よく、「俳句を作ったことのない人に俳句はわからない」なんてことを言う人がいる。正確には「近代俳句を作ったことのない人には近代俳句はわからない」だと思う。
近代俳句ではなく江戸時代のいわゆる「俳諧」の難しさは、時代の変化による言語や生活習慣や生活実感の違いが主な原因で、句自体は少なくとも同時代の人の多くの共感を得られるように配慮されている。
これに対して、近代俳句は基本的に個人の体験をつづるもので、それを理解するには作者についてある程度関心を持たなくてはならない。句会の席ではお互い顔見知りだから、それほど問題は起こらないかもしれないが、ひとたび句集という形で公にすると、その人間について何も知らない読者は、どう反応していいかわからない。まあ、お決まりのせりふで、「私は俳句のことはよくわかないので何も言えませんが、きっと見る人が見ればすばらしいもののなのでしょうね」ということになる。
その「俳句のことをよくわからない」というのは、結局句会に参加していないため、そこでの独特な考え方や雰囲気や乗りがわからないということで、俳句のことをわかりたかったら句会に参加しなさい、ということなのだと思う。
江戸時代の俳諧に関しては、近代俳句とまたぜんぜんルールが違うし作り方も発想も違うから、今の句会に参加していかにそうそうたる俳暦を築こうとも、はっきり言って糞の役にも立たない。昔の人の言葉に謙虚に耳を傾けるにしかない。
2016年9月30日金曜日
2016年9月29日木曜日
葛(くず)は秋の七草の一つで、和歌にも俳諧にも詠まれてきたが、その多くは葛の葉を詠んだもので、葛の花は珍しい。桃隣編の『陸奥鵆(むつちどり)』の桃隣が芭蕉の『奥の細道』の跡をたどった「舞都遅登理」の中に見つけた。
山路吟
おそろしき谷を隠すか葛の花 桃隣
焼飯に青山椒を力かな 同
尿前(しとまえ)の関のあたりでの句か。鳴子温泉の近くだ。今の鳴子温泉の駅のあるあたりは谷間とはいえ広々としているが、そこから新庄の方へ抜けようとすると、鳴子峡という険しい山間の道になる。今では紅葉の名所になっている。
さっきまで葛の咲いている原っぱだと思っていたら、急に険しい谷間の道に出たので、「おそろしき谷を隠すか」と詠んだのだろう。
焼飯は今日のチャーハンとは違うようだ。兵糧や非常食にも用いられたらしいが、どのようなものかはよくわからない。焼きおにぎりかきりたんぽに近いものか、携帯のできるものであろう。青山椒でスパイシーに味付けして食べたようだ。
葛の葉を詠むのは、
嵐吹く真葛が原に啼く鹿は
うらみてのみや妻を恋ふらん
俊恵法師
わが恋は松を時雨の染めかねて
真葛が原に風騒ぐなり
前大僧正慈円
といった古歌によるもので、葛が風に裏返る様を、裏を見せる=恨みと掛けて用いるのを本意とする。
葛の葉の面見せけり今朝の霜 芭蕉
の句は、芭蕉に一度は反旗を翻していた嵐雪が頭下げて芭蕉の元に戻ってきたときの句で、秋風に翻って裏を見せていた葛の葉も、今朝は霜が下りて葛の葉がしおれて翻らなくなったという意味。
山路吟
おそろしき谷を隠すか葛の花 桃隣
焼飯に青山椒を力かな 同
尿前(しとまえ)の関のあたりでの句か。鳴子温泉の近くだ。今の鳴子温泉の駅のあるあたりは谷間とはいえ広々としているが、そこから新庄の方へ抜けようとすると、鳴子峡という険しい山間の道になる。今では紅葉の名所になっている。
さっきまで葛の咲いている原っぱだと思っていたら、急に険しい谷間の道に出たので、「おそろしき谷を隠すか」と詠んだのだろう。
焼飯は今日のチャーハンとは違うようだ。兵糧や非常食にも用いられたらしいが、どのようなものかはよくわからない。焼きおにぎりかきりたんぽに近いものか、携帯のできるものであろう。青山椒でスパイシーに味付けして食べたようだ。
葛の葉を詠むのは、
嵐吹く真葛が原に啼く鹿は
うらみてのみや妻を恋ふらん
俊恵法師
わが恋は松を時雨の染めかねて
真葛が原に風騒ぐなり
前大僧正慈円
といった古歌によるもので、葛が風に裏返る様を、裏を見せる=恨みと掛けて用いるのを本意とする。
