2019年3月31日日曜日

 今日は近所でお花見。ソメイヨシノは八分咲きといったところか。このまま花冷えが続いてくれれば来週もまだ咲いているかな。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、下巻ニ、
 名月や座にうつくしき㒵もなし      翁
 此句、『名月の座にうつくし』とあり。此発句にて一歌仙あり。予うつし置ぬ。
 名月の『名』の字に、明の字如何。名月ハ八月十五日一日也。明月ハ四季に通ズ。明の字、書事あるや。かかぬ法とハきき侍りぬ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.121)

 この句の元の形は、

 月見する座にうつくしき顔もなし    芭蕉

で、元禄三年八月十八日付の加生(凡兆)宛書簡に見られる。「名月散々草臥、発句もしかじか案じ不申候」とあり、八月十五日の句ではないようだ。
 歌仙もこの形で、享保七年刊の『夕がほの歌』に収録されている。尚白との両吟で、表六句は以下のとおり。

 月見する座にうつくしき顔もなし    芭蕉
   庭の柿の葉みの虫になれ      尚白
 火桶ぬる窓の手際を身にしめて     仝
   別当殿の古き扶持米        芭蕉
 尾頭のめでたかりける塩小鯛      仝
   百家しめたる川の水上       尚白

 書簡は興行について触れてないが、八月十八日より後の可能性もある。
 許六の写し持っていた歌仙の発句の上五が「月見する」だったのか「名月の座にうつくし」と直されていたようだ。芭蕉自身が直したのか、定かではない。
 公刊されたのは風国編の『初蝉』が最初で、

「名月や兒たち並ふ堂の橡       芭蕉

とありけれと此句意にみたすとて

 名月や海にむかへは七小町      仝

と吟しても尚あらためんとて

 明月や座にうつくしき皃もなし    仝

といふに其夜はさたまりぬ
   これにて翁の風雅にやせられし事を
   しりて風雅をはけまん人の教なるへ
   しと今茲に出しぬ」

とある。
 三句とも『初蝉』が初出なので、この記述を信じるしかないだろう。芭蕉が興行の前に発句をいくつか作ってその中の一つを選ぶことは、「此道や」の句と「人声や」の二句を支考に選ばせた例でも知られる。尚白との両吟興行の前に、三句候補を作ったことは十分考えられる。
 ただ、このとき成立した句の上五は「月見する」で、「明月や」は後に芭蕉が作り直したものであろう。
 『三冊子』「あかさうし」にも、

 「明月や座にうつくしき貌もなし
 此句、湖水の名月也。名月や兒達並ぶ堂の縁、としていまだならず。名月や海にむかへば七小町、にもあらで、座にうつくしき、といふに定まる。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.117)

とある。
 名月か明月かについての議論は、『去来抄』にも見られる。

 「去来曰、許六と明月の明の字を論ず。
 予は第一、八月十五夜婁宿也。清明を用ゆる。
 第二、和歌にも今宵清明を詠メり。
 第三、詩にも清明の字有あり。
 第四本朝の習ならひ字儀叶ふをかり用る事有。
 富士を不二、吉野を芳野と書るがごとし。先達も明の字書れたる多し。

明の字書て苦しからじといふ。
 許六曰いはく、明月と八月十五夜とは和歌題格別也。名月は良夜の事也ことなり。名月に明の字は未練といふ。此論至極せり。若し明月の題を得て、中秋の月を作せば放題なるべし。名月に明の字を書間敷事必せり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.57)

 明月は清明の頃の月で秋の月に用いられたことはあったのだろう。これに対し「名月」は八月十五日の中秋の名月に限定される。許六の論はそこに極まる。
 ただ、芭蕉の「明月に」の句が八月十五日の興行ではなかったとしたら、「名月」ではない。書簡からそのことは確認できる。ゆえに「明月」でOKとしたい。
 問題は「明月や」の「や」の切れ字のほうだが、確かに「皃(かほ)もなし」を結んで「や」は変な感じがする。許六の言うとおり、

