1663)上「生姜手が三へぎと筆に霞せて 手がはじかみならば生姜みへぎかへる」

とある。
 『連歌俳諧集』の注には、「癩病で指の崩れた手。」とある。昭和四十九年の本なので「癩病」とあるが、今のハンセン病。この場合関係あるかどうかはよくわからない。
 九十句目。

   生姜手が三へぎと筆に霞せて
 余寒の時分棗もぞなき       貞徳

 貞徳自注に、

 「棗しやうが寄合なり。寒気にてかがまる物也。」

とある。
 前句の「生姜手」を寒さで手がかじかんだ状態とする。
 棗と生姜が寄合なのは、ウィキペディアのこれが理由か。

 「ナツメまたはその近縁植物の実を乾燥したものは大棗(たいそう)、種子は酸棗仁(さんそうにん)と称する生薬である(日本薬局方においては大棗がナツメの実とされ、酸棗仁がサネブトナツメの種子とされている。)。
 大棗には強壮作用・鎮静作用が有るとされる。甘味があり、補性作用・降性作用がある。葛根湯、甘麦大棗湯などの漢方薬に配合されている。生姜(しょうきょう)との組み合わせで、副作用の緩和などを目的に多数の漢方方剤に配合されている。」
 九十一句目。

   余寒の時分棗もぞなき
 薄茶さへ小壺に入てすきぬらん   貞徳

 貞徳自注に、

 「数寄者は天寒を好て茶会をする也。」

とある。
 前句の「棗(なつめ)」を茶器の棗とする。ウィキペディアに、

 「棗(なつめ)は、茶器の一種で、抹茶を入れるのに用いる木製漆塗りの蓋物容器である。植物のナツメの実に形が似ていることから、その名が付いたとされる。
 現在では濃茶を入れる陶器製の茶入(濃茶器)に対して、薄茶を入れる塗物の器を薄茶器(薄器)と呼ぶが、棗がこの薄茶器の総称として用いられる場合も多い(その歴史に関しては薄茶器の項目を参照)。」

とある。
 濃茶(こいちゃ)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」によれば、

 「直射日光が当たらないようにした古木の若芽から作ったもの。」

で、薄茶(うすちゃ)は、

 「製法は濃い茶と変わらないが、古木でないチャの葉から製するもの。また、それでたてた茶。濃い茶より抹茶の量を少なくする。」

とある。「百科事典マイペディアの解説」には、

 「茶道においては薄茶点前(てまえ)をさす。これは一人に一碗ずつ薄めにあわ立ててたてるもので,飲みまわすことなく,茶道具も濃茶に対して手軽なものが用いられる。」

とある。
 数寄者は寒い時期に好んでお茶会をするが、本来は木製の棗に入れる薄茶を、濃茶のように陶器製の壺に入れて、本当は茶道を知らないのに通ぶっていると笑う。
 九十二句目。

   薄茶さへ小壺に入てすきぬらん
 こころざしせし日よりはらめる   貞徳

 貞徳自注に、

 「世俗に仏事をなすは茶を立る、又こころざしをすると云也。小つぼを産門にとりなす也。」

とある。
 「小壺に入れてすきぬ」は要するに下ネタか。結果として孕むことになる。

2019年8月27日火曜日

 旧暦七月も残り少なく、ここの所暑さも和らいでいる。ただこのままということもないだろうな。まだ暑さが戻ってきたりするんだろうな。
 それでは「哥いづれ」の巻の続き。

 名残表、七十九句目。

   りんきいはねど身をなげんとや
 我よめが男の刀ひんぬいて     貞徳

 前句の「身をなげんとや」を刀の身を投げるとした。昔の女はこえー。
 貞徳自注に、

 「身を刀の身になして、男になげつけるとする也。」

とある。
 八十句目。

   我よめが男の刀ひんぬいて
 祝言の夜ぞ酔ぐるひする      貞徳

 結婚式の夜の酒宴での出来事だろう。酔っ払った嫁が刀をひんぬいて、まあ剣の舞くらいだったら笑える。酔狂(よいぐるい)、ひっくり返せば酔狂(すいきょう)になる。
 この句に貞徳の自注はない。
 八十一句目。

