2019年6月30日日曜日

 今日も一日小雨の降る天気で、家の中で静かに過ごした。退屈だ。
 トランプ米大統領と金正恩委員長は板門店で短い会談を行い、これが世界がうまく行く印ならいいな。
 プーチンさんは「リベラルな価値観は時代遅れ」と言っていたけど、一部のリベラルが社会主義者と手を組んで独裁政治やイスラム原理主義を支持しているからそう見えるだけだと思う。
 まあ、そういった連中がマスコミを牛耳ってたり、いろいろ情報操作するもんだから混乱しているけど、そういう間違ったリベラルは滅び、最終的には正しいリベラルが勝利すると思う。
 時代遅れなのは独裁や原理主義の方だ。
 それはともかくとして、ここは風流のページ。平和には賛成するとして、とりあえずは「いと凉しき」の巻の続き。今回は一気に挙句まで。

 九十一句目。

   遠く遊ばぬ盆の夕暮
 住つけば残る暑さも苦にならず  磫畫

 お盆に残暑とこれは軽く流した遣り句だろう。
 九十二句目。

   住つけば残る暑さも苦にならず
 月はこととふうら店の奥     幽山

 京の裏通りはいかにも暑そうだ。表と違い人通りも少なく、月だけが尋ねてくる。そろそろ名残の裏ということで、穏やかに流してゆく。
 名残裏。
 九十三句目。

   月はこととふうら店の奥
 秋の風棒にかけたる干菜売    桃青

 久しぶりに芭蕉さんの登場。
 裏通りを天秤棒に干し菜を下げた干し菜瓜が通る。うらぶれた風情のある句だ。
 九十四句目。

   秋の風棒にかけたる干菜売
 賤がこころも明樽にあり     宗因

 「明樽(あきだる)」は酒を作った後の空き樽。醤油、味噌、漬物などに再利用した。「飽き足る」に掛かる。満足するという意味。今でも否定形の「飽き足らぬ」という言葉にその名残がある。
 明樽で干し菜を漬ければ冬への備えも万全。野菜は干すことで旨みも増すし、貧しい庶民もこれで満足。宗因らしい人情句だ。
 九十五句目。

   賤がこころも明樽にあり
 綱手をもくり返しぬる網のうけ  幽山

 「網のうけ」は網の浮子船(うけぶね)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「漁具の一種。たらいのような桶で、定置網のへりにつけて浮子(うけ)とする。うけぶね。
 ※散木奇歌集(1128頃)雑「ひく島の網のうけ舟浪間よりかうてふさすとゆふしててかく」

とある。明樽は漁具として利用することもあったか。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は、

 しづやしづ賤のをだまき繰返し
     昔を今になすよしもがな

という『義経記』の静御前の歌を引いている。この歌の元歌は『伊勢物語』の、

 いにしへの賤のをだまき繰返し
     昔を今になすよしもがな

で、最初の五文字だけが違う。
 この歌を本歌とし、海士が浮子船の引き綱を繰返し引くように、賤の心も、昔のことを忘れてよりを戻し、幸せになる事を願う。
 九十六句目。

   綱手をもくり返しぬる網のうけ
 あこぎが浦や牛のかけ声     吟市

 「あこぎが浦」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「三重県津市,伊勢湾にのぞむ海岸。岩田川河口から相川河口までの単調な直線状の砂浜海岸で,春は潮干狩り,夏は海水浴に利用され,冬はノリ漁場となる。かつては伊勢神宮の供物の漁場で,殺生禁断の海であった。昔貧しい漁夫平治 (次) が病母のためこの海で魚をとったため罰せられ,簀巻きにされて海に沈められたという物語は,謡曲,浄瑠璃に歌われて有名。近くに平治 (次) の霊をまつる阿漕塚がある。観海流泳法の発祥地といわれる。南半分を御殿場浜とも呼ぶ。一帯は伊勢の海県立自然公園に属する。」

とある。
 『源平盛衰記』にある、

 逢ふことも阿漕が浦に引く網も
     度重なれば顕はれやせん

の古歌は、『古今和歌六帖』の、

 逢ふことをあこぎの島に引く網の
     たび重ならば人も知りなん

を元歌としている。
 その阿漕が浦も江戸時代には伊勢街道の宿場として栄え、牛の掛け声が繰返し聞こえてきたのだろうか。
 九十七句目。

   あこぎが浦や牛のかけ声
 みづらいふわつぱも清き渚にて  信章

 「みづら(角髪)」は奈良時代までの古代の貴族の髪型で、牛飼童(うしかいのわらわ)は歳を取っても垂髪でまま髪を結わなかった。でも何となく古代というと角髪(みづら)の童(わっぱ)がいそうなイメージだったのだろう。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『阿漕』の「伊勢の海。清き渚のたまだまも。」の一節を引用している。
 九十八句目。

   みづらいふわつぱも清き渚にて
 馴てもつかへたてまつる院    磫畫

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「惟喬親王の御住居を渚の院という(伊勢物語)」

とある。交野の院に仕える牧童とした。

 「今狩りする交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。その木のもとに下りゐて、枝を折りてかざしにさして、上、中、下、みな歌詠みけり。馬頭なりける人の詠める。

 世の中にたえて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし」

の歌はよく知られている。
 九十九句目。

   馴てもつかへたてまつる院
 そも是は大師以来の法の華    似春

 この興行の会場となった大徳院は弘法大師を開祖とする高野山真言宗のお寺で、前句の「院」を大徳院のこととし、そこには弘法大師以来の法の花が咲いているとする。「法の花」は似せ物の花だが正花になる。
 花は一座三句物で、「にせ物の花此外に一」と『応安新式』にあり、この巻はそれを律儀に守っている。
 挙句。

   そも是は大師以来の法の華
 土の筆にも道や云らん      少才

 「弘法筆を選ばず」というとおり、この俳諧は本来の筆ならぬ土の筆、つまり土筆(つくし)で書いたような粗末なものにすぎないが、道の一端でも云うことができただろうか、と謙虚でありながらもこの俳諧が大和敷島の言の葉の道であることを宣伝して終る。
 さて、宗因と芭蕉、後の世から見ると夢の競演だが、芭蕉の句は七句と素堂(信章)の九句よりも少ない。特に後半はわずかに二句で寂しい感じだ。談林のスピード感に戸惑う所もあったのか。
 それでも、

