2019年10月28日月曜日

 いつの間にか季節は変り冬になっていた。今日は旧暦十月一日。まだ気温は二十度を越えているが。
 オリンピックのマラソンがいきなりIOCの決定で札幌に変更とかいっているが、こういうのを開催地に無断で決めていいことなのか、いろいろ問題は残るだろう。
 アスリートの健康の問題は確かにわかる。夏の甲子園だって、あんな炎天下でやる必要があるかどうかは疑問だ。ただ、時期の変更ならわかるが、場所を変更するとなると、今後暑い地域でのスポーツの大会が困難になるのではないか。カタールもオリンピックを招致しようとしているが、カタールには札幌のような場所はない。今後オリンピックは涼しい限られた国だけで行われるようになるのか。
 今やフランスだって四十五度の猛暑で、ヨーロッパ全体が暑くなっている。他のスポーツにも影響を与えれば、スポーツのできる国が限られてしまうのではないか。
 一九六四年の東京オリンピックは十月にやったのに、何で今回は夏になってしまったのか、そのことも最初から引っかかっていた。
 それでは芭蕉脇集。

貞享二年
   われもさびよ梅よりおくの藪椿 雅良
 ちやの湯に残る雪のひよ鳥     芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅の途中、伊賀で年を越し二月まで滞在した時の句。
 藪椿は自生する椿のこと。梅の華やかさに較べて、濃緑の葉の中に埋もれるように咲く椿は地味だ。私もこんな風に静かに暮らしたいという発句に、静かに茶の湯を立てながら、灰色の地味なヒヨドリを雪の上に見る、と返す。
 「われもさびよ」に同意し、寂びた景色を添える。季語は「残る雪」で春になる。ヒヨドリだけだと秋。
 椿は茶の湯の席で茶花として用いられることが多く、茶の木自体もツバキ科ツバキ属で椿の仲間でもある。椿に近いものでサザンカがあるが山の茶花と書く。椿は茶の湯に縁がある。

   我桜鮎サク枇杷の広葉哉    秋風
 筧に動く山藤の花         桃青

 同じく『野ざらし紀行』の旅の途中、京の三井秋風の別墅、花林園を尋ねた時の句。
 発句の意味はわかりにくいが、桜はまだ咲いてないが、枇杷の広葉のような鮎の開きの一夜干を桜に見立てて、今日の宴を始めましょうということか。
 それに対し、芭蕉は泉の水を引いてきた筧(懸樋)に山藤の花も咲いてます、と返す。
 秋風は風流人だが金持ちで、料理にはこだわりがあったのだろう。そこに山藤の花もきれいですよと、やや諌めた感じがする。

   梅絶て日永し桜今三日     湖春
 東の窓の蚕桑につく        桃青

 これも三井秋風の花林園での句か。
 梅の花は終わり桜にはまだあと三日くらい先か、という発句に春蚕の飼育も始まっていると付ける。

   つくづくと榎の花の袖にちる  桐葉
 独り茶をつむ藪の一家       芭蕉

 三月下旬、熱田での七吟歌仙興行の発句と脇。
 榎の花も地味な花で、こういう花はやはり茶花に用いるのだろう。藪椿の句と同様、茶を付ける。

   夏草よ吾妻路まとへ五三日   若照
 かさもてはやす宿の卯の雪     芭蕉

 鳴海の知足亭での句。
 江戸に帰ろうとする芭蕉に、夏草よ、吾妻路に絡まって足止めしてくれという発句に対し、卯の花が雪のようで、笠(旅に欠かせない)が必要ですね、と答える。

   涼しさの凝くだくるか水車   清風
 青鷺草を見越す朝月        芭蕉

 六月二日。『野ざらし紀行』の旅から戻り、少ししてからの小石川での興行。出羽尾花沢の清風を迎え、其角、嵐雪、才丸、素堂、コ齋などが揃い、百韻を巻く。清風は『奥の細道』の旅のときに尋ねてゆくが、忙しくてなかなか会ってもらえなかった。
 水車が涼しさを細かく砕いて撒いてくれてるようだ、という清風の発句に、青鷺が草越しに朝の月を見ていると水辺の景を添える。

2019年10月27日日曜日

 今日は芝離宮や浜離宮のあたりを散歩した。
 それでは芭蕉脇集の続き。

貞享元年
   何となく柴ふく風もあはれなり 杉風
 あめのはれまを牛捨にゆく     芭蕉

 芭蕉の『野ざらし紀行』の旅立ちの際の杉風の餞別句に付けたもの。無季の発句に対し、無季で付けている。
 発句の「柴ふく風」は秋風を連想させるものの、言葉には表れていない。芭蕉の脇の「牛捨にゆく」も何を意味するのかよくわからない。寓意に囚われずに、「あはれ」から連想するものを付けたか。

