2020年11月7日土曜日

  コロナの方も均衡が悪い方に破れてきたというか、二日続けて国内新規感染者が千人を越えたと思ったら、今日は千三百人を越えた。第三波の始まりか。
 欧米に比べれば大したことないかもしれないが、日本はまだ本当のコロナの怖さを知らないだけかもしれない。
 色々不安はあるが、とりあえず「青くても」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   荷とりに馬子の海へ飛こむ
 町中の鳥居は赤くきよんとして  嵐蘭

 「きよんと」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘副〙 他に飛び抜けて高く目立つさま。きょいと。
  ※俳諧・深川(1693)「町中の鳥居は赤くきょんとして〈嵐蘭〉 吹もしこらず野分しづまる〈岱水〉」

とある。用例がこの句だった。「きょいと」はgoo辞書の「デジタル大辞泉」では、

 「[形]《「けうとい」から転じた「きょうとい」の音変化。近世語》
  1 はなはだしい。とんでもない。
  「滅相な―・いこと言はんす」〈咄・無事志有意〉
  2 みごとである。すばらしい。
  「はあ、鯖 (さば) のすもじかいな。こりゃ―・い―・い」〈滑・膝栗毛・七〉」

とある。「気疎(けうと)い」は本来マイナスの意味の言葉だが、「いみじ」や「やばい」同様いい意味に転じて用いられたのだろう。
 赤鳥居というと稲荷系か。稲荷と言うと二月の最初の午の日は初午詣で賑わい、馬に縁がある。前句を馬子たちの祭りかなにかとしたか。二月だと寒中水泳だが。
 二十句目。

   町中の鳥居は赤くきよんとして
 吹もしこらず野分しづまる    岱水

 「しこらず」は醜(しこ)らずで悪くならないということか。「凄し」も「醜(しこ)し」から来ているという。赤鳥居の力で野分もひどくならずに静まる。
 二十一句目。

   吹もしこらず野分しづまる
 革足袋に地雪駄重き秋の霜    洒堂

 ウィキペディアによると、

 「足袋は本来皮革をなめして作られたものであり、江戸時代初期までは布製のものは存在しなかった。皮足袋は耐久性にすぐれ、つま先を防護し、なおかつ柔軟で動きやすいために合戦や鷹狩などの際に武士を中心として用いられたが、戦乱が収まるにつれて次第に平時の服装としても一般的に着用されるようになった。」

という。
 『猿蓑』の「鳶の羽も」の巻の八句目に、

   かきなぐる墨繪おかしく秋暮て
 はきごゝろよきめりやすの足袋  凡兆

の句があるように、元禄の頃にはメリヤスの足袋も一般化してきた。
 地雪駄は、きもの館創美苑のサイトの「きもの用語大全」によると、

 「江戸でつくられた「雪駄」のことです。貞享(1684~1687)ごろまでは、「穢多(えた)雪駄」のことをいい、真竹の皮の表に馬皮の裏をつけたもので、下品とされました。」

という。革足袋も地雪駄も動物の皮が用いられている辺り、その種の人たちを連想させたのかもしれない。災害で死んだ家畜などの処理に出動していたか。
 二十二句目。

   革足袋に地雪駄重き秋の霜
 伏見あたりの古手屋の月     芭蕉

 「古手屋(ふるてや)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 古着や古道具などをあきなっている店。古着屋、古道具屋など。古手店。また、それを職業にしている人。」

 革足袋も地雪駄も元禄の頃には時代遅れになり、伏見あたりの古道具屋に行くとあるというイメージだったか。
 二十三句目。

   伏見あたりの古手屋の月
 玉水の早苗ときけば懐しや    岱水

 玉水は井出の玉水で、古来山吹と蛙が詠まれてきた。

 かはづ鳴くゐでの山吹ちりにけり
     花のさかりにあはましものを
                よみ人しらず(古今集)
 山吹の花咲きにけりかはづ鳴く
     井手の里人いまやとはまし
                藤原基俊(千載集)
 山城の井手の玉水手に汲みて
     たのみしかひもなき世なりけり
                よみ人しらず(新古今集)
 山吹の花の盛りになりぬれば
     井手の渡りにゆかぬ日ぞなき
                源実朝(金塊集)

など多数ある。伏見より五里ほど南にある。
 伏見の早苗については『連歌俳諧集』の注に、

 伏みつや沢田の早苗とる田子は
     袖もひたすら水渋つくらん
                藤原俊成(夫木抄)
 植ゑくらす伏見のたごの旅寐には
     早苗ぞ草の枕なりける
                後法性寺入道関白(夫木抄)

の和歌が引用されている。
 この場合の「なつかし」は心惹かれるという意味だろう。伏見の早苗も歌に詠まれていたが、井出の玉水の早苗というと山吹にかじか蛙の声のする美しい田園風景が想像される。
 二十四句目。

   玉水の早苗ときけば懐しや
 我が跡からも鉦鞁うち来る    嵐蘭

 鉦鞁は鉦鼓のことであろう。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」には、

 「〘名〙 (「しょうご」とも)
  ① いくさで、合図などに用いるたたきがねと太鼓。
  ※続日本紀‐霊亀元年(715)正月甲申「陣二列鼓吹騎兵一。元会之日。用二鉦鼓一自レ是始矣」 〔漢書‐東方朔伝〕
  ② 雅楽に使う打楽器の一つ。青銅または黄銅製の皿形のもので、釣枠(つりわく)につるし二本の桴(ばち)で打つ。野外舞楽用の大鉦鼓(おおしょうご)、管弦の演奏・屋内舞楽用の釣鉦鼓(つりしょうご)、行進(道楽(みちがく))用の荷鉦鼓(にないしょうご)の三種がある。通常、釣鉦鼓をさし、鼓面直径約一五センチメートル。〔十巻本和名抄(934頃)〕
  ※梁塵秘抄(1179頃)二「稲子磨(いなごまろ)賞(め)で拍子(ほうし)付く、さて蟋蟀は、鉦この鉦このよき上手」
  ③ 仏家で、勤行のときなどに打ちならす円形青銅製のたたきがね。台や首につるしたり、台座に乗せたりして用いる。
  ※今昔(1120頃か)一二「其の南に大皷・鉦皷各二を㽵(かざ)り立て」

