2022年6月22日水曜日

 
 「笑う芭蕉」をKindle ダイレクト・パブリッシングの方にアップしたのでよろしく。俳諧の入門書のようなものを書いてみたかったので、出来るだけ難しい話を抜きにして、新書を意識した感じで「ですます」調で書いてみました。
 内容は『冬の日』から「狂句こがらし」の巻、『猿蓑』から「市中は」の巻、『ひさご』から「むめがかに」の巻、『続猿蓑』から「猿蓑に」の巻と、名作を並べ、おまけに伊賀の宗房時代のことを書いた「芭蕉がまだ伊賀にいた頃」を付けてみました。

 選挙が始まるとネット上はどうせネガキャンの嵐なんだろうな。しばらくニュースは見ないようにしようかな。このごろ2ちゃんねるも終わったなという感じがする。前はたまにあったようなまともな書き込みも、今はまったく見られなくなった。

 それでは「東路記」の続き。

 「岡崎の東北の方に松平の里あり。其上の山道より見ゆる。松平家御先祖の住給ひし所也。奥平と云所も松平に近し。岡崎に大樹寺あり。浄土宗也。寺領五百石つけり。六所大明神有。大社也。東照宮の御誕生の産霊也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 松平氏はウィキペディアに、

 「松平氏(まつだいらし)は、武家・華族だった日本の氏族。室町時代に三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)に興った小豪族であり、松平家康の代に徳川氏に改姓し江戸幕府征夷大将軍家となった。

とある。今の愛知県豊田氏松平町はその通りに岡崎の北東にある。松平城跡や松平氏発跡地碑、松平東照宮、松平郷展望テラスなどがある。奥平はどこにあるのか不明。
 岡崎の大樹寺は岡崎の市街地にある。愛知環状鉄道の大門駅が最寄り駅になる。徳川氏が松平氏だった頃からの菩提寺だった。
 徳川家康はウィキペディアによれば、「三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年12月26日(1543年1月31日)寅の刻(午前4時)に岡崎城 にて誕生」したという。

 「山本勘助が在所、牛久保の里も岡崎の東にあり。岡崎と池鯉鮒の間、小浜と云所に行く海道有。其辺の茶屋を小浜茶屋と云。此東に足助と云所有。吉良も此辺よりちかし。矢矧の北に宮地山と云名所あり。南に二村と云名所有。衣の里も近にあり。名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 山本勘助は武田信玄の伝説的な軍師で、ウィキペディアには、

 「近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。」

とある。生誕地についても、ウィキペディアには、

 「『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出とある。」

とある。他に資料がないなら、あとは『甲陽軍鑑』を信用するかどうかの問題になる。
 小浜は今の駒場町の辺りだという。kobama,komabaうーーん。まあ、bとmの交替は「けむり=けぶり」「なむる=なぶる」など多いからね。
 昔は鎌倉街道が通っていて、小浜茶屋も鎌倉街道の茶屋だったのだろう。鎌倉街道は江戸時代の東海道よりも内陸寄りを行く。
 足助という地名は松平町よりももっと北東に行った所にある。吉良町は反対側で南の三河湾の方になる。後に忠臣蔵で有名になる吉良上野介義央の所領だった。
 赤坂宿の南側に宮路山はあるが、そのことか。

 君かあたり雲井に見つつ宮ち山
     うちこえゆかん道もしらなく
              よみ人しらず(後撰集)

 嵐あらしこそ吹き来こざりけれ宮路山
     まだもみぢ葉の散らで残れる
              菅原孝標娘(玉葉集)

などの歌がある。古代東海道に宮地駅があったが、赤坂宿の辺りであろう。
 二村山は池鯉鮒と鳴海の間の内陸寄りで、かつては鎌倉街道が通っていた。古代東海道に両村駅があり、この辺りの鎌倉街道は古代東海道をそのままなぞっていたと思われる。

 くれはとりあやに恋しく有りしかば
     ふたむら山もこえずなりにき
              清原諸実(後撰集)
 唐衣たつををしみし心こそ
     ふたむら山のせきとなりけめ
              よみ人しらず(後撰集)

などの歌がある。
 衣の里は今の豊田市挙母町で豊田市の中心部にある。

 たちかへりなほみてゆかむ桜花
     衣の里に匂ふさかりは
              三河守左近中将呉氏(夫木抄)
 わきもこが衣の里の梅の花
     さぞくれなゐの色に咲くらむ
              宗尊親王(夫木抄)

などの歌に詠まれている。

 「八橋は、池鯉鮒の半里ばかり東の海道より、北へ半里ほどに村有、八橋村と云。昔、橋を八かけたると云所有。かきつばたの名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 八橋は『伊勢物語』九段に、

 「三河のくに、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋とはいひける。その澤のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり。‥略‥

 から衣きつつなれにしつましあれば
     はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり。」

のように描かれている。芭蕉の貞享二年に、

 杜若われに発句のおもひあり   芭蕉

の句を詠むことになる。
 同じ頃の「ほととぎす」の巻十二句目に、

   触事も田舎となればゆるやかさ
 蜘でのはしのかけつはづしつ   閑水

の句がある。
 八橋も古代東海道から鎌倉街道へ受け継がれた道にあった。

 「ちりふの町の右に長き池有。神(かう)の池なり。毎年四月に池鯉鮒の原に、一月の間、大なる市たつ。諸方より種々のうり物あつまる。原ひろし。此辺、刈屋の城あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.17)

 神池は今の知立神社にある。
 木綿市や馬市があったことは、元禄五年秋の「青くても」の巻三十三句目の、

   筵片荷に鯨さげゆく
 不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市  芭蕉

の句に詠まれている。鯨も売っていたようだ。刈屋城は今は亀城公園になっている。ウィキペディアに、

 「刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷、現在の愛知県刈谷市にあった日本の城。正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が1950年(昭和25年)4月以降に市制施行してから「刈谷」と表記されるようになった。」

