2020年12月7日月曜日

  「俳諧問答」の続き。

 「一、等類のがれの事。師説、
 都をば霞と共にたちしかど
   秋風ぞふくしら川の関    能因
 都をば青葉とともに出しかど
   紅葉ちりしく白河の関    頼政
 此二首、心・詞少もかハらね共、定家の卿の判に云、頼政が歌ハ、能因が歌を本歌として、心・詞少モかハらね共、是等類にあらず也。頼政が歌ハ、色をよみたる哥也。これ産所の各別なる事を、先達よくきき分ケ給ふ故也。ありがたき判也。かやうの先達ありて社(コソ)、俳諧も面白し。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.176~177)

 この二首の類似は有名で、『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.146~147の所でも述べたが、頼政の歌は歌合せの歌として青葉、紅葉、白河の色彩の華やかさを取り柄として、オリジナルと認められている。
 こういう時間の経過による展開は俳諧でも、「かくれ家や」の巻十七句目の、

   笠の端をする芦のうら枯
 梅に出て初瀬や芳野は花の時   芭蕉

「めづらしや」の巻三十一句目の、

   温泉かぞふる陸奥の秋風
 初雁の比よりおもふ氷様     露丸

といった句に見られる。秋風に陸奥を発てば氷様(ひのためし)の奏の頃には都に戻れるだろうか、となる。

 「ある時予が句、
 朝顔のうらを見せけり風の秋
と云せしニ、おりふし丈草へかたりけれバ、此句、翁の『おもて見せけり』の葛の句、作例たるべしといはれけり。
 予つくづくとおもふに、此句少もくるしからじ。翁の句ハ、葛のうらと云古歌の詞を返し、初て『葛のおもて』とハいはれたり。是おのづから制也。葛のうらと云事、終ニ哥・俳諧制ハなし。
 予が句ハ、葛のうらに対して、新ミをいひたる句也。古人、葛より外ハうらを見ぬといひけれ共、葛よりハ鼻の先に朝顔のありける事をしらぬと、嘲りたる句也。曾て翁の句ニ類する事なし。能因・頼政の哥ハ、意・詞もかハらね共、等類に落ずといへり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.177~178)

 朝顔のうらを見せけり風の秋    許六
 くずの葉の面見せけり今朝の露  芭蕉

 この二句についての類似は『去来抄』同門評にも記されている。

 「蕣の裏を見せけり秋の風
 一説曰、此句先師の葛葉の面みせけりと等類也。許六曰く、等類にあらず。みせけりとは詞のむすび迄なり。趣向かはれり。去来曰、等類とは謂がたし。同竈の句なるべし。たとへば和歌には花さかぬ常盤の山の鶯は己なきてや春をしるらんと云に、紅葉せぬトキハ山のサホ鹿は己なきてや秋を知るらんトよみても等類にはならざるよし、俳諧には遠慮する事ト見えたり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.45)

 言葉の続き具合は似ているが、これは最初の発想が全く違うため、同竈(同巣ともいう)とは言い難い。
 許六の句は古歌に「葛の裏葉」は詠まれているが、朝顔の葉の裏返るのは詠まれてないから、そこに新味があるというものだ。許六の時代の朝顔は今と同じ朝顔だが、古代の朝顔は桔梗か槿で、今の朝顔ではなかったと言われているから、実際には古人の鼻の先には朝顔はなかった。
 芭蕉の句は服部嵐雪が一度芭蕉に反旗を翻し、しばらくして戻ってきた時に詠んだ句だと言われている。「面(おもて)見せけり」には、背を向けていた葉が世間の厳しさに耐えられず、しおらしく自分の方を向いて帰ってきた、という含みがある。裏を見せるはずの葛の葉が表を見せたというところに新味があるという許六の評は間違ってはいない。

 「清瀧や波に塵なき夏の月
 白菊のめに立てて見る塵もなし
 右両句、塵なきと云事、後にむづかしとて、『波にちり込青松葉』とハ案じかえられたりときこゆ。
 退て案じ見るに、此塵、志の趣ける所同じさま也。故ニ案じかえられたるとハ見えたり。西行上人も、『清瀧川の水のしら波』とハつよくよみ給ふ也。『波にちり込む青松葉』とすずしく師のいひ給ふつよみ、西行の哥におとれりとハ見えず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.178)

 「清瀧や」の句の改案は支考の『前後日記』に見られるもので、そこにはこうある。

 「服用の後支考にむきて、此事は去来にもかたりをきけるが、此夏嵯峨にてし侍る大井川のほつ句おぼえ侍る歟と申されしを、あと答へて

 大井川浪に塵なし夏の月

と吟じ申ければ、その句園女が白菊の塵にまぎらはし。是もない跡の妄執とおもへば、なしかへ侍るとて

 清滝や浪にちり込青松葉     翁」(『花屋日記』小宮豊隆校訂、岩波文庫、一九三五、p.56~57)

