2019年8月14日水曜日

 今日は映画を見に行った。
 基本的には反抗期の若者が大人になってゆく過程を描いた青春ドラマで、もちろん恋が重要な役割を果たす。
 超自然的な能力を持つ少女という設定はどこか魔法少女のようで、いたいけな少女に業を背負わせるという「魔法少女まどか☆マギカ」的なテーマも感じさせる。
 降り止まない雨は古典的なテーマで、『宗長日記』の享禄四年のところにある独吟の中の、

   いつまでとふる五月雨のかきくらし
 雲間の空もはるかにぞ見る     宗長

の句を思わせる。
 それでは「哥いづれ」の巻の続き。

 初裏、九句目。

   滝御らんじにいづる院さま
 とりあへず天神殿は手向して    貞徳

 天神様といえば菅原道真公で、百人一首でも有名なあの、

   朱雀院の奈良におはしまし
   たりける時にたむけ山にて
   よみける
 このたびはぬさもとりあへず手向山
     紅葉のにしき神のまにまに
               菅家(古今集)

のパロディーであることは明白だ。
 前句の「院」を朱雀院のこととし、滝を見に行くのに菅原道真公が手向け(餞別)を「とりあへず」送ったとする。
 もちろん、元歌の意味は「幣も用意できず」という意味で、「暫定的に」の意味ではない。それに「天神殿」は大宰府で亡くなって、その後神(御霊)として祭られたときの呼び方で、生前のものではない。
 貞徳自注には、

 「亭子院大和龍門のたき御覧じに御幸の時、菅家このたびはぬさもとりあへずの尊詠有。」

とある。
 十句目。

   とりあへず天神殿は手向して
 こころしづかに夢想ひらかむ    貞徳

 「夢想開(むそうびらき)」はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、l

 「① 神仏による夢のお告げを皆に披露すること。また、その催し。
 ※御伽草子・さよひめ(室町時代小説集所収)(室町末)「御むそうひらきを、せんやとて、さんかひのちんぶつ、こくどのくゎしを、ととのへ、七日七やの、さかもりなり」
 ② 連歌・俳諧で、夢の中で神仏の暗示を得てできた句を発句として、連歌・連句を行なうこと。
 ※梅津政景日記‐元和二年(1616)一二月一九日「須田八兵へ所にて夢想開有」

とある。「手向け」には、「神仏や死者の霊に物を供える」というもう一つの意味があるので、前句を天神様に手向けしてという意味に取り成し、夢想開で連歌会を始める、とする。
 なお、「太宰府市観光情報」のサイトには、黒田官兵衛のエピソードとして、

 「筑前国に入った官兵衛(如水)は、福岡城内の居館が完成するまでの間、閑雅な太宰府に移り、太宰府天満宮の境内に隠棲しました。
 如水が隠棲の地に太宰府を選んだ理由の一つに「連歌」がありました。一流の文化人でもあった彼は、和歌・連歌の神としても知られる天神様(菅原道真公)を崇敬し、社家らを招いて連歌会を開き、太宰府天満宮に連歌を奉納するなど、連歌興隆に力をいれました。
 また、如水の天神様への信仰は深く、長年の戦乱で荒廃した天満宮の境内を造営するなど、太宰府天満宮の復興に尽力します。
 生涯を戦乱に明け暮れた如水にとって、太宰府で過ごす晩年の日々は、憧れの道真公の傍らで心置きなく風雅に興ずることができた時間であったようです。」

とあり、さらに、

 「慶長7年(1602年)、官兵衛(如水)が太宰府天満宮に奉納した連歌。梅の花が描かれた壮麗な懐紙に、妻光(幸円)、息子長政をはじめ、家臣、天満宮の社人とともに詠み連ねている。
 如水が夢枕に天神様からいただいたといわれる『松梅や末永かれと緑立つ山より続く里はふく岡』を発句としており、この中で初めて『福岡』という地名が登場する。」

