2022年7月8日金曜日

 ボリス・ジョンソンさんが辞任したと思ったら、今日は安倍さんが撃たれて、つい今しがた亡くなったという報道があった。
 安倍さんのまだなくなる前だったが、『恒久平和のために(仮)』というのを書いてみたけど、まあ、いつもここに書いているようなことを、ちょっと長くしたような内容だけどね。本としては短い、小冊子程度のものだから、99円は高いと思うかもしれない。
 まあ、こういう時代だから、何か言いたい人は気軽にKindle ダイレクト・パブリッシングで出版してみるといいんじゃない。

 それでは「東路記」の続き。

 「〇大津とおい分の間に、大谷と云所に、はしり井と云井、南の方にあり。おい分は、京と伏見へゆく道のちまた也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30~31)

 大谷は京阪京津線大谷駅があり、逢坂の関跡より少し先になる。山科盆地へ降りる途中の国道1号線沿いの南側に月心寺という寺があり、そこに走井がある。
 山科盆地に出た所に京阪京津線追分駅がある。駅の近くに髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)があり、ここが京都へ向かう東海道と伏見に向かう大津街道の分岐点になる。

 「大津と伏見の間に、勧修寺の茶屋有。是を大亀谷と云は非なり。茶、こがらしなど多く売所なり。むかへに勧修寺御門跡あり。其辺に宮道の弥益の社有。夫婦の社なり。醍醐天皇の御外祖父なり。其事は宇治物語などにあり。道ばたの北のかたにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 勧修寺は山科盆地の南の端で、近くを名神高速(中央自動車道西宮線)が通っている。京都市営地下鉄東西線の小野駅があり、このあたりが歌枕にあった小野の一つだった。
 勧修寺はウィキペディアに、

 「勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区勧修寺にある真言宗山階派の大本山の寺院。山号は亀甲山。本尊は千手観音。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊である。寺紋(宗紋)は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。門跡寺院であり、「山階門跡」とも称する。
 寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。」

とある。
 門跡は皇族や公家が住職を務める寺院のことで貝原益軒も「勧修寺御門跡」と表記している。昔は大津街道の反対側の南側に茶屋があったようだ。勧修寺下ノ茶屋町の地名が残っている。大亀谷はここから深草の山を越えたJR藤森駅の方にある。
 勧修寺の近くには吉利倶八幡宮(きりくはちまんぐう)がある。男石女石を一対にした「安産の神」がある。

 「〇京の方へゆけば、山科の前に左へ行道あり。是は、しる谷越にゆき、清水の下へ通る道也。清水の南の山辺を、苦集滅道と云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 しる谷越えの道は渋谷街道で、渋谷(しぶたに)を「しるたに」と呼ぶこともあった。元は滑谷(しるたに)だったとも言う。今はJR東海道本線や国道一号線が京都に入るその近くを越えて行くと、清水寺の南に出る。。髭茶屋追分で大津街道に入って少し行った所に渋谷街道の分岐点があった。
 渋谷街道の清閑寺から清水寺へ行道は苦集滅道(くずめじ)と呼ばれていた。苦集滅道(くじゅうめつどう)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「苦集滅道」の解説」に、

 「〘名〙 (duḥkha-samudaya-nirodha-mārga の意訳) 仏語。仏教の根本教理を示す語。苦は人生における苦しみで四苦八苦をさし、集は苦の原因である煩悩の集積のこと、滅はその煩悩を滅し尽くした涅槃(ねはん)を意味し、道は涅槃に達するための方法で八正道のこと。釈迦はこの理を悟って成仏した。四諦(したい)。くじゅめつどう。くずめつち。
  ※正法眼蔵(1231‐53)摩訶般若波羅蜜「また四枚の般若あり。苦・集・滅・道なり」 〔北本涅槃経‐一二〕」

とある。

 「山科、すべて八郷あり。僧正遍照が居たりし花山と云所も道の左にあり。遍照が居たる寺あり。元慶寺と云。此辺に、しぶ柿の木多し。はたけは、みな柿園なり。凡、幾千株と云事をしらず。伏見山の桃のごとし。
 京へ行くかい道の右に、陵と云村有。天智天皇の御陵あり。此辺の野を御廟野といふも此故なり。御上洛の時、京都町々の年寄共、皆、此野に御迎に出て、拝謁す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 山科の八郷というのは古代宇治郡の八郷のことであろう。ウィキペディアに、「大国郷、賀美郷、岡屋郷(乎加乃也)、餘戸郷、小野郷(乎乃)、山科郷(也末之奈)、小栗郷(乎久留須)、宇治郷」とある。
 花山は渋谷街道の峠の辺りにその地名が残っている。コトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plus「遍昭」の解説」に、

 「816-890 平安時代前期の僧,歌人。
弘仁(こうにん)7年生まれ。桓武(かんむ)天皇の孫。良岑安世(よしみねの-やすよ)の子。素性の父。蔵人頭(くろうどのとう)のとき仁明(にんみょう)天皇の死で出家,天台の僧となる。京都花山(かざん)に元慶寺をひらき座主(ざす)となり,花山僧正とよばれた。仁和(にんな)元年僧正。六歌仙,三十六歌仙のひとりで,「古今和歌集」以下の勅撰集に35首とられる。寛平(かんぴょう)2年1月19日死去。75歳。俗名は良岑宗貞(むねさだ)。名は遍照ともかく。家集に「遍昭集」。」

とある。元慶寺(がんぎょうじ)は今もあるが、ウィキペディアには「現在の建物は安永年間(1772年 - 1781年)の再建と伝わる。」とある。昔はこの辺りで柿の栽培が行われていたのだろう。渋柿は染料としての柿渋の生産としても重要だった。
 『阿羅野』の「月に柄を」の巻十三句目の、

   月の夕に釣瓶縄うつ
 喰ふ柿も又くふかきも皆渋し   傘下

は山科の柿だったのかもしれない。
 東海道の山科の出口の方には今も御陵のつく地名があり、地下鉄東西線に御陵駅がある。天智天皇山科陵 (御廟野古墳)がある。

 「日の岡、嶺に坂有。日の岡と云里あり。其さきに義経のけあげの水あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 この先山に入ると日ノ岡峠になる。峠を越えると地下鉄東西線の蹴上駅がある。近くに本願寺水道水源地があり、この辺りは水の脇出る場所だったようだ。
 義経がまだ牛若丸だったころ、金売吉次の案内で奥州平泉に行く時、日ノ岡峠で喧嘩をしたエピソードによるもののようで、相手の馬が水を跳ねたからだとか、切り捨てた後の刀を洗ったからだとか、諸説あるようだ。

 「粟田口、京より東国へ出口なり。道の南、青蓮院御門跡あり。左の山上に将軍塚あり。道よりは見えず。右に南禅寺、黒谷、吉田、白川の方に行道在。粟田山は名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 この辺り一帯は粟田口と呼ばれていて、ここから先が京になる。京を出る人からすれば東国への出口になる。
 峠を降りて三条の道に入ると左に青蓮院門跡がある。ウィキペディアに、

 「青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。開山は伝教大師最澄、現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。」

とある。
 将軍塚はその裏の山の上にある。この山は清水寺の山に繋がっている。
 南禅寺は三条の道に入る所の右側にある。
 「黒谷、吉田、白川の方に行道」は今の白河通りであろう。
 粟田山は、

 粟田山越ゆとも越ゆと思へども
     なほ逢坂は遥けかりけり
              よみ人しらず(夫木抄)
 見るたびに煙のみたつ粟田山
     はれぬ悲しき世をいかにせむ
              よみ人しらず(夫木抄)

などの歌に詠まれている。

 「白川橋、此川は白川より出るなり。左に、智恩院、祇園、清水へ行道あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 白川橋は地下鉄東西線の東山駅に近い。智恩院は青蓮院門跡の南にある。祇園は八坂神社でその南西にある。清水寺はそのさらに南の方になる。

 「三条の大橋、是より京へ入なり。此川は、賀茂川の下なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.31)

