2021年10月7日木曜日

 今日は朝から小雨が降った。
 岸田さんの言う「新しい資本主義」は、よくわからない外国の人は、何かとんでもないことやるんじゃないかと不安になるかもしれない。韓国の失敗のことが頭をよぎったなら、大丈夫と言っておきたい。
 はっきり言って今の日本でそんな大きく変わることはない。基本的にいわゆる新自由主義と言われた規制緩和、民営化、小さな政府の流れは変わらないと思う。もちろんグローバル市場に干渉を強めるようなことはしないはずだ。
 六月に出された「新たな資本主義を創る議員連盟」設立趣旨という短い文章ならネット上で読むことができる。この議員連盟には安倍前首相、麻生太郎副総理兼財務相、甘利明税制調査会長も参加していて、基本的にアベノミクスの延長線上にあることは明らかだ。
 この設立趣旨の冒頭にはこうある。

 「近年、国内外において、成長の鈍化、格差拡大、一国主義・排他主義の台頭、国家独占経済の隆盛など、「資本主義」の価値が揺らいでいる。」(設立趣旨より)

 「成長の鈍化」はIT革命の大きな波が去った後の鈍化だから、これは当然ながら新たな破壊的イノベーションで解決することになる。
 「格差拡大」は資本主義の進展によってもたらされる豊かさから取り残された人たちの救済であり、何らかの「分配」へと向かうことになる。
 「排他主義の台頭、国家独占経済の隆盛」は言うまでもなく中国の一国資本主義のことで、当然ながら欧米の自由主義諸国との連携の強化ということになる。
 この中で一番問題になるのは「分配」をどうするかだ。

 「その結果、適切な「分配」政策の欠如が起こっている。
 従業員、顧客、取引先、地域社会といった多様な主体へ適切な分配がなされず、「人」や「社会」を豊かにする資本主義の役割と寛容性が失われている。供給サイドにおけるイノベーションの重要性は論を俟たないが、同時に、イノベーションによってもたらせた利益が適切に分配され、消費力・購買力という需要サイドの強化が実現しなければ、持続的な経済成長は実現できない。
 更に、資本主義の対象が 20 世紀型の「モノ」から「コト」へ、情報・データ等にシフトすることで、資本主義は一層近視眼化するとともに集中・独占が起こりやすくなっている。
 そして、利益や効率・合理性一辺倒の資本主義は、少数意見の尊重やプロセス・説明責任の重視といった民主主義の重要な側面の希薄化にも間接的に繋がっている。
 こうした現状を打破するため、我々は、新たな資本主義の形として、「人的」資本を大切にする「人財資本主義」、更に多種多様な主体に寛容な「全員参加資本主義」を実現しなければならない。」(設立趣旨より)

 ばら撒きを期待してた人は残念でした、だね。「人財資本主義」「全員参加資本主義」がここでの「分配」の問題への答えになる。つまり簡単に言えば有能な人材に対して十分な報酬を与え、人材の発掘や登用に差別をなくすということだ。何のことない、安倍政権が掲げてきた「一億総活躍社会」の継承に他ならない。

 「何よりも、分配政策の強化が不可欠ある。企業利益のより適切な分配、大企業と中小企業との間の分配の適正化、企業内での人的資本投資の促進、教育費や住宅費負担軽減のための支援、子育て・家庭支援の強化などを図らねばならない。また、非正規雇用の増加と賃金の伸び悩みが起こる中で、働き方改革やセーフィテネットの見直しが必要である。」(設立趣旨より)

 分配は政府が増税して低所得者に金をばら撒くと言った種のことではないのは、ここからも明らかだ。企業が従業員や下請け業者に適切な利益の配分を行うというのがまず第一になる。
 同時に、企業は従業員に働きやすい環境の提供をしなくてはならない。「教育費や住宅費負担軽減のための支援、子育て・家庭支援の強化などを図らねばならない」の前には「企業内での」と書いてある。新しい資本主義は企業風土の改革に尽きると言ってもいい。

 「また、資本主義本来の多様性や寛容性を確保するため、女性活躍政策などをより一層推進するとともに、情報やデータの独占に対する適切な競争政策の実現が求められる。」(設立趣旨より)

とあるように、女性の活用が盛り込まれている。ここにLGBTや障害者の活用も盛り込んでくれても良かったのだが残念だ。
 基本的に正月に読んだ夫馬賢治さんの『ESG思考』にあったような「ニュー資本主義」に近いものであろう。筆者としては「新しい」だとか「ニュー」だというのは曖昧で何をやろうとしているのかがはっきりと伝わらないばかりか、胡散臭い印象を与えてしまうので、「持続可能資本主義」という呼び方をしている。
 今これを読むと、自民党内では次期首相は岸田というのが、この会合の時点で決まってたのかもしれない。
 これだと逆に、何も変わらないかと思うかもしれないが、変わるとすれば成長戦略の方だと思う。

 さて、だいぶ雑談で話し込んでしまったが、風流の方に戻ろう。
 延宝七年の秋には、似春と四友が上方へ旅立つ時の送留別三吟百韻二巻興行がおこなわれている。「須磨ぞ秋」の巻と「見渡せば」の巻の二巻が巻かれている。
 その「須磨ぞ秋」の巻の十八句目、

   又や来る酒屋門前の物もらいひ
 南朝四百八十目米        桃青
 (又や来る酒屋門前の物もらいひ南朝四百八十目米)

は芭蕉の得意な経済ネタとも言える。
 この句は杜牧の有名な「江南春望」という詩の一句をもじったものだ。

   江南春望   杜牧
 千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中

 千里鶯鳴いて木の芽に赤い花が映え
 水辺の村山村の壁酒の旗に風
 南朝には四百八十の寺
 沢山の楼台をけぶらせる雨

 「四百八十目米」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、「一石四百八十匁前後。飢饉で米が四百八十匁もして、酒屋の門前に乞食が集る。」とある。
 匁は重さの単位であり、通貨としては銀の重さの単位になる。六十匁が大体一両だから四百八十匁は金八両になる。
 ウィキペディアの「江戸時代の三貨制度」のところに、

 「また『銀20匁』など下一桁が0である場合、『銀20目』と表すのが一般的であった。」

とあるから、「四百八十目」は四百八十匁ということになる。
 米一石は約百五十キロとされている。ウィキペディアの「米価」のところの「『日本史小百科「貨幣」』『近世後期における物価の動態』を基に作成した銀建による米価の変遷」によると、延宝の頃の米価は一石五十から八十匁、吉宗の時代に二百三十匁まで跳ね上がったのが最高値で、それからすると一石四百八十匁はありえないようなべらぼうな値段になる。
 七十一句目のこの空想趣味もなかなかだ。

   夢はやぶれて杖と草履と
 しにはづれ此頃の礼お門まで   桃青
 (しにはづれ此頃の礼お門まで夢はやぶれて杖と草履と)

 死ぬと冥土の旅のために杖と草履を棺桶に入れる。
 ところがまだ生きていて墓から抜け出し、杖と草履をお寺の門のところまで返しに行く。
 前句の「夢はやぶれて」は実際に死んでないから仮死状態の時に夢を見てたのだろう。いわゆる臨死体験とかで、花のの向こうに川があってそこにご先祖様が立っていて、懐かしさに涙をこぼすと、「まだここに来ては駄目だ」とか言われてはっと目が覚める、といったところだろう。
 目が覚めると棺桶の中で杖と草履が副葬されている。そんな物語が浮かんでくる。
 七十五句目は古典趣味と現実感覚が入り混じる。

   秋風起て出るより棒
 気違を月のさそへば忽に     桃青
 (気違を月のさそへば忽に秋風起て出るより棒)

 ここでいう気違いは今でいう精神病者ではなく、謡曲『三井寺』に出てくるような「物狂ひ」であろう。

 「月の誘はばおのづから」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.40001-40002). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とあるように、月夜に鐘を搗くような狂乱物のパターンを踏まえている。
 ただ、現実には棒でもって取り押さえられる、というのが落ちになる。
 八十七句目は歴史ネタ。

   茶の湯の古道跡は有けり
 太閤の下駄一足や残るらん    桃青
 (太閤の下駄一足や残るらん茶の湯の古道跡は有けり)

 千利休が大徳寺三門(金毛閣)に雪駄履きの木像を楼門の二階に置いて、それが楼門をくぐる秀吉の頭を踏みつけるみたいだということで、利休の切腹の原因になったと言われている。
 ここでは雪駄を下駄にして、太閤を踏んだ下駄一足が茶の湯の古道の跡として残っている、とする。
 九十四句目は囲碁ネタ。当時は天才棋士で後に棋聖と呼ばれた本因坊道策の登場で、巷でも囲碁ブームが巻き起こっていた。

   薄情かかりがましき若いもの
 黒手にはねてころすはころすは  桃青
 (黒手にはねてころすはころすは薄情かかりがましき若いもの)

 前句の「かかり」を囲碁の相手の石の近くに打つ「かかり」とし、黒の手が伸びてきたらその先をはねて殺しにゆく。
 九十七句目。

   蝦蟇鉄拐や吐息つくらむ
 千年の膏薬既に和らぎて     桃青
 (千年の膏薬既に和らぎて蝦蟇鉄拐や吐息つくらむ)