とある。正確にはこれは発句ではなく和歌の形になっていて、和歌を元に第三から付けていったのではないかと思われる。なお「松」「永」の文字があるのは偶然か。
 黒田官兵衛が出家して如水となったのは文禄元年(一五九ニ)で、大宰府隠棲は関が原合戦以降の晩年のこと。慶長九年(一六〇四)に世を去っている。
 これに対し、松永貞徳は元亀二年(一五七一)の生まれで豊臣秀吉に仕えていたから、ひょっとしたら面識があったかもしれない。
 なお、この句には貞徳の自注がない。途中伝わるうちに欠落したか、あるいは秀吉の家臣だったという前歴に気付かれたくなかったからかもしれない。
 十一句目。

   こころしづかに夢想ひらかむ
 唯たのめふさがりたりと目の薬   貞徳

 先の「太宰府市観光情報」のサイトの如水の井戸の説明に、

 「 官兵衛(如水)が太宰府で過ごしていた際、茶の湯などに使っていたといわれる井戸。如水が過ごした平穏な日々が偲ばれる。
   太宰府天満宮の境内、宝物殿の傍に静かに佇んでおり、井戸の裏には黒田家隆盛の礎ともいえる『目薬の木』が植えられている。」

とある。黒田官兵衛の祖父の重隆が「玲珠膏」という目薬を売って財を築いたとの説もある。
 貞徳自注には、

 「夢想流の目薬と云あり。ひらくを目にとりなす也。」

とある。この夢想流の目薬と黒田家の関係はよくわからない。
 前句を、夢想目薬によって開かむという意味に取り成し、塞がった目にただ目の薬をたのめ、と付ける。
 十二句目。

   唯たのめふさがりたりと目の薬
 しめぢがはらのたつは座頭ぞ    貞徳

 貞徳自注に、

 「清水の観音の御詠にて付るなり。」

とある。この御詠は『連歌俳諧集』の注によれば、

 なほ頼め標茅が原のさせも草
     わが世の中にあらん限りは
        清水観音の御歌言い伝えている(新古今集)

の歌だという。
 標茅が原は栃木県の白地沼だという。させも草はヨモギのこと。清水観音が私がいる限り私を頼ってくれという歌だが、のちに頼りにならない約束の例えとして用いられるようになった。
 この句でも「なお頼め」というのを信じていたらついに座頭になってしまって腹の立つ、という句になっている。
 十三句目。

   しめぢがはらのたつは座頭ぞ
 くさびらを喰間に杖をたくられて  貞徳

 「くさびら」は茸のこと。前句の「しめぢ」を茸のシメジと掛けて、茸を食っている間に大事な杖をパクられて腹が立つ、と付ける。
 貞徳自注には、

 「茸(くさびら)にしめぢといふあり。」

とある。
 十四句目。

   くさびらを喰間に杖をたくられて
 枝なき椎のなりのあはれさ     貞徳

 前句の「杖をたくられて」を杖にしようと折り取られての意味に取り成し、枝のなくなった椎の木はあわれだ、となる。「くさびら」もこの場合椎茸に取り成され、椎茸も食われた上につえにするために枝までパクられたとする。
 椎茸の原木栽培は近代になってからで、昔は自然に生えてくる椎茸を採集していた。
 貞徳自注には、

 「椎茸にとりなすなり。椎の枝を杖にきられたる也。」

とある。

2019年8月13日火曜日

 今日は久しぶりに古代東海道の推定路を歩く旅の続きで、布佐から龍ヶ崎まで歩いた。距離は短かったが、途中から日が照ってきて暑かった。
 それでは「哥いづれ」の巻の続き。

 四句目。

   空にしられぬ雪ふるは月夜にて
 いつも寝ざまに出す米の飯     貞徳

 貞徳自注に、

 「山寺の児(ちご)のねがひに月夜に米の飯といふ諺なり。」

とある。
 山奥だと米もあまり取れず、麦や雑穀や野菜などを混ぜて炊くのが普通だったのだろう。せめて名月の夜くらいは米だけの飯を喰いたいと思うものの、いつも稚児の寝る時間になるのを待って、偉い坊さんだけが米の飯を喰っている。
 稚児は寺院で召し使われている元服した少年のことで、夜の相手をすることもある。
 五句目。