とある。この場合は③の意味で、小さな撞木で叩く小型のゴングのようなものをいう。
 井出の玉川へ旅をすると、後ろから西国三十三所の巡礼者の鉦鼓の音が近づいてくる。
 二十五句目。

   我が跡からも鉦鞁うち来る
 山伏を切ッてかけたる関の前   芭蕉

 『連歌俳諧集』の注、『校本芭蕉全集 第五巻』の注ともに謡曲『安宅』によるものとする。これは謡曲『安宅』のストーリーを知らないと意味がよくわからないので、俤ではなく本説になる。
 安宅の物語は弁慶・義経の御一行十二人が山伏に変装して陸奥平泉の藤原秀衡の元に向かう途中、富樫泰家が臨時に設けた加賀の安宅の関を通ろうとしたところ、関の前に山伏の首が切って掛けてあり、これはそのまま通ろうとするとやばいということで弁慶が策を講じて、無事通過することになる。
 このとき義経を体の弱い下っ端の剛力に変装させ、後からよろよろついてくるようにさせたところから、「我が跡からも鉦鞁うち来る」は弁慶から見た義経のことになる。
 なお、安宅関はそのが長いこと所在がわからなかったことから、芭蕉の『奥の細道』の旅でも立ち寄った記述はない。
 二十六句目。

   山伏を切ッてかけたる関の前
 鎧もたねばならぬよの中     洒堂

 元禄の世は平和だったけど、源平合戦の頃の乱世を思えば、鎧がなくては生きていけないような世の中だったな、と思う。
 二十七句目。

   鎧もたねばならぬよの中
 付合は皆上戸にて呑あかし    嵐蘭

 「付合」はこの場合「つきあい」で人が寄り集まることをいう。つきあうこと。「つけあい」と読むと連歌や俳諧の用語になる。
 まあ、何となく上戸(大酒飲み)というと豪傑のイメージがあり、酔えば大口叩く。俺はいつか鎧を着るような身分になるんだ、と気炎を上げるところか。
 二十八句目。

   付合は皆上戸にて呑あかし
 さらりさらりと霰降也      岱水

 霰ふる夜は下戸だと寒いだろうな、というのは酒のみの思うところか。酒飲みも飲んでるうちはいいが、そのまま寝てしまうと明け方には動かなくなってたりして。気をつけよう。
 二十九句目。

   さらりさらりと霰降也
 乗物で和尚は礼にあるかるる   洒堂

 霰が降っても偉いお坊さんは立派な駕籠に乗って檀家を廻る。そこいらの乞食坊主とはわけが違う。
 三十句目。

   乗物で和尚は礼にあるかるる
 たてこめてある道の大日     芭蕉

 和尚は駕籠に乗って通過してしまうから、道端の大日堂は放ったらかしになっている。

2020年11月6日金曜日

 社会契約(social contract)だと内容を法制度として明文化するために多くの人に一律に広めることができるが、社会の変化に対し、いくら法改正をするとしてもなかなか容易でなく、社会情勢が大きく変わっても古い法律がいつまでも残存することになる。
 その根底にある思想についても、一度ある程度体系的な思想が出来上がってしまうと、時代が変わってもなかなか修正が利かない。
 戦後七十年以上にわたる急激な変化に対し、硬直した思想と法制度への不満が、今あたかも民主主義が時代遅れであるかのようなムードを生み出していて、中国やロシアはそこに付け込もうとしている。
 社会の根底は不断の個々の取引(deal)の繰り返しで、常に流動する。本来それを補完し、公正にするためのものだった社会契約(social contract)が独り歩きしてしまわないように、必要な調整をしなくてはならないし、ちょうどその時期に来ていた。
 外交に、とくに社会契約を共有しない中国、北朝鮮、イランなどに取引(deal)を持ち込む試みは面白かったけど、あれはトランプだからできたことで、継承は難しいだろう。取引(deal)は基本的に個と個のものだから、理屈ではない。終わってしまうのは残念だ。また硬直した思想の退屈な世界に逆戻りしそうだ。
 それでは「青くても」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   焙炉の炭をくだす川舟
 祝ひ日の冴かへりたる小豆粥   岱水

 小豆粥はウィキペディアに、

 「日本においては、小正月の1月15日に邪気を払い一年の健康を願って小豆粥を食べる風習がある。この15日は望の日なので、望粥(もちがゆ)とも呼ぶ。また、雪深い東北地方や北陸地方では、1月7日の七草粥のかわりとして小豆粥を食べる地域もある。
 小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。」

とある。「冴える」は冬だが「冴かへる」は冬の寒さが春になっても再び戻ってくることを言う。
 小正月の頃に焙炉は季節が合わないが、焙炉の炭の炭焼きなら冬枯れの落葉樹を用いるため、冬から春になる。小豆粥を炊くのにも使える。
 八句目。

   祝ひ日の冴かへりたる小豆粥
 ふすま掴むで洗ふ油手      嵐蘭

 小麦ふすまは今は健康食品だが、昔は手を洗うのに用いてたようだ。『連歌俳諧集』や『校本芭蕉全集 第五巻』の注にも祝いの日の髪結いの油で汚れた手を洗うとしている。
 九句目。

   ふすま掴むで洗ふ油手
 掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや 芭蕉

 この句は『去来抄』で位付けの例として挙げられていて、「前句、町屋の腰元などいふべきか。是を以て他をおさるべし。」とある。
 掛け乞いは年末の取り立てのことだが、「乞い」を「恋」にして「掛け恋」にしたら、借金取りも優しくなるのではないか。
 というわけで、髪を整えて手を洗って、ちょっとばかり色目を使えば、少しはお手柔らかに見逃してくれるのではないかと、町屋の腰元も思うところだろう。
 十句目。

   掛ヶ乞に恋のこころを持たせばや
 翠簾にみぞるる下賀茂の社家   洒堂

 翠簾(みす)は「すいれん」と読めばコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」の

 「〘名〙 みどり色のすだれ。立派に飾られたすだれ。あおすだれ。《季・夏》
  ※菅家文草(900頃)五・冬夜呈同宿諸侍中「幸得二高躋一臥二九霞一、通宵守禦翠簾斜」
  ※太平記(14C後)一三「翠簾(スイレン)几帳を引落して残る処無く捜けり」

