「あれあれて」の巻の続き。
二十五句目。
たらゐの底に霰かたよる
燈に革屋細工の夜はふけて 土芳
「燈」は「ともしび」。革屋細工は穢多だろうか。火を灯して夜通し作業をしていると、霰が降ったのか盥の底に霰が風で一方の方に吹き寄せられている。
二十六句目。
燈に革屋細工の夜はふけて
鼬の声の棚本の先 配刀
「棚本(たなもと)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 台所。勝手元。流し元。また、そこでする仕事をいう。
※咄本・醒睡笑(1628)八「朝食をいそぎ用意し、〈略〉棚(タナ)もとその外掃除をきれいにして置きたり」
とある。
鼬(イタチ)の毛皮は高級品で、特にイタチの仲間であるテン(セーブル)は珍重された。『源氏物語』では末摘花がふるき(黒貂、ロシアンセーブル)の毛皮を着ていた。
皮革業者の台所の向こうでその高級毛皮の元が鳴いている。
二十七句目。
鼬の声の棚本の先
箒木は蒔ぬにはへて茂る也 芭蕉
箒木(ほうきぎ)はこの場合伝説のははきぎのことではなく、箒の材料となる草のこと。コトバンクの「大辞林 第三版の解説」には、
「アカザ科の一年草。高さ約1メートル。多数枝分かれし、狭披針形の葉を密に互生。夏、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。果実は小球形で、「とんぶり」と呼ばれ食用。茎は干して庭箒を作る。箒草。ハハキギ。」
とある。最近ではコキアといって、紅葉を観賞する。
外来の植物だが零れ種から自生することもある。
イタチの毛皮も役に立つし、自生のホウキギも役に立つ。役に立つつながりの響きで付けている。
二十八句目。
箒木は蒔ぬにはへて茂る也
干帷子のしめる三日月 猿雖
帷子(かたびら)は夏に着る単衣の着物。
帷子を干していると夕立が来て濡れてしまい、それが去ると夕暮れの空に三日月が浮かぶ。箒木の茂る頃の情景とした。
二十九句目。
干帷子のしめる三日月
神主は御供を持て上らるる 望翠
「御供(ごくう)」はお供え物のこと。朝夕に行われる。
三十句目。
神主は御供を持て上らるる
暫く岸に休む筏士 卓袋
「筏士(いかだし)」は筏師とも書く。ウィキペディアには、
「筏師(いかだし)とは、山で切り出した材木で筏を組み、河川で筏下しをすることによって運搬に従事することを業としていた者。筏夫(いかだふ)・筏乗(いかだのり)・筏士(いかだし)とも。」
とある。
大井川いはなみたかし筏士よ
岸の紅葉にあから目なせそ
源経信(金葉集)
筏士よ待て言問はむ水上は
いかばかり吹く山の嵐ぞ
藤原資宗朝臣(新古今集)
など、歌にも詠まれている。
神主が朝夕のお供えを運ぶころには、筏士は休憩の時間になる。向え付け。
2019年10月17日木曜日
2019年10月16日水曜日
この前の台風で栃木県で那珂川に流された牛が、三十キロ川下の茨城県で発見されたというニュースがあった。牛は強い。
去年の広島豪雨で240メートル流されたポニーも無事で、今年の八月には出産までしている。動物が強いのか、それとも人間が弱すぎるのか。
まあ、そういうことで、
牛流す村のさはぎや五月雨 之道
の句も、牛は無事で良かった良かったという、洪水で被害の出ている中での数少ない明るいニュースだったのだろう。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
十八句目の句は『芭蕉門古人真蹟』では最初、
焼さして柴取に行庭の花
柳につなぐ馬の片口 木白
になって、差し替えられている。
「片口(かたくち)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「馬の口取り縄を、左または右の片方だけ引くこと。⇔諸口(もろくち)。
「或(ある)は諸口に引くもあり、或は―に引かせ」〈長門本平家・一六〉」
とある。
悪い句とは思えない。ただ、桜に柳と目出度く仕上げているあたり、ひょっとしたらこれは半歌仙の挙句だったのかもしれない。予定を変更してもっと続けようとなって、芭蕉が付けなおしたか。
二表。
十九句目。
こへかき廻す春の風筋
坪割の川よけの石積あげて 望翠
「川よけ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「堤防など、河川の氾濫防止施設。また、その施設を造ること。」
とある。
堤防にするための石を土地の坪数ごとに割り振って積み上げてある状態であろう。
川は風の通り道になることが多い。川にきちんと堤防を築かないと、氾濫した川に肥が流れ出して大変なことになる。多摩川のことではないが。
二十句目。
坪割の川よけの石積あげて
日なた日なたに虱とり合 木白
川除普請のためにかき集められた人足たちだろうか。
夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉
の句もあるように、昔の人は虱と共存しているようなものだった。ありふれた光景だったのだろう。
二十一句目。
日なた日なたに虱とり合
大名の供の長さの果もなき 配刀
大名行列も時々休憩したりしたのだろう。道中では虱に悩まされることも多かった。
二十二句目。
大名の供の長さの果もなき
向のかかのおこる血の道 猿雖
「血の道」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「月経すなわち婦人の血に関係のある病態を総合したもので、月経時、月経前、月経後、妊娠時、分娩(ぶんべん)後(産褥(さんじょく)時)、流産後、妊娠中絶後、避妊手術後、更年期の血の道症に分けられる。症状としては、のぼせ、顔面紅潮、身体灼熱(しゃくねつ)感、冷え、めまい、耳鳴り、肩こり、頭痛、動悸(どうき)、発汗、興奮、不眠、月経不順、不正出血、肝斑(かんはん)、しびれ、脱力感などがあり、更年期障害類似の自律神経失調症ということができる。[矢数圭堂]」
とある。
大名行列見物は庶民の娯楽でもあり、徳川御三家以外は特に道にひれ伏す必要もなかったという。
ただ、長く見物していると、途中で具合の悪くなることもある。更年期のおばさんにとっては「はてのなき血の道」となることも。
前句の「はてもなき」を「道」で受ける、一種のうけてにはといってもいいだろう。
二十三句目。
向のかかのおこる血の道
一升は代を持て来ぬ酒の粕 芭蕉
『芭蕉門古人真蹟』では最初「一升は代を置て来ぬ酒の粕」として、その「置」を消して「持」と右に書いている。「来ぬ」も消してあるがふたたび「来ぬ」右に書いている。
「置」だと「だいをおきてこぬ」で字余りになるから、それを嫌ったのだろう。只酒かと思わせて、実は酒粕だった、それなら只でもおかしくないと落ちにする。