 千年の膏薬は前句の蝦蟇を受けての蝦蟇の油のことであろう。ウィキペディアには、

 「ガマの油の由来は大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職であった光誉上人の陣中薬の効果が評判になったというものである。「ガマ」とはガマガエル(ニホンヒキガエル)のことである。主成分は不明であるが、「鏡の前におくとタラリタラリと油を流す」という「ガマの油売り」の口上の一節からみると、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌される蟾酥(せんそ)ともみられる。蟾酥(せんそ)には強心作用、鎮痛作用、局所麻酔作用、止血作用があるものの、光誉上人の顔が蝦蟇(がま)に似ていたことに由来しその薬効成分は蝦蟇や蟾酥(せんそ)とは関係がないともいわれている。」

とある。
 蝦蟇の油が効いて傷口もふさがり、蝦蟇も鉄拐も安心して一息つく。
 囲碁ネタは「見渡せば」の巻の四十九句目にもある。

   又なげられし丸山の色
 片碁盤都の東花ちりて      桃青
 (片碁盤都の東花ちりて又なげられし丸山の色)

 前句の丸山は丸山仁太夫という当時有名だった力士のことだが、ここでは京の東の地名とし、京の街を碁盤に見立てて、「なげられし」を投了のこととする。
 右辺の白の大石が死んでしまったのだろう。
 芭蕉の空想は心中ネタにも及ぶ。
 「見渡せば」の巻の六十二句目。

   不心中世にまじはりて何かせん
 君が喉笛我ほてつぱら      桃青
 (不心中世にまじはりて何かせん君が喉笛我ほてつぱち)

 君は喉笛を搔っ切って勝手に死に、われはぼってっ腹を抱えて生き残って心中は成立しなかった。こんな不心中でどうやって生きていけばいいのか。
 男も流石に赤子がいるので殺せなかったのだろう。
 九十句目。

   鉢一ッ万民これを賞翫す
 けんどむ蕎麦や山の端の雲    桃青
 (鉢一ッ万民これを賞翫すけんどむ蕎麦や山の端の雲)

 「けんどむ蕎麦」は「けんどんそば」でコトバンクの「世界大百科事典内のけんどんそばの言及」に、

 「…江戸初期のそば屋は,三都とも菓子屋から船切り(生のそばを浅い矩形の箱に並べたもの)を取り寄せて使う店が多かった。1664年(寛文4)に〈けんどんそば切り〉が売り出され,4年後にははやりものの一つに数えられるまでになった。けんどんそばの元祖については,瀬戸物町信濃屋と堀江町二丁目伊勢屋との説があるが,吉原の江戸町二丁目仁左衛門とするのが正しい。…」

とある。
 一人分をあらかじめ分けて盛ってあって、給仕をせずにそのまま各自取って食べられたことが人気になったという。ファストフードの元祖ともいえよう。各自の鉢に入った蕎麦は万民に好まれた。
 「けんどん」は慳貪/倹飩で、ケチという意味と邪険という意味があり、おかわりができないという意味ではケチで、給仕をしないという意味では邪険だった。「つっけんどん」もこの「けんどん」から来ているという。
 九十九句目も当時のグルメネタから。

   八盃豆腐冬ごもる空
 俤のおろし大根花見して     桃青
 (俤のおろし大根花見して八盃豆腐冬ごもる空)

 八盃豆腐はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 豆腐を細長く切って煮た料理。煮出し汁が水四杯、だし二杯、醤油二杯の割合であったので八杯と名づけたとも、豆腐一丁で八人前とれたので名づけたともいう。八杯。〔浮世草子・風俗遊仙窟(1744)〕」

とある。昔の豆腐は今よりも堅かったのかもしれない。
 冬だけど真っ白なおろし大根を花に見立てて、八盃豆腐で冬籠りする。

2021年10月6日水曜日

 今日は生田緑地まで歩いた。夏に着た時とは鳥の声が違う。と言っても鳥の声に詳しいわけではないが、画眉鳥は申し訳程度に鳴いていたが、以前のけたたましさはない。
 金木犀がオリーブの仲間だというのを昨日初めて知った。日本の金木犀は雄木ばかりで挿し木で増やしているから、オリーブのような実がならないらしい。
 そういうわけで、今日から旧暦九月、晩秋。時が経つのが早い。
 真鍋さんのノーベル賞受賞ということで、そういえば子供の頃から地球温暖化のことが言われてたような気がする。ただ両論併記が義務付けられているせいか、かならず地球が小氷河期に入っているという説がセットになっていた。
 まあ、両論併記だから、ワクチンのニュースが出ると反ワクの主張がセットになるのか。ただ、両論併記をやめるというと反ワク一色のキャンペーンをやりかねないからこれでいいのだろう。今のマス護美が両論併記をやめたら、革命の扇動へ一直線に邁進しそうだ。
 まあ、それはそうと、元禄六年冬の「生ながら」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 元禄六年秋に芭蕉はお世話になっている小沢太郎兵衛得入(卜尺)や、おそらくその周辺の人達と歌仙一巻を興行する。
 その卜尺だが、十五句目で、

   精進あげの三位入道
 かかと寝て花さく事もなかりしに 卜尺
 (かかと寝て花さく事もなかりしに精進あげの三位入道)

と、「かかあと寝て何が嬉しいんだ」といかにもオヤジの言いそうなことだ。
 前句の「精進あげ」は精進の期間が終わっての肉・酒・性の解禁だから、最後の「性」を付ける。

 埋木の花咲くこともなかりしに
     身のなる果はあはれなりけり
               源頼政
という辞世の歌で、埋もれた木のように花さくこともなかった身を嘆く歌だが、それを本歌にしての付けになる。
 談林流の作法には従っているが、何とも品がない。
 ちなみに源三位の妻は源斉頼女(源斉頼の孫娘)だが、菖蒲御前という側室もいた。
 続く十六句目は、

   かかと寝て花さく事もなかりしに
 又孕ませて蛙子ぞなく     紀子
 (かかと寝て花さく事もなかりしに又孕ませて蛙子ぞなく)

 これは貧乏人の子沢山ということか。
 まあ、浮気するほどの金もなければ、男としてももてもせず、というところでせっせとかかあ相手に子作りに励み、あちこちで子供が泣いている。
 蛙子は「あこ」とも読めるので、「吾子」と掛けているのだろう。
 庶民のありがちなリアルな世界ではあるが、猥談の域を出るものではない。
 この二句の後、十七句を目芭蕉が付けるわけだが、その句は、

   又孕ませて蛙子ぞなく
 鶯の宿が金子をねだるらむ   桃青
 (鶯の宿が金子をねだるらむ又孕ませて蛙子ぞなく)

で、二句続いたオヤジギャグをどう収めるかというところだ。
 「鶯の宿」は、

 勅なればいともかしこしうぐひすの
     宿はと問はばいかが答へむ
            よみ人知らず(拾遺集)

という出典がある。これは御門の命令で梅の木を持ってかれてしまったときに、その家の女主人が木にこの歌を結び付けておいて、それを読んだ御門が梅の木を返すという物語だ。
 桃青の句の場合は、金子(きんす)を持って行こうとする亭主に女房が、「ほら、蛙子が泣いてるでしょ」とたしなめる場面にする。
 蛙と鶯は古今集仮名序の「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」の縁もある。
 前の二句を何とか人情ネタで、夫の浪費を戒める方向で収めている。
 こうした句は談林の一面ではあるが、そこからどう脱却していくかという所で、芭蕉の『次韻』へ向けての試行錯誤が続く。
 杉風との両吟百韻「色付や」の巻は年次がはっきりしないが、この頃と思われる。
 ただ、三十八句目では

   見わたせば雲ははがれて雪の峯
 松のふぐりに下帯もなし     桃青
 (見わたせば雲ははがれて雪の峯松のふぐりに下帯もなし)

と芭蕉もシモネタをやっている。
 松ぼっくりのことを昔は松ふぐりといった。「ふぐり」は金玉のことで、『新撰犬筑波集』でもさんざん言い古されたネタだが、あえてここで来るかという感じだ。
 富士山に松の木は近代の銭湯の壁にもよく描かれる定番だが。三保の松原のイメージだ。
 それにまた杉風も、

   松のふぐりに下帯もなし
 またもをかしう磯うつ浪の子安貝 杉風
 (またもをかしう磯うつ浪の子安貝松のふぐりに下帯もなし)

と続け、ふぐりに子安貝と下ネタで応じる。
 この巻はやはり伏字を使った、九十四句目、

   六度まで渡かねたる橋越て
 よしなき    千万      杉風
 (六度まで渡かねたる橋越てよしなき    千万)

の句に、九十五句目

   よしなき    千万
 夢なれや    夢なれや    杉風
 (夢なれや    夢なれやよしなき    千万)

と杉風が二句続けた場面だろう。興行の席では面白さの伝わりにくい、本にして、テキストとして読んだときの面白さを狙ったという点では、のちの『次韻』につながるものだ。
 延宝六年の秋から冬にかけて、松島行脚から戻る途中の京の春澄を迎えて、「のまれけり」の巻、「青葉より」の巻、「塩にしても」の巻という桃青、似春、春澄の三吟歌仙三巻を巻くことになる。
 その中で「青葉より」の巻の八句目で、

