月も大分膨らんできたが、十三夜の頃には台風が来るのか。
香港ではたくさんの人が命を張って戦ってくれている。それにひきかえ、自分にできることって何だろうか。せいぜい中国の手先のようなマスコミや左翼の口車に乗らないことくらいか。あとは、まだ自由があるうちにこの俳話を書き続けることか。
そう言いながらも遅々として進まないが、とりあえず「松風に」の巻の続き。
二裏。
三十七句目。
歯かけ足駄の雪に埋まれ
漸に今はすみよるかはせ銀 望翠
前句を貧乏な状態とし、漸(ようや)く為替を銀に交換する事ができたとする。「すみよる」は「済み寄る」。
為替取引は直接金銀を送金することの手間やリスクを省くために作り出されたもの。金銀銭の交換比率は変動相場で動いていたので、安く買って高く売れば儲けることができたのは今のFXと同じ。
三十八句目。
漸に今はすみよるかはせ銀
加減の薬しつぱりとのむ 芭蕉
『校本芭蕉全集 第五巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の、
「これも例の人情世態なり。金銀の取りまはしにこころづかひして、癪気(シャクキ)をなやめる人と見たり。かはせ銀の事の長引て段々と手間どりたるが、やうやうとすみよりたるなり。かかる身の上の人は年中薬のむさま、まことにしかりなり。」
を引用している。
まあ、相場というのは今の言葉だと「胃が痛くなる」ものだ。
「しっぱり」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「[副]
1 木の枝などがたわむさま。また、その音を表す語。
「柳に雪降りて枝もたはむや―と」〈浄・吉岡染〉
2 手落ちなく十分にするさま。しっかり。
「たたみかけて切りつくるを、―と受けとめ」〈浄・滝口横笛〉
3 強く身にこたえるさま。
「あつつつつつつつ。―だ、―だ」〈滑・浮世風呂・三〉」
とある。しっかりと、きちんと飲むというほどポジティブでもなく、仕方なしに、それでも飲まなあかんな、というニュアンスがあったのだろう。
三十九句目。
加減の薬しつぱりとのむ
渋紙をまくつて取れば青畳 支考
「渋紙」はコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」には、
「柿渋(かきしぶ)で加工した和紙。柿渋は古くは柿油ともいって、晩夏のころに青柿より絞り取る。この生渋(なましぶ)を半年以上置くとさらに良質の古渋になるが、成分はシブオールというタンニンの一種で、これを和紙に数回塗布することによって耐水性ができ、じょうぶになる。江戸時代には紙衣(かみこ)、合羽(かっぱ)、敷物、荷札、包み紙などに広く使用された。また、捺染(なっせん)の型紙も渋紙の一種である。とくに渋とべんがら(紅殻・弁柄)を混ぜたものは、雨傘の「渋蛇の目(しぶじゃのめ)」の塗料とされた。[町田誠之]」
とある。
新しい家には畳を守るために渋紙が敷かれていて、それを捲り上げると青々とした畳が目に眩しい。これもきちんと薬を飲んで頑張ってきた結果だが、逆に言えば屋敷に住んでももう先がない。
一生懸命働いて一財産を築いても、それを使う間もなく死んでゆく人というのは結構いるものだ。何のために生きているのか、考えさせられる。
黄ばんだ畳でも俳諧を楽しむ人もいる。
四十句目。
渋紙をまくつて取れば青畳
こぼれて生る軒の花げし 卓袋
これは向え付けか。畳みは新しくなったが、藁葺き屋根の軒は古いままで、芥子の花が咲いている。
2019年10月8日火曜日
2019年10月7日月曜日
ようやく涼しくなった。ただまた「猛烈な」勢力の台風が発生している。かなりやばい。
それでは「松風に」の巻の続き。
三十三句目。
肴出す程さけはしみなり
小倉とは向ひ合の下の関 惟然
下関は当時は赤間関とも呼ばれていた。寛文十二年より北前船の寄港地となり、繁栄した。赤間関稲荷町は西鶴の『好色一代男』にも描かれた遊里だった。
対岸の小倉は城下町で、大分雰囲気も違っていたのだろう。
三十四句目。
小倉とは向ひ合の下の関
巳の日の風に人死がある 支考
「巳の日」は弁天様の縁日でお目出度い日だが、この日に何か下関で事件があったのだろうか。よくわからない。壇ノ浦合戦を匂わせているのか。
「人死(ひとじに)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 事故など、病気以外の原因で人が死ぬこと。
※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「村時雨衆道ぐるひの二道に〈信章〉 人死の恋風さはぐなり〈芭蕉〉」
とある。引用されている俳諧は延宝四年春の「奉納貳百韻」の、「此梅に」の巻に続く、
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
を発句とする百韻の六十二句目で、
村時雨衆道ぐるひの二道に
人死の恋風さはぐなり 桃青
の句を指す。病気以外の原因だから刃傷沙汰も含まれるのか。この次の句は、
人死の恋風さはぐなり
大火事を袖行水にふせぎかね 信章
で、明暦の大火を付けている。明暦の大火は、振袖火事とも呼ばれている。
三十五句目。
巳の日の風に人死がある
水くさき千日寺の粥喰て 芭蕉
千日寺はウィキペディアの「千日前」のところに、
