2018年6月30日土曜日

 『嵯峨日記』の続き。

 なお、「巳ノ下刻允昌へ寄テ」の允昌は凡兆のこと。去来は俳号で呼んでいるのに対し、凡兆は本名で呼ばれている。今日では一般に野沢凡兆と呼ばれているが、他にも宮城、越野、宮部などの姓もあったようだから、おそらく正式な苗字ではないのだろう。なお「允昌」の読み方を探しているのだが、まだわからない。
 三月二十五日に「カセイテ尋 翁ヲ問」とあるが、この「カセイテ」はひょっとして「加生亭」か。耳で聞いただけで文字を確認できなかったのかもしれない。
 後に凡兆の家を指すのに地名の「小川」というのを頻繁に使っている。
 五月七日のところには「中村荒右衛門入来」とあり、史邦は本名で中村姓を付けて呼んでいる。ただ、この人も大久保荒右衛門、根津宿之助という名前が伝わっているので、正式な苗字かどうかは不明。五月十四日の日記では「中村荒右へ行宿」と名前を省略しているし、翌十五日には「終日史邦ノ宿」と俳号になっている。
 五月十七日には「芝居へ行 翁允昌羽紅荒右無辺佐野治左去来」と芭蕉は「翁」でその他は俳号と本名とごちゃ混ぜだ。
 曾良の日記ではしばしば「田中氏」というのが登場する。場所によっては単に「田中」と書かれている場合もあるが、田中式如という旧知の神道家だという。
 思うに当時は正式な苗字なのか、それとも通名のような「姓」なのかは、ある程度深く付き合ってみなければ判別がつかなかったのだと思う。だからはっきりとわかっている場合以外は「氏」を付けなかったのではないかと思う。あとはその時の気分で本名になったり本名の略称になったり俳号になったり、わりと適当だったようだ。
 曾良の日記に登場する人名も、詳しく追っていけばいろいろなことがわかりそうだ。
 さて、『嵯峨日記』の方に戻ろう。

 「一、三日

 昨夜の雨降つヾきて、終日終夜やまず。猶其武江の事共問語。既に夜明。」

 最初の「一」は特に意味もなさそうだ。翌日も「一、四日」とある。草稿段階での芭蕉さんの気まぐれによるものか。曾良の『近畿巡遊日記』は日付の上に「一、」とあるから、それに倣ったのか。
 雨が降ってすることもなく、久々に旧友の曾良と長々と語り合ったか。『奥の細道』の旅のあとの江戸のことなど、話も尽きず、夜を徹してしまったようだ。
 曾良の『近畿巡遊日記』には、

 「三日 雨不止 未ノ刻去来帰ル 幻住ノ句幷落柿舎ノ句

   涼しさや此庵をさへ住捨し
   破垣やわざとかのこの通路 夜ヲ明」

とある。芭蕉の文章では昨日から去来が一緒だということが記されていない。頻繁に来ているせいか、いちいち書くのが面倒になったのだろう。ここでの主役は曾良だし。
 曾良のこの二句は、『嵯峨日記』には記されてないが、『猿蓑』には入集している。

 涼しさや此庵をさへ住捨し   曾良

 これは幻住庵の句で、「涼しさの此の庵をさへ住み捨てしや」の倒置。芭蕉の一所不住の生き方は、こんなすばらしく涼しげな庵すら捨ててしまうのかという、その潔さを称える。
 曾良の『近畿巡遊日記』には、三月二十三日に「大津石屋ニ着 及暮」と夕方に大津に到着し、翌三月二十四日には「早朝木曾寺ノ新庵見ル 帰テ朝飯調テ京ニ趣」とあるから、義仲寺の無名庵は見たようだが、幻住庵に行った様子はない。

 破垣やわざとかのこの通路  曾良

 これは落柿舎の句だろう。垣根が破れているのは、鹿の子が通れるようにわざと開けているのでしょう、というわけだが、多分ただ荒れ果てていて破れていただけだろう。ただの破れ垣も、そういう考え方もあるのかといった句だ。

