2022年6月14日火曜日

 曽我兄弟の陰謀説って、結局一九七九年の大河ドラマ『草燃ゆる』(永井路子原作)の丸パクリだったようだ。「草燃ゆる」改め「草生える」。
 筆者の子供の頃から大河ドラマは親父が必ず見ていたので一緒に見ていたが、『草燃ゆる』は何か親父がつまらないだとかぶつぶつ言って見るのをやめたのを思い出す。人間関係をあまりに現代のメロドラマ的に解釈しているのが面白くなかったようだ。それは今の鎌倉殿にも言える。
 筆者の「超訳『源氏物語』─とある女房のうわさ話─」も、現代的な言葉をしゃべらせているという所は三谷さんの影響があるけど、世界観はできるだけその時代を再現しているつもりだ。現代的解釈はしていない。
 曽我兄弟の陰謀説が間違いなのは、簡単に言えば幕府の側からすれば仇討を「美談」とする理由がないからだ。『曽我物語』でも仇討は美化されていない。周囲の人々、特に女性の悲しみとともに描かれている。仇討は人情であり、抑えることのできない衝動によるもので、それが義に反するからこそ曽我兄弟は処刑されている。
 戦場では多くの人が死んでいる。それに対していちいち仇討を行っていたなら収拾がつかなくなる。謡曲『摂待』もその恨みの連鎖を断つことをテーマとした物語だった。
 基本的に仇討は人情であり、いつの時代でも「義」は仇討を禁じている。それは忠臣蔵でも同じだ。今日の死刑廃止の議論を見ても、死刑廃止は義であり死刑存続は人情だ。
 たとえば源平合戦が源義朝の仇討の戦いだったとしたら、実際に仇を討ったのは頼朝ではなく義経になる。その義経を討った頼朝に何で仇討を美談にする必要があったのか。
 頼朝は清和天皇以来の源氏の正当な血筋である義朝の嫡男であるというだけで、最初から正統な後継者なのであって、仇を討ったことで正統な後継者になったのではない。仇討の美化は頼朝政権の根底を覆してしまう。
 『曽我物語』でなぜ最初に長々と源氏の系譜のことを語っているのかというと、最初から仇討はあくまで人情によるもので、それが明らかに秩序に反するものであることを、源氏の血筋を語ることによって前置きする必要があったからだ。

 ロシアのウクライナ侵略によって引き起こされた食糧危機は、アフリカの農業の問題を考えるきっかけにしてゆく必要がある。
 アフリカの多くは農業国でありながら、なぜ食料自給率が低いのか。二つ原因がある。一つは前近代的な生産性の低い農業がおこなわれていること。もう一つはその一方で欧米や日本へ向けての大規模な商品作物栽培に農地の多くを取られていること。
 今回の食糧危機はウクライナには何の非もなく、全面的にロシアに非があるのは勿論の事、小麦に依存した今の世界を考え直すきっかけにすべきではないかと思う。
 日本は食料自給率が低いとはいえ、米はほぼ自給できている。そのため、今の日本では食料に対する危機感はまったくないと言って良い。パンが食えないならご飯を食べればいい、で済んでいる。アフリカにも本来彼らが先祖代々食べてきた穀物があったはずだ。
 伝統的な食生活を変えて欧米流の小麦依存体質にすることのリスクを、今こそ知るべきではないか。
 不思議なのは、これだけ小麦の不足が叫ばれていて、それに円安も加わっているというのに、パスタの価格が全然上がっていない。これはデュラム小麦の生産地である北アフリカや中東地域の食糧危機を回避するヒントになるのではないか。
 ちなみに国産パスタはカナダ産のデュラム小麦が使用されている。これらの地域に直接関係はない。

 それでは「東路記」の続き。

 延宝八年の災害については、ネット上の「防災情報新聞」に、

 「○延宝8年閏八月台風、東海道筋、江戸、強風と高潮に襲われる[改訂]
 1680年9月28日(延宝8年閏8月6日)
 強烈な台風により、東海道筋と江戸など沿岸地帯が強風と高潮に襲われた。
 東海地方の被害は、三河(愛知県)では三河湾沿岸の西尾、吉田(現・豊橋市)、田原に高潮が押し寄せ(山鹿素行先生日記)、特に吉田藩では39人死亡、家屋倒潰1699軒の被害となった。(玉露叢)
 遠江(静岡県)では浜松、横須賀(現・掛川市)、掛川の被害が大きく、浜松藩では大風により、浜松城の本丸から天守、二の丸、三の丸の櫓や塀が破損、城下では358軒の侍屋敷や町家が倒潰した。横須賀藩では高潮に襲われ、300人余死亡、城の櫓(やぐら)1棟、武士・町人の家6000余軒が流失(徳川実紀)。掛川藩は暴風雨で水損した田畑5700石余、民家の倒潰2794軒と記録されている(玉露叢)。駿河(静岡県)では湾沿いの吉原(現・富士市)、原(現・沼津市)に高潮による被害があり、吉原での300人をはじめ、倒潰した家屋や死亡した人は数え切れない程だという(山鹿素行、玉露叢、浅間文書纂)。」

とある。『東路記』は「津波」と書いているが、延宝八年にあったのは高潮だった。延宝五年の間違いではなく、「津波」の方が間違っていた。

 「〇吉原より今泉を通り富士のすそ野を経て大宮にゆく道あり。吉原より大宮に行道一里ばかりにあつ原と云村有。曾我十郎、五郎が社、一所に両柱あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)

 今泉の地名は今も富士市にあり、岳南鉄道の吉原本町の隣の本吉原駅も富士市今泉一丁目になる。江戸から行くと、吉原宿入口の手前になる。ここから北の地域が今泉になる。ここから富士宮の浅間神社へ行く道があったようだ。これより百年後になると富士講が盛んになり、多くの人が訪れることになる。
 厚原という地名も今日に残っている。JR身延線や県道の富士富士宮線よりも山側を通っていたのだろう。五郎の首洗い井戸というのが今でもあり、近くに今も曽我八幡宮がある。
 それよりさらに南西に行き、富士富士宮線を越えた所に曽我寺があり、曽我兄弟の墓がある。かつては本地垂迹で曽我八幡宮と一体だったのだろう。富士講の名所だったに違いない。
 富士の巻狩りの行われた藍沢は富士山の御殿場側で、今も自衛隊の演習場がある。「首洗い井戸」のことがこの『東路記』にない所を見ると、富士講が盛んになった江戸後期に後付けで作られた名所である可能性がある。五郎十郎の霊は富士講が盛んになるはるか前から、何らかの理由でここに祀られていたのだろう。

 「〇吉原と蒲原の間、うるい川有。大宮の方より出る川なり。此辺、富士のすそのより出る小川多し。富士川は甲州のおくより出、見延をへて下る。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)

 東海道の方に戻るが、吉原宿を出てすぐの所に潤井川がある。富士山の西の大沢崩れを水源として、浅間神社の西側を通って田子の浦にそそぐ。
 その先に富士川がある。今日では甲府盆地で釜無川と笛吹川が合流し、そこから下が富士川になっている。見延を経て富士市の西側にそそぐ。
 笛吹川は甲武信ヶ岳の方に発し、釜無川は甲斐駒ヶ岳の北西を水源とする。
 富士川というと芭蕉の『野ざらし紀行』に、

  「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀気(あわれげ)に泣くあり。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露ばかりの命待つまにと、捨置きけむ、小萩がもとの秋の風)、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

いかにぞや、汝ちちに悪(にく)まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性(さが)のつたなきをなけ。」

とある。
 多産多死の時代には捨て子は珍しいものではなく、捨て子を収容するような施設もなかった。捨て子の命はただ天命であり、泣くこと以外に何もできなかった。
 有限な大地の有限な自然の恵みでは、自ずとそこに棲める人の数も限られる。生まれてきた人のすべてが生きれるわけではなかった。それは定員の限られた小舟に乗っているようなものだった。みんなが乗ったら船が沈んでしまう。そこで厳密な掟を作って、命に序列をつけ、生きることに優先順位を付けざるを得なかった。
 この掟は天であり絶対的なものである必要があった。そうしないと生き残りをかけて親子兄弟の間でも血で血を洗う争いになる。事実歴史上、親子兄弟同士が合戦をした例は限りなくある。
 武家などの上層階級は寺が余剰になった子供の受け皿になったが、下層階級は捨て子をした。