とある。「亀城」とも呼ばれていた。刈屋藩の城だった。

2022年6月21日火曜日

 選挙は明日公示ということで、今のうちに言っておきたいが、今回の選挙の最大の争点は減税やばら撒きの多い少ないではなく、憲法改正だ。
 何度も言っているように、今の日本にはロシアが攻めてきても人権がない。防衛のための戦力の保持を憲法に明記しなくてはならない。
 武力に対して丸腰でデモをやってもミンチにされるだけだ。ウクライナを見てもわかるように、国際世論なんて何もしてくれない。自分の国の物価高の方が大事だ。
 金持ちや西洋にコネがある奴だけさっさと亡命して国境のない世界だの奇麗ごとを言っていられるけど、庶民は取り残されて虐殺とレイプが待っている。
 逃げればいいなんて金のあるやつはお気楽なことを言っているけど、逃げられない人の方が圧倒的に多い。
 日本は最低限自分の国を守る力を持たなくてはならない。武器の供与が受けられなければ自力で生産する力も必要だ。また、同盟国が侵略をうけた場合には、武器を輸出する能力も持たなくてはならない。そのためにも日本の高度な科学技術が生かせるように、道を開かなくてはならない。
 NATOもフィンランドが侵略を受けた時には、NATO加盟国(仮)ということで、トルコ抜きでも出撃してほしい。コルピクラーニやチュリサスやフィントロールの国を守ってほしい。

 それでは「東路記」の続き。

 高師山は『海道記』には、

 「やがて高志山にかかりぬ。石利を踏て火敲坂を打過れば、焼野原に草の葉萌出て、杪(こずゑ)の色煙をあぐ。此林池を遥に行ば、山中に堺川あり。是より遠江国に移ぬ。

 下るさへ高しといへばいががせん
     のぼらん旅の東路の山」

とある。これだと境川の向こう側ということで、豊橋鉄道高師駅の方に近くなる。
 ただ、そのあとに、

 「此山の腰を南に下て遥に見くだせば、青海浪々として、白雲沈々たり。海上の眺望は此処に勝たり。」

とあるので、潮見坂にまで到る広い範囲が高師山と見て間違いない。
 『東関紀行』には、

 「参川、遠江のさかひに、高師山と聞ゆるあり。山中に越えかかるほど、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波のことごとしく聞ゆ。境川とぞいふなる。

 岩つたひ駒うちわたす谷川の
     音もたかしの山に来にけり」

とこの参川は遠江の境ということで境川のことと思われる。やはりこの辺り一帯が高師山だった。

 「引佐細江(いなさほそえ)、遠州前坂より一里ほど東へ行て、道の左くぼき所有。真藤生たり。万葉集など其外歌集に歌あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 前坂は舞阪のこととおもわれるので、ふたたび浜名湖の方の名所を振り返る。爰より東一里というと天竜川河口に近くなる。中田島砂丘の辺りか。北は当時「今の浦」だったと思われる。砂丘に松原があって、そこに藤が掛かっていたということか。
 引佐細江は今は一般的には浜名湖の北の細江湖とされている。気賀宿に近い。

 万葉集に

 遠江引佐細江のみをつくし
     あれを頼めてあさましものを
              よみ人しらず(『万葉集』巻十四、三四二九)

の歌がある。他にも、
 逢ふことは引佐細江の澪標
     深きしるしもなき世なりけり
              藤原清輔(千載集)
 雁金も羽しをるらむますけおふる
     引佐細江にあまつつみせよ
              源俊頼(夫木抄)

などの歌がある。

 「吉田の川より船にのり、伊勢の白子にわたる。〇江戸より京までの間に大橋四あり。武蔵六郷のはし、百九間。吉田の橋、百二十間。矢はぎの橋、二百八間。瀬田の橋、九十六間也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 二川宿の次は吉田宿になる。今は豊橋の市街地で豊橋公園がすぐそばにある。豊川が流れていて、そこから伊勢への船が出ていたか。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の旅でも、小夜の中山越えてからいきなり短期間で伊勢に着いて謎だったが、芭蕉もこの船に乗ったか。
 この豊川には吉田橋が架かっていた。「豊橋」の名の由来にもなっている。これを看ると矢矧の橋がだんとつに長い。俳諧によくネタにされている瀬田の橋が意外に一番短いのが分かる。
 六郷橋は前にも触れたが、貞享五年に流されて、それ以降再建されなかった。

 「赤坂と藤川の間、山中と云所に、法増寺とて浄土寺あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 吉田と赤坂の間には御油の宿がある。御油から赤坂までは僅か二キロ、当時で言う半里。

 夏の月御油より出でて赤坂や   桃青

の句がある。まあ、談林の頃のいかにもネタに走った句だ。
 赤坂から藤川までは軽い山越えの道になり、国道一号線は通っているがJR東海道線は海側の蒲郡の方を通っている。御油赤坂藤川は名鉄名古屋本線の沿線になる。その名鉄線に名電山中駅がある。
 法増寺は名電山中の一つ手前の本宿にある法蔵寺のことか。ウィキペディアに、

 「かつては、二村山出生寺と称し、法相宗の古刹であった。飛鳥時代、行基は観音菩薩像を安置し出生寺を創建した。平安時代、空海の来訪により真言宗となる。南北朝時代、竜芸上人により浄土宗に改宗し、二村山法蔵寺と改称した。その後、徳川家の始祖・松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺とした。徳川家康(幼名・竹千代)が、時の住持・教翁上人に就いて、読書きを習ったという(硯箱・硯石・手本・机などが残っている)。江戸時代、深草派三河三檀林のひとつとなる。」

となっている。
 徳川家康ゆかりの寺ということで、当時はそこそこ有名だったのだろう。

2022年6月20日月曜日

 この頃は老後の花見て過ごせる場所を求めて移住を計画し、ばたばたしていてなかなか風流の方にも身が入らない。鈴呂屋も住み代わる世ぞ‥‥、その後が続かない。
 もうすぐ参議院選挙が始まるが、ロシアが侵略戦争を開始して、日本もロシアと国境を接している以上、いつそれが日本にもふりかかってくるかわからないこの国難の時代に、残念ながら岸田政権は左翼マス護美に媚びた発言を繰り返して弱々しい。これじゃあまるで日本のマクロンだ。調整型の首相の弱点とも言える。
 保守票をまとめられなければ、自民惨敗の可能性もある。とはいえ受け皿となる保守政党はない。つまり選挙はどうしようもなく盛り下がる可能性がある。

 それでは「東路記」の続き。

 「浜松の北に広き原あり。御方が原と云。浜松の町の北に五所大明神の社有。大社也。台徳院公御誕生の産宮也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 三方原は今の浜松市の市街の北のはずれの方になる。畑が多いが宅地化の波が押し寄せてきている。元亀三年(一五七三年)には三方ヶ原の戦いがあった。ウィキペディアには、