 明月の座にうつくしき皃もなし

の方が収まりが良い。この形のほうが芭蕉らしい感じがする。
 ただ、許六が書き写したという情報だけで、証明するとなると難しい。今は「明月や」の形で通っているが、後に真蹟が発見されれば定説が覆る可能性はある。
 「うつくしき皃もなし」は両吟の発句と見れば、「二人っきりだね」という意味になる。稚児たちがいなくても、七小町がいなくても、君がいればいいんだよって、芭蕉さんそれは‥‥。
 尚白はこのとき四十。当時としては初老で、まあ「うつくしき顔」ではないだろうけど。

2019年3月30日土曜日

 ジュゴンが死んで十日が過ぎたが、未だに死因についての発表がない。
 最初の報道では傷がどうのこうのとあって、右翼左翼両方でアンタが殺したみたいになってたが、ジュゴンネットワーク沖縄の細川太郎事務局長さんは、死につながるような傷などは確認できなかったとしている。
 ただ、政治的に利用価値がないとなると、そのまま報道の方が沈黙してしまう可能性がある。それではジュゴンも浮かばれない。浮かんでいたのに。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、上巻に、
 笠持て鵜篭をのぞく宵月夜  ヒコ子 朱廸
 『笠持て』にてなし。『箸持て』也。やがて立出むと、したためなどしながら、鵜篭をのぞくさま也。
 下輩の情をよくいひなし、よき俳諧なりと作者も自慢せしに、『笠持て』にて、作者も力おとし侍る。これらハ見あやまりにして、しいてあやまりにあらず。次でに爰に記ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.119)

 朱廸(しゅてき)も彦根の作者で、許六に語ったのであろう。

 箸持て鵜篭をのぞく宵月夜     朱廸

 当時の鵜匠の暮らしがどうにも思い浮かばないので、すんなりと伝わる句ではないが、当時はすぐにわかる句だったのだろう。
 「鵜篭」は鵜飼に使う鵜を入れておく篭で、取れた魚を入れておく吐き篭とはちがう。箸を持って鵜篭を覗くというのがどういう場面なのかはよくわからないが、当時のあるあるだったのだろう。
 「やがて立出むと、したためなどしながら、鵜篭をのぞくさま也」と許六が言うのだから、これから漁に出ようとする時に、準備のために鵜篭を覗く場面には違いない。箸を何に使うのかがよくわからない。
 「宵月夜」は鵜飼が月が沈んで真っ暗になってからはじめるものなので、準備の頃はまだ月が出ているという意味。
 「見あやまり」というのは、草書で書いたとき「笠」と「箸」は棒一本多いくらいで似ているから、そう判断したのだろう。

 「一、上ニ、
 おもしろうやがてかなしき鵜舟哉   翁
 此句、五文字にて文字あり。則校考に見えたり。
 其上、晋子が方より申こし侍るなどまで書侍るならバ、委敷あら野集を見せたし。
 此句あら野に出て、一天下三歳の童子までおぼえたる句也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.119~120)

 「五文字にて文字あり」は、「五文字に『て』文字あり」で、「おもしろう」のあとに「て」の字があったというもの。即ち句は今に伝わる通り、

 おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉  芭蕉

になる。『阿羅野』に収められている。当時は三歳の子供でも知っている句だったという。

 「一、下巻に、
 七夕やいはむ事なし夜半過   イガ 猿雖
 此『七夕や』の『や』もじ、うたがひのや也。『事なし』と切字二ツ入たり。
 『七夕や』の『や』字、曾ていらぬ字也。入て慥ニならず。
 何事ニ『七夕や』とハうたがひ侍りけるぞ。下にてハ、『いはん事なし』と決定して、上にうたがひ、益なし。『七夕の』歟、ハとかあるべき句也。かやうの文字加筆する事、撰者の役也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.120)

 今日のように詠嘆の「や」に慣れていると、許六のこの指摘は「はあ?」って感じで、昔の人の文法知識はこの程度だったかということになりかねないが、許六は芭蕉などが用いていた古い係助詞的な「や」の用法を知った上で言っている。間違いはない。
 系助詞的な倒置により、疑問の「や」を前に持ってきた用法で、それゆえ他の助詞に変わることができる。

 七夕のいはむ事なし夜半過
 七夕ハいはむ事なし夜半過

 こちらの方が収まりが良い。これが芭蕉の時代の感覚だ。
 蕪村の頃になると詠嘆の「や」が広まり、今日の言語感覚に近くなる。

 「愚が集の時、カガ北枝が句ニ、
 かべ土の道せばめけり花盛
ときこえたり。『かべ土の』といふ『の』の字きこえず。『かべ土に道せばめけり』と加筆せし事あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.120)