 「由井と興津の間に、薩埵山あり。昔、足利尊氏と其弟直義と兄弟合戦ありし所也。太平記に見えたり。爰に下道、中道、上み道とて三筋あり。
 下道はおやしらず子しらずとて、海辺の岩間を通る難所也。ここを岫(くき)が崎と云。夫木に歌あり。中道は、明暦元年、朝鮮の信使来りし時始て開く。上道は近年開く。
 明暦元年より前は、下道ばかりにて、中道、上道はなし。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.12)

 「薩埵峠の戦い」は南北朝時代のものと戦国時代のものとがある。戦国時代の方はウィキペディアに、

 「薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いともいう)は、戦国時代の1568年(永禄11年)12月から翌月にかけて駿河国薩埵峠(静岡県静岡市清水区)において、武田信玄の軍勢と今川氏真・北条氏政の軍勢との間で2度にわたって行われた合戦である。」

とある。
 『東路記』にあるのは南北朝時代の方で、これもウィキペディアに、

 「薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いともいう)は、南北朝時代の正平6年/観応2年(1351年)12月、駿河国の由比(静岡県静岡市清水区)・内房(静岡県富士宮市)一帯において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢とで行われた合戦である。戦の行われた場所から桜野の戦いともいう。」

とある。
 これもよくある兄弟合戦で、足利直義は尊氏の同母弟になる。鎌倉幕府を倒す時は協力し合っていて、建武の乱の時も湊川の戦いで共に楠木正成を討ち取っている。
 その後義直が官位を得て公卿になったというあたりは、どこか源義経と似た所がある。尊氏の方は征夷大将軍になると南朝から直義追討の綸旨を得て、実の弟と戦うことになった。
 頼朝の場合もそうだが、基本的に国の支配者のポストは一つしかない。兄に優先権があるのは誰しも認めることだった。そこに弟が朝廷と組んでその優先権を脅かす恐れがあるということになると、兄弟でも容赦しない。それはよくあることだった。
 誰もが分かり切った単純な理屈ではあるが、その不条理もまた誰もが感じていることで、それが判官贔屓を生んだと言っても良いだろう。いわゆる義理と人情のはざまで、判官贔屓は人情の方だった。人情、その言葉は西洋の「人権」に相当する日本の言葉だった。
 芭蕉の富士川の句にしても、捨て子が「天」だというのは義理であり、それを泣くのは人情だと考えればわかりやすい。
 薩埵峠には三つの道があった。
 下道は古代同街道の時代からある海辺の波を被る道で、『東関紀行』には、

 「岫(くき)が崎といふなる荒磯の、岩のはざまを行過るほどに、沖津風はげしきに、うちよする波も隙なければ、急ぐ塩干の伝ひ道、かひなき心地して、干すまもなき袖の雫までは、かけても思はざりし旅の空ぞかしなど打詠られつつ、いと心ぼそし。

 沖津風けさあら磯の岩づたひ
     波わけごろもぬれぬれぞ行」

とある。

 さらぬだにかはらぬそでを清見潟
     しばしなかけそなみのせきもり
              源俊頼(続詞花集)

の歌もあるように、ここには清見が関の関守とは別に波の関守がいると言われていた。人の関守は通しても、波の関守はなかなか通してくれなかった。
 「おやしらず子しらず」は北陸道の難所で、『奥の細道』にも市振のところに、

 「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば」

とある。それに匹敵する難所だったということだろう。
 近代でも国道一号線と東海道線はここを通っている。
 そのため江戸時代になって明暦元年(一六五五年)に第六回朝鮮通信使が来た時に、薩埵峠を越える道が作られ、これが中道になる。
 この時の中道は薩埵峠を興津側に下る時に、海岸へ出てたようだが、後に瑞泉寺の北側を大きく迂回するルートが作られ、これが上道になる。これが江戸時代の東海道のスタンダードになった。

2022年6月13日月曜日

  今日は開成町の紫陽花を見に行った。
 紫陽花の名所というと庭に固まって植えてあるところが多いが、ここは田んぼの脇にかなりの広い範囲に植えているのが特徴で、種類もいろいろあった。
 写真は今日撮影。

 大河ドラマは何であんな変な陰謀説にしちゃったんだろうね。それに十郎いないじゃん。虎御前どこへ行った。まあ、陰謀説の好きな人にはあれでいいのかな。
 歴史は政府の工作でいくらでも改変することのできるものだ、というのがテーマだったら、それは間違っていると言おう。人のうわさというのを侮ってはいけない。政府はころころ変わるが民衆はいつでもそこにいる。最終的には民衆の間で語り継がれた物が残る。

 それでは「東路記」の続き。

 「〇吉原の町より七八町北、富士のすそ野に今泉といふ村あり。此村に五郎右衛門と云大百姓有。天性父母に孝あつく、他人にも慈愛ふかく、善行多き事、あげてかぞへがたし。其父先年死けるが、其所のならはしにて、父死すれば家富たるものはかならず葬のともに其家の馬をひかせ、すぐに寺につかはす。
 五郎右衛門も其父の馬を葬礼の時ひかせけるが、父の平生乗たる馬を他人の手に渡さんも不便なりとて、其馬のあたひより多く金子を寺へつかはして馬を取返し、むま屋を別に新しく作りて其馬をたて置、数年の後、馬病死するまで、のらずつかはずして飼置し也。
 吉原の町に津波上りし時、五郎右衛門が家に大釜を七ツあつめ、飯を多くたきて、吉原より海水をさけてのがれし家々につかはし、いづくよりともなく其飯を置て帰る。此時、吉原の町の者は、五郎右衛門が養ひにて命をたすかると云。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9~10)

 前半は「葬馬」の習慣で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「葬馬」の解説」に、

 「〘名〙 葬送の時、葬列につらなる引馬。
  ※太平記(14C後)三二「今まで秘蔵して乗られたる白瓦毛の馬白鞍置きて、葬馬(サウば)に引かせ」
  ※随筆・松屋筆記(1818‐45頃)九五「死たる時聖に布施する馬をば葬馬といへり」

とある。古代には馬を殉死させる習慣もあったようで、それが馬の埴輪に取って代わったとも言われている。いつからか、馬をお寺に寄進するふうに変わっていったのだろう。
 お寺にお布施として馬を渡しても、お寺もそのまま飼うわけにもいかずに、大抵は売却されていたのだろう。それならば、ということで馬の代りにお金でお布施を渡し、馬を手元に留め天寿を全うさせたという美談になっている。
 その五郎右衛門が大津波で多くの被害ができた時、今で言えば炊き出しだが、日本人は昔から善行をするときに自分の名を表に出すことを嫌って、いわば匿名で困っている人の所に飯を置いて行ったという。
 今もタイガーマスク運動というのがあるが、寄付するときは決して売名にならないように匿名でやらなくてはならないという習慣は、日本では根強いものがある。一説には道教に由来するとも言う。
 道教は日本では教団化されることがなく、明確な教義や戒律を持たない神道の中に溶け込んで習慣化されて行っている。

 「又、其比海水あふれしゆへ近国の浜に塩なかりしを、五郎右衛門船に乗て上方へ行き塩を多く買来り。家人を多く塩商人のごとくして彼津波のあげし村々の家々につかはし塩をうらせ、其あたいをば重てとりに来るべしと云はせければ、久しく塩にうゑたる家々悦て是を取る。日久しけれ共、其塩のあたいをこひに来らざれば、みないぶかしくおもひける。後によく聞てこそ五郎右衛門がほどこしなりとはしりたりけれ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10)

 塩を配るにも、ただで配るのではなく、商人がやって来て料金を後払いということにして塩を配り、結局取りに来ないという所で施しにしている。

 「凡、人に物をほどこして其名をあらはす事をこのまず、陰徳多し。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10)