2018年6月29日金曜日

 今日は梅雨明けだが何だかすっきりしないのは昨日の試合だ。
 結局は驕りだろうと思う。今のポーランドなら主力を温存しても引き分けられると思ってたら一点取られてしまい、簡単に追いつけないとわかって、あのような作戦に出たのだろう。
 ただ、スペイン=ポルトガル戦の場合は双方に利益があるから取引と見ることができるが、すでに敗退が決まっているポーランドには何の利益もない。その意味で日本はポーランドに大きな借りを作ってしまった。
 まあ、ポーランド代表のスパイクシューズの泥を舐めてでも決勝トーナメントに行きたいというなら、後はとにかく優勝する以外に恩返しの方法はないだろう。気持ち的には、これでベルギーに勝てなければ帰ってくるなと言いたいところだが、日本のサポーターは優しいから「夢をありがとう」で終るんだろうな。
 日本ではミスした選手にも激しいバッシングはない。ネタにして笑いものにする程度で平和なものだ。まあ、それが俳諧の伝統なのだろう。梅雨明けもすっきりしないパス回し。
 それでは『嵯峨日記』の続き。

 五月二日、『奥の細道』をともに旅した曾良が尋ねてくる。

 「二日

 曾良来リてよし野ゝ花を尋て、熊野に詣侍るよし。武江旧友・門人の はな(し)、彼是取まぜて談ズ。

 くまの路や分つゝ入ば夏の海   曾良
 大峯やよしの(ゝ)奥を花の果


 夕陽にかゝりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそふて戸難瀬をのぼる。雨降り出て、暮ニ及て歸る。」

 曾良は蛤の二見で別れた後、江戸へ登る。そして元禄四年三月四日に江戸を出て、三月二十四日には京都に着き、翌二十五日に芭蕉を訪ねる。このあたりのことは曾良の『近畿巡遊日記』に書かれているという。岡田喜秋『旅人・曾良と芭蕉』(一九九一、河出書房新社)の附録にそのテキストがある。
 このあと曾良は吉野の花を見てから高野山を経由して熊野古道を行き、那智の滝などを見て、そのあと和歌の浦を経て姫路へ行く。そして五月に京都に戻る。
 吉野の花見は四月一日で、初夏の熊野古道(熊野参詣道小辺路)を行き、十七日には和歌の浦に到着する。和歌の浦へは船で旅している。

 くまの路や分つゝ入ば夏の海   曾良

の句はその頃のものだろう。
 もう一つの、

 大峯やよしの(ゝ)奥を花の果  曾良

の句だが、この日記だと大峰へ行った記録はない。ウィキペディアには「歴史的には『大峰山』は、大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々の呼び名であった。」とあるから、吉野で見た周辺の青々した山々を見ての句だったのかもしれない。
 このあと、大井川(今の桂川)に船を浮かべて、今の渡月橋のあたりの戸難瀬を登る。曾良の『近畿巡遊日記』には、

 「二日 天晴 巳ノ下刻允昌へ寄テ妙心寺ヲ見テサガへ趣 翁ニ逢 去来居合 船ニテ大井川ニ遊ブ 雨降ル故帰ル。次第ニ雨甚シ」

とある。去来の同伴を除けばだいたい『嵯峨日記』の記述と一致する。

2018年6月28日木曜日

 今日も暑かった。夜の満月はやはり雲が掛かってぼんやりと周りの雲がオレンジに染まっている。最近では夏至の頃の月をストロベリームーンと呼ぶようだ。
 今日は対ポーランド戦。ポーランドといえばMerkfolk、Netherfell、Morhana、Stworz、Alne、Percival Schuttenbach、メタルの国だ。

 さて、『嵯峨日記』も五月に入る。

 「朔
 江州平田明昌寺李由被問。
 尚白・千那、消息 有。

 竹ノ子や喰残されし後の露  李由
 頃日の肌着身に付く卯月哉  尚白
   遣岐
 またたれつる五月もちかし聟粽 同」

 江州平田明昌寺は近江国、彦根平田にある明照寺だという。音が同じの違う字を書くことは、芭蕉の文章では珍しくないし、当時の人はそれほど字面にこだわらず、音が合っていれば良いというところもあった。
 明照寺は光明遍照寺の略と思われる。
 李由はその明照寺の十四世住職で、この日落柿舎に現れて、尚白や千那といった近江の門人の消息を伝えたようだ。尚白は大津で医者をやっている。千那は堅田本福寺十一世住職。
 千那の句はない。