 文庫版の注にもあるが、『韻塞』(許六・李由撰)には、

 壁土に道せばめけり花ざかり    句空

とある。手直しされたことに北枝が不服で、弟子の名にして載せたのかもしれない。
 壁土は土壁のことで、土を塗った壁は分厚く、その分道が狭くなるし圧迫感もある。
 蔵や立派な屋敷の壁に用いられるので、道を狭くしているのはもっぱら金持ちだ。せっかくの花盛りだというのに無風流な、といったところか。
 「壁土の」でも「壁土が」の「が」に変わる「の」で、意味が通らなくはない。ただ、「壁土の道」まで一続きに読んでしまうと、壁土の道が何で狭くなったのかと取られやすくなる。「壁土に」の方がわかりやすい。
 ただ、北枝の意図としては、壁土に区切られた道を人がたくさん通るから花盛りの時には道が狭く感じるという意味だったのかもしれない。これだと「壁土の」の方がいい。

2019年3月28日木曜日

 『俳諧問答』の続き。

 「一、上巻ニ、
 夏草に肥たり鹿のむしり喰ひ    惟然
 「肥たり」と切て、又「鹿のむしり喰ひ」、かやうのてにハるづきあるべしともおもえず。
 句の心かくれたる所なければ、其分にききなして、人々をくと見えたり。眼あるもの一度にらむ時ハ、一字もゆるさず。
 六百番の歌合等の詞を見るに、つづき・いひくだし、大事ニ論じ給ふ事、翁の俳諧専ラ俊成卿の論にかハる事なし。
 又定家の卿ののたまひける、歌ハつづけがらにてよくもあしくもなる、柿の本のつつミといへるとのたまひけるたぐひ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.117~118)

 句意は明瞭で、鹿が夏草をむしり喰いするので太ったということだ。それをおそらく、「夏草に肥えたり」で始めることで、聞く人が「何で?」と思ったところで「鹿のむしり喰ひ」で落ちにしている。「鹿のむしり喰いて夏草に肥えたり」の倒置。
 まあ、意味が通るからと、人々のこれでいいと思いがちだが、許六さんは眼のある人だから、「一度にらむ時ハ、一字もゆるさず。」となる。別にいいじゃないかと思うが、こういううるさい人がいるからこそ、当時の文法についての手懸りを今日に残してくれているといってもいい。
 何が悪いのかというと、倒置にする時に「むしり喰いて」の「て」が抜け落ちて「鹿のむしり喰い夏草に肥えたり」の倒置になってしまったということだろう。「て」があれば原因結果の関係が明瞭になる。「て」が抜ければ、「鹿のむしり喰い、夏草に肥えたり」と二つの文章に割れてしまう。それが続きの悪さの原因ではないかと思う。
 たいたい鹿というのは一年中むしり喰いするもので、夏は草が豊富だから肥えるというだけのことだ。
 多分「むしり喰い」という言葉が俳言として面白いので、使ってみたかったのだろう。だがここでは、倒置にして落ちをつけるという続き方の方に目が行き、「むしり喰い」という言葉自体が生かされてないように思える。

 むしり喰い鹿は肥えたり夏の草

の方がまだ良かったのではないかと思う。

 「一、いせ萩や鵜の涼む夜の風の音  彦根 馬仏が句
 是荻を萩とよみあやまり、進むを涼むとよみ違ひたると見えたり。
 すすむの字ニハ、進の字をはたに付て遣したる也。かやうの見あやまりハさもあるべし。
 しかし伊勢萩にてハ、一句きこえがたし。何とききなして、撰集へハ入給ふぞ、いぶかし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.118)