   芭蕉野分其句に草鞋かへよかし 李下
 月ともみぢを酒の乞食       芭蕉

 同じく『野ざらし紀行』の旅立ちの際の李下の餞別句に答えたもの。
 「芭蕉野分」は延宝九年の秋に詠んだ、

   茅舎ノ感
 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉

を指すものと思われる。このときの茅舎は李下が贈った芭蕉一株を新しい庵に植えたことで芭蕉庵と呼ばれるようになり、それが桃青から芭蕉へと名前を変えることになった。桃青という俳号はそのまま残したものの、句に署名する時には「芭蕉」を用いるようになった。
 天和三年の九月に第二次芭蕉庵が完成したが、一年も立たずに旅立つ芭蕉に、あの茅舎を草鞋に変えてしまうのですね。それもまたいいでしょう。そうしなさい、という句に、芭蕉は「月ともみぢを酒の乞食」だからそれがふさわしい、と返す。

   い勢やまだにていも洗ふと云句を和す
   宿まいらせむさいぎゃうならば秋暮 雷枝
 はせをとこたふ風の破がさ     芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅の途中、伊勢の西行谷で、

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ    芭蕉

と詠む。桶に芋(里芋)を入れて、それに棒を差して洗っている田舎の長い髪を結わずに後ろに垂らした古風な女性は、芭蕉の好みなのだろう。母親の俤があるのかもしれない。
 その句を知った雷枝(もちろん男性)は芭蕉が宿を訪ねてきたときに、西行さんですか、と問うと、芭蕉は「いいえ、芭蕉です」と答える。

   花の咲みながら草の翁かな   勝延
 秋にしほるる蝶のくづをれ     芭蕉

 発句の「みながら」は「身ながら」で、「花の咲く身」とはいっても桜ではなく草の花の咲く翁でしょうか、と疑いつつ治定する「かな」を用いる。草の花は花野の花で秋になる。
 これに対し芭蕉は「草の翁」なんてそんな立派なもんではない、秋に萎れて老いぼれてゆく蝶のようなものです、と返す。

   師の桜むかし拾はん落葉哉   嗒山
 薄を霜の髭四十一         芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅で大垣の木因の元を尋ね、芭蕉、木因、嗒山、如行の四人で四吟歌仙を興行した時の句。
 天和の頃芭蕉さん、あなたの教えを受けたことがありますが、その時の芭蕉さんがくれた桜(教えられたことの比喩)も今は落葉になってしまってます、と謙虚な発句に対し、芭蕉も、私も霜の降りた薄のような無精ひげを生やした四十一歳になる男です、と答える。
 昔は四十で初老と呼ばれていたし、四十前後での隠居も普通だった。それにもまして芭蕉は実年齢以上に老けて見えたという。

   霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申  如行
 古人かやうの夜のこがらし     芭蕉

 これも大垣滞在中の句。
 蚊帳は夏の蚊を防ぐだけでなく、細かい網目は風を通さないから防寒具としても役に立つ。こうした生活の知恵に、古人もこうして夜を暖かく過ごしたのだろうかと感慨を述べる。

   能程に積かはれよみのの雪   木因
 冬のつれとて風も跡から      芭蕉

 同じく大垣滞在中の句。

 旅に支障のない程度に程よく積もってくれという木因の発句に、私が冬の風を連れてきてしまったかな、と返す。

   田家眺望
   霜月や鸛の彳々ならびゐて   荷兮
 冬の朝日のあはれなりけり     芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅で、十一月に名古屋で興行した時の句。芭蕉、野水、荷兮、重五、杜国、正平、野水に途中から羽笠も加わって巻いた五歌仙と表六句は、『冬の日』(荷兮編貞享元年刊)として刊行された。
 これはその五番目の歌仙の句。「て」留めのこれまでの常識を破るような発句に対し、脇も体言止めではなく「けり」で応じる。
 霜月の鸛に朝日の哀れを添える。軽く流したようでいながら、興行の場所を褒め称える寓意を含んでいる。
 発句と脇を合わせると、

 霜月や鸛の彳々ならびゐて
     冬の朝日のあはれなりけり

と和歌のように綺麗につながる。

   檜笠雪をいのちの舎リ哉    桐葉
 稿一つかね足つつみ行       芭蕉

 『野ざらし紀行』の旅で、十二月に熱田で桐葉からの送別句に答える。
 発句は、檜笠(ひのきがさ)に雪の積もるのを見て、この笠が命を守ってくれると詠む。芭蕉が延宝四年に詠んだ、

