2022年5月14日土曜日

 昨日言った「でんでんコンバーター」を使って、Kindle Direct Publishingに挑戦しようと思った。とりあえず「こやん源氏」で作ってみた。
 ただ、手続きの方となると、こういうの苦手だから、口座登録でどうすれば半角カタカナになるのか知らなくて、F8を押せばよかったのね。あとTINがわからなくて、マイナンバーのことだったんだね。
 そんなことでバタバタしているうちにあっという間に時間が過ぎて行った。
 でも、昔『野ざらし紀行─異界への旅─』という本を自費出版して、金も時間もかかって売れたのは百冊なんて頃にくらべると、時代は変わったもんだ。
 何のかんの言って一日で本ができたんだから、これなら何度でもチャレンジできる。前は大赤字だったが、今度は小遣い銭くらい稼げるといいな。

 それでは「ほととぎす(待)」の巻の続き。

 二表、十九句目。

   かけがねかけよ看経の中
 ただ人となりて着物うちはをり  野水

 「ただひと」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「徒人・只人・直人・常人」の解説」に、

 「① 神仏、また、その化身などに対して、ふつうの人間。また、特別の能力や才能を持っている人に対して、あたりまえの人間。つねの人。ただのひと。多く、打消の表現を伴って、すぐれていること、ただの人間でないことなどを評価していう。
  ※書紀(720)神代下(兼方本訓)「顔(かほ)色、甚だ美(よ)く、容貌(かたち)且閑(みやび)たり。殆に常之人(タタヒト)に非(あら)す」
  ※平家(13C前)六「凡はさい後の所労のありさまこそうたてけれ共、まことにはただ人ともおぼえぬ事共おほかりけり」
  ② 天皇・皇族などに対して、臣下の人。
  ※伊勢物語(10C前)三「二条の后のまだ帝にも仕うまつり給はで、ただ人にておはしましける時」
  ③ 身分ある人に対して、身分・地位の低い人。なみの身分の人。摂政・関白に対して、それ以下の人、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじょうびと)などに対して、それ以下の人など、場合により異なる。
  ※西大寺本金光明最勝王経平安初期点(830頃)一〇「土庶(タダヒト)の百千万なるい 亦王に随ひて城を出でぬ」
  ※徒然草(1331頃)一「一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人など給はるきははゆゆしと見ゆ」
  ④ 僧侶に対して、俗人をいう。
  ※書紀(720)推古三二年四月(岩崎本平安中期訓)「夫れ道(おこなひする)人も尚法を犯す。何を以て俗(タタ)人を誨(をし)へむ」

とある。
 前句の看経からすると、④で還俗したということであろう。財産に執着するようになって、鍵をかける習慣を付ける。
 二十句目。

   ただ人となりて着物うちはをり
 夕せはしき酒ついでやる     荷兮

 還俗したということで、酒を断つ必要もなく、まあ一杯。
 二十一句目。

   夕せはしき酒ついでやる
 駒のやど昨日は信濃けふは甲斐  野水

 馬で旅する人で宿に着いてもいろいろやることはあるが、それでもまあ一杯。
 二十二句目。

   駒のやど昨日は信濃けふは甲斐
 秋のあらしに昔浄瑠璃      荷兮

 古浄瑠璃を語る琵琶法師とする。この時代にはかなり珍しくなっていたか。陸奥にはまだいて、芭蕉が『奥の細道』の旅で遭遇している。
 二十三句目。

   秋のあらしに昔浄瑠璃
 めでたくもよばれにけらし生身魄 野水

 生身魄は「いきみたま」。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「生御霊・生身魂」の解説」に、

 「〘名〙 両親のそろった者が、盆に親をもてなす作法。また、そのときの食物や贈り物。他出した息子や嫁した娘も集まり、親に食物をすすめる。精進料理でなく、贈り物にも刺鯖(さしさば)を使うことが多い。近代、東京でも、老いた親のある者が、盆中に魚を捕り、調理して親にすすめる風習があった。これは生きたみたまも盆に拝む風習があったためといわれる。生盆(いきぼん)。《季・秋》
  ※建内記‐嘉吉元年(1441)七月一〇日「五辻来、面々張行、聊表二祝著一之儀、毎年之儀也。世俗号二生見玉一」
  ※俳諧・花摘(1690)下「生霊(イキミタマ)酒のさがらぬ祖父かな〈其角〉」
  [語誌](1)「生きている尊親の霊」の意で、死者の霊ばかりでなく、生きている尊者の霊を拝むという気持から始まった。
  (2)「盂蘭盆経」に「願使三現在父母、寿命百年、無レ病無二一切苦悩之患一」とあるのに基づくものか。」