 そして東海道の終点、三条大橋に到着する。賀茂川に架かる。

2022年7月7日木曜日

 これまでの戦争は基本的には経済的な動機があった。増え続ける余剰人口を食わせていかなくてはいけないというものだ。
 今のロシアにも中国にもその必然性が何もない。動機があるとすれば冷戦でアメリカに負けた恨みくらいだ。となると、今の戦争は独裁者のみプレイ可能なゲームになったのだろうか。
 経済的な動機のない、最初から経済なんてどうなってもいいというゲームなら、経済制裁は何の意味もない。
 国益のための戦いでないから、交渉の材料もない。
 ここまでやれば終わりという勝利条件自体が設定されてないから、停戦交渉に意味はない。基本的には世界を征服するまで終わりがない。
 やっていることは愉快犯に近いので、基本的には単純な暴力以外に止める方法がないのではないかと思う。
 こんな空虚なゲームに死んでゆく沢山の人たちっていったい何なんだ。まるでNPCを相手にしているかのような戦争だ。とにかく嫌な予感しかしない。

 それでは「東路記」の続き。

 「蛍谷は、勢多と石山の間なり。四月下旬の比、此谷より夜ごとに蛍おびただしく飛出て、橋の南北にとびちり、数万の蛍、又一所にあつまり、丸くかたまりて空にあがり、其かたまり、水の上におちてちると云。毎夜かくのごとし。漸々、日をおふて川下へ下る。宇治にては五月上旬の比、蛍多きさかりなちろ云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)

 勢田の蛍船は俳諧でも詠まれている。『談林十百韻』の「青がらし」の巻十句目に、

   火影立へついの外に飛蛍
 でんがくでんがく宇治の川舟   執筆

の句があり、蛍見物に人が集まってくると、そこに味噌田楽を売る声も響き渡る。
 芭蕉も元禄三年の幻住庵滞在の頃、勢田川の蛍船に乗って、

 蛍見や船頭酔うておぼつかな   芭蕉

の句を詠んでいる。
 蛍は勢田から宇治にかけて広く楽しめたので、そのつど蛍見物の船で賑わったようだ。

 〇勢田より大津の札のつじまで、一里半あり。大津、松本、膳所、此三所は町つづきたるやうにて別也。勢多と膳所の間、粟津が原なり。今井四郎兼平が墓あり。木曾義仲の墓は、膳所の民家のうらにあり。道の南也。柿の木二本、其しるしにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)

 大津、松本、膳所は今はいずれも大津市で一つになっている。昔は町は繋がっていても別々という名古屋と熱田、福岡と博多のような状態だったのだろう。
 大津は宿場町で、蕉門では智月・乙州の親子がいた。
 松本は港町で、元禄三年の「ひき起す」の巻十八句目に、

   花さくを旅すく人もなかりけり
 舟ならべたる松本の春

の句もあった。ここには風流人は少なかったのだろう。松本に棲んでいた丈草も膳所を拠点としていた。膳所の門人と智月・乙州・丈草の間に何となく距離感があるのは、すぐ近くだけど別の町と認識されていたからなのだろう。
 膳所はこの後芭蕉がやって来て、近江蕉門の中心地になる。元禄三年の幻住庵滞在に続き、木曽義仲の墓の隣に無名庵を構え、終には自らも木曽義仲の墓の隣で眠ることになった。
 義仲寺はウィキペディアに、

 「江戸時代になり再び荒廃していたところ、貞享年間(1684年 - 1688年)に浄土宗の僧・松寿により、皆に呼び掛けて義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し、小庵も建立して義仲庵と名付けて再建が行われ、園城寺の子院・光浄院に属するようになった。元禄5年(1692年)には寺名を義仲寺に改めている。」

とある。貞享元年の時点では義仲寺はまだなく、木曽義仲の墓は民家の裏にあり、柿の木二本だけがその印だった。

 「松本の辺、湖のはたより、ひゑの山、坂本、八王子、堅田、志賀、唐崎の一松、三井寺の上の長等山など見えて、好景なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)

 この記述からしても、当時の松本の湊は今の大津港より南東の滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールの辺りだったのではないかと思う。今残っている松本の地名もこっちに近い。

 「大津の八町坂の右に、関の明神あり。此神は、蝉丸なりと云。いぶかし。此社のほとりに関の清水とてあり。但、古人の説には、関の清水のあり所たしかならずと見えたり。
 左の方に関寺あり。其先に、昔、相坂の関の有し所あり。此上の山は相坂山也。関の小川も此辺ならん。家隆の歌に、『立帰りなを相坂にいしまゆく関の小川の花の白波』。経家の歌に、『紅に関の小川はなりにけり音羽の山に紅葉ちるらし』。音羽の山は清水寺の山をいへども、相坂の南の山をも、音羽山といふ。又、比叡山にも音羽のたきあり。関山と云も相坂山なり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.30)

 大津宿を出るとすぐに関蝉丸神社下社があり、逢坂山の山の中に入って行く。
 白河の関にも関の明神があり、本来関の明神は関所毎にあったのだろう。ただ、逢坂の関に関しては関蝉丸(せきせみまる)神社になっている。
 貞享の頃はまだ「関の明神」と呼ばれていたのだろう。今は完全に蝉丸に乗っ取られた形になっている。

 あふさかの関のし水に影見えて
     今やひくらんもち月のこま
              紀貫之(拾遺集)

の歌にも詠まれている。朝廷に八月十五日に献上される馬を詠んでいる。
 その後も、

 こえて行くともやなからむあふ坂の
     せきのし水のかげはなれなば
              源定房(千載集)
 逢坂の関の清水のなかりせば
     いかでか月の影をとめまし
              藤原顕輔(続拾遺集)

などの歌に詠まれている。
 今の関蝉丸神社下社にも関の清水の跡というのがあるが、本当にここだったかどうかははっきりしない。
 現代だと、坂を登ってゆくと関蝉丸神社上社があり、その先の右に逢坂山弘法大師堂があるが、いわゆる関寺はない。ウィキペディアに、

 「関寺(世喜寺、せきでら)は、かつて近江国逢坂関の東(滋賀県大津市逢坂2丁目付近)にあったとされる寺院。現在は存在しないが、長安寺がその跡地に建てられているとする説がある。」

とあるが、現在の長安寺は関蝉丸神社下社よりも大津宿に近い所にある。
 逢坂の関跡は坂山弘法大師堂よりも先で、京阪京津線大谷駅よりは手前にある。大谷駅の近くには、ここにも蝉丸神社拝殿がある。
 この辺りも谷なっていて、関の小川があったのだろう。引用された、

 立ち帰りなほ逢坂にいしまゆく
     関の小川の花の白波
              藤原家隆(壬二集)
 紅に関の小川はなりにけり
     音羽の山に紅葉ちるらし
              藤原経家(六百番歌合)

の歌の外にも、

 音羽山紅葉散るらし逢坂の
     関の小川に錦おりかく
              源俊頼(金葉集)

の歌があり、『歌枕名寄』にも見られる。
 音羽山は逢坂の関の南にあり今は真下を東海道新幹線が通っている。
 関山を詠んだ歌は、

 関山の峰の杉むらすぎゆけど
     近江は猶ぞはるけかりける
              よみ人しらず(後撰集)

の歌がある。

2022年7月6日水曜日

 俵万智さんが、「実感のないこと歌になりづらし」という上句にAIで下句を考えさせたら、

   実感のないこと歌になりづらし
 われに歌ありとうしろ姿に
 喝采を受けずにはいられない

という付け句が出てきたという。俵さんは感動したようだが、連歌俳諧を知っているものとしてはまだまだだなと思う。両方とも単純な心付けで変化に乏しい。
 AIが連歌や俳諧の付け筋を覚えればもっと面白いと思う。
 物付けだと「歌」に例えば「花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける」(古今集仮名序)の縁で、歌に蛙を付けるとかもできる。

   実感のないこと歌になりづらし
 蛙に遊ぶ古池もなく

とかいう展開もできる。
 前句が嘆きの句なので「咎めてには」というのも使える。

   実感のないこと歌になりづらし
 ネタがなくても機械頼るな

 AIがこんな自虐をすると面白いかも。
 そういえば今日は新暦の七月六日、サラダ記念日だ。口語短歌の精神は今の仁尾智さんにも受け継がれている。

 それでは「東路記」の続き。

 「鳥井本より彦根へゆき、彦根より八幡といふ所にゆき、それより野洲に出る海道有。是を『近江の下道』と云。平地にてよき道なり。沙地なり。列樹の松あり。将軍家御上洛の時は、此道を御通りあり。朝鮮信使来れば、毎度此道を通る。鳥居本より彦根へ一里、彦根より八幡へ六里、八幡より守山へ三里半あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 この「近江の下道」は今日では朝鮮人街道という。朝鮮通信使が通ったことでこの名前があるだけで、それ以上の意味はない。チョソンサラム街道と呼んだ方が良いのか。ウィキペディアには、