 命なりわづかの笠の下涼み     桃青

の句を髣髴させる。
 これに対し芭蕉は、藁一束(わらひとつかね)で足を包みながら行きますと返す。命を守るものは笠だけではない。

2019年10月26日土曜日

 芭蕉の発句集は多いけど、脇を集めた脇集というのは聞いたことがない。ならば作ってみようか。
 句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)よる。

  芭蕉脇集

延宝四年
   梅の風俳諧国にさかむなり   信章
 こちとうづれも此時の春      桃青

 『桃青三百韻附両吟二百韻』の二百韻の二番目の巻の脇。信章は後の素堂。「こちとうづれも」は「こちとの連れも」の音便化したもの。
 「梅の花」に「春」という単純な付け合いに、俳諧が国に盛んだからこち(芭蕉)と連れ(素堂)もと付ける。談林流の速吟に向いた付け方だ。

   時節嘸伊賀の山ごえ華の雪   杉風
 身は爰元に霞武蔵野        桃青

 杉浦正一郎氏蔵の芭蕉俳諧真蹟懐紙による。『花供養』(天命七年・蘭更編)にもあるという。
 芭蕉が伊賀に旅立つ際の送別の興行であろう。伊賀の山を越える頃には雪でしょうな、という送別の発句に対し、我が身はいつまでもこの霞む武蔵野にあります、と答える。

延宝六年
   物の名も蛸や故郷のいかのぼり 信徳
 あふのく空は百余里の春      桃青

 『桃青三百韻附両吟二百韻』の三百韻のほうにある。信徳の発句は、

   草の名も所によりてかはるなり
 難波の葦は伊勢の浜荻       救済

の句を本歌とし、難波の「いかのぼり」は江戸の「たこ」だとする。信徳は京の人。
 「あふのく」は仰向けになるという意味だが、ここでは仰向けになって見る空は、ということ。江戸から京までは四百キロ以上あるので、京の空は百余里の彼方になる。
 発句の「いかのぼり」に放り込みのように「春」を付けている。

   寶いくつあつらへの夢あけの春
 蓑笠小槌あら玉の空        桃青

 歳旦吟で、発句の作者はわからない。
 正月の宝船には七福神とともにいくつもの宝が乗せられている。脇ではその宝の内容として、打出の小槌や玉とともに、昔は晴れ着の意味もあった蓑笠を加える。後の、

 降らずとも竹植うる日や蓑と笠   芭蕉

は蓑笠が晴れ着であることを示している。

延宝九年
   余興
   附贅一ツ爰に置けり曰ク露   揚水
 無-用の枝を立し犬蘭        桃青

 『俳諧次韻』の巻末の余興の四句の脇。
 発句は『荘子』外編の駢拇篇の、

 「駢拇枝指、出乎性哉、而侈於德。附贅縣疣、出乎形哉、而侈於性。多方乎仁義而用之者、列於五藏哉、而非道德之正也。」

 儒家の言う仁義などは指が生まれつきくっついていたり、生まれながらにイボがあったりするようなもので、余計なものだというわけだ。
 まあ、仁義礼智は本来誰しも生まれ以て身についている孟子の言葉でいえば「四端の心」から生じたものだが、それを概念にして論じようとすると、人それぞれの経験の差異から微妙に意味内容がずれて、結局は議論がかみ合わずに争いになったりする。
 俳諧の句というのもその意味では本来の情を正確に伝えるわけではなく、余計なものといえば余計なものだ。その余計なものを「露」という、と卑下してるのか美化しているのか微妙な言い回しをする。
 芭蕉の脇はそれを受けて、本来枝のない蘭に枝をつけて、これは「犬蘭」とでもいうべきか、と応じる。
 連歌の『菟玖波集』『新撰菟玖波集』に対して、俳諧の祖宗鑑が『新撰犬筑波集』を編纂したところから、「犬」は俳諧のシンボルでもある。卑下しているようでも俳諧への誇りを表わしている。

   市中より東叡山の麓に家を写せし比
   鮭の時宿は豆腐の雨夜哉    信章
 茶にたばこにも蘭のうつり香    桃青

 『下郷家遺片』に記された付け合い。
 東叡山は上野の寛永寺のこと。weblio辞書の「美術人名辞典」に、「北村季吟・松尾芭蕉と親交を深め、のちに上野不忍池畔で隠棲生活に入る。」とある。
 鮭の時分だが豆腐しかないというのは、仏道に精進しているということか。それに対し芭蕉は「茶や煙草にも高貴な蘭の香りがします、豆腐でもかまいませんよ」と返す。