 陰徳はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「陰徳」の解説」に、

 「① 人に知られない善行。ひそかに施す恩徳。かくれた功績。陰騭(いんしつ)。
  ※本朝文粋(1060頃)七・奉左丞相書〈三善清行〉「紛乱之間。授攘之会。宜下立二其陰徳一、塞中怨門上」
  ※太平記(14C後)一四「陰徳(イントク)遂に露れて、今天下の武将に備はり給ひければ」 〔史記‐韓世家賛〕」

とあり、古くからある言葉だが、別に道教起源でなくても、人類に普遍的にあるのではないかと思う。少なくとも、西洋人は寄付すると大々的にアピールするが、それに比べて日本人は遅れている、という主張は正しくない。
 寄付しているのをアピールすることは、宣伝した方がより多くの寄付が集まるというメリットがあるからにすぎない。自分の持っている私財を越えた多くの寄付金を集めるのには有効だが、私財の範囲内で寄付する分には、西洋人だってそれを吹聴するようなことは恥じると思う。
 基本的に贈与は只ではない。よく「只ほど高いものはない」というが、贈り物は一般に返礼をとセットになるもので、これは贈り物をするというのが同時に「恩を売る」ことになるからだ。
 贈与は相互依存的に生活せざるを得ない人間の社会にあっては、少なからず返済の義務を生じる。恩を受けたからには何かお返しをしなくてはいけないというのは、原始の頃からの人間の普遍的な感情だ。
 だから、善行は「恩を売ってない」ということを明白にする必要がある。返済を要求しない一方的な贈与であることがわかるようにしないなら、貰う方もうかつに貰うことができない。匿名の贈与というのはそういう意味を持っている。
 モースの『贈与論』には、ポトラッチと呼ばれる競覇型贈与が多くの民族に見られることを指摘しているが、相手が返済できないほどの贈与は、いわば返済不能な借金を負わせるようなもので、そのまま債務奴隷に転落させる。それを防ぐには、贈与には贈与で対抗しなくてはならない。
 今でもヤクザにうっかりものを貰ってしまったら、即座に同額の品を返す、いわゆる「全返し」を行い、貸し借りをチャラになくてはならない。
 当たり前のことだが、人に物を施しても、それでもって恩を着せて相手を債務奴隷に転落させるようなことは、善行どころか悪徳以外の何でもない。善行が基本的に陰徳でなくてはならないのは、普遍的なことだと思う。ただ、仲間に寄付を促すために、自分もこれだけ出したから、と言うのは正しい。

 「飢饉の時は人をすくふ事尤多し。伊勢に参宮せんとするもの財乏しくて行く事かなはざれば、路銀をかして、重て其つぐのいを求めず。
 或時、五郎右衛門が家に盗人来て、蔵をうがちて米を二俵取て出けるを、五郎右衛門が下女見付て五郎右衛門に告ぐ。五郎右衛門は父母死してより以来、父母のためとてあかつきごとに看経おこたらず。此おりふしも看経して居たりしが、是をきき其まま経よみていらへもせず。下女こらへかねて家のおのこ共につげしかば、盗人入たりとてひしめくを聞て、村中のもの多くおどろき出て盗人を追ければ、ぬす人米をすててにげたり。
 後に五郎右衛門ん聞て腹をたて下人をしかりけるは『我が身上にて米二俵を取られし事、何程の事にかある。其ため村中の大勢を動かしけん事、有まじきひがことなり。其盗人は定めて粮つきて、せんかたなきままに、五郎右衛門が蔵には米も多くありなんとおもひてこそ来りて取つらめ。それをおひおとしてとらんも本意にあらず』とて、盗人のすて置たりし米を下人にもたせてぬす人のかたへぞおくりける。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.10~11)

 基本的にこういう善行と言うのは、それだけの財産があるからできることで、自分も貧しかったら分け与えるものもない。いわばそれだけ稼ぐ力があるからできることだというのは、きちんと見ておく必要があるだろう。
 富の再配分というのは、基本的に富める者の善意であるのは言うまでもない。「我が身上にて米二俵を取られし事、何程の事にかある」←ここ大事、というところだ。
 要するに真面目に働いて、ひと財産を作り、余裕ができて初めて善行というのは成り立つ。貧しい人を救いたいと思ったら、まず自分が裕福にならなくてはいけない。裕福になって初めて貧しい人に施しができる。これは基本だ。芭蕉の句にも、

   薬手づから人にほどこす
 田を買ふて侘しうもなき桑門   芭蕉

とある。
 世の中は「一寸先は闇」というように、どんな裕福な人でも冤罪かなんか着せられて一日にして没落することもあるかもしれない。そうなったときにかつて施してやった人たちが恩返しをしてくれる。そう思うと善行は結局は保険でもある。「情けは人の為ならず」だ。

 「又或時、五郎右衛門が野に在し畠に盗人来て牛蒡をほる。五郎右衛門折節通りけるが、是を見て、『そこは牛蒡のほそくてあしき所なり。こなたこそ大なる所なり』とおしへて、よき所をほらせける。其天性の厚き事、みな此類ひなりとぞ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.11)

 これも「さもありなん」という話だ。
 畑仕事にしても日々工夫し、少しでも生産力を上げるように努力すれば、それだけ他人に多くの者を施せるようになる。生産性の向上ということが根底にあれば、それでけ多くの善行もできるようになる。
 盗人も畑の生産物の余剰を掠め取っているにすぎない。それであればたとえ盗人がたくさんいても社会秩序は維持できる。これがひとたび、こうした篤農家の生産手段である畑そのものを奪ってしまったのでは、これまでの高い生産力が損なわれ、畑が荒れ果ててしまう。そうなると結局盗人も餓えることになる。
 盗人にもそこの加減が大事なのは言うまでもない。二十世紀の社会主義の過ちはそこにあったのではないかと思う。
 多分この盗人も遠慮して、わざと細い牛蒡を盗もうとしていたのだろう。

 「此御代に生れ太平のたのしみをうくる事、ひとへに東照宮より以来、世々の君、上の御恩わすれ難しとて時々拝し奉る。あやまりなれ共、其忠厚の志はまことに感ずべき事なり。
 凡五郎右衛門が善行、世に人のかたり伝るは、只其かたはし也。平生の実行は猶あげてかぞへがたし。
 天和元年の夏、諸国へ巡検使をつかはされし時、五郎右衛門が善行を巡検使聞て江戸へ申上給ひしかば、江戸へ召出され、五郎右衛門がもてる今泉村の田高九十石の地を永代年貢を御免ありて御朱印を賜はる。
 其後、家弥富て財多ければ、貧民をすくひ善行を行ふ事はいよいよやまずといへども、身に奉ずる事はもとのごとく甚倹約にしておごらず。人にへりくだる事むかしのごとし。
 貞享元年其歳四十二、其家に奴婢三四十人、牛馬十五疋ばかり有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.11~12)

 こうした善行ができるのも、徳川幕府の元に戦乱もなく、天下泰平だからなのは言うまでもない。
 戦国時代であれば、いつ屋敷が焼き払われ田畑が戦場になるとも限らない。平和という前提があってこそ善行は成り立つ。戦争はこうした善行を根こそぎ破壊してゆく。
 善行を成すには平和が一番の大前提であり、次に生産力の向上ということになる。
 五郎右衛門の善行は幕府も知る所となり、永代年貢免除の恩恵にあずかることになる。これは現代でも応用できるのではないかと思う。たとえばESG・SDGsの取り組みで高く評価できる企業に関しては法人税を減額するとか。
 最後に「奴婢三四十人」だが、これは本来は下人を表す言葉だった。下人は古い時代にはいわゆる奴隷だったが、江戸時代には普通に年季奉公人のことを表すようになっていた。
 下人ではなく下男・下女と呼ぶのが普通になる中で、貝原益軒さんはついつい「奴婢」という古い言葉を使ってしまったのではないかと思う。
 まあ、奴隷を使っていた罪で銅像を引きずり倒す必要はなさそうだ。

2022年6月12日日曜日

 岸田政権の「新しい資本主義」は基本的にはアベノミクスの継承であり、何ら社会主義的な政策(富の再分配など)を意味するものではないということは、前にも書いたことがある。それを左翼やマス護美が意図的に曲解して、安部と何ら変わりないとか言って叩いているのは、ただただ草が生える。
 新しい資本主義は基本的には持続可能資本主義であり、本来は株主主導で行うべきものだが、日本ではまず株主の力が弱すぎるので、そこを国策で補わなくてはならないということだ。