   いつも寝ざまに出す米の飯
 投はふる鮨の腹もやあきぬらん   貞徳

 貞徳自注に、

 「投て横ざまになるをねざまといふなり。」

とある。
 コトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」にも、

 「〘名〙 (「ねさま」とも)
 ① 寝ている時のようす。寝姿。ねぞう。
 ※宇治拾遺(1221頃)一〇「式部丞がねざまこそ心得ね、それおこせ」
 ② 寝る時。ねぎわ。
 ※どちりなきりしたん(一六〇〇年版)(1600)八「ねさまにもをこた

らずそのぶんつとむるためには何事をすべきや」

とある。打越に付いたときには②の意味だったが、ここでは①の意味に取り成す。
 昔の鮨はなれ寿司で、塩漬けにした魚とご飯を交互に重ね乳酸発酵させる。
 このとき魚の腹を割いてそこにご飯をつめる製法もある。この場合だと、鮨を投げ出せば腹が開いて中のご飯が飛び出してしまう。
 「なれる」というのは輪郭がなくなる、境目がなくなることをいう言葉で、本来は魚の形がはっきりしなくなるまで何ヶ月も漬け込んで熟成させていた。

 六句目。

   投はふる鮨の腹もやあきぬらん
 桶もちながらころぶあふのき    貞徳

 鮨を投げるのではなく、桶を運ぶ時に転んだのを見て、中に鮨が入ってたら腹が開いてるだろうな、前句を推量とする。
 「あふのき」は仰向けのこと、あるいは上下が逆になること。「あふのきにころぶ」を俳諧では倒置して「ころぶあふのき」と体言止めにして字数を整える。瓜の皮でも踏んだのだろうか。
 貞徳自注には、

 「投ものを桶にとりなす也。すしはおけにてあひしらふなり。」

とある。「あひしらふ」は「あへしらふ」「あしらふ」と同じで、取り合わせのことをいう。鮨と桶は付け合いといってもいい。
 七句目。

   桶もちながらころぶあふのき
 すべるらし水汲道ののぼり道    貞徳

 鮨桶ではなく水汲みの桶とする。
 貞徳自注には、

 「あふのきにころぶとある故に上り坂ととりなすなり。」

とある。
 八句目。

   すべるらし水汲道ののぼり道
 滝御らんじにいづる院さま     貞徳

 「すべる」には退位するという意味もある。最後に「院様」ともってくることで、坂道ですべったのかと思いきや退位なされた院様のことだったか、と落ちになる。
 貞徳自注に、

 「すべるとあるを御位にとりなすなり。」

とある。
 今だったら、

   すべるらし水汲道ののぼり道
 山イベントに向う芸人

といったところか。

2019年8月12日月曜日

 暑さと長時間労働からなかなかこの俳話の更新ができなかったが、昨日からようやく夏休み。少しは書けるかな。
 昨日は南相馬の追悼福興花火を見に行った。今年はゴッチとしてではなくバンドとしてASIAN KUNG-FU GENERATIONで来てくれた。今までになく大勢の人が集まって盛り上がった。
 さて、今年は月遅れ盆と旧盆が重なるということもあり、貞徳翁独吟百韻「哥いづれ」の巻を読んでみようと思う。この巻は小学館の日本古典文学全集32『連歌俳諧集』(金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974)に収録されていて、貞徳自注と暉峻康隆・中村俊定の注がついているので読みやすい。
 この巻の発句は松江重頼編の『犬子集』(寛永 十 年(一六三三) 刊にも選ばれているので、それ以前のものと思われる。
 その発句はこれだ。

 哥いづれ小町をどりや伊勢踊   貞徳

 小町踊りはコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「江戸時代の初・中期ごろ、京都で七夕(たなばた)の日に踊られた娘たちの風流踊(ふりゅうおどり)。七夕踊ともいった。娘たちの年齢は、年代によって一定していないが、7、8歳から17、18歳までの間で、はでな扮装(ふんそう)で身を飾った。たとえば、美々しい中振袖(ちゅうふりそで)の着物を着、左肩に光綾綸子(こうりょうりんず)の幅広の襷(たすき)を掛け、造花を挿した髪頭に緞子(どんす)の鉢巻(はちまき)を巻き、手には締(しめ)太鼓を持ってたたきながら、「二条の馬場に 鶉(うずら)がふける なにとふけるぞ 立寄ってきけば 今年や御上洛(じょうらく) 上様繁昌(はんじょう) 花の都はなお繁昌」などと小歌を歌って、ときには輪になり、ときには行列をして踊り歩いた。
 のちには踊らずただ歌い歩くだけになったというが、掛踊(かけおどり)の性格が濃い。鉢巻に襷という道具だてに古来の巫女(みこ)の名残(なごり)がうかがえるが、多分に遊戯化していた。七夕は盆に接近しており、盆踊りの前哨(ぜんしょう)にもなったが、もとは娘たちの成女戒(せいじょかい)の物忌みの盆釜(ぼんがま)から発して芸能化したものといわれる。[西角井正大]」