 「朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう)は、近江国(滋賀県)に存在した近世の脇街道である彦根道(ひこねみち)、京道(きょうみち)および八幡道(はちまんみち)の異名である。中山道(上街道)との比較で下街道・浜街道、あるいは朝鮮人道、唐人街道などともいう。」

とある。
 旧中山道は鳥居本を通って山の中を出ると、そのまま真っすぐ高宮へ向かうが、途中で右へ折れて佐和山城跡の南を通って彦根へ向かうのがチョソンサラム街道になる。彦根道とよばれる道が一部国道8号線と並行して通っている。JR彦根駅付近を越えると彦根城の前で左に折れ、荒神山の南を通って安土へと向かう。
 ウィキペディアによると、元は織田信長が安土を通るように作った道だという。

 「中山道が安土城下を経由しないため、織田信長が天正4年(1576年)に安土城を築いたときに岐阜城から安土城を経由して京都に向かう道として整備し、安土城築城後の天正5年(1577年)に城下に宛てた13ケ条の定書において「安土発展のため中山道ではなく、この街道を通ることが原則」とされ、安土落城後に同地を支配した豊臣秀次は八幡建設後町衆に対して同様の定めを公布し、この道の利用を奨励した。」

とある。

 「彦根と八幡の間に安土あり。信長公の城あとなり。安土に今も町少有。在家有。八幡と野須の間に、長原と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 信長亡き後は安土もすっかり寂れ、道だけは朝鮮通信使の通り道として役に立った。まあ、ヒットラーがアウトバーンを残したようなものか。
 JRの篠原駅と野洲駅の間に滋賀県野洲市永原という地名が残っている。旧中山道の道からは外れていて、こちらを朝鮮人街道が通っていたのだろう。野洲で旧中山道に合流する。

 「八幡は町広き事、大津程なる所にて、富る商人多く、諸の売物、京都より多く来り、万潤沢にして繁昌なる所なり。町の北に八幡山有。秀吉公の養子、秀次の居城也。秀次を近江中納言と称せしも、爰に居城有し故也。
 此町にて、蚊帳を多くおり、染て売る。京、大坂、江戸、諸方へも、ここよりつかはす。
 是より観音寺山へ三里あり。東にあたる。越智川へ二里半有。其間に右に書し佐々木明神の社有。篠原の里は守山と草津の間にあり。又、此間に、うね野と云名所あり。野路は、草津と大津の間にあり。此辺より、比良の高峯、比叡の山、八王子、堅田の浦など見ゆる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 八幡は今の近江八幡で、大津と並ぶ大きな街だった。
 八幡山には八幡山城跡がある。今はロープウェイがある。ウィキペディアに、

 「八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市宮内町周辺(近江国蒲生郡)に存在した日本の城(山城)。羽柴秀次の居城として知られる。別名近江八幡城とも呼ばれている。」

とある。秀次は秀吉の姉の子で、秀吉の養子になり、秀吉の跡を継いで関白の位に就いたが、秀吉に実子が誕生したことで処分された。
 近江蚊帳は近江八幡の名産品で、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「近江蚊帳」の解説」に、

 「近江(滋賀県)の特産である蚊帳。蒲生(がもう)郡八幡(はちまん)および坂田郡長浜を主産地とし、それぞれ八幡蚊帳、長浜蚊帳(浜蚊帳)とよばれた。八幡では早く天正(てんしょう)年間(1573~92)から奈良蚊帳を売買する商人がいたが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)ころになると地元の麻糸を買い集めて蚊帳を織らせ、八幡蚊帳として売り出すようになった。寛永(かんえい)(1624~44)になると越前(えちぜん)(福井県)から大量の麻糸を輸入して生産するに至り、1639年(寛永16)には町内蚊帳屋17軒、1653年(承応2)ころには仲間の「えびす講」で申合せを定めるまでに発展した。また寛文(かんぶん)年間(1661~73)には八幡から長浜に製作技術が伝わり、農家の副業として隆盛に赴いた。八幡蚊帳の盛期は享保(きょうほう)・元文(げんぶん)(1716~41)ころで、仲間も古組・新組・新々組の3組計47名に上った。」

とある。
 二代目西川甚五郎が寛永の頃に麻を萌黄色に染めて朱色の縁を付けた蚊帳を売り出し、これが蚊帳の定番になったという。

 君が春蚊屋はもよぎに極りぬ   越人

の句が『去来抄』にある。萌黄色の蚊帳が不動であるように、君への思いも変らないという恋の誓いを歳旦に寄せて詠んでいる。
 観音寺山は安土の方に戻ることになり、東になる。越智川は愛智川か。佐々木明神(沙沙貴神社)もこの方角にある。
 篠原はJRの駅があるが、武佐宿と守山宿の間にある。鏡山の西側一帯に大篠原、小篠原の地名がある。うね野は、

 近江より朝たち来ればうねの野に
     田鶴ぞ鳴くなる明けぬこの夜は
              大歌所御歌(古今集)
 田鶴の棲む冬の荒田の畝の野に
     ひとむら薄一夜宿貸せ
              藤原家隆(洞院摂政家百首)

などの歌に詠まれている。場所は定かでない。
 野路は草津宿の少し先にある。JR南草津駅の辺りになる。ここまで来ると琵琶湖の向こうの山々がよく見える。
 比良の高峯は瀟湘八景にも「比良暮雪」があり、『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻三十句目に、

   青天に有明月の朝ぼらけ
 湖水の秋の比良のはつ霜     芭蕉

の句がある。
 比良の南が比叡山になる。八王子山は比叡山の手前の低山で、堅田は比良の麓の琵琶湖の細くなっている所で近江八景に「堅田落雁」がある。
 堅田の浮御堂では元禄四年の、

   堅田既望
 安々と出でていさよふ月の雲   芭蕉
 錠明て月さし入よ浮御堂     同

の句がある。

 「鈎里、草津の東に在。将軍義尚の陣所也。延徳元年此所に卒す。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 鈎(まがり)里は今の栗東市に下鈎・上鈎という地名が残っている。ちなみに栗東市(りっとうし)という名称は古代の栗太郡の東部という意味で、『和名類聚抄』では「栗本郡」と記されているという。栗の巨木の伝説に関係があるのか。
 足利義尚の鈎陣所がここにあった。ウィキペディアに、

 「応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった。義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。」

とある。

 「瀬田の橋の下の川は、近江国中の水、ことごとく湖に入て其末流也。是より宇治へ流れ、淀にいづ。勢多より石山へ、半里余有。石山のしもに、供御の瀬あり。かちにてもわたる。
 其下に、しし飛と云所あり。両岸の間を大河流れ、其岩の間近き故、鹿、此所をとび渡ると云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29~30)

 近江の国に降った雨や雪は琵琶湖に流れ込み、その琵琶湖の水は勢田川から出て行く。今は天ヶ瀬ダムから下が宇治川になる。橋本で桂川や木津川と合流して淀川になる。
 文和千句第一百韻、九十九句目に、

   ふたつの川ぞめぐりあひぬる
 佐保山の陰より深し石清水    良基

の句があるが、これは佐保山から流れ出た木津川の水が、桂川・宇治川の二つの水と廻り合うという意味になる。この合流点の橋本に石清水八幡宮がある。
 瀬田の唐橋のすぐ南に石山寺がある。
 供御の瀬はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「供御瀬」の解説」に、

 「滋賀県大津市田上黒津(たなかみくろづ)町付近にあった浅瀬。天皇や将軍の食膳(しょくぜん)に供するため、黒津の浅瀬に田上の網代(あじろ)を設けて氷魚(ひうお)(アユの稚魚)をとったことからこの名が生まれたと伝えられる。また瀬田川唯一の徒渉(としょう)地で戦略的な要地でもあった。膳所(ぜぜ)藩は網代経営を表向きの理由として兵を常駐させ、瀬田橋の破壊に備えた。現在では瀬田川の浚渫(しゅんせつ)工事や南郷洗堰閘門(あらいぜきこうもん)設置で水没した。[高橋誠一]」

とある。
 黒津は大戸川と勢田川の合流点辺りの地名で、店の名前などには「田上」の地名も残っている。グーグルアースで見ると合流点は土砂が堆積して細くなっていて、浅瀬が残っているように見える。かつてはこれがもっと広く、広い浅瀬を形作っていたのだろう。
 一九六一年、黒津の浅瀬に南郷洗堰が作られ、その上の方は今は漫々と水をたたえている。
 おそらく合流点の東側の広い田んぼは、かつては低湿地で遊水池の役割を果たしていたのだろう。ここが干拓されてしまうと、そこの水害を防ぐために堰が必要になる。そういう事情だったのではなかったか。
 田上の川下は一転して山の間を流れるようになる。大石は小さな盆地になっていてそこに鹿跳橋があり、この谷が今も鹿跳渓谷と呼ばれている。