になる。神社の御神体のある神域と俗界を分ける結界の意味もある。代々下加茂神社に仕えてきた社家の人は、冬ともなるとみぞれに打たれながら翠簾の上げ下げを行っていたのだろう。
 御簾というと王朝時代では姫君を隠すもの。掛け乞いを掛け恋にするのなら、翠簾の開け閉めをする社家の人にも王朝の姫君の元に通うような恋の心を持たせてみたいと、そう応じたのではなかったか。
 十一句目。

   翠簾にみぞるる下賀茂の社家
 寒徹す山雀籠の中返り      嵐蘭

 「寒徹(かんとつ)す」はそのまま読むと寒さが染み通るというイメージだが、『連歌俳諧集』の注は「一年中通しての意」としている。夏の季語の山雀(やまがら)が冬を貫徹して籠で飼われているなら一年中ということか。
 『ヤマガラの芸:文化史と行動学の視点から』(小山幸子著、一九九九、法政大学出版局)によると、ヤマガラは鎌倉時代から芸を仕込まれていたという。

   山陵鳥(やまがら)
 山がらの廻すくるみのとにかくに
     もてあつかふは心なりけり
                 光俊朝臣(夫木抄)
 籠のうちも猶羨まし山がらの
     身の程かくすゆふがほのやど
                 寂蓮法師(夫木抄)

の歌があるが、江戸時代の宝永七年(一七一〇年)刊の『喚子鳥』(蘇生堂主人著)に、

 「くるまぎにつるべを仕かけ、一方に見ず(水)を入れ、一方にくるみを入る。常に水とゑをひかへするときは、かの水をくみあげ、又はくるみの方を引あげ、よきなぐさみなり」
 「籠の内、上の方にひやうたんに、ぜにほどのあなをあげ、つるべし。夜は其内にとどまるなり」

とあり、「廻すくるみ」が釣瓶上げの芸、「ゆふがほのやど」が瓢箪に穴をあけた巣で飼うことを意味していたと思われる。
 この『喚子鳥』には、輪抜けの芸のことも記され、

 「此鳥、羽づかひかろく、籠の内にて中帰りする。かるき鳥を小がへりの内、とまり木の上に、いとをよこにはり段々高くかへるにしたがひ、其いとを上に高くはりふさげ、のちには輪をかけ、五尺六尺のかごにても、よくかへり、わぬけするものなり。」

とある。山雀籠の中返りはこの芸のことと思われる。下加茂神社の門前でこうした芸が演じられてたのであろう。
 この輪抜け芸は昭和初期まであったのか昭和七年の「山雀」という唱歌に、

 くるくるまわる 目が回る
 とんぼう返り 宙返り

のフレーズがあるという。
 十二句目。

   寒徹す山雀籠の中返り
 正気散のむ風のかるさよ     岱水

 正気散は藿香正気散で古くからある漢方薬だという。風邪に効くというから、この句も正気散を飲んで風邪が軽くなったということなのだろう。
 輪抜け芸の山雀が軽く宙返りをするように、正気散飲んで元気ということか。
 十三句目。

   正気散のむ風のかるさよ
 目の張に先千石はしてやりて   洒堂

 島原の遊女高橋のことか。病気を押してなじみの客の前に出て千石の旗本でもコロッとなるが、実は正気散を飲んでいたという落ちにする。何か薬の宣伝みたいだ。正気散飲めば千石も夢じゃない!?
 十四句。

   目の張に先千石はしてやりて
 きゆる斗に鐙おさゆる      芭蕉

 芭蕉さんのことだからこれはお小姓のことにしたのだろう。千石取りの武将をも鐙(あぶみ)に泣いてすがってたらし込む。
 十五句目。

   きゆる斗に鐙おさゆる
 踏まよふ落花の雪の朝月夜    岱水

 踏むのももったいないような散った桜がびっしりと雪のように積もった朝月夜、花びらを巻き散らさないようにそろりそろりと歩く。
 十六句目。

   踏まよふ落花の雪の朝月夜
 那智の御山の春遅き空      嵐蘭

 前句の「踏まよふ」を那智の深い山の中で道に迷うこととする。景に転じた単なる遣り句のように見えるが、結構芸が細かい。
 十七句目。

   那智の御山の春遅き空
 弓はじめすぐり立たるむす子共  芭蕉

 弓はじめはコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 年の始め(正月七日)や、弓場を新設した時などに、初めて弓射を試みる武家の儀式。弓場始(ゆばはじ)め。《季・新年》」

とある。
 前句の「春遅き」を暮春ではなく、春が来るのが遅い、まだ寒い山里という意味に取り成して、正月行事にする。

 十八句目。

   弓はじめすぐり立たるむす子共
 荷とりに馬子の海へ飛こむ    洒堂

 「荷とり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 (「にどり」とも)
  ① 荷物を取ること。荷物を取り上げ、出発の用意をすること。
  ※永久三年十月廿六日内大臣忠通後度歌合(1115)「にどりせよ草の枕に霜おきて月出でば越えむ白川の関〈藤原宗国〉」
  ② 荷物の一部を盗み取ること。また、その盗人。
  ※雑俳・媒口(1703)「追々に荷取りの馬士がちらし髪」

 確かに普通、積荷を降ろすときには海に飛び込んだりしない。ちゃんと着岸して濡らさないように降ろすものだ。まだ海上にいる船から荷を降ろすのは泥棒と見ていい。
 ちなみに海上にいる船から他の船に荷物を移すのを「瀬取り」という。これも大抵小舟に乗って取りに行くので飛び込んだりはしない。
 前句の「すぐり立たる」を「立ちすぐり、居すぐり」のこととしたか。

2020年11月5日木曜日

  旧暦九月二十日。快晴。晩秋長月の俳諧はまだまだいけそうだ。
 次に取り上げるのは『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説のある「青くても」の巻で、『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豊隆監修、中村俊定校注、一九六八、角川書店)の中村注も参考にできる。
 興行は九月中旬から下旬とされていて日付ははっきりしない。深川芭蕉庵(第三次)での芭蕉、洒堂、嵐蘭、岱水の四吟歌仙興行で、洒堂編の『俳諧深川集』(元禄六年刊)に収録されている。このすぐ後には許六を迎えての「今日ばかり人も年寄れ初時雨 芭蕉」を発句とする興行も行わる。
 さて、その発句を見てみよう。

