2022年4月19日火曜日

 今日は晴れて、朝はあざみ野の八重桜並木を散歩した。染井吉野が散った後は、八重桜が最後の桜になる。ツツジや藤が咲き、春を惜しむ季節になる。
 山は新緑で草の生える、山笑う季節になる。
 「山笑う」は郭煕『臥遊録』の、「春山淡冶而如笑、夏山蒼翠而如滴、秋山明浄而如粧、冬山惨淡而如睡」が起源とされていて、和歌の言葉(雅語)ではない。俳諧の言葉になる。多分芭蕉の時代には流行の言葉だったのだろう。
 言葉は流行を繰り返し、毎年のようにたくさんの新語・流行語が現れては消えて行く中で、残った言葉はこうして四百年たっても生き続けている。
 今日撮影の八重桜並木。

 何かにはまるというのは、基本的には脳内に快楽物質を求める回路を形成することで、偶発的にであれ、なにか生涯を通して夢中になれることを見つけた人は、この回路に支配されていると言って良い。
 それはサッカーかもしれないし、マラソンかもしれないし、登山かもしれない。あるいは三国志だったりガンダムだったりもする。ネトゲにはまる人と囲碁や将棋にはまるひとと何の違いがあるのか。文学にはまる人とラノベにはまる人に何の違いがあるのか。脳の回路に於いては大差ない。ただ社会の側の問題だ。
 スポーツであれ学問であれ仕事であれ、何か一つのことに打ち込んで偉業を成し遂げる人は、基本的にそれが楽しいから、快楽をもたらすから夢中になれるのであって、それはやはり偶発的に形成された脳内の回路によるものだ。
 この回路は性的嗜好に関しても言えることだが、違うのは性に結びつかない快楽回路も多く存在することだ。
 性に結びつかなくても快楽をもたらすが故に、孔子は徳の追究にはまってしまい、「已矣乎、吾未見好徳、如好色者也(已んぬるかな。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり)」と言ったと『論語』にある。孔子は本当に色を好むがごとく徳を好んだのだろう。それは脳内の快楽回路の仕業だ。
 まあ、他の物にはまった人も、しばしば女よりも趣味を優先させることってあるよね。これだけは譲れないって感じでね。
 本人の意思ではなく偶発的に形成された快楽回路に関しては、何らその人の責任ではないし、基本的に自由だ。
 こうした脳内快楽物質の回路と、薬物による脳内快楽物質の回路は、似ているけど全く違うものだ。薬物は偶発的なものではなく、必然的に直接脳に作用する。
 そのため、ひとたび薬物に手を出すと、それをやめるという選択肢が消失するばかりか、他の脳回路にまで影響を与えゆく。
 必然性のあるものを選択することには、当然本人の責任が伴うし、犯罪として規制する必要がある。
 ネトゲ廃人という言葉はあるが、この「廃人」は比喩にすぎない。薬物は本当の「廃人」を作り出す。
 比喩というのは述語の一致による誤謬推理を利用したもので、「君はまるで薔薇の花のようだ」というのは、「君は美しい、薔薇の花は美しい、故に君は薔薇の花だ」というだけのことだ。
 ネトゲ廃人という言葉も同じで、「ネトゲははまるとやめられなくなる、薬物もやめられなくなる、ゆえにネトゲは薬物である」、というところで「ネトゲ廃人」だとか「ゲーム中毒」ということばがあるだけで、脳内のメカニズムはまったく違うものだ。
 ゲームがeスポーツとして社会的に何らかの役割を得るようになったなら、ネトゲ廃人という言葉もなくなって、ネトゲ名人として尊敬されるようにもなるだろう。そうなれば囲碁や将棋と何ら変わらない。国民栄誉賞を貰うゲーマーだって現れるかもしれない。結局は金が稼げるかどうかの問題だ。
 比喩というのは述語の一致による誤謬推理なだけに、しばしば人を惑わす効果がある。あの吉野家のオヤジだって、あくまで比喩で言っただけなんだけど、比喩が分からない人たちというのもいる。
 言葉狩りの好きな人というのは、「比喩を誤謬推理として告発する人」とだと言ってもいいのかもしれない。

 それでは『蛙合』の続き。

 「第十三番
   左持
 ゆらゆらと蛙ゆらるる柳哉     北鯤
   右
 手をかけて柳にのぼる蛙哉     コ斎
   二タ木の柳なびきあひて、緑の色もわきがた
   きに、先一木の蛙は、花の枝末に手をかけて、
   とよめる歌のこと葉をわづかにとりて、遙な
   る木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだの
   ぼらざるけしき、しほらしく哀なるに、左の
   蛙は樹上にのぼり得て、ゆらゆらと風にうご
   きて落ぬべきおもひ、玉篠の霰・萩のうへの
   露ともいはむ。左右しゐてわかたんには、数
   奇により好むに随ひて、けぢめあるまじきに
   もあらず侍れども、一巻のかざり、古今の姿、
   只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心
   心にわかち侍れかし。」

 柳に蛙というと小野道風で、花札の絵柄にもなっているが、ウィキペディアには、

 「道風が、自分の才能を悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると、柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり : 宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られる。その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられて多くの人に広まり、知名度は高かった(戦後の道徳の教科書にも採用されているものがある)。」

とある。
 この逸話が広まったのは『蛙合』から八十年も後のことで、蕉門の人たちの知る所ではなかったのだろう。むしろ、道風の逸話の起源がこの『蛙合』第十三番にあった可能性もある。
 「花の枝末に手をかけて、とよめる歌」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注にもあるとおり、

 山吹のしづえの花に手をかけて
     折りしり顔に鳴く蛙かな
               源仲正(夫木抄)

の歌のことと思われる。この「手をかけて」の五文字を取って、「柳にのぼる蛙」と展開する。
 この「手をかけて柳に登る」という言い回しは微妙で、時制の曖昧な日本語だと、現在とも現在進行形とも未来とも受け取れる。日本語では「為せば成る」のように、英語ならwillを使うような強い意志を持った未来には現在形を用いる。
 判詞にも「遙なる木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだのぼらざるけしき」とあるように「登る」に意志未来、現在進行、まだ完了しないというニュアンスを読み取っている。
 つまりこの句は、蛙が柳の枝に飛びつこうとして、ようやく飛びついて、今まさにさらに上に向かうという一連の流れを表している。この蛙のけなげな姿が、後に小野道風に仮託された可能性が十分にある。
 左の句の方は既に枝に飛びついていて、柳の枝の途中で風にゆらゆら揺られて、落ちまいとしている描写になる。
 「玉篠の霰」は、

 もののふの矢並つくろふ籠手のうへに
     霰たばしる那須の篠原
               源実朝(金槐和歌集)

 「萩のうへの露」は、

 おきあかし見つつながむる萩の上の
     露ふきみだる秋の夜の風
               伊勢大輔(後拾遺集)

であろう。
 柳の枝に飛びついた蛙も、風にゆらゆら揺られながら、結局は散ってしまう。
 趣向としてはどちらもよく似ていて甲乙つけがたい。
 「一巻のかざり、古今の姿、只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心々にわかち侍れかし。」とあるように、この二句は「一巻の飾り」でありどちらも捨てがたい好句だということで、後の人に判定を任せることになる。よって引き分け。
 その後の人は、結局ここから勝手に小野道風の柳の蛙の寓話を作ってしまい、このオリジナルの二句を忘れてしまったというわけか。

 「第十四番
   左持
 手をひろげ水に浮ねの蛙哉     ちり
   右
 露もなき昼の蓬に鳴かはづ     山店
   うき寐の蛙、流に枕して孫楚が弁のあやまり
   を正すか。よもぎがもとのかはづの心、句も
   又むねせばく侍り。左右ともに勝負ことはり
   がたし。」