葛の葉の面見せけり今朝の霜 芭蕉
の句は、芭蕉に一度は反旗を翻していた嵐雪が頭下げて芭蕉の元に戻ってきたときの句で、秋風に翻って裏を見せていた葛の葉も、今朝は霜が下りて葛の葉がしおれて翻らなくなったという意味。
2016年9月27日火曜日
律の調べ
秋は空気が澄んでいるということで、音楽の季節でもあった。
一日の仕事を追え、月のある夜は楽器を持ち寄り、雅楽の演奏を楽しむのが王朝時代で言う「遊び」だった。『源氏物語』で「あそび」という言葉が出てくると、まずこの音楽のことだった。
英語でも楽器の演奏はplayと言うから、発想は同じなのだろう。日本人はいつから音楽を「遊」ばなくなったのだろうか。
雅楽は西洋音楽の概念だと「ヘテロフォニック」に分類されるらしい。基本的にはみんなでおなじ一つのメロディーを奏でるのだが、ユニゾンのような単純に同じ音程で演奏するのではなく、その楽器特有の節回しや装飾音などが入るため、そのつど不協和音が生じては同じメロディーに解消されるということを繰り返す。
そこには西洋的なハルモニアは存在しない。むしろ楽器同士の壮絶なバトルが展開される。
竜笛や篳篥などの管楽器は主旋律を競い合い、弦楽器は管楽器の息継ぎの空白を埋めるかのように合いの手を入れてくる。太鼓も役割としては似ている。黒人系の音楽のようなビートを刻むわけではない。
笙はまた独自の役割を担っている。それは制御されたノイズといっていい。それは今日のブラックメタルなどのギターの奏法に近い。いわば音の洪水を作り出すのがその主な役目だ。
ノイズというのは自然界の音だ。木々のざわめき、皮の音、滝の音、波の音、雨の音、雷鳴、すべてホワイトノイズとピンクノイズのブレンドだ。
昔見たテレビの番組で、滝の映像が流れていて、その映像が急に工場の中の映像に変わるというのがあった。ノイズを快く感じるか不快に感じるかは意味論的な問題だ。
芭蕉の句にも、
綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥
という句があったが、これは綿弓を琵琶に聞きなして慰めるという意味で、気持ちの持ちようでは綿弓のブンブンいう雑音も風雅な琵琶の音に聞こえるというものだ。
笙の音色も基本的には自然界の音を模したものであろう。自然界にはよほどの偶然がない限り協和音は存在しない。熱帯の朝の様々な鳥達の声や秋の夜の虫の音はしばしば自然のオーケストラに喩えられるが、どれも定まった音程があるわけではなく、すべて不協和音だ。
自然の持つノイズや不協和音を快いとする感性は、本来多神教文化の中に普遍的に存在していたのではないかと思われる。
古代ギリシャのピタゴラス教団やプラトン学校が数学的秩序を神として崇拝し、それがやがてキリスト教の唯一絶対の神に結びつくことによって、西洋ではハーモニー中心の音楽が発達し、やがて近代になって平均率が確立されることによって一つの完成に至る。
平均率に小さい頃から慣れ親しみ、絶対音感を身につけた者には、虫の音なども不快なノイズに聞こえるらしいし、西洋以外の音楽もノイズと不協和音だらけでどうにも我慢のできないものになってしまったようだ。
明治の日本にやってきた西洋人達も、日本のきらびやかな建築や絵画を見てワンダフルを連発しても、音楽だけはどうしようもなく不快だったようだ。
青い目の外国人に「日本のあれ、音楽ではありませーん。ただの騒音でーす。」なんて言われると、明治の西洋崇拝の文化人達は顔から火が出るほど恥ずかしくなってこの音楽をひたすら隠し、「明治より前には日本には音楽はなかった、節しかなかった。」というキャンペーンをしたのだろう。その甲斐あってか、民謡以外の伝統音楽は急速に廃れていった。