一升もの酒粕を何にするのかというと、多分向かいの更年期のおばばが粕漬けでも作るのだろう。
二十四句目。
一升は代を持て来ぬ酒の粕
たらゐの底に霰かたよる 望翠
酒一升を盥で飲めば、底の隅に酒粕が残る。それを霰に喩えたか。前句を只酒に取り成す。
去年の広島豪雨で240メートル流されたポニーも無事で、今年の八月には出産までしている。動物が強いのか、それとも人間が弱すぎるのか。
まあ、そういうことで、
牛流す村のさはぎや五月雨 之道
の句も、牛は無事で良かった良かったという、洪水で被害の出ている中での数少ない明るいニュースだったのだろう。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
十八句目の句は『芭蕉門古人真蹟』では最初、
焼さして柴取に行庭の花
柳につなぐ馬の片口 木白
になって、差し替えられている。
「片口(かたくち)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「馬の口取り縄を、左または右の片方だけ引くこと。⇔諸口(もろくち)。
「或(ある)は諸口に引くもあり、或は―に引かせ」〈長門本平家・一六〉」
とある。
悪い句とは思えない。ただ、桜に柳と目出度く仕上げているあたり、ひょっとしたらこれは半歌仙の挙句だったのかもしれない。予定を変更してもっと続けようとなって、芭蕉が付けなおしたか。
二表。
十九句目。
こへかき廻す春の風筋
坪割の川よけの石積あげて 望翠
「川よけ」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、
「堤防など、河川の氾濫防止施設。また、その施設を造ること。」
とある。
堤防にするための石を土地の坪数ごとに割り振って積み上げてある状態であろう。
川は風の通り道になることが多い。川にきちんと堤防を築かないと、氾濫した川に肥が流れ出して大変なことになる。多摩川のことではないが。
二十句目。
坪割の川よけの石積あげて
日なた日なたに虱とり合 木白
川除普請のためにかき集められた人足たちだろうか。
夏衣いまだ虱をとりつくさず 芭蕉
の句もあるように、昔の人は虱と共存しているようなものだった。ありふれた光景だったのだろう。
二十一句目。
日なた日なたに虱とり合
大名の供の長さの果もなき 配刀
大名行列も時々休憩したりしたのだろう。道中では虱に悩まされることも多かった。
二十二句目。
大名の供の長さの果もなき
向のかかのおこる血の道 猿雖
「血の道」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、
「月経すなわち婦人の血に関係のある病態を総合したもので、月経時、月経前、月経後、妊娠時、分娩(ぶんべん)後(産褥(さんじょく)時)、流産後、妊娠中絶後、避妊手術後、更年期の血の道症に分けられる。症状としては、のぼせ、顔面紅潮、身体灼熱(しゃくねつ)感、冷え、めまい、耳鳴り、肩こり、頭痛、動悸(どうき)、発汗、興奮、不眠、月経不順、不正出血、肝斑(かんはん)、しびれ、脱力感などがあり、更年期障害類似の自律神経失調症ということができる。[矢数圭堂]」
とある。
大名行列見物は庶民の娯楽でもあり、徳川御三家以外は特に道にひれ伏す必要もなかったという。
ただ、長く見物していると、途中で具合の悪くなることもある。更年期のおばさんにとっては「はてのなき血の道」となることも。
前句の「はてもなき」を「道」で受ける、一種のうけてにはといってもいいだろう。
二十三句目。
向のかかのおこる血の道
一升は代を持て来ぬ酒の粕 芭蕉
『芭蕉門古人真蹟』では最初「一升は代を置て来ぬ酒の粕」として、その「置」を消して「持」と右に書いている。「来ぬ」も消してあるがふたたび「来ぬ」右に書いている。
「置」だと「だいをおきてこぬ」で字余りになるから、それを嫌ったのだろう。只酒かと思わせて、実は酒粕だった、それなら只でもおかしくないと落ちにする。
一升もの酒粕を何にするのかというと、多分向かいの更年期のおばばが粕漬けでも作るのだろう。
二十四句目。
一升は代を持て来ぬ酒の粕
たらゐの底に霰かたよる 望翠
酒一升を盥で飲めば、底の隅に酒粕が残る。それを霰に喩えたか。前句を只酒に取り成す。
2019年10月15日火曜日
「あれあれて」の巻の続き。
十三句目。
湖水の面月を見渡す
わき指の小尻の露をぬぐふ也 配刀
『芭蕉門古人真蹟』は小尻のところが「こじろ」となっていて、「ろ」を消して右に「り」と書いてある。「こじろ」では意味がわからないので、単なる書き間違いか、伊賀では訛ってそう言ってたのかであろう。小尻は刀の鞘の先端で、金具が付いている。
脇差は武士でなくても持つことができた。『続猿蓑』の「八九間」の巻の九句目に、
孫が跡とる祖父の借銭
脇指に替てほしがる旅刀 芭蕉
とあるが、旅をする時に旅刀ではなく脇差をもつこともあり、「道中差」と呼ばれた。
湖の月を見ているこの人もおそらく旅人であろう。ひんやりとした夜風に脇差の鞘の先端の金具に露が降りる。
十四句目。
わき指の小尻の露をぬぐふ也
相撲にまけて云事もなし 猿雖
相撲に刀は付き物だったのだろう。『奥の細道』の山中温泉での三吟の四句目にも、
月よしと角力に袴踏ぬぎて
鞘ばしりしをやがてとめけり 北枝
とある。判定をめぐってトラブルになれば、脇差を抜くこともあったのだろう。ただ、完敗となれば刀を抜くこともできず、小尻の露を拭うだけ。どこか涙を思わせる。
今でも相撲の行司は脇差を持っている。差し違えをしたときに切腹するためだといわれているが、最初は喧嘩になった時のために持っていたのではないかと思う。審判に食って掛かるやつは他のスポーツでは普通に見られるし。
十五句目。
相撲にまけて云事もなし
山陰は山伏村の一かまへ 芭蕉
山伏といえば屈強の男というイメージがある。相撲に負けて相手はどんなやつだと思ったら、山陰の山伏村の山伏だった。それじゃあ仕方ない。
山伏といえば、『ひさご』の「木のもとに」の巻の十句目にも、
入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
中にもせいの高き山伏 芭蕉
の句がある。
十六句目。
山陰は山伏村の一かまへ
崩れかかりて軒の蜂の巣 卓袋
その山伏村は荒れ果てて軒には蜂の巣がそのままになっている。
十七句目。
崩れかかりて軒の蜂の巣
焼さして柴取に行庭の花 土芳
『芭蕉門古人真蹟』は「花盛真柴をはこぶ」と書いて、「花盛」を消して右に「焼(たき)さして」と書き、「焼さして真柴をはこぶ花」とまで書いて、「花」を消して下に庭の花とし、「真」と「をはこぶ」を消して右に「取に行」とする。
複雑だが、