   反橋のけしきに扇ひらき来て
 石壇よりも夕日こぼるる     桃青
   座頭もまよふ恋路なるらし
 そびへたりおもひ積て加茂の山  同
   時を得たり法印法橋其外も
 新筆なれどあたひいくばく    同
   口舌事手をさらさらとおしもんで
 しら紙ひたす涙也けり      同
   数寄は茶湯に化野の露
 石灯篭月常住の影見えて     同
   はながみ袋形見なりけり
 さる間三年はここにさし枕    同
   月はこととふうら店の奥
 秋の風棒にかけたる干菜売    同

 といった句はどれも芭蕉らしい句だし、後の蕉門への片鱗も感じられる。

2019年6月29日土曜日

 大阪のG20も終った。世界に日本の狭さを発信できたか。まあ、昔は狭いお茶室にそうそうたる公家や大名が集まったのだから、これも侘茶の心とわきまえるべし。
 今の年金は税金とは別に徴収し、29年度は53兆円くらい集めたという。税収の60兆円にも迫る額だ。これに1兆6千万の失業保険の歳入を加え、すべて一括化してそれをそれを国民の数で割れば、一人当たり年間43万円くらいになる。月三万六千円のベーシックインカムは可能だ。これに生活保護費に当てられている国税・地方税も合わせれば、さらに上乗せできる。
 これを全部国税に一括できれば、地方税は減税になるし、保険料もなくなる。その分国税の何らかの増税にはなるが、手続きの簡素化などのメリットもある。何よりも細かな、あれを持っている、わずかでも働いているとかの理由で減額されたり消滅したるする心配がないので、ベーシックインカムの導入を考えてみる価値はあるだろう。
 「働かざるもの食うべからず」という価値観は根強いが、将来はAIとロボットでそうも言っていられなくなるだろう。わざわざ生産効率を落としてまで雇用を作るとしたら、それも本末転倒だ。働かなくても食える社会、働けばもっといい暮らしのできる社会、それが輝ける未来ではないか。
 ただ、みんなそれで本当に働かなくなると困るから、ベーシックインカムは定額保障ではなく、税収の一定比率に定めてそれを配分する方式にした方がいい。
 さて、旧暦五月も残す所あとわずか。それまでに挙句までいけるか。「いと凉しき」の巻の続き。

 八十一句目。

   うしろ帯して塗笠編笠
 屋敷者跡にたつたは年こばい   吟市

 「屋敷者(やしきもの)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」ぶ、

 「大名、旗本などの武家屋敷に住んでいる人。武家屋敷に奉公している人。また、その経験のある人。屋形者。屋敷。
 ※俳諧・談林俳諧(1673‐81)「うしろ帯して塗笠編笠〈似春〉 屋敷者跡にたったは年こばい〈吟市〉」

とある。
 「年勾配(としこばい)」も同じくコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「 年齢にふさわしいこと。年かっこう。
 ※甲陽軍鑑(17C初)品四〇下「さすがに武士の心ばせなき者ならず、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが」

とある。
 武家屋敷で奉公する女中さんが入れ替わったことで、年相応の人物が入ってきた。それが「うしろ帯して塗笠編笠」となる。前帯をするのはやはり若いと言うイメージがあったのだろう。
 八十二句目。

   屋敷者跡にたつたは年こばい
 順の舞には小々性が先      又吟

 又吟さんの三句目。
 「順の舞(じゅんのまい、ずんのまい)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「席にいる者が順に舞をまうこと。また、その舞。
 「我を覚えぬ程の酔のまぎれに―の芸づくし」〈浮・桜陰比事・一〉」

とある。今でも宴会の時などには順番に芸を求められることがある。
 「小々性(こごしょう)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「まだ元服していない年若い小姓。
 ※信長記(1622)一五上「小々姓(コゴシャウ)には森らんまる」

とある。
 宴席で芸をやる時は、若い者からというのが普通だ。会社の宴会でもまず新入社員から始まって、課長、部長と上がっていって、最後に社長がトリを勤めることが多い。
 新入りとはいえある程度の年の人なら、やはり若手の方が先になる。
 八十三句目。

   順の舞には小々性が先
 常紋の袴のそばをかいどりて   似春

 常紋は定紋で家紋のこと。「かいどる(掻い取る)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、「着物の褄つまや裾を手でつまんで持ち上げる。 」とある。前句の小々姓の舞い姿を付ける。
 八十四句目。

   常紋の袴のそばをかいどりて
 雨にも風にもかよはふよなふ   宗因

 前句を雨で水溜りができたところをすそを濡らさないように歩く姿とする。夜這いの句にする。「かよはふよなふ」は通ってくるものもいれば、それを迎えて手助けするものもいるということ。
 八十五句目。

   雨にも風にもかよはふよなふ
 夢うつつ女姿のちみどろに    幽山

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 「産婦鳥(ウブメ)。若い産婦の死霊が血にまみれて出て来る其の姿。前句をウブメが子のもとに通おうという語としてつけた。ウブメは雨や風の夜にあらわれる。」

とある。
 多分大体これでいいのだと思う。ただ、ウブメは産死した産婦の霊で、赤ん坊を人に抱かせたり、赤ん坊をさらったりするが、子供の元に通うというのはよくわからない。子供と共に死んでいるはずだから。
 これは産死した妻のお墓をせっせと尋ねる夫の句で、熱心にお参りしていると夢にウブメとなった妻が現れるということではないかと思う。
 そうして死んだ子供を抱いてやると成仏するとか、そんな良い話なのではないかと思う。
 ウブメというと翌年春の桃青信章両吟「此梅に」の巻の七十二句目に、

   君ここにもみの二布の下紅葉
 契りし秋は産妻なりけり       桃青

の句がある。これも亡き妻に会えたという句になっている。「ちみどろ」ではなく「二布の下紅葉」と綺麗に仕上がっている。
 八十六句目。

   夢うつつ女姿のちみどろに
 胸にたくのを別火とやいふ    木也

 「別火(べっか)」はウィキペディアに、

 「別火 (べっか)とは日常と忌み、物忌みの状態の間で穢れが伝播することを防ぐため、用いる火を別にすることである。
 穢れは火を介して伝染すると考えられており、日常よりも穢れた状態(忌み)から穢れが日常に入ることをさけるため、また日常から穢れが斎戒(物忌み)を行っているものに伝染することを防ぐために用いる火を別にすることが行われた。
 この目的のために、日常の住居とは別に小屋が設けられることもあり、忌みの者(月経、出産時の女性)がこもる小屋を「忌み小屋」「他屋」、物忌み中のものがこもる小屋を「精進小屋」などと呼んだ。」