   淀鳥羽も鏡のかげに見えたりや
 やよ時鳥天帝のさた       春澄
 (淀鳥羽も鏡のかげに見えたりややよ時鳥天帝のさた)

の句があった。
 「天帝」に「ダイウス」の仮名が振ってある。デウス(deus, Deus)の訛ったもの。かつて下京区菊屋町のあたりに松原だいうす町、上京区堅富田町にだいうすの辻子があったという。
 淀、鳥羽という伏見の地名から、そこのホトトギスまでが南蛮の遠眼鏡で見えるということか。
 遠眼鏡は天和三年其角編の『虚栗』にも、

 富士の月戎には見せじ遠眼鏡   疎言

があるし、元禄九年の桃隣が金華山を旅した時の句にも、

 水晶や凉しき海を遠目鑑     桃隣

の句がある。
 この句に対し、芭蕉はこう付ける。九句目。

   やよ時鳥天帝のさた
 鶯の不受不施だにも置ぬ世に   桃青
 (鶯の不受不施だにも置ぬ世にやよ時鳥天帝のさた)

 「不受不施」はウィキペディアに、

 「不受不施派(ふじゅふせは)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から施し(布施)を受けたり、法施などをしないという不受不施義を守ろうとする宗派の総称である。」

 「寛文5年(1665年)、受派の策謀を受け、幕府は、全国の寺社領朱印地に、「敬田供養」の名目で朱印の再交付し、受領書を出すよう迫ったほか、翌年には飲水や行路も「敬田供養」の一環であると主張して不受不施派に圧力をかけた。「施しを受けないこと」を宗旨とする不受不施派はいずれも拒否した。さらに、寛文9年(1669年)、幕府は不受不施派に対しては寺請を禁じ、完全に禁制宗派とした。なお、一部のグループは、幕府が寺領を宗教的布施である「敬田」と言っても、実際は道徳的布施である「悲田」に過ぎず、これを受けても問題ない、と解釈して幕府と妥協した。これが「悲田派」や「恩田派」と呼ばれる「軟派」である。この「軟派」の立場に立ったのが、小湊の誕生寺などであった。」

とある。
 元は豊臣秀吉(とよとみのひでよし)の方広寺大仏殿の千僧供養に反発したところに端を発したようだ。その後、徳川幕府にも不受不施を主張し、寺領を幕府から与えられた土地とすることを拒否した。いわば寺領を幕府の権力の及ばぬ治外法権として認めさせようとしたといってもいいだろう。
 寛文九年に幕府が寺請を禁じたのは、幕府に従わないならそれによって得ている寺の特権も認めないというもので、これによって寺としての存続が危機になる。そのため寺領を幕府からの布施であっても実質的には貧者・病人などを憐れんでの人道的支援なので問題はないとする悲田派が現れるに至った。
 同じ弾圧を受けたダイウスの徒に掛けて、鶯の鳴き声の「法華経」から不受不施派の置く(存続する)ことを許さぬ世に、ましてや時鳥のように稀なダイウスの徒は、となる。
 芭蕉に限らず俳諧師やそのほかの芸能の人たちの間にも、中世的な公界を幕府が潰してきたことに反発があったのではないかと思う。田舎わたらいをしながら自由に生きてきた遊女を遊郭の中に閉じ込めたことに関しても風流人としては放置できぬ問題で、いわゆる心中物の芝居もその文脈で詠む必要がある。それが元禄期までの風流の根底にあったといえよう。
 「塩にしても」の巻の七句目では、

   高う吹出す山の秋風
 ふらすこのみえすく空に霧晴て  桃青
 (ふらすこのみえすく空に霧晴て高う吹出す山の秋風)

と、フラスコという当時は珍しかったものをもちいて秋の景色を詠んでいる。
 フラスコというと今の日本では理科の実験に使うガラス容器だが、本来は実験に関係なく、ポルトガル語でガラス容器一般をさす言葉だった。
 山の秋風に霧が晴れてフラスコのように向こう側が見えるようになった、とする。
 二十二句目の、

   幽霊は紙漉舟にうかび出
 さかさまにはひよる浅草の浪   桃青
 (幽霊は紙漉舟にうかび出さかさまにはひよる浅草の浪)

の句は「紙漉舟にうかび出」に「浅草の浪」が付く。
 この浅草は浅草紙のことで、コトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代に、江戸・浅草山谷(さんや)付近で生産された雑用紙。故紙を原料とした漉(す)き返し紙で、普通は色が黒く、黒保(くろほう)とよばれて鼻紙や落し紙に広く使われた。また、漉き返す前に石灰水で蒸解し直したものは色が白く、白保(しろほう)と称して低級本の用紙にも使用された。佐藤信淵(のぶひろ)の『経済要録』(1827)に、「江戸近在の民は、抄(すき)返し紙を製すること、毎年十万両に及ぶ」とあるように、れっきとした製紙産業の一つであった。庶民の日常生活に欠かせないものであったため、江戸時代の川柳などにもよく出てくる。明治以後この地が繁華街となるにつれて、製紙業は周辺の地に分散移転したが、さらに洋式の機械製紙が地方で盛んになるにつれ、手漉きの零細業者はしだいに転廃業して跡を絶った。しかし浅草紙の名は、形や産地が変わってもなお長く庶民に親しまれている。[町田誠之]」

とある。
 「幽霊」には「さかさまにはひよる」が付く。
 江戸時代の幽霊は時として頭が下で足が上のさかさまの姿で現れたようだ。延宝五年刊の『諸国百物語』巻之四「端井弥三郎ゆうれいを舟渡しせし事」の幽霊も逆さの姿で現れる。
 二十五句目は経済ネタと突飛な空想が結びついたもので、

   聖天高くつもるそろばん
 帳面のしめを油にあげられて   桃青
 (帳面のしめを油にあげられて聖天高くつもるそろばん)

 帳面の締めで利益が上がるのと白絞油で天ぷらが上がるのとを掛けて、待乳山聖天のように高く利益が積もり積って、天ぷらも積み上げられる。

2021年10月5日火曜日

 今日も晴れ。五月十日にも行った薔薇の咲いてる公園(荏子田太陽公園)へ行ってみた。秋薔薇は咲き初めでちらほらと咲いていた。
 旧暦八月も今日で終わり。明日からは晩秋。平和だね。鈴呂屋は平和に賛成します。
 岸田政権はアベノミクスにしがみつく勢力が不安に思うのは無理ないと思う。一体どの方向に行くのか、今の時点では予測しがたい。岸田政権の評価は来年になってから確定するのではないかと思う。そこで不満が噴出して細田派が離反すると、やはり一年かな。
 まあ、マス護美と左翼政党は自民党の誰がなっても同じことを言い、同じことをする。まずはスキャンダル探しだろう。総裁選の頃からマスコミを意識して発言がぶれているのも気になる。

 延宝五年冬に芭蕉(桃青)、素堂(信章)に京から来た信徳を加えて「あら何共なや」の巻百韻を巻き、続けて六年春に「さぞな都」の巻、「物の名も」の巻百韻を興行し、延宝四年の「奉納貳百韻」と合わせて『桃青三百韻 附両吟二百韻』が刊行される。
 まずは「あら何共なや」から、まずは四句目。

   居あひぬき霰の玉やみだすらん
 拙者名字は風の篠原       桃青
 (居あひぬき霰の玉やみだすらん拙者名字は風の篠原)

 霰と言えば、

 もののふの矢並つくろふ籠手の上に
     霰たばしる那須の篠原
              源実朝(金槐和歌集)

の歌がある。霰の玉を飛び散らすというので、名字は篠原、人呼んで風の篠原、となる。抜刀術の名手のようだ。
 こういうありそうな架空の人名を作ってしまう付け方は、元禄の時代になってもしばしば見られる。
 二十二句目は金メッキをネタにしている。

   花の色朱鞘をのこす夕まぐれ
 いつ焼つけの岸の欵冬      桃青
 (花の色朱鞘をのこす夕まぐれいつ焼つけの岸の欵冬)

 「焼つけ」はメッキのことで欵冬は「やまぶき」と読む。前句の夕暮れの桜が赤く染まって朱鞘のようだというのに応じ、黄金色の山吹の花はいつ金メッキをしたのかという意味になる。
 なお、めっきの技術についてはウィキペディアに、

 「日本へは仏教とともに技術が伝来したといわれている。1871年に偶然発見された仁徳天皇陵の埋葬品である甲冑(4~5世紀頃)が日本最古である可能性(埋葬者は仁徳天皇と確定していない)があるが、甲冑は埋め直しが行なわれたため現存していない。」

とある。また、エキサイト辞書には「平凡社 世界大百科事典」の「鍍金」の項目が載っていて、

 「アマルガム鍍金は江戸時代に書かれた《装剣奇賞》によると,その一つは,器物の表面をよく磨き,梅酢で洗浄し,砥粉(とのこ)と水銀を合わせてすりつけた上に金箔を置き,火であぶることを2,3度くりかえす箔鍍金法である。もう一つは,灰汁でよく器物を煮,その上を枝炭や砂で磨き,梅酢で洗ったのち,金粉と水銀をよく混合したアマルガムを塗布し,熱を加えると水銀が蒸発し金だけが表面に残る。これを2度ほどくりかえし,鉄針を横にしてこすり,刷毛で磨き,緑青で色上げする方法である。上代では後者に近い方法がとられたものと推定される。アマルガム鍍金は水銀を蒸発させるときに生ずるガスが有害で,人畜の皮膚や呼吸を冒すばかりでなく生命も危険である。平安時代以降には,素地の表面に水銀を塗り,金箔をはって箔を焼きつける技法もあらわれた。また水銀有毒ガスの危険を免れるため,そして鍍金と同様の効果をあげるため,漆で金箔を付着させる漆箔法が塗金法として開発されている。」