 この句は正しくは、

 いせ荻や鵜の進む夜の風の音

だという。彦根の作者だから、作者自身が本当はこうだったと許六に語ったのか。
 いせ荻は『菟玖波集』の、

   草の名も所によりてかはるなり
 難波の葦は伊勢の浜荻       救済

から来たもので、芦の別名。ただ、芦だけだと季語にならない。この句の場合は「荻」の字があるから秋になるのであろう。そうなると「涼む」という夏の季語が邪魔になる。
 句意としても「萩の下露荻の上風」と言われるように、荻吹く風の悲しげな中に鵜の泳ぐ様を詠んだのであろう。「鵜の進む夜のいせ萩の風の音や」を「いせ萩の鵜の進む夜の風の音や」と倒置にして、さらに「や」を倒置して前に持ってきてできた句だ。
 これを、

 いせ萩や鵜の涼む夜の風の音

にしてしまうと、確かに意味がよくわからない。撰者があえてこの句を採ったのか、それとも出版する段階で清書した人が聞き違えたか、多分後者であろう。

 「『いせの浜荻』といふ事を五文字ニいはば、『いせ荻』とハいはれべきものと、作者の発明也。證歌あるニ非ズ。本歌あらバおかしからず。
 『いせ荻』と、てにはをぬきていふもあるべし。『いせ浜の荻』とハいひがたからんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.118~119)

 「伊勢の浜荻」という言葉は古くからあるし、歌にも詠まれた雅語で、

 あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて
     妹恋しらに見つる月かな
              藤原基俊(千載集)

の例がある。ただ、「伊勢荻」という雅語があったことを証明する證歌はない。作者である馬仏の造語だという。この種の俳言は俳諧の常で厭うものではない。ただ「伊勢浜の荻」だと単に伊勢の浜に生えている荻になってしまうので微妙な所だ。「伊勢荻」だとそういう特別な種類の荻(通常の荻とは別物)があるという連想が働く。

2019年3月27日水曜日

 東京都心部の桜に満開宣言が出たが、実際は六分咲きくらいの印象を受ける。
 日本気象協会によると、「満開日は標本木で80%以上のつぼみが開いた状態となった最初の日」だそうで、靖国神社にある標準木が八部咲きになったら満開と言っていいというわけだ。
 まあ、早く満開宣言をした方が景気付けになるというところか。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「一、上巻ニ
 春風や焼野の灰の跡もなし  長サキ 笑計
 是又同じ事也。
 「跡もなし」といひ切て、「春風や」とうたがひのやいかが。
 是も二ツ切字入たり。古来ハ五文字ニやとしてハ、中ノ七字にてとおかせず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116~117)

 「や」の用法は時代によって変化し、特にこの頃からちらほらと詠嘆の「や」のような用例が出てくる。蕪村の時代になると、

 菜の花や月は東に日は西に     蕪村

のように詠嘆の「や」が定着し、近代に至っている。
 蕪村のこの句は、

 菜の花に月は東に日は西に
 菜の花の月は東に日は西に
 菜の花は月は東に日は西に
 菜の花を月は東に日は西に
 菜の花と月は東に日は西に

など他の助詞に置き換えても意味が通じない。これに対し芭蕉の時代は他の助詞に変えて意味の通るものがほとんどだ。
 鈴呂屋書庫の『奥の細道─道祖神の旅─』の「七夕の二句」のところで、芭蕉の句で「や」と別の助詞と入れ替わっているものがたくさんある事に触れた。ここでも示しておく。
 1、「は」と「や」の入れ替わっているもの