そういうわけで、今日では伝統音楽と言うと正月に聞く琴(正しくは「筝」)の音色のイメージで、雅楽は結婚式の時に聞く「越天楽」くらいになった。その雅楽も、宮内庁雅楽寮では西洋音楽を学ぶことが義務付けられたことによって、かなり西洋化しているものと思われる。まして現代ポップスとの融合となれば、なおさらのことであろう。どっちかといえばブラックメタルやアンビエントと融合させた方が良いと思うのだが。中国のブラックメタルZuriaake(葬尸湖)を聞くと、水墨画のジャケットともあいまって、雅楽を感じさせる。
ヘテロフォニックの音楽の大きな利点は、メンバーが揃わなくてもたまたま揃った楽器だけで十分な演奏が楽しめるということだ。しかも、競い合うように演奏するため、音合わせのために何度もリハーサルをする必要もない。楽器を持った人が何人か集ればすぐにその場で演奏が始められる。『源氏物語』でも何度となくそういう場面が描かれている。
もちろん大きな祭などの儀式のさいの演奏は盛大で、特設舞台での舞などの伴い、そういう時は入念にリハーサルを行なったようだ。賀茂神社の臨時祭の前ともなると、宮中のあちこちからリハーサルの音が聞こえ、中にはふざけて本来殿上人の担当ではない打楽器を打ち鳴らしたり、どこか学園祭前のようなのりを感じさせる。
大宮人にとって雅楽は決して畏まった音楽ではなく、「あそび」という言葉がふさわしいように、かなり気楽にいつでもどこでも楽しんだ、むしろ貴族達の最大の娯楽だったと言ってもいいのではないかと思う。
ところでこの「律の調べ」という季題だが、未だに古典の作例を知らない。
曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には、
「律の調:策隠曰、按ずるに律十二あり。陽六を律とす、黄鐘、太簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射。陰六を呂とす、大呂、夾鐘、中呂、林鐘、南呂、応鐘、是也。名づけて律といふ。○貞徳曰、りちのしらべ秋也。しかれば、呂の声は春になるべき道理なれ共、其さたなければ、呂は雑とす。」(『増補 俳諧歳時記栞草(下)』岩波文庫、p.71~72)
とあるから芭蕉よりはるかに前の松永貞徳の時代には既にあったようだ。
秋は空気が澄んでいるということで、音楽の季節でもあった。
一日の仕事を追え、月のある夜は楽器を持ち寄り、雅楽の演奏を楽しむのが王朝時代で言う「遊び」だった。『源氏物語』で「あそび」という言葉が出てくると、まずこの音楽のことだった。
英語でも楽器の演奏はplayと言うから、発想は同じなのだろう。日本人はいつから音楽を「遊」ばなくなったのだろうか。
雅楽は西洋音楽の概念だと「ヘテロフォニック」に分類されるらしい。基本的にはみんなでおなじ一つのメロディーを奏でるのだが、ユニゾンのような単純に同じ音程で演奏するのではなく、その楽器特有の節回しや装飾音などが入るため、そのつど不協和音が生じては同じメロディーに解消されるということを繰り返す。
そこには西洋的なハルモニアは存在しない。むしろ楽器同士の壮絶なバトルが展開される。
竜笛や篳篥などの管楽器は主旋律を競い合い、弦楽器は管楽器の息継ぎの空白を埋めるかのように合いの手を入れてくる。太鼓も役割としては似ている。黒人系の音楽のようなビートを刻むわけではない。
笙はまた独自の役割を担っている。それは制御されたノイズといっていい。それは今日のブラックメタルなどのギターの奏法に近い。いわば音の洪水を作り出すのがその主な役目だ。
ノイズというのは自然界の音だ。木々のざわめき、皮の音、滝の音、波の音、雨の音、雷鳴、すべてホワイトノイズとピンクノイズのブレンドだ。
昔見たテレビの番組で、滝の映像が流れていて、その映像が急に工場の中の映像に変わるというのがあった。ノイズを快く感じるか不快に感じるかは意味論的な問題だ。
芭蕉の句にも、
綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥
という句があったが、これは綿弓を琵琶に聞きなして慰めるという意味で、気持ちの持ちようでは綿弓のブンブンいう雑音も風雅な琵琶の音に聞こえるというものだ。