とある。
 前句の血みどろの女の幽霊に対し、胸にまだ残る恋の炎が別火となって、その穢れを防いでくれる。
 八十七句目。

   胸にたくのを別火とやいふ
 ししくふた酬ひを恋にしられたり 信章

 「ししくふ」は鹿を食うことをいう。昔は鹿のことを「しし」と言った。鹿神を「ししがみ」と言い、鹿除けを「ししおどし」という。
 ただ、仏教思想の浸透した時代には、殺生をすると報いがあると考えられていた。中世の連歌には、

   罪の報いもさもあらばあれ
 月残る狩り場の雪の朝ぼらけ   救済(きゅうせい)

の句もある。
 鹿の祟りのせいか恋も思うように行かず、めらめらと嫉妬の炎を燃やす。これは穢れを防ぐ別火か。前句の「とやいふ」という疑問の言葉を生かしている。
 八十八句目。

   ししくふた酬ひを恋にしられたり
 たが参宮の伊勢ものがたり    吟市

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、『和訓栞』の「ししくふむくひといふ諺も神宮にもはら猪鹿を忌よりいへるなるべし」の言葉を引用している。
 伊勢神宮の諺に恋物語の『伊勢物語』を掛けている。もちろん実際の『伊勢物語』に鹿を食った報いの話はない。鹿の声を聞く話ならある。
 八十九句目。

   たが参宮の伊勢ものがたり
 見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊  宗因

 前句を単に誰かの伊勢参宮の土産話のこととして、その話を聞いているうちに松坂のかけ踊りを見たくなる。
 「かけ踊」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「盆の踊りなどで踊り組が互いに踊りを掛けあい競いあう形態。室町末期から近世初期に流行した風流(ふりゆう)踊に特徴的に見られ,当時の

記録類には扮装や歌にくふうを凝らし,趣向を競った様子が記される。また風流踊を疫病送りなどに用いる所では,他村との境まで踊りを掛けて順次送り出す形態もあり,伊勢神宮まで踊り継いだ伊勢踊やお蔭踊はその変型といえる。現在岐阜県郡上(ぐじよう)地方に加喜(かき)踊が残る。【山路 興造】」

とある。ここでいう「かけ踊」は幕末のええじゃないかの「伊勢神宮まで踊り継いだ伊勢踊」の原型になるような踊りであろう。なるほど見てみたい。
 九十句目。

   見たひ事じゃ松坂こえてかけ踊
 遠く遊ばぬ盆の夕暮       似春

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『論語』里仁篇の「父母在ス時ハ遠ク遊バズ。」を引用する。
 わざわざ松坂までいかなくても、盆の夕暮れにはその土地の盆踊りがある。それでもやはり遠くの踊りも見てみたい。

2019年6月28日金曜日

 台風はどこへ行っちゃったのかなという感じの朝だった。
 台湾でも中国寄りの台湾メディアに抗議するデモが起こり、G20の大阪では在日ウイグル人のデモもあったという。いろいろなところで世界は動いている。
 年金問題の方はいろいろ言われているが、積み立て式はインフレに弱いという欠点があるし、普通に個人で積み立てるのとあまりかわらない。
 年金は結局将来的にはベーシックインカムに統一されることになるのだろう。その際思うのだが、ベーシックインカムを定額にするのではなく、税収に連動するようにしたらどうだろうか。つまりみんなが働かなくなればベーシックインカムも減るようにする。
 まあ冗談はともかくとして、「いと凉しき」の巻の続き。

 七十五句目。

   誰かしつつる天竺の秋
 牢人を尋出たる空の月      宗因

 住所不定の牢人を天竺牢人というと、『近世俳句俳文集』(日本古典文学大系92、岩波書店)の注にある。『犬子集』(松江重頼編、寛永十年(一六三三)刊)に、

   天竺よりや秋は来にけん
 牢人と目にはさやかに見苦や   慶友

の句がある。
 月だけが尋ねてくる天竺牢人のことを誰が知っているか、と付く。慶友の句はただ外見の見苦しさを言うだけだが、宗因の句は天竺牢人の孤独な心境にまで踏み込む。
 七十六句目。

   牢人を尋出たる空の月
 霧にこもりし城の遠近      幽山

 城には集められた牢人たちもともに篭城している。月の光りのもとに彼らは集められ、今では霧の中の城に隠れている。
 大阪城の冬の陣、夏の陣の時も大坂牢人五人衆がいた。後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登。
 七十七句目。

   霧にこもりし城の遠近
 花おる事附り堀の魚取事     信章

 城の周辺には「花おる事を禁ず。附り、魚取事もまた禁ず」といった高札があったりする。あるあるネタか。
 七十八句目。

   花おる事附り堀の魚取事
 すり餌によする梅のうぐひす   吟市

 すり餌は鳥を飼う時の餌で、穀物の粉と魚の粉を混ぜたもの。ここでは庭に鶯を呼び寄せるのに用いられる。前句の文言は、こういう庭にあってもおかしくない。
 名残表。
 七十九句目。

   すり餌によする梅のうぐひす
 やよ見たか祇園あたりのはるの空 少才

 祇園は京都の八坂神社のあるあたり。八坂神社は牛頭天王を祭り、それが祇園精舎の守護神であるところから、祇園神社とも呼ばれていた。東山が近く、鶯も飛来したか。
 八十句目。

   やよ見たか祇園あたりのはるの空
 うしろ帯して塗笠編笠      似春

 「うしろ帯」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① =うしろむすび(後結)①⇔抱え帯。
 ※日葡辞書(1603‐04)「Vxirovobiuo(ウシロヲビヲ) スル」
 ② 娘。また、特に、帯を背後で結んで、素人の娘のような姿をしている遊女。
 ※洒落本・虚実柳巷方言(1794)上「後帯のうつくしもの、弐人のそばによりそへば」
 [語誌](1)着用時に前に作った結び目は後ろにまわしたようだが、帯の幅が狭く結び目が小さい場合には動作に支障はなく、また寛文(一六六一‐七三)の頃までは帯の結び目を作らず、折り込むようにもしたので、その位置はさして問題にならなかった。
 (2)遊女は前帯であったが、時代が降ると素人風に後ろに結び、彼女等もまた遊里の用語で「後ろ帯」と呼ばれるようになった。」