2022年7月5日火曜日

 この世界の答えなんて誰も知らないわけだし、本当のことなんて誰にも分らない。それでも政治というのは何らかの決断を下さなくてはならない。
 だから「こんな俺が国の大事なことを決めちゃって本当に良いのだろうか」なんて思う必要はない。どんな偉い人だってまともな決断などできないんだから、あんたに助けを求めているんだ。そう思えば投票を躊躇する必要なんかない。
 間違ったことを信じて独裁政治をしようとしている奴を止めるのが、選挙の役割だ。この世界に正解はない。みんな間違っている。その点では政治家も有権者も五十歩百歩なんだ。だからみんな平等に一票なんだ。

 それでは「東路記」の続き。

 「此辺、四十九院と云所あり。此辺、ゑち川などの東に、犬上山、鳥籠山、さや川あり。道ゆきびりに尋て見るべし。皆、名所也。〇高宮の西の大山を、和田山と云。其南の山を、荒神山と云。其南なる長き山を、いば山と云。其南は観音寺山なり。其南は箕作山也。是皆、近江の国なかにある山なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 高宮と愛知川の間の滋賀県犬上郡豊郷町に四十九院という地名が残っている。
 四十九院はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「四十九院」の解説」に、

 「① 彌勒菩薩の居所、兜率天(とそつてん)の内院にある四九の宮殿。
  ※梁塵秘抄(1179頃)二「金(かね)の御嶽は四十九院の地なり、媼(をうな)は百日千日は見しかど得領(し)り給はず」
  ② 行基が畿内に建てたという四九の寺院。
  ※顕戒論(820)上「一向大乗寺此間亦有、謂レ如二行基僧正四十九院一」
  ③ 平安時代、ひとつの寺院の境内に、①に模して設けた堂宇。
  ④ 鎌倉以後、墳墓の前面に六基、左右に各一四基、後面に一五基、合わせて四九基の塔婆を建てたもの。」

とある。②の寺院の一つがここにあったのか。
 鳥籠山(とこのやま)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「鳥籠山・床山」の解説」に、

 「滋賀県彦根市にある正法寺山の古名。不知哉(いさや)川(芹川)の北岸にある。一説に大堀山のこととも。
  ※書紀(720)天武元年七月(北野本南北朝期訓)「近江の将秦友足(はたのともたる)を鳥籠山(トコノヤマ)に討ちて斬りつ」

とある。
 正法寺山は芹川の北ということになると彦根になる。旧中山道が芹川を渡る所の東側に鞍掛山があり、西側に大堀山がある。どっちも低い山だ。
 古代東山道には鳥籠駅があるが、それもこの辺りか。
 犬上山は犬上川の方なのだろう。どの山なのかよくわからない。さや川は不知哉(いさや)川で、今の芹川になる。
 荒神山(こうじんやま)は大分湖に近い方になり、荒神山城跡がある。和田山はそれより愛知川を遡った中山道に近い所にある。位置的には荒神山の方が北になる。和田山と観音寺山の間にある「いば山」は石馬寺の後にある伊庭山(いばやま)のことであろう。その南に今は繖山(きぬがさやま)と呼ばれている観音寺山があり、旧中山道を隔てた向こうに箕作山(みつくりやま)がある。

 「愛智川の宿の西にある川を、愛智川と云。俊頼の歌あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 俊頼の歌は、

 えちかはに岩越す棹のとりもあえず
     下ろす筏のいちはやの夜や
              源俊頼(夫木抄)

の歌であろう。『散木奇歌集』には「落とす筏の」とある。

 「観音寺山は、愛智川と武者の宿の間にあり。山の南の方の麓を通る。山上に観音寺堂有。三十三所の順礼観音也。僧坊、九あり。観音堂より上に、佐々木氏の代々の城あとあり。城の大手は、南方にあり。観音寺山のむかへ五六町ばかりに、箕作の城あと有。最高き所也。是は佐々木義秀の一族、佐々木承禎が居城なり。観音寺山とひとしき高山なり。建部明神は、箕作山の東の麓にあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28~29)

 観音寺山は今は繖山(きぬがさやま)と呼ばれている。南東に箕作山(みつくりやま)があり、旧中山道はこの二つの山の間を通る。
 「武者の宿」は武佐宿で、近江八幡に近く、近江鉄道万葉あかね線の武佐駅がある。
 今の繖山には繖山観音正寺がある。ウィキペディアには、

 「実際の創建時期については不明であるが、遅くとも11世紀の平安時代には既に存在していた。また、元弘3年(1333年)に足利高氏に攻められた六波羅探題北方北条仲時が後伏見上皇・花園上皇および光厳天皇を連れて東国に下ろうとした際に、両院(上皇)や天皇の宿舎に充てられたとする伝承がある。」

とある。また、佐々木氏の城について、

 「観音正寺が位置する繖山には、鎌倉時代以来近江国南半部を支配する佐々木六角氏の居城である観音寺城があったが、六角高頼が観音寺城を居城として以来、寺は六角氏の庇護を得て大いに栄えた。寺伝によると最盛期には72坊3院の子院を数えたとされる。」

とある。

 「江戸時代に入り、西国三十三所の霊場として栄えた観音正寺は、天保12年(1841年)には塔頭として、定円坊、本乗坊、松林坊、宝泉坊、観泉坊、松寿坊、徳万坊、光林坊、教林坊の10か坊が存在していたが、明治時代に入ると教林坊を残して廃絶した。」

とあり、ここにも廃仏毀釈の影響があった。
 反対側の箕作城はウィキペディアに、

 「箕作城(みつくりじょう)は、現在の滋賀県東近江市五個荘山本町箕作山の山上に築かれた六角氏の城館(日本の城)。」

とある。
 繖山は432m、箕作山は373m、高さはそれほど違わない。
 建部明神は今の地図を見てもそれらしきものはない。近江国一之宮の建部大社は大津にある。

 「老曾の森は、観音寺山のふもと、清水と云所の少西にあり。海道のはた也。老曾村に町あり。此あたりに、すくもと云物あり。地をふかくほりて取る。黒土のごとく、柴の葉のくちたるに似たり。其中に木の枝の有もあり。火を付れば、よくもゆる。火をたもつ。里人、是を掘て薪とし、うる。
 里人は是を、『むかしの栗の木の葉なり』といふ。いぶかしき物なり。昔、此辺に大なる栗の木有しと云。続酉陽雑俎に、『東海に大栗あり』と云へり。『若。此栗の事にや』と云人あり。いぶかし。(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 老蘇森(おいそのもり)は観音寺山と箕作山の間の谷を出た辺りにあり、国道八号線と新幹線の線路が横切っている。旧中山道はそれと交差するように南に向かい、老蘇森を右に見ることになる。
 清水というのは箕作山の北側に清水山があり、その麓辺りをそう呼んでいたか。古代東山道にも清水駅がある。
 「すくも」は籾殻を意味する場合もあるが、ここでは別のもので、腐葉土の一種のようだ。藍染の過程で、藍の葉を発酵させたものも「すくも」というが、それとも違うようだ。よく燃えるというから泥炭と言った方が良いのだろう。
 ウィキペディアの「泥炭」の所に、

 「主に気温の低い涼しい気候の沼地で、植物の遺骸が十分分解されずに堆積して、濃縮されただけの状態で形成される。泥炭が蓄積した湿地帯を泥炭地と呼び、日本では主に北海道地方を中心に北日本に多く分布する。泥炭は寒暖の差に関係なく形成され、熱帯地域では木質遺骸によって(トロピカルピートと呼ばれている)形成される場合も少なくない。いずれも植物遺骸などの有機物の堆積する速度が、堆積した場所にいる微生物などが有機物を分解する速度を上回った時に泥炭が形成される。泥炭は石炭の成長過程の最初の段階にあると考えられている。また、炭化が十分に進んでいないせいか植物の遺骸がそのまま残っていることが多いので、石炭と違って長い年月をかけておらず、蓄積してから数年程度しか経っていないことを確認できる。総じて、泥炭は炭化の過程がかなり短く、少ない時間でできる為、単純な条件下でできる。」