 それでは「東路記」の続き。

 昔の進歩史観だと、如何にも昔の人が迷信を本気で信じてたみたいに言うが、怪異についても仏の霊験についても軍記物語についても、ほとんどの人にとってはうわさ話のレベルだったと思う。
 いつの時代の人もうわさ話については自然と耐性を持っているもので、信じもせず、かといって無下に否定するでもなく、グレー領域で処理してきたものだ、今日のUFOと同じと言って良い。
 だから、歴史ドラマなんかで間者を使ってうわさを流して合戦を優位に進めるというのがあったりするけど、実際はそれほど効果はなかったんじゃないかと思う。
 うわさという形で真偽不明の情報をグレーゾーンとして保持することは庶民の知恵でもある。後で真偽が判明した時に、どっちに転んでもいいように保険をかけるのは、生きていくのに不可欠なことだ。昔から言う。信じる者は馬鹿を見る、と。

 「沼津の南の大河を狩野川と云。伊豆のおく山より出る川也。狩野は民家多き所なり。沼津の南に鷲津山とて、とがりて高き岩山そびへて見ゆる。沼津の東の方の町を三枚橋と云。是より日和よき時は、江尻へ船をのる。海上七里有。富士おろしはげしき故、嵐たつ日は渡海せず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)

 狩野川は伊豆半島の天城山系の方を源流とし、かつて北条氏が支配した今の伊豆の国市の辺りを経て、沼津の東で黄瀬川と合流する。沼津宿南側を流れる狩野川は伊豆の水と御殿場の方から流れる水とが合わさって、堂々たる大河になる。古来水害に悩まされてきた地域だった。
 古代東海道の位置は諸説あるが、黄瀬川を渡らずに狩野川の南を通った可能性もある。
 その沼津の南の狩野川の向こうはすぐ山になっている。まず香貫山があり、横山があり、徳倉山があり、像の背山があり、そして鷲頭山に至る。ここではこれらを総称して鷲津山と呼んでいたのだろう。今は沼津アルプスともいう。
 「とがりて高き岩山そびへて見ゆる」とあるのは、その南にある城山ではないかと思う。鷲頭山の西側にもロッククライミングをやる岩場はあるが、この描写にふさわしいのは城山の方ではないかと思う。
 昔の沼津宿はこの狩野川が河口へ向けて南に向きを変えるその西側にあった。その手前に三枚橋町の地名が今でも残っている。安土桃山時代には三枚橋城があったが、江戸時代には廃城になっている。ウィキペディアには、

 「1601年(慶長6年)に大久保忠佐が城主となり沼津藩主となったが、1613年(慶長18年)忠佐死去後、跡継ぎのいなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌1614年(慶長19年)に廃城となる。同年には火災がありその後徳川忠長が治め御殿を建てるものの1641年(寛永18年)に焼失し、外堀と二の丸に開墾許可が出され、1674年(延宝2年)田畑となった。1687年(貞享4年)には二の丸や土手が、また1689年(元禄2年)にも二の丸や土手が入札され農地化が進み、三枚橋城は姿を変えて行き、新たな町が誕生し(上土町・川廓町・志多町)沼津宿を形成していった。」

とある。
 「是より日和よき時は、江尻へ船をのる」とあり、ここから今の静岡市清水に向かう船が出ていたようだ。駿河湾を横断する形になる。
 古代東海道も、当時は田子の浦は大きな入り江で、沼津から吉原にかけても巨大な干潟が横たわっていたので、清見寺から蒲原までは「波の関守」のいる海岸ルートの陸路があったが、そこから先の田子の浦は海上ルートを通っていた。

 田子の浦にうちいでて見れば白妙の
     富士の高嶺に雪はふりつつ
              山部赤人(新古今集)

の歌は百人一首でもよく知られているが、この海上ルートから見た富士の眺めを詠んだものと思われる。

 「〇沼津の西に千本の松原有。昔、頼朝平家追討の後、小松殿の嫡孫六代、此松原にてきられんとせしを文覚上人、頼朝にこひ受て助けし所なり。ちもとの松原とて名所なり。〇車返し。沼津の辺を云。きせ川より西也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)

 沼津宿を出たすぐの所に海岸があり、そこに千本松原があり、今は千本浜公園になっている。十三世紀の『東関紀行』にも、

 見渡せば千本の松の末とほみ
     みどりにつづく波の上かな

の歌がある。古歌に詠まれている所は基本的に名所とみなされる。
 ここから東海道は海岸沿いに進むことになる。元は巨大な干潟と海との間の細い砂州で、江戸時代初期から新田開発が行われ、この頃は一面の田んぼが広がっていたのだろう。
 この時代は地球規模での寒冷化が起きていたから、元からかなり干潟は縮小していたのかもしれない。そのおかげで、沼津から蒲原までの陸路は安全なルートになっていた。
 千本松原は砂丘だったため、急な上り坂があったのだろう。古来「車返し」と呼ばれる坂があった。『東関紀行』にも「車返しと云里あり」と記されていて、この「里」が沼津宿の前身となる車返宿になる。

 「原と吉原の間、浮嶋が原なり。芦高山の上に蘆高明神の社有。明神の馬とて芦高山に野馬多し。百疋にはこさずと云、牧の馬のごとし。興国寺の城は芦高山のふもとなり。沼の向なり。吉原のかたにあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9)

 愛鷹山と街道の通る砂州との間はかつては巨大の干潟で、そこに三つの島が浮かび、かつての象潟のような景観が見られたのだろう。この広い干潟全体を浮島が原と言っていたのではないかと思う。『東関紀行』には、

 「浮嶋が原はいづくよりもすぐれて見ゆ。北は富士の麓にて、西東へはるばるとながき沼有。布を引けるがごとし。山のみどり影をひたして、空も水もひとつ也。芦刈小舟所々に棹さして、むれたる鳥はおほく去来る。
 南は海のおもて遠く見わたされて、雲の波煙のなみいと深きながめ也。すべての孤島の眼に遮なし。はつかに遠帆の空につらなれるを望む。
 こなたかなたの眺望、いづれもとりどりに心ぼそし。原には塩屋の煙たえだえ立渡りて、浦風松の梢にむせぶ。
 此原昔は海の上にうかびて、蓬莱の三つ嶋のごとくにありけるによりて、浮嶋が原となん名付たりと聞にも、をのづから神仙の栖にもやあるらむ、いとどおくゆかし見ゆ。

 影ひたす沼の入江に富士のねの
     けぶりも雲も浮嶋が原」

とある。
 浮島が原も名所で、

 足柄の関路越え行くしののめに
     ひとむら霞む浮嶋の原
              藤原良経(新勅撰集)
 足柄の関路晴れ行く夕日影
     みぞれに曇る浮島が原
              藤原家隆(建保名所百首)

などの歌に詠まれている。
 この時代には既に、三つの島は芦原に埋もれていたのだろう。煙と雲だけが浮かんでいた。江戸時代には多くは田んぼになっていたが、一部にはその名残の沼が残っていたのだろう。
 かつて芦原だったところから、その向こうの見える愛鷹山は「芦高山」と表記されていたのだろう。
 愛鷹山の放牧については、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「愛鷹山」の解説」に、「山名はかつて足高之峰とも書かれ、古代には官牧が設けられ、馬の放牧がなされていた。」とある。
 その名残でこの時代も野生化した馬が住み着いていたのだろう。ちょうど宮崎の都井岬の野生馬のような状態になっていたか。
 江戸後期になると愛鷹牧という幕府の放牧場になり、明治の初めまで続いたという。三島市郷土資料館のホームページに愛鷹牧を描いた「世古本陣図屏風」(世古直史氏蔵)のことが記されている。
 興国寺城はウィキペディアに、

 「興国寺城は静岡県東部の愛鷹山南麓に位置している。愛鷹山南麓の地形は連続した傾斜面となっているが、興国寺城付近は谷底平野を一部伴った侵食谷によってブロック状に緩斜面が分断されている。また山麓部から低地への移行部には小扇状地が形成され、旧浮島ヶ原の低湿地につながっている。興国寺城の立地は、城の東西は開析された侵食谷の深さと谷壁部分の急斜面、そして南方の浮島ヶ原の低湿地を天然の要害として利用した、地形を生かした典型的な城郭の立地といえる。」