「道頓堀の南東に位置し、演芸場や映画館などがある娯楽街になっている。西隣の難波にある法善寺と竹林寺(現在は天王寺区に移転)で千日念仏が唱えられていたことから、両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることに由来する。」
とある。
「水くさき」はコトバンクの「水臭い」の「デジタル大辞泉の解説」に、
「[形][文]みづくさ・し[ク]
1 水分が多くて味が薄い。水っぽい。「―・い酒」
2 よそよそしい。他人行儀である。「婚約を隠すような―・いまねはよせ」
とある。2は人間関係の人情の薄いところから来た比喩による意味の拡張と思われる。
『校本芭蕉全集 第五巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の「大風に家もくづれ、おびただしき人死に千日の葬礼のすさまじくあるとなり」を引用している。これだと炊き出しのお粥だから薄いということになる。
この年(元禄七年)の五月下旬に
牛流す村のさはぎや五月雨 之道
を発句とする興行があったから、五月に大きな災害があったのかもしれない。
三十六句目。
水くさき千日寺の粥喰て
歯かけ足駄の雪に埋まれ 猿雖
薄いお粥を歯がないからだとした。足駄は雨天用の高下駄。足駄の歯が欠けて雪に埋もれているのと、口の歯が欠けてお粥に埋もれているイメージとを重ね合わせている。
それでは「松風に」の巻の続き。
三十三句目。
肴出す程さけはしみなり
小倉とは向ひ合の下の関 惟然
下関は当時は赤間関とも呼ばれていた。寛文十二年より北前船の寄港地となり、繁栄した。赤間関稲荷町は西鶴の『好色一代男』にも描かれた遊里だった。
対岸の小倉は城下町で、大分雰囲気も違っていたのだろう。
三十四句目。
小倉とは向ひ合の下の関
巳の日の風に人死がある 支考
「巳の日」は弁天様の縁日でお目出度い日だが、この日に何か下関で事件があったのだろうか。よくわからない。壇ノ浦合戦を匂わせているのか。
「人死(ひとじに)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 事故など、病気以外の原因で人が死ぬこと。
※俳諧・桃青三百韻附両吟二百韻(1678)「村時雨衆道ぐるひの二道に〈信章〉 人死の恋風さはぐなり〈芭蕉〉」
とある。引用されている俳諧は延宝四年春の「奉納貳百韻」の、「此梅に」の巻に続く、
梅の風俳諧国にさかむなり 信章
を発句とする百韻の六十二句目で、
村時雨衆道ぐるひの二道に
人死の恋風さはぐなり 桃青
の句を指す。病気以外の原因だから刃傷沙汰も含まれるのか。この次の句は、
人死の恋風さはぐなり
大火事を袖行水にふせぎかね 信章
で、明暦の大火を付けている。明暦の大火は、振袖火事とも呼ばれている。
三十五句目。
巳の日の風に人死がある
水くさき千日寺の粥喰て 芭蕉
千日寺はウィキペディアの「千日前」のところに、
「道頓堀の南東に位置し、演芸場や映画館などがある娯楽街になっている。西隣の難波にある法善寺と竹林寺(現在は天王寺区に移転)で千日念仏が唱えられていたことから、両寺(特に法善寺)が千日寺と呼ばれ、その門前であることに由来する。」
とある。
「水くさき」はコトバンクの「水臭い」の「デジタル大辞泉の解説」に、
「[形][文]みづくさ・し[ク]
1 水分が多くて味が薄い。水っぽい。「―・い酒」
2 よそよそしい。他人行儀である。「婚約を隠すような―・いまねはよせ」
とある。2は人間関係の人情の薄いところから来た比喩による意味の拡張と思われる。
『校本芭蕉全集 第五巻』は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)の「大風に家もくづれ、おびただしき人死に千日の葬礼のすさまじくあるとなり」を引用している。これだと炊き出しのお粥だから薄いということになる。
この年(元禄七年)の五月下旬に
牛流す村のさはぎや五月雨 之道
を発句とする興行があったから、五月に大きな災害があったのかもしれない。
三十六句目。
水くさき千日寺の粥喰て
歯かけ足駄の雪に埋まれ 猿雖
薄いお粥を歯がないからだとした。足駄は雨天用の高下駄。足駄の歯が欠けて雪に埋もれているのと、口の歯が欠けてお粥に埋もれているイメージとを重ね合わせている。
2019年10月6日日曜日
今日は鎌倉へ行ってから横須賀に行った。極楽寺ではまだ彼岸花が咲いていた。ヴェルニー公園では薔薇が咲いていた。
それでは「松風に」の巻の続き。
二十九句目。
日なれてかかる畑の朝霜
母方にはなれて月の物淋し 雪芝
両親が離婚し、母方に引き取られてということか。「日なれて」を新しい生活にもようやく慣れてという意味に掛けて用いる。
『江戸の農民生活史』(速水透、一九八八、NHKブックス)の美濃国安八郡西条村の宗門改帳の調査によると、
「他方、離婚の方をみると、天明元年(一七八二)からの四十年間に二十件と、同じ時期の結婚件数一〇六件の十九パーセントに達し、夫婦五組に一組は離婚したことになる。その後は激減し、残りの五十年間では結婚一二三件に対し六件と五パーセント、二十組に一組に減ってしまった。」(p.139)
という。
一つの村の統計だけだが、江戸時代の離婚率もそれなりに多かったことが予想される。夫婦にトラブルがあると、妻の父が怒って引き戻すということもあり、蕪村の娘もそうだった。