 「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。
 信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。」

とある。
 浜松の五所大明神は今のJR浜松駅に近い。浜松城の南側にある。一九六〇年に諏訪神社が合祀されて、現在は五所神社・諏訪神社となっている。ウィキペディアに、

 「戦国時代初期の曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれる。後に徳川家康が浜松城主になり、天正7年(1579年)に三男長松(後の徳川秀忠)が誕生すると当社を産土神とし、現在地に社殿を建立して天正8年(1580年)7月に遷座、社領15石を寄進した。慶長15年(1610年)に秀忠から100石が寄進された。寛永11年(1634年)の家光上洛の際、東照宮(徳川家康)を勧請し、200石が加えられ、以降、300石の朱印地を領することとなった。」

とある。台徳院は徳川二代将軍秀忠のことで、徳川秀忠生誕の地ということでかつては徳川幕府に保護された大社だった。

 「〇浜松より御方が原を通りて浜名と云所へ行く。本坂越と云道を過て、吉田の町の少東の方へ出る道有。浜名にも荒江のごとく番所有。三河の鳳来寺へも、此道よりゆくと云。鳳来寺山上に薬師堂、又僧坊あり。甚佳景の処なり。御油より九里有。寺領七百四十石つけり。天台宗なり。鳳来寺に東照宮おはします。御社領七百廿石附。
 浜松の近所、かんまと云所あり。蒲冠者範頼の在所と云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15~16)

 本坂越えの道は三方ヶ原から浜名湖の北の気賀宿、三ケ日宿を経て、本坂峠を越えて吉田宿の方へ抜ける道で、古代の二見道が通っていた。

 三河なる二見の道よりわかれなば
     我が背も我も一人かも行かむ
              高市黒人(歌枕名寄)

の歌がある。
 その吉田宿は今のJRの新豊橋のあたりにある。ここから豊川を遡っていた山の中に鳳来寺がある。その途中にある三河新城(しんしろ)では元禄四年に芭蕉、支考、桃隣の参加する「其にほひ」の巻、「此里は」の巻の興行があり、

 其にほひ桃より白し水仙花    芭蕉
 此里は山を四面や冬籠り     支考

の発句が詠まれている。
 鳳来寺はウィキペディアに、

 「鳳来寺(ほうらいじ)は、愛知県新城市の鳳来寺山の山頂付近にある真言宗五智教団の寺院。本尊は開山の利修作とされる薬師如来。
 参道の石段の数が1,425段あり、徳川家光によって建てられた鳳来山東照宮(神仏分離以降は神社として独立、別項参照)及び仁王門は国の重要文化財に指定されている。鳳来寺山に多く生息し愛知県の県鳥であるコノハズクでも有名である。」

とある。
 江戸時代は天台・真言両方の僧坊があったが、ウィキペディアに、

 「困窮の窮みにあった明治38年(1905年)には、高野山金剛峯寺の特命を受けた京都法輪寺から派遣された服部賢成住職に当山の再建は託された。そこで、翌39年(1906年)11月2日、並存していた天台・真言の両宗派は真言宗に統一されて高野山の所属となり、寺院規模の縮小で存続が図られた。」

とあり、今は真言宗の寺になっている。
 蒲冠者範頼は源範頼のことで、ウィキペディアには、

 「源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。
 遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後は源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。」

とある。

 「〇俗説に新江の十町西に橋本と云所有。爰にむかし浜名の橋有しと云。此説いぶかし。橋本は今新江前坂の間にあり____。
 昔、浜名に湖ありし故、此国遠つあはうみと云を略して、とをたうみと云。都に遠きみづうみと云意なり。都にちかき湖は近江也。
 浜名の橋は、浜名の湖より海に流れ出る川にかけし橋なり。後土御門院、明応八年六月十日、大地震して湖と海との間きれて、海とひとつになり入海となる。今切、是なり。
 一説に洞の貝、此処より多く出て、湖と海との間きれたりと云。浜名の橋ありし処を橋本と云。」」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 原書に一部欠落があるようだ。
 新江は新居のことで新江前坂は新居舞阪であろう。iとeが交替している。いずれも同街道の宿場で、この間に今切という浜名湖と遠州灘の繋がる場所がある。元は川で浜名の橋が架かっていた。歌枕で、

 汐満てる程に行きかふ旅人や
     浜名の橋と名付けそめけん
              平兼盛(拾遺集)
 あつまぢの浜名の橋をきてみれば
     昔こひしきわたりなりけり
              大江廣経(後拾遺集)

などの歌に詠まれている。

 浜名川湊はるかに見わたせば
     松原めぐる海士のつり舟
              宗尊親王(夫木抄)

の歌もあり、川に架かる橋だったことが分かる。明応七年(一四九八年)八月二十五日の明応地震の時に海に繋がり「今切」になったと言われている。
 ただ、今日も新居宿を西に少し行った所の浜名川に浜名橋跡碑がある。

 「〇潮見坂は白須賀の町の西にある坂也。高師山は其さき二川の方にあり。白須賀と二川の間に境川あり。三河、遠江のさかひなり。〇潮見坂ココニカクベシ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.16)

 
 江戸時代の東海道は新居宿の次が白須賀宿で、その次が二川宿になる。潮見坂は新居宿から白須賀宿の間の、海岸の道から内陸に入る所にある。
 ここから先はしばらく内陸の道になるので、上方から下る旅人からすれば、ここで海が見えて感動する所だろう。白須賀の東になる。
 境川は今は田んぼになり、小さな小川になっているが、かつてはそれなりの川だったのだろう。今もここから向こう側が豊橋市になっている。
 高師の地名は豊橋鉄道高師駅に残っているが、それとは別に新居宿のすぐ西にも高師山がある。

 高師山夕越え暮れて麓なる
     浜名の橋を月に見るかな
              平政村(続古今集)

の歌があるが、高師山を越えて海に出たのなら、これは潮見坂であろう。となると二川から白須賀の辺り一帯の台地を高師山と言ってた可能性はある。
 古代東海道はこの辺りの近世の東海道の道をより直線的に通っていたと思われる。

 朝風に湊を出づるとも船は
     高師の山の紅葉なりけり
              西行法師(夫木抄)