とある。
 今日の興国寺城跡とされている場所はJR原駅から北に行った、新東名の駿河湾沼津サービスエリアに行く登り口の辺りにあり、浮島ヶ原自然公園はJR東田子の浦駅の辺りで、かなり離れている。慶長十二年(一六〇七年)に興国寺城は廃城になっているから、貞享の頃にはその所在地もよくわからなくなっていたのかもしれない。

 「吉原の町、延宝八年の比、海水あふれ民屋悉く崩る。是、世俗に津波と云也。町の人は富士のすそのの方へにげて命をのがれぬ。其後もとの町ありし所、地ひきくして重て水災あらん事をおそれて、十町ばかり北へあがりて今の町を立し也。其故に原の方へは十町ばかり遠くなり、神原へは十町ばかり近くなる。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.9)

 一町は約百メートルで、延宝の末に吉原宿が一キロほど北へ移動したことになる。吉原宿が今の岳南鉄道の吉原本町の辺りだとすると、かつてはJR吉原駅に近い「左富士の碑」のある辺りにあったか。今まで右に見えていた富士がここでS字にカーブしていて左に見えるようになる、そのカーブが古い宿場の名残なのかもしれない。
 延宝八年とあるが、延宝五年の延宝房総沖地震の間違いか。ウィキペディアに、

 「延宝5年10月9日夜五つ時(亥刻)(1677年11月4日20-22時頃)、陸奥岩城から房総半島、伊豆諸島および尾張などにかけて大津波に襲われた。
 「冬十月九日癸丑、常陸水戸陸奥岩城逆波浸陸」(『野史』)など、10月9日夜に津波が上ったとする記述は多く見られるが、地震動の記録は少なく、震害が現れるほどの烈震記録は確認されていない。地震動の記録には以下のようなものがある。
 〇「九日岩城大地震諸浜津波打上ヶ」(岩城領内『慶天拝書』)
 〇「夜清天静ニて、五ツ時地震震動致シ沖より津波上ヶ」(下総銚子『玄蕃先代集』)
 〇「十月九日夜の五つ時分少しの地志ん有之、辰巳沖より海夥鳴来り」(上総東浪見(一宮)『万覚書写』)
 〇「晴天、夜地震三度」(江戸『稲葉氏永代日記』)」

とある。
 延宝七年秋の「見渡せば」の巻六十七句目に、

   石こづめなる山本の雲
 大地震つづいて龍やのぼるらむ  似春

の句がある。地震の後に竜巻が起きたか、あるいは津波の跡があたかも龍が通った後みたいだったということかもしれない。FFでいうリバイアサンの大海嘯ではないが。
 六十八句目は芭蕉が、

   大地震つづいて龍やのぼるらむ
 長十丈の鯰なりけり       桃青

の句を付けている。十丈は約三十メートル。延宝五年の房総の津波はウィキペディアに、

 「東北学院大、東北大などのチームによれば、M8.34、津波の最大高は17m(銚子)、最大遡上高は20m。標高10mの池の堆積物を調べ、コンピュータシミュレーションをした。」

とあるから、十丈もあながち誇張ではない。

2022年6月10日金曜日

 まあ、普通に考えて、ロシアが日本に攻めてきたとしても、あの国の人たちが日本のために命を落とすなんてことは考えるはずがない。軍事同盟というのはそれくらい信用できないものだということは頭に入れておくべきだろう。
 日米同盟にしても盤石ではない。日本にも約十五パーセントくらいの反米勢力がいるし、奴らはマス護美を牛耳っているから、いくらでも日本国民のすべてが日米同盟に反対しているかのような印象操作はできる。そんな国をアメリカが助けるかどうか、ということにもなる。
 国を守るために戦うことすら「人殺し」呼ばわりする連中のいる国に、誰がわざわざロシア兵と戦いに行くかって話だ。
 守ってやったのに「人殺し、出ていけ!」と石を投げてくる国なんざ、俺だったら絶対行きたくない思う。そうやって日本を孤立させるのが奴らの狙いだ。
 そういうわけで、軍事同盟を過信しないことも大事だ。結局最後は「信じられるものは俺たちだけだ」ということになる。

 それでは「東路記」の続き。

 「三嶋より北条へ行道あり。又、是より伊豆の下田へもゆく也。下田は大廻りの船のつく湊也。番所あり。三嶋より十五里十五町あり。山坂難所也。下田より志摩、鳥羽へ七十五里あり。是を遠江なだと云。三島には時鐘ありて、毎日十二時をつぐる。時守は町中より養ひおくなり。三嶋の社は大山祇神也。光仁帝御時、伊予国三嶋より此地にうつさる。社領五百三十石つけり。此辺君沢郡なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 北条という名の郡や村はなく、かつて北条氏が納めていた辺りを指して、漠然と「北条」と呼ばれることもあったのだろう。韮山代官所が治める幕府領の辺りであろう。代々江川太郎左衛門が支配していた。
 下田への道はいわゆる「天城越え」の道になる。江戸時代は二本杉峠を越えていた。
 下田は菱垣廻船の湊があり、須崎に番所があった。
 「下田より志摩、鳥羽へ七十五里あり。是を遠江なだと云。」とある。今でいう遠州灘になる。
 三島の時の鐘は今も三石神社の境内にある。ただ、鐘本体は何度も改鋳されていて、当時のものではない。
 「三嶋の社」は今の三嶋大社で、ウィキペディアには、

 「社名は戦前は「三島神社」と称したが、戦後は「三嶋大社」を称している。歴史的には、史料上で次の呼称が見える[1]。
 〇三島大社/三嶋大社 (『続日本後紀』[原 1])
 〇伊豆三島神社/伊豆三嶋神社 (『延喜式』神名帳[原 2])
 〇三島社/三嶋社 (『吾妻鏡』、北畠顕家文書、北条氏綱文書)
 〇三島宮/三嶋宮 (矢田部家文書等)
 通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年)に「伊豆三島」の記載が、平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説として小市国造が奉斎した伊予国一宮の大山祇神社(「大三島神」)を由来とする説がある。
 現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代には伊豆国の国府があったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。」

とある。
 祭神は本来大山祇命(おおやまつみのみこと)だったが、江戸後期に平田篤胤が事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)説を唱えたことで、今日ではこの二神を祭神としている。
 「光仁帝御時、伊予国三嶋より此地にうつさる」とある通り、この時代は伊予国一宮の大山祇神社(三島宮)がこの地に移されたものとされていた。
 光仁天皇は和銅二年(七〇九年)から天応元年(七八二年)まで在位した。ほぼ奈良時代と重なる。

 「〇三嶋の西のはづれに川あり。伊豆・駿河の境なり。三島の方よりむかへにかくる樋あり。伊豆より駿河へ水をとる也。千貫樋といふ。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 千貫樋はウィキペディアに、

 「千貫樋 (せんがんどい)は、静岡県三島市と駿東郡清水町の境、狩野川水系境川に架かる鉄筋コンクリート構造の樋(水路橋)。」

とあるが、勿論元から鉄筋コンクリートだったわけではなく、大正十二年(一九二三年)の関東大震災までは木製だった。ウィキペディアに、

 「創設された経緯については諸説あるが、1555年(天文24年)、今川、武田、北条の三家が和睦(甲相駿三国同盟)した際に、北条氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤(蓮沼川)を築き、駿河の今川領に送水させたというのが一般的な説である。」

とある。

 「〇三嶋と沼津の間に黄瀬川とて、川有。此川は富士のすそ野の方より出る。川西に黄瀬川と云町有。源九郎義経、此所にて頼朝と兄弟初て対面有し所なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7~8)

 義経と頼朝は富士川の戦いで水鳥の羽音に驚いた平氏が撤収したあと、ここで対面した。ウィキペディアには、

 「合戦の翌21日(11月10日)、黄瀬川駅(静岡県駿東郡清水町)で若い武者が頼朝との対面を願い出た。『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていた。頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた弟の九郎義経であった。
 土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしなかったが、騒ぎを聞きつけた頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い、対面がかなった。頼朝は後三年の役で源義家が苦戦していた時、その弟の義光が官職を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流した。」