天和二年
   酒債尋常住処有
   人生七十古来稀
   詩あきんど年を貪ル酒債哉   其角
 冬-湖日暮て駕馬鯉         芭蕉

 これは『虚栗』(天和三年、其角編)の其角・芭蕉の両吟歌仙。
 前書きと発句は杜甫の「曲江詩」

   曲江      杜甫
 朝囘日日典春衣 毎日江頭盡醉歸
 酒債尋常行處有 人生七十古來稀
 穿花蛺蝶深深見 點水蜻蜓款款飛
 傳語風光共流轉 暫時相賞莫相違

 朝廷を追われ春の着物を質屋に入れて送る日々
 毎日曲江の畔で酔っぱらって帰るだけだ
 行くところはどこも酒の付けがあって当たり前
 どうせ人生七十過ぎてまで生きることは稀だ
 花の間を舞うアゲハはこそこそしてるし
 水を求めるトンボはわが道を行くかのようだ
 伝えて言う、この眺望よ共に流れてゆく定めなら
 しばらくは違いに目をつぶりお互いを認め合えや

による。
 どうせいつかは死ぬんだから借金など気にせずに酒でも飲んで仲良くやろうじゃないか、とばかり「詩あきんど」つまり詩で生計を立てる者はうだうだ酒飲んでは時間を浪費し、付けが溜まってゆく。
 これに対し芭蕉は、発句の詩あきんども曲江の湖の畔で釣りをしてすごせば、やがて鯉を馬に乗せて帰ると和す。
 鯉は龍になるとも言われる目出度い魚で、これを売って一年の酒債を返しなさいということか。
 まあ其角さんのことだから、結局最後は鯉屋の旦那(杉風)が何とかしてくれるという楽屋落ちの意味があったのだろう。

2019年10月25日金曜日

 今日も『三冊子』の続き。芭蕉の脇について。

  「市中は物の匂ひや夏の月
  あつしあつしと門々の聲
 此脇、匂ひや夏の月、と有を見込て、極暑を顕して見込の心を照す。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)

 これは『猿蓑』の歌仙の脇だ。元禄三年六月、凡兆宅での興行になる。発句は凡兆で、それに芭蕉が脇を付ける。
 市中の物の匂いも暑さもあまり有難いものではない。市場の匂いにも夏の月があればと見込む発句に対し、芭蕉も極暑のなかで夏の月があればと見込む、というのが土芳の解釈だ。
 ただ、芭蕉はこの頃から脇を形式ばった挨拶にする事に疑問を感じていたのだろう。それは後の「蛍迯行」と同じで、それまでの脇句の常識だと、夏の月が出たのだから、それに対し「涼しい」と付けて主人を持ち上げるものだったところを、あえて「いやー、それにしても暑い」と本音で返す所に新味があったのではないかと思う。
 ただ、この「あつしあつし」も発句の「物の匂いや」に同意しているわけだから、失礼にはならない。同意しながらともに「夏の月」の有難さがあればと見込む意味では、土芳の解釈も当を得ている。

  「いろいろの名もまぎらはし春の草
  うたれて蝶の目をさましぬる
 此脇は、まぎらはしといふ心の匂に、しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)

 これは『ひさご』の歌仙で、芭蕉は脇のみの参加。前半は珍碩(後の洒堂)と路通の両吟、後半は荷兮と越人の両吟になる。元禄三年の興行で「市中は」の巻の三ヶ月前になる。発句は珍碩。
 元禄三年刊の『ひさご』では、

  いろいろの名もむつかしや春の草 珍碩
   うたれて蝶の夢はさめぬる   芭蕉

になっているが、享保二十年刊の別版『ひさご』には、土芳が引用した形で収められている。土芳の言う方が初案と言われている。
 発句の名前のよくわからない春の草(今なら名もなき雑草というところだろう)に対し、まず「うたれて」と来るわけだが、これは「畑打つ」のことだろうか。
 「うたれて蝶の目をさましぬる」だと、雑草が掘り起こされて、底に止まって休んでいた蝶は夢から醒めて飛び立つわけで、土芳が言うように「しきりに蝶のちり乱るる様思ひ入て、けしきを付たる句」になる。
 ただ、蝶の目を覚ますという所に『荘子』の胡蝶の夢の連想が働くと、これは蝶が飛び立つと同時に、自分自身もはっと打たれたように夢から醒めて元の自分に戻ることになる。「うたれて蝶の夢はさめぬる」の形だと、よりその寓意がはっきりする。
 寓意を表に出すのか裏に隠すのか、これは『去来抄』の「大切の柳」にも通じることなのかもしれない。裏に隠すのが正解なら、元禄版の『ひさご』の方が初案で、享保版『ひさご』や『三冊子』の方が改案だったのかもしれない。
 なお、この歌仙の十八句目が、