とある。
 お盆の時にまだ健在な両親への孝行として、琵琶法師を呼ぶ。
 二十四句目。

   めでたくもよばれにけらし生身魄
 八日の月のすきといるまで    荷兮

 「すきと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「すきと」の解説」に、

 「① 少しも残るところがないさま、また、ある状態に完全になるさまを表わす語。すっかり。
  ※史記抄(1477)四「秦使相国呂不韋誅之、此ですきと滅たぞ」
  ※評判記・色道大鏡(1678)一五「帰国の事をすきとわすれつつ、二ケ月ばかり京にとどまりてかよひ」
  ② (下に打消を伴って) その事すべてにわたって否定するさまを表わす語。全然。まるで。すっかり。
  ※箚録(1706)「其れほど又海殊外(ことのほか)遠くして海魚の分すきと無レ之」
  ※談義本・水灌論(1753)三「われらすきと合点まいらず」

とある。今の「すっきり」と「すっかり」に相当する。
 八日の月は上弦の月で、夜中に沈む。お盆には少し早いが七夕の後という微妙な日付だ。十五日の死者を迎えるお盆と区別して、少し早く生身魄を行っていたか。
 二十五句目。

   八日の月のすきといるまで
 山の端に松と樅とのかすかなる  野水

 暗い半月だから、山の端の松と樅もはっきりとは見えない。
 二十六句目。

   山の端に松と樅とのかすかなる
 きつきたばこにくらくらとする  荷兮

 景色がはっきり見えないのを、きつい煙草のせいとする。
 二十七句目。

   きつきたばこにくらくらとする
 暑き日や腹かけばかり引結び   荷兮

 ただでさえ暑さでくらくらしそうな時に、腹掛け一つのほとんど裸でタバコを吸う。
 二十八句目。

   暑き日や腹かけばかり引結び
 太皷たたきに階子のぼるか    野水

 夏祭りの情景か。

2022年5月13日金曜日

 フィンランド人にもスウェーデン人にもウクライナ人と同様、バイキングの血が流れている。まあ、それを言ったらロシア人も同じだけどね。
 メタルに目覚めたのは、フィンランドのLORDIをたまたま配達中にヒルトンホテルで目撃して、その異様な姿に何だこれはと思ってからか。
 その後北欧のメタル文化に興味を持っていくうちに、なぜがずるずるはまっていったのがバイキングメタルで、そこからフォークメタルへという流れだった。
 九十年代にはワールドミュージックの洗礼を受けていたから、フォークメタルはそれのメタル版みたいで面白い。メタルという一つのプラットフォームをいろんな民族がそこに独自の音楽を乗っけていて、フォークメタルはワールドメタルと言ってもいい。
 メタルは白人の音楽みたいなところもあるが、黒人でも白人でもない日本人はその両方から等しく影響を受ける。メタルも好きだが、九十年代の終わりからゼロ年代にかけてはヒップホップも随分と聞いた。その時の影響か、ついつい韻を踏んでみたくなる。
 話は変わるが、ネット上に「でんでんコンバーター」というのがあった。これを使うとEPUB3の電子書籍が作れるようだ。以前PDFで作ったことがあったが、さすがにファイルが重すぎた。

 それでは「ほととぎす(待)」の巻の続き。「ほととぎす」の巻は貞享二年熱田での八吟歌仙にもあったので、(待)を付け加えることにする。

 初裏、七句目。

   一荷になひし露のきくらげ
 初あらしはつせの寮の坊主共   野水

 木耳はお坊さんの好物だったのか、長谷寺の寮に寝泊まりすっる坊主たちも木耳を背負って寺に戻る。
 寮はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「寮」の解説」に、

 「① 役所。官司。特に、令制で、多く省に属し、職(しき)より下位、司(し)より上位に位置する官司。四等官として、頭(かみ)・助(すけ)・允(じょう)・属(さかん)を置く。允に大・少のあるものとないものによって、さらに二種に分けられる。この名称は明治以後の官制にも使用されたが、明治一八年(一八八五)の内閣制度実施以後は、宮内省の部局名としてのみ用いられ、昭和二四年(一九四九)に廃止された。
  ※続日本紀‐大宝元年(701)七月戊戌「太政官処分、造レ宮官准レ職、造二大安薬師二寺一官准レ寮、造二塔丈六一二官准レ司焉」 〔爾雅‐釈詁〕
  ② おもに禅宗で、僧の住む寺内の建物。また、その部屋。修行する堂とは区別された。寮舎。
  ※正法眼蔵随聞記(1235‐38)四「寺の寮々に各々塗籠をし」 〔陸游‐貧居詩〕
  ③ 僧が寄宿して自宗の学業を修学する道場。室町時代末から江戸時代にかけて、多く一宗一派の宗徒を集めて入寮させたもの。談所(だんしょ)。談林。学林。学寮。
  ※俳諧・曠野(1689)員外「ややはつ秋のやみあがりなる〈野水〉 つばくらもおほかた帰る寮の窓〈舟泉〉」
  ④ 部屋。居室。〔日葡辞書(1603‐04)〕
  ⑤ 江戸時代、幕府の学問所、藩の学校、私塾などで、学生が寄宿して学問する所。寄宿寮。居寮(きょりょう)。学問寮。学寮。
  ※肥後物語(1781)「居寮の事〈略〉其内一廉才学成就すれば、直に役儀を申付らるることもあり、〈略〉もし案外に進まぬ人は、一年にても寮を出さる」