花盛真柴をはこぶ
焼さして真柴をはこぶ花
焼さして真柴をはこぶ庭の花
焼さして柴取に行庭の花
の順だったと思われる。
花の定座なので最初に「花盛」とし、荒れた家に「真柴をはこぶ」と付けたが後が続かず、花を後に持ってきて「焼(たき)さして」の上五を置いたのだろう。
火をつけようとして真柴をはこぶという意味で、崩れかかった家の生活感を描き出す。そしてそこに花ということで、おそらく花盛り、花の庭などと考えて「庭の花」に落ち着いたのだろう。
「焼さして真柴をはこぶ庭の花」でも良さそうなものだが、「真柴をはこぶ」の四三のリズムが今ひとつだったか、最終的に「焼さして柴取に行庭の花」で治定ということになる。
十八句目。
焼さして柴取に行庭の花
こへかき廻す春の風筋 芭蕉
花に春風は付き物で、前句が田舎の景色ということで糞(こへ)の匂いを付ける。
『炭俵』の「むめがかに」の巻の十九句目にも、
門で押るる壬生の念仏
東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉
の句がある。
十三句目。
湖水の面月を見渡す
わき指の小尻の露をぬぐふ也 配刀
『芭蕉門古人真蹟』は小尻のところが「こじろ」となっていて、「ろ」を消して右に「り」と書いてある。「こじろ」では意味がわからないので、単なる書き間違いか、伊賀では訛ってそう言ってたのかであろう。小尻は刀の鞘の先端で、金具が付いている。
脇差は武士でなくても持つことができた。『続猿蓑』の「八九間」の巻の九句目に、
孫が跡とる祖父の借銭
脇指に替てほしがる旅刀 芭蕉
とあるが、旅をする時に旅刀ではなく脇差をもつこともあり、「道中差」と呼ばれた。
湖の月を見ているこの人もおそらく旅人であろう。ひんやりとした夜風に脇差の鞘の先端の金具に露が降りる。
十四句目。
わき指の小尻の露をぬぐふ也
相撲にまけて云事もなし 猿雖
相撲に刀は付き物だったのだろう。『奥の細道』の山中温泉での三吟の四句目にも、
月よしと角力に袴踏ぬぎて
鞘ばしりしをやがてとめけり 北枝
とある。判定をめぐってトラブルになれば、脇差を抜くこともあったのだろう。ただ、完敗となれば刀を抜くこともできず、小尻の露を拭うだけ。どこか涙を思わせる。
今でも相撲の行司は脇差を持っている。差し違えをしたときに切腹するためだといわれているが、最初は喧嘩になった時のために持っていたのではないかと思う。審判に食って掛かるやつは他のスポーツでは普通に見られるし。
十五句目。
相撲にまけて云事もなし
山陰は山伏村の一かまへ 芭蕉
山伏といえば屈強の男というイメージがある。相撲に負けて相手はどんなやつだと思ったら、山陰の山伏村の山伏だった。それじゃあ仕方ない。
山伏といえば、『ひさご』の「木のもとに」の巻の十句目にも、
入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
中にもせいの高き山伏 芭蕉
の句がある。
十六句目。
山陰は山伏村の一かまへ
崩れかかりて軒の蜂の巣 卓袋
その山伏村は荒れ果てて軒には蜂の巣がそのままになっている。
十七句目。
崩れかかりて軒の蜂の巣
焼さして柴取に行庭の花 土芳
『芭蕉門古人真蹟』は「花盛真柴をはこぶ」と書いて、「花盛」を消して右に「焼(たき)さして」と書き、「焼さして真柴をはこぶ花」とまで書いて、「花」を消して下に庭の花とし、「真」と「をはこぶ」を消して右に「取に行」とする。
複雑だが、
花盛真柴をはこぶ
焼さして真柴をはこぶ花
焼さして真柴をはこぶ庭の花
焼さして柴取に行庭の花
の順だったと思われる。
花の定座なので最初に「花盛」とし、荒れた家に「真柴をはこぶ」と付けたが後が続かず、花を後に持ってきて「焼(たき)さして」の上五を置いたのだろう。
火をつけようとして真柴をはこぶという意味で、崩れかかった家の生活感を描き出す。そしてそこに花ということで、おそらく花盛り、花の庭などと考えて「庭の花」に落ち着いたのだろう。
「焼さして真柴をはこぶ庭の花」でも良さそうなものだが、「真柴をはこぶ」の四三のリズムが今ひとつだったか、最終的に「焼さして柴取に行庭の花」で治定ということになる。
十八句目。
焼さして柴取に行庭の花
こへかき廻す春の風筋 芭蕉
花に春風は付き物で、前句が田舎の景色ということで糞(こへ)の匂いを付ける。
『炭俵』の「むめがかに」の巻の十九句目にも、
門で押るる壬生の念仏
東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉
の句がある。
2019年10月14日月曜日
昨日の台風一過も一転して今日は一日雨がしとしと降る天気だった。
上流から流れてきた水で新たに冠水したところもあり、台風の被害が広がっている。
まあ、今回の台風の教訓といえば、八ツ場ダムにしても多摩川のスーパー堤防にしても、治水に関してはお金をケチってはいけないということか。やはり人命には変え難いし、経済活動にも支障が出るから結局金銭的にも損をすることになる。
台風も地震も津波もないヨーロッパとの比較は日本ではあまり役に立たないように思える。
東アジアの政治は古代から治水のための戦いだった。黄河や長江を抱える中国で、強力な中央集権国家が続いたのもそういう事情があったからだろう。
こうした中から人と人の絆を重視する儒教の哲学が生まれ、日本はうまくそういった絆や団結力を維持したまま民主化することに成功したが、なかなか中国では難しいのかもしれない。韓国が脱落しなければいいが。
風流の道も儒教文化が生んだもので、それが今のジャパンクールにも生きている。思想性が強くて賛否に分かれ、互いに不快な思いをするような分断をもたらす芸術ではなく、多様性を認め合いながらもみんなの心を一つにする芸術、それが理想だ。理性の芸術ではなく魂の芸術が必要だ。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
初裏。
七句目。
きうくつそうに袴鳴なり
燭台の小き家にかがやきて 芭蕉
蝋燭は江戸時代では高価で庶民は行燈を用いていた。袴を窮屈そうに履いている人に、見分不相応ということで、小さい家の蝋燭と展開している。
八句目。
燭台の小き家にかがやきて
名ぬしと地下と立分る判 猿雖
『芭蕉門古人真蹟』には、「名ぬし」の横に「庄屋」と書いて消してある。
「名主(なぬし)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代の村役人,町役人。郷村では村落の長として村政を統轄。組頭,百姓代と合せて村方三役と呼ばれ,郡奉行や代官の支配を受けた。名主の呼称は主として関東で行われ,関西では庄屋と称した。初期には土豪的農民の世襲が多かったが,中期以降は一代限りとなり,惣百姓の入札,推薦によることが多くなった。ほかに町方で町奉行の支配を受けて町政を担当する町名主や牢名主などがあった。」
