2018年12月31日月曜日

 今年一年もこれで終り。
 いろいろ紆余曲折はあっても、人類はこの地球に繁栄を続け、文明も後戻りすることはなかった。
 今まで来なかった新しい年はなかったし、来年になったらまた毎日毎日世界で何かが起こり、本の新しいページをめくるようにわくわくしながら、次に何が起こるのか見てみたい。
 俳諧的に言うなら、次にどんな句が付いて、今日までの世界が思いもかけない意味に取り成されるのか、楽しみだなーーー。
 では良いお年を。

2018年12月30日日曜日

 いわゆる西高東低の冬型の気圧配置というのか、晴れているが北風が冷たい。日本海側では大雪で帰省する人も大変だ。

  箱根こす人も有るらし今朝の雪   芭蕉

の句も思い浮かぶ。
 鯨の句は付け句の方も調べているが、なかなか見つからない。
 取りあえず二句見つけた。

 納戸の神を斎し祭ル
 煤掃之礼用於鯨之脯     其角

の句は延宝九年の『次韻』の句。
 なんどのしんをものいみしまつる
 すすはきのれいにくじらのほじしをもちふ
と読むらしい。(『校本芭蕉全集 第三巻』による)
 「脯(ほしし)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、「干した鳥獣などの肉。」とだけある。
 「納戸の神」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「寝室や物置に使う納戸にまつる神。西日本に多いが、関東や東北にも点在する。女の神で作神様と考えられているものが多い。納戸神。」

とある。「納戸神」だと、「デジタル大辞泉の解説」に、

 「納戸にまつられる神。恵比須(えびす)や大黒(だいこく)などが多くまつられたが、隠れキリシタンは聖画像をまつった。」

とあり、「世界大百科事典 第2版の解説」には、

 「納戸にまつられる神。納戸はヘヤ,オク,ネマなどと呼ばれ,夫婦の寝室,産室,衣類や米びつなどの収納所として使われ,家屋の中で最も閉鎖的で暗く,他人の侵犯できない私的な空間である。また納戸は女の空間でもあり,食生活をつかさどるシャモジとともに,衣料の管理保管の場所である納戸の鍵も主婦権のシンボルとされていた。納戸神をまつる風習は,兵庫県宍粟郡,鳥取県東伯郡,岡山県真庭・久米・苫田・勝田郡,島根県の隠岐島一帯,長崎県五島などに濃く分布し,家の神の古い形を示すものとされている。」

とある。
 煤掃きは年末の大掃除で「煤払い」と同じだが、その時に鯨の干物を供える風習が本当にあったかどうかは定かでない。何分次韻調だけに、奇抜な空想を楽しんだだけかもしれないからだ。炭俵調だったなら、当時はこういうのがあったんだなという所だろうが。
 ただ、明和天命期の大晦日の鯨汁に何か通じるものはあるのかもしれない。
 もう一句は芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の途中、『冬の日』の名古屋での風吟の直後で、

   尾張の国あつたにまかりける比、人々師走の
   海みんとて船さしけるに
 海くれて鴨の声ほのかにしろし   芭蕉

の発句に付けた脇で、

   海くれて鴨の声ほのかにしろし
 串に鯨をあぶる盃         桐葉

 海辺での野営を思わせる句に、豪快に鯨のバーベキューで一杯というわけだ。
 熱田の海岸では鯨も食べていたのかもしれない。ただ、この句から日常の食事の感じはしない。
 鯨は日本の文化だとはいうが、日本の文化に占める鯨の割合は微々たる物だ。それは鯨を詠んだ句を探すのに苦労するところからもわかる。
 ただ、日本には一部の高等動物だけを「知性がある」という理由で特別視する思想はない。生類は大体一律に大切にすべきものだとされている。「鯨が可哀相だというなら牛は可哀相ではないのか」という日本人は多いのもそのためだ。これは人工的に再生産可能なものとそうでないものを混同しているので、牛をロブスターとかに置き換えた方が良いのかもしれない。まあ、最近西洋ではロブスターどころか過激なビーガンがすべての生類を食べるのをやめさせようとしているが。
 まあ、近代捕鯨はとっくに時代遅れだし禁止しても良いと思う。ただ、世界各地の伝統的な沿岸捕鯨に関しては残しても良いのではないかと思う。