   祝言の夜ぞ酔ぐるひする
 生魚を夕食過て精進あげ      貞徳

 「精進あげ」はウィキペディアの「精進落とし」のところに、

 「精進落とし(しょうじんおとし)とは、寺社巡礼・祭礼・神事など、精進潔斎が必要な行事が終わった後に、肉・酒の摂取や異性との交わりを再開したり、親類に不幸があって通常の食事を断って精進料理を摂っていた人が、四十九日の忌明けに精進料理から通常の食事に戻すことなどを言う。お斎(おとき、おとぎ)、精進明け、精進上げ、精進落ちとも言う。」

とある。
 「祝言」は結婚式の意味で使われることが多いが、単に祝いの言葉という意味もある。
 何かお目出度いことがあっても精進の必要な期間には避けて、精進揚げを待ってからする場合もあったのだろう。
 貞徳自注に、

 「生魚にて酔ととりなす也。精進あげにて祝言は付べし。」

とある。
 前句の「酔ぐるひする」はここでは酒の酔いではなく生魚の酔いに取り成される。
 生魚の酔いは、おそらく寄生虫による中毒のことであろう。サバ、アジ、サンマ、カツオ、イワシ、サケ、イカなどはアニサキス幼虫による中毒がよく知られているが、川魚にも寄生虫は多い。今日ではきちんと衛生管理されたものが流通しているが、昔は刺身で当たることも多かったのではないかと思う。軽い症状で済めば「酔い」ということで済まされたのではないかと思う。
 まあ、精進揚げとはいえ、いきなり生魚ではばちも当たるというところか。
 八十二句目。

   生魚を夕食過て精進あげ
 寺のかへさに呼やあみ引      貞徳

 貞徳自注に、

 「難波寺なり。万葉に大宮の内まできこゆと云歌もあれば、海士のよび声に成べし。」

とある。
 『連歌俳諧集』の注は、

 大宮の内まで聞こゆ網引すと
     網子ととのふる海人の呼び声
              長忌寸意吉麻呂

の歌を引用している。
 八十三句目。

   寺のかへさに呼やあみ引
 難波江のさきに亀井の水をみて   貞徳

 前句の寺を四天王寺として、四天王寺の亀井堂を見てから難波江に行くとする。亀井堂は四天王寺のホームページに、

 「亀井堂の霊水は金堂の地下より、湧きいずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。
 東西桁行は四間あり、西側を亀井の間と読んでいます。東側は影向の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があります。中央には、その昔聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。」

とある。
 なお、この句には貞徳の自注はない。
 八十四句目。

   難波江のさきに亀井の水をみて
 こと浦までも月の遊覧       貞徳

 貞徳自注に、

 「こと浦も名所なり。」

とある。
 こと浦は琴浦とも異浦とも書く。尼崎の蓬川の河口付近の浜で、近くに琴浦神社がある。

 忘しな難波の秋の夜はの空
     こと浦にすむ月はみるとも
             宜秋門院丹後(新古今集)

の歌がある。

2019年8月26日月曜日

 「哥いづれ」の巻の続き。

 七十三句目。

   おとす尺八何としてまし
 礼をなす沙門も公家も手すくみて   貞徳

 貞徳自注に、

 「尺八を公家の笏と沙門の躰にとりなすなり。」

とある。
 躰(体)は鉢の間違いだろう。
 前句を「おとす笏・鉢」として、手がすくんで公家は笏、沙門は鉢を落とすとする。
 七十四句目。

   礼をなす沙門も公家も手すくみて
 仏名の夜ぞいかうあれける      貞徳

 貞徳自注に、

 「師走に内裏にて仏名をよませらるる事あり。」

とある。
 仏名の夜は仏名会(ぶつみょうえ)のこと。コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「『仏名経』 (12巻) を読誦する法会。陰暦 12月 19日から3日間,清涼殿や諸国の寺院で行われた。5~6世紀の中国で種々の仏名経典が翻訳,編集されたが,菩提流支の訳した『仏名経』には1万 1093の仏陀,菩薩の名前が列挙されている。」