 竹ノ子や喰残されし後の露  李由

 竹の子が食い残されればそのまま成長して立派な竹になり、秋の露を得ることになる。
 乳幼児の死亡率の高かった時代には、年を取るまで生きられるということは当たり前のことではなく、稀なことだった。
 李由は寛文二年(一六六二)の生まれで、元禄四年(一六九一)五月一日には数えで三十。働き盛りではあるが、体力的には衰えてきて露を得る頃か。当時は四十だと初老で、露というよりも霜を得る頃であろう。

 頃日の肌着身に付く卯月哉  尚白

 肌着は肌衣(はだぎぬ)、つまり襦袢のことか。ウィキペディアによると、「江戸時代前期は長襦袢ではなくこちら(半襦袢)が正式な襦袢と考えられていて、初期の半襦袢は袖の無い白地のもので腰巻と一揃で使われていた。」とある。
 旧暦四月ともなると暑い日も多くなり、半襦袢が汗で肌に密着するということか。

   遣岐
 またたれつる五月もちかし聟粽 尚白

 前書きの「遣岐」よくわからないが、「聟粽」とあるから、岐阜に住む娘婿に粽(ちまき)を届けるために出す遣いの者ということか。尚白の家族関係はよくわからないので、岐阜に親族がいるのかどうかは不明だが。
 まあ、でもこの句は五月五日の端午の節句の粽を待っている人がいるのは確かだ。

2018年6月27日水曜日

 『嵯峨日記』の続き。

 さて芭蕉はこのあと杜国への思いをぶちまける。

 「誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。」

 「夜は床を同じう起臥」のところなど、疑ってくれといわんばかりだ。まあ、あくまで噂なので。
 悲しみの涙には無粋な批評はせず、流すことにしよう。

 さて、翌二十九日と三十日はセットになっている。

 「二十九日 『一人一首』奥州高館ノ詩ヲ見ル。

 晦日 高館聳天星似冑、衣川通海月如弓。其地風景聊以不叶。古人と イへ共、不至其地時は、不叶其景。」

 奥州高館ノ詩というのは『本朝一人一首』という林鵞峰の編纂で寛文五年(一六六五)に出版された漢詩集で、古代から江戸初期までの日本の漢詩を一人一首、全三百余の詩を収録している。
 その詩というのは巻九にある。

   賦高館戦場    無名氏
 高館聳天星似冑 衣川通海月如弓
 義経運命紅塵外 辨慶揮威白波中
  林子曰此詩世俗口誦流傳未知誰人所作

 高館は天に聳え星は兜ににて
 衣川は海に通じ月は弓のごとし
 義経の運命は血塗られた戦場の外にあり
 弁慶は武威を揮い白波の中
   林鵞峰が言うにはこの詩は世俗で口承され伝わってきたもので、作者が誰だかは未だわからない。

 義経は一切戦わず持仏堂で自害し、弁慶は堂の入口を守り立ち往生したというのが一般によく知られている物語で、口承の詩もそれを裏切らない。
 なおウィキペディアを見ていたら、この選者の林鵞峰とその父の林羅山が編纂した『本朝通鑑』に「俗伝又曰」として「義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種残す」と記載されたことが、後の義経=ジンギスカン説の元になっているという。
 こうした漢詩は口承で伝えられて、庶民の間で吟じられていたのだろう。テキストとしてではなく音楽として伝わっていたと思われる。
 こうした伝承にはありがちなことだが、話がやたらに盛られたりする。
 小高い岡の上にあった高館はいつの間にか天に聳えるまでになり、北上川にそそぐ衣川はいつの間にか海にそそぐまでになってしまった。
 芭蕉は無名作者を「古人」と呼んで、立派な作者でも現地に行かなければこういう詩を詠むと思ったようだが、多分そういう問題ではないだろう。
 芭蕉も後世、

 松島やああ松島や松島や

の作者にされてしまうとは想像だにしなかっただろう。
 伝承詩というのは時として何百年もの間形を少しづつ変えながら中国、韓国、日本に伝わった例もある。『野ざらし紀行─異界への旅─』の「十四、僧朝顔」の所でも書いたが、『万葉集と漢文学』(和漢比較文学叢書九、一九九三、汲古書院)所収の濱政博司の「大津皇子『臨終』詩群の解釈」にある一連の詩がそれだ。
 五八九年の中国の『浄名玄論略述』に見られる。それは、叔宝が囚人として長安に引き立てられるときに詠んだ詩で、

