2019年9月8日日曜日

 今日は出光美術館で「奥の細道330年 芭蕉」展を見た。「旅路の画巻」があった。
 最初の絵は、

 旅人と我名よばれん初しぐれ  芭蕉

 次の絵は、

 寒けれど二人寐る夜ぞ頼もしき 芭蕉

かなと思った。
 破笠の「柏に木菟蒔絵料紙箱」があった。破笠が漆芸家だったのは知らなかった。これはなかなかの名品だ。
 許六の「百華賦」の絵の入ったものがあった。
 近代の小杉放菴の「奥の細道 那須野」の馬はデカ過ぎ。近代の馬の大きさだとこうなる。江戸時代の馬は小さかった。許六の「発句画賛 野をよこに」の比率でいい。
 台風も近づいてきている。昼頃銀座で雨に降られて帰った。
 日本は今日も平和で「私達は生きるか死ぬかの瀬戸際。在日は明日殺されるかもしれない。」なんて状況はどこにもない。まあ、あの連中は何十年も同じことを言っているから、日本人はわかっているが、他所の国の人は騙されないように。
 それでは、「実や月」の巻の続き。

 五句目。

   芦の葉こゆるたれ味噌の浪
 台所棚なし小舟こぎかへり   二葉子

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注に、

 堀江こぐたななしを舟こぎかへり
     おなじ人にやこひわたるらん
               よみ人しらず(古今集)

の歌が引用されている。「たななし小舟」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 棚板すなわち舷側板を設けない小船。上代から中世では丸木舟を主体に棚板をつけた船と、それのない純粋の丸木舟とがあり、小船には後者が多いために呼ばれたもの。ただし近世では、一枚棚(いちまいだな)すなわち三枚板造りの典型的な和船の小船をいう。棚無船。
 ※万葉(8C後)一・五八「いづくにか舟泊(ふなはて)すらむ安礼(あれ)の崎こぎたみ行きし棚無小舟(たななしをぶね)」

とある。まあ、小さな手漕ぎボートを想像すればいいのだろう。
 これに台所がつくと「台所舟」になる。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 船遊びなどの屋形船に付随して料理を作りまかなう小船。厨船(くりやぶね)とも称し、江戸や大坂の川筋での船遊びに多く使われた。また、近世大名の川御座船にも台所御座船と呼ぶ同じ目的のものがあり、これはかなり大型船であった。賄舟(まかないぶね)。
※俳諧・談林十百韻(1675)「磯うつなみのその鮒鱠〈卜尺〉 客帆の台所ふねかすみ来て〈一鉄〉」

とある。
 台所舟が漕ぎ帰っていったため、たれ味噌が芦の葉の向こうに行ってしまった、となる。
 六句目。

   台所棚なし小舟こぎかへり
 下男には与市その時      桃青

 「下男」は「しもをとこ」と読む。句は「その時(の)下男には与市」の倒置。与市というと那須与一が思い浮かぶが、たまたま台所舟を漕いでたのが与市という厨房の下働きだったとしてもおかしくはない。
 初裏に入る。
 七句目。

   下男には与市その時
 乗物を光悦流にかかれたり   卜尺

 『校本芭蕉全集 第三巻』の注にある通り、与市を角倉素庵(すみのくらそあん)のこととする。角倉素庵はコトバンクの「美術人名辞典の解説」に、

 「江戸前期の学者・書家・貿易商。了以の長男。名は光昌・玄之、字は子元、通称は与一、別号に貞順・三素庵等がある。藤原惺窩の門人で本阿弥光悦に書を学び一家を成し、角倉流を創始、近世の能書家の五人の一人に挙げられる。了以の業を継ぎ、晩年には家業を子供に譲り、嵯峨本の刊行に力を尽くす。また詩歌・茶の湯も能くする。寛永9年(1632)歿、61才。」