 芭蕉のあの「夢は枯野を」の句よりも後であるため、結果的にはこれが芭蕉の最後の句となった。
 「清瀧や波に塵なき夏の月」の塵は清瀧の水の美しさを詠んだものなのに対し、「白菊のめに立てて見る塵もなし」の白菊はこの興行の主人である園女の比喩だという違いはあるが、どちらも褒めて言う言葉には違いない。
 結局芭蕉は月に照らされて塵なき波、という褒め方をやめて、あえて「波にちり込青松葉」という塵を出しながらも青松葉も美しいというふうに改作した。夜から昼の景に転じているし、発想を完全に変えている。
 西行の「清瀧川の水のしら波」は、

 降りつみし高嶺のみ雪とけにけり
     清滝川の水のしら波
             西行法師(新古今集)

の歌で、この下句に青松葉を取り合わせて夏の発句にしたといってもいいかもしれない。

2020年12月6日日曜日

  コロナの新規感染者数は頭打ちで、全国だと一日二千五百人程度で安定してきた。実効再生産数も1.06と1に近い。このまま高止まりの均衡に至るのか、それともこれからさらに寒くなることで再び増加が始まるのか、予断を許さない。その一方で死者の数は一日四十人のレベルで増えている。
 国際医療福祉大学大学院の高橋泰教授の説のようなのを信じる人が政府や自治体の中にもいるのだろうか。マスコミがこうした説を報道しているのだから、マス護美の中にも信者がいて、旅行や外食を煽って感染を広げることがコロナを収束させると信じちゃっているのかもしれない。
 この説の基本にあるのは、感染しなくてもウィルスを体内に吸引し、免疫細胞と接触しさえすればその段階で免疫が獲得できるため、感染してなくてもウィルスが広範囲に拡散していれば集団免疫が獲得できるという考え方で、ワクチンも基本的には感染させずに抗原との接触だけで免疫を作ることになる。
 この吸引しただけの状態を「暴露」というようだ。日常的な言い回しと全く違う用法なので注意する必要がある。
 夏の間でウィルスの密度が低く、感染しにくい状態で吸引する者が多く、クラスターが出ても発症率が低ければ二次感染する確率は低く、放置しておいても拡大もせず収束もしない状態で安定することになる。この状態だと寒い時期に比べて重症化率、致死率が減少する。
 問題は夏の間に広範囲な暴露が起きて集団免疫の獲得に至ったかどうかだが、抗体検査は誤差が多く、類似するウィルスの抗体に反応する場合があるので、データは信用できない。今年の初夏に世界中で抗体検査が行われたが、あまりにも高い数値が出たばかりか、去年献血された血液からも抗体が見つかったりして(最近報道されたイタリアの研究もこれだが)、結局抗体検査はあてにならない、ということになっていった。
 京都大学の方の研究ではすでに集団免疫ができたから十一月には収束するなんて予想をしてたが、結果は見ての通り十一月に感染が再拡大した。
 なぜ予測が外れたかというと、考えられるのはコロナに暴露した人の数はPCR検査に引っかかった人の数よりそれほど多くなく、実際に本命の新型コロナの抗体はほとんど獲得されてなかったからであろう。
 そして、冬になって密度の濃くなったウィルスに暴露すると、高橋さんの例えで言う「巡査」程度の免疫では対応できなくなり、「軍隊」の出動になるが、コロナウィルスはこの軍隊にも感染し、免疫系を異常化させるため、あっというまにサイトカイン・ストーム(免疫システムの暴走)や血栓の形成を引き起こし重症化してしまう。
 実際欧米であれほど多くの感染者や死者を出していながら(夏には欧米のコロナの弱体化も伝えられていた)、この冬再び同じことが繰り返されている。日本よりはるかに早く集団免疫ができているはずの欧米で、日本以上に感染者も多く死者も多いのはどう説明するのだろうか。
 だから、GoToを広げて早くたくさんの人に暴露させて集団免疫を作ろうなんてのはとんでもなく無謀なことで、菅政権が騙されてないことを祈る。

 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、不易流行の事。翁ノ句に、
 青柳の泥にしだるる汐干哉
と云句したり。予つくづくと見て、此句景曲第一也。
 しかれ共新古の事いぶかしくて、数篇吟じ返し、大きに驚き、初て此風の血脈を得たり。是正風体たるべし。
 津の国の難波の春はゆめなれや
   あしの枯葉にかぜわたるなり 西行
 風そよぐ奈良の小川の夕ぐれは
   御祓ぞ夏のしるし也けり   家隆
 青柳の泥にしだるる汐干哉
と此次ニ書ても、少もおとらず。句作り幷細ミ・魂魄の入やう・趣向の取廻し、毛頭かはる事なし。
 此句の後、愚句、
 峯入の笠とられたる野分かな
 かげろふの中から上る雲雀哉
専青柳の汐干より発明せし也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.173~174)

 青柳の泥にしだるる汐干哉    芭蕉

の句は元禄七年三月の句で、『炭俵』には「柳」ではなく「上巳」の所に収録されている。
 上巳は三月三日の桃の節句のことで、ウィキペディアには、「『上巳』は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日であったが、古来中国の三国時代の魏より3月3日に行われるようになったと言われている。」とある。ひな祭りの日である一方で、潮干狩りの日でもあった。
 柳の枝が干潟の泥の方に垂れている様と、貝を掘ろうとして腰を曲げている人の姿との類似に着目した句であろう。
 ただ、その類似の笑いの要素を取り除いても、一つの海辺の景として成立している。ここに許六は流行と不易との一致を見たのであろう。西行や家隆の和歌と並べたのはそのためではないかと思う。