   深川夜遊
 青くても有べきものを唐辛子   芭蕉

 唐辛子は戦国時代に宣教師によって日本にもたらされたもので、日本でも栽培されるようになったが、日本では唐辛子を常食するような激辛文化は起こらなかった。薬として用いられるほかは、他の辛くないものとブレンドして薬味(今で言う七味唐辛子)としたり、味噌に混ぜて南蛮味噌にしたり、せいぜいピリ辛程度の刺激を楽しむだけだった。
 許六の『俳諧問答』を読んでた時に、

 「亡師五七日追善、木曾塚ニて、嵐雪・桃隣など集たるれきれきの百韻の巻に、
 青き中よりちぎる南蛮     乙州
 松の葉のちらちら落る月の影  朴吹」

とあって、許六は南蛮だけでは唐辛子なのか黍なのかわからない、と言っていた。南蛮黍はトウモロコシのことであろう。ただ、当時南蛮だけで唐辛子を意味することもあった。南蛮味噌を作る時には青唐辛子が用いられていた。『連歌俳諧集』の注によると、青唐辛子を酒の肴にすることもあったようだ。
 青唐辛子は芭蕉の時代はよくわからないが、江戸後期には夏の季語となっている。
 句の意味は、折から唐辛子の赤く色づく頃で、それを芭蕉は「青くても有べきものを」と赤くならなくてもいいのにと言わんとしているみたいだ。
 猿蓑の「市中や」の巻に既に、

   戸障子もむしろがこひの売屋敷
 てんじゃうまもりいつか色づく  去来

の句がある。空き家になった売り屋敷に唐辛子が赤く色づいているのが侘しげに見えたのだろう。
 寓意のない本来の意味では、唐辛子が赤くなるのは侘し気で、青いままでも良かったのにということではないかと思う。寓意としては互いに年は取りたくないね、ということか。
 脇。

   青くても有べきものを唐辛子
 提ておもたき秋の新ㇻ鍬     洒堂

 ゲストが脇を詠むのは、洒堂、嵐蘭、岱水を同格と見て、この日の洒堂が特別なゲストではなかったということだろう。
 秋になって鍬を新調したけど、それが重く感じるというところに老いの悲しさが込められている。年は取りたくないという発句の寓意を汲んでのことだろう。
 第三。

   提ておもたき秋の新ㇻ鍬
 暮の月槻のこつぱかたよせて   嵐蘭

 こっぱ(木っ端)は製材するときに生じる小さな木の切れ端を言う。
 欅は硬くて木目も美しい高級木材で、神社仏閣にもよく用いられるという。庭先の欅の木を切って売って、その金で鍬を新調したのだろう。昼に切った欅の木っ端を夕暮れに庭の隅に掃き寄せる。
 四句目。

   暮の月槻のこつぱかたよせて
 坊主がしらの先にたたるる    岱水

 坊主がしらは坊主衆の頭のことか。ウィキペディアには、

 「坊主衆(ぼうずしゅう)は、江戸幕府の職名のひとつ。江戸城内で法体姿・剃髪で世話役などの雑事に従事した人をいう。「表坊主」、「奥坊主」と「数寄屋坊主」などがある。武士の1種であり、代々世襲されていた。初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子息で、年少の頃より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった。表御殿は女人禁制のため、女中の代わりとして雑用を取り仕切る。広大な場内を整理・管理する必要性から生まれた役職である。」

とある。
 江戸城内で欅の剪定でもしたのだろう。木っ端をきれいにに片づけたところを坊主頭に率いられて、将軍や老中、若年寄などが通行する。
 五句目。

   坊主がしらの先にたたるる
 松山の腰は躑躅の咲わたり    洒堂

 広い江戸城内には築山もあって、そこには躑躅が咲いていてもおかしくない。ここの連衆が実際に江戸城に入って見たわけではあるまい。想像だろう。
 六句目。

   松山の腰は躑躅の咲わたり
 焙炉の炭をくだす川舟      芭蕉

 「焙炉(ほいろ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「製茶用の乾燥炉。もとは木の枠に厚手の和紙を張ったもので、蒸した茶の葉を炭火で乾燥させながら揉(も)んだ。《季 春》「家毎に―の匂ふ狭山かな/虚子」

とある。茶の産地の景色に転じる。
 『猿蓑』に、

 山吹や宇治の焙炉の匂ふ時    芭蕉

の句がある。

2020年11月4日水曜日

 アメリカの大統領はいつ決まるのかなー。
 まあそれはともかく今日はいい天気だった。
 それでは「雁がねも」の巻の続き。

 二裏。
 三十一句目。

   砧も遠く鞍にいねぶり
 秋の田のからせぬ公事の長びきて 越人

 「秋の田の」と来れば、

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
     わが衣手は露に濡れつつ
              天智天皇(後撰集)

であろう。「かりほ」と来るところを「からせぬ」と展開し、訴訟が長引いたからだとする。所領の境界争いなどで稲刈りに待ったがかかったのだろう。前句を裁判のために忙しくあちこち駆け回る人の姿とする。
 三十二句目。

   秋の田のからせぬ公事の長びきて
 さいさいながら文字問にくる   芭蕉

 訴訟は文書主義で行われるため、そのつど漢文で文章を書かなくてはならない。お坊さんか医者のところに文字を尋ねに何度も何度もやってくる。
 三十三句目。

   さいさいながら文字問にくる
 いかめしく瓦庇の木薬屋     越人

 木薬(きぐすり)は生薬(きぐすり)のこと。鬱金だとか地黄だとか決明子だとか漢方薬の原料はあまりなじみのない漢語が使われている。買いに行こうにも名前は聞いたが字がわからなかったりする。
 三十四句目。