 俤や姨ひとり泣月の友   『更級紀行』
 俤は姥ひとりなく月の友『芭蕉庵小文庫』

 曙はまだむらさきにほととぎす (真蹟)
 あけぼのやまだ朔日にほととぎす『芭蕉句選拾遺』

 大津絵の筆のはじめは何仏  『勧進牒』
 大津絵の筆のはじめや何仏  『蓮実』

 名月はふたつ有ても瀬田の月 『泊船集』
 名月やふたつ有ても瀬田の月『蕉翁句選』

 降ずとも竹植る日は蓑と笠  『笈日記』
 降ずとも竹植る日や蓑と笠 『こがらし』

 2、「の」と「や」の入れ替わっているもの

 さびしさの岩にしみ込む蝉のこゑ 『こがらし』
 淋しさや岩にしみ込むせみの声 『初蝉』

 中山の越路も月は又いのち 『芭蕉翁句解参考』
 中山や越路も月は又いのち 『荊口句帳』

 文月の六日も常の夜には似ず 『泊船集』
 文月や六日も常の夜には似ず『奥の細道』

 国々の八景更に気比の月  『荊口句帳』
 国々や八景更に気比の月 『芭蕉翁句解参考』

 さみだれの雲吹おとせ大井川 『笈日記』
 五月雨や雲吹落す大井川『芭蕉翁行状記』

 名月の花かと見へて棉畠   『続猿蓑』
 名月や花かと見へて綿ばたけ 『有磯海』

 松風の軒をめぐって秋くれぬ 『泊船集』
 松風や軒をめぐって秋暮ぬ  『笈日記』

 白菊の目にたてて見る塵もなし『笈日記』
 しら菊や目にたてて見る塵もなし 『矢矧堤』

 3、「に」と「や」の入れ替わっているもの

 須磨寺に吹ぬ笛きく木下やみ『続有磯海』
 須磨寺やふかぬ笛きく木下やみ 『笈の小文』

 柚花にむかし忍ばん料理の間『蕉翁句集』
 柚花や昔しのばん料理の間 『嵯峨日記』

 草の戸に日暮れてくれし菊の酒 『きさらぎ』
 草の戸や日暮れてくれし菊の酒『笈日記』

 夕顔に酔て顔出す窓の穴  (芭蕉書簡)
 夕顔や酔てかほ出す窓の穴  『続猿蓑』

 4、「を」と「や」の入れ替わっているもの

 その玉を羽黒にかへせ法の月 『泊船集』
 其玉や羽黒にかへす法の月 (真蹟懐紙)

 あさむつを月見の旅の明離 『荊口句帳』
 あさむつや月見の旅の明ばなれ 『其袋』

 行春を近江の人とをしみける  『猿蓑』
 行春やあふみの人とをしみける (真蹟懐紙)

 この道を行人なしに秋の暮 (芭蕉書簡)
 此道や行人なしに秋の暮    『其便』

 5、「と」と「や」の入れ替わっているもの

 川上とこの川下と月の友   『泊船集』
 川上とこの川しもや月の友  『続猿蓑』

 許六がここに示した、

 春風や焼野の灰の跡もなし     笑計

の句は、

 春風に焼野の灰の跡もなし

で意味が通じる。だからこの「や」は詠嘆とは言えない。疑いの「や」で正しい。「春風に焼野の灰の跡もなきや」の倒置になる。だから、

 春風や焼野の灰の跡もなき

ならまだわかる。ただ意味的にここは疑う場面かどうかというと、春風が吹いて草が一斉に萌え出でて、野焼きした痕跡が瞬く間に消えてゆくという意味で、疑う理由はない。だからこの場合は、

 春風に焼野の灰の跡もなし

の方がいい。

2019年3月26日火曜日

 今日は午前中雨が降った。午後から天気は回復し、ソメイヨシノもまた一段と開いたようだ。街路樹が桜のトンネルになりつつある。
 それにしても、蕉門の俳諧のてにはの細かなニュアンスというのは、あの時代の言葉のネイティブではないので、なかなかわかりにくい。
 当時の人はダイレクトに理解できたことでも、今日ではただ推測するしかない。
 どんな言語の習得でも、結局文法学習だけでは駄目で、とにかく数多くの用例に接し、感覚的に鍛え上げていくしかないのだろう。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「文章に、「何久敷不能対面」と書てハ、何と云字きこえず。歌・俳諧ハ文章也。俳諧平話よろしといへ共、吟味とげての上ニ用ざる事ハ、つたなき事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116)

 「何久敷不能対面」は漢文っぽいが「久敷」って漢語なのか?ネットで見ると日本の漢文では習慣的に使われてるようだ。
 「何」が世俗の平話で俳諧にふさわしくないなら、「久敷」も日本語の「ひさしく」の当て字で本来の漢文ではないのではないか。

 「何の木の花ともしれぬ匂ひ哉
といへるハ、何の字、「匂ひ哉」と切字重畳せざるとおもへり。「花ともしれぬ」とまハり、「何の花の」とまハるゆへに、きこえ侍る也。「何風も吹ぬ日落る椿哉」とハまハらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116)