 「孫楚が弁」は「石に漱ぎ流れに枕す」で、ウィキペディアには、

 「孫子荊(孫楚)がまだ仕官する前、王武子(王済)に対して隠遁したいと思い「石を枕にして、川の流れで(口を)漱ぎたい(枕石漱流、そのような自然の中での暮らしの意味)」と言おうとしたところ、うっかり「石で漱ぎ、流れを枕にしたい(漱石枕流)」と言い間違えてしまった。すかさず王武子に「流れを枕にできるか、石で口を漱げるか」と突っ込まれると、孫子荊は「枕を流れにしたいというのは、汚れた俗事から耳を洗いたいからで、石で漱ぐというのは、汚れた歯を磨こうと思ったからだよ」と言い訳し、王武子はこの切り返しを見事と思った。感心する意味で「流石」と呼ぶのは、この故事が元という説があるという。」

とある。
 蛙なら「流れに枕す」は別に耳を洗うなんて言わなくても、普通に流れの上にいる。「石に漱ぐ」ことはなさそうだが。
 流れに逆らわずに生きるというのは、『楚辞』の漁父問答を思わせる。
 「蓬に鳴かはづ」は「蓬生」という言葉を連想させ、訪ねてく人もなく、草の生い茂った里の侘び暮らしを連想させるが、それ以上にイメージが膨らまない。
 ちりの句は「手をひろげ」の描写が、山店の句は「露もなき昼の」の描写が、今一つ取り囃しとして生きてないような気がする。

 「第十五番
   左
 蓑捨し雫にやどる蛙哉       橘襄
   右勝
 若芦にかはづ折ふす流哉      蕉雫
   左、事可然体にきこゆ。雫ほすみのに宿か
   ると侍らば、ゆゆしき姿なるべきにや。捨る
   といふ字心弱く侍らん。右、流れに添てす
   だく蛙、言葉たをやか也。可為勝か。」

 捨てられた蓑の雨の雫に濡れる中に蛙がいるというのは、いかにもありそうだ。ただ何で蓑が捨てられたのか、ちょっと気になる。
 「雫干す蓑に宿かる蛙哉」なら、蓑を捨てるという不自然さがなく、雨の中旅する中に、いつの間にか美濃の中に蛙が紛れ込んで、お前もともに旅をして、ここに宿るかという細みの句となる。
 「心弱く」の「心」はこの場合心情のことではなく「意味」という意味で、要するに「蓑捨し」が意味不明ということ。
 若芦の句は、流れのあるところでは、流れにくい若い元気な芦の葉を宿とするという句で、蛙の宿対決になる。特に難がないので「若芦」の句の勝ちになる。

2022年4月18日月曜日

 和辻哲郎は世界の四大文明とともに日本も一つの独立した文明だと主張していた。
 今は世界的な考古学の進歩によって、四大文明という考え方自体が時代遅れになった。ナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河の外にも、マヤ・アステカ、インカ、ニジェール、長江に独自の文明があったことが分かっている。
 日本はというと、基本的には長江文明の継承者として一つの文明を名乗る権利があると思う。長江文明の本拠地は黄河文明の侵略によって黄河文明に吸収されてしまったが、その時四散した末裔の一つが対馬海流に乗って日本に辿り着き、この国に長江文明の純粋な形が残ることとなった。
 この文明の特徴は自然崇拝で、中国でも楚人の老聃(老子)によって開かれた道家の中にその名残をとどめている。
 日本や朝鮮半島や中国南部から東南アジアにかけて、長江文明の影響は今も様々な形で残っている。日本独自のもののように見えるものの多くは、この地域で広く見られる。そして日本は島国であるがゆえに他国に征服されることなかったため、今となっては最も純粋な形で長江文明の栄光を残す国になっている。
 明治以降、西洋文明の影響を強く受けながらも、キリスト教が広まらなかった唯一の国でもある。
 自然崇拝の伝統は、今日でも自然を人間の理性でゆがめることなく、ありのままに受け入れる文化となって残っている。そのため、日本ではダーウィン進化論が伝統文化と衝突することなく、広く国民に受け入れられている。
 西洋文明が未だ創造説や霊肉二元論の蒙昧から抜け出せないのに対し、日本は科学を抵抗なく受け止める。だからこそ、西洋の創造説や霊肉二元論に基礎を置く諸思想の侵略に抵抗する権利がある。権利、即ち「正しさ(right)」だ。
 LGBTやフェミニズムや人種問題に関しても、遅れてるのは西洋の方ではないかと思う。こうした人たちが日本に来て暮してくれれば、多分納得できると思う。
 日本には西洋のような、弁証法の螺旋的上昇によって形成された、化物のように巨大な形而上学の体系はない。それは別に恥ずべきことではない。なぜなら西洋哲学自体がそのせいで行き詰まり、既に終わりを迎えているからだ。

 それでは『蛙合』の続き。

 「第九番
   左勝
 夕月夜畦に身を干す蛙哉      琴風
   右
 飛かはづ猫や追行小野の奥     水友
   身をほす蛙、夕月夜よく叶ひ侍り。右のかは
   づは、当時付句などに云ふれたるにや。小の
   のおく取合侍れど、是また求め過たる名所と
   や申さん。閑寥の地をさしていひ出すは、一
   句たよりなかるべきか。ただに江案の強弱を
   とらば、左かちぬべし。」

 田舎の蛙というテーマか。
 夕暮れで虫が獲れなくなると、蛙も畦に上がってじっとしていることもあるのだろう。それを亀の甲羅干しみたいに「身を干す」と言い表している。まだ日の光りの残る夕月夜の頃だから、その情景が見られる。
 真っ暗になると、今度は一斉に鳴きだす。その前の時間の感覚が良く表れている。
 猫が蛙を追いかけるというのはありそうなことだが、それだけだと発句の題材としては弱く、付け句の体になる。そこを「小野」という名所に詠む所で発句らしく仕上げようとしたが、閑寂な山科の小野にふさわしくないという所で、「夕月夜」の句の勝ちになる。
 どちらも蛙の長閑さがテーマになるというところでの組み合わせであろう。
 山科の小野は「石田(いはた)の小野」「小野の細道」などが歌枕になっていて、

 今はしも穂に出でぬらむ東路の
     石田の小野のしののをすすき
               藤原伊家(千載集)
 秋といへば石田の小野のははそ原
     時雨もまたず紅葉しにけり
               覚盛法師(千載集)
 眞柴刈る小野のほそみちあとたえて
     ふかくも雪のなりにける哉
               藤原為季(千載集)

などの歌に詠まれている。

 「第十番
   左
 あまだれの音も煩らふ蛙哉     徒南
   右勝
 哀にも蝌つたふ筧かな       枳風
   半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語、な
   どとも聞得たらましかば、よき荷担なるべけ
   れども、一句ふところせばく、言葉かなはず
   思はれ侍り。かへる子五文字よりの云流し、
   慈鎮・西行の口質にならへるか。体かしこけ
   れば、右、為勝。」

 雨だれ、筧と居所の蛙の対決になる。
 「半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語」は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、

 「この詩句は増補国華集の「雨」の項に載る「●半檐の疎雨愁媒を作す[石門]●空階余滴有り、幽人と語るに似たり[坡]によるもので、前半は釈恵洪の石門文字禅の「和余慶長春十首」の一句、後半は蘇東坡の「秋懐二首」中の二句で、後半に「鳴蛙」の語を冠して七言詩の一句のごとくに仕立てたもの(石川八郎説)。」

とある。
 『増補国華集』は漢詩を作る人のためのネタ帳のようなもので、そこには、

 「●半檐の疎雨愁媒を作す[石門]●空階余滴有り、幽人と語るに似たり[坡]」

とのみある。この語句を用いて、判者の言葉として「鳴蛙以」を付け加えて、庇の雨だれにの愁いに帰ると語らうというふうに作っている。
 ただ、この情を引き出すには「あまだれの」の句は言葉足らずでわかりにくい。
 「あまだれの音に煩らふにも、蛙哉」であろう。「も」は強調の「も」(力も)で、雨だれの音にこそ煩わされるが、そこには友となる蛙がいる。
 それを倒置にして「も」を「煩らふ」の前に持ってきて「あまだれの音も煩う」としている。ただ、この句だと、蛙が雨だれに煩っているように聞こえてしまう。
 蝌は「かへるご」と読む。オタマジャクシのこと。「あはれにも」の上五から一気に読み下す作風は、