とある。
 「乗物」はweblio古語辞典の「学研全訳古語辞典」に、

 「①人の乗る物。馬・車・輿(こし)・駕籠(かご)など。
  ②江戸時代、公卿(くぎよう)・高級武士、また儒者・医者・婦女子などの限られた町人が乗ることを許された、引き戸のある上等な駕籠。」

とある。陸上の乗物に限られていて、今のような船や飛行機を含めた人を乗せるもの一般としての乗物の概念はない。もちろん連歌でも植え物、降り物はあっても乗り物はない。よって打越の小舟は問題にならない。
 駕籠を担ぐことを「駕籠をかく」というところから、ここでは与市という駕籠かきがいるが光悦流か?という冗談。
 八句目。

   乗物を光悦流にかかれたり
 薬草喩品くすりごしらへ    紀子

 「薬草喩品(やくそうゆほん)」は奈良時代に書かれた「大字法華経薬草喩品」というお経のこと。内容は仏の教えが三千大千世界に等しく雨を降らせ、様々な薬草をも育てるような偉大なものであることを説くもので、薬の作り方は書いてない。
 本阿弥家は日蓮宗の家系でそこから「薬草喩品」が出てくる。
 前句の光悦流に駕籠をかくところから、薬の製法の書いてない「薬草喩品」で薬を作ると洒落には洒落で応じたということか。かなり苦しい。
 九句目。

   薬草喩品くすりごしらへ
 真鍮の弥陀の剣を戴て     桃青

 剣を持っているのは普通は不動明王で、阿弥陀如来の剣というのはあまり聞かない。まあ、そこはあまりこだわらずにというところなのか。まあ、頭の後ろの放射光背が沢山の剣に見えなくもないか。その剣で薬草を採取し、薬を拵える。これもどうにも苦しい。
 十句目。

   真鍮の弥陀の剣を戴て
 西をはるかに緑青の山     二葉子

 真鍮だから錆びれば緑青(ろくしょう)を吹く。それを西の山の青い色に喩える。
 上手く窮地を脱した感じがする。やはりこの二葉子はただものではない。
 十一句目。

   西をはるかに緑青の山
 隈どりの嶺より月の落かかり  紀子

 初代市川團十郎が貞享二年に『金平六条通』の坂田金平を勤めた時が歌舞伎の隈取の始めと言われているから、ここでの隈取は歌舞伎のそれではない。
 日本画の技法である「隈取」も、はたして「日本画」が誕生する以前の伝統絵画に遡れるのかどうか定かでない。
 ここでは単に影になるという意味であろう。シルエットとなった嶺に月が沈もうとすると、空も明るくなり、次第に緑青の色をした山が浮かび上がってくる。こういう景色の句になると展開は楽になる。
 十二句目。

   隈どりの嶺より月の落かかり
 秋を坐布の床の山風      卜尺

 「坐布」は「ざしき」、「床」は「とこ」と読む。
 前句の「隈どり」を隈を書き込んだ、絵に描いたという意味に取り成して、「嶺より月」という絵が落ちかかったとし、その原因を座敷の床に吹き込んできた秋の山風とする。

2019年9月7日土曜日

 今日も晴れて気温も上がった。夕暮れには半月よりやや膨らんだ月が見えた。明日の夜には台風が来るらしい。

 さて、それでは第三だが、

   爰に数ならぬ看板の露
 新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て 紀子

 紀子についてはよくわからないが、言水撰の『東日記』(延宝九年)に、

 年忘れたり跡へは取にかへられず 紀子

の句がある。
 延宝五年に千八百句独吟を行い延宝六年五月に『大矢数千八百韵』を刊行した大和国多武峰寺塔頭西院の僧、紀子と同一人物かどうかもよくわからない。俳号がかぶることは時々ある。
 岸和田市のhttps://www.city.kishiwada.osaka.jp/uploaded/attachment/1248.pdfという短冊目録(江戸時代)のファイルに、「紀子、我袖や、俳諧、『江府住人 我袖や』」というのがあるから、多武峰の紀子とは別に江戸の紀子がいたと考える方がいいのだろう。
 句の方は、『校本芭蕉全集 第三巻』の注が『源氏物語』澪標巻の、