三十句目。
母方にはなれて月の物淋し
鼠の籠るまき藁のうち 卓袋
「まき藁」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「稲のわらを巻いて束ねたもの。弓術練習の的、また空手道で突きの稽古など、武術練習の道具に用いられる。」
とある。
母子家庭で弓を教わることもなくなり、父の形見のまき藁も鼠の巣になっているということか。
三十一句目。
鼠の籠るまき藁のうち
傍輩の髪を結あふ黴の雨 猿雖
黴は「つゆ」で梅雨のこと。梅雨のさ中、仲良く髪を結いあう二人の男は今なら腐女子が喜びそうな場面だが、『源氏物語』の雨夜の品定めのイメージか。
『源氏物語』自体も女性の作者により女房向けに書かれた作品だから、当然の事ながら源氏の君と頭の中将、あるいは兵部卿宮(藤壺中宮の兄の方の)とのツーショットシーンはそれが意識されていると思われる。
三十二句目。
傍輩の髪を結あふ黴の雨
肴出す程さけはしみなり 雪芝
『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の注には、「しむなり[翁俳・幽・金・一・珍]。染けり[袖])」とある。「しみなり」は酒が染みる(酔いが回る)という意味。
それでは「松風に」の巻の続き。
二十九句目。
日なれてかかる畑の朝霜
母方にはなれて月の物淋し 雪芝
両親が離婚し、母方に引き取られてということか。「日なれて」を新しい生活にもようやく慣れてという意味に掛けて用いる。
『江戸の農民生活史』(速水透、一九八八、NHKブックス)の美濃国安八郡西条村の宗門改帳の調査によると、
「他方、離婚の方をみると、天明元年(一七八二)からの四十年間に二十件と、同じ時期の結婚件数一〇六件の十九パーセントに達し、夫婦五組に一組は離婚したことになる。その後は激減し、残りの五十年間では結婚一二三件に対し六件と五パーセント、二十組に一組に減ってしまった。」(p.139)
という。
一つの村の統計だけだが、江戸時代の離婚率もそれなりに多かったことが予想される。夫婦にトラブルがあると、妻の父が怒って引き戻すということもあり、蕪村の娘もそうだった。
三十句目。
母方にはなれて月の物淋し
鼠の籠るまき藁のうち 卓袋
「まき藁」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「稲のわらを巻いて束ねたもの。弓術練習の的、また空手道で突きの稽古など、武術練習の道具に用いられる。」
とある。
母子家庭で弓を教わることもなくなり、父の形見のまき藁も鼠の巣になっているということか。
三十一句目。
鼠の籠るまき藁のうち
傍輩の髪を結あふ黴の雨 猿雖
黴は「つゆ」で梅雨のこと。梅雨のさ中、仲良く髪を結いあう二人の男は今なら腐女子が喜びそうな場面だが、『源氏物語』の雨夜の品定めのイメージか。
『源氏物語』自体も女性の作者により女房向けに書かれた作品だから、当然の事ながら源氏の君と頭の中将、あるいは兵部卿宮(藤壺中宮の兄の方の)とのツーショットシーンはそれが意識されていると思われる。
三十二句目。
傍輩の髪を結あふ黴の雨
肴出す程さけはしみなり 雪芝
『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)の注には、「しむなり[翁俳・幽・金・一・珍]。染けり[袖])」とある。「しみなり」は酒が染みる(酔いが回る)という意味。
2019年10月4日金曜日
昨日の韓国のデモは新聞でもテレビでもまったく報道されていない。あれは幻だったか。
まあ、それはともかく「松風に」の巻の続き。
二表。
二十三句目。
陽気をうけてつよき椽げた
幸と猟の始の雉うちて 雪芝
前句を易の地天泰の卦に見立てたか。
地天泰は下三本が陽、上三本が陰で、下から陽気が上昇し、上から陰気が降下し、互いに交わる天地和合を意味する。天地が引き裂かれてゆく天地否と真逆になる。
屋根を支える桁(けた)を陽、その上に左右に渡す椽(たるき)を陰に見立てれば、地天泰の卦になる。
天地否が七月で秋の初めのように、地天泰は正月、春の初めになる。それで一年の猟の初めに雉を撃つ。
「いる」のではなく「うつ」とあるから火縄銃で撃ったのだろう。ウィキペディアの「銃規制」の項に、
「徳川綱吉の時代、貞享4年(1687年)の諸国鉄砲改めにより、全国規模の銃規制がかけられた。武士以外の身分の鉄砲は、猟師鉄砲、威し鉄砲(農作物を荒らす鳥獣を追い払うための鉄砲)、用心鉄砲(特に許された護身用鉄砲)に限り、所持者以外に使わせないという条件で認められ、残りは没収された。この政策は綱吉による一連の生類憐れみの令の一環という意味も持ち、当初は鳥獣を追い払うために実弾を用いてはならないとするものだった。それでは追い払う効果が得られず、元禄2年(1689年)6月には実弾発射が許された。」
とある。猟師は鉄砲の使用を許されていた。
二十四句目。
幸と猟の始の雉うちて
内儀の留守に子供あばるる 支考
「内義(ないぎ)」は町人の妻の敬称。子供からすれば母になる。
そのうるさい母親が留守なのをこれ幸いと、子供達は狩猟ごっこで大暴れする。
二十五句目。
内儀の留守に子供あばるる
道場の門のさし入だだくさに 猿雖
「だだくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (形動) 雑然として整理のいきとどかないこと。また、そのさま。粗雑。疎略。ぞんざい。
※俳諧・新続犬筑波集(1660)一一「そろへぬはこれぞだだくさなづなかな〈重定〉」
とある。
「さし入(いり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 中へはいること。また、はいってすぐの所。
※曾我物語(南北朝頃)七「まづ見たまふやうにとて、さしいりの障子の際にぞをきたりける」
② はいってすぐの時。その季節やその月にはいってすぐの頃。
※浮世草子・懐硯(1687)三「持病に顛癇(てんかん)といふものありて、年毎の小寒の末大寒のさし入にかならず発(おこ)りて」
③ (「さしいりに」の形で) まずはじめに。
※身のかたみ(室町中頃)「御はなは、顔のうちのぐに、とりわきさしいりにめにたつものにて候」
とある。今日でいう「さし入れ」ではなく、道場の門を入ったあたりがちらかっていてという意味で、どうしたのかと思ったらお内儀さんが留守で子供が暴れまわってるからだ、となる。
二十六句目。
道場の門のさし入だだくさに
一里の渡し腹のすきたる 望翠
一里の渡しは浜名湖の今切(いまぎれ)の渡しのことか。ただ、この頃はまだ宝永地震の津波の前なので、一里ではなく二十七町だった。(一里は三十六町)
前句との関係がよくわからない。道場は元は釈迦が悟りを開いた場所のことで、それが転じてお寺の意味もあるが。
二十七句目。
一里の渡し腹のすきたる
山はみな蜜柑の色の黄になりて 芭蕉
腹がすいている時は山の黄葉も蜜柑に見える。
二十八句目。
山はみな蜜柑の色の黄になりて
日なれてかかる畑の朝霜 支考
「なれる」は輪郭を失うこと。朧月ならぬ朧太陽といったところか。朝霧のせいでそうなる。日の光が乱反射して、山は蜜柑色に染まる。
まあ、それはともかく「松風に」の巻の続き。
二表。
二十三句目。
陽気をうけてつよき椽げた
幸と猟の始の雉うちて 雪芝
前句を易の地天泰の卦に見立てたか。
地天泰は下三本が陽、上三本が陰で、下から陽気が上昇し、上から陰気が降下し、互いに交わる天地和合を意味する。天地が引き裂かれてゆく天地否と真逆になる。
屋根を支える桁(けた)を陽、その上に左右に渡す椽(たるき)を陰に見立てれば、地天泰の卦になる。
天地否が七月で秋の初めのように、地天泰は正月、春の初めになる。それで一年の猟の初めに雉を撃つ。
「いる」のではなく「うつ」とあるから火縄銃で撃ったのだろう。ウィキペディアの「銃規制」の項に、
「徳川綱吉の時代、貞享4年(1687年)の諸国鉄砲改めにより、全国規模の銃規制がかけられた。武士以外の身分の鉄砲は、猟師鉄砲、威し鉄砲(農作物を荒らす鳥獣を追い払うための鉄砲)、用心鉄砲(特に許された護身用鉄砲)に限り、所持者以外に使わせないという条件で認められ、残りは没収された。この政策は綱吉による一連の生類憐れみの令の一環という意味も持ち、当初は鳥獣を追い払うために実弾を用いてはならないとするものだった。それでは追い払う効果が得られず、元禄2年(1689年)6月には実弾発射が許された。」
とある。猟師は鉄砲の使用を許されていた。
二十四句目。
幸と猟の始の雉うちて
内儀の留守に子供あばるる 支考
「内義(ないぎ)」は町人の妻の敬称。子供からすれば母になる。
そのうるさい母親が留守なのをこれ幸いと、子供達は狩猟ごっこで大暴れする。
二十五句目。
内儀の留守に子供あばるる
道場の門のさし入だだくさに 猿雖
「だだくさ」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘名〙 (形動) 雑然として整理のいきとどかないこと。また、そのさま。粗雑。疎略。ぞんざい。
※俳諧・新続犬筑波集(1660)一一「そろへぬはこれぞだだくさなづなかな〈重定〉」
とある。
「さし入(いり)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「① 中へはいること。また、はいってすぐの所。
※曾我物語(南北朝頃)七「まづ見たまふやうにとて、さしいりの障子の際にぞをきたりける」
② はいってすぐの時。その季節やその月にはいってすぐの頃。
※浮世草子・懐硯(1687)三「持病に顛癇(てんかん)といふものありて、年毎の小寒の末大寒のさし入にかならず発(おこ)りて」
③ (「さしいりに」の形で) まずはじめに。
※身のかたみ(室町中頃)「御はなは、顔のうちのぐに、とりわきさしいりにめにたつものにて候」
とある。今日でいう「さし入れ」ではなく、道場の門を入ったあたりがちらかっていてという意味で、どうしたのかと思ったらお内儀さんが留守で子供が暴れまわってるからだ、となる。
二十六句目。
道場の門のさし入だだくさに
一里の渡し腹のすきたる 望翠
一里の渡しは浜名湖の今切(いまぎれ)の渡しのことか。ただ、この頃はまだ宝永地震の津波の前なので、一里ではなく二十七町だった。(一里は三十六町)
前句との関係がよくわからない。道場は元は釈迦が悟りを開いた場所のことで、それが転じてお寺の意味もあるが。
二十七句目。
一里の渡し腹のすきたる
山はみな蜜柑の色の黄になりて 芭蕉
腹がすいている時は山の黄葉も蜜柑に見える。
二十八句目。