 峯入の笠とられたる野分かな   許六

の句は支考撰『笈日記』(元禄八年刊)では「笠もとらるる」になっている。芭蕉の「鶯の笠落したる椿かな」とのかぶりが気になったか。
 「峯入(みねいり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 修験者が、大和国(奈良県)吉野郡の大峰山にはいって修行すること。陰暦四月本山派の修験者が、熊野から大峰山を経て吉野にぬける「順の峰入り」と、陰暦七月当山派の修験者が、吉野から大峰山を経て熊野にぬける「逆の峰入り」とがある。大峰入り。《季・夏》
  ※光悦本謡曲・葛城(1465頃)「此山の度々峯入して、通ひなれたる山路」

とある。この場合は「逆の峰入り」になる。台風の季節で、熊野の山の中で笠を吹き飛ばされることもあるだろう。
 芭蕉が『笈の小文』の旅に出る時の「旅人と我名よばれん」を発句とする興行の二十三句目には、

   別るる雁をかへす琴の手
 順の峯しばしうき世の外に入   観水

とあるが、順の峯入りは春の句となる。

 かげろふの中から上る雲雀哉   許六

 岩波文庫の『俳諧問答』の横澤三郎注には「『校本』かげろうをたよりに上る」とある。「中から上る」だと単なる景色の句だが、「たよりに上る」だと、陽炎の上昇気流と雲雀の上昇との共鳴が見られる。
 この二句は景色の良さを不易として、そこに何かしらの新味を加えるという点では、「青柳の泥にしだるる」に倣ったといえよう。

 「一、一とせ江戸にて、何某が歳旦開とて、翁をまねきたる事あり。
 予が宅ニ四五日逗留の後にて侍る。其日雪ふりて、暮方参られたり。其俳諧に、
 人声の沖には何を呼やらん    桃隣
 鼠は舟をきしる暁        翁
 予其後芭蕉庵へ参とぶらひける時、此句かたり出給へり。
 予が云、扨々此暁の字、ありがたき一字なるべし。あだにきかんハ無念の次第也。動かざる事大山のごとしといへば、師起あがりて云、此暁の一字聞屆侍りて、愚老がまんぞくかぎりなし。此句初ハ、
 須磨の鼠の舟きしる音
と案じける時、前句ニ声の字有て、音の字ならず、つくりかへたり。すまの鼠とまでハ気を廻らし侍れ共、一句連続せざるといへり。
 予が云、これ須磨の鼠より遙に勝れり。勿論須磨の鼠も新敷おぼえ侍れ共、『舟きしる音』といふ下の七字おくれたり。上の七字に首尾調はず。暁の一字のつよき事、たとへ侍るものなしといへば、師もうれしがりて、これ程にききてくれる人なし。只予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のミにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるがごとし。
 其夜此句したる時、一座の者共ニ、遅参の罪ありといへ共、此句にて腹をゐせよと、自慢せしとのたまひ侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.174~176)

 この歳旦開の俳諧は今のところまだ発見されてないようだ。許六の記したこの二句だけが分かっている。

   人声の沖には何を呼やらん
 鼠は舟をきしる暁

 『源氏物語』須磨巻で源氏の君が七弦琴を弾いて歌う場面で、「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ(沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます)」、という下りがある。
 芭蕉はこの場面を思いついて、最初は、

   人声の沖には何を呼やらん
 須磨の鼠の舟きしる音

としたのだろう。源氏須磨巻を俤としつつも、人声を船に鼠が出たせいだとする。
 このとき「音」と前句の「声」と被っているのに気付き、須磨を出すのをやめて「鼠は舟をきしる暁」とする。源氏物語は消えて、船に鼠が出て騒ぐ様子に暁の景を添える句になる。
 芭蕉さんも苦肉の策で出した「暁」を褒められて、満更でもなかっただろう。

2020年12月5日土曜日

  今日は一日小雨だった。
 あと、ナイキのあのCMだが、コマーシャルなんだから作り物にきまってるだろっ。そこは突っ込みどころではない。作り物としての出来がどうかが問題なだけだ。
 もちろん文学の議論も同じで、みんな作り物に決まってるんだよ。ただ作り物として良く出来ているかどうかが問題なだけだ。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、第三年忌、在所にていとなむ。我友共とつぶやく。ことし師の三年忌の追善、世間の俳諧大方見えたり。塚に苔むし、松ハ長し、そとばの文字がきえたる、などいふ事にて果べし。
 追善の発句、仕様あるべし。専追善をやめて、懐旧の句ノ上にて仕て取るべし。三年つづきて同じ追善にてもあるまじ。是下手の心也。師の心に叶ひよろこび給ふまじ。かならずあやまるまじといひて、
 月雪に淋しがられし紙子哉
ト云句して、予が集三年忌の俳諧の巻頭にハ仕たり。
 加賀の北枝が『喪の名残』を見るに、木曽塚へ集る句共出たり。果して、松が長し・塚が苔むし・そとばの文字が見えぬ、など云句にて終れり。我党ハひそかにいひあてたりとて笑ひたり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.171)