2018年12月28日金曜日

 鯨は本来太平洋岸の漁師などがたまたま取れたものを食べる程度のものだった。
 鯨に限らず海産物の文化というのは鮮度との戦いがあり、鮮度の問題を克服した時、初めて広い地域に広がることができたといって良い。
 『万葉集』に出てくる「いさなとり」という言葉が本当に鯨取りのことだったのか、枕詞としてしか用いられてないのでよくわからない。文字は確かに「鯨魚」となっているが。
 芭蕉の元禄五年の句、

 水無月や鯛はあれども塩鯨   芭蕉(葛の松原)

は鯨が食べられていたことを記す数少ない証言かもしれない。元禄ともなると塩漬けにして保存性を増した鯨の脂身があらわれる。
 水無月の鯛にも勝ると詠んでいるが、旧暦六月ともなると鯛もやや旬を過ぎているし、夏場は食あたりが怖いということも含めていっているのだろう。
 『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、1994、角川書店)によると、この句は支考が江戸の芭蕉庵を訪ね、『葛の松原』の編纂のことを相談し、そのタイトルまで考えてもらったときのもので、

 ほととぎす鳴くや五尺の菖草  芭蕉
 鎌倉を生きて出でけん初鰹   同

などとともに詠んだという。
 あとは芭蕉の死後になるが、

 一ノ籍弥猛ごころや鯨舟    李毛(伊達衣)
 今の世の手柄ものなり鯨つき  吉女(一幅半)
 冬がれの山を見かけて初くじら 芙雀(花の雲)

といった句が見られる。
 元禄十二年ころだろうか、鯨突き(捕鯨)を「今の世の手柄」を呼ぶように、捕鯨のことが都市でも話題となり、その雄大な姿に思いを馳せるようになったのは。
 一世紀後の蕪村の時代になると、大晦日に鯨汁を食べるのがはやったようだ。これは「575筆まか勢」というサイトから拾ったもの。

 いかめしや鯨五寸に年忘れ   樗良
 おのおのの喰過がほや鯨汁   几董
 十六夜や鯨来初めし熊野浦   蕪村
 鯨売り市に刀を皷(なら)しけり 蕪村
 一番は迯げて跡なし鯨突    太祗
 夕日さす波の鯨や片しぐれ   巴人
 暁や鯨の吼ゆる霜の海     暁台
 汐曇り鯨の妻のなく夜かな   蓼太

 まあ、とにかく鯨の句は数としては決して多くはない。
 鯨が日本人の食卓に本格的に普及するのは、むしろ戦後の高度成長期のことで、そんなに古いことではない。
 この頃は戦後の欧米並みの高蛋白な食事を目指した政府の主導で、安価な鯨肉が奨励され、学校給食にも取り入れられた結果だったと思う。
 筆者が子供の頃読んだ学習雑誌には、日本が銛の改良によって世界一の捕鯨大国になったことが誇らしげに書いてあった。当時の世界の捕鯨は鯨油を取るためのもので、肉は余っていて安く手に入ったのであろう。給食で食べた鯨の竜田揚げはパサパサしていて、美味しかったという記憶はない。
 その後大人になって、一度だけ鯨料理屋へ行って、尾の身の刺身も食べてみた。確かに旨いけど、値段を考えると一度食えば良いと思った。
 日本が捕鯨を再開していても、今更鯨油の需要があるわけでもなく、食用としても、一部で好んで食べる人がいるだけで、そんなには盛り上がらないのではないかと思う。多分心配するほど大量に獲ることはないだろう。

2018年12月27日木曜日

 さて「霜月や」の巻もあと四句。一気に行ってみよう、
 と、その前に三十二句目だが、「鐘はなをうつ」をついつい「鐘は猶うつ」と読んでしまったが、これは掛詞になっていて「鐘、花を打つ」という両方の意味がある。
 「猶」は「なほ」だが、「なを」と「なほ」の句別はこの頃は曖昧になっていて、両方の意味に取った方がいい。「鐘花を打つ」だけの意味だったら「鐘に花散る」でも十分だったはずだ。鐘の音が方々からいくつも聞こえてきて、そのつど花がはらはらと散ってゆくと取った方がいい。
 あえて「はなをうつ」と仮名で表記しているのもそのためだろう。
 「狂句こがらし」の巻の脇、

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 たそやとばしるかさの山茶花   野水

の「とばしる」が「とは知る」に掛かるのと同じに考えていい。
 三十三句目。

   伏見木幡の鐘はなをうつ
 いろふかき男猫ひとつを捨かねて 杜国

 伏見は遊郭のあったところで、遊女達が猫を飼っていたのか。盛りがついてうるさいから捨ててこいなんて言われても、捨てられるものではない。
 あるいは駄目な男と分かっていてもついつい腐れ縁になるという、比喩も含んでいるのか。
 三十四句目。