 あはれいかに草葉の露のこほるらむ
     秋風立ちぬ宮城野の原
               西行法師(新古今集)
 いつまでか涙くもらで月は見し
     秋待ちえても秋ぞ恋しき
               慈円(新古今集)

などにも通じるということか。
 小川から水を汲むための筧にオタマジャクシが流れて来るのを見て、「哀れにも」と強く感情をこめる、その句の姿が評価され、この句の勝ちになる。

 「第十一番
   左
 飛かはづ鷺をうらやむ心哉     全峰
   右勝
 藻がくれに浮世を覗く蛙哉     流水
   鷺来つて幽池にたてり。蛙問て曰、一足独挙、
   静にして寒葦に睡る。公、楽しい哉。鷺答へ
   て曰、予人に向つて潔白にほこる事を要せず。
   只魚をうらやむ心有、と。此争ひや、身閑に
   意くるしむ人を云か。藻がくれの蛙は志シ高
   遠にはせていはずこたへずといへども、見解
   おさおさまさり侍べし。」

 『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、これも『増補国華集』の鷺の項の、「●静かにして寒葦に眠る雨颼颼」を引用して判の文章を作っている。
 『荘子』に見られるような問答の形で、寒葦の中に悠々と眠る鷺を見て、蛙がそれをうらやむが、鷺が言うには別に殊勝な心があってのことではなく、魚を獲るためだと答える。そうなると、蛙は何を羨んでいるのかよくわからない。
 鷺には鷺の生活があり、蛙には蛙の生活があり、生き物は皆それぞれで多様なのだから、誰しも我が道を行けばいい、余所を羨むな、というところか。
 なるがままに任せよという教えは『荘子』というよりは、『楚辞』の漁父問答に近いかもしれない。
 これに対し藻隠れの蛙は、市隠の生き方に通じる。俗の中にあって、俗に交わりつつ、孤高の心ざしを保つ。
 これは隠者の寓意としての蛙の対決で、迷いの「鷺を羨む蛙」に対し、悟った孤高の「藻がくれ」の蛙に軍配が上がる。

 「第十二番
   左持
 よしなしやさでの芥とゆく蛙    嵐雪
   右
 竹の奥蛙やしなふよしありや    破笠
   左右よしありや、よしなしや。」

 何だかやる気なさそうな判だ。
 「さで」は叉手のことで、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「叉手・小網」の解説」に、

 「〘名〙 掬網(すくいあみ)の一つ。交差させた竹や木に網を張ったもの。また、細い竹や木で輪を作り、平たく網を張って柄を付けたもの。さであみ。すくいあみ。
  ※万葉(8C後)九・一七一七「三川(みつかは)の淵瀬もおちず左提(サデ)さすに衣手濡れぬ干す児は無しに」

とある。
 叉手に掛かっても、外道としてそのまま放される。役に立たない故に自由でいられる『荘子』の「無用の用」の心といえよう。
 竹の奥は竹林の七賢だろうか。わざわざ蛙を飼うようなこともなかろう。蛙使いの蝦蟇仙人ならともかく。
 いずれにせよ蛙は無用の用で、「よしなし」の「よしあり」というところだろう。

2022年4月17日日曜日

 思うに同性愛というのは男と女とは違う第三の性が存在するのではなく、男女それぞれにある性的嗜好の多様性の一つなんだと思う。要するに趣味の問題なんだと思う。この趣味という考え方は、日本では多くの人が支持していると思う。
 一度性的少数者のことを言い出すと、LGBTだったのがLGBTQになり、さらにLGBTQIAPZNになっていったように、際限なく多様な性が存在することになる。
 同じ異性愛でもおっぱいやら足やら尻やら様々なフェチがあり、デブ専や熟女趣味もあれば、ロリやB専もあるように、その延長線上に同性フェチがあると考えても良いのではないかと思う。LGBTなる「性」が存在するのではなく、たまたま同性へ拡張されたフェチが存在すると考えた方が良い。
 とにかくこの問題はそんなに難しいものではない。
 ごく稀な両性具有を除けば、人はペニスを持つ者か子宮を持つ者かどちらかに生まれる。
 後はそれぞれ後天的な脳回路の形成の段階で、偶発的に様々な性的嗜好が生じるにすぎない。
 LGBTはこうした多種多様な性的嗜好がたまたま男女の境界を越えただけにすぎない。
 多種多様な性的嗜好は基本的に等価であり、自由であるべきである。ただ、それが暴力となる場合のみ抑制されなくてはならない。
 この場合の暴力は、単純な暴力と、未成年者への暴力と、ペニスを持つ者が子宮を持つ者に対して行う暴力との三種類があり、いずれも犯罪として禁止されなくてはならない。
 特にペニスを持つ者が子宮を持つ者に対して行う暴力を抑止するための、公衆便所や公衆浴場や更衣室などでのペニスを持つ者と子宮を持つ者との分離には、一定の合理性がある。
 スポーツにおける男女の別は、基本的にペニスを持つ者と子宮を持つ者との肉体的な差異によるものであり、心と関係なく肉体によって分けられるべきである。
 婚姻は基本的に肉体や精神と無関係に自由であるべきだ。ただ、複数のパートナーを容認する場合は、それが異性間にも平等に適用された場合、一夫多妻の容認に繋がるので慎重に決めなくてはならない。
 多分西洋と西洋崇拝者の人権の議論がおかしいのは、未だに異性に対する無差別な欲望とそれを制御する理性という、古い霊肉二元論の形而上学が支配しているからだと思う。
 この理論だと、おっぱいどーんの画像があれば、すべての男が等しく欲情するという仮説も成り立つ。そんな下らない理由で巨乳叩きをやっているなら、すぐにでもやめるべきだ。
 また、この理論だとLBGTが説明できないものだから、そこであたかも男でも女でもない第三、第四の性が存在するかのような幻想が生じてくる。LBGTそれぞれに独立の性として個別に法律を作るとなると、社会がどうしようもなく煩雑になり、かえって軋轢を生むことになる。それが欧米社会の病だ。
 性欲は無差別かもしれないが、それは対象が女に限定されないどころか、人間にすら生物にすら限定されていない。対象は後天的に刷り込まれ、発達過程で偶発的に様々な脳の回路が形成されると考えた方が良い。そうでなければ性的嗜好の多様性は説明できない。
 そして、それとは無関係にペニスを持つ者はばら撒く性としての性質を具え、子宮を持つ者は選ぶ性としての性質を具えている。これは先天的な部分に属するため、個体差はあるが大まかな傾向として存在している。
 個体差があるというのは、男女で背の高さが違うようなものと考えていい。個体差が性差を上回るために、個別的に見れば一概に言えないが、平均すれば性差は存在する。男がばら撒く性だとはいえ一穴主義者は存在するし、女が選ぶ性だとしてもビッチは存在する。
 それでは『蛙合』の続き。

 「第六番
   左持
 鈴たえてかはづに休む駅哉     友五
   右
 足ありと牛にふまれぬ蛙哉     琪樹
   春の夜のみじかき程、鈴のたへまの蛙、心に
   こりて物うきねざめならんと感太し。右、
   かたつぶり角ありとても身をなたのみそとよ
   めるを、やさしく云叶へられたり。野径のか
   はづ眼前也、可為持。」

 駅が「むまや」と読む。馬屋のことで宿場の伝馬のいる所であろう。コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)「伝馬」の解説」に、

 「徳川家康は1601年(慶長6)に公用の書札、荷物の逓送のため東海道各宿に伝馬制度を設定した。徳川家康は「伝馬之調」の印判、ついで駒牽(こまひき)朱印、1607年から「伝馬無相違(そういなく) 可出(いだすべき)者也」の9字を3行にして縦に二分した朱印を使用し、この御朱印のほかに御証文による場合もある。伝馬役には馬役と歩行(かち)役(人足役)とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの規定ができた。

 伝馬は使用される際には無賃か、御定(おさだめ)賃銭のため、宿には代償として各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた。伝馬制度は前述のとおり公用のためのものであったから、一般物資の輸送は街道では後回しにされた。武士の場合でも幕臣が優先されている。民間の運送業者、たとえば中馬(ちゅうま)などが成立して伝馬以外の手段が私用にあたった。1872年(明治5)に各街道の伝馬所、助郷(すけごう)が廃止された。」