 数ならぬ三島がくれになく鶴を
     けふもいかにと問ふ人ぞなき

の歌を引用している通り、この歌を本歌にしながら、前句の「数ならぬ看板」を蕎麦屋の看板として、閑古鳥ならぬ鶴の鳴く問う人もなき風情としている。
 四句目。

   新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て
 芦の葉こゆるたれ味噌の浪   卜尺

 卜尺(ぼくせき)はコトバンクの「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」に、

 「?-1695 江戸時代前期の俳人。
江戸日本橋大舟町の名主。はじめ北村季吟に,のち松尾芭蕉にまなぶ。延宝年間江戸で宗匠となった芭蕉に日本橋小田原町の住居を提供した。延宝8年「桃青門弟独吟二十歌仙」に参加。元禄(げんろく)8年11月20日死去。通称は太郎兵衛。別号に孤吟,踞斎(きょさい)。」

とある。
 喋々子撰の『誹諧當世男(はいかいいまやうをとこ)』(延宝四年刊)に、小澤氏卜尺と記され、

 丸き代やふくりんかけし千々の春 卜尺
 まま事の昔なりけり花の山    同
 たぞ有か編笠もてこいけふの月  同
 ふぐ汁や生前一樽のにごり酒   同

の句がある。それ以前の松意撰『談林十百韵(だんりんとつぴゃくゐん)』(延宝三年刊)にも多くの句が選ばれている。
 醤油が普及する前の江戸では、蕎麦はたれ味噌で食べていた。
 田鶴に芦とくれば、

 若の浦に潮みちくれば潟をなみ
     葦辺をさして田鶴鳴き渡る
               山部赤人

の歌の縁とわかる。
 「芦の葉こゆる」は、

 夕月夜しほ満ち来らし難波江の
     あしの若葉を越ゆる白波
               藤原秀能(新古今)

を證歌としている。

 新蕎麦や三嶋がくれに田鶴鳴て
     芦の葉こゆるたれ味噌の浪

と和歌の形にして読めば、「新蕎麦や」の「や」は疑いの「や」として、このあとに比喩として「三嶋がくれに田鶴鳴て芦の葉こゆる」ような至高の「たれ味噌の浪」となる。

2019年9月6日金曜日

 今日は久しぶりに晴れて半月が見えた。一週間後には十五夜。
 時差はあるにしても月は世界中で見えるし、どこから見る月も同じ月だ。月を見る心にもそんなに差はあるまい。
 さあ、そろそろ今月の俳諧ということで、延宝六年の「四吟哥僊」を選んでみた。歌と哥は同じだし、仙と僊も同じ意味だから普通に四吟歌仙でもいいところだ。
 発句は、

 実や月間口千金の通り町    桃青

で、「実や」は「げにや」と読む。「月間口千金」は『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の注に、

 「一間間口で千金もするという地価の高い場所。」

とある。
 地価とは言っても、近代的な地価の概念は明治五年の地租改正からはじまるもので、江戸時代の土地は基本的には幕府のもので、田畑の売買などは禁令が出ていたが、そこは建前で実際は地主がいて事実上の土地の私有化が行われていて、売買も行われていた。商人の多くは地主に店賃(たなちん)を払って商売をしていた。
 ただ、ここでいう「千金」が店賃のことなのかどうかはよくわからない。千金を稼げる場所という意味かもしれない。とにかく多くの金が動く場所であることには変わりない。
 「通り町」はコトバンクの「大辞林 第三版の解説」に、