とある。
 二十八句目は、

   双六の菩薩も爰に伊達姿
 衆生の銭をすくひとらるる    桃青
 (双六の菩薩も爰に伊達姿衆生の銭をすくひとらるる)

前句の双六を浄土双六ではなくギャンブルに用いる盤双六に転じる。今でいうバックギャモンと同系のゲームで、『鳥獣人物戯画』では猿が双六盤を担いでいる。
 菩薩が伊達姿で賭場を開いて、衆生救済どころか、衆生の銭を掬い取る。桃青ならではなシュール展開になる。
 シュールと言えば八十二句目の、

   雲助のたな引空に来にけらし
 幽霊と成て娑婆の小盗       桃青
 (雲助のたな引空に来にけらし幽霊と成て娑婆の小盗)

 空中に漂っているということで前句の雲助を幽霊とした。ただ、雲助はこの頃からいかにも小盗みをしそうなならず者というイメージだったようだ。
 八十八句目はシュールな部分とリアルな部分とが共存している。

   米袋口をむすんで肩にかけ
 木賃の夕部風の三郎        桃青
 (米袋口をむすんで肩にかけ木賃の夕部風の三郎)

 木賃宿はウィキペディアに、

 「本来の意味は、江戸時代以前の街道筋で、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠の意味である。宿泊者は大部屋で、寝具も自己負担が珍しくなく、棒鼻と呼ばれた宿場町の外縁部に位置した。食事は宿泊客が米など食材を持ち込み、薪代相当分を払って料理してもらうのが原則であった。木賃の「木」とはこの「薪」すなわち木の代金の宿と言うことから木賃宿と呼ばれた。」

とある。
 米持ち込みだが、旅ともなるとさすがに米俵ではなく、何日分かの米を入れる米袋があったのだろう。
 風の神のことを昔は「風の三郎」といったらしく、宮沢賢治の『風の又三郎』もそこから来ているという。何で風の三郎というかについてはよくわからない。
 ウィキペディアの「風神」の所には、

 「第3義には、江戸時代の日本にいた乞食の一種で、風邪が流行った時に風邪の疫病神を追い払うと称して門口に立ち、面をかぶり鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして金品をねだる者、すなわち「風神払/風の神払い(かぜのかみはらい)」を指す。」

とあり、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、

 「③ こじきの一種。江戸時代、風邪がはやった時、風の神を追い払うといって、仮面をかぶり、太鼓を打って、金品をもらい歩いた者。風の神払い。」

とある。この風の神払いが木賃宿に泊まる分には現実にいかにもありそうなことだが、「風の三郎」とすることで、風の神様が木賃宿に泊まるという幻想が生まれる。
 九十七句目は謡曲の言葉を用いた句で、

   畠にかはる芝居さびしき
 この翁茶屋をする事七度迄     桃青
 (この翁茶屋をする事七度迄畠にかはる芝居さびしき)

の「七度迄」は謡曲『白髭』の、

 「翁答へて申すやう、われ人寿、六十歳の初めより、この山の主として、この湖の七度まで、蘆原になりしをも、正に見たりし翁なり。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.9255-9259). Yamatouta e books. Kindle 版.より)

の一節から来ている。
 本地垂迹に基づいた近江白髭神社の起源をテーマにした能で、蘆原中つ国に住む翁を描いた部分になる。仏法に帰依し白髭の神となる。
 句の方は老人が芝居が来るたびに芝居茶屋を七度やって、そのたびに芝居が去ると畠に戻るのが淋しいとする。

 「さぞな都」の巻の十五句目は衆道ネタになる。

   二人のわかの浪人小姓
 竹馬にちぎれたり共此具足    桃青
(竹馬にちぎれたり共此具足二人のわかの浪人小姓)

 「ちぎれたり共此具足」の言葉は謡曲『鉢木』の、

 「鎌倉に御大事あらば、ちぎれたりともこの具足取つて投げかけ、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの 馬に乗り、一番に馳せ参じ着到につき」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.61046-61050). Yamatouta e books. Kindle 版. )

から来ている。いわゆる、「いざ鎌倉」の場面だ。
 前句の浪人小姓はどこの若様に仕えているか知らないが、それでも竹馬の友でもあり契りを結んでいる。「ちぎれたり」を「契る」と掛けて用いている。
 二十四句目。

   眉を取袖ふさがする花薄
 野風もいまは所帯持なり     桃青
 (眉を取袖ふさがする花薄野風もいまは所帯持なり)

の句は、前句の眉を抜いて振袖の袖を短くして脇を塞いで、いわゆる既婚者の姿になった「花薄」というところから、花薄の夫は野風だとする。
 「花薄」に「野風」は付け合いだが、「眉を取袖ふさがする」「所帯持なり」で雅と俗が並行した展開になるが、この方法でも幻想を生み出せる。
 六十句目の展開の仕方もこれに似ている。

   しなひ打大夜着の裏おもて迄
 鞍馬僧正床入の山        桃青
 (しなひ打大夜着の裏おもて迄鞍馬僧正床入の山)

 ウィキペディアの鞍馬天狗のところに、

 「鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、鞍馬山の奥の僧正が谷に住むと伝えられる大天狗である。別名、鞍馬山僧正坊。」

とあるように、鞍馬僧正は鞍馬天狗のこと。
 大夜着の持ち主は巨漢の鞍馬天狗だった。鞍馬天狗が床に入った姿は巨体な人間山脈のようだ。
 前句の「大夜着」に「床入」は普通の展開だが、そこに鞍場天狗を持ち出すことで幻想が生まれる。
 布団を山に喩えるというと、後の元禄九年になるが、

 ふとん着て寝たる姿や東山    嵐雪

の句がある。

 「物の名も」の巻の二十九句目。

   凡命は赤土の露
 いつまでか砲碌売の老の秋    桃青
 (いつまでか砲碌売の老の秋凡命は赤土の露)

 砲碌売(はうろくうり)は焙烙売のこと。焙烙(ほうろく)はウィキペディアに、

 「低温で焼かれた素焼きの土器で、形は底が平たく縁が低い。茶葉、塩、米、豆、銀杏などを炒ったり蒸したりするのに用いる。特に「焙烙蒸し」とよばれるときもある。また、宝楽焼の鍋としても用いられる。ゴマを煎る時などに使われる、口縁部が窄まり把手の付いたものは「手焙烙」と呼ばれる。」

とある。赤土で焼いた焙烙を売る老人の命は、その赤土の露となる。
 前句の赤土から焙烙売、露の命から老いの秋と付けているこの時代の物付けの句だが、それでもどこか後の蕉風の「さび」を感じさせる。
 三十二句目は思いもかけぬ古典への展開をする。

   駒とめて下踏打叩く雪の暮
 東坡が小者竹の一村       桃青
 (駒とめて下踏打叩く雪の暮東坡が小者竹の一村)

 雪の暮から蘇東坡が出て来るのは、蘇東坡の「又不見雪中騎驢孟浩然 皺眉吟詩肩聳山」によるものであろう。
 孟浩然が馬に乗り、東坡は従者となって孟浩然の下駄の雪を竹の棒で叩く。それを「東坡が小者」と言い放つ辺りが俳諧だ。
 三十五句目は金襴緞子から紅葉の錦という古典への連想によるものだが、

   緞子のそめ木しみのさす迄
 土用しれ山は紺地の青あらし   桃青
 (土用しれ山は紺地の青あらし緞子のそめ木しみのさす迄)

と夏の山を紺地に喩えて、展開する。
 「青あらし」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「青嵐(せいらん)」を訓読した語) 初夏の青葉を吹き渡る風。《季・夏》
  ※梵燈庵主袖下集(1384か)「青嵐、六月に吹嵐を申也。発句によし」
 〘名〙 青々とした山気。また、新緑の頃、青葉の上を吹きわたる風。薫風。あおあらし。
  ※和漢朗詠(1018頃)下「夜極浦の波に宿すれば、青嵐吹いて皓月冷(すさま)じ〈慶滋為政〉」
  ※平家(13C前)三「青嵐夢を破って、その面影も見えざりけり」 〔呂温‐裴氏海昏集序〕」

とある。
 染物つながりで青嵐で紺地に染まった山を土用干しして、やがて秋になれば紅葉して金襴緞子に染まって行くというわけだが、「土用しれ(土用干ししろ)」と力強く咎めてにはを用いる。
 普通なら緞子の紅葉の錦に紺地まで思いつくのが精いっぱいの所だろう。そこを「青嵐」「土用干し」それを咎めてにはに、とどこまで頭の回転が速いんだと思わせる句だ。
 四十四句目の

   木賊色の狩衣質に置し時
 貧報神の社見かぎる       桃青
 (木賊色の狩衣質に置し時貧報神の社見かぎる)