 北枝編『喪の名残』(元禄十年刊)は「私の旅日記~お気に入り写真館~」というサイト(写楽の志賀大七のアバターのあるページは、芭蕉関係で検索していると必ず目にする)に抜粋があるが、少なくともそこには「塚に苔むし、松ハ長し、そとばの文字がきえたる」の文字はなかった。

 赤はるやむなしき苔を初時雨   文鳥
 朝霜や茶湯をこほす苔の上    秋之坊

の句はあるが、「塚」とは言っていない。
 芭蕉の追悼だと、時雨と木枯らしは定番だが、こういう言葉がないと誰の追悼なのかがわかりにくくなる。

 月雪に淋しがられし紙子哉    許六

の句は『韻塞』の「坤(許六選)」に「亡師三回忌 報恩」と前書きした歌仙の発句で、脇は、

   月雪に淋しがられし紙子哉
 小春の壁の草青みたり      李由

 「苔むし」はアウトだが、「草青みたり」はセーフなのだろう。

 「一、予当流入門の比、五月雨の句すべしとて、
 湖の水も増るや五月雨
と云句したり。つくづくとおもふニ、此句あまりすぐにして味すくなしとて、案じかえてよからぬ句に仕たり。
 其後あら野出たり。先生の句に、
 湖の水まさりけり五月雨
と云句見侍りて、予が心、夜の明たる心地して、初て俳諧の心ンを得たり。是先生の恩なりとおぼえて、今に此事わすれず。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.172~173)

 許六はウィキペディアに、

 「元禄2年(1689年)33歳の時、父が隠居したため跡を継ぐ。この頃から本格的に俳道を志し、近江蕉門の古参江左尚白の門を叩き、元禄4年(1691年)江戸下向の折に蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪の指導を受けた。」

とあり、芭蕉に初めて対面したのは元禄五年だった。
 『阿羅野』が出たのが元禄二年三月、芭蕉が『奥の細道』に旅立つ頃だったから、貞享五年夏に既に尚白との交流があったということか。
 だとすると、尚白経由で去来に漏れた可能性も無きにしも非ずで、「是先生の恩なり」が本心なのか鎌掛けた皮肉なのかはよくわからない。
 まあ、許六が「水も増るや」と疑っているのに対し、去来の「水まさりけり」の方が力強く丈高いので、その差は重要だが。この時芭蕉の直接会うことができていたら、その辺は直してくれたかもしれない。

2020年12月4日金曜日

  今日は『鬼滅の刃』最終巻の発売日で、朝の新聞には大きな広告も入っていた。十五人のキャラを五つの新聞社で三人ずつ分け合うのだが、どういう過程で選ばれたのか知りたいものだ。朝日はさすがに力関係からか善逸と禰豆子と美味しいところを押さえている。産経は猪と不死川兄弟で暑苦しい。うちに来た新聞はいきなり煉獄さんで、その他も甘露寺・伊黒のカップルで、なかなか良いところを押さえている。
 さて、ようやく最後まで読んだが、最後はやはり花の定座で目出度く終わっていた。こういうところでも伝統というのは生きているんだなと思った。そして基本はやはりコノハナサクヤヒメ神話だった。この「永遠の命なんて欲しくない」というテーマの反復、クリスチャンの人はどう思っているのだろうか。
 最近は『呪術廻戦』押しの記事をよく見るが、『鬼滅の刃』に続けということなのか。ただ、何か最初の設定の所で赤城大空の『出会ってひと突きで絶頂除霊!』が思い浮かんでしまって、下ネタのない絶頂除霊って感じがする。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、第二年の追善ニ、深川芭蕉庵にてのべたり。予自画の像をかかせたる故に、其前書して、
 鬢の霜無言の時の姿かな    許六
とせし也。無言の時といへるハ西行の事也。うば・かか、又ハ名もなき者の追善のごとく、『焼香すれバ袖がぬるる』の、『涙が氷る』の、『霜に香を継かゆる』の『生前旅をすかれたる檜笠・はり笠等が破れたる』の『芭蕉が枯たる』の、などといへる事のミにて、一天下果てたり。誰一人秀たる句も見えず。扨々はかなき志にて、あハれ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.170)