山はみな蜜柑の色の黄になりて
日なれてかかる畑の朝霜 支考
「なれる」は輪郭を失うこと。朧月ならぬ朧太陽といったところか。朝霧のせいでそうなる。日の光が乱反射して、山は蜜柑色に染まる。
2019年10月3日木曜日
隣の国でも大きなデモがあったようで、香港の人たちと同様、自由を守ろうとする姿は心強い。
せっかく漢江の奇跡を起して勝ち取った自由と豊かさを、日本の戦後左翼が作り出した「反日」のために犠牲にすべきではない。
「反日」は六十年代の学生運動の敗北が見えてきた頃、新左翼の中から、大田竜の「辺境最深部に向って退却せよ!」の声をはじめとして、もはや日本の大衆は信用できず、辺境の立場に立って日本そのものを否定しようというところからきたもので、「反日亡国論」とも呼ばれた。またそれを実践すべく組織されたのが、「東アジア反日武装戦線」だった。
ウィキペディアの「反日亡国論」のところにはこうある。
「ベトナム戦争でアメリカの国力が消耗した故事に倣い、日本を戦争に巻き込ませる。そのきっかけとなる国は大韓民国である。まず手始めに韓国人の排外的韓国民族主義を煽ることで反日感情を醸成、韓国軍のクーデターを誘発させて「親日政権」を打倒し、韓国に巣食う「親日派」を粛清する。そして「反日軍事政権」が日本に宣戦布告し、最低でも10万人の自衛隊員を戦死させる。同時に「琉球共和国」が独立を宣言する。そして日本やアメリカに宣戦を布告し、韓国とともに対日侵略戦争に参戦する。そして「アイヌ・ソビエト共和国」も独立を宣言し、「北方領土返還」などとアイヌを無視した主張を展開して「思い上がって」いる北海道在住500万人の和人を殺戮する。また東南アジアでも反日感情を煽る。そして日本赤軍のネットワークを利用して、アラブ諸国の日本向けの原油輸出を阻止し、かつてのABCD包囲網のように「反日包囲網」が日本を取り囲み、自滅を促すというものである。「日本滅亡」後、日本人は老若男女を問わず裁判にかけられ、大多数は「日帝本国人」であるため有罪で死刑に処せられる。民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志(世界革命浪人)のみが無罪となり、地球上から日本人が消滅するというシナリオである。」
反日は日本起源ニダ。韓国はそれに乗せられているニダ。
それでは「松風に」の巻の続き。
十七句目。
雨のふる日の節句ゆるやか
きわ墨を置直しても同じ㒵 卓袋
「㒵」は「かほ(顔)」と読む。
きわ墨(際墨)はコトバンクの「世界大百科事典内の際墨の言及」に、
「井原西鶴《好色一代女》で,女が化粧の際,硯(すずり)の墨で額の際を染めているように,江戸時代の女性は額の形容にも心を配った。生れつきのままで良いのもあるが,額のなりが悪いと愛嬌がないから髪の生え際を剃れと《女鏡秘伝書》にあるように,額を剃ったり生え際に際墨(きわずみ)を薄くぬって形を整えた。」
とある。
雨の日は化粧が乗りにくい。湿気のせいで書いてもすぐ崩れる。節句でおめかししたいけど何度もやり直しているうちに、一日が緩やかに過ぎてゆく。
十八句目。
きわ墨を置直しても同じ㒵
親といふ字をしらで幾秋 支考
幼い頃に親と別れた不遇な境遇で、遊女にでもなったのだろうか。際墨は手馴れたもので、いつも同じ顔になるようにメイクする。でも、読み書きはついに習わなかったのだろう。
幾年でも良さそうだが、ここは月呼び出しで幾秋とする。
初裏にこれまで月がなく、二十一句目は花の定座になるから、二十句目で秋を終わらせたい。そのためにはここで秋にし、十八、十九、二十と秋にしなくてはならない。
十九句目。
親といふ字をしらで幾秋
月影に又せり返すせめ念仏 望翠
前句の「親といふ字をしらで」から亡き父の供養で念仏を出す。「せり返す」の「せり」は十三句目の「せりせりと」と同様、せかせかとせきたてるように繰り返すということか。
「せめ念仏(ねぶつ)」コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「鉦(かね)を鳴らしながら、高い声で早口に唱える念仏。」
とある。
二十句目。
月影に又せり返すせめ念仏
かりたふとんのあとのひややか 猿雖
一晩中念仏を唱えていたので、借りた蒲団は体温で暖められることもなく冷ややかなままになっている。
二十一句目。
かりたふとんのあとのひややか
咲花に每の咄すつれ斗 惟然
「每の咄す」の読み方がよくわからない。『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)の注には「底本・『さ賀』は初め「毎の」とし、見せ消ちにして、脇に「年」と改める」とある。「年」だとしても「としのはなす」と字足らずになる。
意味としては、花見だというのに周りにいるのはいつもと同じことしか言わない連中で、面白くないということか。泊っていけるように蒲団も借りてきたけど、使わずじまいになる。
まあ、宴会だというのに仕事の話しかしない人というのは今でもいるものだ。
二十二句目。
咲花に每の咄すつれ斗
陽気をうけてつよき椽げた 卓袋
「椽」は垂木のことで、「椽げた」は「椽桁」か。前句の花が咲いても普段どおりの人を腕の良い大工集団としたか。仕事熱心で花も眼に入らない。
せっかく漢江の奇跡を起して勝ち取った自由と豊かさを、日本の戦後左翼が作り出した「反日」のために犠牲にすべきではない。