とある。
 一方伊勢踊りの方はというと、これもコトバンクの「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」に、

 「伊勢参宮信仰に伴って近世初頭に流行した風流踊(ふりゅうおどり)。庶民の伊勢参宮流行の歴史は934年(承平4)の記録までさかのぼるが、1614年(慶長19)に大神宮が野上山に飛び移ったという流言がおこって、にわかに伊勢踊が諸国に流行した。この爆発的流行に翌年には禁令も出された。1635年(寛永12)に尾州徳川家から将軍家光の上覧に供した伊勢踊は、裏紅の小袖(こそで)に、金紗(きんしゃ)入りの緋縮緬(ひぢりめん)の縄帯(なわおび)、晒(さらし)の鉢巻姿の、日の丸を描いた銀地扇を持った集団舞踊で、「これはどこの踊 松坂越えて 伊勢踊」などの歌詞が歌われている。1650年(慶安3)にお陰参りが始まるまでが、伊勢の神を国々に宿次(しゅくつぎ)に送る神送りの踊りとしての伊勢踊の流行期であった。現在は伊豆諸島の新島(にいじま)や愛媛県八幡浜(やわたはま)市などに残存している。[西角井正大]」

とある。
 どちらも貞徳の時代に流行したもので、小町・伊勢という王朝時代の歌人の名前がついていることから、小野小町の歌と伊勢の歌が甲乙つけられないように、小町踊りも伊勢踊りも甲乙つけがたいとする。
 「哥いづれ(勝劣あるや)、小町をどりや、伊勢踊や」という意味。
 貞徳自注に

 「伊勢・小町、哥のよみ無勝劣上手なれば、今をどりの名によせ侍る。」

とある。
 脇は、

   哥いづれ小町をどりや伊勢踊
 どこの盆にかをりやるつらゆき  貞徳

 「をりやる」は「居り」に尊敬語の「やる」をつけたもので、「おりゃる」と発音したのであろう。「おじゃる」と同じ。「りゃ」と「じゃ」の交替はスペイン語を思わせる。
 旧暦七月になると小町や伊勢の踊りが現れるのだから、紀貫之もどこかの盆に帰ってきているはずだ。
 貞徳自注に、

 「盆には死なる人かえるといへば、いづくにか勝劣をとふべきものと也。」

とある。
 前句に優劣つけがたいとして小町と伊勢の歌合せに、紀貫之が判者としてこの世に戻ってきている、とする。
 第三。

   どこの盆にかをりやるつらゆき
 空にしられぬ雪ふるは月夜にて   貞徳

 本歌は『連歌俳諧集』の注にある通り、

 さくら散る木の下風は寒からで
     空にしられぬ雪ぞふりける
              紀貫之(拾遺集)

になる。五七五に区切ると「空にしら」「れぬ雪ふるは」となってしまうが、俳諧ならこれも一興と許される。のちになるが、

 海暮れて鴨の声ほのかに白し    芭蕉

の句もある。
 発句・脇と秋の句だったので、ここで月を出すのは必然。散る桜を雪に喩えた元歌を少し変えて、まだ暑さの残る盆の月だけど、その白い光はあたかも雪のようだと、きっと貫之ならそう詠むだろうする。

 衣手はさむくもあらねど月影を
     たまらぬ秋の雪とこそ見れ
              紀貫之(後撰集)