の高師の山と同じ所かどうかはわからない。ただ、高師山がこの辺りの台地のかなり広い地域を表していたとすれば、港に近い高師山もあってもおかしくない。

2022年6月18日土曜日

 欧米の物価高騰にはいろいろ原因が重なっているのは確かだ。直接引き金になったのはロシアのウクライナ侵略で化石燃料と穀物の価格が急騰したことだが、それ以前にコロナ下でお金をばら撒きすぎて、通貨供給の過剰が生じていたのも原因の一つになる。
 日本は国民がきちんと自粛に従い、ばら撒きが最低限で済んでいることと、穀物に関しては米がほぼ百パーセント自給できることで、欧米ほどの深刻な物価高騰は今のところ起きていない。
 物価高騰にあえぐ欧米は、金利を上げることで通貨供給を減らして、通貨の価値を上げ、相対的に物価を下げようとしている。ただ、これをやると、企業の新規の事業への投資意欲が損なわれ、また株価の下落も起きてさらに資金調達が困難になり、景気が一気に減速するという副作用がある。
 景気と物価を秤にかけて、日銀はなかなか難しい判断を迫られているし、少なくとも金利を上げれば魔法のようにインフレが静まるなんてうまい話ではない。
 まして国家の中央銀行の行う金利政策は、基本的に政府から独立したもので、国民が選んだ国会議員とはいえ、大まかな目標を設定するぐらいしかできない。基本的には日銀とのすり合わせを必要とする案件だ。
 今度の選挙でインフレ対策が焦点だといっても、どれほどの有効を提起できるのか、しっかり見てゆく必要がある。子供だましの減税連呼に騙されないように。また、ばら撒き公約はインフレ対策とは逆のものだ。

 それでは「東路記」の続き。

 「懸川の西にほそき川あり。其川をへだてて西なるを背川と云、東をば原川と云由、長明が記にみえたり。袋井と見付の間に三香野の橋あり。宗尊親王の歌有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 今の国道一号線が原野谷川を渡るその手前の所に掛川市原川という地名が残っている。江戸時代の東海道もこのあたりで川を渡っていた。川の反対側は今は国本という地名になっている。
 「長明が記」は『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』の注に「海道記」のこと。当時は鴨長明作とされていた。」とあるが、『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(一九九〇、岩波書店)の「海道記」「東関紀行」を見たがよくわからなかった。
 「三香野の橋」は太田川に架かる三ヶ野橋で、

 うかりけるみかのの橋の朽ちもせで
     おもはぬ道に世をわたるかな

の歌が『歌枕名寄』にある。日文研の和歌検索データベースには「未入力」とあり、作者はわからない。

 「見付の宿、東の入口に坂あり。其坂を下り、右へ三町程のぼりゆけば、天神の社有。舞車と云謡に此天神の事を作れり。見付の里、名寄に歌有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 見付宿は今の磐田で、太田川を渡ると行人坂という上り坂があるが、しばらく行くと道は下り坂になって左に見付愛宕神社がある。ここを下ったところから右側の小高い所に見付天神矢奈比賣神社がある。
 謡曲『舞車』はコトバンクの「世界大百科事典 第2版「舞車」の解説」に、

 「能の曲名。四番目物。非現行演目。作者不明。シテは鎌倉の男。遠江の見付(みつけ)では祇園会の当日泊まり合わせた旅人に,東西の舞車の上で舞を舞わせる習慣だった。祭りを明日に控えて舞の係り(ワキ)が待ち受けていると,鎌倉の男(シテ)が来かかるので舞を所望する。男は,都から連れ帰った女が留守中に父親から追い出されたので,探し求めて都に上る道中だった。翌日になり,西の舞車では旅の女性(ツレ)が《美人揃の曲舞(びじんぞろえのくせまい)》を舞う。」

とある。
 『歌枕名寄』の見付の歌は日文研の和歌データベースではよくわからなかった。『十六夜日記』にある

 誰か来て見付の里と聞くからに
     いとど旅寝ぞそら恐ろしき
              阿仏

の歌は『夫木抄』にもあるというのはわかった。

 「〇見付の少西に、中泉といふ町有。昔は馬次にて宿なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 中泉という地名はJR磐田駅の辺りに残っている。遠江国府に近いからその関係で宿場があったのだろう。

 「〇見付の台より直に田の中を通りて、天竜川のほとり池田に出る小道有。本道よりちかし。馬は通らず。池田の里、名所也。古歌有。見付の南に、今の浦とて大なる池有。湖也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 江戸時代の東海道は見付宿は県道岩田袋井線よりもさらに北にあり、だいぶ山側に寄っている。遠江國総社淡海國玉神社がある。
 この先で南に折れて今のJR磐田駅の辺りまで来て、ここから北西へ折れて天竜川の渡河点である池田へ向かう。池田の地名は今でも磐田市池田として残っていて、国道一号線新天竜川橋の手前の北側になる。南に折れずに直進すれば、池田まで近道できる。

 いつくさのあひ乱れたるたなつもの
     池田の里に雲をなしつつ

の歌が『夫木抄』にあるが、日文研の和歌データベースでは番号外作者とあるのみで、作者が分からない。
 今の浦は今之浦川のある辺りに地名が残っているが、その南に広範囲にわたる低地があり、田んぼになっているので、かつてここが浦だったのではないかと思う。大池がその名残なのだろう。

2022年6月17日金曜日

 我々から平和を奪ったのは誰なのか。食糧危機を引き起こしているのは誰なのか。石油や食品価格の高騰を引き起こしたのは誰なのか。間違ってはいけない。
 ロシアのウクライナ侵略が実は夢であって、明日朝目覚めたら世界は平和に戻っている、そんなことはあるわけない。
 とにかく、話を横にそらそうとしている奴らに騙されてはいけない。日本国民が正しい判断をすることを信じている。
 鈴呂屋は平和に賛成します。

 それでは「東路記」の続き。

 「岡部と藤枝との間に朝比奈川有。川上に朝比奈と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 朝比奈川は今の新東名の藤枝岡部インターの辺りを流れている。河口近くの焼津市街地でで瀬戸川に合流し、海に出る。
 上流の「道の駅 玉露の里」の辺りが朝比奈で、朝比奈城跡がある。ウィキペディアには、