とある。
 沙門も公家も手がすくむのは、寒さのせいだった。ただでさえ寒い師走の夜に吹雪いたりしたら、手がかじかんで動かなくなるのも仕方ない。
 七十五句目。

   仏名の夜ぞいかうあれける
 障碍をや師走の月の天狗共     貞徳

 「障碍(しょうげ)」はウィキペディアに、

 「仏教用語で、障碍とは、煩悩障と所知障の2つであり、心を覆い隠し悟りを妨げている2つの要素を意味する。」

とある。
 仏名会の夜に荒れ狂うのは月に浮かれた天狗だった。これも障碍だろうか。
 貞徳自注に、

 「寒のあるるを天狗にとりなす也。」

とある。
 日本では障害者の「害」がいけないというので、「障碍者」と表記しろという声があるが、「障碍」も邪魔になる、妨げになるという意味なので、たいして変わらないように思える。以前冗談で、いっそのこと「勝凱者」とでもすればかっこいいのではないかと書いたことがあったが。
 英語のhandicapped personでも、帽子を手に持って物乞いをする人が語源なので使うなだとか、a disabled personも無能という意味なので駄目だとか、いろいろあるらしい。
 七十六句目。

   障碍をや師走の月の天狗共
 紅粉に木の葉の散てまじれる    貞徳

 貞徳自注に、

 「師走紅粉に木の葉天狗といふより合也。」

とある。
 「師走紅」はジャパンナレッジの「日本国語大辞典」に、

 「〔名〕陰暦一二月の寒中に精製した紅。→寒紅。*俳諧・崑山集〔1651〕一二冬「冬山に残る紅葉や師走紅粉〈玄?〉」

とある。
 「木の葉天狗」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 威力のない小さい天狗。こっぱてんぐ。
 「いかに―たち、疾(と)う疾う出でられ候へ」〈謡・鞍馬天狗〉
  2 風に舞い散る木の葉を、空を自在に飛び回る天狗にたとえた語。
 「時雨にも化くるは―かな」〈鷹筑波・四〉」

 江戸中期になると鳥の姿をした独自の妖怪として確立されてゆく。
 ここでは「より合」とあるように、師走に紅粉、天狗に木の葉が付け合いで、言葉の縁で登場させているにすぎない。
 前句の天狗共を天狗風(つむじ風)のことと取り成し、紅葉に普通の木の葉が混ざって吹き上げられている、となる。
 七十七句目。

   紅粉に木の葉の散てまじれる
 もやうよく染し小袖を龍田川    貞徳

 前句を小袖の模様とする。貞徳自注はない。説明の必要もないというところか。
 七十八句目。

   もやうよく染し小袖を龍田川
 りんきいはねど身をなげんとや   貞徳

 「りんき(悋気)」はやきもちのこと。
 貞徳自注に、

 「是は業平の河内通ひの比、有常の娘の身をもなげ用意するかと云様成思やり也。」

とある。
 業平の河内通いは『伊勢物語』二十三段の「筒井筒」でも有名な話で、この筒井筒の女が紀有常の娘とされている。
 業平が河内の女のところに通っているのを、有常の娘は嫉妬もせずに、

 風吹けば沖つ白波たつた山
     夜半にや君がひとり越ゆらむ

きちんと化粧して、とけな気にも業平のことを信じて心配している。
 句の方では嫉妬はしないが身投げはすると展開する。本説もそのまんまでなく、少し変えるというのは分かるが、どこから「身投げ」が出てきたのか。
 おそらく、

 ちはやぶる神代もきかず竜田川
     からくれなゐに水くくるとは
               在原業平

の歌の最後の「水くくるとは」を水でくくり染めにするという元の意味を、水に潜るとした洒落からきたのだと思う。
 この洒落は後に古典落語の「千早振る」にも受け継がれている。

2019年8月25日日曜日

 世界が平和になったのは市場経済のクローバル化だけが原因ではない。生物学的な意味での生存競争が地球レベルで進行する少子化によって和らいだのも一因だ。
 生存競争というのは、自然生態系の与える資源が一定なのに対し、子は鼠算式に増えてゆくところから生じる。有限な地球に無限の生物は生きられない。結局それは仲間同士の激しい縄張り争いとなり、自然に調整されることになる。
 近代以前の社会では、生産性を飛躍的に高めるような発明は滅多に起きず、概ね生産力は一定だった。そこで沢山の子供が生まれてくると、農地を相続できるのも、そこに妻として納まることができるものも限られていた。あぶれた次男三男以下は、都市が形成される前は結局戦争をやって殺しあうしかなかった。そしてあぶれた女性は口減らしされるか生贄に奉げられるか遊女になるしかなかった。
 男は兵隊になり、女は娼婦になる。それは前近代社会の日常だった。
 近代化によって急速に生産性が向上したが、マルサスはそれすら人口増加によって食い尽くされてしまうだろうと予言した。しかしこの予言は外れた。同時に少子化が起こったからだ。
 少子化は近代化の過程でどこの国でも例外なく起こっている。これは自然現象といっていい。過密に対する生物学的反応ではないかと思う。
 少子化のおかげでわれわれは限られた資源をめぐる熾烈な生存競争から解放された。目先の利益で安易に少子化対策なんてことを言ってほしくない。子供を三人生めと言うが、本当にみんなが子供を三人生んだら、一人は戦争で死ぬか娼婦になる。それが天だ。
 江戸時代も急速に都市化が進んだ時代だった。都市化によってあぶれた人口は商工業や大衆芸術を生み、風流の心が生存競争の過熱を防ぎ、子孫を残すこと以外の価値を大衆に植え付けていった。
 その発端になったのが貞徳の貞門俳諧だった。
 そういうわけでその輝ける「哥いづれ」の巻の続きを。