とある。まあ『源平盛衰記』の記述は脚色が多く、あまりあてにならない。

2022年6月9日木曜日

 相変わらずマス護美のロシア贔屓報道はひどいものがある。
 ロシアはウクライナの穀物を勝手に略奪してクリミアから中東方面に運び出しているという。その上トルコと組んで略奪を加速させるために、ウクライナが機雷を敷設して妨害しているなんて言っている。
 黒海の制海権欲しさにそんな世論操作をしようとしているわけだが、その「ウクライナが妨害」というロシアの宣伝工作をマス護美はそのまま垂れ流している。
 ウクライナの穀物はポーランドルートで輸出されている。黒海で運ぶのはロシアの略奪分だ。
 そもそも論で、ロシアがウクライナを侵略しなかったら今の世界的な穀物不足は起こらなかったんだし、ロシアがウクライナから撤退すればすべて解決するんで、この件に関してロシアには一点の正義もない。
 トルコもロシア穀物の利権で確実にNATOの足を引っ張る。NATOの今の最大の弱点になっている。日本も環太平洋軍事同盟を作るなら、足を引っ張りそうな国は最初から除外した方が良い。どこの国とは言わないが、ウクライナに非協力的な国だ。
 アメリカもイラクの戦後処理でクルディスタンを独立させておくべきだった。
 日本の鉄道ではJR在来線の1,067 mmと新幹線や一部私鉄の1,435 mmの二つのゲージが用いられているため、軌間可変電車(フリーゲイジトレイン)の開発が進められてきたが、この技術がウクライナ(1,520mm)からポーランド(1,435 mm)への鉄道輸送に応用できないだろうか。日本での試験車両ならあるが。
 日本が東京とベルリンを結ぶ弾丸列車構想を実現していたら、線路の幅が統一されてたかもしれなかったんだが。

 それでは「東路記」の続き。

 「箱根より十町ばかり三嶋の方に相模と伊豆とのさかひ有。箱根の北に八重山と云名所あり。箱根権現に社領二百石つく。はこねの水うみ、又あしのうみとも云由、源光行が記にあり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.8)

 「箱根より十町ばかり」は箱根の関所からということであろう。関所の先から箱根峠はそう遠くない。ここが相模国と伊豆国の境になる。
 八重山は、

 足引きの八重山越えて郭公
     卯の花隠れ鳴きわたるなり
              山部赤人(続古今集)
 秋風の寒しくなれば朝霧の
     八重山越えて雁もきにけり
              伏見院(玉葉集)

などの和歌に詠まれている。

   上総国の朝集使大掾大原真人今城、京に向ひし時、
   郡司の妻女等の餞せる歌二首
 足柄の八重山越えていましなば
     誰をか君と見つつ偲ばむ
              (万葉集、巻二十、四四四〇)
 さらに今都も恋し足柄の
     関の八重山なほ隔てつつ
              津守国量(新千載集)

の歌は明らかに箱根で詠まれている。
 箱根の北というと足柄峠の方になる。『万葉集』の時代に越えていたのなら古代東海道の足柄峠であろう。足柄峠は金時山と矢倉岳の間にあるが、八重山はこの辺り一帯を指すのか、あるいは坂田金時伝説が広まる前の金時山であろう。
 箱根権現は今の箱根神社で、神仏習合時代は本地垂迹に基づき、権現と呼ばれていた。曾我兄弟の五郎は二男ということで、ここに預けられていた。還俗して仇討に加わる。
 「はこねの水うみ、又あしのうみとも云由、源光行が記にあり。」は芦ノ湖のことで、『東関紀行』に、

 「かぎり有道なれば、此みぎりをも立出、猶行過るほどに、箱根山にも着きにけり。岩がね高く重て、駒もなづむばかり也。山の中に至りて、湖広くたたへり。箱根の水海と名付、又芦の海といふもあり。権現垂迹のもといけだかくたふとし。朱楼紫殿の雲に重れる粧、唐家の驪山宮かとおどろかれ、巌室石龕の波に望めるかげ、銭塘の水心寺ともいひつべし。嬉しきたよりなれば、うき身の行衛しるべさせ給へなど祈りて、法施たてまつるつゐでに、

 今よりは思ひ乱れじ芦の海の
     ふかきめぐみを神にまかせて」

とある。『東関紀行』はかつては源光行の作とされていた。和歌は『夫木抄』にも収録されている。

 「伊豆の高峯は、はこねの南にあり。名所なり、万葉に歌あり。海にさし出たり。箱根と三島の間より左の方の下に伊豆の北条、蛭が小嶋見ゆる。是頼朝配流の所なり。蛭が小嶋は河中にある故名づく。その東に韮山見ゆる。是、小田原陣の時、北条の端城なり。にら山の辺、江河と云里あり。江河酒とて名物なり。伊藤と云所も有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 伊豆の高峯は伊豆半島全体の山々を指すものであろう。箱根の南にある。

 ま愛しみ寝らくはしけらくさ鳴らくは
     伊豆の高嶺の鳴沢なすよ
              よみ人しらず(万葉集、巻十四、三三五八)

の歌は嘉元元年(一三〇三年)頃に編纂された『歌枕名寄』にも収録されている。
 蛭が島は頼朝流刑の地とされていて、今は狩野川から離れているが、かつては島だったのだろう。韮山城址の側に蛭ヶ島公園がある。狩野川に近い方には北条政子産湯之井戸があり、川の向こう側には北条義時屋敷跡がある。この辺りは江間と呼ばれていて義時も江間小四郎と呼ばれていた。
 韮山城はウィキペディアに、

 「15世紀末に伊勢盛時(北条早雲)の関東経略の拠点として整備され、後北条氏の関東支配後も伊豆支配の拠点としてその持ち城であったが、天正18年(1590年)には豊臣秀吉による小田原征伐において激しい攻防戦を経験している。龍城の異称を持つ。」

とある。
 北条義時は鎌倉北条氏で北条早雲は後北条氏で直接のつながりはない。北条早雲が北条氏の末裔を称しただけのようだ。
 韮山の近辺に江河の里があり、ここの江川家が代々江川太郎左衛門を名乗り、代官を務めた。ウィキペディアに、

 「江川家は中世以来の名家であり、始祖が清和源氏源経基の孫・源頼親であることもはっきりしている。この頼親の血統は大和源氏と呼ばれ、初め宇野氏を名乗った。伊豆には平安末期に移住し、宇野治長が源頼朝の挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。その後鎌倉幕府・後北条氏など、その時代の支配者に仕えた。江川家と改めたのは室町時代のようである。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられた。以降江川家は、享保8年(1723年)- 宝暦8年(1758年)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分(後26万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。」

とある。
 江河酒はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「江川酒」の解説」に、

 「伊豆国(静岡県)大川で、代官小川(えがわ)長左衛門が醸造し、江戸幕府に献じたという美酒。また、広く美酒をいう。えがわ。
  ※御伽草子・酒茶論(古典文庫所収)(室町末)「うすにごりたる江河酒」

とある。

 「〇箱根と三島の間、山中と云所に古城のあと、北にあり。是又、北条の端城なりしを、秀吉公一日の内に速にせめおとし給ふ。韮山は小田原城落城まで久しく持こたへし也。山中の町の道ばた、北の方に墓あり。石塔有。一柳伊豆守殿のはか也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 江戸時代の東海道の箱根峠を越えて三島に降りる途中に、今も山中城址がある。近くには最近三島スカイウォークができた。
 一柳伊豆守は一柳直末でウィキペディアに、

 「一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣秀吉に早い時期から仕えて黄母衣衆の一人となり、豊臣政権下で美濃国大垣城主・軽海城主などを務めたが、山中城の戦いで戦死した。末安(すえやす)の名でも知られる。弟に一柳直盛がいる。」

とある。

2022年6月8日水曜日

 それでは「東路記」の続き。

 「大磯と小田原の間に小磯と云所あり。又、梅沢と云所に大なる藤あり。其さきに曽我の里、右に見ゆる。酒匂より少まへ、大磯の方に香津と云町有。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6~7)