 「① 目抜きの大通り。またそれにそった町筋。
  ② ◇ 江戸の町を南北に通じる大通りの名。神田須田町から日本橋・京橋・新橋を経て、芝の金杉橋に至る。」

とある。
 ここで地名を出すのは、おそらくこの興行が脇句を詠む二葉子の家で行われたからであろう。
 『校本芭蕉全集 第三巻』の注によれば、二葉子は、

 「喋々子の息。十二歳。『俳家大系図』によれば『喋々子住鍛冶橋』とあり。鍛冶橋は通り町に近い。」

だという。鍛冶橋は江戸城の外堀に架けられた橋で、その外側に鍛冶橋御門があった。東京駅と有楽町駅の間あたりにある鍛冶屋橋交差点に「鍛冶屋橋跡」という説明書きがある。通り町が現在の中央通りなので、確かにそう遠くはない。
 この頃芭蕉も日本橋小田原町にいたが、そこも通り町のすぐそばだった。
 間口千金の通り町から見る今日の月は、実に値千金というわけだが、この「千金」は当然、

    春宵      蘇軾
 春宵一刻直千金 花有清香月有陰
 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈
 春の宵の一刻は値千金、
 花清らかに香り月も朧げに
 歌に笛に楼台の声も聞こえてきて
 中庭の鞦韆に夜はしんしん

の詩をふまえている。
 「千金」という響きから、ちょっと生々しい経済ネタに持ってゆこうという欲求は、この句に留まらなかった。
 延宝九年の常矩撰『俳諧雑巾』には、

 春宵のやす売あてありけふの月 重以

 千金の春宵も今日の月と較べれば安く買い叩けるのではないか、とする。
 同じ延宝九年の言水撰『東日記』には、

 千金や閏の一字月のけふ    秀勝

 延宝八年には閏八月があり、中秋の名月が二回あった。滅多にない二度の名月は千金の値がある、となる。
 このネタは結局、

 夏の月蚊を疵にして五百両   其角

に窮まることになる。
 それでは二葉子の脇、

   実や月間口千金の通り町
 爰に数ならぬ看板の露     二葉子

 十二歳とは思えぬ堂々たる脇で、伝承は本当なのか、喋々子自身ではないかと疑いたくもなる。
 発句の「千金の通り町」に対して、自分の家を「数ならぬ看板の露」とへりくだって受ける。

2019年9月4日水曜日

 まだ中坊だった頃聞いた話で、朝鮮人学校の生徒にからまれて、そいつは喧嘩が強かったのでやり返して喧嘩では勝ったのだが、その夜家が放火されたという種の、出所のわからないいわゆる都市伝説みたいなものが流布していた。
 そこでの教訓はあいつ等には絶対にかかわるなだった。今でいえば「断韓」ということか。まあ、今こんな話をするとヘイトスピーチだなんて言われかねないが。
 力によって権利や自由を獲得するというのは、西洋哲学では基本なのかもしれないが、そうやって獲得した権利や自由を守るには、結局力を誇示し続けなくてはならなくなる。日本では「力を入れずして天地を動かす」風流の道、共通体験を語り心情的にに共鳴しあうことが重視された。
 それでは今日も『談林俳諧集』から。

 幽山撰『誹枕』(延宝八年刊)には、諸国をテーマにした沢山の発句が収められている。
 たとえば美濃なら、

 養老の瀧つぼやたんほ春の水  正勝

のように、養老の瀧の瀧壺から痰壺を連想し、田んぼの春の水と続く。
 飛騨なら、

 蓬莱や飛騨の工の鳥の千代   泰徳

 飛騨の止利仏師に掛けている。
 信濃は、

 新そばや打詠行ば信濃なる   幽山

 と信州蕎麦の蕎麦打ちに掛けている。
 この幽山という人はコトバンクの「朝日日本歴史人物事典の解説」に、

 「没年:元禄15.9.14(1702.11.3)
 生年:生年不詳
 江戸前期の俳人。名は直重。通称は孫兵衛。丁々軒と号す。晩年は竹内為入と号したという。初め京に住して,俳諧を松江重頼に学ぶ。寛文(1661~73)のころは,諸国を行脚し,その実績をもとに『和歌名所追考』12冊を出版。延宝2(1674)年ごろには江戸に下り,重頼の友人で奥州磐城平の城主内藤風虎の周辺で活躍した。修業時代の松尾芭蕉が,幽山の記録係を勤めたとの伝もある。延宝8年には,『誹枕』を刊行。やがて頭角をあらわしていく芭蕉と入れかわるごとく,俳壇から姿を消していく。晩年は,江戸から藤堂高通(俳号は任口)が初代藩主として立藩した久居(三重県)に移住した。」