   いろふかき男猫ひとつを捨かねて
 春のしらすの雪はきをよぶ    重五

 自分では捨てられないので白州の庭の雪掻きをする人を呼んできて猫を追い払ってもらう。「白州」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、「庭先・玄関前などの、白い砂の敷いてある所。」とある。
 前句が「猫の恋」で春なので、「春の」という季語を放り込む。
 三十五句目。

   春のしらすの雪はきをよぶ
 水干を秀句の聖わかやかに    野水

 「水干」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には、

 「1 のりを使わないで、水張りにして干した布。
 2 1で作った狩衣(かりぎぬ)の一種。盤領(まるえり)の懸け合わせを組紐(くみひも)で結び留めるのを特色とし、袖付けなどの縫い合わせ目がほころびないように組紐で結んで菊綴(きくとじ)とし、裾を袴(はかま)の内に着込める。古くは下級官人の公服であったが、のちには絹織物で製して公家(くげ)や上級武家の私服となり、また少年の式服として用いられた。」

とある。
 ウィキペディアには、

 「室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少した。近世では新井白石像に水干着装図が見られるなどしばしば用いられたが、幕府の服飾制度からは脱落している。」

とあり、水干は正式な服装ではなく部屋着のようなくだけた場での服装だったのだろう。
 「秀句」はweblio辞書の「三省堂 大辞林」に、

 ①  すぐれた句。秀逸な詩歌。
 ②  和歌・文章・物言いなどにおける巧みな言いかけ。掛け詞・縁語な

ど。すく。 「 -も、自然に何となく読みいだせるはさてもありぬべし/毎月抄」
 ③  軽口(かるくち)・地口(じぐち)・洒落(しやれ)など。すく。 「 -よくいへる女あり/浮世草子・一代男 1」

とある。
 ①は元の意味であるとともに今の意味といってもいい。要するに「秀逸な詩歌」というのがどういうものであるかはその時代の価値観に左右さるもので、連歌や俳諧(特に貞門)で秀逸というのは基本的に②だった。それが江戸時代に大衆化したときに③の意味になったと思われる。
 近代では「傑作」という言葉が、一方では優れた芸術作品を表すのに用いられるが、一方ではギャグ漫画や笑い話の面白いネタに対しても「そいつは傑作だ」というふうに用いられる。それに似ている。
 「聖(ひじり)」今日で「神」と称されるのと同様、その道の名人のことをいう。芭蕉は「俳聖」と呼ばれ、同時代の本因坊道策は「棋聖」と呼ばれた。この種の称号はピンからキリまであり、いつも面白い話をしてくれる人程度でも「秀句の聖」と呼ばれることもあったと思われる。
 「わかやか」は若々しいということ。水干姿の若々しい秀句の聖というのは、実は雪掃きの少年のもう一つの姿なのではないかと思う。
 挙句。

   水干を秀句の聖わかやかに
 山茶花匂ふ笠のこがらし     羽笠

 「狂句こがらし」の巻の脇、

   狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 たそやとばしるかさの山茶花   野水

を思い起こし、『冬の日』五歌仙の最後を締めくくる。

2018年12月26日水曜日

 今年も残す所あとわずか。
 去年・一昨年はいろいろ世の中が思わぬ方に動いたが、今年はその反動の年だったか。特に韓国はどこに行くのだろうか。
 まあ、徴用工やレーダーの照射のことは何も言いたくないね。言えば金正恩が喜ぶだけだから。
 資本主義は必然的に侵略戦争を生むというレーニン帝国主義論によるなら、日本の過去の侵略戦争への反省は、資本主義を放棄するまで終ることはない。北も日本の左翼も基本的にそれを狙っている。でもその巻添えで韓国まで資本主義を放棄しなくてはならなくなったりして。まあ、せっかく漢江の奇跡で手に入れた豊かさを簡単に手放すことはないとは思うが。

 では、そんなところで「霜月や」の巻の続き。
 二十九句目。

   露をくきつね風やかなしき
 釣柿に屋根ふかれたる片庇    羽笠

 前句の風に「屋根ふかれたる」と付く。貞門風の古風な付け方だ。
 「片庇」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「①  片流れの屋根。
  ②  粗末なさしかけの屋根。」