 「朝比奈城(あさひなじょう)は、日本の静岡県藤枝市岡部町殿地区にある戦国時代の山城。この地域の豪族朝比奈氏の居城。藤枝市指定史跡 。殿山城とも。」

とある。

 「大井川、ふかき時は藤枝より嶋田にゆかず、川下の方にすぐに行て川を渡り、むかへの色尾と云所にあがる。川はば広き故、水あさし。色尾は川より東にあり。金谷より色尾へは一里有。川下なり。
 大井川は甲斐の国のおくより流れ出る。海道第一の難所也。川ごしを多くやとふて、又、此里の馬にのるべし。他所より通りたる馬にのるべからず。あやうし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 この道は色尾道と呼ばれるもので、古代東海道の名残と思われる。
 古代東海道は静岡を出て安倍川を渡ると、手越から南へ向かい日本坂を越え、焼津を南西に向かい、大井川を今の新幹線の鉄橋のやや川下のあたりで渡り、島田市阪本の色尾道から金谷の諏訪原のほうに一直線に進んだと思われる。
 色尾という地名は島田市坂本に残っている。
 近世の東海道よりも川下を渡るため、川幅が広い分川が浅くなる。
 大井川は南アルプスの赤石岳・荒川だけの東側で東俣と西俣に分かれ、西俣は塩見岳を水源とし、東俣は間ノ岳を水源とする。言わずと知れた東海道の難所で、橋がなく、川越人足を雇って手引、肩車、蓮台などで渡った。
 馬では越せないので、ここで馬を乗り換えることになったのだろう。その時に他所から来た怪しげな馬がいたようだ。

 「金谷の上に諏訪の原とて、長き野有り。武田勝頼ここに城をきづき、信州の蘆田などと云士を籠めおかる。東照宮の軍士、これをせむ。城中後攻なくして持こたゆる事かなはず。芦田以下城をあけ渡してのがれぬ。其城あと、金谷の町の上の方にあり。道の南に在。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14~15)

 諏訪原城はウィキペディアに、

 「諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代の日本の城(山城)である。諏訪之原城とも書く。甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。」

とある。築城についてはウィキペディアに、

 「翌元亀4年4月(1573年5月)、信玄は病死するものの、跡目を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。天正元年(1573年)の諏訪原城の築城もその一環であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせたという。ただし、このことを記す史料が『甲陽軍鑑』など後代に成立した史料のため、築城者については確定できないものの、この時期の築城は間違いないと考えられている」

とある。天正十八年(一五九〇年)に廃城になったという。
 ただ、場所は金谷の町の上にあるのは間違いないが、江戸時代の東海道の道筋だと北側になる。

 「此上より横須賀まで原の長さ六里有。横須賀は海に近し。金谷と西坂の間、菊川あり。名所なり。古歌有。又、昔、後鳥羽院の御時、承久の乱に光親卿と云し人、咎により関東へ下られしが、此宿にて、詩を作らる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 横須賀は今の掛川市横須賀であろう。原というのは牧之原になる。横須賀城跡がある。ウィキペディアに、

 「天正6年(1578年)、武田家の高天神城を締め付ける付城群の中核として、徳川家康が大須賀康高に命じて築いた城郭である。大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎える。」

とある。
 菊川は東海道の間宿がある。芭蕉は『野ざらし紀行』の旅で小夜のなか山を越える時、朝早く宿を出て、

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  芭蕉

の句を詠んでいる。杜牧の「早行」の詩なども引用していて、その前に大井川の川留めに逢って、急いでいたと思われるが、朝未明の内に小夜の中山を越えたとすれば、菊川に宿泊した可能性がある。
 菊川は歌枕で、

 波に今映してみばや菊川の
     名も便りある星あひの影
              冷泉為相(夫木抄)
 神無月またうつろはぬ菊川に
     里をばかれず秋ぞ残れる
              藤原為家(夫木抄)

などの歌がある。
 光親卿は葉室光親、あるいは藤原光親と呼ばれる人で、ウィキペディアに、

 「承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。
 光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという。『吾妻鏡』によれば、光親は戦後に君側の奸として捕らえられ、甲斐源氏の一族・武田信光によって鎌倉へ護送される途中・駿河国車返の付近で鎌倉からの使の命を受け、甲斐の加古坂(現在の籠坂峠、山梨県南都留郡山中湖村)において処刑された。」

とある。
 この時捕らえられた藤原宗行・藤原光親・源有雅・藤原範茂・藤原信能の五人は承久殉難の五忠臣と呼ばれている。
 島田市のホームページには、藤原宗行の、

 昔南陽県菊水 汲下流而延齢
 今東海道菊河 宿西岸而失命

 昔は南陽県の菊水の
 下を流れる水を汲んで寿命が延びたという。
 今は東海道の菊川の
 西岸の宿で命を失う。

の詩が掲載されている。詩碑も立っているという。

 「又、此間に小夜の中山有。東西と中と三山あり。其中なる山也。此辺に事の任と云所有。小夜の中山の道の口也。社有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.15)

 小夜の中山だけでなく、小夜の東山も小夜の西山もあったということか。確かに小夜の中山の北の方に「掛川市東山」という地名がある。「掛川市西山」という地名もあるが、かなり離れていて、天竜浜名湖鉄道の原谷駅の西側になる。
 「事の任」は事任八幡宮であろう。日坂にある。ウィキペディアに、

 「事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂にある神社。式内社で、遠江国一宮。」

とある。
 小夜の中山が名所なのは言うまでもない。ここで多くの和歌が詠まれていて、今日の小夜の中山の道の脇にも沢山の歌碑がある。

 雲のかかるさやの中山越えぬとは 
     都に告げよ有明の月 
              阿仏尼(十六夜日記)
 年たけてまた越ゆべしとおもひきや 
     命なりけりさやの中山 
              西行法師 (新古今集)
 甲斐が嶺ははや雪しろし神無月 
    しぐれてこゆる小夜の中山 
              蓮生法師(続後撰集)
 東路のさやの中山なかなかに 
    なにしか人を思ひそめけむ 
              紀友則(古今集)

など。

2022年6月16日木曜日

 それでは「東路記」の続き。

 「久能山に東照宮あり。社領三千石ありき。此所ははじめ家康公を葬奉りし地也。のち元和三年日光山にうつさせ給ふ。今も美麗なる宮あり。山上にたち給ふ。ふもとより八町上る。府中より三里あり。江尻よりもゆく。山上、石門あり。佳景也。山上に僧坊あり。井ふかし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 久能山の東照宮は日本平の南の海に面した所にある。府中(静岡)からも江尻(清水)から離れている。その華麗な姿は今にも残っている。
 石門というのは拝殿と本殿の間にある石の間のことか。権現造りの特徴とされている。権現様で神仏習合なので、僧坊もある。「井戸ふかし」は勘助井戸で、深さ三十三メートルあるという。山本勘助が堀ったという伝承がある。