これだと名主と庄屋は関東と関西での名前の呼び方の違いのようにも見えるが、伊賀の猿雖があえて最初に関西で一般的な庄屋ではなく「名ぬし」と言ったのは、おそらく田舎の庄屋ではなく町名主の意味で言おうとしてたからではないかと思う。
町名主はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「江戸時代、町の支配に当たった町役人。地域により町年寄・町代・肝煎(きもいり)などとも称した。江戸の場合、町年寄の下に、数町から十数町に一人の町名主が置かれていた。」
とある。芭蕉が江戸に出てくるときにお世話になった卜尺(小沢太郎兵衛)も町名主だった。(小沢の左側を消すと卜尺になる。今気付いた。)
「地下(じげ」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「平安時代,殿上人に対して,昇殿の許されなかった官人をいった。地下人ともいい,また,殿上人を「うえびと」というのに対して,「しもびと」とも呼んだ。元来,昇殿は機能または官職によって許されるものであったため,公卿でも地下公卿,地下上達部 (かんだちめ) のような昇殿しない人や,四位,五位の地下の諸大夫もいたが,普通は六位以下の官人をさした。近世になると家格が一定し,家柄によって堂上,地下と分れた。その他,広く宮中に仕える者以外の人,農民を中心に庶民を地下と呼ぶ場合もあった。 (→名子被官制度 )」
とある。この場合は最後の単なる庶民の意味であろう。
地下の家に名主が来たので小さい家に蝋燭が灯るとする。
余談だが、地下というと『去来抄』「同門評」の芭蕉の「山路きて」の句の所に、
「湖春曰、菫ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下の歌道者也。」
とある。
湖春はウィキペディアによれば、
「元禄2年(1689年)父季吟と共に再度幕府に召し出され、江戸に移住し幕府歌学方に奉仕し歌果院と号す。湖春は父季吟とは別に俸禄200俵を幕府より役料として賜る。」
とあり庶民とは言い難いが、「昇殿の許されなかった官人」という元の意味では地下にちがいない。まあ、それをいえば頓阿も正徹も宗祇も地下になる。西行の出家前の左兵衛尉義清だったころの官位ははっきりしないが、かなり微妙な所にいる。
九句目。
名ぬしと地下と立分る判
焼めしをわりても中のつめたくて 望翠
「焼めし」は2016年9月29日の俳話で、
焼飯に青山椒を力かな 桃隣
の句のときに触れたが、兵糧や非常食に用いられる携帯できるもので、焼きおにぎりかきりたんぽに近いものだったようだ。桃隣の句も鳴子峡という険しい山道を越える時の句だった。
携帯する時にサランラップやアルミ箔などない時代だから、べとつかないように外側を焼いていたのだろう。外は熱くても中は冷たかったりする。
この句は「中」を「仲」に掛けるばかりでなく、「わりて」と「立わかる」が掛けてにはになっている貞門風の古風な付け方だ。
十句目。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ窟て出ぬくらがり 土芳
『芭蕉門古人真蹟』には、「窟て」の所は最初「初より」とあり、右に「有、屈」と書いて又消して、左に「くつして」と書いて消して「窟(くつし)て」に定まっている。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ初より出ぬくらがり
であれば、恋に転じたことが明白になる。「仲のつめたくて」からの素直な反応とも言える。
焼めしのように一見脈がありそうでも逢えば冷たい人を、なかなか心を開いてくれない、「出ぬくらがり」と表現している。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ有より出ぬくらがり
も似たような意味になる。
これが、
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ屈して出ぬくらがり
となると、冷たいから思いも屈して暗がりを出られないと、男のほうの暗がりになる。
最初の「おもひ初より」に比べ「おもひ屈して」は恋の情として伝わりにくくなり、展開はしやすくなるが恋を軽視してるのではないかとも取れる。
十一句目。
おもひ窟て出ぬくらがり
頃日は扇子の要仕習ひし 卓袋
「仕習(しなら)ふ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① いつも行なう。よくなれる。よくなれてうまくなる。
※宇津保(970‐999頃)吹上下「源氏に琴の御琴たまひて遊ばす。つつむ事なく、おぼめく事なし。『いかで、かくはしならひけん』と仰せ給て」
② 学んで自分のものにする。修行する。
※応永本論語抄(1420)子張第一九「朝夕我がするわざを目に見、耳にきいて調練する処でしならふ也」
となる。
「扇子の要」は普通は扇子の骨を根もとで一まとめに止めている部分のことだが、それだと意味が通らない。扇子舞の肝心要ということか。なかなか難しくて悩んで塞ぎこむ。
十二句目。
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
ここで木白が加わる。伊賀藩士で藤堂長定の家臣。後に苔蘇と号を変える。
湖水に映る月に扇の舞いはいかにもという感じではある。
あるいは近江の国の高島扇骨のことか。滋賀県のホームページに、
「史実では江戸時代、徳川五代将軍綱吉の頃、市内に流れる安曇川の氾濫を防ぐために植えられた竹を使って、冬の間の農閑期の仕事として始められたと伝えている。」
とある。詳しいことはよくわからない。だが、時代的には「頃日は扇子の要仕習ひし」と一致する。
上流から流れてきた水で新たに冠水したところもあり、台風の被害が広がっている。
まあ、今回の台風の教訓といえば、八ツ場ダムにしても多摩川のスーパー堤防にしても、治水に関してはお金をケチってはいけないということか。やはり人命には変え難いし、経済活動にも支障が出るから結局金銭的にも損をすることになる。
台風も地震も津波もないヨーロッパとの比較は日本ではあまり役に立たないように思える。
東アジアの政治は古代から治水のための戦いだった。黄河や長江を抱える中国で、強力な中央集権国家が続いたのもそういう事情があったからだろう。
こうした中から人と人の絆を重視する儒教の哲学が生まれ、日本はうまくそういった絆や団結力を維持したまま民主化することに成功したが、なかなか中国では難しいのかもしれない。韓国が脱落しなければいいが。