とある。伝馬ではあっても、一般の貨物の輸送も行い、忙しい時には駆り出されたようだが、ここでは伝馬の鈴も鳴らない夜の間は辺りでは蛙が鳴き、それを聞きながら馬がゆっくり休んでいる。
 なお、駅の鈴は、『和漢朗詠集』に、

 漁舟火影寒焼浪。駅路鈴声夜過山。
 秋夜宿臨江駅 杜荀鶴

とある。
 「足ありと」の句は、

 牛の子に踏まるな庭のかたつぶり
     角のあればとて身をば頼みそ
               寂蓮法師(夫木抄)

の歌を踏まえて、カタツムリと違って蛙にはぴょんと跳ねる立派な足があるから、牛に踏まれることもない、とする。
 馬の蛙の声を聞きながらの、仕事に追われることのない穏やかな朝のけだるい雰囲気もさることながら、蛙の牛に踏まれることを心配し、気遣う「細み」も捨てがたく、引き分けとする。

 「第七番
   左
 僧いづく入相のかはづ亦淋し    朱絃
   右勝
 ほそ道やいづれの草に入蛙     紅林
   雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき、さ
   ながらに寂しく聞え侍れども、何れの草に入
   かはづ、と心とめたる玉鉾の右を以て、左の
   方には心よせがたし。」

 「雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき」は、『和漢朗詠集』の、

 蒼茫霧雨之晴初。寒汀鷺立。重畳煙嵐之断処。晩寺僧帰。
 閑居賦 張読

を踏まえたもので、ここでは入相の鐘ではなく、雨上がりの蛙の鳴き声に僧が帰るとする。古典の情を受けついて、「入相の蛙」と卑俗に落とすパターンだ。ただ、これだとオリジナルの「閑居賦」の情を越えられない。」
 「ほそ道や」の句が何で僧の句と並べられたのかというと、おそらく『和漢朗詠集』つながりで、

 帰谿歌鴬更逗留於孤雲之路。辞林舞蝶還翩翻於一月之花。
 今年又有春序 源順

と対にしたのであろう。鶯の孤雲之路の逗留を元にしながらも、細道の蛙は逗留する草すらないという哀れさで、羇旅の哀愁もあっての勝ちとする。

 「第八番
   左
 夕影や筑ばに雲をよぶ蛙      芳重
   右勝
 曙の念仏はじむるかはづ哉     扇雪
   左、田ごとのかはづ、つくば山にかけて雨を
   乞ふ夕べ、句がら大きに気色さもあるべし。
   右、思ひたへたる暁を、せめて念仏はじむる
   草庵の中、尤殊勝にこそ。」

 筑波の蛙というと蝦蟇の油の縁がある。ウィキペディアに、

 「ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというものである。「ガマ」とはガマガエル(ニホンヒキガエル)のことである。主成分は不明であるが、「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」という「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥(せんそ)には強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるものの、光誉上人の顔が蝦蟇(がま)に似ていたことに由来しその薬効成分は蝦蟇や蟾酥(せんそ)とは関係がないともいわれている。主成分については植物のガマの花粉「蒲黄(ほおう)」とする説やムカデを煮詰めた「蜈蚣(ごしょう)」、馬油とする説もある。」

とある。蝦蟇の油はこの頃からあったものの、あの有名な口上は、わりと最近の物とも言われている。江戸時代にあったかどうかはよくわからない。
 第一番の仙化の句の「蛙つくばふ」も、蛙と筑波の縁によるものと思われる。
 筑波山の雲は、

 君が代は白雲かかる筑波ねの
     峰の続きの海となるまて
               能因法師(詞花集)

の賀歌にも詠まれている。そのお目出度い筑波山の雲を、雨を欲しがる筑波山の蛙たちが呼んだものだとする。雨は農耕に欠かせぬもので、春の時期の雨は田植の水としても重要になる。
 蛙の声に筑波山の雨を呼び、豊年満作を願うスケールの大きさは認められる。
 これに対し暁の念仏は、

 ものをのみ思ひ寝覚め枕には
     涙かからぬ暁ぞなき
               源信明(新古今集)

の心か。この思いを断つために出家し、せめては草庵に念仏を唱える尼僧とする。
 神祇と釈教の対決ではあるが、ここでは本地たる釈教の勝利とする。

2022年4月16日土曜日

 今日は雨も止んでようやく晴れた。
 あちこちでツツジが咲き出した。
 今日は十六夜で満月は明日とのこと。
 ひょっとして人権派の人たちってポルノサイトを見ることってないのかな。男なら密かに見てると思うけど、ただ漫然と見るのではなく、あそこからも学ぶべきことはたくさんあると思う。
 まずは性的嗜好の驚くべき多様性だ。これを見れば、おっぱいの大きな女をドーンと出せば男どもはみんな興奮するなんてのは嘘だとわかるはずだ。おっぱいはその種の嗜好の人にしかアピールしない。
 昔は限られたポルノ媒体しかなかったから「選べない」ということもあったけど、これだけ選べるようになるとはっきりするのは、男の欲望がいかにピンポイントなものかということだ。
 無数にあるポルノビデオも、そのほとんどの物はすぐ見飽きてスルーするようになる。そのなかで、これは抜けると思う物は本当に少ない。同じようなシチュエーションで似たような女優を使っても、抜けるものと萎えるものがある。これは本当に不思議だ。
 まあ、普通に考えて、男の嗜好が多様でなかったなら、人類はとっくに滅んでいたね。どんな女性でもそれを好む男がいるから、人類はここまで増えてしまったんだ。
 昔の社会は女性が家同士で物として交換される社会だったから、そのための商品管理の必要があって、ステレオタイプ的な「女らしさ」というのが存在したのは事実だ。そういう時代は男どももこういうのが女だと洗脳されてたのかもしれない。
 ただ、ひとたび男の欲望が無数のポルノによって解き放たれてしまうと、こうしたステレオタイプへの興味が急速に失われてゆく。昔は人気アイドルは御三家だとか何とかトリオだとか言われて、ほんの一握りのアイドルに好みが集中していたが、いまは四十八人単位で無数のアイドルグループが存在する。
 メジャーなアイドルだけでなく、様々な地下アイドルが存在するし、アニメキャラでも今どき一人のヒーローやヒロインに好みが集中するなんてことはない。
 新聞の一面を巨乳キャラが飾ったとしても、ピンポイントにはまる人以外は皆スルーしている。逆に言えば、どんなキャラを使おうと、必ずピンポイントでそれに興奮する奴はいる。
 性的嗜好の開放が進めば、性の商品化も恐ろしく多様化し、様々なニッチなロングテール市場を形作る。この現実に人権派やフェミニストの人たちも、早く適応してほしいものだ。巨乳叩きは卒業しよう。

 それでは『蛙合』の続き。

 「第三番
   左勝
 きろきろと我頬守る蛙哉      嵐蘭
   右
 人あしを聞しり顔の蛙哉      孤屋
   左、中の七文字の強きを以て、五文字置得て
   妙なり。かなと留りたる句々多き中にも、此
   句にかぎりて哉といはずして、いづれの文字
   をかおかん。誠にきびしく云下したる、鬼
   拉一体、これらの句にや侍らん。右、足
   音をとがめて、しばし鳴やみたる、面白く侍
   りけれ共、左の方勝れて聞侍り。」

 嵐蘭の句は「我頬(わがつら)守る」の中七文字が生命だという。「我面」と書いた方が分かりやすいが、「つら」には単に顔というだけの意味ではなく、「つらを汚す」というように、体面という意味もある。
 「頬(ほほ)」だとすると、芥川龍之介の『芭蕉雑記』の中に、

 「芭蕉は北枝との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」と作品の自釈を却けてゐる。」

とあるが、「頬がまち」という場合は外面ではなく、その隠された部分という意味がある。
 頬は顔の輪郭を構成する重要な部分で、「頬歪む」は事実をゆがめるという意味を持つ。
 ただ、この場合は頬の字は当てるが「ツラ」を守るなので、体面を保つとか、体裁を取り繕うだとかそういうニュアンスがあるように感じられる。きろきろと鳴きながら顎を膨らませている姿は、どこか威張っているような印象を与える。
 「きろきろ」は蛙の鳴き声と思われるが、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「きろきろ」の解説」に、