は狩衣から神主さんの連想で付けるが、神主さんが狩衣を質に入れてどこかへ行ってしまったまでは誰でも思いつきそうだ。ここにもう一つ、その神社は貧乏神の神社だったという所までもう一ネタ付け加える。
 七十四句目は経済ネタだが、それだけにとどまらない。

   銭の文字一分もまださだまらず
 掟のかはる六道の月       桃青
 (銭の文字一分もまださだまらず掟のかはる六道の月)

 幕府が寛永通宝を発行し、渡来銭や私鋳銭を禁止たことによって六道輪廻に必要な三途の川の六文銭にも使えなくなった。軽く風刺を込めている。

2021年10月4日月曜日

 今日もいい天気になった。今年は金木犀が二度咲いてあちこちで良い香りがする。一回目は九月の十日過ぎに咲いて、十八日の台風で散った。
 午後からはCat's Meow Booksへ行った。久しぶりの東京だ。
 コロナは収まり新政権が誕生し、好材料がたくさんあるのに、恒大が何もかも台無しにしている。

 では昨日の続き。
 芭蕉と素堂による第二百韻の「梅の風」の巻の第三は、いきなり倹約令へ挑戦しているかのようだ。

   こちとうづれも此時の春
 さやりんず霞のきぬの袖はえて  桃青
 (さやりんず霞のきぬの袖はえてこちとうづれも此時の春)

 「さやりんず」は『校本芭蕉全集 第三巻』の注に紗綾綸子とある。紗綾形綸子(さやがたりんず)のことで、コトバンクの「世界大百科事典内の紗綾形綸子の言及」に、

 「…日本では,桃山時代ころからの染織品の模様に多く用いられている。ことに江戸時代には綸子(りんず)の地文はほとんどが紗綾形で,これに菊,蘭などをあしらったものが,紗綾形綸子として非常に多く行われた。今日でも,染織品の地模様としてひろく用いられている。…」

とある。「紗綾形」は同じくコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「卍(まんじ)つなぎの一種で,卍をななめにつらねた連続模様。紗綾(さや)は4枚綾からなる地合の薄い絹織物。その地紋に用いられたのでこの名があるという。この系統の模様は名物裂(めいぶつぎれ)に多くみられ,おそらく明時代の中国から伝わったものであろう。日本では,桃山時代ころからの染織品の模様に多く用いられている。ことに江戸時代には綸子(りんず)の地文はほとんどが紗綾形で,これに菊,蘭などをあしらったものが,紗綾形綸子として非常に多く行われた。」

とある。
 紗綾形綸子の絹を着て二人ともこの世の春を謳歌している。
 さらに次の四句目では信徳(素堂)が、

   さやりんず霞のきぬの袖はえて
 けんやくしらぬ心のどけき    信章
 (さやりんず霞のきぬの袖はえてけんやくしらぬ心のどけき)

と応じる。
 江戸時代はたびたび倹約令が出て、武士以外は絹は禁止で紬(つむぎ)までだった。そういう意味では「さやりんず」は挑発的な言葉だが、本当に着てたかどうかは知らない。
 まあとにかく、紗綾形綸子を着て倹約令なんて知っちゃこたねえ、心は長閑なもんだ、と突っ張って見せる。
 さらに畳みかけるように素堂(信徳)の挑発は続く。
 五句目。

   けんやくしらぬ心のどけき
 してここに中比公方おはします  信章
 (してここに中比公方おはしますけんやくしらぬ心のどけき)

 公方様、つまり将軍様なら倹約令は関係ない。さぞのどかだろうなと皮肉る。
 ただ、今の公方様と思われてはいけないから、一応「中比(なかごろ)」とことわっておく。「あまり遠くない昔」という意味で、今の公方様ではないというところで言い逃れしている。
 なお、この言い回しは謡曲『安宅』の、

 「ここに中頃・帝おはします。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.63977-63978). Yamatouta e books. Kindle 版. )

から来ているもので、謡曲の言葉の使用は延宝期に盛んに用いられていくことになる。
 芭蕉の六句目はさらにこの挑発に追い打ちをかける。

   してここに中比公方おはします
 かた地の雲のはげてさびしき   桃青
 (してここに中比公方おはしますかた地の雲のはげてさびしき)

 「かた地の雲」は漆塗りの雲形肘木(くもがたひじき)で、中ごろの公方様のいたところも今は漆が剥げてさびしいもんだ、と追い打ちをかける。
 「雲」は「雲居(皇居)」や「雲上人」を連想させる。あるいは天皇を差し置いて政治を行っている武家を風刺していたのかもしれない。
 謡曲の言葉や趣向を用いる句は、九句目にすぐに現れる。

   趣向うかべる船のあさ霧
 いかに漁翁心得たるか秋の風   桃青
 (いかに漁翁心得たるか秋の風趣向うかべる船のあさ霧)

 これは謡曲『白楽天』の、

 「いかに漁翁、さてこの頃日本には何事を翫ぶぞ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.12790-12792). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とそのあと少し離れた所にある、

 「いでさらば目前の景色を詩に作つて聞かせう。青苔衣をおびて巌の肩にかかり、白雲帯に似て山の腰を囲る。 心得たるか漁翁。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.12810-12815). Yamatouta e books. Kindle 版. )

によるものだ。
 白楽天が漁翁に向かってこういうふうに目の前のもので詩を詠むんだ心得たか、と問い、明け方の松浦で「青苔衣をおびて巌の肩にかかり、白雲帯に似て山の腰を囲る」の趣向をうかべる。
 「秋の風」は謡曲『白楽天』とは関係ないが、前句の「あさ霧」にそれを吹き払う「秋の風」と応じたもので、ここでも「朝霧」「秋の風」と「趣向うかべる船」「いかに漁翁心得たるか」との並行が見られる。
 十五句目は、

   糞擔籠きよし村雨の空
 夕陽に牛ひき帰る遠の雲     桃青
 (夕陽に牛ひき帰る遠の雲糞擔籠きよし村雨の空)

の句で、夕陽は「ゆうよう」と読む。
 肥を撒き終わった百姓さんの肥たごも村雨にきれいになり、牛を引いて帰る頃には雨も上がって雲も遠のき、夕陽が射す。後の蕉風を思わせるようなこういう句も、既にこの時代に現れている。
 三十二句目の謡曲のフレーズを用いている。

   世の中よ大名あれば町人あり
 柳は緑かけは取がち       桃青
 (世の中よ大名あれば町人あり柳は緑かけは取がち)

 「柳は緑」は「柳緑花紅真面目」という蘇東坡の詩の一節で禅語になっているが、謡曲『山姥』で、

 「仏あれば衆生あり・衆生あれば山姥もあり。柳は緑、花は紅の色色。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.89910-89912). Yamatouta e books. Kindle 版. )

というふうに用いられている。
 「世の中よ大名あれば町人あり柳は緑」はここでは序詞のようなもので、緑から「かけは取がち」を導き出すわけだが、掛売は取り立てた者が勝ちということだ。
 逆を言えば逃げられれば負けで、実は借りた方の立場の方が強い。貸し手はデフォルトが怖いからそれを利用しない手はない。これは大名でも町人でも、現代の債務国でも変わらない真理だ。
 三十九句目は「貞徳翁十三回忌追善俳諧」の「ならで通へば無性闇世 宗房」の系譜を引くものであろう。

   地ごくのゆふべさうもあらふか
 飛蛍水はかへつてもえあがり   桃青
 (飛蛍水はかへつてもえあがり地ごくのゆふべさうもあらふか)

 夕べと蛍は白楽天『長恨歌』の「夕殿蛍飛思悄然」の縁。
 蛍の光を燃え上がる炎に称えるのは、和歌に見られるもので、

 さつきやみ鵜川にともす篝火の
     數ますものは蛍なりけり
             よみ人しらず(詞花集)
 蘆の屋のひまほのぼのとしらむまで
     燃えあかしてもゆくほたるかな
             源俊頼(千載集)

のように、川の篝火にも喩えられる。
 蛍は水辺にすむところから、普通の火なら水で消えるのに蛍の火は水で燃え上がるとする。水が燃え上がれば地獄のようだ。
 言葉の表には現さないが、蛍には燃え上がる恋の炎を象徴するもので、地獄は愛欲の地獄になる。
 四十五句目は謡曲の言葉を用いている。

   白むくそへて粟五十石
 田舎寺跡とぶらひてたび給へ   桃青
 (田舎寺跡とぶらひてたび給へ白むくそへて粟五十石)

 謡曲『源氏供養』に、

 「わが跡弔ひてたび給へと」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.33825-33826). Yamatouta e books. Kindle 版. )

という用例があえい、『実盛』の最後にも、

 「影も形もなき跡の、影も形も南無阿弥陀仏、弔ひてたび給へ跡弔ひてたび給へ。」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.18239-18242). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。他にも謡曲のエンディングによく用いられる。
 「たびたまふ」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典に、

 「①お与えくださる。
  出典曾我物語 一
  「男子(なんし)にてましませば、わらはにたびたまへ」
  [訳] 男子でいらっしゃいましたならば、私にお与えください。
  ②〔動詞の連用形、または、それに「て」の付いた形に付いて〕…てくださる。▽補助動詞的に用いる。
  出典隅田川 謡曲
  「さりとては乗せてたびたまへ」
  [訳] どうか(舟に)乗せてください。◆「たまふ」は、ほとんど命令形「たまへ」が用いられる。
  なりたち 動詞「たぶ」の連用形+尊敬の補助動詞「たまふ」