風流の道も儒教文化が生んだもので、それが今のジャパンクールにも生きている。思想性が強くて賛否に分かれ、互いに不快な思いをするような分断をもたらす芸術ではなく、多様性を認め合いながらもみんなの心を一つにする芸術、それが理想だ。理性の芸術ではなく魂の芸術が必要だ。
それでは「あれあれて」の巻の続き。
初裏。
七句目。
きうくつそうに袴鳴なり
燭台の小き家にかがやきて 芭蕉
蝋燭は江戸時代では高価で庶民は行燈を用いていた。袴を窮屈そうに履いている人に、見分不相応ということで、小さい家の蝋燭と展開している。
八句目。
燭台の小き家にかがやきて
名ぬしと地下と立分る判 猿雖
『芭蕉門古人真蹟』には、「名ぬし」の横に「庄屋」と書いて消してある。
「名主(なぬし)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「江戸時代の村役人,町役人。郷村では村落の長として村政を統轄。組頭,百姓代と合せて村方三役と呼ばれ,郡奉行や代官の支配を受けた。名主の呼称は主として関東で行われ,関西では庄屋と称した。初期には土豪的農民の世襲が多かったが,中期以降は一代限りとなり,惣百姓の入札,推薦によることが多くなった。ほかに町方で町奉行の支配を受けて町政を担当する町名主や牢名主などがあった。」
これだと名主と庄屋は関東と関西での名前の呼び方の違いのようにも見えるが、伊賀の猿雖があえて最初に関西で一般的な庄屋ではなく「名ぬし」と言ったのは、おそらく田舎の庄屋ではなく町名主の意味で言おうとしてたからではないかと思う。
町名主はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「江戸時代、町の支配に当たった町役人。地域により町年寄・町代・肝煎(きもいり)などとも称した。江戸の場合、町年寄の下に、数町から十数町に一人の町名主が置かれていた。」
とある。芭蕉が江戸に出てくるときにお世話になった卜尺(小沢太郎兵衛)も町名主だった。(小沢の左側を消すと卜尺になる。今気付いた。)
「地下(じげ」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「平安時代,殿上人に対して,昇殿の許されなかった官人をいった。地下人ともいい,また,殿上人を「うえびと」というのに対して,「しもびと」とも呼んだ。元来,昇殿は機能または官職によって許されるものであったため,公卿でも地下公卿,地下上達部 (かんだちめ) のような昇殿しない人や,四位,五位の地下の諸大夫もいたが,普通は六位以下の官人をさした。近世になると家格が一定し,家柄によって堂上,地下と分れた。その他,広く宮中に仕える者以外の人,農民を中心に庶民を地下と呼ぶ場合もあった。 (→名子被官制度 )」
とある。この場合は最後の単なる庶民の意味であろう。
地下の家に名主が来たので小さい家に蝋燭が灯るとする。
余談だが、地下というと『去来抄』「同門評」の芭蕉の「山路きて」の句の所に、
「湖春曰、菫ハ山によまず。芭蕉翁俳諧に巧なりと云へども、歌学なきの過也。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下の歌道者也。」
とある。
湖春はウィキペディアによれば、
「元禄2年(1689年)父季吟と共に再度幕府に召し出され、江戸に移住し幕府歌学方に奉仕し歌果院と号す。湖春は父季吟とは別に俸禄200俵を幕府より役料として賜る。」
とあり庶民とは言い難いが、「昇殿の許されなかった官人」という元の意味では地下にちがいない。まあ、それをいえば頓阿も正徹も宗祇も地下になる。西行の出家前の左兵衛尉義清だったころの官位ははっきりしないが、かなり微妙な所にいる。
九句目。
名ぬしと地下と立分る判
焼めしをわりても中のつめたくて 望翠
「焼めし」は2016年9月29日の俳話で、
焼飯に青山椒を力かな 桃隣
の句のときに触れたが、兵糧や非常食に用いられる携帯できるもので、焼きおにぎりかきりたんぽに近いものだったようだ。桃隣の句も鳴子峡という険しい山道を越える時の句だった。
携帯する時にサランラップやアルミ箔などない時代だから、べとつかないように外側を焼いていたのだろう。外は熱くても中は冷たかったりする。
この句は「中」を「仲」に掛けるばかりでなく、「わりて」と「立わかる」が掛けてにはになっている貞門風の古風な付け方だ。
十句目。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ窟て出ぬくらがり 土芳
『芭蕉門古人真蹟』には、「窟て」の所は最初「初より」とあり、右に「有、屈」と書いて又消して、左に「くつして」と書いて消して「窟(くつし)て」に定まっている。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ初より出ぬくらがり
であれば、恋に転じたことが明白になる。「仲のつめたくて」からの素直な反応とも言える。
焼めしのように一見脈がありそうでも逢えば冷たい人を、なかなか心を開いてくれない、「出ぬくらがり」と表現している。
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ有より出ぬくらがり
も似たような意味になる。
これが、
焼めしをわりても中のつめたくて
おもひ屈して出ぬくらがり
となると、冷たいから思いも屈して暗がりを出られないと、男のほうの暗がりになる。
最初の「おもひ初より」に比べ「おもひ屈して」は恋の情として伝わりにくくなり、展開はしやすくなるが恋を軽視してるのではないかとも取れる。
十一句目。
おもひ窟て出ぬくらがり
頃日は扇子の要仕習ひし 卓袋
「仕習(しなら)ふ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① いつも行なう。よくなれる。よくなれてうまくなる。
※宇津保(970‐999頃)吹上下「源氏に琴の御琴たまひて遊ばす。つつむ事なく、おぼめく事なし。『いかで、かくはしならひけん』と仰せ給て」
② 学んで自分のものにする。修行する。
※応永本論語抄(1420)子張第一九「朝夕我がするわざを目に見、耳にきいて調練する処でしならふ也」
となる。
「扇子の要」は普通は扇子の骨を根もとで一まとめに止めている部分のことだが、それだと意味が通らない。扇子舞の肝心要ということか。なかなか難しくて悩んで塞ぎこむ。
十二句目。
頃日は扇子の要仕習ひし
湖水の面月を見渡す 木白
ここで木白が加わる。伊賀藩士で藤堂長定の家臣。後に苔蘇と号を変える。
湖水に映る月に扇の舞いはいかにもという感じではある。