   いかめしく瓦庇の木薬屋
 馳走する子の痩てかひなき    芭蕉

 「馳走」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① かけ走ること。走りまわること。馬を駆って走らせること。奔走。
  ※中右記‐永長元年(1096)八月六日「一寝之間車馬馳走道路」 〔史記‐項羽紀〕
  ② (世話するためにかけまわる意から) 世話をすること。面倒をみること。
  ※中右記‐永久二年(1114)二月三日「神宮之辺寄レ宿有レ恐、又無二先例一、只留二小屋一可レ待二天明一也、次畳三枚馬草菓子等少々所馳送也」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「いかめしく瓦庇の木薬屋〈越人〉 馳走する子の痩てかひなき〈芭蕉〉」
  ③ (用意のためにかけまわる意から) 心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。また、そのためのおいしい食物。ごちそう。
  ※ロドリゲス日本大文典(1604‐08)「ナニトガナ chisô(チソウ)イタサウト ゾンゼラル〔物語〕」
  ※記念碑(1955)〈堀田善衛〉「柚子風呂の馳走にあずかった」

とある。この場合は②の意味。
 店構えは立派な生薬屋だが、その子供はやせ細っている。まあ、漢方でも直せない病気はある。親としては八方手を尽くしているのだろうけど、そこは運命か。
 三十五句目。

   馳走する子の痩てかひなき
 花の比談義参もうらやまし    越人

 「談義参(だんぎまいり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 寺院に参詣して、法話を聴聞すること。
  ※俳諧・類船集(1676)盈「談儀参も遅参の人は縁にゐて聴聞するそ佗しき」

とある。
 寺院には桜の花も咲いているから、花見がてらの談義参りもいいものだ。ただ、子供がやせて病弱だとそれも果たせず、ただただうらやましい。
 挙句。

   花の比談義参もうらやまし
 田にしをくふて腥きくち     芭蕉

 仏法を聞いて殺生を戒めるように言われても、栄養の不足しがちな貧しい百姓さんにとってタニシは貴重なたんぱく源だ。まあ、そこは大目に見てほしいものだ。

2020年11月3日火曜日

  トルコの地震は他のニュースの陰に隠れちゃっているけど、死者がたくさん出て大変だ。イズミルというとヘラクレイトスのいたところだなあ。
 それでは「雁がねも」の巻の続き。

 二表。
 十九句目。

   雲雀さえづるころの肌ぬぎ
 破れ戸の釘うち付る春の末    越人

 肌脱いで何をするかと思ったら、破れた戸を釘で打ち付ける。ようやく雪の溶けた雪国の景で、雪の重みで壊れた戸を直しているのかもしれない。
 二の懐紙に入る所で越人が二句続けて、ここから上句が越人、下句が芭蕉になる。
 二十句目。

   破れ戸の釘うち付る春の末
 みせはさびしき麦のひきはり   芭蕉

 麦の碾割(ひきわり)は石臼で荒く砕いただけの麦のこと。米と混ぜて炊く。
 ウィキペディアには、

 「麦を精白したものを精麦という。麦粒は米に比べて煮えにくいので、先に丸麦を煮ておき、水分を捨てて粘り気を取り、米と混ぜて一緒に炊いた。これを「えまし麦」といい、湯取り法の一種である。また麦をあらかじめ煮る手間を省くため、唐臼や石臼で挽き割って粒を小さくした麦は、米と混ぜて炊くことができた。これを挽割麦という。これは主に農家の自家消費用であったが、明治十年頃からは一般にも販売されるようになった。
 現在多く流通しているのはいわゆる「押し麦」であるが、これは麦を砕く代わりにローラーで平たく押しつぶし、煮えやすくしたものである。明治35年に押し麦が発明されたが、当初は麦を石臼にかけ、手押しのローラーで押して天日で干す手作業で製造していた。大正二年、発明家の鈴木忠治郎が麦の精殻・圧延機を開発し、精麦過程が機械化された。更に鈴木は精麦機械の改良に取り組み、この「鈴木式」精麦機を備えた工場が各地に設立されて、精麦の大量生産体制が整った。」

とある。今の麦飯は押し麦を用いるが、その前は碾割を用いていた。
 昔は粟や稗や黍などの雑穀を盛んに食べていたが、春も末となるとそれらは品薄になり代わりに穫れ初めの麦が並ぶようになる。
 二十一句目。

   みせはさびしき麦のひきはり
 家なくて服裟につつむ十寸鏡   越人

 服裟(ふくさ)は袱紗(ふくさ)でウィキペディアには「贈り物の金品などを包んだり、覆うのに使用する方形の布である」とある。
 十寸鏡(ますかがみ、まそかがみ)は真澄鏡とも書き、立派な鏡、澄んだ鏡という意味で、特に十寸という寸法には意味がないようだ。
 「家なくて」は「女三界に家なし」と言われてたように、幼くは親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うとされてきた。俳諧でも田氏捨女を別にすれば女性は苗字や姓で呼ばれることはなかった。夫婦同姓でも夫婦別性でもなく、女性は基本的に姓を持たなかったと言った方がいいのかもしれない。(田氏捨女は田氏の家に生まれ田氏に嫁ぎ、生涯田氏だったため例外的にそう呼ばれている。)
 ひきわり麦を売る粗末な家に嫁いできたのだろう。鏡は大事に袱紗で包んで肌身離さず持ち歩いていたか。
 二十二句目。

   家なくて服裟につつむ十寸鏡
 ものおもひゐる神子のものいひ  芭蕉

 前句の十寸鏡を神社の御神体としたか。霊が憑りついて死者の言葉を伝えるイタコのような巫女が、神具として鏡を持ち歩いていたのだろう。
 二十三句目。

   ものおもひゐる神子のものいひ
 人去ていまだ御坐の匂ひける   越人

 これは『源氏物語』葵巻の物の怪憑依の場面か。
 「御坐(おまし)」は貴人の居所で、そこで焚いていた護摩の芥子の香が人のいなくなった後でも匂い続けているのだが、同じ香が別の場所にいる別の人にもというところは省かれている。
 葵の上を神子に変えるのは本説付けの常で、そのまんまではなく少し変えることになっている。
 二十四句目。