とある。この場合は③の意味になる。
 長谷寺のはる初瀬は、

 うかりける人を初瀬の山おろしよ
     はげしかれとは祈らぬものを
              源俊頼(千載集)

の歌が百人一首でも有名なように、嵐に縁がある。
 初瀬の嵐を詠んだ歌には、

 初瀬山嵐の道の遠ければ
     至り至らぬ鐘の音かな
              道助入道親王(新勅撰集)
 初瀬山尾上の雪げ雲晴れて
     嵐にちかき暁の鐘
              藤原景綱(玉葉集)

などの歌がある。
 八句目。

   初あらしはつせの寮の坊主共
 菜畑ふむなとよばりかけたり   荷兮

 この時代の初瀬の辺りは菜の花畑が多かったのだろう。春の嵐に転じる。
 春の初瀬の嵐を詠んだ歌に、

 山とかは桜乱れて流れきぬ
     初瀬の方に嵐ふくらし
              衣笠家良(夫木抄)

の歌がある。
 九句目。

   菜畑ふむなとよばりかけたり
 土肥を夕々にかきよせて     荷兮

 踏むなというのは糞を踏むからだった。
 十句目。

   土肥を夕々にかきよせて
 印判おとす袖ぞ物うき      野水

 印判を肥溜めに落とす。とほほ。
 十一句目。

   印判おとす袖ぞ物うき
 通路のついはりこけて逃かへり  野水

 「ついはり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「突張」の解説」に、

 「〘名〙 (「つい」は「つき(突)」の変化した語) ものをつっぱるために立てる柱や棒。つっぱり。つっかい。
  ※虎明本狂言・腰祈(室町末‐近世初)「よひとおもふ時分に、うしろからつひはりをめされひ」

とある。突っ張り棒のことで、これに足を引っかけると自分も転ぶし、立てかけてあったものも倒れてくる。慌てて逃げかえると判子を落としている。その判子から犯人がバレてしまう。
 十二句目。

   通路のついはりこけて逃かへり
 六位にありし恋のうはきさ    荷兮

 昇殿は五位以上だが、蔵人なら六位でもぎりぎり昇殿が許される。下っ端ではあるが殿上人で、下っ端の気楽さから恋の浮名を振りまく。
 十三句目。

   六位にありし恋のうはきさ
 代まいりただやすやすと請おひて 荷兮

 身分が低い分フットワークも軽く、代わりにお参りに行ってくれと言われれば、安請け合いする。
 まあ、体よくパシリにされているというか。でもそういう所でこそ出会いがあったりもする。
 十四句目。

   代まいりただやすやすと請おひて
 銭一巻に鰹一節         野水

 代参りの駄賃が銭一巻と鰹節一本。名古屋からだとこれで何とか伊勢までたどり着けるか。
 十五句目。

   銭一巻に鰹一節
 月の朝鶯つけにいそぐらむ    野水

 江戸時代になっても鶯の鳴き声を競わせる鶯合せは盛んで、ここは鶯の買い付けのことか。
 十六句目。

   月の朝鶯つけにいそぐらむ
 花咲けりと心まめなり      荷兮

 前句を鶯告げにとして、鶯が鳴いたらその報告に来て、花が咲いたらその報告にと、豆ではある。
 十七句目。

   花咲けりと心まめなり
 天仙蓼に冷飯あさし春の暮    荷兮

 天仙蓼は「またたび」とルビがある。マタタビはキウイの近縁種で実がなるが、辛いので塩漬けや味噌漬けにしたり、マタタビ酒にしたりするが、酒好きにはその辛さも心地良いのかもしれない。
 食べると「又旅ができる」と言われ、元気になる。暮春の頃から冷飯をマタタビで食べる。
 十八句目。

   天仙蓼に冷飯あさし春の暮
 かけがねかけよ看経の中     野水

 看経(かんきん)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「看経」の解説」に、

 「〘名〙 (「きん」は唐宋音)
  ① 経文を黙読すること。もと、禅家で行なわれた。
  ※参天台五台山記(1072‐73)二「候二看経一百日一、設二羅漢斎僧一方畢」
  ② 声を出して経文を読むこと。読経。誦経。
  ※栂尾明恵上人伝記(1232‐50頃)上「僧俗群集して、或は看経し或は礼拝す」

とある。
 「かけがね」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「掛金」の解説」に、

 「① 戸や障子などに付けて置き鎖した時、もう一方の金物の穴に掛けて、締りとする鐶(かん)または鉤(かぎ)。かきがね。
  ※枕(10C終)八「北の障子に、かけがねもなかりけるを」
  ② 顎(あご)の骨の顳顬(こめかみ)につながる部分。
  ※日葡辞書(1603‐04)「Caqegane(カケガネ)〈訳〉顎の継ぎ目。関節」