 これは芭蕉の句で、

 何の木の花とはしらず匂哉     芭蕉

が正しい。許六の記憶違いか。
 この句は省略されていて、「何の木の花とはしらず(に嗅いでいる)匂哉」になる。匂いは事実だが、「何の木の花とはしらず」は主観的な言葉で、哉で治定するにふさわしい。
 許六の言いたいのもそこで、「匂ひ哉」に「花とも知れぬ」が掛かり、それにさらに「何の花」と掛かるため、「何の木の花ともしれぬ匂ひ」が一まとまりの言葉になり、その全体を「哉」で治定しているから意味は明瞭だということだ。

 「芭蕉葉ハ何になれとや秋の風
 是「何」といひ、又「や」といひ候(候は文庫版では合略仮名で表記されている、フォントなし)へ共、「何になれとや」ハ、何といふ字のてにハの中ニて、外の言葉なし。かやうの発句いくらもあるべし。論ずるにたらず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.116~117)

 「何」と「や」は二つの切れ字ではなく、「何になれとや」で一つの言葉だということに異論はあるまい。

 「此次、さるミの何事も無言の中ハしづかなりの論、書入べし」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.117)

 文庫版の注には「この小書「板本」、「随本」にはなく、「五本」「去本」等には本文並みに書入れてあり、「露本」は小書にしてある。」とある。
 『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の、

   はきごころよきめりやすの足袋
 何事も無言の内はしづかなり    去来

の句について何事か書こうとして、そのことをメモしていたように思われる。
 「何事も」は疑問の「何」ではないので、切れ字にはならない。それに付け句だから本来切れ字はなくてもいい。
 「何事」といえば、

 何事ぞ花みる人の長刀       去来

という発句もある。

2019年3月25日月曜日

 『俳諧問答』の続き。

 治定(じじょう)はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」を見るとこうある。

 1 決定すること。落ち着くこと。〈和英語林集成〉
「連歌はなほ上手になりてのちも善悪をひしと―する事はかたし」〈連理秘抄〉
 2 きまりきっていること。また、そのさま。必定(ひつじょう)。
「それがしは、君を御代に出だし申すぞ。―なり」〈狂言記・七騎落〉
 3 連歌・俳諧で、推敲の結果、句形が決定すること。また、切れ字により1句の表現を完結すること。
「『や』と言ふ文字は―の切れ字」〈伎・名歌徳〉

 治定は断定ではない。いろいろ疑いがありながらも最終的に決定することを言う。
 付け句では、出勝で誰かが句を言い出ると、それを吟味して、あるいは他の案を考慮したり、若干語句を変えたりして最終的にこの句で行こうというのが治定だ。
 「哉」が治定だというのは、哉で言い切る言葉がたいてい主観的な内容で、比喩の場合が多い。

 木のもとに汁も膾も桜かな     芭蕉

の句は、汁や膾が物理的に桜になることはないが、心情的には桜も同然だということで、あえて断定を避ける感じで「なり」ではなく「哉」になる。

 八九間空で雨降る柳かな      芭蕉

の場合も、柳を雨に喩えたもので、その柳の大きさもきっちり計って八九間ということではない。やや大袈裟に木より遥かに大きな範囲で雨が降っているようだという意味。事実でないのでここも「なり」ではなく「哉」になる。
 では、

 鶯の笠落したる椿哉        芭蕉

はというと、やはり鶯が本当に笠を被っていたわけではなく、あくまで比喩で「笠を落としたような椿だ」という意味だから、ここも「なり」ではなく「哉」となる。
 これに対し、

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり    芭蕉

の場合は、本当に猿が小蓑を欲しがっているわけではないから「欲しげ哉」になってもよさそうだが、「欲しげ」の「げ」のなかに既に本当に欲しがってるのではないことが記されているため、重複しないよう「なり」になる。「猿も小蓑を欲す」だったら「哉」になる。

 「うぐひすの笠落したる椿哉
といへるハ、全体治定の哉也。「何風も吹ぬ日落る椿哉」ハ全体うたがひ也。上の何と云字きこえず。
 何風も吹ぬ日落る赤椿
と成共、白椿と成共いへば、成程きこえ侍る。又
 雨風のせぬ日も落る椿哉
といへ共、又きこえ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114~115)

 「うぐひすの」の句が全体治定なのはわかる。ただ「何風も吹ぬ日落る椿哉」は果して疑いかどうかは疑問だ。むしろ何の風も吹いてない日なのに椿が落ちたという事実を述べたという感じがする。たとすると治定の「哉」でも断定の「なり」でもなく、叙述の「けり」が良いように思える。