 三裏、六十五句目。

   内親王とちぎるいく秋
 待て居るしるしの杉も長月や    貞徳

 貞徳自注には、

 「斎宮は斎王とも云て、いづれも女王也。是は六条御息所の源氏とはうくて、御娘と親子のちぎりふかきと恨み給ふ心なり。」

とある。
 斎宮はウィキペディアに、

 「斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は、古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。」

とある。本来斎宮は伊勢の斎王の御所のことだったが、斎王のことも斎宮と呼んだ。
 ウィキペディアの斎王の項に、

 「斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)。厳密には内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といったが、両者を総称して「斎王」と呼んでいる。」

とあるように、前句の内親王を斎王のことと取り成すことが出来る。
 『源氏物語』では六条御息所の娘が内親王であり、斎宮(伊勢の斎王)となる。
 賢木巻で六条御息所が娘の斎宮に付き従って伊勢に下る前、斎宮が伊勢下向前の一年間を過ごす野宮(ののみや)に籠っている御息所をひそかに訪ねる時に、

 「月ごろのつもりを、つきづきしう聞え給はんも、まばゆきほどに成りにければ、さかきをいささかをりても給へりけるを、さし入れて、かはらぬ色をしるべにてこそ、いがきもこえ侍りにけれ。さも心うくときこえ給へば、

 神がきはしるしのすぎもなきものを
  いかにまがへてをれるさかきぞ

ときこえ給へば、

 をとめこがあたりとおもへばさか木葉の
  かをなつかしみとめてこそをれ

おほかたのけはひわづらはしけれど、みすばかりはひききて、なげしにおしかかりてゐ給へり。」

という歌のやり取りをする。現代語にすると、

 「日頃積もり積もった思いをそれっぽく伝えようにも、この神聖な場にそぐわない状態なので、榊の枝を少々折って携えていたの差し入れ、
 『変わらないという証拠があるからこそ、忌垣の内側にも入れるのですよ。
 それなのに、つれないですね。』
と言うと、

 『稲荷社のしるしの杉とまちがえて
     この野の宮の榊折るとは』

という歌を詠むのを聞こえたので、源氏の君も歌を返しました。

 『神聖な処女はここかと榊葉の
     香りを慕い折ったまでです』

 あたりの雰囲気にはそぐわないものの、御簾だけを隔てたまま、源氏の大将は簀子(すのこ)と廂(ひさし)を隔てる長押(なげし)に寄りかかって座ってました。」

といったところか。
 「しるしの杉」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「伏見の稲荷神社にある神木の杉。参詣者がその枝を折って帰り、久しく枯れなければ願いが成就するとされた。」

とある。源氏の君が榊の枝を折って神聖な野宮に入ろうとするのを見て、ここは伏見稲荷ではありませんよとたしなめるわけだが、そこは御息所も心の中では源氏の君が来るのを待っていたのか、そのあと、

 おもほしのこすことなき御なからひに、きこえかはし給ふことども、まねびやらんかたなし。
 (いろいろなことがありすぎた二人の間にこのあと一体何があったのか、それはここで再現するわけにはいきません。)

という展開になる。
 その御息所の気持ちを源氏の君が「待て居るしるしの杉も長月や」と問いかける句にして、前句の「内親王とちぎる」に付ける。ただ正確には内親王の母とちぎる、だが。
 「居る」は「折る」、「長い」と「長月」が掛詞になる。手の込んだ付け方で、これぞ貞門の真髄ともいえよう。
 六十六句目。