とある。
 また、「世界大百科事典内の後帯の言及」には、

 「帯の結び目を前にした締め方。江戸時代には鉄漿(かね),留袖(とめそで)とともに,前帯は主婦であることの象徴であった。もともと帯は紐状の帯紐で,前に結ぶのが自然の締め方であった。しかし室町時代のころから公家や武家の女たちが袴をはかないようになり,それにつれて着物の袖や身丈(みたけ)が長くなるにしたがって,帯の幅も広くなり,いまのような帯付姿が流行するようになった。当初の帯の締め方は結び目が一定せず,前,後ろ,横さまざまであったが,元禄(1688‐1704)ころから着物の袖や帯の締め方により未・既婚の区別が生ずるようになった。」

とある。
 寛文の頃はまだ前帯、後帯はさしたる問題ではなく、元禄になると前帯は既婚、後ろ帯は未婚と区別されるようになった。江戸後期になると遊女が後ろ帯にするようになり、近代ではみんな後ろ帯になった。
 延宝の頃はというと、寛文と元禄の間ということで、よくわからない。
 塗り笠は黒い漆を塗った笠で女性がかぶる。編み笠は普通の笠。
 この頃はまだ遊里ではなく普通の門前町として繁栄していた。「うしろ帯して塗笠編笠」というのは遊女ではなく一般女性で賑わっているイメージだったのだろう。

2019年6月27日木曜日

 明日の朝には台風が通るという。もうそんな季節か。
 それでは「いと凉しき」の巻の続き。

 六十九句目。

   親の細工をあらためずして
 何物か人のかたちと成やらん   吟市

 これは「不細工」のことか。
 親の顔貌を受け継いで、一体誰が形人(かたちびと)、つまり顔立ちの美しい人になるだろうか、と。
 七十句目。

   何物か人のかたちと成やらん
 しばし楽屋の内ぞ床しき     幽山

 前句の「人のかたち」を人形のこととする。この頃はまだ文楽はなかったが、その前身となる人形劇はあったと思われる。
 ウィキペディアによると、竹本義太夫は最初は清水五郎兵衛を名乗って浄瑠璃を語り行っていたが、「延宝5年12月に京都の四条河原に芝居小屋を建てて独立した。加賀掾の興業主であった竹屋庄兵衛が組織した操り人形芝居の一座に加わって西国で旅回りをし、延宝8年(1680年)のころ竹本義太夫と改名。」とある。
 七十一句目。

   しばし楽屋の内ぞ床しき
 来て見れば有し昔にかはら町   木也

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『鸚鵡小町』の一節を引用している。

 「雲の上はありし昔にかはらねど見し玉だれの内やゆかしきを引きかへて、内ぞゆかしきと詠む時は、小町が詠みたる返歌なり。」

 これは大納言行家が

 雲の上はありし昔に変はらねど
     見し玉簾の内やゆかしき

と詠んだのに対し、老いた小町が、

 雲の上はありし昔に変はらねど
     見し玉簾の内ぞゆかしき

と返した、これを鸚鵡返しというという話だが、鎌倉中期の『十訓抄』には女房の詠んだ歌に成範民部卿(藤原成範)が返すという話になっている。こちらの方が元ネタか。
 この歌を本歌にして、「床しき」に「有し昔にかはらねと」と付けるところを掛詞にして「かはら町」とする所に一工夫ある。
 「河原町」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「京都中央部、鴨川の西を南北に走る通り。古くは鴨川の河原。近世は芝居小屋や茶屋などが並んだ。」

とある。
 七十二句目。

   来て見れば有し昔にかはら町
 小石をひろひ塔となしけり    信章

 古くは鴨川の河原だから、石を積んで塔をたてたりして死者を弔った。
 ただこの句、十三句目の、

   座頭もまよふ恋路なるらし
 そびへたりおもひ積て加茂の山  桃青

とかぶっている感じもする。
 七十三句目。

   小石をひろひ塔となしけり
 なひ物ぞ真の舎利は求ても    磫畫

 「石塔」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 塔婆の一種。石でつくった塔婆。本来は仏舎利を安置するためのものであるが、後に多く墓としてつくられるようになった。
 ※参天台五台山記(1072‐73)一「次礼二石塔一。九重高三丈許。毎レ重彫二造五百羅漢一。並有二二塔一」
 ② 石でつくった墓標。墓石。墓碑。石碑。
 ※評判記・色道大鏡(1678)一三「此三棟に、中将姫の誕生所これあり。猶中将姫の石塔(セキタウ)もあり」

とある。石塔は本来は仏舎利だった。仏舎利は本来はお釈迦様の遺骨・遺体のことで、本物のそれは探しても見つかるものではないが、石塔ならどこにでもある。
 七十四句目。

   なひ物ぞ真の舎利は求ても
 誰かしつつる天竺の秋      似春

 「しつつる」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に「知りつる」とある。
 真の舎利はないことから、天竺の秋に思いを馳せる。まあ、遣り句と見ていいだろう。ここらで月が欲しい所だ。

2019年6月26日水曜日

 「いと凉しき」の巻の続き。

 六十一句目。

   上様風の吹旅の空
 御荷物に唐船一艘つくられたり 宗因

 これは平清盛のことだろう。清盛は宋との貿易を推進し、自らも宋船を所有していたという。
 船は風の力で動くものだが、「上様風」となれば「驕る平家」の言葉も思い起こされる。
 六十二句目。

   御荷物に唐船一艘つくられたり
 蜘てふ虫も糸のわけ口     似春

 前句を長崎に生糸を運ぶ中国船とした。
 蜘蛛は糸を吐くが生糸は作らない。そんな関係ないものにもその利益は及ぶ。貿易は当事者だけではなく、国全体を潤す。
 ところで蜘蛛の糸は最近ではその鉄鋼の四倍といわれる強度が注目され、蚕に蜘蛛の遺伝子を組み込んで蚕に蜘蛛の糸をはかせるなんてことも行われている。スパイダーシルクというらしい。
 さらに蜘蛛の糸よりももっと強い糸があるという。それは蓑虫の糸で、丈夫さでは蜘蛛の糸の約2.2倍、強度で約1.8倍だという。
 素堂は「蓑虫説」の中で、「みの虫みの虫。声のおぼつかなくて。かつ無能なるをあはれぶ。」と言ったが、実は意外な才能があった。
 六十三句目。