あるいは近江の国の高島扇骨のことか。滋賀県のホームページに、
「史実では江戸時代、徳川五代将軍綱吉の頃、市内に流れる安曇川の氾濫を防ぐために植えられた竹を使って、冬の間の農閑期の仕事として始められたと伝えている。」
とある。詳しいことはよくわからない。だが、時代的には「頃日は扇子の要仕習ひし」と一致する。
2019年10月13日日曜日
今日は台風一過で長月の十五夜の月が見える。
今度の台風は関東直撃と言われながらも、関東よりもむしろ長野や福島、宮城など、かなり広域で被害が出た。台風が来るたびに繰り返されることとはいえ、自然はやはり恐ろしい。ただ、とりあえず東京の下町水没という「天気の子」にはならずにすんだ。
こういうときだから、次に読む俳諧は時期的に一ヵ月半ほど遡って、元禄七年七月二十八日の夜、伊賀の猿雖亭で興行された歌仙にしてみた。
発句は、
元禄七七月廿八日夜猿雖亭
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。
今日のような台風情報がなかった時代だから、台風の進路についてどの程度の認識があったのかはよくわからない。ただ、日本は島国だからどのみち最後は海に出ることになる。
木枯の果てはありけり海の音 言水
のような感覚だったのか。
この少しあとに書かれた八月九日付けの去来宛書簡には、
「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。此中脇二つ致候間、懸御目候。
〇をりをりや雨戸にさはる荻の声
放すところにをらぬ松虫
〇荒れ荒れて末は海行く野分かな
鶴の頭をあぐる粟の穂
鶴は常体之気しきに落可申候哉。」
とある。
伊賀での俳諧がなかなか猿蓑調を抜け出なくて苦労していたことが窺われる。
「あれあれて」の巻は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に二つのテキストが収められている。
一つは『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)にある、推敲課程のわかる未定稿で、もう一つは『芭蕉翁遺芳』(芭蕉翁顕彰会, 1973)所載の「芭蕉真蹟懐紙」を底本とし、『今日の昔』(朱拙編、元禄十二年刊)との校異を注に示したとある。
ここでは後者を用いることにする。
発句は台風が去っての興行ということで、大変だったけどここで興行ができましたという挨拶になる。
これに対し芭蕉はこう答える。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
二〇一八年八月十六日の俳話にも書いたが、芭蕉の粟の発句は二句ある。
よき家や雀よろこぶ背戸の秋 芭蕉
粟稗にとぼしくもあらず草の庵 芭蕉
「よき家や」の句は貞享五年七月八日、『笈の小文』の旅の途中に鳴海の知足亭を尋ねた時の句で、「粟稗に」の句は同じ年の七月二十日、名古屋の竹葉軒長虹の家で行われた興行の発句だった。
七月やまづ粟の穂に秋の風 許六
の句もあるように粟の穂は七月初秋のものだった。粟の収穫は中秋の初めになる。
鶴は冬鳥だが、当時はコウノトリを鶴と呼ぶこともあった。粟の穂は垂れて鶴は頭を上げる。
去来宛書簡の「鶴は常体之気しきに落可」というのは鶴のお目出度さを詠んでないという意味か。
第三は伊賀の配刀が付ける。
靍の頭を上る粟の穂
朝月夜駕籠に漸追付て 配刀
配刀は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、藤堂藩伊賀付作事目付役、食禄三百石」とある。
鶴は殿様、粟の穂は家臣に喩えられる。朝の出発に遅刻したのがいたか。そりゃ頭が上がらない。
四句目。
朝月夜駕籠に漸追付て
ちやの煙たる暖簾の皺 望翠
駕籠に追いつくという旅体に街道の茶屋を付ける。皺のよった暖簾がうらさびた感じがする。
五句目。
ちやの煙たる暖簾の皺
かつたりと枴をおろす雑水取 土芳
「枴(あふご)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、
「物を荷う棒、天秤棒。」
とある。「雑水取(ざうすゐとり)」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「雑炊を炊事場から運ぶ人」とある。
『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)には「荷ふたる」を消して右に「かつたりと」とある。こういう擬音の使用が炭俵調以降の軽みの一つの特徴でもあった。
雑炊は元禄九年刊の『本朝食鑑』には「粥之水多キ者也」とあるという。
六句目。
かつたりと枴をおろす雑水取
きうくつそうに袴鳴なり 卓袋
雑炊取は袴を履いていたようだ。
今度の台風は関東直撃と言われながらも、関東よりもむしろ長野や福島、宮城など、かなり広域で被害が出た。台風が来るたびに繰り返されることとはいえ、自然はやはり恐ろしい。ただ、とりあえず東京の下町水没という「天気の子」にはならずにすんだ。
こういうときだから、次に読む俳諧は時期的に一ヵ月半ほど遡って、元禄七年七月二十八日の夜、伊賀の猿雖亭で興行された歌仙にしてみた。
発句は、
元禄七七月廿八日夜猿雖亭
あれあれて末は海行野分哉 猿雖
元禄七年の七月に、伊賀の方を襲う台風があったのだろう。
今日のような台風情報がなかった時代だから、台風の進路についてどの程度の認識があったのかはよくわからない。ただ、日本は島国だからどのみち最後は海に出ることになる。
木枯の果てはありけり海の音 言水
のような感覚だったのか。
この少しあとに書かれた八月九日付けの去来宛書簡には、
「爰元度々会御座候へ共、いまだかるみに移り兼、しぶしぶの俳諧、散々の句のみ出候而致迷惑候。此中脇二つ致候間、懸御目候。
〇をりをりや雨戸にさはる荻の声
放すところにをらぬ松虫
〇荒れ荒れて末は海行く野分かな
鶴の頭をあぐる粟の穂
鶴は常体之気しきに落可申候哉。」
とある。
伊賀での俳諧がなかなか猿蓑調を抜け出なくて苦労していたことが窺われる。
「あれあれて」の巻は『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)に二つのテキストが収められている。
一つは『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)にある、推敲課程のわかる未定稿で、もう一つは『芭蕉翁遺芳』(芭蕉翁顕彰会, 1973)所載の「芭蕉真蹟懐紙」を底本とし、『今日の昔』(朱拙編、元禄十二年刊)との校異を注に示したとある。
ここでは後者を用いることにする。