   待て居るしるしの杉も長月や
 折を出せかし此菊のやど       貞徳

 貞徳自注には、

 「杉折と取りなすなり。」

とある。「杉折」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 杉材の薄い板(へぎ板)で作った四角の小箱。菓子、料理などを入れるのに用いた。折箱(おりばこ)。
  ※俳諧・誹諧独吟集(1666)下「ひえ坂来るは京衆なるらし 提重(さげぢゅう)に峯の杉折持添て」

とある。
 「菊の宿」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「菊の花の咲いている家。《季・秋》
  ※俳諧・崑山集(1651)一一「酒の朋遠方よりやきくの宿〈貞徳〉」

とある。
 長月九日は重陽で杉折の箱に入った料理を今か今かと待っている。
 六十七句目。

   折を出せかし此菊のやど
 見るもただ大盃はくるしきに     貞徳

 貞徳自注には、

 「当世おりべ盃とてあり。一と略の詞、これを近来の事ながら天下通用にしていふより取用ゆ。是俳諧の徳也。さりながらちかき事は大方せぬ事也。能分別すべし。」

とある。
 「織部盃」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「非常に浅くて開いた形の杯。古田織部の創製という織部焼の杯。おりべ。」

とある。
 重陽には菊花酒を飲む習慣があり、

   九月九日、乙州が一樽をたずさへ来たりけるに
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒    芭蕉

という元禄四年の句もある。
 ただ大盃で出されると、大酒飲みには嬉しいが、酒に弱い人には苦しい。せめて織部盃にしてくれ、というわけだ。
 菊花酒はウィキペディアによれば、

 「江戸時代の『本朝食鑑』には二種類の製造法が紹介されている。
 一つ目は、菊の花びらを浸した水で仕込みをすると言うもので、有名な加賀の菊酒はこの製法で作る。
 二つ目は、「菊花を用いて、焼酎中に浸し、数日を経て煎沸し、甕中に収め貯え、氷糖を入れ数日にし成る。肥後侯之を四方に錢る 倶に謂ふ目を明にし頭病を癒し 風及婦人の血風を法ると」『本朝食鑑』とあり、現在梅酒などを造る時の要領で、氷砂糖と一緒に寝かせた菊の花びらを焼酎に漬け込むもの。眼病や婦人病に効果があると、江戸時代に広く薬酒として愛された。
 そのほか、原料となる米に菊の花の香りを移すものなど、諸説ある。」

とあり、どれが一番一般的だったかはよくわからないが、芭蕉が飲んだのは樽でいただいたものだから、菊の花びらを浸した水で仕込んだ方のものか。
 六十八句目。

   見るもただ大盃はくるしきに
 かつやうにせん弓の射こくら     貞徳

 貞徳自注には、

 「是はから国に、弓にまけたるものには大さかづきにて酒のまする事あり。」

とある。
 『連歌俳諧集』の注はこれを投壺のこととしている。投壺はウィキペディアに、

 「投壺(とうこ)は、中国の宴会の余興用のゲームである。壺(通常は金属製)に向かって矢(実際には木の棒)を投げ入れるゲームで、原理的には輪投げやダーツに近い。
 非常に古い伝統のあるゲームであり、本来は負けた側が罰杯を飲まなければならないものであった。
 現在は主に大韓民国で行われている。」

とある。確かにネットで見たら韓国伝統玩具としてトゥホ(投壺)セットというのが売ってた。矢の先はゴムになっている。
 ただ、日本では古代にはあったけど廃れてしまった遊びなので、矢を投げるのではなく弓を使うと勘違いしていたのか、「弓の射こくら」になっている。それとも弓を使う別の遊びがあったのか。
 六十九句目。