  鼓声推命役 日光向西斜
  黄泉無客主 今夜向誰家

  太鼓の声は賦役へとせきたて、
  日の光は西へと傾いて行く。
  黄泉の国には主人もいなければお客さんもいない。
  今夜は誰の家に向かうのというのだ。

が最初だが、それが六八六年には少し変わっているが、二上山で処刑された大津皇子が詠んだとして『懐風藻』にも載っている詩となる。

  金烏臨西舎 鼓声催短命
  泉路無賓主 此夕誰家向

  黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、
  日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。
  黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。
  この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

 それが一四五六年、韓国で成三問が処刑されるときの詠んだとされてきた、

  撃鼓催人命 回看日欲斜
  黄泉無一店 今夜宿誰家

  太鼓を打つ音は人の命運をせきたて、
  振り返って見れば日は傾こうとしている。
  黄泉の国には宿屋があるわけでもない。
  今夜は一体誰の家に泊ろう。

の詩として登場する。
 この間にも九五○年の江為の詩がある。

 衙鼓侵人急 西傾日欲斜
 黄泉無旅店 今夜宿誰家

 中国版のウィキペディア「維基百科」には、

 「江洪之後。早年避乱迁居建阳(今屬福建)。曾游庐山。由於科場屢試不第,一直怏怏不樂,打算前往吴越發展,結果被同謀告發,被殺身亡。一說是替福州友人草擬降書,被逮獲,慘遭株連。據說臨刑前有絕命詩云:“黄泉無旅店,今夜宿誰家”。」

とある。
 また、『水滸伝』にも、

 黄泉無旅店 今夜落誰家

の句があるらしく、一三九三年の孫蕡の詩にも、

 鼉鼓三声急 西山日又斜
 黄泉無客舎 今夜宿誰家

とある。「維基百科」には、

 「洪武十五年复起为苏州经历,洪武二十二年谪戍辽东,是年以黨禍被殺,年五十六岁,有絕命詩:“鼍鼔三聲畢,西山日又斜。黄泉無旅店,今夜宿誰家。”另說於洪武二十六年之藍玉案被殺。」

とある。
 これらは皆伝説であり、あくまで有名人に仮託されただけで、いわゆるパクリではない。

2018年6月26日火曜日

 今日も暑い日が続く。梅雨明けも近いのか。
 夜には朧ながら月も見えた。五月も満月が近い。

 五月雨やある夜ひそかに松の月   寥太

の句が思い起こされる。こちらは大島寥太。大島僚太だと日本代表のサッカー選手になる。今回のワールドカップではまだ出番がない。
 では『嵯峨日記』へ、

 まず「心神相交時は夢をなす。」だが、これはやや仏教的な言い方だ。
 『列子』周穆王篇には「神遇為夢、形接為事。故晝想夜夢、神形所遇。」とある。人間の思考は感覚によって捉えられた物的対象があれば「想」となり、感覚が遮断されて対象から切り離されれば「夢」となる。感覚が遮断されても猶残る脳の活動を「神」と呼ぶのであれば、列子のこの言葉はなかなか科学的だ。
 ただ、「神」といえば、『易経』の「陰陽不測、これを神という」の神概念もあり、いわば人智を超えたものはすべて神であり、人間の脳の活動も、それ自身は直接認識することができず、思考にしても幻想にしても何らかの活動の結果を認識できるにすぎない。その意味では「神」であり、近代には西洋のスピリットを「精神」と訳しているし、ニューロンは「神経」と訳している。自覚的に捉えることができないからだ。
 哲学で言う現象学的還元は、思考を対象から切り離して純粋な思考そのものを明らかにしようとしたが、沈黙以外の何も得られなかった。ジャック・デリダはこれを太陽に向かって飛び立ったイカロスに喩えている。
 これに対して「心神相交時は夢をなす。」となると、心は人間の中にある性や情を併せ持ったものを表し、神は天の側にある。禅などの瞑想によってそれが一致するような印象を与える。
 体の中の測り知れないもの(神)は天に通じるもので、そのため夢もまた感覚によって捉えられた対象から切り離されているとはいえ、物の形を借りて現れる。このことを列子は「一體之盈虛消息、皆通于天地、應於物類。」という言葉で表す。
 さて、芭蕉に戻るが、「陰盡テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。」は『列子』周穆王篇の「故陰氣壯、則夢涉大水而恐懼。陽氣壯、則夢涉大火而燔焫。」から来ていると思われる。
 体の陰気が尽きるというのは、逆を言えば体の陽気が盛んになることをいう。この時は火の夢を見るという。陽気が衰え陰気が盛んになれば水の夢を見るという。このあたりはあまり科学的ではない。夢判断の類になる。
 「飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。」というのも、『列子』周穆王篇の引用で、「藉帶而寢則夢蛇、飛鳥銜髮則夢飛。」から来ている。
 「睡枕記、槐安國、荘周夢蝶、皆 其理有テ妙をつくさず。」の「睡枕記」は、岩波文庫の『芭蕉紀行文集』の中村俊定注には『枕中記』の誤りか、とある。『枕中記』はウィキペディアによれば、