笙の音色も基本的には自然界の音を模したものであろう。自然界にはよほどの偶然がない限り協和音は存在しない。熱帯の朝の様々な鳥達の声や秋の夜の虫の音はしばしば自然のオーケストラに喩えられるが、どれも定まった音程があるわけではなく、すべて不協和音だ。
自然の持つノイズや不協和音を快いとする感性は、本来多神教文化の中に普遍的に存在していたのではないかと思われる。
古代ギリシャのピタゴラス教団やプラトン学校が数学的秩序を神として崇拝し、それがやがてキリスト教の唯一絶対の神に結びつくことによって、西洋ではハーモニー中心の音楽が発達し、やがて近代になって平均率が確立されることによって一つの完成に至る。
平均率に小さい頃から慣れ親しみ、絶対音感を身につけた者には、虫の音なども不快なノイズに聞こえるらしいし、西洋以外の音楽もノイズと不協和音だらけでどうにも我慢のできないものになってしまったようだ。
明治の日本にやってきた西洋人達も、日本のきらびやかな建築や絵画を見てワンダフルを連発しても、音楽だけはどうしようもなく不快だったようだ。
青い目の外国人に「日本のあれ、音楽ではありませーん。ただの騒音でーす。」なんて言われると、明治の西洋崇拝の文化人達は顔から火が出るほど恥ずかしくなってこの音楽をひたすら隠し、「明治より前には日本には音楽はなかった、節しかなかった。」というキャンペーンをしたのだろう。その甲斐あってか、民謡以外の伝統音楽は急速に廃れていった。
そういうわけで、今日では伝統音楽と言うと正月に聞く琴(正しくは「筝」)の音色のイメージで、雅楽は結婚式の時に聞く「越天楽」くらいになった。その雅楽も、宮内庁雅楽寮では西洋音楽を学ぶことが義務付けられたことによって、かなり西洋化しているものと思われる。まして現代ポップスとの融合となれば、なおさらのことであろう。どっちかといえばブラックメタルやアンビエントと融合させた方が良いと思うのだが。中国のブラックメタルZuriaake(葬尸湖)を聞くと、水墨画のジャケットともあいまって、雅楽を感じさせる。
ヘテロフォニックの音楽の大きな利点は、メンバーが揃わなくてもたまたま揃った楽器だけで十分な演奏が楽しめるということだ。しかも、競い合うように演奏するため、音合わせのために何度もリハーサルをする必要もない。楽器を持った人が何人か集ればすぐにその場で演奏が始められる。『源氏物語』でも何度となくそういう場面が描かれている。
もちろん大きな祭などの儀式のさいの演奏は盛大で、特設舞台での舞などの伴い、そういう時は入念にリハーサルを行なったようだ。賀茂神社の臨時祭の前ともなると、宮中のあちこちからリハーサルの音が聞こえ、中にはふざけて本来殿上人の担当ではない打楽器を打ち鳴らしたり、どこか学園祭前のようなのりを感じさせる。
大宮人にとって雅楽は決して畏まった音楽ではなく、「あそび」という言葉がふさわしいように、かなり気楽にいつでもどこでも楽しんだ、むしろ貴族達の最大の娯楽だったと言ってもいいのではないかと思う。
ところでこの「律の調べ」という季題だが、未だに古典の作例を知らない。
曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には、
「律の調:策隠曰、按ずるに律十二あり。陽六を律とす、黄鐘、太簇、姑洗、蕤賓、夷則、無射。陰六を呂とす、大呂、夾鐘、中呂、林鐘、南呂、応鐘、是也。名づけて律といふ。○貞徳曰、りちのしらべ秋也。しかれば、呂の声は春になるべき道理なれ共、其さたなければ、呂は雑とす。」(『増補 俳諧歳時記栞草(下)』岩波文庫、p.71~72)
とあるから芭蕉よりはるかに前の松永貞徳の時代には既にあったようだ。
2016年9月26日月曜日
2016年9月25日日曜日
彼岸が江戸時代の俳諧でほとんどテーマにならなかったように、彼岸花も俳諧にはほとんど登場しない。曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には一応「曼珠沙華」と「石蒜(しびとばな)」の二つの項目があり、季題として認識されていたが、曼珠沙華や彼岸花の句が盛んに作られるようになったのは近代に入ってからだ。