 「無言の時」の句は『韻塞』の「乾(李由選)」に、

   亡師一周忌に手づから画像を写し
   て、野坡に贈て、深川の什物に寄附
   す。
 鬢の霜無言の時のすがたかな    許六

とある。
 「什物」は秘宝のことで、元禄三年の芭蕉・尚白両吟の「月見する座にうつくしき顔もなし 芭蕉」を発句とする俳諧の三十一句目に、

   さても鳴たるほととぎすかな
 西行の無言の時の夕間暮      芭蕉

の句がある。
 とはいえこの句は、ホトトギスは夜通し待ってようやく明け方に聞くのを本意とするので、夕方から鳴いてても歌にならないというだけのもの。それを亡くなって無言になった姿に取り成すのも何か違う気がする。 許六さんは新味を出さねばということにとらわれすぎて、追悼句の基本が追悼する心であるのを忘れているのではないか。「焼香すれバ袖がぬるる」、「涙が氷る」、「霜に香を継かゆる」、「生前旅をすかれたる檜笠・はり笠等が破れたる」、「芭蕉が枯たる」という言葉は確かに月並みではあるが心はある。

 「なき人の裾をつかめば納豆哉   嵐雪
 師の追善に、かやうのたはけを尽す嵐雪が俳諧も、世におこなハれて口すぎとする世上、面白からぬ事也。晋子ハかやうの所をはづさぬやつめ也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.170)

 この嵐雪の句は桃隣の『舞都遲登理』を読んだ時にも触れたが、嵐雪の『玄峰集』に

   元禄乙亥十月十二日一周忌
 夢人の裾を掴めば納豆かな    嵐雪

とある。
 夢に芭蕉さんが現れて、去ってゆく裾をつかもうとしたら目が覚めて、気づくと早朝にやってきた納豆売りの着物の裾をつかんでいた。いとあぢきなし(むなしい)、というものだ。元禄八年の句で、一年もたつとまあそれなりにみんな余裕も出てきたのだろう。亡き師芭蕉の夢枕も笑いに転じようとする。
 「口すぎ」は生計のことで、俳諧師も食っていかなくてはならないのは確かだ。ただ、亡き師をネタにして笑いを取るのは、別に金のためということでもなかろう。いつまでも悲しい句ばかり詠んでもいられないし、一年の喪が明けたなら、悲しみを乗り越えて明日に向かって生きてゆかなくてはならない。そんな喪明けの宣言ともいえる句であろう。

2020年12月3日木曜日

  ナイキのTwitterCMは一応見てみたが、何か日本の普通の子どもでもみんな同じこと思っているんではないかという感じのもので、全部純血の日本人を使って同じCMを作っても違和感ないと思った。
 明治以降の日本の教育が均質な労働者を作るためのもので、戦前から日本の若者は自己肯定感が希薄で、自殺率が高かった。今もそれは少しも変わっていない。「メンヘラ」だとか「死にたがり」なんて言葉がはやるのもそのためだ。
 このCMを見て、逆に本物の黒人ハーフや在日の人たちの間から、「俺たちの置かれている状況はこんな生っちょろいもんじゃない、ざけんなっ」という声はなかったのだろうか。そっちの方が気になる。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、追善・移徒(ワタマシ)・餞別など仕やう、かれこれ七ッ八ッも此類あるべし。是亡師の詞、あらましきき置侍る也。幽玄第一・たけ高き句すべしと。されバ不易と云ハ此所の事也。
 先追善の事、色々あるべし。親・兄弟・したしき者、あるひハ師友・芸の名人・僧・知識・隠士等、かぞへがたし。
 翁卒シ給ふ時、一天下しるもしらぬも追善したり。天下無双の俳諧名人の追善に、常式下手成事斗いひて、霊魂の手向と成るべしや。草葉の陰にて、にがにが敷顔をして居られ侍らん。
 かやうの所まで気を付る作者もなし。気が付ても動かず。是非もなき次第也。
 予、師遷化の時の追悼にハ、只かるみを詮にして、
 一度の医者よろこびやかへり花
とせし処に、晋子が『医者物とハむ』とハ加筆せし也。晋子ハ『宇治の橋守物とハむ』の力と見えたり。
 予が句、『医者よろこび』と云ハ、通俗の言葉也。よう成顔を見する共いへり。師の追善に、よろこびなどいへる事ハ、不審あるべき事也。述懐の歌に、『むせぶもうれしわすれがたミに』といへるを後鳥羽の院御感有しと云力あり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.169~170)

 移徒(ワタマシ)は転居のこと。
 「幽玄」は今日では中世などの芸術の特有の美学のように用いられることも多いが、もともとの意味は裏に隠されているということ。
 確かに能などは動きを抑制することで、表現しようとして表現できない中に、見る人があれを表現しようとしているとあれこれ想像し、それが直接表現するよりも効果を上げる。

 塚も動け我泣声は秋の風     芭蕉

の「塚も動け」は暗に死者が蘇ってくれ、墓の中から出てきてくれということなのだが、それをあからさまに言うと、何やらゾンビが出てきそうでグロテスクになる。また「我泣声は秋の風」も秋風のように悲しく、「風の音にぞおどろかれぬる」の歌もあるように、死者が驚くような声を上げているという含みもある。つまり、

 塚から出でよ我が泣く声に驚いて

ということなのだが、それをあからさまに言ったらそれこそギャグにしかならない。
 あふれる感情を押し隠しながら、それでも隠し切れないというのがこの場合の「幽玄」になる。