   蜘てふ虫も糸のわけ口
 鬢を撫て来べき宵也月の下   磫畫

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にあるとおり「古今集」の、

   思ふてふ言の葉のみや秋をへてのつぎ
   衣通姫の、独りいて、帝を恋い申し上げて
 わが背子が来べき宵なりささがにの
     蜘蛛のふるまひかねてしるしも

が本歌と見ていい。恋に転じる。
 六十四句目。

   鬢を撫て来べき宵也月の下
 伽羅の油に露ぞこぼるる    木也

 「伽羅の油」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「鬢(びん)付け油の一種。胡麻油に生蝋(きろう)、丁子(ちょうじ)を加えて練ったもの。近世初期に京都室町の髭(ひげ)の久吉が売り始めた。
 ※俳諧・玉海集(1656)一「薫れるは伽羅の油かはなの露〈良俊〉」
 ※浮世草子・世間娘容気(1717)一「いにしへは女の伽羅(キャラ)の油をつくるといふは、遊女の外稀なる事成しを」

とある。粘りが強く髪をカチッと固めるのに用いる。今日ではポマード系か。古代の恋歌から遊女に転じる。
 三裏。
 六十五句目。

   伽羅の油に露ぞこぼるる
 恋草の色は外郎気付にて    似春

 「恋草」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 恋心のつのることを草の茂るのにたとえた語。
 ※万葉(8C後)四・六九四「恋草(こひぐさ)を力車に七車積みて恋ふらくわが心から」
 ② 恋愛。恋愛ざた。また、恋人。〔日葡辞書(1603‐04)〕
 ※浮世草子・傾城色三味線(1701)湊「都の恋草に御身のかくし所もなく」

とある。
 「外郎」はウィキペディアに、

 「ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
 14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。」

とある。気付け薬にも用いられた。
 仁丹に似た銀色の小さな粒は「露」を思わせる。募り募った恋草の色は外郎気付けのような露のようにこぼれる、と付く。
 六十六句目。

   恋草の色は外郎気付にて
 はながみ袋形見なりけり    少才

 「はながみ袋(鼻紙袋)」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、「鼻紙入れ」に同じとあり、「鼻紙入れ」のところには、

 「鼻紙や薬・金銭などを入れて携帯する、布・革製の入れ物。紙入れ。鼻紙袋。」

とある。外郎を入れていた鼻紙袋が形見として残される。
 六十七句目。

   はながみ袋形見なりけり
 さる間三年はここにさし枕   桃青

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲「松風」の一節を引用している。

 「行平の中納言三年はこゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。此程の形見とて。御立烏帽子狩衣を。残し置き給へども。」

 ただ、形見は御立烏帽子狩衣ではなく鼻紙袋で、「ここにさし枕」と枕に挿してあると「差し枕」に掛けている。
 「差し枕」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  板で箱形に作った枕。箱枕。
  ②  男女が共寝をすること。 「たまさかの君の御出を嬉しがり先いねころび-かな/古今夷曲集」

とある。
 六十八句目。

   さる間三年はここにさし枕
 親の細工をあらためずして   宗因

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『論語』「学而篇」の「三年父之道ヲ改ムル無シ。孝ト謂ツ可シ。」の言葉を引用している。本説になる。
 前句の「さし枕」を箱枕とし、その細工の技術を三年改めなかった、孝行なことだとする。

2019年6月25日火曜日

 トランプ大統領が日米安保破棄のことを言ったとか言わないとか。
 ただ、トランプさんは選挙の時からアジアからの米軍の撤収を考えていたし、日米安保破棄も別におかしなことではない。
 ただ、すぐにというわけにも行かない。だから北朝鮮の非核化や中国経済の自由化に向けてかなり力を入れている。それがある程度達成できたなら、もはや米軍は必要ないということなのだと思う。そうなれば沖縄の基地問題も自然消滅する。
 アメリカも別に日本のために北朝鮮問題を解決しようとしているのではない。ただ、軍事費を削るには結局紛争を解決し、平和な世界を作るしかない。そうやって世界が平和になるならそれが一番だ。
 平和に賛成、ゲームで遊んでみんな幸せが一番ということで、「いと凉しき」の巻の続き。

 三表。
 五十一句目。

   うり家淋し春の黄昏
 欠落の跡は霞の立替り      似春

 「欠落(かけおち)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「近代法における失踪,律令制における逃亡に比当される近世法の用語。町方,村方に欠落人が生じると,町村の役人はこれを管轄官庁に届け出る。官庁は,親類町村役人へ,たずね出しを命じ,180日を経て発見しえない場合には,永尋 (ながたずね) の命を下した。永尋は,捜索人の懈怠を責めるものであるが,裏面において,今日の失踪宣告とほぼ同様の効果を生ぜしめるもので,これによって,欠落人の財産は相続人に移転された。なお,以上の制度は明治初期においても,「逃亡尋」と名を変えて,日限その他,そのままに行われていた。ちなみに,江戸期の奉公人証文にも,「欠落」の文字がしばしばみえるが,これは奉公人が契約期間満了前に失踪することである。そして,この場合には,請け人が弁償義務を負うのが通例であった。」

とある。ウィキペディアには、

 「欠落(かけおち・闕落)とは、戦乱・重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること。江戸時代には走り(はしり)などとも称された[1]。武士の場合には出奔(しゅっぽん)・立退(たちのき)などと呼んで区別したが、内容的には全く同一である。」

とある。
 「かけおち」というと、今日では一般に男女の駆け落ちの意味でしか使われない。欠落の原因の中には確かにこういうものもあっただろう。いつごろから男女の示し合わせた失踪を意味するようになったか、興味深い所だ。
 延宝の頃にはまだそういう意味はなかったのだろう。「欠落」は恋の言葉ではないし、次の句で恋に転じられることもない。
 前句の「うり家」の原因を住人の失踪とし、春の黄昏に霞を添える。
 五十二句目。