「反日」は六十年代の学生運動の敗北が見えてきた頃、新左翼の中から、大田竜の「辺境最深部に向って退却せよ!」の声をはじめとして、もはや日本の大衆は信用できず、辺境の立場に立って日本そのものを否定しようというところからきたもので、「反日亡国論」とも呼ばれた。またそれを実践すべく組織されたのが、「東アジア反日武装戦線」だった。
ウィキペディアの「反日亡国論」のところにはこうある。
「ベトナム戦争でアメリカの国力が消耗した故事に倣い、日本を戦争に巻き込ませる。そのきっかけとなる国は大韓民国である。まず手始めに韓国人の排外的韓国民族主義を煽ることで反日感情を醸成、韓国軍のクーデターを誘発させて「親日政権」を打倒し、韓国に巣食う「親日派」を粛清する。そして「反日軍事政権」が日本に宣戦布告し、最低でも10万人の自衛隊員を戦死させる。同時に「琉球共和国」が独立を宣言する。そして日本やアメリカに宣戦を布告し、韓国とともに対日侵略戦争に参戦する。そして「アイヌ・ソビエト共和国」も独立を宣言し、「北方領土返還」などとアイヌを無視した主張を展開して「思い上がって」いる北海道在住500万人の和人を殺戮する。また東南アジアでも反日感情を煽る。そして日本赤軍のネットワークを利用して、アラブ諸国の日本向けの原油輸出を阻止し、かつてのABCD包囲網のように「反日包囲網」が日本を取り囲み、自滅を促すというものである。「日本滅亡」後、日本人は老若男女を問わず裁判にかけられ、大多数は「日帝本国人」であるため有罪で死刑に処せられる。民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志(世界革命浪人)のみが無罪となり、地球上から日本人が消滅するというシナリオである。」
反日は日本起源ニダ。韓国はそれに乗せられているニダ。
それでは「松風に」の巻の続き。
十七句目。
雨のふる日の節句ゆるやか
きわ墨を置直しても同じ㒵 卓袋
「㒵」は「かほ(顔)」と読む。
きわ墨(際墨)はコトバンクの「世界大百科事典内の際墨の言及」に、
「井原西鶴《好色一代女》で,女が化粧の際,硯(すずり)の墨で額の際を染めているように,江戸時代の女性は額の形容にも心を配った。生れつきのままで良いのもあるが,額のなりが悪いと愛嬌がないから髪の生え際を剃れと《女鏡秘伝書》にあるように,額を剃ったり生え際に際墨(きわずみ)を薄くぬって形を整えた。」
とある。
雨の日は化粧が乗りにくい。湿気のせいで書いてもすぐ崩れる。節句でおめかししたいけど何度もやり直しているうちに、一日が緩やかに過ぎてゆく。
十八句目。
きわ墨を置直しても同じ㒵
親といふ字をしらで幾秋 支考
幼い頃に親と別れた不遇な境遇で、遊女にでもなったのだろうか。際墨は手馴れたもので、いつも同じ顔になるようにメイクする。でも、読み書きはついに習わなかったのだろう。
幾年でも良さそうだが、ここは月呼び出しで幾秋とする。
初裏にこれまで月がなく、二十一句目は花の定座になるから、二十句目で秋を終わらせたい。そのためにはここで秋にし、十八、十九、二十と秋にしなくてはならない。
十九句目。
親といふ字をしらで幾秋
月影に又せり返すせめ念仏 望翠
前句の「親といふ字をしらで」から亡き父の供養で念仏を出す。「せり返す」の「せり」は十三句目の「せりせりと」と同様、せかせかとせきたてるように繰り返すということか。
「せめ念仏(ねぶつ)」コトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、
「鉦(かね)を鳴らしながら、高い声で早口に唱える念仏。」
とある。
二十句目。
月影に又せり返すせめ念仏
かりたふとんのあとのひややか 猿雖
一晩中念仏を唱えていたので、借りた蒲団は体温で暖められることもなく冷ややかなままになっている。
二十一句目。
かりたふとんのあとのひややか
咲花に每の咄すつれ斗 惟然
「每の咄す」の読み方がよくわからない。『校本芭蕉全集』第五巻(小宮豊隆監修、中村俊定校注、1968、角川書店)の注には「底本・『さ賀』は初め「毎の」とし、見せ消ちにして、脇に「年」と改める」とある。「年」だとしても「としのはなす」と字足らずになる。
意味としては、花見だというのに周りにいるのはいつもと同じことしか言わない連中で、面白くないということか。泊っていけるように蒲団も借りてきたけど、使わずじまいになる。
まあ、宴会だというのに仕事の話しかしない人というのは今でもいるものだ。
二十二句目。
咲花に每の咄すつれ斗
陽気をうけてつよき椽げた 卓袋
「椽」は垂木のことで、「椽げた」は「椽桁」か。前句の花が咲いても普段どおりの人を腕の良い大工集団としたか。仕事熱心で花も眼に入らない。
2019年10月2日水曜日
今日は三日月が見えた。正確には四日月で、旧暦九月四日、「松風に」の巻の興行された日だ。
秋が寂しげなのは、やはり万物が死に向うからだろうか。草木は枯れ、虫は死に、土に帰って行く。それと逆に空は澄み切って天は高く、月や星は輝く。
陰気の降下、陽気の上昇で天と地は引き裂かれてゆく。
秋もまた夕暮れとなれば、沈む夕陽が死を暗示させる。生きるのを喜び死を悲しむ。それが秋の夕暮れの心だ。
台風や夕立の時は空全体が真っ赤に染まるが、大気が安定している時の夕暮れはそれほど赤くならず、薄っすらと赤い地平のすぐ上はやや緑のかかった青になり、そのまま色を失って行く。それがまた寂しげだ。