 手をはなつ中(うち)におちけり朧月 去来

の離別の句は『去来抄』「先師評」で、芭蕉に「此句悪しきといふにはあらず。巧者にてただ謂まぎらされたる也。」と評されたとあるが、手を放つまでの間に朧月が落ちてしまったというところから、如何に長く別れを惜しんでいたかを言いたいのだろうが、そのように読者の句の意味を頭で考えさせてしまうところで、情がダイレクトに伝わらなくなってしまう。
 直接的に言うなら

 朧月落ちても未だ手を握り

ということなのだが、
 『炭俵』には、

    洛よりの文のはしに
 朧月一足づつもわかれかな   去来

の句があり、先の句の改案とされている。「一足づつも」の方が「未だ手を握り」よりもより遠回しで、幽玄の句に仕上がっている。
 「たけ高き」というのは文字通りだと背が高いということで、要するに立派な、見栄えがする、強い調子で表現されている、というニュアンスを持つ。
 『去来抄』「先師評」に、

 赤人の名ハつかれたりはつ霞  史邦

の句を芭蕉が「中の七字能おかれたり。ほ句長高く意味すくなからず」と評したとある。
 中七の「名ハつかれたり」は「よくぞ名付けてもんだ」という意味で、正月の初日が霞に山辺が赤く染まるのを見て、山部赤人とはよく言ったもんだ、お目出度い名前だというわけだ。
 これが、

 赤人の名にも似たるか初霞

では何か弱々しい。「名ハつかれたり」と言い切ってこそ「たけ高き」となる。「塚も動け」の句も、力強く命ずるところで「たけ高」になる。
 芭蕉が亡くなった時も、多くの人が追善の句を詠んでいる。
 其角撰の『枯尾花』には、門人たちの追善の句が並べられている。

 忘れ得ぬ空も十夜の泪かな   去来
 啼うちの狂気をさませ濱衛   李由
 無跡や鼠も寒きともぢから   木節
 つゐに行宗祇も寸白夜の霜   乙州
 いふ事も涙に成や塚の霜    昌房
 暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈草
 一たびの医師ものとはん帰花  許六

 その他にもたくさんある。
 さて、この中の許六の句だが、元は、

 一度の医者よろこびやかへり花 許六

だったのを、其角が「医者ものとはん」と修正したという。まあ普通に考えて、みんな悲しんでいるときに「よろこびや」はないだろうと思う。喪失の悲しみよりも帰り花の情を優先させたという感じがする。
 許六は、

 思ひ出づる折りたく柴の夕煙
     むせぶもうれし忘れ形見に
              後鳥羽院(新古今集)

に寄ったようだ。
 この場合は哀傷歌とはいっても、死からある程度の時間が経過しているのではないかと思われる。いわば折りたく柴の煙に故人のことを懐かしむ余裕が生まれた時だから「むせぶもうれし」と言えたのではないか。
 許六の句の「ひとたび」は「いまひとたび」のことで「もう一度」という意味。「一度の医者」は生き返るかもしれないからもう一度とあらためて亡骸に接する医者のことだろう。つまり臨終からそれほど時間が経過していない。その状況で帰り花を見て「よろこびや」は無理があると思う。帰り花が咲いたのでもしかしたら生き返るかもしれないと思い、医者が今ひとたび塚を尋ねるという意味での「ものとはん」なら納得がいく。

 年経たる宇治の橋守こと問はん
     幾代になりぬ水の水上 
              藤原清輔(新古今集)

の歌とはあまり関係ないように思える。
 許六にとって医者が一人称ではないというところも問題だと思う。追悼は自分の気持ちを述べるもので、第三者の「医者」を登場させたあたりで何か違う感じがする。そのあたりから其角は首をひねって、何だこれはと思ったのではないか。

2020年12月2日水曜日

 今日は午後から雨が降った。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、第三の事。
 三月は関の足軽置かえて  此句、出替と五文字あらバ、くさるべし
 あたたかに成る日ハ鋤のさし合て
 ゆり若のきびすの跡も雪きえて
 芋種の角ぐむ比の朧月
など、専新ミをはしらせたり。ことしの第三ニ、
 柳の風に梅にほふなり
 かずの子の水あたたかにぬるミ来て
と云第三ハ、三ツ物の第三故に出したり。脇に初春の詞なし。かずのこ、初春の物なれ共、かずのこの水のぬるむハ三月也。わるくさく成て、やや春ふかく意味を弥生にかよはせたり。
 其上句作り、『かずのこを漬たる水のぬるミ来て』などするハ、世間十人が十人也。漬と云字をぬきて、『かずの子の水あたたかにぬるミ来て』といへるにて、幽玄にハ成侍れ共、世間此味をしらず。同じ事とおもひ侍る社、口おしけれ。しかし見る人あれバ、其人ハのがす事ニあらず。自由をする也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.168~169)

 歳旦三つ物の第三は、発句の心と違えるため晩春に転換することが多い。

 三月は関の足軽置かえて

 出替(でがわ)りの句だが、三月という季語があるので、重複を避けて「置かえて」としている。
 出替りはコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「半季奉公および年切奉公の雇人が交替あるいは契約を更改する日をいう。この切替えの期日は地方によって異なるが,半季奉公の場合2月2日と8月2日を当てるところが多い。ただし京坂の商家では元禄(1688‐1704)以前からすでに3月と9月の両5日であった。2月,8月の江戸でも1668年(寛文8)幕府の命により3月,9月に改められたが,以後も出稼人の農事のつごうを考慮したためか2月,8月も長く並存して行われた。」