一つには、この花の不吉なイメージを俳諧らしい笑いに転じるのが難しかったからではないかと思う。その数少ない句、
弁柄の毒々しさよ曼珠沙華 許六
「弁柄」は酸化第二鉄を主成分とする赤の顔料で、朱や丹ととも古くから用いられてきた。森川許六は彦根藩士で狩野安信に絵を習っているし、芭蕉にも絵を教えていたという。その関係で絵の具のことにも精通していたのであろう。曼珠沙華を描くなら朱や丹ではなく弁柄だなと思ったのだろうか。弁柄の赤は茶色がかかっていて血の色に近い。
血の色もヘモグロビンに含まている鉄が酸素と結合することによるもので、似ているのは理由のないことではない。
「毒々しさよ」には曼珠沙華に毒があることも踏まえられているのか。
曼珠沙華は今ではリコリスというおしゃれな名前でも呼ばれ、色も赤だけでなく白やピンクやいろいろな色がある。ヒガンバナ属を表すlycorisはスペインカンゾウ(licorice)とまぎらわしい。
一つには、この花の不吉なイメージを俳諧らしい笑いに転じるのが難しかったからではないかと思う。その数少ない句、
弁柄の毒々しさよ曼珠沙華 許六
「弁柄」は酸化第二鉄を主成分とする赤の顔料で、朱や丹ととも古くから用いられてきた。森川許六は彦根藩士で狩野安信に絵を習っているし、芭蕉にも絵を教えていたという。その関係で絵の具のことにも精通していたのであろう。曼珠沙華を描くなら朱や丹ではなく弁柄だなと思ったのだろうか。弁柄の赤は茶色がかかっていて血の色に近い。
血の色もヘモグロビンに含まている鉄が酸素と結合することによるもので、似ているのは理由のないことではない。
「毒々しさよ」には曼珠沙華に毒があることも踏まえられているのか。
曼珠沙華は今ではリコリスというおしゃれな名前でも呼ばれ、色も赤だけでなく白やピンクやいろいろな色がある。ヒガンバナ属を表すlycorisはスペインカンゾウ(licorice)とまぎらわしい。
2016年9月24日土曜日
「あるあるネタ」という言葉が使われるようになったのはわりと最近のことのように思える。80年代の漫才ブームの頃にはまだこの言葉はなかったと思う。その頃の漫才ネタでも、いわゆる「あるあるネタ」というのはそんなになかったと思う。
1988年に嘉門達夫が出した「小市民」という曲は、明らかに今で言う「あるあるネタ」に属する。
テツandトモの「なんでだろ〜」のネタは2003年の流行語大賞にもなっている。レギュラーのあるある探検隊はその翌年にブレイク。いつもここからの「悲しい時ー」のネタはそれよりはかなり早い。「あるあるネタ」という言葉が一般に広く認知されるようになったのもこの頃だろう。
とはいえあるあるネタという名前こそないけど、この種のネタは日本のお笑いの伝統の中で様々な形であらわれてきた。
蕉門の俳書『去来抄』にはこうある。
牡年(ぼねん)曰、発句の善悪はいかに。去来曰、発句は人の尤(もっとも)と感ずるがよし。さも有るべしといふは其次也。さも有るべきやといふは又其次也。さはあらじといふは下也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77)
これは蕉門の行き着いた笑いの世界が、今日で言う「あるあるネタ」に極めて近いことを示している。
応々(おうおう)といへどたたくや雪のかど 去来
の句なども、寒いときは「おうおう」と生返事するばかりでなかなか門を開けないという日常のありがちなことを句にしたもので、芭蕉の去った年の冬の句、門人の間で評価の分かれた句だという。
この種のあるあるネタは、蕉門が確立された頃からつけ句の方では普通に見られる。
『冬の日』の「狂句こがらしの巻」は虚栗調を脱して蕉風を確立した記念碑的な一巻とわれていて、そこでの芭蕉の最初のつけ句は、
わがいほは鷺にやどかすあたりにて
髪はやすまをしのぶ身のほど 芭蕉