とある。なお、藤堂高通の任口は伏見の任口と同名で紛らわしい。
 北は陸奥から南は薩摩までの諸国に留まらず、佐渡や隠岐、壱岐対馬などの離島も部立てされている。
 対馬では、

 対馬根や組蓬莱の髭人参    幽山

と対馬を通じて朝鮮(チョソン)から輸入されていた朝鮮人参が詠まれている。
 このあと、

   惣軸
 五文字や日本にむすぶ飾縄   云奴

と日本全体が詠まれ、そのあとに「外国」の部がある。

 唐船よ随分渡せきそ始     元好

と中国に始まり、

 蓬莱や琉球の島羊米      肩柳

と琉球の句が続く。
 琉球国の時代には山羊だけでなく羊も飼われていた。その羊に掛けて、稲刈りをした後の株に再生した稲のことをいう稲孫(ひつじ)米を導き出す。

 うら白や数波越て長鬚国    如葉

 長鬚国は『酉陽雑俎』に登場する伝説の国。

 はま弓も君にあげけりしやくしやいん 宇八

 シャクシャインの戦いは寛文の頃で延宝の時代ではまだ記憶に新しい。

 こぶのりやとられてなみの鬼がしま 三昌

 鬼が島も伝説の島だが、昆布や海苔が取れるのか。こぶ取り爺さんと桃太郎が一緒くたになった感じだ。

 楊貴妃を馬嵬が原や花のかぜ  維舟

 これは中国で、楊貴妃は馬嵬で殺害され埋葬された。

 他国もつむるやかぼちゃるすんつぼ 如貞

 ルソンの壺というと堺の商人呂宋助左衛門が大河ドラマにもなって有名だが、ルソンで作られたのではない。中国南部で作られたものをフィリピンのルソン島を経由してきたのでこの名がある。
 かぼちゃはカンボジアが語源と言われている。

 夏の夜やね姿恨む小人嶋    才丸
 五月雨に芦の葉こぐべし小人嶋 恕流

 小人嶋は『山海経』に記された東の果ての島。『魏志倭人伝』に邪馬台国の南にあるとされた侏儒国(又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里)も同じものなのか。
 ひょっとしたら一万二千年前までインドネシアのフローレス島で生存していたとされるホモ・フロレシエンシスという身長一メートルあまりの人類の記憶が、何らかの伝承として残っていたのかもしれない。

 天竺川伽羅に竿させ妻迎    調和

 天竺(インド)は仏様の国としてよく知られた外国だった。ここでは七夕にされている。

 桂男なぐさめ兼つ女護のしま  幽山

 女護島は日本の伝説の島で、ウィキペディアには、

 「女護島(にょごのしま、にょごがしま)は、日本に伝わる伝説上の地名である。海上にある女性のみが暮らしている島であるとされる。女護ヶ島などとも表記される。」

とあり、また、

 「井原西鶴による浮世草子『好色一代男』では、主人公である世之介が最終的に向かう土地として登場している。」

ともある。『好色一代男』は天和二年刊なのでこの頃はまだ書かれていない。

 仲丸が三笠の月や唐の芋    西武

 仲丸は阿倍仲麻呂のこと。江戸時代には人麻呂も人丸と呼ばれていた。
 阿倍仲麻呂といえば、

 天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山に出でし月かも
             阿倍仲麻呂(古今集)

だが、ここではやはり「唐の芋」と芋落ちになる。唐の芋はサトイモのこと。サツマイモが伝わるのはもう少し後の時代になる。

 入札や心当にもおらんだ荷   三昌
 阿蘭陀や札もおち塩湊舟    宗旦

 ウィキペディアによると、オランダとの「自由貿易が認められたことにより貿易量は増大したが、その支払いのための金銀の流出も増大した。これを抑制するために寛文12年(1672年)に貨物市法が制定された。これは『市法会所』が入札により輸入品の値段を決定し、一括購入する制度である。」とのこと。