発句は台風が去っての興行ということで、大変だったけどここで興行ができましたという挨拶になる。
これに対し芭蕉はこう答える。
あれあれて末は海行野分哉
靍の頭を上る粟の穂 芭蕉
二〇一八年八月十六日の俳話にも書いたが、芭蕉の粟の発句は二句ある。
よき家や雀よろこぶ背戸の秋 芭蕉
粟稗にとぼしくもあらず草の庵 芭蕉
「よき家や」の句は貞享五年七月八日、『笈の小文』の旅の途中に鳴海の知足亭を尋ねた時の句で、「粟稗に」の句は同じ年の七月二十日、名古屋の竹葉軒長虹の家で行われた興行の発句だった。
七月やまづ粟の穂に秋の風 許六
の句もあるように粟の穂は七月初秋のものだった。粟の収穫は中秋の初めになる。
鶴は冬鳥だが、当時はコウノトリを鶴と呼ぶこともあった。粟の穂は垂れて鶴は頭を上げる。
去来宛書簡の「鶴は常体之気しきに落可」というのは鶴のお目出度さを詠んでないという意味か。
第三は伊賀の配刀が付ける。
靍の頭を上る粟の穂
朝月夜駕籠に漸追付て 配刀
配刀は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に、藤堂藩伊賀付作事目付役、食禄三百石」とある。
鶴は殿様、粟の穂は家臣に喩えられる。朝の出発に遅刻したのがいたか。そりゃ頭が上がらない。
四句目。
朝月夜駕籠に漸追付て
ちやの煙たる暖簾の皺 望翠
駕籠に追いつくという旅体に街道の茶屋を付ける。皺のよった暖簾がうらさびた感じがする。
五句目。
ちやの煙たる暖簾の皺
かつたりと枴をおろす雑水取 土芳
「枴(あふご)」はweblio辞書の「歴史民俗用語辞典」に、
「物を荷う棒、天秤棒。」
とある。「雑水取(ざうすゐとり)」は『校本芭蕉全集 第五巻』の注に「雑炊を炊事場から運ぶ人」とある。
『芭蕉門古人真蹟』(蝶夢編)には「荷ふたる」を消して右に「かつたりと」とある。こういう擬音の使用が炭俵調以降の軽みの一つの特徴でもあった。
雑炊は元禄九年刊の『本朝食鑑』には「粥之水多キ者也」とあるという。
六句目。
かつたりと枴をおろす雑水取
きうくつそうに袴鳴なり 卓袋
雑炊取は袴を履いていたようだ。
2019年10月12日土曜日
今日は台風で仕事も休み。とは言っても店も休みだし、一日家で台風をやり過ごした。我が家には特に被害はなかったが、明日になったらいろいろ被害情報が出てくるんだろうな。
それでは「松風に」の巻、挙句まで。
四十五句目。
月見にいつも造作せらるる
駕もゆらゆらとする秋のかぜ 望翠
「駕」は「のりもの」と読む。
月見の季節は台風の強い風が吹くことも多い。駕籠もあおられる。月見の宴とはいっても、行くのがおっくうになる。
四十六句目。
駕もゆらゆらとする秋のかぜ
浜の小家を過る霧雨 惟然
浜辺は海風が強く吹く。
駕籠に乗る身分の者と浜辺の小家に住む身分の者とを対比させて、駕籠に乗るのも大変だが、霧雨の吹きつけてくる小家はもっと不安だろうなとなる。
四十七句目。
浜の小家を過る霧雨
懐に取出して置くとどけ状 卓袋
江戸時代は飛脚が発達していたが、僻地ともなると飛脚問屋も遠く、誰か通りがかる人に託したのだろう。何の手紙なのか。
四十八句目。
懐に取出して置くとどけ状
いそぎの薺に白豆腐にる 支考
「薺」は「斎(とぎ)」のこと。法要など仏事のさいの食事で、コトバンクの「お斎」の所には「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「時,斎食 (さいじき) ,時食ともいう。斎とは,もともと不過中食,すなわち正午以前の正しい時間に,食べ過ぎないように食事をとること。以後の時間は非時といって食事をとらないことが戒律で定められている。現在でも南方仏教の比丘たちはこれをきびしく守っている。後世には,この意味が転化して肉食をしないことを斎というようになり,さらには仏事における食事を一般にさすようになった。」
とある。
前句を死亡を知らせる手紙とし、葬式の準備とした。
「白豆腐」というから白くない豆腐もあったのだろうか、高野豆腐に対しての言葉なのか。
四十九句目。
いそぎの薺に白豆腐にる
雪隠の窓よりのぞく花の枝 猿雖
「雪隠(せっちん)」はトイレのことだが、その語源についてコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「〈せついん〉の促音。厠(かわや),便所のこと,義堂周信の《空華集》によれば,唐の雪竇(せっちょう)禅師が霊隠寺の厠をつかさどったところから由来したとも,同じく唐の禅師雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事に由来するともいう。地方名せんちん,せちん,せんち。」
とある。今でも素手でトイレ掃除をすると運が開けるだとか出世するだとかいうのは、このあたりから来ているのか。
前句のお斎を僧院での食事とし、その縁で厠ではなく仏教に縁のある雪隠という言葉を出し、花の枝に雪隠で悟りを開いた古人を思うといったところか。
挙句。
雪隠の窓よりのぞく花の枝
根笹づたひに鶯の啼 雪芝
根笹はアズマネザサなどのどこにでもある雑草の笹で、高さは三メートルから四メートルにもなる。雪隠の桜に、あまり風流ともいえない根笹と鶯を取り合わせる。雅俗入り混じりお目出度くこの五十韻も終了する。
あとはこの雪芝さんの作った新酒で乾杯といったところか。
江戸で炭俵調を確立して上方へ登った芭蕉さんだったが、どこか猿蓑調の残る故郷の門人達と、とにかく出典をはずして軽くすることで新しいものを生み出そうと工夫した跡は残っている。
「うつかりと」「ごそごそとそる」「のらなんだ」「せりせりと」「しみなり」「しつぱりと」「ゆらゆらとする」といった言葉の使用は後の惟然風にも繋がるものだろう。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
は物付けといえば物付けだが、古典だけでなく伝承の類に俤付けを拡大させたとも言える。
それでは「松風に」の巻、挙句まで。
四十五句目。
月見にいつも造作せらるる
駕もゆらゆらとする秋のかぜ 望翠
「駕」は「のりもの」と読む。
月見の季節は台風の強い風が吹くことも多い。駕籠もあおられる。月見の宴とはいっても、行くのがおっくうになる。
四十六句目。
駕もゆらゆらとする秋のかぜ
浜の小家を過る霧雨 惟然
浜辺は海風が強く吹く。
駕籠に乗る身分の者と浜辺の小家に住む身分の者とを対比させて、駕籠に乗るのも大変だが、霧雨の吹きつけてくる小家はもっと不安だろうなとなる。
四十七句目。
浜の小家を過る霧雨
懐に取出して置くとどけ状 卓袋
江戸時代は飛脚が発達していたが、僻地ともなると飛脚問屋も遠く、誰か通りがかる人に託したのだろう。何の手紙なのか。