 「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる) 目などの光るさま、また、落ち着きのない目つきを表わす語。
  ※狭衣物語(1069‐77頃か)三「おとどはよしな。嵯峨の院こそ、頭はきろきろと、恐ろしげなれ」

とある。この場合、発音は「ぎろぎろ」で、今でいう「じろじろ」ではないかと思う。
 ここでは単に蛙の鳴き声で、ケロケロ鳴きながら体面を保っている蛙ではないかと思う。
 哉は治定の哉で、単なるストレートな断定ではなく、「そうだろうか」と一度疑いならの「やはりそうだ」という主観的な断定になる。「我頬守る」は人間の側からの擬人化で、人間の側の感情の投影なので、単純な断定ではなく治定の「哉」がふさわしい。関西弁っぽく言えば「我が頬守ってんがな」だ。
 「鬼拉一体」は拉鬼体(らっきてい)で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「拉鬼体」の解説」に、

 「〘名〙 藤原定家がたてた和歌の十体の一つ。強いしらべの歌。のち、能楽の風体にも用いられた語。拉鬼様。→十体(じってい)②(ハ)。
  ※毎月抄(1219)「かやうに申せばとて必ず拉鬼躰が歌のすぐれたる躰にてあるには候まじ」

とある。鬼を拉(ひさ)ぐ、つまり鬼を押しつぶすということで、力で圧倒するような体をいう。
 例として定家は十二首の歌を掲げているが、その冒頭の歌は、

 ながれ木とたつ白波とやく塩と
     いづれかからきわたつみのそこ
               菅原道真(新古今集)

で、掛詞や縁語などの小細工がなく「いづれかからき」に力が込められている。
 孤屋の句は人が近づいてくる足音を知っているかのように、人が来るとかたっと鳴き止むという句で、あるあるネタとしてはわかるが、「人あしを聞しり顔」はわりと普通の言い回しで、「我頬守る」ほどのインパクトはない。「我頬守る」の勝ちになる。

 「第四番
   左持
 木のもとの氈に敷るる蛙哉     翠紅
   右
 妻負て草にかくるる蛙哉      濁子
   飛かふ蛙、芝生の露を頼むだにはかなく、花
   みる人の心なきさま得てしれることにや。つ
   まおふかはづ草がくれして、いか成人にかさ
   がされつらんとおかし、持。」

 氈(せん)は毛織の敷物のことで、花見のなどの時に貧乏人は筵を敷いて金持ちは毛氈を敷く。
 そのため「氈に敷るる」は「花みる人の心なきさま」の連想にすぐに結びついた。毛氈を敷く時に慌てて逃げて行く小さな蛙の姿が浮かんでくる。どことなく、庶民を蹴散らして行くお偉いさんの風姿のようにも見える。
 「妻負(おう)て」の句もそうやって逃げて行く蛙の姿で、生物学的に言うなら、上にいる方が雄であろう。古語だと「妻」は夫婦両方の意味があるから、どっちでもいいことではあるが。
 まあ、交尾の最中に邪魔されてそのまま逃げてゆくわけだが、古典の風雅の情としては、『伊勢物語』第六段の鬼一口であろう。絵に描く時には在原業平が女をおんぶして逃げる場面が描かれている。
 「いか成人にか探されつらん」は、見つかったら鬼一口だぞ、という意味だろう、そういう想像が膨らむ所でも、この句も捨てがたく、持ち、つまり引き分けになる。

 「第五番
   左
 蓑うりが去年より見たる蛙かな   李下
   右勝
 一畦はしばし鳴やむ蛙哉      去来
   左の句、去年より見たる水鶏かなと申さまほ
   し。早苗の比の雨をたのみて、蓑うりの風情
   猶たくみにや侍るべき。右、田畦をへだつる
   作意濃也。閣々蛙声などいふ句もたより
   あるにや。長是群蛙苦相混、有時也作
   不平鳴といふ句を得て以て力とし、勝。」

 蓑売はその言葉の意味は蓑を売り歩く人だが、どういう人たちだったのか、その実態はよくわからない。簑笠は田植の時の晴れ姿でもあるから、田植の前に売り歩くものなのだろう。
 簑笠が単なる雨具ではなく神具の意味があったとするなら、そういった関係者なのだろう。
 簑笠は田植だけでなく、竹植える日(旧暦五月十三日)の晴れ姿でもあった。

 降らずとも竹植うる日は蓑と笠   芭蕉

の句がある。
 その蓑笠売りが去年と同じように、売り歩く時に蛙を見るということで、別に同一個体という意味ではない。蛙の個体識別は無理だろうし。
 季節的には春の蛙だとやや早く、夏の水鶏(くいな)の方がふさわしかったのだろう。風情はあるが、そこが疵になる。
 「一畦は」の句も、蛙という題材ながら初夏の田植の頃を連想させるという意味で、「蓑売」の句と対になったのだろう。片方の田に人が入れば、その田だけ一枚、蛙の声が止む。
 「閣々蛙声」の句は『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』の注に、

 「円機活法二十四・蛙の箇所に「濮陽伝詩」として「閣閣の蛙声聞くべからず」をあげる」とある。
 その詩は蛙ではなく蜂の所に、

   濮陽傳詩
 過再花飛暮色殷 浮沉風遣月穿雲
 夜來魚卵乖春夢 閣閣蛙聲不可聞

とある。
 「長是群蛙苦相混、有時也作不平鳴」の句は蝶の所に、

 長是群蛙苦相混 乗時不羨雲溟樂 城邊鼾睡休驚醒
 有時也作不平鳴 口作儀同鼓吹聲 免使三軍動戦情

とある。
 蛙軍(かへるいくさ)は、

 歌軍文武二道の蛙かな       貞室

の句があり、歌を詠む蛙とともに俳諧のネタになっていた。
 蛙軍はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「蛙軍」の解説」に、

 「〘名〙 蛙が群集して、争って交尾すること。多くの蛙が戦っているさまに似ているところからいう。早春にアカガエル、ヒキガエルが行なう。がま合戦。蛙合戦。かわずいくさ。」

とある。
 去来の句もそのネタで、強いものが来ると軍は収まるが、その力の及ばない所で蜂起するという風刺を込めていたか。その寓意を取って勝ちとする。

2022年4月15日金曜日

 予報通り今日も雨だった。
 比村奇石さんの「月曜日のたわわ」はヤンマガWebで無料公開中だった。
 筆者はエルフ族保守派の方なので巨乳に思い入れはないが、巨乳も貧乳も一つの個性として、みんなありのままで楽しく生きられたらいいなと思う。
 世の男性が欲望丸出しにせずに、非暴力的で紳士的にふるまうことが大事で、これは見る男の方の問題で、巨乳だけを規制するのは間違っている。
 貧乳萌えもたくさんいて、貧乳に興奮する男もたくさんいるんだから、貧乳キャラも同じように規制するというならまだわかるが、巨乳だけを叩くのは間違っている。実際、胸が大きいというだけで公共広告に出られない女優がいたりしたら、それこそ差別というものだ。
 多様性とは巨乳も受け入れることだ。ドイツのユニフォームと一緒で、男性の目を規制するのではなく女性の側に不自由を強いるやり方は、西洋社会をイスラム化させるだけだ。

 春も弥生もはや半ばということで、芭蕉の記念碑的なあの句の発表された、あの『蛙合』でも読んでみようかと思う。
 古池の句自体は天和の終わり頃にできていたというが、これを発表するのにいろいろな準備があり、『野ざらし紀行』の旅で、江戸だけでなく中京や上方の俳諧師たちとも交流を持ち、十分勢力を広げた上での、満を持しての興行だった。
 『蛙合』のテキストは『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)による。
 ではその第一番

  「左
 古池や蛙飛こむ水のおと      芭蕉
   右
 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化
   此ふたかはづを何となく設たるに、四となり
   六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におく
   の品、をのをのあらそふ事なかるべし。」