とある。この場合は両方に掛けて、看経の間につまみ食いしないように口に鍵をかけておけということか。

2022年5月12日木曜日

 アップルミュージックの二〇二〇年に作ったプレイリストを久しぶりに聞いていたら、いきなり「マスクどこにも売ってない」とか、そうだったな。あの年の春頃って、マスクの入手にみんな苦労してたな。
 日本で流通していた不織布マスクの多くは中国で作られていて、それが止まってしまって、あわててシャープなどの日本企業が国産マスクの生産を始めたりしていた。 本来ならマスク着用を義務化しなくてはならない時に起きたマスク不足に、国からのマスク配布は必然的な流れだった。使う使わないは別としても、買い占めを防ぐためには有効な手段だったと思う。
 筆者はそのころ会社から不織布マスクの配布を受けてはいたが、毎日取り換える程の量もなく、アベノマスクを長いこと愛用させてもらった。不織布マスクに比べてガーゼマスクは呼吸が楽なので、肉体労働には向いていた。
 その安部さんのロシア政策は、特に北方領土での二島で妥協するような姿勢は、最初からかなり批判を受けていた。多分エリツィン以降の民主化の流れが定着するという読みで動いていて、プーちんの本質を見誤っていたのは間違いない。ただ、外交は外務省のお膳立てが必要なものだけに、当然外務省にも責任がある。
 コロナの方は五月十日の時点で全国の重症者数が163人、東京は9人。これくらいが常態化していくのかもしれない。ちなみに重症者数のピークは去年の九月三日の2,223人。デルタ株が猛威を振るったときのピークで、オミ株のピークは二月二十五日の1,507人になっている。重症化率が低くなったのがよくわかる。
 あと、「郭公」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それではふたたび夏の俳諧ということで、上五はおなじ「ほととぎす」。阿羅野の荷兮・野水の両吟歌仙を読んでいこうと思う。区別する意味でこっちを「ほととぎす」の巻、とする。

 ほととぎす待ぬ心の折もあり   荷兮

 郭公はその人声を夜通し待って、明け方の一声を聞くことを本意とするが、実際古歌を見ると必ずしもそうではなく、ホトトギスを待つというのは元はホトトギスを待つというよりも、来ぬ人を待って夜が明けてホトトギスを聞くか、物思いで眠れずにいるとホトトギスの声がするだとかいうものも多かった。

 夏山に鳴くほととぎす心あらば
     物思ふ我に声な聞かせそ
              よみ人しらず(古今集)
 足引きの山ほととぎす我がごとや
     君に恋ひつつ寝ねかてにする
              よみ人しらず(古今集)

などの歌は別にホトトギスを待っているわけでもない。
 ただ、古今集の時代にも、ホトトギスを待つ歌はあった。

   さぶらひにて、男どもの酒たうべけるに、召して、
   「ほととぎすまつ歌よめ」とありければよめる
 ほととぎす声もきこえず山彦は
     ほかに鳴く音をこたへやはせぬ
              凡河内躬恒(古今集)

は待つ郭公が題詠になっていたことがわかる。
 ホトトギスを朝まで待つというのは、どこか「罪なくして配所の月を見る」に似ている気がする。眠れぬような悩み無くして夜明けのホトトギスを聞くといったところか。

 待たぬ夜も待つ夜も聞きつほととぎす
     花橘の匂ふあたりは
              大弐三位(後拾遺集)

の歌もある。
 待って聞くホトトギスも一興だが、待たずして聞くホトトギスも、深い心があってのことなのだろう。
 まあ、風流というのは基本そういうものなのかもしれない。平和で豊かで何不自由ない生活をしていても、苦しい思いをしている人の気持ちを理解するというのは、人間として心を豊かにしてくれる。それを可能にするのが文学の力だ。
 「罪なくして配所の月を見る」というのは、罪がなくても罪人の気持ちを理解するということだ。 
 脇。

   ほととぎす待ぬ心の折もあり
 雨のわか葉にたてる戸の口    野水

 ホトトギスというとあやめ草や花橘や卯の花を読むことは和歌にもあるが、若葉を付けるのは近世的な発想なのだろう。とはいえ、室町時代には、

 時鳥鳴くや涙のはつ染に
     木木の若葉や色に出つらん
              正徹(草根集)

の例がある。『阿羅野』というと、

 目には青葉山ほととぎす初鰹   素堂

の句は有名だ。
 この場合は戸口を閉ざして、前句の「待ぬ」の心を、誰を待つでもなくホトトギスを待つでもなく、一人引き籠るということで、夏安居の心としたか。
 夏は虫が多く、歩くだけで殺生をすることになるので、外出を控える。夏籠りとも夏行ともいう。
 第三。

   雨のわか葉にたてる戸の口
 引捨し車は琵琶のかたぎにて   野水

 「かたぎ」は「堅木」か。枇杷の木は堅くて木刀などに用いられる。
 ここでは戸口の枇杷の木の辺りに車を引き捨てて、戸口を閉ざすとする。雨なので仕事はお休みということだろう。
 四句目。