 「『枕中記』(ちんちゅうき)は、中国・唐代の伝奇小説である[1]。作者は沈既済(しんきせい)。
 著者の沈既済は、8世紀後半頃の人である。蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の人で、薬を調達する礼部員外郎となった。

 主人公の盧生が、邯鄲(河北省邯鄲市)で、道士・呂翁に出会い、枕を授けられる。その枕で眠りについたところが、まだ黍の飯が炊き上がる前に、自分が立身出世を果たし、栄達の限りを尽くして死ぬまでの間の出来事を夢みた。それによって、盧生は人生の儚さを悟った、という話である。

 「邯鄲の枕」「黄粱の一炊」「邯鄲の夢」の故事として、広く知られている。また、明代の湯顕祖が著わした戯曲の『邯鄲記(中国語版)』は、この『枕中記』を元にして作られたものである。」

とある。
 「槐安國」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「中国、唐の李公佐(りこうさ)の「南柯記」に書かれている、想像上の国。→南柯(なんか)の夢」

とあり、「南柯の夢」は同じくコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「はかない夢。また、栄華のむなしいことのたとえ。槐夢(かいむ)。槐安の夢。[補説]昔、中国で、淳于棼(じゅんうふん)という人が、酔って古い槐(えんじゅ)の木の下で眠り、夢で大槐安国に行き、王から南柯郡主に任ぜられて20年の間、栄華をきわめたが、夢から覚めてみれば蟻(あり)の国での出来事にすぎなかったという、唐代の小説「南柯記」の故事から。」

とある。
 「荘周夢蝶」はいわゆる胡蝶の夢というやつで、『荘子』齊物論第二に、

 「昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。」

とある。
 まあ、要は夢で胡蝶になってるときは胡蝶である事を疑わず、醒めれば荘周となり、やはりそれを疑わない。生まれ変わるというのはそういうことだ、というわけだ。
 「其理有テ妙をつくさず。」という芭蕉の感想は、どれも一理あって不思議だなあ、というところか。別に信じるというのでもなく、世間で言われているのも尤もだくらいのスタンスだろう。
 「わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日 忘(妄)想散乱の氣、夜陰夢又しかり。」というのは『論語』述而の「子曰、甚矣、吾衰也。久矣、吾不復夢見周公」、いわゆる「夢に周公を見ず」のことで、孔子が周公をたびたび夢に見ていたなどという立派な夢ではなく、ごく普通の夢だということをやや謙遜して言っている。
 人が何故夢を見るかについて、現代の科学でもはっきりした答はない。人生が夢だというのはあくまで比喩としても、寝て見る夢は未だに科学で解明できないという点では、「陰陽不測」という意味での「神」が心に現れる現象だといっていいだろう。
 それは記憶を整理するためであったり、願望の表れだったりしたとしても、自分ではコントロールすることの困難な、自由にならないものだという点では「神」だ。