冷戦が終わりこのまま世界は平和が来るのかと思ったら、古い思想にしがみ付く蔦葛に人は地面に縛り付けられ、このまま黄昏てゆくのだろうか。秋暮れて滅びの風の子守唄。それでも来なかった春はない。
それでは「松風に」の巻の続き。
十三句目。
あふげど餅のあぶれかねつる
せりせりとなく子を籮につきすへて 卓袋
「せりせり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
① 動作などの落ち着かないさま、せきたてるさまを表わす語。せかせか。
※浄瑠璃・心中宵庚申(1722)道行「気のとっさかな姑に、せりせりいぢりたでられて」
② せせこましいさまを表わす語。こせこせ。
※中華若木詩抄(1520頃)中「祗自寛すと云は、これをせりせりと思ても叶ふべきことか」
③ 言動などのうるさいさまを表わす語。
※俳諧・みかんの色(1768)「せりせりとなく子を籮につきすへて〈卓袋〉 大工屋根やの帰る暮とき〈芭蕉〉」
とある。
「籮」は「ふご」と読ませているが、餌籮(えふご)の「ふご」か。餌籮は餌を入れる竹籠のことで、「ふご」は単に籠のこと。赤ちゃんを入れる駕籠は「いづめ」とも言う。
芭蕉筆の『甲子吟行画巻』の富士川の捨て子もいづめに入れられている。
十四句目。
せりせりとなく子を籮につきすへて
大工屋根やの帰る暮とき 芭蕉
昔は子供は大事にされていた。それには理由があって、幼児虐待は死罪だから、少しでもそれと疑われるようなことは避けなくてはならなかった。
だから大工さんが来て屋根屋さんが来ても子供は自由に遊びまわり、大工さんや屋根屋さんに可愛がられていた。
帰るときには子供も別れが嫌で泣き出す。
十五句目。
大工屋根やの帰る暮とき
用の有時はかけ込藪どなり 支考
これは用を足すということだろうか。芭蕉の人情味溢れる前句に対して、シモネタで落としたか。
十六句目。
用の有時はかけ込藪どなり
雨のふる日の節句ゆるやか 雪芝
用があると何かと頼られてしまう人なのだろう。節句とあらば、お客さんをもてなす家から、何かとものを借りに来たりして、おちおち昼寝もできない。
雨ならば静かなものだ。
秋が寂しげなのは、やはり万物が死に向うからだろうか。草木は枯れ、虫は死に、土に帰って行く。それと逆に空は澄み切って天は高く、月や星は輝く。
陰気の降下、陽気の上昇で天と地は引き裂かれてゆく。
秋もまた夕暮れとなれば、沈む夕陽が死を暗示させる。生きるのを喜び死を悲しむ。それが秋の夕暮れの心だ。
台風や夕立の時は空全体が真っ赤に染まるが、大気が安定している時の夕暮れはそれほど赤くならず、薄っすらと赤い地平のすぐ上はやや緑のかかった青になり、そのまま色を失って行く。それがまた寂しげだ。
冷戦が終わりこのまま世界は平和が来るのかと思ったら、古い思想にしがみ付く蔦葛に人は地面に縛り付けられ、このまま黄昏てゆくのだろうか。秋暮れて滅びの風の子守唄。それでも来なかった春はない。
それでは「松風に」の巻の続き。
十三句目。
あふげど餅のあぶれかねつる
せりせりとなく子を籮につきすへて 卓袋
「せりせり」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、
「〘副〙 (多く「と」を伴って用いる)
① 動作などの落ち着かないさま、せきたてるさまを表わす語。せかせか。
※浄瑠璃・心中宵庚申(1722)道行「気のとっさかな姑に、せりせりいぢりたでられて」
② せせこましいさまを表わす語。こせこせ。
※中華若木詩抄(1520頃)中「祗自寛すと云は、これをせりせりと思ても叶ふべきことか」
③ 言動などのうるさいさまを表わす語。
※俳諧・みかんの色(1768)「せりせりとなく子を籮につきすへて〈卓袋〉 大工屋根やの帰る暮とき〈芭蕉〉」
とある。
「籮」は「ふご」と読ませているが、餌籮(えふご)の「ふご」か。餌籮は餌を入れる竹籠のことで、「ふご」は単に籠のこと。赤ちゃんを入れる駕籠は「いづめ」とも言う。
芭蕉筆の『甲子吟行画巻』の富士川の捨て子もいづめに入れられている。
十四句目。
せりせりとなく子を籮につきすへて
大工屋根やの帰る暮とき 芭蕉
昔は子供は大事にされていた。それには理由があって、幼児虐待は死罪だから、少しでもそれと疑われるようなことは避けなくてはならなかった。
だから大工さんが来て屋根屋さんが来ても子供は自由に遊びまわり、大工さんや屋根屋さんに可愛がられていた。
帰るときには子供も別れが嫌で泣き出す。
十五句目。
大工屋根やの帰る暮とき
用の有時はかけ込藪どなり 支考
これは用を足すということだろうか。芭蕉の人情味溢れる前句に対して、シモネタで落としたか。
十六句目。
用の有時はかけ込藪どなり
雨のふる日の節句ゆるやか 雪芝
用があると何かと頼られてしまう人なのだろう。節句とあらば、お客さんをもてなす家から、何かとものを借りに来たりして、おちおち昼寝もできない。
雨ならば静かなものだ。
2019年10月1日火曜日
香港ではついに引き金が引かれた。至近距離から胸を撃たれた少年は危篤状態だという。生きてくれ。
一方ではまるでナチスの時代のような軍事パレードが行われ、一体世界はどうなってしまうのか。世界が破滅するなんて嘘だろって何度でも言ってくれ。