とある。許六の時代は全国的に三月と九月だった。

 あたたかに成る日ハ鋤のさし合て

 「差合(さしあう)」は多義で、コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「[1] 〘自ハ四〙
  ① 出会う。行きあう。でくわす。
  ※落窪(10C後)一「あまた火ともさせて、小路ぎりに辻にさしあひぬ」
  ② 映り合う。光などを受けて、それに応じて輝く。
  ※源氏(1001‐14頃)若菜上「山際よりさし出づる日の、花やかなるにさしあひ、目も輝く心ちする御さまの」
  ③ さしさわりがある。不都合がある。さしつかえる。
  ※源氏(1001‐14頃)葵「大宮の御かたざまに、もてはなるまじきなど、かたがたに、さしあひたれば」
  ④ 「さしあい(差合)④」の状況である。
  ※浮世草子・傾城禁短気(1711)五「さしあふをしらぬ顔であげ屋に来り」
  ⑤ 破損する。こわれる。
  ※醍醐寺新要録(1620)「所二打折一之桁の端も指合ては子木を作入云々」
  ⑥ 隣り合う。境を接する。近接する。また、向きあう。対峙する。
  ※今昔(1120頃か)三一「陸奥の国の奥に有夷の地に差合たるにや有らむ」
  ⑦ 重なり合う。集中する。
  ※源氏(1001‐14頃)真木柱「かたがたのおとどたち、この大将の御いきほひさへさしあひ」
  [2] 〘他ハ四〙
  ① (酒などを)互いにつぎあう。さしつさされつする。
  ※今昔(1120頃か)一九「世に不似ず美き酒にて有ければ、三人指合て」
  ② 互いに言いあう。また、非難しあう。
  ※太平記(14C後)二七「喩へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科の得失を指合が如し」
  ③ 相撲で、互いに手を、相手の脇腹と腕の間に入れる。
  ※相撲講話(1919)〈日本青年教育会〉四十八手の裏表「四つとは互に腕を差合(サシア)って、敵の褌(まはし)を引いて組んだ形を言ひ」

とある。脇が分からないので意味は決定できない。四句目を付ける時にもいろいろな取成しが可能で便利な言葉だ。

 ゆり若のきびすの跡も雪きえて

 「ゆり若」は百合若大臣でウィキペディアには、

 「百合若大臣(ゆりわかだいじん)は、百合若という名の武者にまつわる復讐譚。これを題材にした幸若舞、それを読み物として流布させた版本(「舞の本」)、人形を使った説経操り、浄瑠璃(室町後期〜江戸時代)などがあり、日本各地、特に大分県や壱岐に伝説として伝わる。
 百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である。」

とある。確か筒井康隆の『乱調文学大辞典』にはユリシーズの盗作だがどうやって原典を知ったかが不明とかあって、ユリシーズの項目には百合若大臣の盗作だがどうやって原典を知ったかが不明とかあったような。坪内逍遥の頃から『オデュッセイア』との類似が話題になっていたようだ。(ユリシーズはオデュッセイアのラテン語名ウリュッセウスの英語読み。)
 戦に勝った将が冷遇されるのはよくあることで、昔から似たような物語はどこにでもあったのだろう。ただ「ユリ」の一致でネタにしやすかったのだろう。現代だとアネコユサギの『盾の勇者の成り上がり』もオデュッセイアのバリエーションではないか。
 句の方は苦難の旅をした百合若の足跡も雪解けともに消えてゆくというものだ。正月の宇佐八幡宮の弓始で本懐を遂げるので、脇は弓始の句だったか。

 芋種の角ぐむ比の朧月

 「角ぐむ」は角が生えるように芽が出るという意味。仲秋の名月は里芋の収穫の頃で芋名月と呼ばれるが、晩春の朧月の頃はその芋の芽が出る頃になる。発句にしてもよさそうなネタだが、種芋の芽は第三道具という判断か。

   柳の風に梅にほふなり
 かずの子の水あたたかにぬるミ来て

 これは普通に晩春に転換するのではなく、あえて「かずのこ」を出すことで正月からの時間の経過を出したかったのだろう。今はかずのこは正月くらいしか食べないが、昔は塩水に漬けて保存して三月くらいまで食べたのだろう。弥生の梅もそろそろ終わりという頃に柳も芽吹き始め、数の子を漬けていた水もぬるくなり、早く食べないといけなくなる。「かずのこを漬たる水のぬるミ来て」だと「水ぬるむ」が漬け汁だけに限定されてしまう。漬け汁だけでなく、井戸の水も小川の水も苗代の水もおしなべてぬるむ頃という広がりを持たせるには、「かずの子の水あたたかにぬるミ来て」の方がいい。