 からびたる声や朝鮮筆つ虫   意朔

 朝鮮(チョソン)とは対馬を通じて盛んに貿易が行われていた。ただ、ここではそれに関係なく、朝鮮の筆に筆津虫(コオロギ)を掛けて、その声が唐びているというだけの句。
 まあ、江戸時代の人にとっての外国のイメージというのが何となく伝わってくる。
 最後に地元相模の句。

 金沢の猫や忍び路けはひ坂   幽山

 金沢は金沢八景の金沢。「けはひ坂」は鎌倉の化粧坂(けわいざか)。
 金沢から朝比奈を越えて鎌倉に入り、鎌倉を通り過ぎて出る時は化粧坂になる。この猫は随分遠くまで遠征したもんだ。
 化粧坂に「気配」と「毛生え」を掛けている。

2019年9月3日火曜日

 名月も近いというのに、今日も夕方から激しい雨が降り、まだ今月の月を見ていない。
 それでも気分だけはということで、常矩撰の『俳諧雑巾』から、月の句を拾ってみよう。常矩は許六が「中ごろ談林の風起て急ニ風を移し、京師田中氏常矩法師が門人ト成て、俳諧する事七・八年、昼夜をわすれて、一日ニ三百韻・五百韻を吐キ出す。」と『俳諧問答』に書いているように、許六にも大きな影響を与えた人のようだ。
 巻末には秋風の独吟もある。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のときに秋風の花林園を尋ねている。

 百合若もちりけをすへんけふの月 さは

 鉄弓をふるう豪傑も、月を見ながら肩にお灸を据えてもらって癒される時もあったのか。百合若の御台所の視点に立っている。
 月見というとやはり酒で、

 あき樽や明夜うらみん牖(まど)の月 廣干立
 酒家の門明てうらみなしけふの月   不水

 樽が空になると恨み、酒屋の門が開くとうらみなし。二句セットになっている。

 秋は月聾(つんぼ)に盲(めくら)影もなし 一之

 これはちょっと芸がない。

 盲より唖のかハゆき月見哉つきみかな 去来

の句には及ばない。このネタは、

 座頭かと人に見られて月見哉     芭蕉

に窮まるといっていいだろう。

 月夜よし酒屋芋売須磨明石      常矩

 名月といえば酒だが「芋名月」という言葉もあるくらいで、この日は芋を供え、また芋を食う。この句は酒屋と芋売りが須磨明石のように月によく付くということか。

 たづぬべし月は日来の芋畠      尒木

 月を見るなら須磨明石もいいが、まずはそこいらの芋畑でということか。

 ほれば月青葉の波の疇よりこそ    陳次

 これも芋ネタで、芋畑の疇(うね)を青葉の波に見立て、そこを彫れば月のような芋がある。この頃の芋はサトイモ。葉は大きく、波も腰から胸というところか。

 楊枝の猿こよひの芋を望みける    可因

 「楊枝の猿」は「猿屋の楊枝」のことか。コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「江戸時代、猿を看板にして楊枝を売っていた店の称。特に、京都粟田口、江戸浅草・日本橋照降町などにあった楊枝屋が有名。一説に、猿は歯が白いところから楊枝をいうとも。猿屋。猿屋楊枝。〔仮名草子・東海道名所記(1659‐61頃)〕」

とある。楊枝の看板のあの猿も今夜は芋が食いたそうだ。

 心ある下女がたもとや芋の月     宗雅

 下女が袂に芋を入れて差し入れに来てくれるとは気が利いている。

 月の塩河原の院の芋なりける     如生

 「河原院(かわらのいん)」はコトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」に、

 「東六条院ともいう。平安時代初期,嵯峨天皇の皇子源融 (みなもとのとおる) の別荘。京都六条大路の北,東京極大路の西にあった。庭に陸奥塩釜の風景を模した山や池を造り,毎日,難波の浦から運ばせた海水で塩焼きをしたという。融の死後,その子の湛が宇多上皇に献じたが,上皇の死後,寺とした。 (→平等院 )」