 何風の吹ぬも椿落ちにけり

が筆者的には正解だと思う。
 許六の、

 何風も吹ぬ日落る赤椿

は「何風も吹ぬ日赤椿落る」の倒置で、「落る」は治定でも断定でもない。「落ちにけり」に近い言い回しといえる。

 雨風のせぬ日も落る椿哉

だと「何」と「哉」の重複は避けられるが、「雨風のせぬ日も落る」が比喩でも何でもなく主観としては弱いので、治定の「哉」がそれほど生きているとは思えない。

 「何風といへるハ、風の惣名をすべていはむ為の五文字と見えたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.115)

 「惣名」は総称のこと。春風、そよ風、強風、春嵐、など風にもいろいろあるが、そのすべてということ。否定の言葉と組み合わされると、嵐どころかほんの微風すらないのに、という意味になる。

 「是世俗の平話にいひあやまりたる事を、歌・俳諧につらねたる詞也。
 此句にかぎらず、何といふ字多クいひあやまりたる句、世間にいくらも有。此論にてよくしれたり。
 何と云字の間に句を切て見侍れバ、落着よくきこえ侍る。
 惣別平話を文字に書違侍る事在リ。分別なしに書侍れバ、あやまり多し。たとへバ「何と久敷あハぬ」といへる詞など、何の字曽てきこえね共、下畧の詞也。其下に「無事なるや」といふ事を、何と云字にもたせたる言葉也。よくききしりて互ニ合点し来れり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.115~116)

 「何と云字の間に句を切て見侍れバ、落着よくきこえ侍る。」というのは、たとえば、

 何ぞ、風も吹ぬ日落る椿

ということか。これだと確かに「疑い」の句になる。この場合の何は惣名ではない。
 「何と久敷あハぬ」の「何と」は単なる強調の言葉として用いられている。今日でも「何と」は用いられる。この場合は「何て久しぶり」だが。
 「いろいろな事情が考えられるが、それらすべてひっくるめて何がともあれ」が「何と」になったとすれば、この何も「惣名」をいうためのものと言える。

2019年3月24日日曜日

 今日は六義園のしだれ桜を見に行った。人も多かったが大きな木が満開で、まさに「灰汁桶の」の巻の三十五句目、

 糸桜腹いっぱいに咲にけり     去来

だった。この句も花の定座で「花」ではなく「桜」にしたという意味では、「底を抜いた」のだろう。
 そのあと染井吉野発祥の地、旧古河庭園、飛鳥山公園を散歩した。ソメイヨシノはまだ二分咲きくらいだが、飛鳥山公園の花見は盛り上がっていた。
 それでは『俳諧問答』の方に戻るとしよう。

 「通書の中ニ、切字。古事。古詩・古歌の用る法など、かれこれのせられたり。
 師説同じ趣をとき給ふといへ共、千変万化して天地に独歩の人なれバ、今日の論、明日ハ同じ事いはず。
 先生のきき給ふ所、予がきく所、少々違ひハあるらん。なれ共、小耳ニはさみ置所、予が発明自得の下ニ記ス。
 あハれ閑暇を得て、先生の伝授し給ふ処、幷先生の発明を合してききたし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.111)

 ここからしばらく、まず切れ字について論じてゆくことになる。
 ただ、芭蕉の説も変わってきているので、先生(去来)が聞いたのと予(許六)が聞いたのでは違いがあるので、ここでは予(去来)が小耳にはさんだことと自得したことを記すことになる。
 ここで少々飛ばして、実例のある所から入ることにする。

 「一、初蝉上巻ニ、
 鶯の噂さや舌も引入れず  大ツ 箕香
 此句、噂さやと切て、又舌もといふ珍敷つづき也。鶯の噂の舌も引入れず、といふ事也。心ハかくれたる事なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.113)

 句は「鶯の噂(うわさ)の舌も引入れずや」の倒置で、「や」を「の」の位置に持ってきたものだ。
 誰かが鶯を聞いたという噂話は黙っていることが出来ない、という意味か。「心ハかくれたる事なし」というから、当時の人ならすぐ分かる句だったのだろう。