2020年12月1日火曜日

  今日も十七夜の月が見えた。昨日の半影月食の月と何が違うのか、やはりわからなかった。
 まあ、それでもやはり月はいいね。時差はあっても世界中の人があの月を見ていると思うと、月は世界をつないでいるんだと思う。あの月は北朝鮮の上にもウイグルの上にも出ているんだろうな。
 月は国際宇宙ステーション(ISS)でも見えていて野口さんのアップした写真が話題にはなっていたが、宇宙は何か怖そうだな。壁一枚向こうは果てしなく続く死の世界で、結局人生というのは広大な死の宇宙の中の小さな宇宙船のようなものなんだろうな。時間的にも何百億という長い死の時間の中のほんの数十年。奇跡の島。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「一、脇の仕やうの事。
 座頭の袖にかかる門松
 俵かさねて中戻りする
 女子六尺長閑成けり
 二日の朝ハ年玉の酒
などいへる脇は、師再生すといふ共、かハる事ハあるまじとおもひ侍れ共、一人分て褒美する人さへなし。
 俵重ぬると云季ハ、はなひ草ニも見えず。是正月元日・二日ならでハいはぬ言葉也。三日ハはやおかしからず。
 『きぞ始』といふ発句の脇に、『俵重て中戻りする』と云事、天下三べんさがねたり共、此脇より外ニハあるまじとおもふ也。俵重ぬる事、おかしき季とて、発句道具にてハなし。脇・第三の道具也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.167~168)

 「俵かさねて」を脇とする「『きぞ始』といふ発句」は、岩波文庫『俳諧問答』の横澤三郎注に、

 「『篇突』に出てゐる歳旦三ツ物の発句で、句形は『きぞ始裏を探らす大夫殿』。作者は程己。」

とある。つまりこの脇は

   きぞ始裏を探らす大夫殿
 俵重て中戻りする

となる。
 きぞ始(はじめ)は前にも、

  「一、去々年、愚歳旦ニ
 干鮭にかえてやゑぞがきぞ始
ト云句せしに、大津尚白が句に、
 干鮭に衣かえけりゑぞの人
と云句せし、翁も笑ハれたるよし、等類不吟味沙汰のかぎりと申侍る。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.144~145)

の時に出てきたが、「着衣始(きそはじめ)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、正月三が日のうち吉日を選んで、新しい着物を着始めること。また、その儀式。《季・春》
 ※俳諧・犬子集(1633)一「きそ初してやいははん信濃柿」

とある。
 「大夫(太夫)」はいろいろな人に用いられるが、「大夫殿」だとコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 御師(おし)の通称。また、御師のいとなむ宿のこともいう。
  ※浮世草子・日本永代蔵(1688)四「供二三人召つれ。太夫殿(タユフトノ)の案内者に任せ山田を出し時」
  ② 三河万歳の大夫。転じて、主役。
  ※狂歌・徳和歌後万載集(1785)一二「まんざいはわれらが家の太夫殿はらづつみうつとく和歌の集」

を意味するようだ。
 この場合は歳旦なので②の方か。

 犢鼻褌(ふんどし)を腮(あご)にはさむや着そ始 汶村
 つまさきを引出す糸やきそ始   孟遠

といった句が『彦根正風体』にあるように、この句も着慣れないものを着る上、三河万歳の大夫殿が来たので急いで、どっちが表でどっちが裏かわからなくなるということなのだろう。
 これに対して脇は、転んで途中で引き返した、というものだ。ドタバタした感じがまた正月の目出度さでもある。
 「俵重(たわらがさね)」は正月に「転ぶ」「臥す」という言葉を縁起が悪いとして嫌いことから生じた言い換えの言葉で、許六によれば「正月元日・二日ならでハいはぬ言葉也。三日ハはやおかしからず。」という言葉になる。
 立圃の『増補はなひ草』では季語として扱われていないが、正月しか言わない言葉なので歳旦の言葉としている。発句には用いにくいが、脇や第三に使うにはちょうど良い。

 座頭の袖にかかる門松

の句は、眼が見えないから袖が門松に引っかかったということか。

 女子六尺長閑成けり

の「女子六尺」は女六尺・女陸尺(おんなろくしゃく)のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 昔、貴人に仕えて、その女乗物を奥から玄関までの間かついだ女中。⇔男六尺。
  ※浮世草子・浮世栄花一代男(1693)一「物静に長郎下まで御駕籠を女六尺かき込て」

とある。

 二日の朝ハ年玉の酒

 お年玉が子供に現金を渡す行事になったのは戦後のことだともいう。「駒沢女子大学/駒沢女子短期大学」のサイトの「お年玉の謎」(下川雅弘)によると、「室町時代に書かれた日記などの史料には、新年に贈り物の刀や銭などを持参してお世話になった人を訪問し、お返しとして扇や酒などが振る舞われるといった記事が、数多く残されています。」という。
 芭蕉の時代でもお年玉は基本的には年賀の挨拶の時の贈り物のことだったと思われる。元日にもらった酒を二日の朝に飲むのは「あるある」だったのだろう。「年玉」の発句をあまり見ないのは、脇道具ということか。