とある。
 月の光の白さを塩に見立てて、唯の芋も河原の院の芋になる。

 親芋や心のやみもけふの月      一帆

 親芋は徒然草第六十段の盛親僧都の芋頭のことか。

 「いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚さめぬれば、幾夜も寝いねず、心を澄ましてうそぶきありき」

とあり。心の闇も親芋で晴れる。

 けふや月三百貫を楊枝にふる     定房

も同じ盛親僧都の芋頭が出典か。

 浮世哉つきにはまふた芋に砂     杉風

 蕉門から杉風の登場。「はまふた」がよくわからない。

 月ひとつこよひぞ菜汁の最中なる   秋風

 みんなが芋だ芋だと言ってるときに菜汁とは、やはり金持ちは違う。

 水に影三五の月や一二ノ二      常二

 三五は三×五で十五夜のこと。貞門に、

 松にすめ月も三五夜中納言      貞室

の句もある。元ネタは白居易の「八月十五日夜禁中独直対月憶元九」の「三五夜中新月色」。
 三五の月も水に映れば揺らいで見えて一、二、二となる。
 後に芭蕉は、

 名月や池をめぐりて夜もすがら    芭蕉

の句を読んでいる。これを平仮名で縦書きにしてよく見ると、めいげつ、つ(や)池(を)めと、池に名月が逆さになって映っている。
 名月の芋への情熱は言水撰『東日記』にも見られるが、やや違ったものになる。

 芋洗ふ翁影を濁すな神田川      蒼席

 月を見て酒に芋といういかにも庶民的な感覚から、芋洗ふ翁といういかにもいそうな人物を登場させ、川に映る月を濁すな、と展開する。

 芋洗ふ女に月は落にけり       言水

 芋を洗っているのを女の色気には、月のような僧も落ちるか。これを発展させると。

 芋洗ふ女西行ならば歌詠まむ     芭蕉

の句になる。
 

2019年9月2日月曜日

 今日は「蕉門俳諧前集」「蕉門俳諧後集」と一緒に買った「談林俳諧集」上下をパラパラとめくってみた。ちゃんと読もうとすると何年かかるかわからないから、せいぜい拾い読み程度で、それでも談林時代から天和調へ至る時期が芭蕉だけでなく、談林全体で関東関西にまたがって生じてた現象だったというのが何となく分かる。
 常矩撰の『俳諧雑巾』(延宝九年)にも、『武蔵曲』のような破調句がいくつもある。

 梶の葉売ル声に天下の鰥露けき秋也 常矩

 梶の葉は船の梶に通じるというので、昔は願い事を梶の葉に書いて川に流したという。そのため梶の葉売りもいたとか。その声を聞くと七夕の織姫彦星の会う夜が来るというので、世の鰥夫(やもめ)たちは悲しくなるというわけだ。
 天の川は地上と天界を隔てる川でもあり、天に連れ去られた織女は地上においては死を暗示させる。一年に一度逢えるというのも、ちょうどお盆の時期に近く、死んだ妻に逢える日という連想もあったのかもしれない。

 おほん目には天川の岩を牛と見給ふべし 如葉

 天にいる織女に、天の川の石を見ても牛(牽牛)だと思ってくれ、という意味か。よくわからない。
 言水は天和二年に京都へ行ったが、『東日記(あづまのにっき)』(延宝九年)の撰の時には江戸にいた。談林の集とされているが、桃青、其角、杉風、素堂なども参加している。まだ談林と蕉門とが別れる前で、言水も、