 「府中に浅間の社有。是は富士浅間の新宮なり。延喜年中、富士本宮をここに勧請す。東照権現、御尊敬有し社也。宮づくり美麗なる大社也。日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とす。社領六百石つく。浅間の社官は、新宮左近、惣社宮内とて両人あり。浅間の社の上の山を、しづはた山と云。名所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 府中の浅間神社は今は静岡浅間神社と呼ばれている。ウィキペディアに、

 「徳川家康は、幼少の頃今川氏の人質として当社の北方約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬した。 まず1555年(弘治元年)、家康14歳の時、当社で元服式を行った。そして1582年(天正10年)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞(賤機山城)を攻略するにあたり、無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。さらに家康が大御所として駿府在城時の1607年(慶長12年)には、天下泰平・五穀豊穣を祈願して、稚児舞楽(現、静岡県指定無形民俗文化財・4月5日奉奏)を奉納した。」

とある。
 新宮左近は浅間神社の宮司で、惣社宮内は神部神社・大歳御祖神社を合わせた駿河国総社の宮司であろう。総社とはいえ、実質浅間神社なので、こういう二重行政になっていたのだろう。
 賤機山(しずはたやま)は浅間神社の北に南北に連なる低山で、標高一七一メートル。「しずおか」の名の由来になっているという。

 今朝見れば賎機山のこずゑより
     紅葉の錦織りぞそめつる
              藤原実清(夫木抄)
 散りしける賎機山のもみぢ葉を
     苔地に織れる錦とぞみる
              藤原忠房(夫木抄)

などの歌に詠まれている。

 「駿府の御城は慶長十二年成就し、東照宮御隠居ありて其年七月三日ここにうつらせ給ふ。其後、駿河大納言忠長卿、駿河、甲斐五十万石を領して爰に居城し給ふ。故ありて寛永九年上州高崎に配流せられ給ふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13~14)

 駿府城は十四世紀に国府となった今川氏によって築城された今川舘が前身となっていたが、ウィキペディアによると、

 「ただし、今川館が現在の駿府城と同じ場所であったことを示す史料は無く、むしろ1982年に行われた駿府城の二ノ丸跡の発掘調査によって見つかった戦国時代の遺構はその規模から今川氏の重臣の邸宅跡と考えられたことなどから、後世の駿府城よりも西側の地域に今川館があったとする推測が強くなっているが、具体的な位置については現時点では不明である。」

とある。連歌師の宗長も丸子に柴屋軒を構える前は、今川館の近くに住んでいたという。
 「駿府の御城は慶長十二年成就し」とあるが、ウィキペディアには、

 〇1607年(慶長12年)
  〇2月 駿府城拡張工事開始。
  〇3月 家康、入る。
  〇12月 失火により御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。
 〇1608年(慶長13年) 本丸御殿・天守等完成。家康、18年ぶりに駿府城へ移る。

とある。出典は「田中省三 『大御所徳川家康と駿府城公園』羽衣出版、2012年11月1日。ISBN 978-4-938138-98-1。」とある。
 駿河大納言忠長卿は徳川忠長で、ウィキペディアに、

 「徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。」

とある。
 また、ウィキペディアには、

 「寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行し、この頃より隣国の諸大名等からは「駿河大納言」という名称で呼ばれる様になる。しかし、忠長は自分が将軍の実弟である事を理由に満足せず、大御所である父・秀忠に「100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にして欲しい」という嘆願書を送るも、呆れた秀忠から要求を無視され、この頃より忠長は父に愛想を尽かされ始める。また、忠長の要求を知った家光からも、かつて祖父・家康が敵対した豊臣家が所有し、大坂の陣で落城させた大坂城を欲しようとしている忠長に、謀反の意思があるのではないかと疑われる様になり、幕臣達も諸大名に持て囃される忠長の姿を「まるで将軍が二人いるようだ」と評し、神経を尖らせていく。」

とある。
 家光の弟で従二位大納言の官位を貰い、嫡男の家光と対立する。源義経といい、足利直義といい、徳川忠長といい、またこのパターンかという感じがする。

 「〇阿部は、名所なり。阿部川のさきに手越と云町あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 安部は「安部の市」として歌枕になっている。

 いとどしく安部の市人さわぐらし
     坂越えかかる夕立の雲
              二条為明(新続古今集)
 君がため弥生になればよつまさへ
     安部の市路にははこ摘むなり
              源俊頼(夫木抄)

などの歌がある。
 安部川を越えると手越になる。手越は千手の前のいた所で、『平家物語』に描かれ、謡曲『千手』にもなっている。ウィキペディアには、

 「千手の前(せんじゅのまえ、永万元年(1165年) - 文治4年4月25日(1188年5月23日))は平安時代末期の女性。『平家物語』によると駿河国手越長者の娘。ただし『平家物語』や『吾妻鏡』は捏造部分も多いため実在については怪しまれている。」

とある。

 「〇阿部川のあたりより北にあたりて、雪白き高山遠く見ゆる。是、甲斐の白峯と云。甲斐が峯とも云。平家物語十巻海道下にも、「手越を過て行けば北に遠ざかりて雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ」とあり。府中と鞠子の間に木枯の森有。安倍川の上也。鞠子と岡部の間、右の山中に、連歌師宗長が居たりし寺有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 南アルプスは南北に長く、静岡市街からも小夜の中山からも見ることができる。甲斐が峯(ね)、甲斐の白根は今は北岳だけを限定的に指すことが多いが、かつては南アルプス全体を指してそう呼んでいた。
 木枯の森はウィキペディアに、

 「木枯森(こがらしのもり)または木枯ノ森は、静岡県静岡市西部を流れる安倍川最大の支流、藁科川の河川敷にある中州である。静岡県指定の名勝となっている。」

とある。

 木枯らしの森の下草風はやみ
     人のなげきはおひそひにけり
              よみ人しらず(後撰集)
 消えわびぬうつろふ人の秋の色に
     身を木枯らしの森の下露
              藤原定家(新古今集)