 芭蕉の古池の句は支考の『葛の松原』によれば、おそらく天和二年の春、深川に隠棲してそれまでの桃青から芭蕉を名乗るようになった頃、「山吹や蛙飛こむ水の音」の形の句ができて、やがて上五を「古池や」として治定したという。
 山吹の蛙は古歌の趣向で、そこから思い浮かぶものは古歌の知識のなかの井出の玉川の蛙にすぎない。一部の歌枕を訪ね歩く数寄者以外は、どのような景色なのかはただ想像するしかない。
 これが「古池や」になると、誰もがそれぞれ記憶の中にある古池を思い浮かべることができる。田舎には農業用水を溜めておく池があり、また寛文・延宝の頃は新興商人が台頭し、その一方で没落する旧家も多かったし、武家でも廃藩・改易が続き、廃墟となった屋敷の古池もそれほど珍しいものではなかっただろう。
 こうした古池はどこか寂し気で、廃墟ともなればそれこそ幽霊が出そうな不気味な雰囲気もある。そんなところでじゃぼっという濁った水音がきこえて、一瞬ぎょっとすることもあっただろう。
 そういうわけで、古池の蛙の水音は当時の人にとって、幼少期の共通体験のような者を呼び起こす「あるある」だったのではなかったかとおもう。どこか懐かしく、どこか寂し気で、不気味な怖さも感じさせる、そんな原体験を呼び起こしたのではなかったかと思う。
 荒れ果てた古池はまた、古典の情にも通じている。それは『伊勢物語』第四段の、

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして
               在原業平

の歌で、

 「またの年の睦月に梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、ゐて見、見れど去年に似るべくもあらず。うち泣てあばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。

 月やあらぬ春や昔の春ならぬ
     わが身ひとつはもとの身にして

とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりにけり。」

と続く。
 春なのに昔と変わった姿に、目出度いはずの梅も月も涙を催すものになる。
 あるいは杜甫の春望のように、「時を感じては花にも涙を濺ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」の心にも通じる。
 古池の句はこうした個人体験と古典の悲しい場面を繋ぐもので、それが多くの人の感動させ、当時の身分の低いものや子供に至るまで、誰しも知らない者のないような大ヒットとなった。
 この時はまだそれがいよいよ発表されるという段階だったが、事前にこの句を知らされた門人たちは感動に打ち震え、これをとにかくいかに効果的に世に伝えるかに腐心することとなったのだろう。それがこの『蛙合』だった。
 実際に来られる門人だけでも集まって、公開の興行として行われたかもしれない。立ち会えた人は少なくても、噂口コミは馬鹿にならない。こうしたこともプロモーションとしては重要だったのではないかと思う。
 さて、句合なら、この古池の句と並べる句はといったとき、いくつか候補に挙がりながらも定まったのが、この、

 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化

の句だったのだろう。
 一見何でもないような句だが、「蛙つくば」という文字が隠されている。つまり連歌の準勅撰集『菟玖波集』『新撰菟玖波集』があり、その俳諧版として俳諧の祖と呼ばれる山崎宗鑑が編纂した『新撰犬筑波集』があったので、それに倣う形で、この『蛙合』を「蛙菟玖波集」としてアピールする意図が隠されていたのではないかと思う。
 この言葉遊びを別にしても、浮葉の上にいたいけに這いつくばう蛙の姿は可愛らしくも不安げで、そこにはあの蛙があたかも自分の姿であるような共感を誘う。こうした生命への共感と憐憫は、のちに「細み」と呼ばれるようになった。
 まあ、もっと大きく言うなら、人生というのはほんの小さな浮葉の上に漂うようなものだ、と言ってもいいかもしれない。死と無常の虚無の海に浮かぶほんのの小さな浮葉のような命。そう思えばこの句は十分古池の句と張り合える。
 この二句をつがわせた所で蛙合興行は始まる。この二句について勝ち負けの判定はない。

 「第二番
   左勝
 雨の蛙声高になるも哀也      素堂
   右
 泥亀と門をならぶる蛙哉      文鱗
   小田の蛙の夕ぐれの声とよみけるに、雨のか
   はづも声高也。右、淤泥の中に身をよごして、
   不才の才を楽しみ侍る亀の隣のかはづならん。
   門を並ぶると云たる、尤手ききのしはざな
   れども、左の蛙の声高に驚れ侍る。」

 雨の蛙というと、

 三稜草這う汀の真菰うちそよぎ
     蛙鳴くなり雨の暮方
               藤原定家(夫木抄)

の歌があり、室町時代の和歌になると、

 俄なる夏の雨風くもりきて
     木末の蛙こゑしきるなり
               正徹(草魂集)
 深小田に妻呼ぶ蛙雨降れば
     いとど惜しまぬ夕暮れの声
               肖柏(春夢草)

といった歌も出て来る。雨の蛙の声高はこうした流れの延長線上にあるもので、判定の言葉にある「小田の蛙の夕ぐれの声」は、

 折にあへばこれもさすがに哀れなり
     小田の蛙の夕ぐれの声
            藤原忠良(新古今集)

の歌は雨ではないが「さすがに哀れなり」の情を受け継いでいる。
 古典の王朝時代から中世和歌への引き継がれていった風雅の心を、「声高」という俗語で表す所に手柄があったといえよう。
 泥亀は「不才の才を楽しみ侍る亀」で、これは『荘子』秋水編の、

 莊子持竿不顧、曰「吾聞楚有神龜、死已三千歲矣、王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死為留骨而貴乎。寧其生而曳尾於塗中乎。」
 二大夫曰「寧生而曳尾塗中。」
 莊子曰「往矣!吾將曳尾於塗中。」

であろう。
 楚の国に祀られている神亀は死して三千年廟堂に保管されているが、この亀は死んで甲羅を残すよりも、むしろ生きて泥の中で尾を曳いていたかったのではないか、という荘周の問いに、二人の大夫が尤もだと同意したので、なら吾も泥の中で尾を曳いていよう、と仕官の話を断る場面だ。
 「不才の才」は無用の用と同じ言い方で、才能のないがために政争に巻き込まれずに永らえるという、隠士の心をいう。
 蛙もまたこの隠士たる亀を隣として、悠々と生きている、という句だ。「手利き」の句ではあるが、理に走って余生に乏しいということで、声高の句の勝ちになる。

2022年4月14日木曜日

 今日は雨、あしたも雨のようだ。
 でもまだ春は終わらない。何か楽しいことを考えよう。

 それでは『阿羅野』の暮春の発句の残り。

 あそぶともゆくともしらぬ燕かな 去来

 燕はいつもせわしく飛び回っているから、遊んでるのかどこか行こうとしているのかよくわからない。芭蕉のように一所不住の旅をする人の比喩かもしれない。

 去年の巣の土ぬり直す燕かな   俊似

 秋になると去って行き春になると戻ってくるツバメは、去年の巣が壊れていると修復してそこに棲む。これも何となく、久しぶりに我が家に戻った旅人に似ている。

 いまきたといはぬばかりの燕かな 長之

 ツバメは春に日本にやって来ると、すぐに繁殖期に入るため、すぐに相手を探すための囀りをする。それが「ただいま」の挨拶のように聞こえる。

 燕の巣を覗行すずめかな     長虹

 燕が巣に戻ってくると、雀がそれを覗きにきたかのように集まってくる。雀は集団でやって来てツバメの巣を乗っ取ったりするらしい。去年の巣が壊れてたのも犯人は雀か。
 燕と雀は「燕雀」と呼ばれ、小者の意味で用いられる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「燕雀」の解説」に、

 「① ツバメとスズメ。また、そのような小鳥。
  ※菅家文草(900頃)二・元慶三年孟冬八日、大極殿成畢、王公会賀之詩「燕雀先知聖徳包、子来神化莫二空抛一」
  ※史記抄(1477)一五「燕雀は人に馴れ近き者ぢゃほどに」 〔孔叢子‐論勢〕
  ② (陳渉が、小人物には英雄の志がわからないことを「燕雀安知二鴻鵠之志一哉」と嘆いたという「史記‐陳渉世家」の故事から) 狭量な人。小人物。
  ※凌雲集(814)高士吟〈賀陽豊年〉「寄レ言燕雀徒、寧知二鴻鵠路一」
  ※読本・椿説弓張月(1807‐11)拾遺「小ざかしき燕雀(ヱンジャク)の共囀(ともさへづ)り、汝等がしる所にあらず」