   引捨し車は琵琶のかたぎにて
 あらさがなくも人のからかひ   荷兮

 からかひはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「からかう」の解説」に、

 「[1] 〘自ハ四〙
  ① 押したり返したりどちらとも決しない状態で争う。葛藤(かっとう)する。〔色葉字類抄(1177‐81)〕
  ※古今著聞集(1254)一六「心のはたらく事しづめがたけれども、猶とかく心にからかひて、其の年も暮れぬ」
  ② 言い争いをする。また、争う。闘う。
  ※九冊本宝物集(1179頃)八「とりくみ引くみて、夜もすがらからかひて」
  ※葉隠(1716頃)一「渡し舟にて、小姓酒狂にて船頭とからかひ」
  ③ 関心をよせる。かかわる。
  ※大恵書抄(14C後‐16C後)「あるないにはからかうまい」
  [2] 〘他ワ五(ハ四)〙 冗談を言ったり困らせたりしながら相手をなぶりものにする。じらして苦しめる。
  ※滑稽本・浮世床(1813‐23)初「小ぢょくは供をしながらふりかへりて熊にからかふ」
  ※多情多恨(1896)〈尾崎紅葉〉後「那様(あんな)事を言って僕を娗(カラカ)ったに違無い」

とある。ここでは口論か軽い小突き合い程度の争いということだろう。
 前句の枇杷の堅木を木刀として、物が木刀だけに真剣ではない喧嘩というところか。
 [2] は今でも用いる「からかう」だが、最近は「いじる」の方をよく用いる。
 五句目。

   あらさがなくも人のからかひ
 月の秋旅のしたさに出る也    荷兮

 まあ、日々の喧騒というか、いじったりいじられたりするのも面倒くさくなると、人は旅に出たくなるものだ。
 六句目。

   月の秋旅のしたさに出る也
 一荷になひし露のきくらげ    野水

 木耳(きくらげ)は中華料理などにも用いられるが、江戸時代の人も好んで食べていた。旅のお供に木耳を背負ってゆく。

2022年5月11日水曜日

 日本の報道の自由はロシア寄り、中国寄りの報道をする自由だからね。あれだけ毎日ロシアの快進撃を報道していたのに、実際はハルキウ州奪還。頑張れウクライナ。
 そういえばアニメの『パリピ孔明』第六話で文選の古詩が出てきたな。随分前に『野ざらし紀行─異界への旅─』を書いた時に引用した詩なのでよく覚えている。
 謝尚の『大道曲』も確か『遙かなる時空の中で』という乙ゲーで使われていた。
 曹操の『短歌行』ってこんな感じだったか。

 對酒當歌 人生幾何
 譬如朝露 去日苦多

 酒に向かえばまさに歌
 人生残りあといくら
 例えば朝露のような
 失った日々はもう幾多

 慨當以慷 幽思難忘
 何以解憂 惟有杜康

 嘆いたっていいじゃない
 隠した思いは忘れ難い
 憂さを晴らすに手だてがない
 あるのは杜康酒の神

 曹操ファンに怒られそうだな。

 さて、昨日の続きで、蘇東坡で花と柳を詠んだ詩というと、『和孔密州五絶 東欄梨花』という詩がある。

   東欄梨花
 梨花淡白柳深靑 柳絮飛時花滿城
 惆悵東欄二株雪 人生看得幾淸明

 梨の花の白は淡く柳の青は深い。
 柳の綿毛が飛ぶころの城市は花に満たされる。
 恨むべし東の欄干の二種類の雪。
 人は何度この清明の季節を眺められる。

 「二株雪」は「一株雪」とする本もあるが、ここは柳の綿毛と梨の花の二種類の雪と取っておきたい。
 「惆悵」は日本人なら「惜しむらく」とでもしそうだが、あえて恨むを使うのは中国や韓国などの儒教文化の発想を取っておきたいからだ。
 それに起承転結を考えた時、起承の景色に対し、ここは思い切った展開をして「いきなり何を恨むと言うのか」と驚かせておいて、結句で落ちを付けるというその呼吸を読んでおきたい。
 日本の文学者はテキストで共時的に詩を読むことにすっかり慣れてしまっているが、声として発せられた場合の順序というのは、詩を耳で通時的に聞く文化にとっては重要なことだった。

 うらやまし思い切る時猫の恋   越人
 猫の恋思い切る時うらやまし

は共時的には一緒だが、通時的に聞いた場合に印象は大きく異なる。「落ちを最初にゆうな」という所だ。金笠(キムサッカ)の、

 彼坐老人不似人 疑是天上降真人

を「彼坐老人降真人」としたのでは面白くもなんともない。
 白い花を雪に喩えるのは、わが国では昔から桜が雪に喩えられてきた。

 み吉野の山辺に咲けるさくら花
     雪かとのみぞあやまたれける
              紀友則(古今集)
 桜ちる花の所は春ながら
     雪ぞふりつつきえかてにする
              承均法師(古今集)

などその数も多い。
 卯の花もまた雪に喩えられてきた。

 時わかずふれる雪かと見るまでに
     垣根もたわに咲ける卯花
              よみ人しらず(後撰集)
 卯の花の咲けるあたりは時ならぬ
     雪ふるさとの垣根とぞ見る
              大中臣能宣(後拾遺集)