   欠落の跡は霞の立替り
 雪崩れする其岩のはな      幽山

 春になると雪が融けて雪崩が発生する。岩鼻だから雪庇の崩落か。
 前句の「欠落」を雪庇の欠け落ちることとする。
 五十三句目

   雪崩れする其岩のはな
 松明の煙につづく白湯かた    信章

 「湯かた」は本来は湯帷子(ゆかたびら)だが略してそう呼ばれる。「浴衣」とも書く。コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「近世以前,蒸風呂での入浴の際着用した麻の湯帷子(ゆかたびら)の略。江戸時代以後現在のように裸体で入浴するようになって,浴後に着る木綿の単(ひとえ)を浴衣というようになり,暑中の外出にも用いられるようになった。白地または藍(あい)地の鳴海(なるみ)絞や中形(ちゅうがた)などが多く用いられる。」

とある。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注には「行者の服装」とあるが、行者の着る白い衣は「鈴懸(すずかけ)」で、これを白ゆかたと呼ぶこともあったのか。
 あくまで風呂で着る浴衣だとしたら、あるいは山の中の温泉の風景なのかもしれない。この翌年の桃青・信章の両吟「此梅に」の巻の三十二句目に、

   たまさかにこととふ物はげたの音
 なを山ふかく入し水風呂     信章

の句がある。
 五十四句目。

   松明の煙につづく白湯かた
 果しあふよに出あへや出あへ   宗因

 この句が難しいのは、結局この松明に続く白浴衣の人たちが何者なのかが特定できないからだ。当時の人には多分すぐにわかったのだろう。
 白浴衣が行者だとしても、何でそれが果し合いになるのかわからない。
 かなり後のことだが享和元年(一八〇一)に足達八郎が杖立温泉で決闘をして六人を斬るという事件が起こるが、宗因の句にも何か当時の人なら知っている元ネタがあったのかもしれない。
 五十五句目。

   果しあふよに出あへや出あへ
 声高のみなもと聞ば衆道也    磫畫

 果し合いは衆道のいさかいだった。衆道ネタというと芭蕉も得意だが、宗因の句にもあるし、当時は俳諧には付き物のネタだったのだろう。磫畫も大徳院のお坊さんだから、この道には詳しいのかも。
 元禄七年の「鶯に朝日さす也竹閣子 浪化」の句を発句とする歌仙の十二句目に、

   小屋敷並ぶ城の裏町
 謂分のちょっちょっと起る衆道事 去来

の句がある。
 俳諧に登場する衆道には性奴隷のような悲惨さは見られない。遊女の句とは明らかに違う。
 五十六句目。

   声高のみなもと聞ば衆道也
 よりて芝居の垣間見をせん    吟市

 衆道と芝居との間には深い係わりがあった。女性による歌舞伎が売春に係わるなど風紀上の問題で寛永六年(一六二九)に禁じられ、今日のように男ばかりで歌舞伎が上演されるようになったが、そこにもやはり男娼による売春が行われていたりした。江戸中期になると陰間茶屋が芝居小屋に併設されるようになる。
 衆道の呼び込みの声に誘われて、芝居をちょっと覗いて行くということもあったのだろう。
 五十七句目。

   よりて芝居の垣間見をせん
 おもほえず古巾着の銭をさぐり 又吟

 又吟さんの二回目の登場。
 芝居を見るためにふところの巾着に銭があったかどうか探る。日常の何気ないことをそのまま詠んだ感じだ。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は『伊勢物語』第一段を引用している。

 「その里にいとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。 思ほえずふる里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。」

の「かいまみてけり。 思ほえず」が歌てにはのように上句と下句を繋いでいる。
 後の「軽み」の時代なら、この出典は必要なくなっていたかもしれないが、当時としては証歌や出典が必要だったのだろう。
 又吟も目立たないが、ちゃんとそういう技術を身につけた連衆だったと思われる。
 五十八句目。

   おもほえず古巾着の銭をさぐり
 めくら腰ぬけ夢の世中     似春

 「腰ぬけ」は本来は腰が悪くて立てない人のことで、転じて臆病者のことになった。
 目の不自由な人、腰に障害のある人、見ていて思わずお金を恵んであげたくなる。障害が有ろうともなかろうとも、ともに夢のように儚い人生、せいぜい助け合って楽しく生きていこうではないか。
 五十九句目。

   めくら腰ぬけ夢の世中
 慮外者さはらばなどと肱を張  幽山

 「慮外者(りょがいもの)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「不埒な者。慮外な人。無礼者。特に、武士に対して無礼なことをした者をいうことが多い。
 ※俳諧・鷹筑波(1638)二「君が代に春たったりや慮外(リョクヮイ)者〈宗次〉」

とある。
 巾着袋を探るものもいれば、寄るな触るなとばかりに肱を張って威嚇する者もいる。こういう心ない輩を慮外者という。いったいどっちがめくらで腰抜けなのか。
 六十句目。

   慮外者さはらばなどと肱を張
 上様風の吹旅の空       少才

 前句を「慮外者!さはらば」で台詞とし、上様風を吹かしている偉そうな旅人とする。

2019年6月23日日曜日

 今日は沖縄慰霊の日で、悲惨を極めた太平洋戦争末期の沖縄戦が、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将の自決によって事実上終了した日だという。
 司令部の自決は戦争の責任者としてまだわかるとしても、名もなき庶民までが自決を強いられたことはまったく馬鹿げたことだった。生き延びて、そこで地にへばりついてでも暮らしているという既成事実があってこそ、領土は守ることができる。
 沖縄は今でも中国と何かあった場合、戦場となる危険を孕んでいる。近海を常に中国の軍艦がうろうろしている状況で、本土とは比べ物にならないほどの緊張があるのは理解しなくてはならない。
 でも、できれば沖縄の人には今の資本主義経済の自由と豊かさを守る側に来て欲しいと思う。まあ、中国の夢を選ぶなら止めることはできないし、最も困難な非武装中立の道が可能ならそれに越したことはないが。
 いずれにせよ鈴呂屋こやんは平和に賛成します。
 それでは世間話はこれくらいにして、「いと凉しき」の巻の続き。

 三十一句目。

   夏花やつつじ咲匂ふらん
 あの山の風をもがなと窓明て   少才

 花の咲き匂うに窓を開けると、一応付け合いではあるがシンプルな軽い付けで流した。
 三十二句目。

   あの山の風をもがなと窓明て
 月の前なる雲無心なり      幽山

 風が欲しいというのを、月の前に雲があるからだとした。
 この場合の「無心」は心無いという否定的な意味。
 三十三句目。

   月の前なる雲無心なり
 露時雨ふる借銭の其上に     宗因

 前句の「無心」を金の無心とした。「経る借銭のその上に」「無心なり」とつながる。
 それに「ふる」を導き出すように「霧時雨」を序詞のように用いて、風雅な言葉を使いながら借金の話に落とす。
 庶民の言葉がまだ風雅に取り入れられていなかった比の特有の手法で、雅語を基調としながらいかに世俗の話題を取り込むかという工夫でもあった。
 「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗とが平行して描かれる。
 三十四句目。