とある。「燕雀安(いづく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」という諺もある。

 黄昏にたてだされたる燕哉    鼠弾

 「たてだす」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「立出・閉出」の解説」に、

 「〘他サ四〙 しめ出す。人を外に出して門などをとじてしまう。〔羅葡日辞書(1595)〕
  ※浮世草子・好色産毛(1695頃)五「一間をみれば、影の男はたて出(ダ)されて、夕霧ばかりぞ目にみへける」

とある。

 燕鳴く軒端の夕日かけきえて
     柳に青き庭の春風
              花園院(風雅集)
 うつる日の夕陰遠し行き帰り
     燕鳴く野の道のはるくさ
              肖柏(春夢草)

の歌もあり、燕は夕暮れに詠まれる。宿に帰る燕からの連想であろう。ただ、そこは俳諧で、帰ってくると巣がなくなっていて閉め出されてしまう。

 友減て鳴音かいなや夜の雁    旦藁

 帰る雁とははっきり書かれてないが、帰る雁の句になる。

 北へゆく雁ぞ鳴くなるつれてこし
     数はたらでぞ歸るべらなる
              よみ人しらず
 この歌は、「ある人、男女もろともに人の國へまかりけり。男まかりいたりて、すなはち身まかりにければ、女ひとり京へ歸りける道に、歸る雁の鳴きけるを聞きてよめる」となむいふ」(古今集)

の心といえよう。

 角落てやすくも見ゆる小鹿哉   蕉笠

 鹿は春になると角が落ちて生え変わる。「やすく」は平穏という意味と「やすっぽい」という意味と両方に取れるが、ここはいかにも強そうな牡鹿が女鹿みたいになって、小鹿からすれば怖い大人がいなくなったということか。どこか緩んでいるように見える。

 なら漬に親よぶ浦の汐干哉    越人

 前句の鹿の縁で「なら漬」に展開する、といっても連句ではないが。
 奈良漬はウィキペディアに、

 「江戸時代に入ると、奈良中筋町に住む漢方医糸屋宗仙が、慶長年間(1596年 - 1615年)に、シロウリの粕漬けを「奈良漬」という名で売り出して評判となり、奈良漬けの言葉を広める。大坂の陣の時に徳川家康に献上して気に入られ、やがて医者をやめて江戸に呼び寄せられ幕府の奈良漬け担当の御用商人になった。奈良を訪れる旅人によって庶民に普及し、愛されるようになる。「奈良は春日(粕が)あればこそ良い都なり」といわれ、奈良は酒の産地で、奈良漬の発祥地ともなった。将軍徳川綱吉の時代、浅草の観音の門前で「奈良漬を載せたお茶漬け」が評判となり、大当たりした。やがて、瓜の粕漬から野菜の粕漬の総称となり、幕末の『守貞謾稿』後集巻1「香物」には「酒の粕には、白瓜、茄子、大根、菁を専らとす。何国に漬たるをも粕漬とも、奈良漬とも云也。古は奈良を製酒の第一とする故也。」とあり、銘醸地奈良の南都諸白から生まれる質のよい酒粕に負うところが大きいことが記されている。」

とある。
 大人の好むものだから、子供が親を呼ぶときに「奈良漬」を出しにする。

 おやも子も同じ飲手や桃の酒   傘下

 桃の酒は貝原好古の『日本歳時記』に、

 「三日桃花を取て酒にひたし、これをのめば病を除き、顔色をうるほすとなん。桃花を酒に浸さば、ひとへなる花を用べし。千葉の花を服すれば、鼻衂いでてやまずと本草に見えたり。」

とある。桃は不老不死の仙薬でもあり、桃の酒も長寿を願って飲むものだったのだろう。芭蕉がまだ伊賀にいた頃の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」六句目にも、

   けうあるともてはやしけり雛迄
 月のくれまで汲むももの酒    宗房(芭蕉)

の句がある。
 この桃の酒に限っては、子供、特に女の子が飲むことも許されたのだろう。

 人霞む舟と陸との汐干かな    友重

 舟や陸が霞むのは春なら普通で、古来和歌にも多く詠まれているが、潮干狩りの時には人もまた遠浅の浜で霞んで見える。

 山まゆに花咲かぬる躑躅かな   荷兮

 「山まゆ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「山眉」の解説」に、

 「〘名〙 山の端のほのかなさまを眉墨に、また、美しい眉を山の稜線に見立てていう語。
  ※藻塩草(1513頃)一六「山まゆ かすみのまゆ」

とある。和歌では「遠山眉」という言葉で、

 佐保姫のとほ山まゆもうす墨の
     夕ほのかにかすむ春かな
              正徹(草魂集)
 明けゆくか在明の月のほそくかく
     遠山まゆをみたす横雲
              同

など、正徹の和歌にも見られる。
 ツツジもまた山の夕暮れに詠むもので、

 入日さす夕くれなゐの色はえて
     山下てらすいはつゝじかな
              摂政家参河(金葉集)

の歌もある。山にツツジが咲いて華やぐとツツジの存在感が強すぎて、山眉のような仄かな感じにはならなくなる。

 朧夜やながくてしろき藤の花   兼正

 朧月の夜の薄明かりに、松などに何となく白くて長いものが掛かっているようにみえるが、それが藤の花だ。電気などのなかった時代には、夜の花はほとんど幽かにしか見えなかった。

 篝火に藤のすすけぬ鵜舟かな   亀洞

 鵜舟はかつては晩春にも行われていたか。篝火に藤の花が白く浮かび上がる。昔は自生する藤がどこにでも咲いていて、河辺でも普通に咲いていた。

 永き日や鐘突跡もくれぬ也    卜枝

 昔は不定時法だから、日が長くなったら入相の鐘を撞くのも遅くなるものだが、ついつい習慣で早く打ってしまうのだろう。

 永き日や油しめ木のよはる音   野水

 「油しめ木」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典「油搾木」の解説」に、

 「〘名〙 果実や種子などを圧搾して、油をしぼり取る器械。あぶらしめ。
  ※仮名草子・尤双紙(1632)「かしましき物の品々〈略〉あぶらしめぎの音」
  ※思ひ出(1911)〈北原白秋〉柳河風俗詩・ふるさと「なつかし、沁みて消え入る 油搾木(アブラシメギ)のしめり香」

とある。
 植物油の圧搾絞りは重労働なので、日が長いとやがて疲れてきて、音も弱くなってゆく。

 行春のあみ塩からを残しけり   野水

 アミの塩辛は韓国ではキムチの原料になるが、日本ではご飯のお供か、酒の肴にするくらいだった。
 秋から冬にかけて大量に獲れるアミは塩辛にして保存するが、春も終わる頃になっても食べきれずに残っていたりしたのだろう。

2022年4月13日水曜日

 福島は二〇一九年十一月三日以来だった。二年五か月ぶり。放置された家が並んでいたところの多くは更地になり、新しい家や店ができた所もあった。六号線もアコーディオンフェンスがほとんどなくなり、黒いフレコンパックもほとんど見なくなった。夜の森の桜並木も解放され、ゆっくりとではあるが復興は進んでいる。
 ウクライナも、たとえロシア軍を追い出すことに成功したとしても、復興には何年もかかるんだろうな。
 まあ、世界のみんなで協力して助けて行かなくてはいけないな。
 我々の盾になって犠牲になったのを忘れてはならない。ウクライナは盾の勇者だ。アメリカやNATOの剣と槍と弓に見放された盾。日本は人権のないただのモブだし。
 まあ、ロシアと戦えないなら、まずは国内にいる独裁支持者と戦うしかないが。
 もうそろそろみんな気付いてもいいんじゃないかな。世界平和と核のない世界を実現するには、独裁国家をどうにかしなくてはいけないということに。
 国際条約で独裁体制を禁止し、世界から独裁国家が撲滅されるまで、自由主義国家が一丸となって集団的自衛権を行使し、対抗しなくてはならない。
 アメリカが世界の警察をやめてモンロー主義の時代に戻りたいなら、アメリカ抜きで、環太平洋の集団防衛体制を作り上げる必要がある。集団的自衛権が現行憲法の解釈の範囲内であれば、憲法改正の必要もない。
 TPPがアメリカ抜きでできたのだから、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本を軸としたアメリカ抜きの環太平洋版NATOも可能だろう。
 アメリカ抜きなら反米思想の人たちも取り込めるのではないか。台湾や香港も独立すればみんな仲間だ。
 いくら第三次世界大戦を望まないと言っても、独裁国家がそれを望む限り避けられない。ならば迎え撃つ以外の選択肢はない。最後は剣と槍と弓と盾とモブが揃って戦うことになる。