世界が終わりを迎えようとも、俳諧を続けよう。「松風に」の巻。
初裏。
九句目。
床であたまをごそごそとそる
夷講島の袴を手にさげて 猿雖
旧暦神無月二十日の恵比寿講は神無月の留守を預る恵比寿様を祭る日で、商人の家では恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。
振売の雁あはれ也ゑびす講 芭蕉
の句は一年前の江戸での発句で、恵比寿講のご馳走に雁を売りに来る人がいたことを記している。
商人もこの日は正装をし、袴を穿く。
えびす講酢売に袴着せにけり 芭蕉
の句も一年前に詠んでいる。
前句の「あたまをごそごそとそる」はこの場合月代(さかやき)のことであろう。きちんと月代を剃って長袴を穿いて恵比寿講の宴席に臨むのだが、この句はまだ準備の段階。
島の袴は縞の袴のことか。
十句目。
夷講島の袴を手にさげて
喧花の中をむりに引のけ 雪芝
「喧花(けんか)」は喧嘩と同じ。酒宴となれば酔っ払っての喧嘩は付き物。加賀山中温泉での山中三吟の第三、
花野みだるる山のまがりめ
月よしと角力に袴踏ぬぎて 芭蕉
ではないが、喧嘩の時にも袴は邪魔なので脱ぎ捨てたのだろう。その袴を拾って「まあまあまあまあ」と中に割って入る。
十一句目。
喧花の中をむりに引のけ
仕合と矢橋の舟をのらなんだ 芭蕉
「仕合」は「しあはせ」と読む。めぐり合わせや幸運をいう。前句の喧嘩から「仕合(しあひ)」とも掛けているのかもしれない。
「矢橋(やばせ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「滋賀県南西部,草津市西部の琵琶湖岸にある地区。旧湖港。江戸時代,東海道の近道となった大津-矢橋間の渡船場として栄えた。」
とある。
矢橋の船頭さんが喧嘩をしている人を見て、「あんたら、これも何かの縁だ、はよう舟にのらなんだ」とでも言ったのだろう。
「のらなんだ」といい、五句目の惟然の「うつかりと」、八句目の支考の「ごそごそとそる」といった口語的な言い回しは、後の惟然の風に繋がるものかもしれない。
十二句目。
仕合と矢橋の舟をのらなんだ
あふげど餅のあぶれかねつる 望翠
ちょっと茶屋で餅でも食ってから行こうかと思っていると、薪が湿っているのか火力が弱く、餅が焼けない。
それも何かの縁と、餅をあきらめて舟に乗ろうということになる。
矢橋に近い草津宿では姥が餅が名物で、
千代の春契るや尉と姥が餅
の句が芭蕉に仮託されているが、この頃からあったのかどうかよくわからない。
一方ではまるでナチスの時代のような軍事パレードが行われ、一体世界はどうなってしまうのか。世界が破滅するなんて嘘だろって何度でも言ってくれ。
世界が終わりを迎えようとも、俳諧を続けよう。「松風に」の巻。
初裏。
九句目。
床であたまをごそごそとそる
夷講島の袴を手にさげて 猿雖
旧暦神無月二十日の恵比寿講は神無月の留守を預る恵比寿様を祭る日で、商人の家では恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。
振売の雁あはれ也ゑびす講 芭蕉
の句は一年前の江戸での発句で、恵比寿講のご馳走に雁を売りに来る人がいたことを記している。
商人もこの日は正装をし、袴を穿く。
えびす講酢売に袴着せにけり 芭蕉
の句も一年前に詠んでいる。
前句の「あたまをごそごそとそる」はこの場合月代(さかやき)のことであろう。きちんと月代を剃って長袴を穿いて恵比寿講の宴席に臨むのだが、この句はまだ準備の段階。
島の袴は縞の袴のことか。
十句目。
夷講島の袴を手にさげて
喧花の中をむりに引のけ 雪芝
「喧花(けんか)」は喧嘩と同じ。酒宴となれば酔っ払っての喧嘩は付き物。加賀山中温泉での山中三吟の第三、
花野みだるる山のまがりめ
月よしと角力に袴踏ぬぎて 芭蕉
ではないが、喧嘩の時にも袴は邪魔なので脱ぎ捨てたのだろう。その袴を拾って「まあまあまあまあ」と中に割って入る。
十一句目。
喧花の中をむりに引のけ
仕合と矢橋の舟をのらなんだ 芭蕉
「仕合」は「しあはせ」と読む。めぐり合わせや幸運をいう。前句の喧嘩から「仕合(しあひ)」とも掛けているのかもしれない。
「矢橋(やばせ)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、
「滋賀県南西部,草津市西部の琵琶湖岸にある地区。旧湖港。江戸時代,東海道の近道となった大津-矢橋間の渡船場として栄えた。」
とある。
矢橋の船頭さんが喧嘩をしている人を見て、「あんたら、これも何かの縁だ、はよう舟にのらなんだ」とでも言ったのだろう。
「のらなんだ」といい、五句目の惟然の「うつかりと」、八句目の支考の「ごそごそとそる」といった口語的な言い回しは、後の惟然の風に繋がるものかもしれない。
十二句目。
仕合と矢橋の舟をのらなんだ
あふげど餅のあぶれかねつる 望翠
ちょっと茶屋で餅でも食ってから行こうかと思っていると、薪が湿っているのか火力が弱く、餅が焼けない。
それも何かの縁と、餅をあきらめて舟に乗ろうということになる。
矢橋に近い草津宿では姥が餅が名物で、
千代の春契るや尉と姥が餅
の句が芭蕉に仮託されているが、この頃からあったのかどうかよくわからない。
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