   しほのさす縁の下迄和日なり
 生鯛あがる浦の春哉      珍碩

の句が挙句っぽいので、最初半歌仙を巻いて、荷兮と越人が後から付け足したか。

  「折々や雨戸にさはる萩の聲
  はなす所におらぬ松むし
 この脇、発句の位を思ひしめて、匂よろしく事もなく付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.125)

 この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏で、

  折々や雨戸にさはる萩の聲
   放す所におらぬ松蟲

とある。元禄七年八月九日附の去来宛書簡に記されている。「あれあれて」の巻の時に引用した「しぶしぶの俳諧」の書簡だ。発句は雪芝だという。
 発句の雨戸に萩の枝が触れるような田舎の小さな家から、そこに住む人の位で付けたということか。松虫を捕まえたものの、可哀相になって放してあげる、そういう心やさしい住人ということなのだろう。

   あれあれて末は海行野分哉
 靍の頭を上る粟の穂       芭蕉

の脇も、鶴をお目出度いものという寓意で用いずに、あえて「常体の気色」で用いるところなど、やはり晩年の脇の体といえよう。
 芭蕉の脇に言及した部分はこれで終わりになり、ここから先は普通の付け句になる。

2019年10月24日木曜日

 今年は台風の当たり年で、また台風が近づいている。直撃はなさそうだが、今夜も雨が降っている。
 さて、先日の『三冊子』の続きで、芭蕉の脇の付け方を土芳を通して見てみよう。

  「菜種干ス莚の端や夕涼み
  蛍迯行あぢさいのはな
 此脇、発句の位を見しめて事もなく付る句也。同前栽其あたりの似合敷物を寄。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)

 この句は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)では元禄七年の夏の所にある。

  菜種ほすむしろの端や夕涼み 曲翠
   蛍迯行あぢさゐの花    翁

とある。
 「迯」は「逃」と同じ。
 菜種は菜の花が咲いたあと二ヶ月から三ヶ月で種になり収穫し、乾燥させる。その頃には暑くなり、菜種を乾燥させている筵の隅っこに座って夕涼みすることはよくあったのだろう。
 発句の寓意を受けずにさらっと流すのは、芭蕉の晩年の脇の付け方だったのだろう。蕉風確立期なら「蛍の止まる」とでもしそうだ。意図的にその古いパターンをはずした風にも見える。

  「霜寒き旅寝に蚊帳を着せ申
  古人かやうの夜の木がらし
 此脇、凩のさびしき夜、古へかやうの夜あるべしといふ句也。付心はその旅寝心高く見て、心を以て付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)

 この句は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)では、『稿本野晒紀行』の、

  霜の宿の旅寝に蚊帳をきせ申 如行
   古人かやうの夜のこがらし  蕉

の形で収められている。貞享元年の『野ざらし紀行』の旅の途中での吟だったが、二年後の貞享三年に刊行された『春の日』では発句のみ、

 霜寒き旅寝に蚊屋を着せ申   如行

と上五を直した形で掲載されている。
 「蚊帳 暖かい」で検索してみたが、案外蚊帳は暖かいという。確かに蚊が通れないような細かい網だから、風も通さないのだろう。
 如行の句は昔の人の知恵だったのだろう。今は新聞紙を防寒着に使うというのがよく言われているが、それに近いものか。
 これに対し芭蕉は古人に思いを馳せて感慨を表わす。この古人を引き合いに出すあたりに蕉風確立期の古典回帰があらわれている。

  「おくそこもなくて冬木の梢哉
  小春に首の動くみのむし
 この脇、あたたかなる日のみの虫なり。あるじの貌に客悦のいろを見せたるはたらきを付たる句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124~125)

 この句は『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)では、

  奥庭もなくて冬木の梢かな  露川
   小春に首の動くみのむし  翁

となっている。元禄四年の句。
 葉が落ちた木の向こうには透けて見える結構な庭があるわけでもない、と小さな庭を謙遜して詠んだ発句に対し、蓑虫も喜んで首を出しているよと答える。芭蕉が自分自身を蓑虫に喩え、「客」である芭蕉が「悦のいろを見せ」ている。