   人去ていまだ御坐の匂ひける
 初瀬に籠る堂の片隅       芭蕉

 同じ『源氏物語』の玉鬘巻の初瀬詣での場面とも取れるが、王朝時代に初瀬詣でをする貴人の多かったので、特に誰のことでもないということで展開をしやすくしている。
 本説付けの後の逃げ句としては模範とも言えよう。
 二十五句目。

   初瀬に籠る堂の片隅
 ほととぎす鼠のあるる最中に   越人

 初瀬のホトトギスというと、

 郭公ききにとてしもこもらねど
     初瀬の山はたよりありけり
              西行法師(山家集)

の歌もあるが、鼠の走り回る中で聞くというところに俳諧がある。
 二十六句目。

   ほととぎす鼠のあるる最中に
 垣穂のささげ露はこぼれて    芭蕉

 ささげは大角豆という字を当てることも多い。かつては赤飯に用いられていたが、今は小豆が使わることが多い。初夏に種を蒔き、夏の終わりには収穫できる。初秋で露の降りる頃にはホトトギスも鳴き止む。
 二十七句目。

   垣穂のささげ露はこぼれて
 あやにくに煩ふ妹が夕ながめ   越人

 垣穂の向こうには恋に悩む少女がいる。垣間見たいものだ。
 二十八句目。

   あやにくに煩ふ妹が夕ながめ
 あの雲はたがなみだつつむぞ   芭蕉

 雲をいとしい人に見立てるのだが、他にも泣かせている人がいそうだ。
 二十九句目。

   あの雲はたがなみだつつむぞ
 行月のうはの空にて消さうに   越人

 『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『源氏物語』夕顔巻の、

 山の端の心もしらでゆく月は
     うはのそらにて影や絶えなむ

の歌を引用している。『校本芭蕉全集 第四巻』の宮本注も同じ。
 夕顔の歌は源氏の君に怪しげな空き家に連れてこられて不安な気持ちを西へ行く月に喩えて、このまま消えてしまうような気がしますというもので、その後の展開を暗示させるものだった。
 ただ、この句では山の端へ消える(西、つまり浄土へ渡る)というのではなく、雲に隠れるだけだ。その雲は誰の涙が包むのかと、自分の悲しみではなく一般的な恋の悲しみに作り直している。
 俳言もなく、連歌のような付け句といっていいだろう。
 三十句目。

   行月のうはの空にて消さうに
 砧も遠く鞍にいねぶり      芭蕉

 月の消えるのを明け方のこととする。さっきまで夜中の砧の音を聞いていたのに、うとうとしている間に夜が明けてしまったか、月は西の空に沈もうとしている。
 戦場へ向かう兵士だろうか。長安の砧の音を思い起こし、それを夢に見たのかもしれない。

   子夜呉歌     李白
 長安一片月 萬戸擣衣声
 秋風吹不尽 総是玉関情
 何日平胡虜 良人罷遠征

の夫の側からの句であろう。

2020年11月2日月曜日

  大阪はまたしても阪神タイガースの試合のように最後に逆転負け。
 でもさすがに日本人は潔い。泣くな吉村、大阪の花だ。
 それにひきかえ、アメリカはどうなることか。ネバーギブアップの国だからな。ブッシュとゴアの時に本当にそう思った。
 それでは「雁がねも」の巻の続き。

 初裏。
 七句目。

   風にふかれて帰る市人
 なに事も長安は是名利の地    芭蕉

 これは白楽天の『白氏文集』の「長安は古来名利の地、空手金無くんば行路難し」で、前句の風に吹かれて帰る市人を金がなくて何も買えなかったとする。
 ここからは上句芭蕉、下句越人になる。
 八句目。

   なに事も長安は是名利の地
 医のおほきこそ目ぐるほしけれ  越人

 今もそうだが医者というのは都市に集中するものだ。昔は資格もなく勝手に開業できたから藪医者も多く、いくら医者が沢山いても、まっとうな医者を探すのに苦労したのかもしれない。
 九句目。

   医のおほきこそ目ぐるほしけれ
 いそがしと師走の空に立出て   芭蕉

 「立出て」というと、

 寂しさに宿を立ち出でて眺むれば
     いづこも同じ秋の夕暮れ
              良暹法師(後拾遺集)

の歌が思い浮かぶ。いずこも同じ藪医者ばかり。
 十句目。

   いそがしと師走の空に立出て
 ひとり世話やく寺の跡とり    越人

 寺の跡を継いだ人が、まだ何か不慣れで頼りないのだろう。まったく世話が焼ける。
 十一句目。

   ひとり世話やく寺の跡とり
 此里に古き玄番の名をつたへ   芭蕉

 「玄番(げんば)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「① 玄蕃寮のこと。また、玄蕃寮に属する役人。げんばん。
  ※観智院本三宝絵(984)中「治部玄蕃雅楽司等を船にのりくはへて音楽を調てゆき向に」
  ※俳諧・曠野(1689)員外「此里に古き玄番の名をつたへ〈芭蕉〉 足駄はかせぬ雨のあけぼの〈越人〉」

とある。
 その「玄蕃寮」はコトバンクの「世界大百科事典 第2版の解説」に、

 「日本古代の令制官司。玄は僧,蕃は海外諸国の意で,《和名抄》は〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉と訓じている。治部省の管轄下にあって,京内の寺院・仏事,諸国の僧尼の掌握,外国使節の接待,鴻臚館(こうろかん)の管理などをつかさどった。中国では玄は道教を意味し,隋・唐では崇玄署という道士(道教を修めた人)を監督する役所が設けられたが,この役所は同時に僧尼に関することも担当した。玄蕃寮の〈玄〉はおそらくこの役所に由来するもので,日本には道士が存在しなかったので,玄で僧侶のみを指すことになったのであろう。」

とある。
 古代に玄番を務めた人の末裔が今も田舎の小さな里を領有しているのであろう。それが今でも寺の跡取りの世話をしているというのが笑える。
 十二句目。

   此里に古き玄番の名をつたへ
 足駄はかせぬ雨のあけぼの    越人

 足駄は高下駄のことで、主に僧侶が履く。雨で土がぬかった時に歩きやすい。
 玄番の末裔は今でも僧侶を大事にし、雨に朝に足駄を履かせて外出させたりはしない。
 十三句目。