とある。
 三十句目。

   釣柿に屋根ふかれたる片庇
 豆腐つくりて母の喪に入     野水

 喪中なので肉や魚を絶ち、豆腐を作って食べる。
 二裏に入る。三十一句目。

   豆腐つくりて母の喪に入
 元政の草の袂も破ぬべし     芭蕉

 元政は日政の通称で、ウィキペディアには、

 「日政(にっせい、通称:元政上人(げんせいしょうにん)元和9年2月23日(1623年3月23日)- 寛文8年2月18日(1668年3月30日))は、江戸時代前期の日蓮宗の僧・漢詩人。山城・深草瑞光寺 (京都市)を開山した。俗名は石井元政(もとまさ)。幼名は源八郎、俊平。号は妙子・泰堂・空子・幻子・不可思議など。」

とある。
 さらにウィキペディアには、

 「1667年(寛文7年)に母の妙種の喪を営み、摂津の高槻にいたり一月あまり留まるがその翌年正月に病を得て、自ら死期を悟って深草に帰る。日燈に後事を託して寂す。享年46。遺体は称心庵のそばに葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。」

とある。句はこの本説と言えよう。
 三十二句目。

   元政の草の袂も破ぬべし
 伏見木幡の鐘はなをうつ     荷兮

 元政の開いた深草瑞光寺は伏見にある。木幡は隣の宇治市になる。今でもその鐘は鳴り響いている。

2018年12月24日月曜日

 今日は世間ではクリスマス。まあクリスチャンじゃないから、はぴほりー、でいいのかな。
 今日は足柄へ行って、洒水の滝を見た。洒は洒堂のシャ。酒ではない。
 そして昨日作っておいたご馳走、タン&頬肉シチューも食べた。

 それでは「霜月や」の巻の続き。
 二十五句目。

   萱屋まばらに炭団つく臼
 芥子あまの小坊交りに打むれて 荷兮

 「芥子あま」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 頭髪を芥子坊主にした女児。
※俳諧・冬の日(1685)『萱屋まばらに炭団つく臼〈羽笠〉 芥子あまの小坊交りに打むれて〈荷兮〉』」

 「芥子坊主」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「頭髪をまん中だけ残して周囲を剃そり落とした乳幼児の髪形。けしぼん。芥子坊。おけし。けし。」

とある。芥子の実に似ているところからそう呼ばれる。
 芥子坊主は当時の子供の一般的な髪型で、

 鞍壺に小坊主乗るや大根引   芭蕉

は元禄六年の句。今でも子供のことを「坊主」と呼ぶのもその名残なのかもしれない。
 「芥子尼」が髪型を指すだけの言葉なら、舞台をお寺に限定する必要はない。「萱屋まばら」の農村に子供達が遊んでいる情景となる。男勝りの女の子が男子に混じって元気に遊ぶ姿はほほえましい。
 二十六句目。

   芥子あまの小坊交りに打むれて
 おるるはすのみたてる蓮の実  芭蕉

 蓮の実は食べられるので、子供が取って食べる格好のおやつだったという。食べごろの蓮の実だけが折られている。
 「食べた」と言わずに折れた蓮の実とそうでない蓮の実があるという所で匂わす所がミソ。単なる景色に出来るから次の句の展開が楽になる。
 二十七句目。

   おるるはすのみたてる蓮の実
 しづかさに飯台のぞく月の前  重五

 「蓮の実」で秋に転じたところで、すかさず定座を繰り上げて月を出す。基本といっていい。
 「飯台」は食事のためのテーブルで、古くはお寺など大勢で食事をする場所で用いられ、一般には一人用の膳で食事をしていた。
 江戸後期になると外食が発達して、店などに飯台が置かれるようになり、近代に入ると西洋式のテーブルに習って家庭に飯台が普及した。特に丸い「ちゃぶ台」は昭和の家庭で広く用いられ、ノスタルジーを誘うものとなっている。
 この場合は蓮の縁もあってお寺の情景か。あまりに静かなので飯台を覗いてみるが、おそらく空っぽだったのだろう。月に浮かれてみんな遊びに行ってしまったか。
 元禄七年の「空豆の花」の巻に、