2019年10月22日火曜日

 今日の即位の礼はあいにくの雨の中を行われた。大正・昭和・平成と即位の礼は大嘗祭の直前の十一月十日(平成は十二日)に行われて来たのに、どうして今回は神様のいない月になってしまったのか疑問だ。恵比寿様に祝福されたかったのか。(旧暦ではまだ長月だが、それだと新暦の大嘗祭は神無月になる。)
 十月は関東では秋の長雨の続くことが多く、台風のシーズンでもある。雨は予想できただろうに。まあ虹が見えたというツイットもあったようだから、それはそれで目出度い。虹は凶兆だという説もあるが、天地は陰陽不測で、吉凶を判断するのは結局人間だ。
 テレビで高御座(たかみくら)が紹介されていたが、花山天皇のことが思い出される。実質的な統治を行わない天皇の最大の仕事はお世継ぎを作ることだったから、昔はこういう話もタブーではなく、むしろ色好みを賛美する土壌があって、そこから『源氏物語』も生まれたのだろう。
 安定した皇位継承者の数を確保するには、昔みたいに一夫多妻を認めるというのも一つの選択肢かもしれない。
 女帝を認めるなら、もう一度宇佐八幡宮の神託を得る必要があるのではないか。

 「あれあれて」の巻で苦戦していた土芳だが、のちに『三冊子』を書いたときに、この巻の芭蕉の脇にも触れている。
 今回は『三冊子』に記された芭蕉の脇の付け方を見てゆくことにしよう。

  「あれあれて末は海行野分かな
  鶴のかしらをあぐる粟の穂
   鳶の羽もかいつくろハぬ初しぐれ
  一吹風の木の葉しづまる
 此脇二は、前後付一体の句也。鶴の句は、野分冷じくあれ、漸おさまりて後をいふ句なり。静なる体を脇とす。
 木の葉の句は、ほ句の前をいふ句也。脇に一あらし落葉を乱し、納りて後の鳶のけしきと見込て、発句の前の事をいふ也。ともにけしき句也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123)

 「前後付一体の句」は江戸中期以降の注釈だと「二句一章」ということになるのだろうけど、一首の和歌のように緊密に付いているということか。
 脇は発句の挨拶の寓意に対し、それを迎える主人の挨拶の寓意を込めることが多いが、この句はそうした寓意はなく、軽く景色を付けて流している。
 たとえば『奥の細道』の頃だと、

   風流の初めやおくの田植歌
 覆盆子を折て我まうけ草     等躬

のように、風流(俳諧興行)を田植歌の興で始めましょうという挨拶に対し、それならイチゴを用意しましょうという風に同じく挨拶で受ける。

   馬かりて燕追行別かな
 花野みだるる山のまがりめ    曾良

にしても、行ってしまう芭蕉と曾良に対する北枝の別れの挨拶で、いくら馬でも燕には追いつけませんという寓意のある発句に対し、花の咲き乱れる野原で山の曲がり目だから、別れにふさわしい場所ですと会話するように付けている。
 芭蕉の最後の興行になった「白菊の」の巻でも、

   白菊の眼に立て見る塵もなし
 紅葉に水を流すあさ月      その女

のように、芭蕉がその女を白菊に喩えたのに対し、朝早く流し場に立つ普通の女ですと寓意を込めた句で返している。
 これからすると、「鶴のかしらをあぐる粟の穂」は寓意に乏しく、嵐の去った後の景色でさらっと流している。
 「一吹風の木の葉しづまる」の句も発句の鳶の羽をかいつくろうというところから、風も収まったからだとする。
 特別寓意に満ちた会話はないけど、「台風が去ったね」「鶴も首を挙げているよ」、「鳶が羽をつくろってるね」「風も収まったからね」というふうに会話になっている。

  「寒菊の隣もありやいけ大根
  冬さし籠る北窓の煤
 此脇、同じ家の事を直に付たる也。内と外の様子也。煤の字有て句とす。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123)

 これは『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に、表三句が掲載されている。

   深川の草庵をとぶらひて
 寒菊の隣もありやいけ大根    許六
  冬さし籠る北窓の煤     翁
 月もなき宵から馬をつれて来て  嵐蘭

 許六の「寒菊の」の句は『俳諧問答』にも登場し、「翁の論じて云ク、世間俳諧するもの、此場所ニ到て案ずるものなしと称し給ふ。」とある。
 いけ大根は土に埋めて保存する大根で、寒菊の隣には大根も埋まっている。冬の花の孤独に咲く姿は寓意もあり、春を待つ冬大根もその寓意に寄り添う。
 これに対しての芭蕉の脇は、寒菊といけ大根の外の景色に対し、さし籠る部屋の北窓には火を焚いた煤がこびりついてゆく、と受ける。「さし籠る」は「鎖し籠る」で引き籠るに同じ。
 「煤の字有て句とす」というのは、ここに春までの時間の経過が感じられ、いけ大根の春を待つ情に応じているからだろう。
 寓意を弱くして、発句の情を受けながらも、前と後、内と外と景を違えて付けるのが、芭蕉の晩年の脇の風だったのだろう。