 大磯の今のJR大磯駅の西側に東小磯、西小磯という地名が残っている。この辺りが小磯だったのだろう。江戸時代だと大磯宿を上方方面に出た辺りになる。
 梅沢は今のJR二宮駅の西側で、梅沢海岸がある。浅井了意の万治二年(一六五九年)に成立したと推定される『東海道名所記』によると、茶屋があったという。
 大磯宿から小田原宿まで約四里で、かなり離れていたので、途中にこういう休憩場所があったのだろう。北には吾妻山公園があって、今は菜の花の名所になっている。
 この先JR国府津駅の辺りから北西へ行くと、今は曽我梅林があり、この辺りが昔の曽我の里になる。
 国府津は昔は香津とも表記されていた。『東海道名所記』には国府(こふ)とある。その先JR鴨宮駅を過ぎる所に酒匂川がある。
 
 「町の西のはづれに川あり。此川端より足柄越に行道有。足柄山は、富士のとをりより少北に、丸山あり。坂は箱根よりさがしけれども、山ひきくして坂みじかし。香津より関本へ五里ばかり。関本は箱根のごとく関所有。旅人の往来自由なる事、箱根のごとし。関本の西一里半許先に、竹の下と云宿あり。名所なり。竹の下より一里半西に、御くり屋と云町有。人家多し。御殿あり。富士のすそ野也。御くりやより吉原へ六里有。下りには吉原より道わかる。富士とあし高山の間を通る。木かげを通る所多し。馬次不自由なり。竹の下より吉原までは道平かなり。御くりやより沼津へも出る。是も六里有。此方は馬つぎ自由なり。足柄山は武蔵、相模へ通る道なる故、行人たえず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 香津(国府津)の町の西はずれの川は、その酒匂川のことであろう。ここから足柄峠へ行く道があった。今の伊豆箱根鉄道大雄山線に添って行く形になる。終点の大雄山駅の先に今も関本という地名が残っている。古代東海道の坂本駅に比定されている。
 菅原孝標女『更級日記』の、

 「ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵(いほ)の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額(ひたひ)いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。」

とあるのも、おそらくここであろう。
 江戸時代には関所があって、それで関本になったか、ただ箱根の関と同じようにスムーズに通ることができたようだ。
 足柄峠は箱根越えにくらべると標高も低く、急な坂はあっても距離は短い。静岡側に降りたところに駿東郡小山町竹之下という地名が残っている。かなり広い範囲だが、竹の下の宿は今のJR御殿場線の足柄駅がある辺りであろう。嶽之下宮があり、南北朝の頃に足利尊氏軍と新田義貞軍の戦った竹之下古戦場がある。
 「御くり屋と云町有。人家多し。御殿あり。」というのは御殿場であろう。ウィキペディアに、

 「平安時代後期、1100年頃伊勢神宮の荘園「大沼鮎沢御厨」があった。これ以降、御殿場市や小山町あたりを御厨(みくりや)と呼ぶ。」

とある。またウィキペディアに、

 「1616年に亡くなった徳川家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮へ移送する際に仮の御殿を建てて、遺体を安置したところから「御殿場」という地名は生まれた。御殿の位置は御殿場高校そばの吾妻神社付近だったとされている。御殿建設の際に各地から職人が集められ、御殿場市御殿場付近の町「御殿新村(御殿場村)」が形成された。」

とあり、それが今の御殿場の地名の由来になっている。
 ここから富士山と愛鷹山の間を越えて東海道吉原宿へ行く道があったようだ。今の富士サファリパークの方を通り抜ける道だ。国道496号線がその名残と思われる。あるいはより直線的な、今の演習場の中にある道の方に近かったのかもしれない。
 「富士とあし高山の間を通る。木かげを通る所多し。馬次不自由なり。竹の下より吉原までは道平かなり。」とあるように、道はなだらかだったが途中に宿場もなく、乗掛馬とかもなかったのだろう。距離的には箱根八里よりも長いくらいだが、朝早く発てばその日の内に何とか越えられたのだろう。
 「御くりやより沼津へも出る」というのは矢倉沢往還の道で、古代東海道もこれに近いルートを通っていたと思われる。こちらの方は馬次も良く、人通りも多かった。

 「〇大磯と小田原の間の海辺より、真名鶴が崎、土肥など見ゆる。石橋山有り。頼朝合戦の所なり。相州の内也。東鑑に見えたり。ねぶ河越、そこ倉の湯、此辺にあり。伊豆の御山も土肥のさきにあり。名所なり。沖に伊豆の大嶋見ゆる。大嶋は南北五里、東西三里。江戸へ四十里あり。伊豆の海、名所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 大磯と小田原の間の東海道は海岸線に沿って通るので、至る所から伊豆半島や伊豆大島を見ることができる。
 伊豆方面で目に付くのは真鶴岬でこの辺りが土肥郷と呼ばれていた。今も湯河原に足柄下郡湯河原町土肥という地名が残っている。相模土肥氏の土肥実平は源頼朝挙兵に同調し、石橋山の戦いに参加している。石橋山の古戦場はJR早川駅と根府川駅の中間あたりにある。
 「ねぶ河越、そこ倉の湯、此辺にあり」は場所的には熱海温泉のことと思われる。底倉温泉は箱根宮ノ下の方にある。熱海温泉はウィキペディアに、

 「江戸時代初期の慶長9年(1604年)、徳川家康が7日間湯治で逗留した記録がある(『徳川実紀』)。以来、徳川将軍家御用達の名湯として名を馳せ、徳川家光以降に、熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」を行わせた。」

とある。
 「伊豆の御山も土肥のさきにあり。名所なり。」とあるのは伊豆山で、熱海に北にあり、伊豆山神社がある。

 思ふこと開くる方を頼むには
     伊豆のみやまの花をこそ見め
              相模(相模集)

の歌に詠まれていて、名所になる。
 熱海の沖に伊豆大島が見える。

 「小田原と湯本の間、左に石垣山有。天正十七年、秀吉公小田原の北条氏政をせめ給ひし時の御陣所なり。又、早川と云川有。名所なり。古歌多し。小田原に早雲寺と云寺あり。北条五代の墓所也。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.7)

 東海道の小田原宿から箱根湯本の箱根宿との間、左側に石垣山城址がある。ウィキペディアに、

 「豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。秀吉は北条氏の本拠であった小田原城を攻略するために、大軍を動員して包囲中であったが、小田原城を見下ろす山上に城を、構築中は小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、とする話が残る。一夜城の名もこれに由来する。」

とある。
 早川は、

 うきことを早川の瀬に流すてふ
     名越の原へ誰かせざらむ
              永縁(堀河百首)
 早川の岩瀬の玉のかずかずに
     思ひくだけて恋ふとしらずや
              二条為氏(宝治百首)

他、多くの歌に詠まれているが、ここの早川かどうかはよくわからない。

 東路の湯坂を越えて見渡せば
     塩木流るる早川の水
              阿仏(夫木抄)

の歌は『十六夜日記』にもある歌で、箱根の早川なのは間違いない。
 早雲寺は箱根湯本にある。ウィキペディアに、

 「天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。」

とある。

2022年6月6日月曜日

 今日は梅雨入り宣言が出た。六月六日に雨ざあざあ降ってきてって、絵描き歌だな。

 それでは「東路記」の続き。

 「藤沢、町の右に道場有。一遍上人開基の寺、時宗の本寺也。此里に白幡明神あり。義経の首、奥州より鎌倉におくり実検の後、此所におさめ祭りし社也。社の前に弁慶が首塚あり。此地に小栗塚とて石塔有。今より三百年以前、此二三里おくの里に小栗と云士ありしと云。小栗事、世にいひ伝へたる様々の事、多くは虚説なりと云。古き書には見えず。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 今は遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれ、国道一号線の遊行寺の坂は箱根駅伝でもお馴染みだが、昔は道場と呼ばれていた。宗長の『東路の津登』には「藤沢の道場」とある。藤沢山無量光院清浄光寺が正確な名称になる。時宗の総本山。
 時宗は一遍上人を開祖とし、その指導者を代々遊行上人と呼んだ。ウィキペディアには、