   そっとのぞけば酒の最中
 寝処に誰もねて居ぬ宵の月    芭蕉

の句がある。
 二十八句目。

   しづかさに飯台のぞく月の前
 露をくきつね風やかなしき    杜国

 飯台を覗き込んでいるのは狐だった。

2018年12月23日日曜日

 政治の話をタブーとする人もいるようだが、別に俳諧研究者が政治を語っても良いと思う。アイドルだって芸人だって作家だって漫画家だって一緒だ。気軽に政治を話せる社会が良いと思う。
 ただ、それをあまり作品に持ち込まれてしまうと、結局笑う人と怒る人との分断を産み、作品そのものが広く大衆にいきわたらなくなる。それは作家の自己責任だと思う。
 沖縄の基地問題というのは、基本的には戦後の東西冷戦構造下で、あそこが中国・北朝鮮・ソ連・北ベトナムを見据えた前線基地になってしまったからだ。
 だから、沖縄の基地をなくすには簡単に言えば、冷戦を終らせれば良いということになる。
 ソ連が崩壊し、ロシアになってからはアメリカとロシアの対立はかなり和らいだ。ベトナムも緩やかな体制になり今は危険はない。後は中国の海洋進出と北朝鮮問題が片付けば、あそこに米軍がいる必要もなくなるし、基地問題は自ずと解決することになる。アメリカだってコストが馬鹿にならないから、早く引き上げたい所だろう。
 基本的には中国と北朝鮮に民主化と経済開放を求めてゆくことが大事で、それ以外の基地問題の解決策は、結局はその場しのぎのものにすぎない。基地をどこかに移転したとしても、結局移転先で同じ問題が繰り返されるだけだ。
 世界が平和になれば基地問題は解決する。子供でも分かることだ。そのために何をしなくてはならないか、敵を見誤らないことだ。

 それでは「霜月や」の巻の続き。
 二の懐紙に入る。十九句目。

   篭輿ゆるす木瓜の山あい
 骨を見て坐に泪ぐみうちかへり 芭蕉

 「坐」は「そぞろ」で「漫」という字を書くことも多い。
 いわゆる「野ざらし」だろうか。行き倒れになった旅人の骨が落ちていて、思わず駕籠から降りて涙ぐむ。
 二十句目。

   骨を見て坐に泪ぐみうちかへり
 乞食の蓑をもらふしののめ   荷兮

 昔は人が死ぬと河原にうち捨てて葬った。そこで永の別れとばかり大声で泣く。韓国の「アイゴー」のように、かつての日本人は大声で泣いた。
 河原にはそうした遺体を処理する被差別民が住んでいて、「河原乞食」とも呼ばれていた。処理してもらう代金にと新しい蓑を与えたのであろう。
 しののめというと、

 あづまののけぶりの立てる所みて
     かへり見すれば月かたぶきぬ
              柿本人麻呂(玉葉集)

の歌も思い浮かぶ。「けぶり」おそらく火葬のものであろう。西に渡る月に無常が感じられる。この歌を「ひむかしの野にかげろひのたつ見へて」と訓じるのは、賀茂真淵以降のこと。
 二十一句目。

   乞食の蓑をもらふしののめ
 泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て 杜国

 哀傷の句が二句続いた所で、ここでガラッと気分を変えたいところだ。
 洪水の後だろうか。泥の上で思いがけず大きな鯉を拾ったが、どうやって持って帰ろうかと思っていると、親切な河原乞食の人が「これで包んでいけや」と蓑を貸してくれた。
 二十二句目。

   泥のうへに尾を引鯉を拾ひ得て
 御幸に進む水のみくすり    重五

 鯉は龍の子ともいわれる吉祥で、御幸の献上品にふさわしいものの、何分生ものだから天子様に何かあっては一大事と、水飲み薬も添えて差し出す。
 二十三句目。

   御幸に進む水のみくすり
 ことにてる年の小角豆の花もろし 野水

 「小角豆」はササゲと読む。ウィキペディアには「日本では、平安時代に『大角豆』として記録が残されている」ともいう。赤飯にも用いられる。薄紫の豆の花を咲かせる。
 ただ、今年は特に旱魃がひどく、丈夫なササゲも元気なく花ももろく散ってしまう。
 そんな状況を視察に来たのだろうか。天子様に奉げるようなものもなく、水飲み薬を献上する。ササゲは「奉げる」に掛かる。
 二十四句目。

   ことにてる年の小角豆の花もろし
 萱屋まばらに炭団つく臼    羽笠

 「炭団(たどん)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「木炭の粉末を主原料とする固形燃料の一つ。木炭粉にのこ屑炭,コークス,無煙炭などの粉末を混合し,布海苔,角叉,デンプンなどを粘結剤として球形に固めて乾燥させてつくる。一定温度を一定時間保つことができるのが特徴で,火鉢,こたつの燃料として愛用され,またとろ火で長時間煮炊きするのに重用された。」

とある。昔は墨の粉を集めて自分の家でそれを臼で搗いて作って、火燵や火鉢に使っていたようだ。