だった。「鷺に宿貸す」はいかにも隠士の風情をわざとらしく大げさにいった感じがして、虚栗調の影響が見られるが、芭蕉はそれに髪が生えるまで坊主のふりをしている偽坊主を付ける。何か不始末でもしでかして、一時的に坊主になって反省した振りをしてるというわけだ。当時としては、「いるんだよなー、こういうの」といったところだっただろう。
抱き込んで松山広き有明に
あふ人ごとの魚くさきなり 芭蕉
の句なども、海辺の猟師町の明け方にはいかにもありそうなことだ。
あまのやハ小海老にまじるいとど哉 芭蕉
の発句は、今で言えば、♪海人の屋あるある言いたーい、海人の屋あるある言いたーい、‥‥‥小海老にいとどが混じってるー、といったところか。
「あるあるネタ」も実際にあったことを言っているから一種の写生なのだが、近代俳句や近代短歌の写生説がもっぱら作者個人の体験を伝えるのに対し、「あるあるネタ」は多くの人の共通体験であることを想定して提示する。そのため写生に比べて多くの人の共感を得やすくなるし、写生説で成功した句というのは少なからず「あるある」の要素があるのではないかと思う。
芭蕉の有名な、
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
の句も、当時使われなくなった用水池や廃墟となった屋敷の池など、古池は珍しくなく、春になるとそこに飛び込む水の音を聞くことは珍しいことではなかったに違いない。この句は単なる「あるある」を越えて当時の多くの人の「原風景」の域にまで達していたのではないかと思う。
1988年に嘉門達夫が出した「小市民」という曲は、明らかに今で言う「あるあるネタ」に属する。
テツandトモの「なんでだろ〜」のネタは2003年の流行語大賞にもなっている。レギュラーのあるある探検隊はその翌年にブレイク。いつもここからの「悲しい時ー」のネタはそれよりはかなり早い。「あるあるネタ」という言葉が一般に広く認知されるようになったのもこの頃だろう。
とはいえあるあるネタという名前こそないけど、この種のネタは日本のお笑いの伝統の中で様々な形であらわれてきた。
蕉門の俳書『去来抄』にはこうある。
牡年(ぼねん)曰、発句の善悪はいかに。去来曰、発句は人の尤(もっとも)と感ずるがよし。さも有るべしといふは其次也。さも有るべきやといふは又其次也。さはあらじといふは下也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,77)
これは蕉門の行き着いた笑いの世界が、今日で言う「あるあるネタ」に極めて近いことを示している。
応々(おうおう)といへどたたくや雪のかど 去来
の句なども、寒いときは「おうおう」と生返事するばかりでなかなか門を開けないという日常のありがちなことを句にしたもので、芭蕉の去った年の冬の句、門人の間で評価の分かれた句だという。
この種のあるあるネタは、蕉門が確立された頃からつけ句の方では普通に見られる。
『冬の日』の「狂句こがらしの巻」は虚栗調を脱して蕉風を確立した記念碑的な一巻とわれていて、そこでの芭蕉の最初のつけ句は、
わがいほは鷺にやどかすあたりにて
髪はやすまをしのぶ身のほど 芭蕉
だった。「鷺に宿貸す」はいかにも隠士の風情をわざとらしく大げさにいった感じがして、虚栗調の影響が見られるが、芭蕉はそれに髪が生えるまで坊主のふりをしている偽坊主を付ける。何か不始末でもしでかして、一時的に坊主になって反省した振りをしてるというわけだ。当時としては、「いるんだよなー、こういうの」といったところだっただろう。
抱き込んで松山広き有明に
あふ人ごとの魚くさきなり 芭蕉
の句なども、海辺の猟師町の明け方にはいかにもありそうなことだ。
あまのやハ小海老にまじるいとど哉 芭蕉
の発句は、今で言えば、♪海人の屋あるある言いたーい、海人の屋あるある言いたーい、‥‥‥小海老にいとどが混じってるー、といったところか。