四十八句目。
懐に取出して置くとどけ状
いそぎの薺に白豆腐にる 支考
「薺」は「斎(とぎ)」のこと。法要など仏事のさいの食事で、コトバンクの「お斎」の所には「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「時,斎食 (さいじき) ,時食ともいう。斎とは,もともと不過中食,すなわち正午以前の正しい時間に,食べ過ぎないように食事をとること。以後の時間は非時といって食事をとらないことが戒律で定められている。現在でも南方仏教の比丘たちはこれをきびしく守っている。後世には,この意味が転化して肉食をしないことを斎というようになり,さらには仏事における食事を一般にさすようになった。」
とある。
前句を死亡を知らせる手紙とし、葬式の準備とした。
「白豆腐」というから白くない豆腐もあったのだろうか、高野豆腐に対しての言葉なのか。
四十九句目。
いそぎの薺に白豆腐にる
雪隠の窓よりのぞく花の枝 猿雖
「雪隠(せっちん)」はトイレのことだが、その語源についてコトバンクの「百科事典マイペディアの解説」に、
「〈せついん〉の促音。厠(かわや),便所のこと,義堂周信の《空華集》によれば,唐の雪竇(せっちょう)禅師が霊隠寺の厠をつかさどったところから由来したとも,同じく唐の禅師雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事に由来するともいう。地方名せんちん,せちん,せんち。」
とある。今でも素手でトイレ掃除をすると運が開けるだとか出世するだとかいうのは、このあたりから来ているのか。
前句のお斎を僧院での食事とし、その縁で厠ではなく仏教に縁のある雪隠という言葉を出し、花の枝に雪隠で悟りを開いた古人を思うといったところか。
挙句。
雪隠の窓よりのぞく花の枝
根笹づたひに鶯の啼 雪芝
根笹はアズマネザサなどのどこにでもある雑草の笹で、高さは三メートルから四メートルにもなる。雪隠の桜に、あまり風流ともいえない根笹と鶯を取り合わせる。雅俗入り混じりお目出度くこの五十韻も終了する。
あとはこの雪芝さんの作った新酒で乾杯といったところか。
江戸で炭俵調を確立して上方へ登った芭蕉さんだったが、どこか猿蓑調の残る故郷の門人達と、とにかく出典をはずして軽くすることで新しいものを生み出そうと工夫した跡は残っている。
「うつかりと」「ごそごそとそる」「のらなんだ」「せりせりと」「しみなり」「しつぱりと」「ゆらゆらとする」といった言葉の使用は後の惟然風にも繋がるものだろう。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
は物付けといえば物付けだが、古典だけでなく伝承の類に俤付けを拡大させたとも言える。
2019年10月9日水曜日
「松風に」の巻の続き。
四十一句目。
こぼれて生る軒の花げし
朝夕の茶湯ばかりを尼の業 猿雖
「茶湯(ちゃとう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「仏前や霊前に供える煎茶湯。禅家では忌日などに仏前に供える茶と湯をいう。さとう。」
とある。
前句の花芥子の生える軒を尼僧の住む庵とする。
四十二句目。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
尼と牛は「牛に引かれて善光寺参り」の縁か。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「《信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけ、ついに善光寺に至り、のち厚く信仰したという話から》思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。」
とある。
老婆は出家して尼になったが、老婆を連れてきた牛はどうなったのかはよくわからない。その牛は老婆に飼われたのかもしれない。
江戸後期になると牛は善光寺に着くと姿を消し、実は観音様だったという落ちがつく。
四十三句目。
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
牛と楠の枝は四国八十八箇所霊場の第四十二番札所の佛木寺の起源となる弘法大師のエピソードによるものか。ウィキペディアに、
「大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。」
とある。
仏様になった楠は枯れることもないし、育って太くなることもない。
四十四句目。
枯もせずふとるともなき楠の枝
月見にいつも造作せらるる 支考
前句を庭の楠として、月見の邪魔になるのでいつも造作(面倒なこと)をさせられる。
四十一句目。
こぼれて生る軒の花げし
朝夕の茶湯ばかりを尼の業 猿雖
「茶湯(ちゃとう)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「仏前や霊前に供える煎茶湯。禅家では忌日などに仏前に供える茶と湯をいう。さとう。」
とある。
前句の花芥子の生える軒を尼僧の住む庵とする。
四十二句目。
朝夕の茶湯ばかりを尼の業
飼ば次第に牛の艶つく 雪芝
尼と牛は「牛に引かれて善光寺参り」の縁か。コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「《信心のない老婆が、さらしていた布を角にかけて走っていく牛を追いかけ、ついに善光寺に至り、のち厚く信仰したという話から》思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。」
とある。
老婆は出家して尼になったが、老婆を連れてきた牛はどうなったのかはよくわからない。その牛は老婆に飼われたのかもしれない。
江戸後期になると牛は善光寺に着くと姿を消し、実は観音様だったという落ちがつく。
四十三句目。
飼ば次第に牛の艶つく
枯もせずふとるともなき楠の枝 卓袋
牛と楠の枝は四国八十八箇所霊場の第四十二番札所の佛木寺の起源となる弘法大師のエピソードによるものか。ウィキペディアに、
「大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。」
とある。
仏様になった楠は枯れることもないし、育って太くなることもない。
四十四句目。
枯もせずふとるともなき楠の枝
月見にいつも造作せらるる 支考
前句を庭の楠として、月見の邪魔になるのでいつも造作(面倒なこと)をさせられる。
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