  「しるべして見せばやみのの田植うた
  笠あらためん不破の五月雨
 此脇、名所を以て付たる句也。心は不破を越る風流を句としたる也。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.123~124)

 これは貞享五年夏の句。『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)にはこうある。

    ところどころ見めぐりて、洛に暫く旅ねせしほど、
    みのの国よりたびたび消息有て、桑門己百のぬ
    しみちしるべせむとて、とぶらひ来侍りて、
 しるべして見せばやみのの田植歌 己百
  笠あらためむ不破のさみだれ  ばせを

 「美濃の田植歌へとご案内しましょうか」という発句に対し、「それじゃあ不破の関の五月雨に備えて笠を新しくしましょう」と答える。
 晩年の軽く景を付けて流す風ではなく、美濃への旅を思い描く中から、不破の関という途中の名所を付けている。

  「秋の暮行先々の苫屋かな
  荻にねようか萩にねようか
 此脇、発句の心の末を直に付たる句なり。」(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』p.124)

 これは元禄二年秋、『奥の細道』の旅の最後に伊勢へ向うときの句で、『校本芭蕉全集 第四巻』(小宮豐隆監修、宮本三郎校注、一九六四、角川書店)には四句が収められている。

    ばせを、いせの国におもむけるを舟にて送り、
    長嶋といふ江によせて立わかれし時、荻ふし
    て見送り遠き別哉 木因。同時船中の興に
  秋の暮行さきざきの苫屋哉   木因
   萩に寝ようか荻に寝ようか  ばせを
  玉虫の顔かくされぬ月更て   路通
   柄杓ながらの水のうまさよ  曾良

 行く先々に苫屋があるという発句に、そのままそこで寝ようかと付けている。「萩」と「荻」の字が似ていて間違えやすいというところをネタにして、「萩に寝ようか荻に寝ようか」となる。
 謡曲『松風』の在原行平の3Pを匂わせているのかもしれない。

2019年10月20日日曜日

 今日は横浜オクトーバーフェストに行き、九月の台風で落ちた梨を使ったという和梨のヴァイツェンを飲んだ。
 そのほかにも横浜よさこい祭りを見たり、山手の洋館を見たりして、楽しい一日だった。
 それでは「あれあれて」の巻の続き。挙句まで。

 二裏。
 三十一句目。

   暫く岸に休む筏士
 衣着て旅する心静也       芭蕉

 「衣(ころも)」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①衣服。
 出典万葉集 二八
 「春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたへ)のころも干(ほ)したり天(あま)の香具山(かぐやま)」
 [訳] ⇒はるすぎてなつきたるらし…。
  ②僧の着る衣服。僧衣。
 参考平安時代以後、①は歌語としてだけ用いられ、衣服一般には「きぬ(衣)」、その尊敬語には「おんぞ(御衣)」を使った。物語の地の文などで「ころも」と読むのは、もっぱら②の意味である。」

とある。
 ただ、「ころもがえ」や「たびごろも」「なつごろも」という時は別に僧衣ではないし、和歌の言葉は俳諧にも引き継がれているから、僧衣でなくても「ころも」を使うのは珍しくない。
 ただ、芭蕉が『奥の細道』の旅で詠んだ『奥の細道』未収録の、

   種(いろ)の浜
 衣着て小貝拾はんいろの月    芭蕉『荊口句帳』

のように単独で用いられると、何の衣かと言ったときには多分僧衣なのだろう。

 汐そむるますほの小貝拾ふとて
     色の浜とはいふにやあるらむ
               西行法師

の歌に因んだものとなれば、西行法師のように僧衣を着てというふうに取れる。
 まあ、旅をする時には僧形になる場合も多いから旅衣も僧衣の場合が多い。芭蕉も『野ざらし紀行』の伊勢の所で、

 「腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。襟に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。」

とあるし、『奥の細道』でも曾良を紹介する時、

 「このたび松しま・象潟(きさかた)の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且つは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁(たびだつあかつき)髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改めて宗悟とす。」

とある。
 この場合も、僧形で旅する心静也という意味でいいのだろう。仕事で急ぐ人と違い僧形の気ままな旅なら、筏がなかなか出なくてもいらいらしない、というところか。
 三十二句目。

   衣着て旅する心静也
 加太へはいる関のわかれど    土芳

 『芭蕉門古人真蹟』では最初上五が「伊賀路に」とあり、消して右に「加太へ」と書いてある。
 江戸時代の東海道は関宿を出ると鈴鹿川を北上し、鈴鹿峠を越えて甲賀へと抜ける。ここを加太川(かぶとがわ)に沿ってゆくと伊賀へ抜ける。芭蕉にとっても伊賀の連衆にとってもお馴染みの道に違いない。
 前句の旅人を芭蕉さんとして東海道を普通に行かずに伊賀に立ち寄るとしたのだろう。楽屋落ちとも言える。
 ただ、「伊賀路」だとその作意が露骨なので、途中の地名の「加太」にしたのではないかと思う。
 三十三句目。