などの歌に詠まれている。
 連歌師宗長は永正元年(一五〇四年)に丸子の宇津ノ谷に柴屋軒を作って住むことになる。宗祇の死後になる。
 宗長の柴屋軒は宗長の死後、今川氏親によって吐月峰柴屋寺に改められたといわれていて、その後荒れ果てていたのを徳川家康が改修し、茶室や庭園を整えて今に至っている。

 「〇宇津の谷の上の山、宇津の山なり。名所なり。〇岡部は名所也。岡部に岡部の六弥太居たりしと云は虚説なり。六弥太が屋敷のあとは武蔵の岡部に有り。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.14)

 宇津ノ谷峠は『伊勢物語』九段の、

 駿河なる宇津の山辺のうつつにも
     夢にも人に逢はぬなりけり
              在原業平(新古今集)

の歌でよく知られている。地の文に「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかへでは茂り、もの心ぼそく」とあるところから「蔦の細道」とも言われている。
 宗長の時代から十団子が名物で、

 十団子も小粒になりぬ秋の風   許六

の句もかつてはよく知られていた。元禄五年頃米価が高騰した時のステルス値上げを詠んだ句であろう。
 岡部は一応、

 うち靡き暮れぬ岡べの花薄
     宿とふ人の袖にまがへて
              覚助(嘉元百首)
 夕月夜さすや岡べの秋風に
     霧晴れて鳴く小男鹿の声
              宗良親王(李花集)

の歌があるが、地名なのか一般名詞なのか何とも言えない。
 岡部には西行ゆかりの笠掛松がある。ネット上の大坪利絹さんの『去来付句「歌の奥義を知らず候」考─西行説話との関連─』によると、弟子の西住が松に掛けた笠に、

 西へ行く雨夜の月やあみだ笠
     影を岡部の松に残して

と書いてあったのを見て、

 笠はありて身のいかにして無かるらん
     あはれ儚き天が下とは」

と返したという伝承が近代の『志太郡志』に記されているという。
 中世の『西行物語』には西住の「岡部の松」の歌はなく「我不愛身命 但惜無上道」の詩が書きつけてあったことになっている。
 つまり、この歌がいつ頃作られたのかは不明ということになる。
 岡部の六弥太は岡部忠澄のことで、ウィキペディアに、

 「岡部 忠澄(おかべ ただずみ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人。武蔵七党の猪俣党の庶流岡部氏の当主。事績については詳細に乏しいが、『平家物語』における平忠度を討ち取ったエピソードで知られている。」

とある。岡部氏の本拠地は埼玉県深谷市岡部の周辺で、JR高崎線にも岡部駅がある。岡部六弥太の墓もここにある。

2022年6月15日水曜日

 それでは「東路記」の続き。

 「〇奥津川のほとりより甲州身延山へ行道あり。清見寺の客殿に雪舟の絵あり。清見寺の堂の前、絶景なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)

 興津を起点として身延山へ行く道は「身延道」と呼ばれていて、参詣者の道になっていた。江戸の方から行くと、興津川を渡った辺りから興津川に沿って遡って行く。今の国道52号線の元になった道でもある。途中に新東名の新清水インターがある。
 清見寺はそれより先にある。昔は清見が関があり、この辺りの絶景は歌枕にもなっているが、今は埋め立てられて見る影もない。清見潟とも言われていたから、干潟だったのだろう。伝雪舟筆の『富士三保清見寺図』にはその昔の姿が留められている。
 この絵に「伝」と付くのは、雪舟自筆のオリジナルではなく、それの精密な模写だとされているからだ。
 そこには左手前に清見寺の大伽藍が描かれていて、その後ろに山があり、画面中央に興津川の河口が複雑に入り組んだ地形に描かれていて、その反対側には三保の松原が描かれている。清見潟はこの興津川の河口から対岸の三保の松原までを含んでいたのだろう。
 そして遠景に富士山と愛鷹山が描かれている。三保の向こうには伊豆の山も描かれている。ネットで日本平からの富士山方面のパノラマ写真が見られるが、これを左右に大きく圧縮すれば、雪舟の絵に近いものになる。角度的に言えば清水船越堤公園の方が近いかもしれない。いまは清水市街地のビル群に遮られているが、おそらくこの辺りから見た景色が元になっているのだろう。
 その雪舟だが、雪舟がここを訪れたという伝承はあり、『富士三保清見寺図』も雪舟筆のオリジナルがあったとされているが、清見寺に雪舟の絵は残っていない。貞享の頃にはまだあったのだろうか。
 雪舟の『富士三保清見寺図』の富士山は中央に大きな三角の山を描き、その左右にやや山頂を低くした二つの山が描かれている。これがあたかも釈迦三尊のようで、投資家だったら株価のチャートが思い浮かぶところだ。
 この筆法はその後の狩野派などにも受け継がれ、芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』の富士山もこれを踏襲している。
 実際静岡側から見た富士山は中央手前に最高峰の剣が峰(3776m)があり左に白山岳(3756m)、右側に三島岳(3734m)が見える。ただ、山頂をただリアルに描くのだったら、中央の剣が峰の裾野を山の下の方まで引っ張る必要はない。これは異なる視点から見た三つの富士山を合成したもので、どの角度から見ても美しい姿を見せることを表現したものと思われる。
 日本の伝統絵画は近代の西洋画のような一つの固定した視点で描かれてはいない。多くは斜投象で描かれていて、それに複数の視点を追加するようなことは普通に行われていた。斜投象は決して線遠近法に劣った図法ではなく、むしろ物の形がより正確に描けるということで設計図などにも用いられている。
 雪舟のこの富士山の筆法は、やがて北斎によって破られることになる。北斎は一枚の絵でどの角度から見ても美しい富士山を描くのではなく、三十六枚の絵を書くことでそれを打ち破ることとなった。
 清見潟は薩埵峠の海岸線から興津川の河口域、それに対岸の三保の松原を含む、今の清水港一帯を含んだ入り江で、そこには干潟が形成され、美しい風景を形作っていた。
 和歌にも、

 清見かた関にとまらてゆく船は
     嵐のさそふこのはなりけり
              藤原実房(千載集)
 清見潟月はつれなきあまの戸を
     待たでもしらむ波の上かな
              源通光(新古今集)
 清見潟月すむ夜半の村雲は
     富士の高嶺の煙なりけり
              登蓮法師(続拾遺集)