とあり、必ずしも寒冷地でなくても形成されることがあり、「其中に木の枝の有もあり」という記述とも一致する。老蘇森が湿地にあったため、泥炭が形成されやすい環境にあったのだろう。
 この「すくも」と大栗の伝説については南方熊楠も『南方閑話』に記している。ネット上で読むことができる。そこには、

 「『先代旧事本紀』には、「景行天皇四年の春二月の甲寅に、天皇、箕野《みの》路に幸《みゆき》す。淡海を経《す》ぐるに、一の枯木より殖《お》いし梢は空《くう》を穿《ぬ》きて空《そら》に入る。国老に問うに、いわく、神代の栗の木なり。この木の栄ゆる時は、枝は嶽に並ぶ、ゆえに並枝山《ひえのやま》という。また並びて高峰に聯《つら》なる、故に並聯山《ひらのやま》という。毎年葉落ちて土となる。土中ことごとく栗の葉なり、云々」とあるが、これは有名の偽書で」

とあり、これが元になっているのだろう。『先代旧事本紀』はウィキペディアに、

 「蘇我馬子などによる序文を持つが、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる。」

とある。
 また、『和漢三才図会』が、燃土《すくも》がこの栗の木の葉だったという説を、燃土が越後の寺泊・柿崎でも産出するということでもって論破していることも記している。
 老蘇の森は歌枕で、

 東路思ひ出にせむ郭公
     老蘇の森の夜半の一声
              大江公資(後拾遺集)
 かはりゆく鏡の影を見るたびに
     老蘇の森の嘆きをぞする
              源師賢(金葉集)

などの歌に詠まれている。

 「安土の城あとは、観音寺山の北にあり。佐々木大明神の社は、観音寺山のいぬゐの方にあり。佐々木氏、代々尊敬の神也。延喜式神名帳に、『近江国蒲生郡沙々貴神社』とあり。仁徳天皇の御社也。ささきは仁徳の御名也。安土も、佐々木の社も、本かい道より見えず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 織田信長の安土城の跡は観音寺山の北西にあり、沙沙貴神社は西にある。記述は四十五度ずれている。JRの安土駅に近い。旧中山道から見ると観音寺山に遮られる形になる。
 沙沙貴神社はウィキペディアに、

 「神代に少彦名神が小豆に似た豆のサヤである「ササゲ」の船に乗って海を渡り、当地に降り立ったという。このことからこの地は「ササキ」と呼ばれるようになり、その地に少彦名神を祀ったことが当社の始まりであるという。古代に沙沙貴山君が大彦命を合わせて祀り、景行天皇が志賀高穴穂宮への遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。」

とある。今日での祭神の中に仁徳天皇が含まれている。仁徳天皇は大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)とも呼ばれている。江戸時代は豆のササゲよりも仁徳天皇の宮の方で通っていたのだろう。

 「鏡山は、武者と守山との間にあり。西のかたよりむかへば、鏡を立たるごとくなれば鏡山といへるか。名所也。山下に鏡の宿有。人家多し。馬次にあらざれども、馬多く、はたご屋多し。武者より鏡まで一里半。鏡より守山へ二里有。武者より八幡山へ五十町有。武者と守山の間、横関と云所に川有。船渡也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 武者は武佐で鏡山(384m)の先、JRで言えば篠原駅の南側にある。国道8号線には道の駅竜王かがみの里がある。旧中山道もここを通っていた。「鏡を立たるごとくなれば」というのはよくわからない。今と地形が違っていたか。
 近江平野はかつてはたくさんの沼があった。彦根の北の入江もそうだし、安土城の北西には今は西の湖が名残をとどめているが、かつては大中湖、小中湖という大きな湖だった。旧中山道が老蘇の森の南へと方向を変えるのもそのためだったのかもしれない。
 あるいは鏡山の西にある西池もかつてはもっと大きくて、そこに映る鏡山が鏡を立てたように見えたのかもしれない。
 横関は今の竜王町だという。今は日野川と善光寺川があるが、かつては船を用いる程の大きな川だったか。日野川の渡し跡がある。西川池・鏡新池がその名残なのかもしれない。

 「野洲は、鏡と守山との間なり。鏡の宿の西にあり。此町の左右のうらにて、布を多くさらす。やす川は町の西のはしにあり。野須川、河原、共に名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.29)

 鏡山を越えると野洲になる。野洲晒(やすざらし)が作られていた。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「野洲晒」の解説」に、

 「〘名〙 滋賀県野洲市から産出する上質の麻のさらし布。近江晒(おうみざらし)。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。
 野洲の河原は、

 天の川やすの河原に舟うけて
     秋風吹くと妹につけこせ
              山部赤人(続古今集)

の歌がある。神話の天の安河原に七夕のイメージを重ねている。元禄三年の「種芋や」の巻九句目の、

   小僧のくせに口ごたへする
 やすやすと矢洲の河原のかち渉り 芭蕉

も、前句の小僧をスサノオに見立てている。海原の支配を命じたのに黄泉の国へ行くと口答えし、姉の天照大神に会おうとやってきて天の安河原の宇気比(誓約)を行う。このあとさんざん悪さをして、天岩戸になる。

2022年7月4日月曜日

 今朝のニュース。

アルジャジーラ
 ウクライナ軍がリシチャンシクからの軍の撤退を確認
BBC
 ウクライナはロシア人によって捕えられたリシチャンシクを確認します
ブルームバーグ
 キーウはその軍隊がリシチャンシクから撤退すると言います
スプートニク
 ショイグがルガンスク人民共和国の開放についてプーチンにブリーフ

 一方日本では、

朝日デジタル
 ウクライナ軍がリシチャンスク撤退認める 「ロシア軍が優位に」
 ウクライナ軍がリシチャンスク撤退 「鋼の意志だけでは」
NHK
 ロシア国防相「ルハンシク州全域掌握を大統領に報告」と発表

 朝日はウクライナの敗北をあざ笑うかのようなコメントを付けている。「ロシア軍が優位に」「鋼の意志だけでは」という見出しはまるでスポーツの敗者に対して言ってるかのようだ。NHKはスプートニックの見出しに比べてもいかにも戦果を強調するような書き方だ。
 スポーツ新聞ならこういう書き方でもいいが、多くの人が亡くなっている戦争で、勝ち負けを中心としたこういう報道姿勢は下衆というしかない。
 午後になったら今度は、

アルジャジーラ
 ロシアは、国境都市ベルゴロドでミサイルを発射したとしてキーウを非難している
BBC
 ロシアはウクライナが国境都市を攻撃したと非難
テレビ朝日
 「ウクライナが市民を標的に」ロシア国内への攻撃

というニュースが流れた。日本のテレビのいつものパターンだが、頭にロシア側の主張をどーーーんと持ってきて、ニュースの最後の方でウクライナはこう反論していますと、申し訳程度に付け加える。

 この国を何とかしなくてはと思う人は、必ず投票に行こう!
 ロシアとウクライナとの国境がなくなり、ロシアと日本との国境がなくなることを、国境のない世界への第一歩だとするような連中に負けてはいけない。
 世界を一つにしてはならない。世界は多様であるべきだ。世界が一つになれば個人もすべて最高指導者の一つの価値観に服従させられることになる。多様性を失った世界は滅亡する。
 人間の脳は可塑性に富んでいて、生得的な差異だけでなく、生まれたから生じる様々な偶然から、一人一人他人にはできない独特な思考ができるようにできている。これによって、一人では解決できない問題を他の人の脳を借りながら解決できるようになる。
 世界は七十億の脳によって並列処理されることで成り立っている。独裁はこれを一つの脳だけで処理しようというものだ。
 たった一人の頭脳が支配する世界になったら、この世界の様々な難問が解決困難になるばかりか、偽りの非人間的な回答を万人が信じ込む世界になる。
 間違ってはいけない。世界に正解なんてない。自分で考え、判断しろ!自らの多様性を信じろ!人と違う声を上げろ!
 意見が違っても力で解決せずに、数で解決しよう。それが民主主義だ。石鹼屋というバンドが唄っていたが、この世界のノイズになれ!
 選挙は出題者の言う「正解」を当てるためのクイズゲームではない。選挙に正解なんてない。答えのないこの世界の問題を、みんなで解決するための一つの手段に過ぎない。