2018年6月25日月曜日

 昨日は結局八時に寝て十二時に起き、三時にまた寝るという変則的な睡眠でセネガル戦を見た。やはり眠かった。それに加えて今日は暑かった。
 では『嵯峨日記』の続き。

 「廿七日
 人不来、終日得閑。」

 この日は特に何もなかったようだ。

 「廿八日
 夢に杜國が事をいひ出して、涕泣して覚ム。
 心神相交時は夢をなす。陰盡テ火を夢見、陽衰テ水を夢ミル。飛鳥髪をふくむ時は飛るを夢見、帯を敷寝にする時は蛇を夢見るといへり。 睡枕記、槐安國、荘周夢蝶、皆 其理有テ妙をつくさず。わが夢は聖人君子の夢にあらず。終日 忘(妄)想散乱の氣、夜陰夢又しかり。誠に此ものを夢見ること、所謂念夢也。我に志深く伊陽旧里迄したひ来りて、夜は床を同じう起臥、行脚の労を ともにたすけて、百日が程かげのごとくにともなふ。ある時はたはぶれ、ある時は悲しび、其志我心裏に染て、忘るゝ事なければなるべし。覚て又袂をしぼる。」

 芭蕉が杜国と出会ったのは貞享元年の冬、『野ざらし紀行』の旅で名古屋を訪れた時だった。そこで芭蕉は荷兮、野水、重五、杜国、正平らと興行を行い、この時の俳諧は荷兮編の『冬の日』として公刊された。これが芭蕉七部集の最初の集となる。
 その杜国の最初の句は「狂句こがらし」の巻の五句目で、

     かしらの露をふるふあかむま
 朝鮮のほそりすすきのにほひなき    杜国

 「朝鮮のほそりすすき」が何を指すのかはよくわからない。韓国にもススキはあり、ネットではハヌル公園をはじめ、色々な地方のススキの美しい風景を見る事ができるが、日本にあるのと同じようなススキだ。ピンクのものを別にすれば。
 その杜国だが、本業は米屋で、ウィキペディアによれば、「貞享二年、手形で空米を売った咎で死罪となったが、徳川光友に恩赦を賜い、三河国渥美郡畠村に追放となった。」とある。
 空米は今でいう先物取引で、一七三〇年には将軍吉宗によって幕府公認の先物取引が行われるようになるが、それ以前にも慣習として広く行われていたと思われる。米相場の安定には欠かせぬものだった。
 多分経済に疎い役人が、先物取引=博打みたいな感覚で安易に禁止する法律を作ったものの、施行してみると杜国のような業界の大物の名が挙がってしまい、尾張藩二代藩主徳川光友の手を煩わすことになったのだろう。
 貞享四年の冬、『笈の小文』の旅の途中で三河の国保美(ほび)に隠棲している杜国のもとを訪ね、

 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき  芭蕉

と詠み、さらに伊良胡崎で詠んだ、

 鷹一つ見付けてうれしいらご崎  芭蕉

の「鷹」も杜国のことではないかとされている。そして翌貞享五年の春、

   乾坤無住同行二人
 よし野にて桜見せふぞ檜の木笠   芭蕉
 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠  万菊丸

と句を詠み交わし、共に旅をすることになる。
 その杜国の訃報を聞いたのが、元禄三年の四月、ちょうど幻住庵に入る頃だった。
 持病の悪化で隠棲し、その間に近江、京都の門人達が頻繁に出入りしては、『猿蓑』の撰でもいろいろと忙しく、忘れかけてた頃に急に夢に現れたのか、目覚めたら涕泣(ていきゅう:涙を流して泣くこと)していた。
 思うに予兆はあったと思う。二十五日の黄山谷之感句で、「杜門覔句陳無己」と「閉門」を「杜門」と書き誤ったあたりに、何か無意識に引っかかるものがあったのかもしれない。この日の丈草の句にも「杜宇啼や」と「杜」の字があった。そうしてものが夢に反映されたのかもしれない。
 ここから先夢談義に入る。