 「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とは、時宗集団における指導者に対する敬称。 特に開祖である一遍、その弟子で遊行派の始祖である他阿を指す事が多い。
 二代他阿以降、代々他阿(他阿弥陀仏)の名をも継承している。時宗の総本山である清浄光寺の法主が継承しており、藤沢上人と同一視されることもあるが、本来は隠居した遊行上人を指す言葉であり、一方で遊行上人とならなかった藤沢上人も存在する。梅谷繁樹は、本来代々の遊行上人および藤沢上人が名乗った名は他阿弥陀仏のみであり、「真教」(二代)や「尊観」(12代)のような道号を用いるようになったのは近世以降ではないかと見ている。またこれらの道号は、江戸時代前期の42代上人他阿尊任の頃に整備され、以降の上人も道号を名乗るようになったのではないかと見ている。」

とある。
 芭蕉も『奥の細道』の旅で敦賀に来た時、

 月清し遊行のもてる砂の上    芭蕉

の句を詠んでいる。二代遊行上人の他阿(真教上人)が自ら敦賀の気比明神の参道の砂を運んだと言われている。
 時宗の宗は「阿」の文字のつく法名を名乗ることが多く、その中には中世の芸術の頂点に立つ人も少なくない。和歌の頓阿(とんな)法師、連歌師の周阿、良阿、水墨画の能阿、芸阿、相阿、そして能の大成者である観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)も時宗の僧だった。
 また、開祖の一遍上人は念仏踊りを広め、これが盆踊りの原型になっている。俳諧で「踊り」が秋の季語になっているのは、この盆踊りを指すからだ。田楽踊が元になっていて、それを布教に取り入れたという。
 元禄七年の「柳小折」の巻二十四句目に、

   薄雪の一遍庭に降渡り
 御前はしんと次の田楽      芭蕉

の句がある。
 遊行寺の坂を降りると境川を渡り、東海道の道は右に折れる。宿場の所はわざとクランクにしたりして真っすぐ侵入できないようにしてある。その藤沢宿の右側に入ったところに白幡神社がある。当時は白幡明神と呼ばれていた。
 ウィキペディアによれば、元は「荘厳寺を別当とした神社で、相模国一宮の寒川神社の祭神を祀り、寒川神社と称していた。」という。

 「文治5年(1189年)、閏4月30日に奥州平泉の衣川館で自害した義経の首級が鎌倉へ送られ、6月13日腰越で首実検が行われた後、この神社の付近に義経と弁慶の首級が葬られたという伝承と共に伝・源義経首洗井戸や弁慶塚が残され、宝治3年(1249年)に源義経を合祀したとしている。」(ウィキペディア)

という伝承があることで、源氏の白旗から白旗明神と呼ばれてきた。後に源氏が信仰していた八幡大神と結びついて、全国に白幡神社が作られていった。
 義経の首については『吾妻鏡』に和田義盛と梶原景時が腰越の浜で首実検ことが記されているが、その後どうなったかは不明で、「奥州より鎌倉におくり実検の後、此所におさめ祭りし社也」というのは伝承に属する。
 白旗明神と街道を隔てた反対側の今の中横須賀公園に弁慶塚がある。碑は後に建てられたものであろう。
 「此地に小栗塚とて石塔有」とあるが、今ある伝承小栗塚之跡は藤沢宿から境川を遡った西俣野にある。中世の説教節の『小栗判官』の塚で、ウィキペディアには、

 「藤沢市西俣野にある花応院には、焼失した近隣の閻魔堂より移された小栗判官縁起絵図が伝わる。主人公が満重の子・小次郎助重である、照手が横山大膳の娘である等、長生院の縁起と相違がみられる。なお、閻魔堂に祀られていた判官の墓がこちらにも現存する。」

とある。
 「小栗事、世にいひ伝へたる様々の事、多くは虚説なり」とあるように、物語の主人公であり、架空の人物だが、物語の舞台になったところが今でいう「聖地」になるのはよくあることだ。

 「上方より下るには、藤沢より鎌倉へ行道有。藤沢より鎌倉へ行には、絵の嶋へかかりては、腰越より極楽寺の切通を通り三里半有。甘繩通りは、建長寺、円覚寺の前を通り二里有。藤沢より絵の嶋へ一里有。藤沢の台の上より鎌倉山見ゆる。又、三浦のみさき見ゆる。絵の嶋の向ひに西に出たる崎なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 宿場の京都側からの入口には上方見附という見張り所があった。「上方より下るには」というのは、藤沢宿上方見附を京都寄りに行った所という意味だろう。上方見附は今の小田急線藤沢本町駅の辺りにあった。江戸側には江戸見附がある。
 昔の鎌倉街道上道は遊行寺の方を通っていたので、ここでいう「藤沢より鎌倉へ行道有」は辻堂古道だろうか。道筋はよくわからないが鵠沼から江の島(絵の嶋)の前を通って腰越から極楽寺の切通を通って鎌倉を入る道があったようだ。
 宗長の『宗祇終焉記』の旅で、宗祇のいる越後直江津に向かう途中、相模国に入った時に鎌倉に立ち寄っているが、あるいはこの道を通ったか。
 「甘繩通りは、建長寺、円覚寺の前を通り二里有」とあるが、建長寺円覚寺の前を通るなら、北鎌倉の方になる。甘縄神明宮は長谷の方にあるので、これも勘違いか。「タマ」とルビがあるから、藤沢宿から東の方へ行って、大船の玉縄から円覚寺・建長寺の前を通って鎌倉に入る別の道が二里ということだったか。
 「藤沢より絵の嶋へ一里有」というのは、また別の藤沢宿から直接江の島へ行く「江の島道」であろう。
 「藤沢の台」もどこなのかよくわからないが片瀬山のことか。今は宅地造成されてしまってどのあたりかわからないが、東に鎌倉山が見えて南に江の島から三浦半島に至る海の見渡せるビューポイントがあったのだろう。

 「藤沢と平塚の間に馬入川あり。是、相模川なり。此川は甲州の猿橋より出る。源遠き故、大河なり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 相模川の下流域は馬入川とも言う。平塚市に馬入という地名があり、国道一号線の橋は馬入橋という。ウィキペディアには、

 「相模川は東海道の難所として知られ、平安時代は浮橋で渡っていた。鎌倉時代、源頼朝が橋の落成式の出席後に落馬し、翌月に亡くなった(詳細は旧相模川橋脚を参照)。旧相模川橋脚の位置は現在の馬入橋の位置より東に2kmほどずれているが、本橋の名称や地名としての馬入の由来はこの逸話にちなんでいる。
 江戸時代の相模川は現在の馬入橋付近に橋はなく、渡船による往来が行われていた。」

とある。
 相模川の上流には津久井湖、相模湖があり、そのさらに上流の上野原から先は甲斐国になる。大月の手前に甲州街道の猿橋がある。橋脚がなく、岩盤に穴を開けて刎(は)ね木をさして、それを重ねて橋を支える「刎橋(はねばし)」になっている。現在ある猿橋は江戸時代の物ではなく、一九八四年に復元された物が架かっている。

 「平塚より武蔵の厚木へ行道有。八王子へも此道よりゆく。昔は奥州へ此道をも通りし也。平塚と大磯の間に、花水の橋とて有。富士山見えて好景なり。其さきに、もろこしが原有。名所なり。又、十間坂と云所あり。」(『新日本古典文学大系98 東路記・己巳紀行・西遊記』一九九一、岩波書店p.6)

 平塚から厚木へ行くのは平塚道になる。いつ頃からあった道なのかは定かでないが、古代に奥州へ向かっていたのは古代東海道で、今の海老名の辺りの浜田駅を経て武蔵国府のあった府中へ向かい、そこから東山道武蔵路で栃木県の足利へ抜けて、東山道で白河の関を越えた。
 花水の橋は平塚宿の西の花水川を渡る橋で、もろこしが原は『更級日記』に、

 「もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日ゆく。」

とある。近くに高麗山があり高来神社があるところから、古代に帰化人の住んでいた地域で朝鮮半島系も中国系もいっしょくたにして「もろこし」だったのだろう。
 十間坂は茅ケ崎の地名で、平塚宿より手前にある。