「あるあるネタ」も実際にあったことを言っているから一種の写生なのだが、近代俳句や近代短歌の写生説がもっぱら作者個人の体験を伝えるのに対し、「あるあるネタ」は多くの人の共通体験であることを想定して提示する。そのため写生に比べて多くの人の共感を得やすくなるし、写生説で成功した句というのは少なからず「あるある」の要素があるのではないかと思う。
芭蕉の有名な、
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
の句も、当時使われなくなった用水池や廃墟となった屋敷の池など、古池は珍しくなく、春になるとそこに飛び込む水の音を聞くことは珍しいことではなかったに違いない。この句は単なる「あるある」を越えて当時の多くの人の「原風景」の域にまで達していたのではないかと思う。
2016年9月22日木曜日
今日はお彼岸の中日ということで、お彼岸の句を探したのだが、ネットで検索してすぐに出てくるのは次の二句だけだった。
老母をいざなひて物詣しけるに
風もなき秋の彼岸の綿帽子 鬼貫
きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導
後はいわゆる近代俳句だった。
曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には2月のところに「彼岸」という季題は出てくるけど、秋のところにはない。「秋彼岸」という季語は近代にできたもので、江戸時代には「秋」という季語と組み合わせることで秋の句にしていたと思われる。昔は季重なりにはうるさくなかったし、芭蕉の句でも他の季節の季語と組み合わせていることは珍しくない。
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす 芭蕉
梅恋て卯花拝ムなみだかな 芭蕉
といった句も普通にある。内容から季節が明らかに特定できる場合は、他の季節の言葉を重ねても問題はない。
近代の俳句誌ともなると何万句という投稿された句を処理しなくてはならない関係上、足切りのために気重なりの禁を厳密にしたのではないかと思う。
まず最初の句、
老母をいざなひて物詣しけるに
風もなき秋の彼岸の綿帽子 鬼貫
を見てみよう。
暑さ寒さも彼岸までという言葉もあるように、秋の彼岸はようやく暑さが和らぐ程度で、そんなに寒くはない。今日は一日雨でちょっと冷え込んで肌寒い感じだが、それでもまだ半袖で過ごせないことはない。もっとも、地球温暖化の現代に比べれば寒冷期だった江戸時代は、今よりは寒かっただろう。
秋風が吹かなくても、年老いた母のことだから大事を取って、防寒用の綿帽子を被っていたのだろう。綿帽子というと今では結婚式に被るものだが、江戸時代には防寒用として女性の間で広く用いられていたという。江戸時代には綿花の栽培も盛んだった。
名月の花かと見えて綿畠 芭蕉
という句もある。月夜の綿畑だと、今では「うさぎのモフィ」だが。
老いた母をいたわる気持ちがじわっと伝わってくるこうした句は、いかにも大阪談林という感じの句だ。からっとした笑いと冷えさびた風情が売りの蕉門に対し、大阪談林は人情ネタが多い。
きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導
これは蕉門の句。李由・許六(きょりく)撰の『韻塞(いんふたぎ)』に収録されている。
『韻塞』は十月・十一月・十二月‥‥と月別に部立てされているが、この句は八月ではなく「匀(イン)ふたぎ追加」の所に「彼岸」の句として、
百姓の娘の出たつひがんかな 許六
くぐ立の花うちこぼす彼岸哉 支考
きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導
と並べられている。「彼岸」は春秋両方あるため通常の季題とは別枠にくくられていたようだ。
「きらきら」というのは「きらきらし」という古語から来ているもので、絹の衣などのつやつやしている様子を表す言葉だった。