   足駄はかせぬ雨のあけぼの
 きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉

 足駄を履いて去ってゆこうとする男も、女のあまりにか細く艶やかな姿にためらう。
 十四句目。

   きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに
 かぜひきたまふ声のうつくし   越人

 「目病み女に風邪引き男」という諺があるが、どちらも色っぽく見えるということ。この諺がいつごろからなのかはわからないが、ひょっとしたら越人の句に起源があるのかもしれない。「蝉時雨」も越人から始まった可能性があり、新しい言葉を作る才能があったのかもしれない。
 目病み女というと、今でも眼帯フェチというのがあって、綾波レイの眼帯に萌える人たちがいるが。
 十五句目。

   かぜひきたまふ声のうつくし
 手もつかず昼の御膳もすべりきぬ 芭蕉

 「すべる」は古語では退出するの意味がある。風邪で食欲がないのは普通だが、前句の「うつくし」で高貴な人の御膳とするところに技がある。
 十六句目。

   手もつかず昼の御膳もすべりきぬ
 物いそくさき舟路なりけり    越人

 前句を船酔いとする。
 十七句目。

   物いそくさき舟路なりけり
 月と花比良の高ねを北にして   芭蕉

 比良山は琵琶湖の西岸にある。それが北に見えるというのは堅田より南だろう。前句の「いそくさき(磯臭き)」を「急ぐ先」に取り成して、月見と花見に急ぐ旅人のこととする。
 琵琶湖を渡るには瀬田の唐橋を渡るか矢橋(やばせ)の渡しを船で渡るかになる。

 もののふの矢橋の船は速かれど
     急がば廻れ瀬田の長橋
              宗長法師

の歌がある。船は川止めが多くあてにならないというので宗長法師の歌になったが、江戸時代でもやはり急ぐ人は矢橋(やばせ)の渡しを選ぶ人が多かったのだろう。
 十八句目。

   月と花比良の高ねを北にして
 雲雀さえづるころの肌ぬぎ    越人

 「肌脱ぎ」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「和服の袖(そで)から腕を抜いて上半身の肌をあらわにすること。また、その姿。「―になる」《季 夏》「這(は)ひよれる子に―の乳房あり/虚子」

とある。
 片方だけだと片肌脱ぎで肩脱ぎともいう。この場合は弓を射たりするときで、「片肌脱ぐ」は「加勢する」という意味になる。両方だともろ肌脱ぎで「全力を尽くす」という意味になる。
 この句の場合はそうした寓意ではなく、桜が咲いて雲雀が囀る頃には暖かくなり、働く人は肌脱ぎになるという、気候を添えて流した句と見るべきだろう。

2020年11月1日日曜日

  マクロンの言う表現の自由は、たとえて言えば面と向かっと馬鹿だの禿げだの言って言論の自由だというようなもの。他の国や民族の文化伝統を冒涜して表現の自由は無理がある。
 まあ、言論の自由はあるにはある。というか、自由というのは誰もが自由にふるまえば当然ながら自由と自由が衝突しあって、いわゆる「万人の万人に対する闘争状態」に陥ってしまうものだ。
 馬鹿と言うのも自由、馬鹿と言われて腹を立てるのも自由だ。ただそのまま放置すると当然ながら喧嘩になる。そこで社会契約を結び法律を定めて、ここまでの自由は認めるがこれ以上は駄目というのが近代人権思想の考え方だ。無制限の自由何てものはありえない。
 ただ、国際社会となると、そもそも国際法に規定のないことについては規制がない。だから何を言ってもいいのかとなると、当然ながら自由と自由、権利と権利がぶつかり合って戦争になる。
 御立派な人権思想が中国のウイグルやチベットの惨状を見ているしかできないのは、社会契約がすべての人に結ばれているわけでなく、いまだに国家内部にとどまっているからではないかと思う。
 社会契約は契約者しか拘束できない。これが今の人権思想の限界だと思う。

 西洋理性の欠陥は霊肉二元論により、肉体と精神、欲望と理性というふうに単純に二分することで、その間にある人間のメンタルな部分を完全に取りこぼしている所にある。肉欲は機械的で見境なく、それをコントロールするのが理性だというが、このどちらにも感情は存在しない。
 同様に、「万人の万人に対する闘争状態」にも「社会契約の状態」にも感情が入り込む透間がない。だが、実際人間はそのどちらでもない状態で原始から今の今まで普通に生活している。
 人は生まれた途端、それまで他の多くの人が生活している中に突然割り込んでゆくことになる。彼らが生まれたばかりのものを殺すのは文字通り赤子の手をひねるようなものだ。その中で生きてゆくのに最初から社会契約があるわけではない。まずは泣き叫んで生きるのに必要なものを要求する。親がそれを与えて喜びを感じることで最初の取引が成立する。
 生きるというのは絶えず要求を繰り返し、周囲の人間と取引を繰り返しながら、自分の居場所を確保してゆく。人生は生存の取引の繰り返しだ。それはcontractではなくdealだ。
 生存の取引は基本的に個と個の関係で一般化することはできない。それは例えば商人が価格交渉をするのに、取引先の足もとを見て価格を変えるようなもので、吹っ掛けたり値切ったりを繰り返しながら取引は成立してゆく。
 また生存の取引は一回限りのものではなく、不断に更新されてゆく。その過程でステータスを上げる者もいれば隅に追いやられてゆく者もいる。こうして絶えず流動的に社会というのは成立してゆく。
 もちろんそこには力関係もあり、理不尽な取引も数多くある。ただ、その取引の繰り返しによってある程度の均衡が生じることで、人は「万人の万人に対する闘争状態」を免れている。これが原始から今に至るまで繰り返されている人間社会の真の姿だ。そんな中で進化したのが人間の豊かな感情だった。
 人権思想は本来、人間が原始から行っているその営みを法則化し、いわば暗黙に行われてきた慣行や原始的な法律を体系化する試みだったはずだ。だから現代の法律学では慣行は尊重されているはずだ。
 人権思想はあまり杓子定規にふるまい慣行を軽視していくと、慣行が破壊され、そこに「万人の万人に対する闘争状態」の悪夢を引き起こす危険がある。言論の自由や表現の自由も適度なところで抑制し、世界のさまざまな民族文化伝統に敬意を払わないなら、それはやがて悲惨な戦争を引き起こすことになる。
 基本は文化的多様性を尊重するということだ。まして国家権力の及ばない国際社会においてはなおさらだ。