 それでは「東路記」の続き。

 「沢山の古城は、鳥居本の西にあり。長き松山也。石田治部が城あと也。関が原軍の翌日、此城を攻落す。彦根の城は其西にあり。鳥居本より彦根へ行けば、沢山の古城の山を越ゆく也。鳥井本より彦根に一里に近し。彦根は湖の辺也。夫木集に、経信と弁の乳母が歌あり。関が原陣の後、沢山の城と治部少輔が領地を、井伊兵部殿に給りしが、慶長九年、沢山の城不宜とて、彦根に改て城を築かしめ給ふ。是は兵部殿死去の後也。垂井より鳥居本の間、七里は山中也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27~28)

 滋賀県の広報によると、滋賀県には千三百を超える城があったという。ここでは「沢山」は「さわやま」と読むが、「たくさん」とも読めてしまう所が面白い。
 この沢山城は今は佐和山城と表記されている。鳥居本宿のあったところには今も近江鉄道の鳥居本駅がある。西に佐和山城跡のある山があり、まだ湖の辺には出ず、山の中になる。
 「関が原軍(いくさ)の翌日、此城を攻落す。」については、ウィキペディアに、

 「慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある。」

とある。
 『夫木抄』所収の歌は、

 彦根山あまねきかどと聞きしかど
     八重の雲居に惑ひぬるかな
              源経信(夫木抄)

と、あと日文研の和歌データベースでは「番号外作者」としか表記されてないが、
 よを照らす彦根の山の朝日には
     心も晴れてしかぞかへりし
              (夫木抄)

の歌が弁の乳母の歌か。
 彦根城はウィキペディアに、

 「江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。」

とある。
 彦根城で彦根藩というと許六がここにいたわけだが、ウィキペディアには、

 「天和2年(1681年)27歳の時、父親が大津御蔵役を勤めたことから、許六も7年間大津に住み父を手伝う。」

とあり、貝原益軒が通った時には大津にいたことになる。『俳諧問答』に、

 「其後転変して、自暴自棄の眼出来、我句もおかしからず。他句猶以とりがたし。所詮他人の涎をねぶらんより、やめて乱舞に遊ぶ事、又四・五年也。
 しかりといへ共、元来ふかくこのめる道なれバ、終にわすれがたくて、おりふしハ他の句を尋ネ、頃日の風儀などを論ズ。其比一天下、桃青を翁と称して、彌(いよいよ)名人の号を四海にしくと沙汰ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.85)

とある、この頃だった。延宝の頃は田中常矩に師事し、当時の流行で速吟なども試みていたが、今一つ芽が出なかった。そこに父の左遷と談林俳諧の衰退が重なり、ぐれていた時期だった。自暴自棄になりながらも俳諧が救いだった。
 芭蕉の名声は耳にしていたが、芭蕉に感化されるようになったのは元禄二年に公刊された『阿羅野』を読んだ時だった。
 その年芭蕉は『奥の細道』の旅を終えて伊勢から伊賀へ行き、そして一度京都へ出た後十二月に芭蕉は膳所にやって来たのだが、悲しい哉、許六はこの年父の隠居で彦根に連れ戻され、ここで芭蕉に出会うことはなかった。芭蕉との念願の対面は許六が参勤交代で江戸勤務になった元禄五年のことだった。

 「小野の宿は、鳥居本と高宮の間にあり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 鳥居宿の次は高宮宿だが、鳥居宿を出てすぐの両側に山が迫る所に「小野」という地名が今も残っていて、小野小町の里になっている。
 小野を詠んだ和歌は多いが、どこにもありそうな地名だけに、ここの小野なのかどうか確証はない。
 こことは別に、山科にも小野があり、「石田(いはた)の小野」「小野の細道」などが歌枕になっていて、

 今はしも穂に出でぬらむ東路の
     石田の小野のしののをすすき
              藤原伊家(千載集)
 秋といへば石田の小野のははそ原
     時雨もまたず紅葉しにけり
              覚盛法師(千載集)
 眞柴刈る小野のほそみちあとたえて
     ふかくも雪のなりにける哉
              藤原為季(千載集)

などの歌に詠まれている。
 山田の小野、

 きぎす鳴く山田の小野のつぼすみれ
     標指すばかりなりにけるかな
              藤原顕季(六条修理大夫集)

小野の山里、

 鹿のねを聞くにつけても住む人の
     心しらるる小野の山里
              西行法師(新後撰集)

を詠んだ歌もあるが、どこの小野なのか定かでない。

 風越ゆる十市の末を見渡せば
     雲にほのめく小野の茅原
              賀茂季保(正治後度百首)

のような小野の茅原を詠んだものもあり、これだと大分イメージが違ってくる。十市が奈良橿原の十市だとしたら、また別の場所になる。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「小野」の解説」に、

 「[1] 〘名〙 (「お」は接頭語) 野。野原。おぬ。
  ※古事記(712)中・歌謡「さねさし 相摸の袁怒(ヲノ)に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
  [2]
  [一] 京都市山科区南端の地名。中世には小野郷。真言宗善通寺派(もと小野派本山)随心院(小野門跡)、醍醐天皇妃藤原胤子の小野陵がある。
  ※拾遺(1005‐07頃か)雑秋・一一四四「み山木を朝な夕なにこりつめて寒さをこふるをのの炭焼〈曾禰好忠〉」
  [二] 京都市左京区八瀬、大原一帯の古名。小野朝臣当岑が居住し、惟喬(これたか)親王が閉居した所。
  ※伊勢物語(10C前)八三「睦月にをがみ奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し」
  [三] 滋賀県彦根市の地名。中世の鎌倉街道の宿駅で、上代には鳥籠(とこ)駅があった。小野小町の出生地と伝えられる。
  ※義経記(室町中か)二「をのの摺針(すりばり)打ち過ぎて、番場、醒井(さめがい)過ぎければ」
  [四] 兵庫県中南部、加古川中流域の地名。小野氏一万石の旧城下町。特産品に鎌、はさみ、そろばんなどがある。昭和二九年(一九五四)市制。」

とある。[1] は一般名詞としての小野で、[四]は歌枕ではない。

 「高宮より多賀へ、一里あり。南にあたる。多賀に多賀大明神の社有。伊弉諾尊なり。参詣する人多し。高宮より彦根へも一里有。高宮の町に、布を多くうる。高宮と愛智川の間に、つづらおり村と云所あり。水口のごとく、つづら行李を多く作りてうる処也。高宮の町の西の出口に川あり。犬上川と云。此辺は犬上の郡也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.28)

 高宮には今も近江鉄道高宮駅がある。南西に多賀大社があり、近江鉄道多賀大社線が通っている。多賀大社はウィキペディアに、

 「和銅5年(712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。」

とある。
 元禄三年の伊賀での「種芋や」の巻十句目に、

   やすやすと矢洲の河原のかち渉り
 多賀の杓子もいつのことぶき   半残

の句がある。伊賀からだと甲賀の水口を経由して多賀へ向かうから、野洲川を上流の方で安々と渡ることになる。
 多賀の杓子はウィキペディアに、

 「多賀社のお守りとして知られるお多賀杓子は、元正天皇の養老年中、多賀社の神官らが帝の病の平癒を祈念して強飯(こわめし)を炊き、シデの木で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快したため、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めたと伝わる。元正天皇のころは精米技術が未発達で、米飯は粘り気を持つ現代のものとは違い、硬くてパラパラとこぼれるものだったらしく、それをすくい取るためにお多賀杓子のお玉の部分は大きく窪んでいて、また、柄は湾曲していたとのことで、かなり特徴のある形だったという。なお、現代のお多賀杓子はお玉の形をしていない物が多く、今様の米に合わせて平板な物が大半である。このお守りは、実用的な物もあれば飾るための大きな物もある。」

とある。
 高宮布はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「高宮布」の解説」に、

 「〘名〙 滋賀県彦根市高宮付近で産出される麻織物。奈良晒(ならざらし)の影響を受けてはじめられ、近世に広く用いられた。高宮。〔俳諧・毛吹草(1638)〕」

とある。この麻織物は生平(きびら)とも呼ばれ、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生平・黄平」の解説」に、

 「〘名〙 からむしの繊維で平織りに織り、まだ晒(さら)してないもの。上質であるため、多く帷子(かたびら)や羽織に用いる。滋賀県彦根市高宮付近から多く産出した。大麻の繊維を用いることもある。《季・夏》
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「生平のかたびら添てとらすべし」」

とある。また、「世界大百科事典内の生平の言及」に、

 「農民は特殊なものでないかぎり紬以上を禁じられた。武家の下僕は豆腐をこす袋や暖簾(のれん)に使う細布(さいみ)(糸の太い粗布)を紺に染めて着,民間の下僕は生平(きびら)(さらさない麻布)を着た。一般の民衆は麻または木綿を常用した。」