   かつやうにせん弓の射こくら
 うしろよりまゐりて拝む堂の前    貞徳

 貞徳自注には、

 「三十三間の堂の体なり。ほとけへの祈念の体なり。」

とある。
 京都の蓮華王院の三十三間堂は121メートルの長さで古くから通し矢が行われていた。
 ウィキペディアによれば、

 「保元の乱の頃(1156年頃)に熊野の蕪坂源太という者が三十三間堂の軒下を根矢(実戦用の矢)で射通したのに始まるともいわれるが、伝説の域を出ない。実際には天正年間頃から流行したとされ、それを裏付けるように文禄4年(1595年)には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出している。なお秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたともいう。この頃はまだ射通した矢数を競ってはいなかったようである。
 通し矢の記録を記した『年代矢数帳』(慶安4年〈1651年〉序刊)に明確な記録が残るのは慶長11年(1606年)の朝岡平兵衛が最初である。平兵衛は清洲藩主松平忠吉の家臣で日置流竹林派の石堂竹林坊如成の弟子であり、この年の1月19日、京都三十三間堂で100本中51本を射通し天下一の名を博した。以後射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称した。多くの射手が記録に挑んだが、実施には多額の費用(千両という。)が掛かったため藩の援助が必須だった。
 寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈し、次々に記録が更新された。寛文9年(1669年)5月2日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中通し矢8,000本で天下一となった。貞享3年(1686年)4月27日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となった。これが現在までの最高記録である。その後大矢数に挑む者は徐々に減少し、18世紀中期以降はほとんど行われなくなった。ただし千射種目等は幕末まで行われている。」

 「保元の乱の頃」というのが伝説だというのは、当時の弓の性能では困難で、『奥の細道─道祖神の旅─』を書いた時に那須与一のことで調べた時には、この頃、それまでの梓や檀の木でできた弓(梓弓、真弓)竹で補強したあわせ弓が登場し、それまでの弓の射程が十五メートルくらいだったところを、那須与一は六十メートルの遠射を行ったという話だったが、三十三間堂はその倍もある。
 戦国末期には射程が更に伸び、それによって三十三間堂の射通しを試みる人が現れ、江戸時代初期には藩対抗の競技会の様相を呈するようになった。貞徳の時代はまさにその華やかなる時代だった。
 通し矢は三十三間堂の千体の千手観音の背中側、つまり西側で行われていた。(三十三間堂の千手観音は千一体で一体だけ反対側にある。)それを「うしろよりまゐりて」としたか。
 七十句目。

   うしろよりまゐりて拝む堂の前
 主に先だち腹やきるらむ       貞徳

 貞徳自注には、

 「主君のうしろより先いづるよしなり。」

とある。
 普通は主君が切腹すると臣下の者がその後を追うのではないかと思う。主君より先に切腹するというのはどういうことか。まあ、それが後ろから堂を拝むようなもの、ということか。
 七十一句目。

   主に先だち腹やきるらむ
 鎌倉の海道遠きさめがゐに      貞徳

 貞徳自注には、

 「太平記にあり。北条殿よりも六波羅の没落は先なり。」

とある。
 醒井(さめがい)は米原と関が原の間にある中山道の宿場。
 北条殿はここでは北条仲時のことで、ウィキペディアによれば、

 「元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した。享年28。」

とある。
 七十二句目。

   鎌倉の海道遠きさめがゐに
 おとす尺八何としてまし       貞徳

 貞徳自注には、

 「尺八の手に海道下りと云事あり。又醒井にて西行おとしごと云事あり。」

とある。
 「旧街道ウォーキング 人力」のサイトによると、醒ヶ井宿には泡子塚というのがあり、

 「西行法師東遊でこの泉で休憩したところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと、不思議にも懐妊し、男子を出産した。その後関東からの帰途でまたこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、

 水上は清き流れの醒井に
     浮世の垢をすすぎてやみん

と詠むと、児はたちまち消えて、もとの泡になったという伝説が残っている。」

という。これが「西行おとしご」であろう。
 ただここでは西行に隠し子があったとかそういう話にはせずに、「おとす」を「音す」に掛けて、「海道下り」を一節切(ひとよぎり)尺八の曲に掛けている。
 一節切(ひとよぎり)は尺八よりも古くからあり尺八の前身と言われている。「海道下り」は後に一節切唱歌になり、寛文四年(一六六四)の『糸竹初心集』に収められている。

   海道くだり
 おもおしいいろの、かいどくたりやああ、なにとかたあるとつうきいせじ、かもがあはあしらかは、ううちわあたり、いい、おもふひとにはあああはたぐちとよをを、しのみやあがはあらやあ、じうぜえんじせきやあまあさんりを、ううちすうぎてええ、ひとまづうもををとにい、つうくうとの
 これより末、尺八吹きやう同前なり