などの歌に詠まれている。
 ただ、ここで言う卯の花は近世のウツギの花ではなく、「垣根」とあるようにウバラ(イバラ)の花を意味する。
 白い花を雪に喩えること自体は、それほど珍しい発想ではない。
 ただ、梨の花を雪に喩えるというと、

 馬の耳すぼめて寒し梨子の花   支考

の句への影響というのは気になる所だ。この句は雪と言わずして、馬の仕草でもって雪を匂わしている。
 詩は『詩経』大序では「志」であり、人の意志を伝えるためのものなので、景色の描写というのは基本的にはそれを呼び興すための「興」にすぎない。大和歌も「こころ」を述べるためのもので、そこは共通している。
 その意味では、先日の「柳緑花紅真面目」の禅語も景色に対して「目に映る物をあるがままに受け入れること真実がある」という一つのメッセージになる。
 ただ、「梨花淡白柳深靑」の詩句に関して言えば、文脈は明らかに異なる。
 あまりに美しい景色なので、あと何回この景色を見ることができるのか。
 それは単なる人生の儚さだけではなく、人生も国家も様々な争いごとによって、あまりにもたやすく失われてしまうことへの「恨み」の文脈の中で読まなくてはならない。麦秋の青空もまた同じかな。

2022年5月10日火曜日

 ネット上で蘇東坡の詩句とされている「柳緑花紅真面目」で、筆者も安易に用いてしまっていたが、詩句というわりには、詩の全体が判明しない。そうなると、これが本当に蘇東坡の詩だったのかという疑念がわいてくる。
 この詩句が蘇東坡のものであることを証明するには、出典をつきとめればいいわけだが、この詩句が蘇東坡のものでないことを証明するのはもっと難しい。誰か他の人の詩にこの句があればいいが、それがないとなると悪魔の証明になる。
 とりあえず今わかったのは「真面目」をネットで検索すると、蘇東坡の詩の中に「真面目」の用例は一応あるということだ。

   題西林壁    蘇軾
 橫看成嶺側成峰 遠近高低總不同
 不識廬山真面目 只緣身在此山中

 横から見れば嶺とも峰ともなり、
 遠いか近いかで高さは違って見える。
 廬山の真の姿を知らないのは、
 ただ自分がこの山の中にいるからだ。

 廬山の真の姿を知らないのは、廬山に住んでいるからだ。まあ、エッフェル塔にいればエッフェル塔は見なくてすむというモーパッサンの例もあるが、この場合はちょっとでも角度が変わればまったく別のものに見えて、どれが本物というわけでもない、という意味だろう。
 「柳緑花紅」の方は古くから言い古された出典のある言葉の一つのバリエーションだろう。筆者が知っているのは、

   大道曲   謝尚
 青陽二三月 柳青桃復紅
 車馬不相識 音落黃埃中

 春の二月三月、
 柳は青く桃もまた赤い。
 車も馬もお互いを知ることもなく、
 ただ音だけが黃埃の中に。

の詩だ。似ているというと、

 見渡せば柳桜をこきまぜて
     都ぞ春の錦なりける
            素性法師(古今集)

の歌がある。影響を受けていたとしてもおかしくない。
 ただ、日本の山桜は紅ではないという問題はあるが、「いにしへの奈良の都の八重桜」なら桃色の品種もあったかもしれない。奈良時代に既に八重桜や枝垂れ桜などの園芸品種が作られていて、それが都特有の錦として認識されていた可能性はある。
 山桜も一様に白いのではなく、遺伝的に一定の変異を含んでいて、桃色がかかったものもある。ただ今の染井吉野のように、見渡す限り一面同じ色ということはなく、全体的には白い桜が主流だった。
 近代には沖縄の寒緋桜なども、品種改良で交配させたりしていて、今の桜は染井吉野よりも濃い色のものが多い。
 まあ、話はそれたが、「柳緑花紅」という場合の花は桃の花と考えた方が良いのだろう。漢詩に通じた人であれば、桜ではなく桃を連想したと思う。
 だいぶ前だが、『万葉集と漢文学』和漢比較文学叢書九、一九九三、汲古書院、所収の濱政博司さんの「大津皇子『臨終』詩群の解釈」を読んだ時に、似たような詩が中国・韓国・日本で有名な人の詩として語り伝えられていることを示している。
 五八九年の中国の『浄名玄論略述』の詩が古く、それは、叔宝が囚人として長安に引き立てられるときに詠んだ詩で、

  鼓声推命役 日光向西斜
  黄泉無客主 今夜向誰家

  太鼓の声は賦役へとせきたて、
  日の光は西へと傾いて行く。
  黄泉の国には主人もいなければお客さんもいない。
  今夜は誰の家に向かうのというのだ。

というものだった。
 日本では六八六年に二上山で処刑された大津皇子が詠んだとされ、『懐風藻』にも載っている詩に、

  金烏臨西舎 鼓声催短命
  泉路無賓主 此夕誰家向

  黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、
  日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。
  黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。
  この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