とある。天和二年の「錦どる」の巻九十五句目に、

   藍搗臼のごほごほし声
 市賤の木びらを負る木陰には   曉雲

の句がある。藍搗の作業場の下僕が着ていたのだろう。
 は高宮宿の次の宿は愛知川(えちがわ)宿で、JR愛知川駅がある。高宮宿を出てすぐに犬上川を渡ると彦根市葛籠町という地名がありここがかつての「つづらおり村」だったのだろう。ウィキペディアに、

 「行李(こうり)とは、竹や柳、籐などを編んでつくられた葛籠(つづらかご)の一種。直方体の容器でかぶせ蓋となっている。衣料や文書あるいは雑物を入れるために用いる道具。衣類や身の回りの品の収納あるいは旅行用の荷物入れなどに用いられた。半舁(はんがい)ともいう。」

とある。元禄七年、芭蕉が最後の旅で潤五月に京都に来た時に、

 柳行李片荷は凉し初真桑     芭蕉

の句を詠み、六吟歌仙興行が行われている。この柳行李もこうした葛籠だった。

2022年7月3日日曜日

  それでは「東路記」の続き。

 「もと番馬は、今の番馬の宿の西にあり。湖のはたに米原と云所有。大津、貝津、塩津、所々より船のつく湊なり。大津より米原まで、舟路十六里有。米原より今の番馬に通る道あり。此故に、もと番馬の町を、今の番馬にうつして立し也。米原へ一里あり。米原より鳥居本へ、一里半あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27)

 米原へ行道は前にも述べた九里半街道のことであろう。琵琶湖と伊勢湾を結ぶ産業道路だった。
 番馬は今の番場で、中央自動車道西宮線が通っている。この中央自動車道西宮線の小牧西宮間が昔は名神高速道路と呼ばれていて、今もその呼び名が通称として用いられている。だから、この辺りは名神高速になる。
 これだと、高井戸大月間は何なのかということにもなるが、ここは西宮線が付かない単なる中央自動車道で、河口湖が終点になる。
 この番場宿のルートは古代東山道から受け継がれている。ウィキペディアには、

 「飛鳥時代に「東山道」と呼ばれた頃以来の宿場。江戸時代の慶長16年(1611年)、番場宿から米原までの切通しと米原港が開設され、中山道から湖上の水運に乗り換えて京都へ結ぶ近道への分岐点となった。」

とある。番場宿は特に米原から移ったということではないようだ。
 琵琶湖は水運が発達していて、丸太船という丸太を二つわりにしたおも木が船腹に取りつけてある和船が用いられていた。『談林十百韻』の「郭公(来)」の巻七十句目に、

   から橋の松がね枕昼ね坊
 朽たる木をもえる丸太船     正友

の句がある。丸太船は丸舟、丸子船とも呼ばれていた。元禄三年の「ひき起す」の巻十八句目に、

   花さくを旅すく人もなかりけり
 舟ならべたる松本の春

の句もある。ここでいう「松本」は膳所松本で、京阪石山坂線石場駅の辺りに松本という地名が残っている。大津港からそう遠くない。みんな荷物の積み下ろしで忙しくて花見どころではなかったか。
 米原というと筑摩神社の筑摩祭も有名だった。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「滋賀県米原市朝妻筑摩にある筑摩神社の祭礼。昔は四月八日、現在は五月八日に行なわれる。古くは、女が交渉をもった男の数だけ鍋をかぶって神幸に従い、その数をいつわれば神罰を受けるとも、また、八人の処女が鍋をかぶって神前に舞い、もし男と通じていれば鍋が割れるともいわれた。今は狩衣(かりぎぬ)、緋(ひ)の袴(はかま)をつけた八人の少女が張子の鍋をかぶって神輿に供奉(ぐぶ)する。渡御の途中、神輿を琵琶湖にかつぎ入れる。日本三奇祭の一つ。筑摩鍋祭。つくままつり。《季・夏》」

とある。

 君が代や筑摩祭も鍋一ツ     越人

は『猿蓑』に収録されている。『春の日』の「蛙のみ」の巻三十一句目にも、

   鳥羽の湊のおどり笑ひに
 あらましのざこね筑摩も見て過ぬ 野水

の句がある。

 「磨針嶺は、番馬と鳥居本の宿の間にあり。湖水、眼下に見えて好景なり。竹生嶋は是よりいぬいの方に見ゆる。嶋のまはり、一里有。めぐりはみな、屏風を立たるごとくなる岩なり。神社有。僧坊十坊有。在家はなし。
 凡、湖の中に三の嶋あり。竹生嶋は尤北にあり。南に奥の嶋と大嶋あり。民家多し。竹嶋あり。小嶋なり。
 又、岡山とて、武者の宿のいぬいの方に、湖の中にさし出たる山あり。是又、嶋のごとし。是、名所也。少、地につづけり。磨針嶺の下に入海あり。其西南に民家あり。磯と云。是より沢山の方へも行道あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.27)

 番場宿と鳥居本宿の間に摺針峠がある。番場側から行くと視界が開けた所で琵琶湖が見渡せることで、かつては有名だったようだ。峠には神明宮がある。今の道は切通になっているが、昔はここを通ったのだろう。
 竹生島は琵琶湖の北の方にあるが、この峠道の角度だと正面になる。竹生島には、今も都久夫須麻神社(竹生島神社)があり、宝厳寺がある。
 「南に奥の嶋」というのは「沖島」のことであろう。今でも漁港もあれば小学校もある大きな島で、民家も多い。
 「竹島」は今は多景島という字を当てている。霊夢山見塔寺がある。
 「岡山」は近江八幡にある水茎岡山城跡で、今は回りが田んぼになっているが、かつては湖に浮ぶような城があったという。ウィキペディアに、

 「南北朝時代、近江南部をおさめる佐々木氏が琵琶湖の水上警備のために築城した。頭山、岡山(大山)と呼ばれる山に連なるように遺構が確認されているが築城当時の規模ははっきりとしない。」

とあり、また、

 「築城当時は一帯が琵琶湖水面であったため、浮き城とも称されていた。しかし、第二次世界大戦後の干拓事業により一帯は埋め立てられ水田地帯となり山も掘削され湖岸道路となっていることから周辺環境は様変わりしてしまっている。遺構の現況は竹林となっており、絶景を謳われた往時の景観は見る影もない。」

とある。
 「磨針嶺の下に入海」は今は田んぼになっている滋賀県米原市入江という地域で、かつての入江の輪郭が水路となって残っていて、地図上で見ることができる。
 湖側に集落があり、滋賀県米原市磯という地名が残っている。

 岡山は水茎の岡として和歌に詠まれ、歌枕になっている。

 水茎の岡のやかたに妹とあれと
     寝ての朝けの霜の降りはも
              よみ人しらず(古今集)
 水茎の岡の葛葉も色づきて
     けさうら悲し秋の初風
              顕昭(千載集)

などがある。

2022年7月2日土曜日

  来週は雨になるというから、梅雨の戻りだと思ってたら、台風が来るのか。水不足の解消にはいいけど、「時により過ぐれば民の嘆きなり‥‥」という和歌もあったからな。
 それでは「東路記」の続き。

 「伊吹山は、美濃、近江の境にあり。大道より見ゆ。名所なり。伊吹の里は近江なり。山の西北にあり。是も名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25)

 伊吹山というと、

 かくとだにえやは伊吹のさしも草
     さしも知らじな燃ゆる思ひを
              藤原実方(後拾遺集)

の歌は百人一首でもよく知られている。
 他に伊吹山を詠んだものには、

 秋ををやく色にぞみゆる伊吹山
     もえてひさしき下のおもひも
              藤原定家(建保名所百首)
 伊吹山峰なる草のさしもこそ
     忘れじとまで契りおきしか
              宗尊親王(続古今集)

などの歌がある。
 伊吹の里は、

 思ふだにかへらぬ山の桜花
     たれか伊吹の里とつけしぞ
              清少納言(夫木抄)

の歌がある。

 「昔、天武天皇の兵と大友の皇子の兵と、戦有しも、此不破の関なり。大友の皇子、終に打負給ひ、天武天皇、帝位に上り給ふ。清見原の天皇、是なり。慶長五年、治部少輔等の狂徒を亡して天下を治め給ふも、此地なり。古今共に、天下存亡の分れし地なり。又、頼朝十三歳の時、京都の戦ひに打負て関東へ下り給ひしを、平家の士、弥平兵衛が行逢て生捕しも、関が原也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.25~26)