   加太へはいる関のわかれど
 耳すねをそがるる様に横しぶき  猿雖

 「耳すね」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「耳のずい」とある。これでもよくわからない。耳たぶのことのようだが断定できないということか。
 「横しぶき」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「横なぐりに降る雨のしぶき。」

とある。山中での悪天候に難儀する旅人を付ける。

 苦しくも降り来る雨か神(みわ)が崎
     狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
               長忌寸奥麿(万葉集)

の歌を髣髴させる。この歌は、

 駒とめて袖打ち払ふ陰もなし
     佐野のわたりの雪の夕暮れ
               藤原定家朝臣(新古今集)

の本歌ということで、本歌取りの例として受験勉強で覚えさせられた人も多いことだろう。佐野は和歌山県新宮市の熊野路の佐野で、栃木県の佐野ではない。
 三十四句目。

   耳すねをそがるる様に横しぶき
 行儀のわるき雇ひ六尺      望翠

 「六尺」はコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」には、

 「陸尺とも記。江戸時代,武家における駕籠(かご)かき,掃除夫,賄(まかない)方などの雑用に従う人夫をいった。江戸城における六尺は奥六尺・表六尺・御膳所六尺・御風呂屋六尺など数百人に及び,彼らに支給するため天領から徴集した米を六尺給米といった。頭を除いてはいずれも御目見以下,二半場(にはんば),白衣勤,15俵1人扶持高であった。」

とある。ここでは武家のお抱えの駕籠かきのことか。
 「行儀」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①なすべきこと。手本とすべき規範。
  ②立ち居振る舞い。また、その作法。」

とある。今日の「行儀が悪い」よりはやや広い意味で用いられていたか。
 多分、風雨が強いのにいきなり駕籠の引き戸を開けたりしたのだろう。そんなことしたら雨が吹き込んでびしょぬれになる。
 三十五句目。

   行儀のわるき雇ひ六尺
 大ぶりな蛸引あぐる花の陰    配刀

 『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、

   行儀のわるき雇ひ六尺
 花盛湯の呑度をこらへかね

だった。「呑度」は「のむたび」か。お湯を飲んでばかりいるということか。前句の「行儀のわるき」をそのまま付けたのだろう。打越も六尺の無調法なので、展開に乏しい。芭蕉としてはここは普段無調法の六尺も花の席で手柄を立てたというほうに持ってきたかったのだろう。
 行儀のわるい人が急に行儀良くしても面白くないから、ここはそういう人だけ突拍子もないことをする、という方に持ってゆく。
 場所は明石だろうか。花見の席で蛸壺を引き上げると、大ぶりな蛸がそこに。これは目出度い。「六尺」には「賄(まかない)方」の意味もあったから、これをその場で捌いてご馳走してくれたのだろう。
 挙句。

   大ぶりな蛸引あぐる花の陰
 米の調子のたるむ二月      木白

 『芭蕉門古人真蹟』では、この句は最初、

   大ぶりな蛸引あぐる花の陰
 戸を押明けてはいる朧夜

だった。「夜」の右に「の暮」と書いてあるが、「朧の暮」「春の暮」にしようとしたか。いずれにせよ字数が合わない。結局全部消して「米の調子」の句に治定する。
 二月は米の相場も薄商いなのか。年貢米も集まり田植もまだという所で、相場があまり動かなかったのだろう。田植が始まればにわかに先物相場が活気付きそうだが。
 八月九日付けの去来宛書簡に「しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候」とあるところからすると、最後の付けなおした二句は実質的に芭蕉の句だったのだろう。大タコも米相場もなかなか凡人の発想では出てこない。
 ここでも木白が挙句を詠んでいるところを見ると、木白は主筆だったのだろう。そう見るとやはり十八句目の初案は半歌仙の挙句だったか。
 そうなると十二句目の、

   頃日は扇子の要仕習ひし
 湖水の面月を見渡す       木白

の句は、みんなが付けあぐねている時に芭蕉が木白にも振ってみて、この句ができたら「これだ」と思って治定したか。
 多分木白は普通に景を付けただけだったのだろう。ただ芭蕉はすぐに近江の国の高島扇骨のことが閃いたか。
 十七句目の花の定座の時が特にそうだが、土芳も芭蕉の新しい風についていけずに苦戦していた感じが伝わってくる。