2019年8月24日土曜日

 「哥いづれ」の巻の続き。

 六十一句目。

   節分の夜にまゐる宮方
 明年は神よまもらせおはしませ   貞徳

 前句の宮方を「神社のほう」の意味にしたか。節分の夜に神社に行き、来年も守らせたまえと祈る。
 この句に貞徳自注はない。
 六十二句目。

   明年は神よまもらせおはしませ
 いつ住吉ぞ名月のかげ       貞徳

 住吉大社は和歌三神(住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂)が祭られていて、古来風流の道と縁が深い。今日では観月祭も行われている。
 『源氏物語』の明石巻では、雷が荒れ狂い高潮が押し寄せる中、住吉社の方角に向って祈ると、翌日には天気が治まる。
 明年は名月が見られなすようにと住吉の神に祈る。
 貞徳自注には、

 「八月十五夜くもりければ、住吉の神主とがあるよし侍る。」

とある。
 「良し」は記紀万葉の時代には「えし」と読んでいた。そこから吉野は「えしの」、日吉は「ひえ」、住吉は「すみのえ」だった。「えし」が「よし」に変化するようになって、「よしの」「ひよし」「すみよし」となった。
 六十三句目。

   いつ住吉ぞ名月のかげ
 露ほどもあやかり度は定家にて   貞徳

 前句の「名月」を定家の『明月記』のこととする。
 貞徳自注には、

 「定家は住吉明神示現ありて明月記をしらせり。」

とある。
 これに関しては『連歌俳諧集』の注に、『毎月抄』を次の文を引用している。

 「去元久比住吉参籠の時、汝月明らかなりと冥の霊夢を感じ侍りしによりて、家風に備へんために明月記を草しをきて侍事、身には過分のわざとぞ思給る。」
 六十四句目。

   露ほどもあやかり度は定家にて
 内親王とちぎるいく秋       貞徳

 定家と式子内親王との関係は古来様々に推測され、謡曲『定家』にもそのことが描かれている。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「謡曲。三番目物。古くは『定家葛(ていかかずら)』とも。旅僧が京都千本付近のあずまやに雨宿りすると、式子(しきし)内親王の霊が現れ、生前契った定家の執心が葛(かずら)となって墓に絡んでいることを語るが、僧の回向によって成仏する。」

とある。
 貞徳自注に、

 「式子内親王なり。」

とある。式子内親王は「しょくしないしんのう」と読むのが一般的だが、「しきしないしんのう」とも読む。式の字を「しょく」と読むのは漢音で、「しき」は呉音になる。ただ、今日では呉音の方が一般的に用いられている。

2019年8月23日金曜日

 昨日のことをもう少し詳しく言えば‥。
 日本では軍国主義の終わったところから軍国主義との戦いが始まった。
 この戦いはレーニン帝国主議論によって同時に資本主義との戦いでもあった。
 幻だった八月革命は未来の社会主義革命を以てして完遂しなくてはならなかった。
 戦中の鬼畜英米はそのまま反米闘争に引き継がれ、天皇の場所に憲法第九条が君臨し、日本国憲法は明治憲法と同様に不磨の大典として神聖不可侵なものに祭り上げられた。
 彼等にとって戦争はまだ終っていない。
 たとえ彼等が暴力革命を否定していても、世界中の反米的な独裁国家とテロ組織を支援してきた。
 こうして上塗りされていった日本の「戦後思想」は、冷戦構造があったことと、戦後しばらくの間は軍国主義の時代を懐かしむ人たちもいたことから、ある程度のリアリティーを持って大衆も受け入れていた。それも七十年代前半をピークに、後は衰退の道をたどっていった。
 しかし、こうした戦後思想はあたかも文化人であることの条件であるかのように、今日でも日本の知識人たちを支配し、マスコミにも大きな影響を与え続けている。
 かつて満州で育ちの作家の安倍公房は「終わったところから始まる旅に終わりはない。」と言ったが、終わったところから始まっている戦いは終わる時を知らない。彼らの魂はいつ鎮まるのだろうか。
 それでは「哥いづれ」の巻の続き。風流の道がせめてその一助になれば。

 五十五句目。

   治りかへる御代は一条
 物着てならぬ座敷の床畳      貞徳

 「物」は『連歌俳諧集』の注に「打物(刀・槍の類)の略。」とある。
 「床畳」はweblio辞書の「三省堂 大辞林 第三版」に、「床の間に敷く畳。また、ゆかに敷く畳。」とある。
 床の間はウィキペディアに、