   露時雨ふる借銭の其上に
 見し太夫さま色替ぬ松      吟市

 「さま」は合略仮名で記されている。
 太夫は遊女の最高位で、当時はまだ夕霧太夫が現役だった。
 ここも「霧時雨」に「色替ぬ松」の雅を基調に、「借銭の其上に見し太夫さま」という俗とが平行して描かれる。
 太夫様が出たところで恋に転じる。
 三十五句目。

   見し太夫さま色替ぬ松
 空起請煙となるも理や      幽山

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に謡曲『鉢木(はちのき)』の「松はもとより煙にて、薪となるも理や。」の一節が引用されている。「いざ鎌倉」の由来とされる佐野源左衛門常世の物語で、北条時頼をもてなすのに鉢植えの梅や桜や松を惜しげもなく火にくべて暖を取らせる。
 ここでも「色替ぬ松」の「煙となるも理や」という雅の文脈、「見し太夫さま」「空起請煙となるも理や」の俗とが平行して描かれる。
 「空起請(そらぎしょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「いつわって誓いをたてること。また、その文書。空誓文。」

とある。
 三十六句目。

   空起請煙となるも理や
 夜討むなしき野辺の夕暮     宗因

 ここでは恋は二句で去る。
 「新古今集」の哀傷歌に、

 あはれ君いかなる野辺の煙にて
     むなしき空の雲となりけむ
                 弁乳母

の歌がある。
 前句の「空起請」を主君への偽りの誓いとし、誓いを立てておきながら裏切って夜討ちにされ、野辺の煙(火葬の煙)となった。

 二裏。
 三十七句目。

   夜討むなしき野辺の夕暮
 あてのみの酒気を風や盗むらん  似春

 「当て飲み(あてのみ)」はgoo辞書の「デジタル大辞泉(小学館)」に、

 「他人の懐を当てにして酒を飲むこと。
 「舌を吐きつつ口に手を、―は現 (げ) に盗 (ぬすびと) 上戸」〈読・八犬伝・三〉」

とある。
 前句の夜討を単なる比喩として、せっかく人の金で只で酒を飲めたのに、その酔いも風に当たってすっかり醒めちまった。こいつあ風めの夜討ちにあったようなものだ、となる。
 三十八句目。

   あてのみの酒気を風や盗むらん
 雨一とをり願ふ川ごし      又吟

 又吟さんは初登場だが詳細は不明。
 当て飲みの酒の酔いも風が吹いたら醒めてしまいそうだ。ここらで雨でも降って川留めになれば、帰らずにそのまま飲み続けられる。
 三十九句目。

   雨一とをり願ふ川ごし
 名号の本尊をかけよ鳥の声    木也

 鳥の声はホトトギスの声で、「テッペンカケタカ」とも言うが「本尊掛けたか」とも言う。
 ホトトギスは和歌では夜の雨とともに詠まれることが多い。

   ほととぎすをよめる
 心をぞつくし果てつるほととぎす
     ほのめく宵のむら雨さめの空
               藤原長方(千載集)
 いかにせん来ぬ夜あまたのほととぎす
     待たじと思へばむら雨の空
               藤原家隆(新古今集)
のようにホトトギスを待っていたら雨が降ってきてしまったというものもある。
 この場合も前句を「雨一とをり、願ふ川ごし」と切り離し、「名号の本尊をかけよ鳥の声」と雨が一降りするなかを「願ふ川ごし」と結ぶ。
 四十句目。

   名号の本尊をかけよ鳥の声
 それ西方に別路の雲       信章

 「別路の雲」は紫雲のことか。『校本芭蕉全集 第三巻』の注にもそうある。
 紫雲はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「紫色の雲。念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎(らいごう)する雲。吉兆とされる。」

 西方浄土へといざなわれる。

 四十一句目。

   それ西方に別路の雲
 口舌事手をさらさらとおしもんで 吟市

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注は謡曲『船弁慶』の「数珠さらさらとおしもんで‥‥西方大威徳」のフレーズを引用している。最後の地歌の部分で、名古屋春栄会のホームページから引用しておく。

 「そのとき義経すこしもさわがず.うちものぬき持ちうつつの人に。向うが如く。ことばをかわし戦い給えば。弁慶おしへだて.うち物わざに叶うまじと。数珠さらさらとおしもんで。東方降三世南方軍陀利夜叉西方大威徳北方金剛夜叉明王中央大聖不動明王のさっくにかけて。祈りいのられ悪霊次第に遠ざかれば。弁慶舟子に力をあわせ。お舟を漕ぎのけみぎわによすれば.なお怨霊は。したい来たるを。追っぱらい祈りのけ.また引く汐にゆられ流れ。またひく汐にゆられ流れて。あと白波とぞなりにける。」

 「口舌事(くぜつごと)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「男女関係についての言い争い。痴話げんか。くぜげんか。
 ※俳諧・江戸八百韻(1678)赤何「恋の大峯分そむるなり〈泰徳〉 口舌事うき身に添へる鬼二人〈言水〉」

とある。前句の「別路の雲」をきぬぎぬのこととして恋に転じる。
 四十二句目。

   口舌事手をさらさらとおしもんで
 しら紙ひたす涙也けり      桃青

 さあ久しぶりに芭蕉さんの登場。
 夫婦のいさかいに涙だけなら何の変哲もない句だが、そこに「おしもんで」「しら紙ひたす」という別の文脈を組み込む。これは「揉み紙」という和紙の製法による。
 「浅倉紙業株式会社 (ショールーム 紙あさくら)のブログ」のサイトに、

 「お客様のご依頼で、揉み和紙を製作しました。
 市場によく出回っている楮和紙の場合は、あらかじめ霧吹きなどでほんの少し水分を与えてから揉むと、キメ細やかなシワが出来ます(もんだ後は乾燥して下さいね)。和紙によっては、水分をほんのりではなく、しっかりと含ませて揉む「水揉み」を行う事もあります。」