2018年6月24日日曜日

 今日は午前中が雨で午後からが晴。今夜はセネガル戦だが、明日は仕事だからな、無理かな。
 フレデリック・ラルーの『ティール組織』(二〇一八、英治出版)という本を少しづつ読んでいるが、日本はなかなかアンバー組織から抜け出せない。
 思うに近代哲学というのもアンバー組織に対応したもので、多様な欲望や感情に単一の理性が君臨するという霊肉二元論は、アンバー組織そのものだ。
 だから明治の文明開化で西洋の考え方が入ってきたとき、アンバー組織こそが文明の最高のものだという信仰が出来上がったのかもしれない。社会主義も人権思想も基本的にはアンバー組織に対応している。
 中小企業だと日本にはレッドとグリーンの混合型が多いように思える。いわゆる家族的経営というのは、強力な家父長的権威と人情味ある暖かさが共存する。こうした人たちは官僚的なアンバーを嫌う傾向がある。
 働き方改革で問題になっている高度プロフェッショナル制度は、将来日本にもティール組織が広がるなら、年収に関係なく認められる必要があるだろう。反対しているのはアンバー命の連中だし。
 西洋哲学は理性でもって欲望や感情をコントロールすることを要求するが、これは一方で著しく人間の本来あるべき欲望や感情を抑圧し、凡そ生理的に受け入れられないような行為を「汝なしうる」の名のもとに要求する危険がある。ナチスの狂気も感情の爆発ではなく理性の暴走だったし、ディストピアというのもその危険を警告するものだった。

 さて『嵯峨日記』の続き。
 四月廿五の条は更に続く。

 「乙州来りて武江の咄。並燭五分俳諧一巻、其内ニ、

   半俗の膏薬入は懐に
 臼井の峠馬ぞかしこき      其角

   腰の簣に狂はする月
 野分より流人に渡ス小屋一    同

   宇津の山女に夜着を借て寝る
 偽せめてゆるす精進       同

 申ノ時計ヨリ風雨雷霆、雹降ル。雹の大イサ三分匁有。龍空を過る時雹降。
   大ナル、カラモゝノゴ(ト)ク少(小)サキハ柴栗ノゴトシ」

   半俗の膏薬入は懐に
 臼井の峠馬ぞかしこき      其角

 これは連句なので、「半俗」は前句との係りで、多分これは無視してもいいのだろう。膏薬をすぐに取り出せるように懐に入れておくというところから、中山道の難所である碓氷峠を越える時は馬に乗るのが賢明だが、落馬の心配があるので、と付けたのだろう。
 まあ確かに、「僧に似て塵あり、俗に似て髪なし」(野ざらし紀行)という半俗の芭蕉さんも杖突坂で落馬している。

 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな  芭蕉

の句は貞享四年(一六八七)なので、その時のことを思い脱して、芭蕉さんもクスリと笑ったのかもしれない。膏薬だけに。

   腰の簣に狂はする月
 野分より流人に渡ス小屋一    其角

 「簣(あじか)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」には「竹・わらやアシなどを編んで作ったかご、ざるの類。」とある。
 ここでは天秤棒で吊り下げる「もっこ」ではなく腰に下げるタイプのもので、漁師の用いる籠であろう。
 月に狂うならその漁師は只者ではない。都から流れてきた高貴な人物であろう。『源氏物語』「須磨」の俤か。

   宇津の山女に夜着を借て寝る
 偽せめてゆるす精進       同

 これは旅の僧の一夜の迷いか。府中宿の西側の安倍川町には遊女がたくさんいたという。
 宇津の山というと『伊勢物語』に、

 駿河なる宇津の山べの現にも
     夢にも人にあはぬなりけり
              在原業平
の歌がある。
 この日は雷が鳴り雹が降る。申の刻は夏至も近い頃なので、今でいえば四時は過ぎている。「三分匁」は一匁が約2.4センチ(寛永通宝の直径)としてその十分の三だから7.2ミリというところか。
 「龍空を過る時」は竜巻が起きたのか。幸い落柿舎に被害はなかったようだが、この時には唐桃大の雹が降ったという。当時の唐桃(杏)は杏仁を取るための薬用だったから今よりは小さかっただろう。梅よりやや大きいくらいか。「柴栗」は自生する栗で二センチくらいか。竜巻も発生したとあっては、かなりの被害があったあったのではないかと思う。
 翌卯月二十六日、芭蕉、丈草、史邦に乙州、去来が加わり、表六句に一句足りない五句の短い俳諧興行を行う(2017年6月3日の俳話を参照)。