とある。田舎の寺に、後を弔ってくださいと白無垢に粟五十石を寄進する。「たび給えへ」という謡曲の決まり文句が面白くて作ったような句だ。
 九十四句目はシュールな方の芭蕉の句だ。

   上々新蕎麦面もふらず切て出
 大根の情たちかくれけり     桃青
 (上々新蕎麦面もふらず切て出大根の情たちかくれけり)

 そばを切っている脇では、蕎麦の敵を討とうと大根の精が隠れている。多分返り討ちにあって下ろされることになる。
 これは「徒然草六十八段、大根の精が出て敵を追払うた話あり」に元ネタがある。

 「筑紫に、なにがしの押領使(あふりやうし)などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおほね)を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづゝ焼きて食ける事、年久しくなりぬ。
 或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵(かたき)襲ひ来りて、囲み攻けるに、館の内に兵(つはもの)二人出で来て、命を惜まず戦ひて、皆追返してンげり。いと不思議に覚えて、「日比ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼て、朝な朝な召しつる土大根らに候」と言ひて、失(うせ)にけり。
 深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。」

という話だが、大根を食ってる方が大根の敵なのではないか。

2021年10月3日日曜日

 昨日の夜は夕立があった。朝は晴れている。
 子供の頃、遠足で学校から歩いて行った名もなき山の方へ行った。東名高速のすぐ脇だったという曖昧な記憶しかないが、今でも山は残っている。ただ、柵がしてあり入口はアコーディオン・フェンスがあって入れなかった。
 山を真っ二つにして東名高速を通したような場所で、向かい側の山は道路になっていて眺めが良い。
 東京のコロナの新規感染者数も二日続けて二百人を切り、このまま適度な自粛をもう少し続けて行けば、第一次コロナ大戦も終戦にならないかな。甘いか。
 あと、元禄六年冬の「寒菊や」の巻「雪や散る」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 では昨日の続き。
 延宝三年夏に宗因に逢うこともでき、次の年の春には芭蕉(桃青)と素堂(信章)だけで天神様で奉納貳百韻興行を行う。前年の興行も大徳寺で行われていたが、この頃の俳諧興行は寺社で行うことが多かった。広い会場を選ぶことで、おそらく興行は公開されてたのではないかと思う。
 江戸には三大天神というのがあって、湯島天満宮、亀戸天神社、谷保天満宮のことだが谷保はもとより亀戸も遠いので、おそらく会場は湯島天満宮であろう。
 公開での興行となれば、句を付けあぐねて詰まってしまう場面は観客に見せられない。観客を飽きさせないためにもスピード感が重視される。このライブでのスピード感の行き着くところは、西鶴の矢数俳諧だった。ただ、芭蕉はその方向には向かわなかった。
 とはいえ、延宝四年春の奉納貳百韻興行は公開された可能性が大きい。二百韻もおそらく一日で興行されたのではないかと思う。
 第一百韻は、

 此梅に牛も初音と鳴つべし     桃青

の句で始まる。
 天神様は菅原道真公で梅に縁がある。それに加えて前年やって来た宗因は「梅翁」とも呼ばれていた。この梅翁に続けとばかりに鈍重な牛である我々も負けずとここで興行を行うことにする。
 牛は天神様の神使でもある。宗因流を引き継ぐという決意の一句だった。
 五句目の、

   酢味噌まじりの野辺の下萌
 摺鉢を若紫のすりごろも      桃青
 (酢味噌まじりの野辺の下萌摺鉢を若紫のすりごろも)

の句は、

 春日野の若紫の摺り衣
     しのぶの乱れかぎり知られず
               在原業平

の歌を本歌としている。
 若菜を酢味噌に混ぜて摺り鉢で摺り潰し、ペーストを作っているのだろう。鉢を染める色が昔の原始的な摺り染めの衣のような荒っぽい模様を描いている。
 延宝八年の、

 柴の戸に茶を木の葉掻く嵐かな   桃青

の趣向にも通じるものがある。この発句の方は、風で吹き集められた木の葉は抹茶を立てるときのようだという句だ。
 十五句目は、

   森の下風木の葉六ぱう
 真葛原ふまれてはふて逃にけり   信章
 (真葛原ふまれてはふて逃にけり森の下風木の葉六ぱう)

で、前句の「森の下風」に「真葛原」という古典の趣向で繋ぐ一方で、「木の葉六方」に「踏まれて這ふて逃にけり」という俗を並行して付ける、宗因から学んだ付け方だ。
 「木の葉六方」は木葉武者と六方者のことで、木葉武者は取るに足らない武士、今でも「こっぱ役人」という言葉は残っている。
 「六方者」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「万治(まんじ)・寛文(かんぶん)年間(1658~73)を中心に江戸市中を横行した男伊達(だて)。六法者とも書く。大撫付髪(おおなでつけがみ)、惣髪(そうはつ)、茶筅髪(ちゃせんがみ)に、ビロード襟の着物などを着て、丈も膝(ひざ)のところぐらいまでにし、褄(つま)を跳ね返らせ、無反(むそり)の長刀を閂(かんぬき)に差し、大手を振って歩いた。このかっこうから六方者という名称がおこったといわれる。御法(ごほう)(五法)を破る無法者(六法者)の意味ともいう。また旗本奴の六法組の者とも、旗本奴の六団体の総称ともいうが、いずれも明確ではない。ことばもなまぬるいことを嫌って六方詞(ことば)という特殊語を使い、博奕(ばくち)、喧嘩(けんか)、辻斬(つじぎ)りなど傍若無人にふるまった。[稲垣史生]」

とある。
 木の葉は風に吹き散らされ、六方は「六方を踏む」というと歌舞伎狂言の所作を意味する。
 江戸も寛文年間にはこういう連中が闊歩していたが、延宝から元禄に掛けて世の中が安定してくるといつの間にいなくなっていったか。
 元禄五年の「洗足に」の巻の頃にはせいぜい単羽織を着て粋がってる連中がいて、

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる      芭蕉

というところだったか。芭蕉の現実的な方がよく表れている。
 二十七句目の、

   かみなりの太鼓うらめしの中
 地にあらば石臼などとちかひてし  桃青
 (地にあらば石臼などとちかひてしかみなりの太鼓うらめしの中)

の句は、白楽天の『長恨歌』の一節、

 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝
 (天に在りては願はくば比翼の鳥と作り、地に在りては願はくば連理の枝と為らん)

のパロディーのになっている。

 在天願作雷太鼓 在地願為石碾臼
 (天に在りては願はくば雷の太鼓と作り、地に在りては願はくば石臼と為らん)

というところか。
 太鼓は雷様に寄り添い、碾き臼は上臼と下臼を重ねて摺り合わす。
 これは芭蕉の豊かな想像力がよく表れている。
 四十七句目。

   ももとせの餓鬼も人数の月
 大無尽世尊を親に取たてて     桃青
 (大無尽世尊を親に取たててももとせの餓鬼も人数の月)

 大無尽は頼母子講をいみする「無尽」のさらに大掛かりなものという意味で、なにしろそれは世尊(お釈迦様)のやる頼母子講だから、そんじょそこらの普通の無尽ではない。
 「頼母子講」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。」

とある。
 ここではお釈迦様(世尊)が大勢の餓鬼から金を集めて頼母子講をやっていると、芭蕉お得意のシュールな空想で展開する。
 六十二句目の、

   照つけて色の黒さや侘つらん
 わたもちのみいら眼前の月     桃青
 (照つけて色の黒さや侘つらんわたもちのみいら眼前の月)

は怪奇趣味と言ってもいい。この頃は百物語などの怪談が流行した時期でもあった。
 「わた」は腸(はらわた)のこと。ミイラにはなっているけど腸(はらわた)は損なわれていない。だから月を見ても我が身の色の黒さに悩み、断腸の思いになる。
 六十四句目では一転して現実のシリアスな問題を提起する。

   飢饉年よはりはてぬる秋の暮
 多くは傷寒萩の上風        桃青
 (飢饉年よはりはてぬる秋の暮多くは傷寒萩の上風)

 「傷寒」は腸チフスなどを指す場合もあるが、古くからある傷寒論で論じられていたのは発熱を伴う病気を広く表す傷寒で、風邪やインフルエンザなどを指していたと思われる。おそらく今日の新型コロナも傷寒の一種なのだろう。ウィキペディアに、

 「傷寒には広義の意味と狭義の意味の二つがある。 広義の意味では「温熱を含めた一切の外感熱病」で、狭義の意味では「風寒の邪を感じて生体が傷つく」ことで温熱は含まれない。」

とある。
 飢饉で死ぬ人の多くはこうした傷寒で、餓死する人よりも多かったりした。餓死する前に、体が衰弱した時点で傷寒にかかって死んでいたのだろう。
 ここでも「秋の暮」「萩の上風」という雅の文脈と、「飢饉年よはりはてぬる」「多くは傷寒」という俗の文脈が並行している。
 この平行法はこの後もしばらく続く。