   山居雪
 雪ならぬ日の鉢。かくあらば欲を山庵リ 言水

と破調を楽しんでいる。

 青梅の梢を見ては息休めけり炉路男   東水子
 端午の御祝義として柏木の森冬枯そむ  盲月

 このあたりは伊丹流の長発句にも負けない長さなのではないか。
 下巻の『俳諧庵桜』は西吟の撰で貞享三年とかなり後になるが、天和の破調の最後の名残を留めている。この集には、鬼貫、青人(あおんど)、馬桜、百丸といった伊丹の面々も参加しているし、

 市中に牛啼て春けしきセリ我独リ    馬桜
 蚊に埋ミ犬ないて乞食涅槃の姿哉    百丸
 華の滅度釈迦や来ぬらん吉野山     青人
 躑躅桜南朝の跡見にいらむ       鬼津ら

芭蕉の古池の句の別バージョン、

 古池や蛙飛ンだる水の音        芭蕉

の句も収められている。
 そのほかにも、

   落月庵の雨など聞、戯ル
 茅檐雨すごく芭蕉の琵琶を聞夜哉    鸞動

などは芭蕉野分の句を髣髴させる。
 猫の句もある。

 痩猫や木槿がもとの青蝘(どかき)   鐵卵
 有様や猫が世中置炬燵         青人

2019年9月1日日曜日

 八月にネットで買った「日本俳書大系」の「蕉門俳諧前集」の上下、「蕉門俳諧後集」の上を少しづつぱらぱらとめくっている。「蕉門俳諧後集」の下と「蕉門俳諧続集」は前から持っていた。
 千春撰の『武蔵曲(むさしぶり)』(天和二年刊)の破調は、字数に囚われないことで、近代の自由律に近くなる。

 舟あり川の隅ニ夕涼む少年哥うたふ  素堂

なんかは近代詩の一節みたいだ。

 覆盆子取女棘袖引にひかれきや    嗒山

ってこれは蕪村の『春風馬堤曲』の、

○堤下摘芳草 荆与蕀塞路
 荆蕀何妬情 裂裙且傷股

 堤を降りて芳しい草を摘もうとしたら、イバラとカラタチが道をふさぐ。
 イバラにカラタチ、何やきもち焼いてるの、裾を裂いては股を引っ掻く。

の元ネタみたいだ。

   信濃催馬楽
 君こずば寐粉にせん しなのの眞そば初眞そば 嵐雪

 「しなのの」以下は小さな字で二行で記され、注釈みたいだが、蕎麦屋のコピーみたいでもある。
 「寐粉(ねこ)」はコトバンクの「デジタル大辞泉の解説」に、

 「1 古くなって使えなくなった粉。ひねこ。
  2 継粉(ままこ)のこと。」

とある。

   末の五器頭巾に帯て夕月夜
 猫口ばしる荻のさはさは       素堂

 「頭巾」は「トキン」仮名が振ってあり、この場合は山伏のかぶる帽子の「頭襟(ときん)」のこと。お椀をひっくり返したような形をしている。
 芝居か何かの場面に見立てているのだろう。お椀を紐で縛って頭襟に似せた偽山伏に、猫が荻を揺らして「さはさは」と言う。
 芭蕉の句は今更言うまでもない。

 夕顔の白ク夜ルの後架に紙燭とりて  芭蕉
 侘テすめ月侘斎がなら茶哥      同
 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉     同
 櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ  同

 其角の「樽うた」も何だこれはという感じだ。

   樽うた
  鉢たたき鉢たたき 暁がたの一声に
  初音きかれて 初がつほ
  花はしら魚 紅葉のはぜ
  雪にや鰒を ねざむらん
  おもしろや此 樽たたき
  ねざめねざめて つねならぬ
  世を驚けば 年のくれ
  気のふるう成 ばかり也
  七十古来 まれなりと
  やつこ道心 捨ごろも
  酒にかへてん 樽たたき
  あらなまぐさの樽扣やな
 凍死ぬ身の暁や樽たたき       其角

 だいぶはっちゃけてます。
 最後に千春の表題作。

 流石におかし桜折ル下女の武蔵ぶり  千春

 千春は京都の人で、何とあの季吟が序を添えている。