など多くの歌に詠まれている。

 「奥津、清見寺のあたりの浜、清見潟也。奥津と江尻の間に田子の浦有。菴原川有。此川上に廬原(いはら)と云村あり。頼朝の時、廬原左衛門が居たりし所なりと、云。此辺すべて庵原郡なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 吉原宿の方にも田子の浦があったが、奥津と江尻(今の興津と清水)のほうも田子の浦と呼んでいたか。かつて古代東海道の時代に波の関守のいる道を嫌って、興津から船で沼津の方まで渡っていたとしたら、この全体が田子の浦だったのかもしれない。江戸時代も沼津と江尻の間に海上ルートがあったことは沼津の所に書いてあった。
 「いはら」という地名は菴原、廬原、庵原と三つの表記がされている。この時代の人は音があっていれば文字はそれほど気にしなかった。どれが正解ということではない。今日も静岡市清水区庵原町という地名が残っている。東名高速の清水インターのある辺りになる。東海道の道からはやや内陸に外れる。
 廬原左衛門はここを所領としていた庵原氏の者で、ウィキペディアに、

 「663年中大兄皇子の外征「白村江の戦い」では、この一族の廬原君臣が一軍の将として戦った。天智紀二年條に「大日本の救将廬原君臣が健児万余を率い、正に海を越えて至る」との記述があり、常時かなりの勢力を誇っていた。後に菴原の字を用い、後世は多く庵原の字を用いた。室町時代になると今川氏傘下に入るものの、地方豪族としての勢力は衰えなかった。『今川仮名目録』には明応の頃、庵原周防守という人物が親族間の借金問題で今川氏親に仲裁を求め、今川は貸主の庵原左衛門に周防守の料所のうち焼津郷を引き渡して分家させこれを収めたという記述があり、駿河に複数の庵原家があって一族がこの地で栄えていたことが伺える。」

とある。この庵原左衛門は明応(一四九二年から一五〇一年まで)の頃だから、頼朝の時代ではない。代々庵原左衛門を名乗っていたのかもしれない。

 「江尻と府中の間に草薙村有。明神有。むかし景行天皇の御時、日本武尊東夷征伐の大将として東国へ下り給ひし時、此所にて夷ども火を放て尊を焼殺さんとす。尊、はき給へる宝剣を以て草を薙はらひ給ふ。其火、敵の方へもえて敵悉く焼殺さる。宝剣を草薙の剣と云は此いはれ也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 江尻は今の清水、府中は静岡になる。かつて駿河国の国府が今の静岡にあり、国府のあった場所はその後徳川家康の駿府城になった。国府のある所という意味で府中と呼ばれている。
 この物語はウィキペディアには、

 「その後、ヤマトタケルは相武国(『古事記』および『古語拾遺』)もしくは駿河国(『日本書紀』、熱田神宮伝聞)で、敵の放った野火に囲まれ窮地に陥るが、剣で草を刈り払い(記と拾遺のみ)、向い火を点け脱出する。 日本書紀の注では「一説には、天叢雲剣が自ら抜け出して草を薙ぎ払い、これにより難を逃れたためその剣を草薙剣と名付けた」とある。」

とあり、この部分は『古事記』(倉野憲司校注、岩波文庫)に、

 「ここにその國造、火をその野に著けき。故、欺かえぬと知らして、その姨倭火賣命の給ひし嚢の口を解き開けて見たまへば、火打その裏にありき。ここにまづその御刀もちて草を刈り撥ひ、その火打もちて火を打ち出でて、向火を著けて焼き退けて、還り出でて皆その國造等を切り滅して、すなはち火を著けて焼きたまひき。故、今に焼道と謂ふ。」

とある。延宝七年秋の「須磨ぞ秋」の巻十一句目に、

   火付の野守とらへられけり
 草薙の風公儀より烈しくて    似春

の句がある。

 「〇府中の方に狐崎あり。梶原景時が討れし所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.13)

 梶原景時の最期については、ウィキペディアに、

 「正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた吉川友兼ら在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした。『吾妻鏡』は、景時が上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとしている。しかし土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持つ景時は、都の武士として朝廷に仕えようとしていたとの説もある。梶原一族滅亡の地は梶原山と呼ばれている。なお、吉川友兼が景茂を打ち取った際、友兼が所持していた青江の太刀は、友兼の子孫である安芸国人吉川氏の家宝として伝授され、国宝「狐ヶ崎」として現在に伝わる。」

とある。最期については諸説あるようだ。
 狐崎はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「狐崎」の解説」に、

 「静岡市葵区柚木(ゆのき)と駿河区曲金(まがりかね)の間の道沿いにある地の俗称。梶原景時が一族とともに戦死した地と伝えられる。清水区大内付近ともいう。」

とある、これも諸説あるようだ。「府中の方」とあるから、ここでは柚木の方であろう。
 柚木・曲金はJR東静岡駅の近くで、近くに古代東海道の遺跡(曲金北遺跡)もあり、古代東海道がこの辺りを通っていたことが分かっている。
 清水区にJR狐ヶ崎駅があるが、ここは元々上原駅で、狐ヶ崎遊園地ができたことで狐ヶ崎駅になったという。ウィキペディアに、

 「狐ヶ崎は本来、鎌倉幕府創設に貢献した梶原景時とその一族が鎌倉からの追手に殲滅された地である現在の葵区川合付近の名称であった(景時が討たれたのは葵区の谷津山南側の曲金地区という説もある)。鎌倉御家人の吉香友兼が景時の三男景茂を討ち取った備中青江為次の太刀は、名刀「狐ヶ崎」と呼ばれる。友兼は翌日に戦傷死したが、子孫の安芸国人吉川氏、さらにその家系を簒奪した毛利分家旧岩国藩主吉川氏のもとで、伝来の家宝として拵えともども管理され、岩国市の吉川史料館で保存されている。刀身、拵えとも国宝に指定である。刀身は、いかにも平安末から鎌倉前期らしい、ふんばりの付いた見事な元反りの刀姿と、古青江らしい澄んだ直刃と地肌が特徴で、美術的価値を高く評価されている。拵えは、源平期から鎌倉初期の武士の刀装のありかたを示す貴重な歴史的史料である。現在の駅名はこの静岡ゆかりの高名な刀剣にちなんだ「狐ヶ崎ヤングランド」に由来するものであり、駅周辺地域の本来の名称は「上原」である。」

とあり、梶原景時の最期とは直接の関係はない。