 さて再び俳諧を読んでいこうと思う。
 貞享五年『更科紀行』の旅を経て江戸に戻った芭蕉は、九月中旬にともに旅をした越人を芭蕉庵(第二次)に招き両吟一巻を巻く。この両吟は翌年に出版される『阿羅野』に収録されることになる。

 木曾の痩もまだなほらぬに後の月 芭蕉

の句を詠んで芭蕉庵で十三夜の月見の会を行った後のことだった。ひと月前の仲秋の名月の時には芭蕉と越人は姨捨山にいて、

 俤や姨ひとりなく月の友     芭蕉
 いざよひもまださらしなの郡哉  同
 さらしなや三よさの月見雲もなし 越人

という句も詠んでいる。「三よさの月」とあるように、十五夜だけでなく十六夜(いざよい)、十七夜(立ち待ち月)も楽しんだ。
 さてこの九月中旬の両吟の発句。

   深川の夜
 雁がねもしづかに聞ばからびずや 越人

 芭蕉庵に越人が招かれた形になるので、発句は越人になる。
 この一巻は『連歌俳諧集』(日本古典文学全集32、一九七四、小学館)にも解説があり、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)の宮本注もある。
 深川芭蕉庵は小名木川が隅田川と合流する所にあり、夜ともなれば水鳥の声が結構うるさかったのかもしれない。雁はその名の通り「かり」と鳴くとも「がん」と鳴くとも言われている。犬のキャンと鳴く声にも似ている。
 「からぶ」はweblio辞書の「学研全訳古語辞典」に、

 「①乾く。ひからびる。
  ②(声が)かすれる。しわがれ声を出す。
  出典今昔物語集 二七・三四
  「林の中にからびたる声の」
  [訳] 林の中にかすれた声の。
  ③枯れて物さびる。枯淡の趣に見える。
  出典無名抄 会歌姿分事
  「秋・冬は細くからび」
  [訳] 秋・冬は細く枯淡の趣に見え。」

とある。
 隅田川がすぐ近くにあるから雁の声はかなりうるさくて、「枯れて物さびる。枯淡の趣に見える」には程遠い状態だったのではなかったかと思う。
 この場合は①②の意味で、いつもは雑音にしか聞こえないうるさい雁の声も、こうして二人で静かに耳を傾けてみると、しわがれた声ではなく、結構澄んだ良い声なんだなとあらためて認識する。そういう意味ではなかったかと思う。
 脇。

   雁がねもしづかに聞ばからびずや
 酒しゐならふこの比の月     芭蕉

 「酒しゐ」は酒を強いること、無理に勧めることだが、十三夜から月見の宴が続くと、お客さんに酒を勧めて飲ませるのに慣れてしまった、とやや照れたように言う。
 普通の酒飲みなら酒しゐは普通のことで、「まあ飲めや、何俺の酒が飲めねえだと、べらんめえ」というところだが、「朝顔に我は飯食う男哉」の芭蕉さんのことだから、ようやく人に酒を勧められるようになった、ということろか。まあ、越人さんは大の酒好きだから、早く酒しゐしてくれと思ってたところだろう。
 第三。

   酒しゐならふこの比の月
 藤ばかま誰窮屈にめでつらん   芭蕉

 両吟の習いとして、第三は脇と同じ人が詠む。四句目、五句目は発句を読んだ人が詠む。
 藤袴は秋の七草の中では地味な方で、俳諧に詠まれることも少ないが、ここでは「袴」と掛けて正装=窮屈の連想で付ける。
 酒を強いることについて、袴を履いて集まるあらたまった月見の会でもないし、窮屈にする必要もないので、と言い訳の句に転じる。
 四句目。

   藤ばかま誰窮屈にめでつらん
 理をはなれたる秋の夕暮     越人

 秋の夕暮れは、

 心なき身にもあはれは知られけり
     鴫立つ沢の秋の夕暮れ
              西行法師(新古今集)

のように、別に古典の素養とか故事とか知らなくても誰でも言うに言われぬようなあわれな気分になる。「あわれ」は今の言葉だと「エモい」ということか。
 「理をはなれる」というと、

 おもしろや理窟はなしに花の雲  越人

という句も『阿羅野』に選ばれている。
 五句目。

   理をはなれたる秋の夕暮
 瓢箪の大きさ五石ばかり也    越人

 一石は十斗で約百八十リットル、ドラム缶が約二百リットルだから、五石はドラム缶五本分になる。
 五石の瓢箪は『荘子』「逍遥遊編」に登場するもので、恵子が魏の王から瓢箪の種をもらったが五石もの大きさになって、酒を入れても持ち運べない、柄杓にするにも大きすぎると言ったのに対し、荘子はならば船にでもしたらどうだと言う。まあドラム缶五個分だったら小舟にしかならないが。
 前句の秋の夕暮れのエモに老荘の無為自然の心を感じ、五石の瓢箪の登場となる。
 なおこの『荘子』「逍遥遊編」には「越人斷髮文身」の文字もあり、古代の越の国の人の風俗が倭人に似ていたことが記されている。その倭人の国が今では銭湯や温泉で分身お断りとはこれいかに。入れ墨は邪馬台国の頃から日本の文化だったはずなのに。
 秋は五句までなので、瓢箪を秋としても問題はない。ただ打越に藤袴があるので、瓢箪は器物、つまり植物を使った製品であれば非植物としなくてはならない。
 六句目。

   瓢箪の大きさ五石ばかり也
 風にふかれて帰る市人      芭蕉

 『連歌俳諧集』の暉峻・中村注は、『蒙求』の許由の故事とする。『徒然草』十八段にも引用されていて、

 「唐土に許由といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨は、冬の月に衾なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり。」

とある。
 まあ、五石の瓢箪を見ても「ああでかい瓢箪があるな」くらいで終わって、わざわざ買おうとは思わない。どうやって持って帰るかも問題だし、船もわざわざ瓢箪で作らなくても普通に小舟はある。
 五石の瓢箪は結局売れず、出品した商人は空しく帰るのみ。