とある。当時の旅に欠かせない紙子もコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「紙衣とも書く。紙で作った衣服。上質の紙を産する日本独自のもので,古くから防寒衣料や,寝具に用いられた。はり合わせた和紙をよくもみ,柿渋を塗って仕上げたもので,防寒用の胴着や下着に用いられた場合が多いが,木版で美しい模様をつけ,上着にしたものもある。産地は奥州白石,駿河安倍川などであった。」

とある。
 宗因が三十三句目で見せた「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗を並行させる技法の応用で、「さらさらとおしもんでしら紙ひたす」の揉み紙の製造工程と、「口舌事手をひたす涙也けり」の恋を並行して描いてみせる。宗因の技を盗んでさらに応用まで利かせてしまう芭蕉さんは、やはり恐るべし。
 四十三句目。

   しら紙ひたす涙也けり
 高面をのぞく障子の穴床し    少才

 「高面(たかめん)」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「高免 高率の田租」とある。ただ、ここで租税の話に転じてしまうと、次の句でまた『源氏物語』の恋の場面に戻って輪廻になってしまうので、ここは「たかつら」のことではないかと思う。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「高く盛りあがっている頬(ほお)。また、頬の盛り上がったところ。また転じて、頬。
 ※大日経承暦二年点(1078)五「面(タカツラ)円満せむ、端厳して相ひ称へらむ」
 ※有明の別(12C後)二「御めもはなもくちもたかつらも、いとおほきにこだいにて」

とある。威厳のある顔をいう。女房達がその顔を一目見ようと障子に穴をあけ、「あなゆかし」となる。「ゆかし」は惹きつけられるということで、恋の句が続いていると見た方がいい。
 四十四句目。

   高面をのぞく障子の穴床し
 ゆびのさきなる中川の宿     宗因

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「源氏物語の空蝉の巻に、中川の宿

で源氏が空蝉・軒端荻を覗見することあり。」とある。
 京極の中川は今では失われた川で、京極川ともいう。源氏の君は方違えのためにここにある紀伊の守の家に行く。そこで、

 「君は、とけてもねられたまはず、いたづらぶしとおぼさるるに御めさめて、この北のさうじのあなたに人のけはひするを、こなたや、かくいふひとのかくれたるかたならん、あはれやと御こころとどめて、やをらおきてたちぎき給(たま)へば、ありつる子のこゑにて」
 (源氏の君はくつろいではいても眠れなくて、期待はずれの一人寝になってしまったと思うとすっかり目が冴えてしまい、この北側の障子の向こうに人の気配がするのを、こっちの方に例のあの女房がいるのかと思うと、高鳴る胸を圧し留めながら、やおら起きて立ち聞きをしていると、さっきの弟君の声がして)

となる。障子に穴はあけてないが、本説を取る時に談林の時代には少し変えてもいいようになったのだろう。本説もそのまんまではなく、設定の変更なんかも段々大きく許容するようになっていったとき、「俤付け」に自然に移行していったのかもしれない。
 四十五句目。

   ゆびのさきなる中川の宿
 蒔絵さへ寺町物と成にけり    幽山

 京の寺町は、寺町京極商店街のサイトによると、

 「現在の通り名としての「寺町通」の誕生は、天正18年(1590)。
 豊臣秀吉による京都大改造計画の一環で、洛中に散在していた寺院をこの地(東京極大路の在ったあたり)の東側に移転させたのがきっかけで「寺町」の名前が付きました。
 浄土宗・法華宗(日蓮宗)・時宗の諸寺院が整然と並べられており、その数約80か寺におよびます。
 門前町としての体裁が整ってくるに従って、商店街も形成されてきます。17世紀末前後から、位牌・櫛・書物・石塔・数珠・鋏箱・文庫・仏師・筆屋などの寺院とタイアップしたお店が並びます。
 さらに、張貫細工・拵脇差・唐革細工・紙細工・象牙細工・煙管・琴・三味線などの細工人もこの通りに沿って集住しています。」

 延宝の頃から少しづつ仏具や骨董を扱う店が立ち並び始めていたか、蒔絵がここ寺町で売られていることもあったのだろう。寺町から中川はほんの指の先。
 四十六句目

   蒔絵さへ寺町物と成にけり
 数寄は茶湯に化野の露      似春

 「化野(あだしの)」は江戸時代には鳥野辺とともに火葬の地だった。
 京都には茶の湯にふさわしい名水がたくさんあるが、化野の露は何とも悪趣味で、まあ生死を超越したということなのか。
 四十七句目。

   数寄は茶湯に化野の露
 石灯篭月常住の影見えて     桃青

 儚い露に常住の月を対比させる。向え付け。
 四十八句目。

   石灯篭月常住の影見えて
 雪隠につづく築山の色      磫畫

 前句を広いお寺の庭か何かとした。常住不滅の真如の月という高い理想を掲げたあとは「雪隠」でシモネタに落とす。これはこれで正解とすべきか。
 四十九句目。

   雪隠につづく築山の色
 ますき垣南山幷に花の枝     宗因

 コトバンクの「垣(かき)」の「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「建物や敷地などの周囲を囲むように作られた工作物や植栽で,材料,形式によって多くの種類がある。塀もほぼ同じ意味で使われ,築地(ついじ)は築地塀あるいは築垣(ついがき)とも呼ばれた。一般に,板塀や土塀のように表面が連続して平滑な面をなすものを塀,間隙の多いものを垣と呼ぶ傾向がある。」

とある。ただ、生垣などは向こう側が見えないから、向こう側が見えるような隙間の多い垣を「間隙(ますき)垣」というのだろう。
 南山は漢詩によく詠まれる廬山のことで、特に陶淵明の「飲酒二十首」の其五の、「采菊東籬下 悠然見南山(菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る)」のフレーズは有名だ。
 前句の築山を雪隠の間隙垣から見た景色とし、それを廬山に喩え、さらに花を添える。
 まあ、陶淵明まで持ち出して、見事に前句のシモネタを救ったということか。一応大徳院主だし。
 五十句目。

   ますき垣南山幷に花の枝
 うり家淋し春の黄昏       吟市

 白楽天の「三月三十日題慈恩寺」の詩句に、

 惆悵春歸留不得 紫藤花下漸黄昏
 惆悵(ちうちゃう)す春の歸るは留め得ざるを、
 紫藤の花の下漸く黄昏

と、春の終わりの黄昏を詠んだものがある。ただそれでは俳諧にならないので、うり家という卑俗な題材を出して落としている。