 「其分ニ見やりて捨ツ。切字さへ入るれバ、発句と心得ぬる作者幷撰者同前と見えたり。是にてもきこえるといへば、是非なし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.113~114)

 『初蝉』は風国の撰で、元禄九年刊。
 末尾の「や」を係助詞的に前に持ってきて倒置にする事自体は間違った用法ではない。ただ、持ってくる位置が問題で、「噂さや舌も」は変だということだ。「鶯や噂の舌も引入れず」だと鶯が聞こえたが噂の舌もになってしまうし、「噂の舌や」でも変だし、確かにどこに持ってきても納まりが悪い。
 これは「鶯の噂の舌も引入れずや」に、倒置にして強調すべき語句がないせいなのかもしれない。「鶯の噂」は意味的に一塊だからここに「や」を入れて分断すると意味側からなくなる。「舌も引入れず」も一塊だから、強いて言えば確かに「噂の」と「舌も」の間ということになる。
 難しい所で、ここは「ず」の終止形を切れ字として「の」のままでよかったのかもしれない。

 「一、上巻ニ、
 何風も吹ぬ日落る椿哉   大ツ 梅主
 てにはよろしからず。やとして、哉ととめぬハ新古同じおきてなれバ、何とうたがひて、哉とハとまるまじ。
 椿哉とハ治定の哉なれ共、此句全体うたがひの句也。「しづ心なく花のちるらん」といへる歌にて、一句のうたがひしれたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114)

 句は何一つ風も吹いてないのに椿は落ちるんだなあ、という意味で、

 ひさかたの光のどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
               紀友則

の歌と似ている。
 「何風も」の「何」はここでは疑いではなく反語で、末尾の「哉」も治定で疑ってはいない。
 紀友則の歌はこんな長閑な日に何で散ってしまうのだろうか、と散ってしまう花の心を疑っているだけで、花が散ったこと自体を疑っているのではない。
 これに対し、「何風も」の句は風も吹いてないのに椿が落ちるという事実を言っているにすぎない。「風もないのに何で散ってしまうのかな」という疑いの心は表に見えていない。
 許六が「此句全体うたがひの句也」というのはあくまで句の裏なので、表向き治定の句で問題はないように思える。

 「切字二ツ入てきこえぬ故に、二ツ入ぬものと古来定めたるも、かやうの事也。何といふ字をぬきても、又哉と云字ぬきても、一段心きこえて、しかも発句の姿を得たり。
 切字ハ発句の姿を付べき為也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.114)

 たとえば、

 いづく時雨傘を手に提げて帰る僧  芭蕉

の句であれば、「傘を手に提げて帰る僧」という事実に対して「いずく時雨」と現前しない時雨を疑うのだから、「いづく」と疑ったあと、帰る僧を疑うことは出来ない。
 この場合は「傘を手に提げて帰る僧はいづくで時雨にあひしや」であるため、「いづく時雨」の「いづく」が切れ字となり、句は体言止めになる。
 これを

 いづく時雨傘を手に提げて僧は帰るや

だと、時雨も疑えば僧の帰るのも疑うで、事実が何もなくなる。

 いづく時雨傘を手に提げて僧は帰るなり

だと、意味的には問題ないが、倒置を元に戻したときに「手に提げて僧は帰るなり。いづくで時雨にあひしや。」と二つの文章に分かれてしまう。
 切れ字を二つ使うというのは、一句を一つの文章ではなく二つの文章に分断してしまうので嫌われたのだろう。
 これを

 時雨けり傘を手に提げて帰る僧

とするなら問題はない。

 時雨けり傘を手に提げて僧は帰るや

と疑われてしまえば、「帰るべし」と答えるしかない。

 時雨けり傘を手に提げて僧は帰るなり

だと二つの文章になる。

 何風も吹ぬ日落る椿哉      梅主

の句に戻るなら、この「何」は哉を強調するだけで二重の治定のくどさはあるものの、文章を二つに切ることはないので、問題はないように思える。
 表にない「うたがい」を読み取ってしまったところが問題ではないかと思う。

 風もない日に何落ちる椿哉

だと「何」は何故の意味で疑いになり、「哉」の治定との食い違いが生じてしまう。この場合は許六の論の通りだ。