椿は春の季題だがここでは秋なので椿の葉のことであろう。秋になると空気が澄んで光の反射がまぶしく感じられる。近代的な「写生」という意識ではないものの、蕉門の得意とした「あるあるネタ」は時折写生句かと見まごうものがある。
江戸時代の人の感覚からすると、「きらきらと」という言葉は俳言で「のっと日の出る」だとか「かっくりと抜けそむる歯」の延長だったと思われるし、「そういうてみれば確かに秋の椿の葉ってきらきらやな」という声が聞こえてきそうな句だ。
老母をいざなひて物詣しけるに
風もなき秋の彼岸の綿帽子 鬼貫
きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導
後はいわゆる近代俳句だった。
曲亭馬琴編の『増補俳諧歳時記栞草』には2月のところに「彼岸」という季題は出てくるけど、秋のところにはない。「秋彼岸」という季語は近代にできたもので、江戸時代には「秋」という季語と組み合わせることで秋の句にしていたと思われる。昔は季重なりにはうるさくなかったし、芭蕉の句でも他の季節の季語と組み合わせていることは珍しくない。
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす 芭蕉
梅恋て卯花拝ムなみだかな 芭蕉
といった句も普通にある。内容から季節が明らかに特定できる場合は、他の季節の言葉を重ねても問題はない。
近代の俳句誌ともなると何万句という投稿された句を処理しなくてはならない関係上、足切りのために気重なりの禁を厳密にしたのではないかと思う。
まず最初の句、
老母をいざなひて物詣しけるに
風もなき秋の彼岸の綿帽子 鬼貫
を見てみよう。
暑さ寒さも彼岸までという言葉もあるように、秋の彼岸はようやく暑さが和らぐ程度で、そんなに寒くはない。今日は一日雨でちょっと冷え込んで肌寒い感じだが、それでもまだ半袖で過ごせないことはない。もっとも、地球温暖化の現代に比べれば寒冷期だった江戸時代は、今よりは寒かっただろう。
秋風が吹かなくても、年老いた母のことだから大事を取って、防寒用の綿帽子を被っていたのだろう。綿帽子というと今では結婚式に被るものだが、江戸時代には防寒用として女性の間で広く用いられていたという。江戸時代には綿花の栽培も盛んだった。
名月の花かと見えて綿畠 芭蕉
という句もある。月夜の綿畑だと、今では「うさぎのモフィ」だが。
老いた母をいたわる気持ちがじわっと伝わってくるこうした句は、いかにも大阪談林という感じの句だ。からっとした笑いと冷えさびた風情が売りの蕉門に対し、大阪談林は人情ネタが多い。
きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導
これは蕉門の句。李由・許六(きょりく)撰の『韻塞(いんふたぎ)』に収録されている。
『韻塞』は十月・十一月・十二月‥‥と月別に部立てされているが、この句は八月ではなく「匀(イン)ふたぎ追加」の所に「彼岸」の句として、
百姓の娘の出たつひがんかな 許六
くぐ立の花うちこぼす彼岸哉 支考
きらきらと秋の彼岸の椿かな 木導
と並べられている。「彼岸」は春秋両方あるため通常の季題とは別枠にくくられていたようだ。
「きらきら」というのは「きらきらし」という古語から来ているもので、絹の衣などのつやつやしている様子を表す言葉だった。
椿は春の季題だがここでは秋なので椿の葉のことであろう。秋になると空気が澄んで光の反射がまぶしく感じられる。近代的な「写生」という意識ではないものの、蕉門の得意とした「あるあるネタ」は時折写生句かと見まごうものがある。
江戸時代の人の感覚からすると、「きらきらと」という言葉は俳言で「のっと日の出る」だとか「かっくりと抜けそむる歯」の延長だったと思われるし、「そういうてみれば確かに秋の椿の葉ってきらきらやな」という声が聞こえてきそうな句だ。
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