というのがある。
 さらに韓国では成三問(ソンサムォン)(一四五六年没)の刑死した時の詩として、

  撃鼓催人命 回看日欲斜
  黄泉無一店 今夜宿誰家

  太鼓を打つ音は人の命運をせきたて、
  振り返って見れば日は傾こうとしている。
  黄泉の国には宿屋があるわけでもない。
  今夜は一体誰の家に泊ろう。

という詩が知られている。
 「柳緑花紅真面目」もひょっとしたら何らかの伝承詩があって、それが蘇東坡に仮託されたのかもしれない。元の形が多少違っていても、「真面目」と付けると実際に用例があるだけにそれっぽく聞こえる。
 蘇東坡の詩句かどうか定かでないなら、単に「禅語」として扱った方が良いのかもしれない。
 この詩句は基本的には五感に感じられるものをあるがまま、何ら解釈をすることなくそのまま受け入れるということで、現象学的に言う「エポケー」の状態を言う。
 これによって先入観を配して物事を見ろという教えであり、自由に物事を見ることで、新たな解釈を可能にする。
 ただし、その新解釈が真理であることを証明するものではない。ハイデッガーの言ったように、真理の本質は自由であり、自由の中にしかない。新たな世界の解釈も、それがひとたびドグマとなった時には、この世界を覆い隠すものとなる。

2022年5月9日月曜日

  昨日の写真。月読宮二十三夜尊。

 ウクライナのバンドのТінь Сонцяは日本語読みのティン・ソンチャでは検索できないみたいだ。Тінь СонцяかTin Sontsiaで探す必要があるようだ。
 マスゴミの戦勝記念連呼はうざい。八月九日だけでなく五月九日も反ロデーにした方が良いのではないか。二月二十四日も当然国際反ロデーにすべきだ。
 あと、昨日の古代東海道東へ鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 それでは「郭公」の巻の続き、挙句まで。

 二十五句目。

   夜は飛ビ田の狐也けり
 高灯籠杉の梢にありあけて    其角

 高灯籠はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「高灯籠」の解説」に、

 「① 石灯籠の一つ。台石を幾層にも重ねて高く作ったもの。
  ② 人の死後七回忌まで、その霊を慰めるために、盂蘭盆会(うらぼんえ)のある七月に立てる高い灯籠。また、特に関東・東北で新盆の家が高い竿につけてともす灯籠。《季・秋》
  ※俳諧・佐夜中山集(1664)三「寺々や世上に眼高灯籠〈重頼〉」
  ③ 高い櫓(やぐら)の上部に灯をともし、船の航行を助けたもの。灯台。
  ※新板なぞづくし(1830‐44)一「住吉高燈(タカトウロウ)(とかけて)色事の出合(ととく心は)松からうへぢゃ」

とある。
 飛田の稲荷神社に①の意味での高灯籠か。京の伏見稲荷には験の杉があり、稲荷は杉に縁がある。
 二十六句目。

   高灯籠杉の梢にありあけて
 晩-稲花さく湖の隈        蚊足

 目立たないけど稲にも小さな花が咲く。前句をお盆の高灯籠として晩稲(おくて)の花が湖に面した田んぼに咲いている。隈は「くま」とルビがある。
 二十七句目。

   晩-稲花さく湖の隈
 蜻-蛉の一かたまりに流るなり   其角

 蜻-蛉はカゲロウであろう。一時期に大量発生する。大量発生して卵を産んだ後は皆死んで落ちて、湖を流れて行く。
 二十八句目。

   蜻-蛉の一かたまりに流るなり
 隣ならべて機の糊ひく      蚊足

 前句を天の川に見立てて、機織りの情景を付ける。
 機(はた)の糊は、織り糸を扱いやすくするために糊を付ける作業か。地域によっては男も機織りをするので、織姫彦星も一緒に機を織ったか。
 二十九句目。

   隣ならべて機の糊ひく
 通リなき冬の駅の夕あらし    其角

 この場合の駅は「うまや」であろう。古代は駅路に準備されている駅馬のことだったが、近世では伝馬のいる場所になる。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伝馬」の解説」に、

 「徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。

 伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。」

とある。
 冬の駅は人通りも少なく、機織りの音が聞こえてくる。
 三十句目。

   通リなき冬の駅の夕あらし
 降かかりたる雪の玉味噌     蚊足

 玉味噌はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「玉味噌」の解説」に、

 「〘名〙 一般に、煮た大豆をつき砕いて麹(こうじ)と塩を混ぜて丸めた味噌玉をいう。また、大豆や蚕豆(そらまめ)を煮てつき砕き、麹と塩を混ぜて大きなだんごに丸め、わらづとに包み、炉の上などに一、二年置いて熟させた味噌。味噌玉。
  ※俳諧・続虚栗(1687)夏「通りなき冬の駅の夕あらし〈其角〉 降かかりたる雪の玉味噌〈蚊足〉」
  ※眉かくしの霊(1924)〈泉鏡花〉六「玉味噌を塗って、串にさして焼いて持ちます」