 「元来、仏家より出たもので、押板と棚に仏像を置いていたと言われ、これが武家に伝わり仏画や仏具を置く床飾りが広まった。南北朝時代に付書院や違い棚とともに造られ始めた『押板(おしいた)』は、掛け軸をかける壁に置物や陶器などを展示する机を併合させたもので、その用途をそのままに、近世の茶室建築に造られた『上段』が床の間となった。床の間は近世初期の書院造、数寄屋風書院をもって完成とされる。」

とある。
 この巻が巻かれたのは桂離宮でいえばまだ古書院の時代だった。数奇屋は数寄の道の部屋で茶室が元になっている。茶室では打物は嫌われた。
 「物着てならぬ座敷」は茶室のことで、その床畳は穏やかに落ち着いたところで(治りかへる)、一畳(一条)というわけだが「御代」が解消されてない。まあ、それくらいはいいというところか。
 貞徳自注には、

 「床だたみは一帖なるべし。」

とある。
 五十六句目。

   物着てならぬ座敷の床畳
 まはり花をば小勢にてさせ     貞徳

 「まはり花(廻花)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 茶道の七事式の一つ。茶花の修練のために、主客ともに代わるがわる茶花を生ける式。
  ※虎明本狂言・真奪(室町末‐近世初)「此間は立花がはやって、各のまはり花をなさるるが」

とある。
 お茶室の床の間では花を生ける。狭い茶室なのでそんな大勢では行わない。
 この花は桜とは限らないが正花として扱われる。花の定座は式目にはないので、表の六句目で花を出してもかまわない。
 この句に貞徳自注はない。
 五十七句目。

   まはり花をば小勢にてさせ
 人のせな渦の霞る浪の舟      貞徳

 前句の「まはり花」を回る浪の花として渦潮を付ける。
 渦潮を見に行く船はそんなに多くの人は乗せられないのか、「人乗せな」といっても乗るのは小勢。
 貞徳自注には、

 「人のせなと云詞俳諧なり。まはるはうづなり。花は浪の花とつくる也。」

とある。
 五十八句目。

   人のせな渦の霞る浪の舟
 松浦が事は長閑くもなし      貞徳

 謡曲『松浦佐用姫』は大槻能楽堂のサイトの「あらすじ」のところに、

 「旅僧が松浦潟に着くと、海士乙女が現れて佐用姫と狭手彦との物語を詳しく語る。 海士乙女は僧から袈裟を授かった礼に、狭手彦形見の鏡を見せると約束して姿を消す。 夜もすがら僧の夢の中に佐用姫の霊が現れる。約束の鏡を拝した僧は、そこに狭手彦の姿を見る。 佐用姫の霊は恋慕の執心を嘆き、懺悔に昔の有様―狭手彦との別れ、領巾を振って舟を見送った時のこと、形見の鏡を抱いて投身したこと―を見せる。」

とある。投身とは確かに長閑なことではない。
 貞徳自注に、

 「新曲の舞にかやうの言葉、心あるかとおぼゆ。」

とある。
 五十九句目。

   松浦が事は長閑くもなし
 鰯とはいやしきかへ名のいかならむ 貞徳

 貞徳自注に、

 「松浦いわし。」

とある。松浦鰯はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 肥前国松浦地方でとれる鰯。塩漬として知られた。〔庭訓往来(1394‐1428頃)〕」

とある。
 『連歌俳諧集』の注は『和漢三才図会』鰯の条の「肥前国ノ松浦、丹後ノ由良ノ産、頭略大ニシテ扁ク、亦名ヲ得。」を引用している。
 また、『連歌俳諧集』の注には「室町時代の宮中の女房詞に、鰯の替名を『むらさき』という。」とある。
 上品な名を言わずに「いわし」と呼ぶのはいかがなものか、松浦鰯は長閑ではない、と付く。
 六十句目。

   鰯とはいやしきかへ名のいかならむ
 節分の夜にまゐる宮方       貞徳

 鰯といえば節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して魔除けとする風習があった。

 日の光今朝は鰯のかしらより    蕪村

の句は、一夜明けて日が刺すので立春の句となる。
 節分の鰯に関しても、宮廷の人からすれば「鰯とはいやしきかへ名のいかならむ」ということになる。
 貞徳自注に、

 「鰯を柊にさす夜なり。宮中は詞つかひ風流なるもの也。」

とある。