 前にも「天武帝も野上に陣し給ふ」とあり。そのとき壬申の乱の時に、大海人皇子(後の天武天皇)が野上の行宮から不破に出陣して、桃を全兵士に配って戦いに勝ったということを述べた。
 六七二年にここでもう一つの天下分け目の戦いがあり、その翌年に不破の関が置かれたという。天智天皇の第一皇子だった大友の皇子と弟だった大海人皇子との戦いで、この時代の皇位継承のルールはよくわからない。
 普通に考えると第一皇子が継ぐのが順当のように思えるが、なぜ弟がという気もする。諸説あるが、ウィキペディアに、

 「天智天皇は即位以前の663年に、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵し、新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済遺民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。しかしこれらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、大きな不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。また白村江の敗戦後、国内の政治改革も急進的に行われ、唐風に変えようとする天智天皇側と、それに抵抗する守旧派との対立が生まれたとの説もある。これは白村江の敗戦の後、天智天皇在位中に数次の遣唐使の派遣があるが、大海人皇子が天武天皇として即位して以降、大宝律令が制定された後の文武天皇の世である702年まで遣唐使が行われていないことから推察される。」

とある。諸説あるようだが、親中派と嫌中派の戦いだったのかもしれない。この時に一度でも日本が中国に朝貢したということがあったらと思うと、大海人皇子の勝利は日本にとって幸いだったことになる。
 関ケ原の合戦もまた、壬辰倭乱に失敗した豊臣秀吉の後継者を徳川が討つという形になった。壬申と壬辰の音の一致も奇妙な縁を感じさせる。
 まあ、今も右翼がよく言うことだが、日本は半島に係わるとろくなことがない、ということか。近代も含めて。外へ向かう衝動に駆られずに、あくまで縮み志向でいることが日本の繁栄に繋がる。
 弥平兵衛は平宗清で、ウィキペディアに、

 「平頼盛の家人[5]であり、頼盛が尾張守であった事から、その目代となる。永暦元年(1160年)2月、平治の乱に敗れ落ち延びた源頼朝を、美濃国内で捕縛し六波羅に送る。この際、頼盛の母である池禅尼を通じて頼朝の助命を求めたという。」

とある。このことも後の日本の歴史を大きな分かれ目になった。

 「今須と柏原の間に、長久寺と云小里あり。是、美濃と近江のさかひ也。車返しとも云。両国より家を近く作りならべ、其間に小溝を一へだつ。国をへだてて、寝物語をすると云。此故に此所を、「ね物語」ともいふ。〇たけくらべと云所、柏原の辺、近江と美濃の山を左右に見て行所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26)

 今須と今洲は同じ。今須とその次の柏原宿との間に、美濃国と近江国の境界線がある。長久寺の地名は今は滋賀県の方の地名で、車返し地蔵尊は関ケ原町今須になる。
 今も小溝があるという。
 分水嶺は滋賀県側にあるが、ここまで行くと美濃側の山は見えなくなる。車返し地蔵尊がある辺りの、今のJR線の踏切がある辺りの旧中山道が、ちょうど右に美濃の山、左に近江の山を見ることになる。
 柏原は今もJR東海道本線に柏原駅がある。

 「柏原の北六里に、小谷山有。道より見ゆる。山下に小谷と云町有。北国道の宿也。山上に城あと有。むかし浅井備前守長政居城なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26)

 小谷山(おだにやま)は正確には北西になる。前にも北国街道の名前で出てきた北国脇往還がここを通っていて小谷宿がある。
 小谷城はウィキペディアに、

 「日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。
 戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。」

とある。

 「醒が井の宿は、山中也。宿の北に川あり。其川上に黒田村あり。醒井より八町あり。鴨の長明が歌一首あり。此所にてよめるか。又、余湖のうみの辺にも黒田村あり。
 醒井の水は、古来名を得し処也。昔、日本武尊東征し給ひし時、伊吹山にて大蛇を踏で通り給ひしに、山中を雲霧おこりて甚くらかりしが、尊、山を出給ひて御心地わづらはしかりければ、此水をのみて即醒給ひぬ。是によつて、醒が井と云。尊の腰かけ給ふ石あり。日本武尊は景行天皇の御子、仲哀天皇の御父なれば、八幡の祖父也。
 醒井より長浜へ行道あり。六里あり。長浜は湖のはた也。町あり。秀吉公も信長公の時、初は爰に居給ふ。〇梓の杣、醒井の東、梓村と云所に有。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.26~27)

 JR東海道線は近江長岡の方を大きく迂回するが、旧中山道は今の国道21号に近いルートを通っている。JRも近江長岡駅の次は醒ヶ井駅になる。周囲はまだ低山に囲まれている。
 宿場の北にある川は天野川で、JR線に沿って流れている。近江長岡駅周辺は昔は東黒田村があった。ウィキペディアに、

 「東黒田村(ひがしくろだむら)は、滋賀県坂田郡にあった村。現在の米原市の東部、天野川の中流域、東海道本線・近江長岡駅の周辺にあたる。」

とある。
 黒田の里というと、

 をちこちも今はた見えずむばたまの
     黒田の里の夕闇の空
              冷泉為相(夫木抄)

の歌がある。
 鴨長明の歌というのは、ネット上の稲田利徳さんの『正徹「なぐさめ草」(松平文庫本)注釈(上)』によると、

 めにたてぬ人なかりけりむば玉の
     くろ田の河によれる白波
              鴨長明(歌枕名寄)

の歌だという。正徹は美濃の木曽川町黒田の辺りで、

 夜もすがら光は見せよむば玉の
     黒田の里に咲ける卯の花
 墨染の黒田の早苗取る賤や
     夕をかけて袖濡らすらむ

の歌を詠み、そのあとに、

 「此(の)所は、古き歌枕などによめる歌見えず。黒田川はあれども美濃の国とかや、尋(ぬ)べし。」

と記している。黒田の里の位置ははっきりしなかったようだ。『東路記』もまた、「又、余湖のうみの辺にも黒田村あり」と記して、ここかどうか確証はなかったようだ。
 余湖の海の黒田村は琵琶湖の北にある小さな余呉湖の辺りで、黒田官兵衛の故郷とも言われている近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の方であろう。黒田神社、黒田観音寺、黒田安念寺などの名前にも残っている。
 醒井の水は居醒(いさめ)の清水(しみず)とも呼ばれている。コトバンクの「デジタル大辞泉プラス「居醒の清水」の解説」に、

 「滋賀県米原市にある湧水。「いさめのしみず」と読む。名称は、「日本書紀」や「古事記」に日本武尊が病を癒すために用いた水と記されていることから。環境省が2008年に選定した「平成の名水百選」のひとつ。」

とある。
 日本武尊が伊吹山で牛のような大きな白い猪に出くわし、そこで、

 「ここに言挙して詔りたまひしく、『この白猪の化れるは、その神の使者ぞ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ。』とのりたまひて騰りましき。ここに大氷雨を零らして、倭健命を打ち惑はしき。‥‥略‥‥故、還り下りまして、玉倉部の清泉に到りて息ひましし時、御心稍に寤(さ)めましき。故、その清泉を號けて、居寤の清泉と謂ふ。」

とある。
 「八幡の祖父也」とあるのは、八幡神と応神天皇は一つのものとされていることによる。母の神功皇后とともに三韓征伐と結びつけられて軍神とされていた。八幡神は道鏡事件の時に今の万世一系の皇統の道を確立させるような神託を下したことで、皇統と軍神の両面で信仰され、八幡神社は日本で一番多い神社となった。
 新羅(シルラ)とは三韓征伐を通じて間接的にかかわっているものの、八幡神を新羅起源とする根拠はない。
 旧中山道は醒井を出ると米原へ行かずに今の高速道路に沿って番場宿へ行くため、北国街道はこの途中から分岐することになる。木ノ本で北国脇街道に合流することになるが、その手前に秀吉の長浜城があった長浜がある。
 柏原と醒井の間に梓ノ関遺跡がある。この辺りが梓の杣のある梓村だったのだろう。

   津のくににすみ侍りけるを、
   みのの国にくたる事ありて、
   あつさの山にてよみ侍りける
 宮木ひく梓の杣をかきわけて
     難波の浦を遠ざかりぬる
              能因法師(千載集)
 明日より梓の杣にたつ民も
     君につかふとみや木ひくらし
              花山院師継(宝治百首)

などの歌に詠まれている。