とある。
 今の岐阜県関市にある道の駅平成で売られているという玉味噌は、真ん中に穴が開いていて、そこに縄を通して上から吊り下げて乾燥させるという。
 大粒の牡丹雪、当時は帷子雪と言ったそういう雪だと、吊り下げた味噌玉のように見えなくもない。
 元禄七年の「鶯に」の巻十九句目にも、

   一阝でもなき梨子の切物
 玉味噌の信濃にかかる秋の風   芭蕉

の句がある。これも吊り下げた玉味噌が秋の風に揺れる情景だったか。
 二裏、三十一句目。

   降かかりたる雪の玉味噌
 釜かりに松の扉をたたかれて   其角

 松の扉は槇の戸と同様、山奥に暮らす隠士の風情がある。豆を煮る釜を借りに来る人がいる。
 松の戸は、

 山深み春とも知らぬ松の戸に
     たえだえかかる雪の玉水
              式子内親王(新古今集)

の歌にも詠まれている。松の戸にかかる雪の一致からも、本歌と言って良いだろう。
 三十二句目。

   釜かりに松の扉をたたかれて
 反故そろゆる閑な倫ミぞ     蚊足

 反故は字数から「ほうぐ」だろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「反故・反古」の解説」に、

 「〘名〙 =ほぐ(反故)
  ※右京大夫集(13C前)「ほかへまかるに、ほうぐどもとりしたたむるに」
  [語誌](1)奈良期に「本古紙」〔正倉院文書‐天平宝字四年(七六〇)六月二五日・奉造丈六観世音菩薩料雑物請用帳〕、「本久紙」〔正倉院文書‐天平宝字六年(七六二)石山院牒〕の表記で見えるのが古い。また、「霊異記‐下」には「本垢」とあり、当初の語形はホゴ・ホグ、あるいはホンク(グ)であったと考えられる。
  (2)平安期の仮名文では「ほく」と表記されることもあるが、ホンクの撥音無表記とも見られる。「色葉字類抄」には「反故 ホク 俗ホンコ」とあり、鎌倉時代においては、複数の語形があったこと、正俗の意識があったことなどが分かる。
  (3)「日葡辞書」の「Fongo(ホンゴ)」の項に「Fôgu(ホウグ)と発音される」との説明があるところから、中世末期においてはホウグが優勢であり、近世になってからもホウゴ・ホンゴ・ホゴ・ホング・ホグなどとともに主要な語形として用いられている。→「ほご(反故)」の語誌」

とある。上古の乙類のオはウに変わったものが多いが、ウとオの交替がしばしば生じる。人麻呂が人丸になるのもその一つの例。反故はホグともホゴとも読む。
 「倫ミ」の読み方はよくわからない。「なじみ」か。
 隠士同士が軒を並べていれば、釜の貸し借りもあれば一緒に反故を整理したりすることもある。
  三十三句目。

   反故そろゆる閑な倫ミぞ
 顔あまた都の友のなつかしく   蚊足

 昔一緒に書を学んだ仲間たちを、その頃の反故を揃えながら、都を遠く離れた所で思い出す。
 三十四句目。

   顔あまた都の友のなつかしく
 豆くふ数も人に笑われ      其角

 節分には年の数だけ豆を食うが、久しぶりに会った都の仲間たちは皆老人となっていて、豆の数がこんなにとお互いに笑い合う。
 三十五句目。

   豆くふ数も人に笑われ
 世中の花に駝のよろほひて    其角

 駝は「せむし」とルビがある。背骨が後ろに湾曲することを言う。この場合は老化が原因で、節分の豆もたくさん食べる。
 節分・立春は旧歴正月の前後なので、正月の「花の春」の季節になる。背中が曲がってよろよろ歩く老人は、それだけでお目出度い。正月に海老を食べるのも、腰が曲がるまで生きられますようにという願いだった。死亡率の高い時代は、年寄りになるまで生きられるというのがみんなの願いだった。
 挙句。

   世中の花に駝のよろほひて
 寺より寺にあそぶ春の日     蚊足

 年を取ってよろよろになっても、杖ついて順礼の旅をし続ける。そんな老人になってみたいものだ。

2022年5月8日日曜日

 今日は「古代東海道東へ」の続きで、二〇二〇年一月三日以来二年五か月ぶりに古代東海道の推定路を歩いてきた。
 前回は竜ケ崎を出発して土浦までたどり着けず、阿見坂上で終了してバスで土浦に出て帰った。今日はその続きということで、電車で荒川沖に行き、阿見坂上まで歩いて、そこからスタートした。詳しくは鈴呂屋書庫の「街道を行く、古代東海道篇東へ」に書き足す予定。
 まあ、とにかく無事に石岡の常陸国国府に辿り着くことができたので、とりあえず古代東海道の方は一区切りということになる。
 写真は石岡の恋瀬橋から見た筑波山。本日撮影。