 飢饉年よはりはてぬる秋の暮    信章
   多くは傷寒萩の上風      桃青
 一葉づつ柳の髪やはげぬらん    信章
   これも虚空にはいしげじげじ  桃青
 判官の身はうき雲のさだめなき   信章
   時雨ふり置むかし浄瑠璃    桃青
 おもくれたらうさいかたばち山端に 信章
   松ふく風や風呂屋ものなる   桃青

  このあたりの展開の仕方は、秋の暮れ→荻の上風→一葉→虚空→浮雲→時雨→山端→松ふく風といった古典のわりとありきたりな連想で句を繋いで、そこに飢饉→傷寒→はげ→ゲジゲジ→判官→浄瑠璃→弄斎・片撥→風呂屋ものと当世流行のネタを展開している。
 単純な展開の仕方なので、短時間にたくさんの句を詠むには適したやり方だったのだろう。
 八十九句目は民話風の狐ネタになる。

   わけ入部屋は小野の細みち
 忍ぶ夜は狐のあなにまよふらん   桃青
 (忍ぶ夜は狐のあなにまよふらんわけ入部屋は小野の細みち)

 美女に誘われて部屋に行ったらいつの間にか眠ってしまい、気付いたら野原の真ん中の細道に横たわっていた。よくある話だ。

2021年10月2日土曜日

 今日は台風一過の雲一つない天気で、明け方の空には末の三日月が出ていた。正確には八月二十六日の月になる。
 散歩の途中に富士山を見たが、雪がなくなっていた、まさか三度目の初冠雪とかないよね。
 最近の眞子様関連の報道が過熱している、複雑性PTSDというけど、マス護美の方こそ大きな責任があるのではないかと思う。まあ、ダイアナ妃はパパラッチで死んだが、同じ過ちを繰り返さないでほしい。
 あと、ネットで眞子様と小室さんを叩いている連中、最近は「説明責任」だとかモリカケでさんざん聞いたような言葉を使っているし、天皇制廃止だとか、どうやらあの連中が混じってきた。
 反オリンピック闘争に敗北し、反ワクはさすがに左翼にもまともな連中はいるから盛り上がらなかったし、それでこっちに来たか。
 あと、「落着に」の巻「我もらじ」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 さて、昨日の続きで今日は談林時代の延宝三年五月の「いと涼しき」の巻を見て行こう。
 芭蕉は寛文十二(一六七二)年、藤堂藩をやめ、江戸に出ることとなった。ここで芭蕉は宗房から桃青に俳号を改める。
 おそらく、貧農の出である芭蕉に身分社会の壁は厚く、もうこれ以上の出世もないと見切りをつけたというのもあっただろうし、俳諧師として生きて見たいという野望も当然あったであろう。
 同じ寛文十二年に芭蕉は『貝おほひ』を編纂し、出版している。その序文に「寛文十二年正月二十五日」という日付があり、江戸へ発つ直前と思われる。
 元来文才があり、書に長け、帳簿にも通じていた芭蕉は、季吟門のつてで、日本橋本船町(ほんふなちょう)の名主、小沢太郎兵衛得入(俳号は卜尺)の家の帳簿付けをやった。田中善信の『芭蕉二つの顔』によれば、町名主は相当の激務で、業務を代行する町代(まちだい)を雇う名主が多かったという。芭蕉が江戸に出た頃は、まだ「町代」という名はなかったが、似たような業務を担当していたと思われる。今でいえば町長の秘書といったところか。かなりの要職であったと思われる。
 芭蕉が江戸に来た翌年の寛文十三年九月二十一日、元号は延宝に改まる。そして、延宝三年五月、談林のリーダーとも言える宗因が江戸にやって来た。宗因の噂は芭蕉だけでなく、江戸の俳諧師たちもみんな既に知っていたことだろう。
 芭蕉は江戸での盟友素堂(当時は信章)とともに、この五月に本所大徳院で行われた「いと涼しき」の巻の百韻興行参加することになる。
 まずは四句目で、大徳院住職磫畫の脇、松江重頼に学び、延宝二年に江戸に来た幽山の次に桃青というあたりで、既に江戸でもかなりの評価を得ていたことが分かる。

   反橋のけしきに扇ひらき来て
 石壇よりも夕日こぼるる     桃青
 (反橋のけしきに扇ひらき来て石壇よりも夕日こぼるる)

 石檀は石で作った祭壇で石段ではない。反橋を扇に見立てての展開で、反橋の下の半円の空間にある石壇から夕日が見える。
 「も」は強調のいわゆる「力も」で、「石壇より夕日こぼるるも」の倒置になる。
 十三句目では芭蕉ならではの想像力を見せる。

   座頭もまよふ恋路なるらし
 そびへたりおもひ積て加茂の山  桃青
 (そびへたりおもひ積て加茂の山座頭もまよふ恋路なるらし)

 これは座頭積塔からの発想だ。
 コトバンクの「デジタル大辞泉「積塔会」の解説」に、

 「陰暦2月16日に、検校(けんぎょう)・勾当(こうとう)・座頭などの盲人が、京都高倉綾小路の清聚庵(せいじゅあん)に集まり、盲人の守り神である雨夜尊(あまよのみこと)を祭って酒宴を催し、平曲を語った法会。当日、勾当三人が四条河原に出て、石を積み重ねて雨夜尊を供養したところからの名。《季 春》」

とある。
 九世紀平安時代の話で光孝天皇の娘の雨夜内親王の目が見えなくなり、そのために洛中の目の見えない人に世話をさせ、官位を与え、それ以来男の目の見えない人も「座頭」という官を与えたという。
 以来、内親王の命日の二月十六日に座頭が集会を行い、河原で石を積むようになったという。これを座頭積塔という。
 ここでは直接座頭積塔とは関係なく、そのイメージを借りながら、恋路に迷うまさに恋は盲目の座頭が、加茂の川原に高い積塔を積み上げるとする。
 芭蕉らしい奇抜な発想で、宗因も予想外の展開にびっくりしたのではないかと思う。
 このあと二十四句目では、

   時を得たり法印法橋其外も
 新筆なれどあたひいくばく    桃青
 (時を得たり法印法橋其外も新筆なれどあたひいくばく)

の句を付けている。
 法印は僧綱の最高位で、中世では心敬法師がこの位についている。後に僧以外にも与えられるようになり、季吟もこの頃はまだだが後に法印になる。紹巴は法眼だった。絵のほうでは狩野探幽が法印になっている。
 法橋は法印・法眼よりは落ちるが、位としては立派なものだった。
 法印法橋ともなれば揮毫するだけで高い値がつく。突飛な方の芭蕉ではなくリアルな方の芭蕉が見えている。
 後に芭蕉が得意とするようになる経済ネタの始まりと言えよう。
 三十三句目に宗因が一つのテクニックを披露する。

   月の前なる雲無心なり
 露時雨ふる借銭の其上に     宗因
 (露時雨ふる借銭の其上に月の前なる雲無心なり)

 無心は「心無い」という意味で、月を隠す雲に心無いという句だが、その無心をお金の無心と取り成し、「借銭の其上に」と展開する。
 その上で、「月の前なる雲」に「露時雨ふる」と付ける。「月の前なる雲に露時雨降る」という雅の趣向と、「借銭の其上に無心なり」という俗の文脈が並行する展開になる。
 さて、そのあと四十二句目で芭蕉は早速その技法を取り入れる。

   口舌事手をさらさらとおしもんで
 しら紙ひたす涙也けり      桃青
 (口舌事手をさらさらとおしもんでしら紙ひたす涙也けり)

 ここでは前句の「口舌事(夫婦などの痴話喧嘩の意味)」に「涙也けり」と、ここまでは普通の展開だが、その一方で「さらさらとおしもんで」に「しら紙ひたす」と付ける。
 これは特に古典風雅の文脈ではない。これは「揉み紙」の製作工程を表す。
 夫婦のいさかいに涙だけなら何の変哲もない句だが、そこに「おしもんで」「しら紙ひたす」という別の文脈を並行させている。
 当時の旅に欠かせない紙子もコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、

 「紙衣とも書く。紙で作った衣服。上質の紙を産する日本独自のもので,古くから防寒衣料や,寝具に用いられた。はり合わせた和紙をよくもみ,柿渋を塗って仕上げたもので,防寒用の胴着や下着に用いられた場合が多いが,木版で美しい模様をつけ,上着にしたものもある。産地は奥州白石,駿河安倍川などであった。」

とある。
 宗因が三十三句目で見せた「霧時雨降る月の前なる雲」の雅と「ふる借銭の其上に無心なり」の俗を並行させる技法の応用で、「さらさらとおしもんでしら紙ひたす」の揉み紙の製造工程と、「口舌事手をひたす涙也けり」の恋を並行して描いてみせる。
 宗因の技を盗んでさらに応用まで利かせてしまう芭蕉さんは、やはり恐るべしといえよう。
 四十七句目の、

   数寄は茶湯に化野の露
 石灯篭月常住の影見えて     桃青
 (石灯篭月常住の影見えて数寄は茶湯に化野の露)

の句は、「違え付け」という連歌の時代からある古典的な付け方で、「化野の露」の儚さに、「月常住」を対比させる。
 化野(あだしの)は京都の嵯峨野に化野念仏寺があるように、古くから鳥野辺と並ぶ葬儀場だった。そこの露になるというのは死ぬという意味になる。
 茶の湯に命を懸けて数寄者(茶人)も最後は化野の露と消える。それに対して常夜灯の石灯篭は永遠不滅の月のように、化野の露を照らしている。
 六十七句目では芭蕉の古典への造詣を示す展開をしている。