 それでは引き続き『阿羅野』の発句で暮春の句をみてみよう。

   暮春

 何の気もつかぬに土手の菫哉   忠知

 菫はどこにでも咲いているが、小さくて目立たなくて見落としがちな花でもある。
 日本の菫はスミレとツボスミレが古来和歌に詠まれてきた。スミレは葉が長く花は濃い紫、ツボスミレは葉が丸くて花は白に近い紫。今は西洋スミレ(ニオイスミレ)と交雑して、概ね葉の丸いものが多く、色は白や濃淡の紫など様々で二色咲きのものもあったりする。
 西洋のニオイスミレも食用やハーブとして用いられるが、日本でも昔は食用になっていたので、

 春の野にすみれ摘みにとこし我ぞ
     小野なつかしみ一夜寝にけり
              山部赤人(続古今集)

の歌もある。
 ツボスミレは、

 道とほみいる野の原のつぼすみれ
     春のかたみに摘みてかへらん
              源顕国(千載集)
 春雨の布留の野道のつぼすみれ
     摘みてをゆかむ袖はぬるとも
              藤原定家(続後拾遺集)

の歌がある。
 芭蕉も貞享二年の『野ざらし紀行』の旅の途中に、「何となくなにやらゆかしすみれ草」の句を詠んで、五月十二日の千那宛書簡には改作して、

 山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

の句を詠んでいる。
 和歌ではスミレを山に詠まないという指摘もあったようだが、実際は、

 箱根山うす紫のつぼすみれ
     ふたしほみしほ誰か染めけむ
              大江匡房(堀河百首)
 老いぬれば花の都にありわびて
     山にすみれを摘まむとぞおもふ
              永縁(堀河百首)
 色をのみ思ふべきかは山の辺の
     すみれ摘みける跡をこひつつ
              寂蓮法師(寂蓮無題百首)
 とふ人は主とてだに来ぬ山の
     懸け路の庭に咲くすみれかな
              藤原為家(夫木抄)
 きぎす鳴く山田の小野のつぼすみれ
     標指すばかりなりにけるかな
              藤原顕季(六条修理大夫集)

などの歌がある。
 菫はどこにでも咲いているから、山路にも咲けば土手にも咲いている。何気なしにそれに気づいた時、何か得したような、豊かな気持ちになる。

 ねぶたしと馬には乗らぬ菫草   荷兮

 旅の道筋であろう。馬上で居眠りすると落馬する危険があるので、実際問題としてあまり眠いなら歩いた方が良い。とはいえ眠くなるのは、電車に乗って座ると眠くなるようなものか。
 歩けば馬上からはよく見えなかった菫草が近くでよく見えるようになる。
 芭蕉の『笈の小文』の旅の、

 歩行ならば杖つき坂を落馬哉   芭蕉

の句を思い浮かべたのかもしれない。杖ついて歩くから山路の菫にも目が留まる。

 ほうろくの土とる跡は菫かな   野水

 ほうろくは焙烙で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典「焙烙・炮烙」の解説」に、

 「① 素焼の平たい土鍋。米・豆・塩などを炒(い)るのに用いる。昔、船中で婦人の便器に利用されることもあった。
  ※杜詩続翠抄(1439頃)八「土 ほうろく也、蜀之俗多用之也」
  ※蓼喰ふ虫(1928‐29)〈谷崎潤一郎〉一四「うちでは除虫菊を炮烙(ハウロク)へ入れてくすべることにしてゐるんでね」

とある。素焼きの鍋を作るのに用いる土を採取する現場は荒れ地になり、木はもとより背の高い草もなくて、こういう所には春になると菫が一面に咲いてたりする。

 昼ばかり日のさす洞の菫哉    舟泉

 洞に籠る修行僧も日の射す所に咲いた菫に心を慰められるのだろう。菫は「棲む・澄む」に通じ、「墨染の衣」のイメージもある。

 草刈て菫選出す童かな      鷗歩

 この頃も菫を食用にしていたのか、雑草を刈る時に、刈った中から菫を選り分けるのは子供の仕事になる。

 行蝶のとまり残さぬあざみ哉   燭遊

 アザミの花にはやってきた蝶が必ず止まってゆく。アザミは蝶に限らず、昆虫がよく集まるという。

 麦畑の人見るはるの塘かな    杜国

 春になると麦の葉が伸びて、畑は青々としている。田んぼにはまだ人はいないが、麦畑には仕事をしている人が見える。

 はげ山や朧の月のすみ所     式之

 春の月は朧に霞、澄んではいない。そんな朧月だけど、はげ山だと遮るものがないので、心なしか月が澄んでいるように見える。

 霞む夜の月の桂も木間より
     光を花とうつろひにけり
              藤原為家(宝治百首)

のように、和歌では朧月は木の間に詠むことが多い。
 「澄む」と「住む」の掛詞はお約束。はっきりと分かる掛詞の例は、

 ささ浪や国つ御神のうらさびて
     ふるき都に月ひとりすむ
              藤原忠通(千載集)

があるが、山に「すむ」月も概ね「澄む」と「住む」に掛けている。
 あるいは「はげ」は出家者の坊主頭のことで、坊主だから霞む月も澄んで見えるということか。

 ほろほろと山吹ちるか滝の音   芭蕉

 貞享五年(一六八八年)の春、『笈の小文』の旅で芭蕉が杜国とともに吉野の花見に行った時の句で、吉野の西河(にじつこう)で詠んだ句。
 西河は吉野の東側を流れる音無川で蜻蛉(せいれい)の滝がある。
 吉野は古代の錬金術の地でもあるから、散った山吹の流れる水は、さながら黄金の水のようでもある。
 「ちるか」の「か」は「かな」と同じ。治定の切れ字。

 松明に山吹うすし夜のいろ    野水

 昔の夜は街の灯りが空に反射したりしないから、今とは比べ物にならないくらい真っ暗だった。松明を焚いても、花はうっすらとしか見えない。うっすらと見える山吹の花は闇の中に黄金の輝きを放つ。

 山吹とてふのまぎれぬあらし哉  卜枝

 昔は春の胡蝶というと黄蝶のことを指すことが多かった。蕪村にも、

 ばうたんやしろがねの猫こがねの蝶 蕪村

の句がある。
 嵐が吹いて蝶が山吹の中で風を凌いでいると、どれが山吹でどれが蝶やら。

 一重かと山吹のぞくゆふべ哉   襟雪

 山吹は一重のものと八重のものがある。

 七重八重花はは咲けども山吹の
     みの一つだになきぞあやしき
              兼明親王(後拾遺集)

の歌は、「蓑」を借りようとして断られるエピソードとしてよく知られている。
 華やかな八重山吹が昼の太陽なら、一重の山吹はどこか物悲しげな夕日のようでもある。

 とりつきてやまぶきのぞくいはね哉 蓬雨

 山吹は水辺で詠むことも多いが、岩根にも咲く。

 さもこそは岩根におふる花ならめ
     くちなし色ににほふ山吹
              郁芳門院安芸(久安百首)
 暮れはつる春の名残ををしとだに
     えやはいはねの山吹の花
              小倉公雄(続千載集)


の歌もある。「岩根」は「言はね」に掛けて用いられるが、発句の方はこうして伝統的な言い回しではなく、「とりつきて」という俗語の描写で岩根の山吹を表現している。