   はながみ袋形見なりけり
 さる間三年はここにさし枕    桃青
 (さる間三年はここにさし枕はながみ袋形見なりけり)

 これは在原行平の文徳天皇の時に須磨に蟄居を余儀なくされた故事を踏まえたもので、この故事は謡曲『松風』の元にもなっている。そこには、

 「さても行平三年の程、御つれづれの御舟遊び、月に心は須磨の浦の夜汐を運ぶ蜑乙女に、おととい選はれまゐらせつつ、折にふれたる名なれやとて松風村雨と召されしより、月にも馴るる須磨の蜑の」(野上豊一郎. 解註謡曲全集 全六巻合冊(補訂版) (Kindle の位置No.31866-31871). Yamatouta e books. Kindle 版. )

とある。
 やがて行平が都へ戻って行くとき、俳諧にふさわしく「鼻紙袋」を形見として残して行く、とする。
 最後に九十三句目。

   月はこととふうら店の奥
 秋の風棒にかけたる干菜売    桃青
 (秋の風棒にかけたる干菜売月はこととふうら店の奥)

 裏通りを天秤棒に干し菜を下げた干し菜売りが通る。うらぶれた風情のある句だ。庶民の日常を描きながらも、後の「さび」や「細み」を感じさせる。
 この興行での芭蕉の句は七句で素堂(信章)の九句よりも少ない。それでもどれも後の芭蕉の片鱗を感じさせる句だった。

2021年10月1日金曜日

  今日は朝から雨で午後から台風の接近で風もやや強くなってきた。だがどうやらここはたいしたことなく通り過ぎそうだ。
 元禄六年冬の「いさみたつ(霰)」の巻「いさみたつ(嵐)」の巻を鈴呂屋書庫にアップしたのでよろしく。

 さて、角川書店の『校本芭蕉全集』の第三巻、第四巻、第五巻の中で、短いものを除いて半歌仙以上のものをこれまで読んできた。
 順番は飛び飛びだったが、このあたりで時系列順にもう一度辿ってみようかと思う。全部ではなく、芭蕉の付け句の変遷が分かる程度に。
 そういうわけで、今日は第一回目というとこで、まずは寛文五年霜月十三日興行の「貞徳翁十三回忌追善俳諧」を振り返ってみようと思う。
 この巻は芭蕉がまだ伊賀にいて、宗房という名乗りをそのまま俳号としていた頃の唯一現存している俳諧一巻だ。
 他にも幾つもの興行に参加していた可能性は高い。現存しているのがこれだけという意味だ。だから、これが芭蕉の最初の俳諧興行の席へのデビューなのかどうかはわからない。
 この巻は寛文五年(一六六五)十一月十三日の興行で、発句は芭蕉(当時は宗房)の主人だった藤堂良忠(俳号は蝉吟)、脇は京の季吟だが脇だけの参加なので、書簡による参加であろう。それに正好、一笑、一以、それに執筆が一句参加している。まあ、芭蕉の全句ではなく、かいつまんで見て行くことにする。
 あと、そもそも連歌だとか俳諧だとかいうのが何かという点に関しては、鈴呂屋書庫の「水無瀬三吟」の世界の最初の部分を参考にするといい。随分前に書いた文章(多分二〇〇四年頃)ではあるが。もう少し短いものとしては鈴呂屋書庫の「蕉門俳諧集 上」の頭の所の文がある。
 まずは六句目

   けうあるともてはやしけり雛迄
 月のくれまで汲むももの酒    宗房
 (けうあるともてはやしけり雛迄月のくれまで汲むももの酒)

 次が執筆だから末席といっていいだろう。春の句になったところでためらわずに定座を引き上げて月を出すところは堂々としている。ただ、「まで」を重ねてしまったところは若さか。
 ひな祭りは旧暦三月三日なので、夕暮れに出る月は三日月になる。三日月はすぐに沈んでしまい、夜になると真っ暗なので、この日の宴は夕暮れで終了になる。そういうわけで「月のくれまで汲む」となる。
 雛(ひひな)に「ももの酒」を付ける物付けで、「桃の酒」は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』に、

 「[蘇頌図経]太清本草本方に云、酒に桃花を漬してこれを飲は、百病を除き、顔色を益す。[千金方]三月三日、桃花一斗一升をとり、井花水三升、麹六升、これを以て好く炊て酒に漬し、これを飲めば太(はなはだ)よろし。○御酒古草、御酒に入るる桃也。」

とある。
 次に十一句目を見てみよう。

   案内しりつつ責る山城
 あれこそは鬼の崖と目を付て   宗房
 (あれこそは鬼の崖と目を付て案内しりつつ責る山城)

 「崖」は「いわや」と読む。前句の「山城」を鬼の城に見立てるわけだが、これは物付けではなく心付けになる。「こころ」は今では心情だとか、精神的のものをイメージするが、この頃は「意味」の意味でも用いる。
 物付けが前句にある一つの単語と相性の良い単語(「付け合い」だとか「付き物」だとかいう)を選んで、後から一首の和歌になるように辻褄を合わせる付け方で、素早く機械的に付けられる利点がある。
 連歌でも俳諧でも付け句には素早さが要求される。考え込んで場が滞ることを嫌う。遠くから人を呼んだりしての興行は時間的に限りがある。その時間内で一巻を仕上げる必要があったために、物付けのような素早く付けられる付け方が重宝された。
 心付けはそれに対し、何か面白い展開を思いついた時の付け方になる。意味が通っていて面白ければ、付き物があるかないかにかかわらず付けて行く。
 それにしても「鬼の岩屋」とは御伽草子のような空想趣味で、後の次韻調に繋がるものかもしれない。
 次は十六句目。

   まどはれな実の道や恋の道
 ならで通へば無性闇世     宗房
 (まどはれな実の道や恋の道ならで通へば無性闇世)

 これも意付けで、前句の「まどはれな」を受けて、惑えば「無性闇世」と展開する。ちなみに「まどはれな」のような人を咎める言葉の入った句を「咎めてには」と呼び、連歌には頻繁に見られる。
 「無性(むしょう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「[名]仏語。
 1 《「無自性」の略》実体のないこと。
 2 《「無仏性」の略》仏性のないもの。悟りを開く素質のないもの。⇔有性(うしょう)。
 [名・形動ナリ]分別のないこと。理性のないこと。また、そのさま。
 「朝精進をして、昼からは―になって」〈浮・三所世帯〉」

とある。今日では「無性に」という形以外はほとんど用いられない。激しい衝動に突き動かされるという意味で、「無性にラーメンが食べたくなる」とかいうふうに使う。
 相手がその気がないのに一方的に衝動に突き動かされて通い続ければ、それこそ今でいうストーカーだ。まさに「闇の世」、惑うなかれとなる。
 次はちょっと飛んで三十一句目。

   秋によしのの山のとんせい
 在明の影法師のみ友として   宗房
 (在明の影法師のみ友として秋によしのの山のとんせい)

 前句の吉野と有明の月は付け合いで、この二つの言葉の関連は古歌に由来する。

 朝ぼらけ有明の月とみるまでに
     吉野の里にふれる白雪
              坂上是則(古今集)

の歌は百人一首でもよく知られている。この歌が「吉野」と「有明」が付け合いになる證歌となっている。
 「影法師」は李白の「月下独酌」に、

 挙杯邀明月 対影成三人
 盃を挙げて月を客として迎え、影と対座して三人となる。

の句があり、月の光によって生じる自分の影を友として夜を明かすという趣向は、この詩から来ていると思われる。
 芭蕉の後に『冬の日』の「狂句こがらし」の巻でも、

   きえぬそとばにすごすごとなく
 影法のあかつきさむく火を燒て 芭蕉

の句を詠んでいる。吉野の遁世に有明の影法師が出典にべったりと付いているのに対し、「消えぬ卒塔婆」の「暁」に火を焚いた「影法(影法師)」は蕉風確立期の古典回帰とはいえ、出典とは違う独立した趣向を生み出している。
 続いて大分飛ぶが、七十五句目を見てみよう。

   久しぶりにて訪妹が許
 奉公の隙も余所目の隙とみつ 宗房
 (奉公の隙も余所目の隙とみつ久しぶりにて訪妹が許)

 当時は芭蕉も蝉吟のところの奉公人だったが、今みたいな休暇はほとんどなくても仕事の合い間合い間に暇ができたりすることはあっただろう。そういう時には俳諧を楽しんだりもしたか。
 もっともたいていの奉公人は、そんな渋い趣味を楽しむよりは、女の許にせっせと通っていたのではないかと思う。「余所目」は「よそ見(浮気)」の意味もあり、妹というのは浮気の相手。これは今風に言うと「奉公人あるある」だ。
 山城を鬼の住む所に取り成した突飛な空想も芭蕉ならではのものだが、こういうリアルなあるあるネタを持ち出すのも芭蕉の持ち味で、豊かな想像力とリアルな感覚の同居が生涯に渡って芭蕉の作品に幅を持たせているといっても良いと思う。
 豊かな想像力と現実感覚、それに無性闇世の道徳心、影法師を友にするという古典への造詣、それが芭蕉だと言ってもいい。