の歌もある。
 貞徳自注に、

 「貫之のうたを以て月の雪にとりなす。一の句二の句の句切にて俳諧になる也。」

とある。

2019年8月8日木曜日

 ここはトリエンナーレでもないし公共のスペースでもないので、あえてこの問題に触れてみようと思う。
 たとえば、

 御真影焼かれた灰を踏みつけて

という上句があったとすれば、どういう下句が付くかを考えてみた。
 一つの解決法は、

   御真影焼かれた灰を踏みつけて
 被爆者達の瞳うつろに

 原爆という非常事態で、しかも日本の敗戦をほとんど決定付けた事件に結びつけるなら、焼けた御真影も理由のあるものとなるのではないかと思う。
 これを思いついたのは、ギャロというヴィジュアル系バンドの「魔王-埋葬-」という曲の「日の丸を燃やして灰になる」というフレーズが妙に印象に残っていて、多分冒頭に「光を浴びて皮膚が焼け爛れて」という原爆を暗示する歌詞のあるせいだと思ったからだ。
 俳諧師なら、燃える日の丸、燃える御真影に対して原爆は付け合いと見るのではないかと思う。

 特攻隊間抜けな日本人の墓

という上句にも、何かいい解決策がないだろうか。

   特攻隊間抜けな日本人の墓
 生延びてこそ国も残らん

 これは正攻法の付けだ。

   特攻隊間抜けな日本人の墓
 勝てば英雄負けて被害者

 あまり笑えない。まあ本人も哀れな被害者にされるとは思ってなかっただろうな。

 ハイヒール首相官房踏みつけて

 これはどうだろうか。

   ハイヒール首相官房踏みつけて
 かかとの取れた赤という色

 これは太田裕美のヒット曲「赤いハイヒール」のイメージ。石ころだらけだね。
 慰安婦像に関しては、東国原先生が「着膨れ」という見事な付け合いを見出している。二次制作が許されるなら、いろいろな人に慰安婦像の衣裳をデザインしてもらうという企画もいいのではないか。
 元々言葉に意味はない、人が喋ればそこに意味ができるというわけで、言葉も芸術作品も、置かれる文脈によってはいろいろ意味も変わってくるし、それを試し、工夫し、最善の意味を見出すのが俳諧師の仕事だったのだろう。
 言葉は切り取られれば死に、付けることによって生かされる。

2019年8月5日月曜日

 そうだね、早く南北統一して、日本を超えてってほしいね。優秀な民族だから必ず出来ると思うよ。
 それには日本から独立するだけでなく、日本の戦後思想からも早く独立した方がいい。それが第二の独立戦争だと思う。
 それはともかくとして、「俳諧問答」の続き。

 「常盤木の落葉、夏也。『松の葉のちりちり落る月の影』右二句共ニ作者一座共ニ、秋とおぼえたると見えたり。二句共夏也。三句目に鹿の句あり。是只一句也。唐がらしの句秋にしても、中の月の句夏に成也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.149~150)

 松永貞徳の『俳諧御傘』には確かに「ときは木の落葉は夏也。」とある。ただその後に続けて「又、落葉に常盤木のちる・松の葉の散、連には折を嫌とあれば‥‥」とあり、常盤木の落葉と松の落葉は区別しているようにも思える。
 『応安新式』の一座三句物の所には「落葉(只一、松の落葉一、柳ちるなど云て一)」とあるが、「連歌新式紹巴注」には「松・竹の落葉は雑也」とある。
 『猿蓑』には、

 禅寺の松の落葉や神無月    凡兆

の句があるが、ここでは「松の落葉」は雑として扱われているように思える。

 清滝や波にちり込む青松葉   芭蕉

の句も単なる松の散るではなく「青松葉」とある。これを見ると芭蕉も「松の散る」だけでは雑という意識があったのではなかったか。

 青き中よりちぎる南蛮     乙州

の句にしても、青唐辛子がこの時代に夏の季語として確立されていたかどうかは怪しいし、

   青き中よりからき南蛮
 松の葉のちらちら落る月の影  朴吹

の句も「松の葉」を無季とすれば普通に月の句で秋の句となる。そこで、

   松の葉のちらちら落る月の影
 たしかに鹿の鳴声を聞     丹野

と展開するのは自然だ。

 「又三句置て雲の峯あり。かやうの事、師遷化し給ふと、はや五七三十五日の中ニ、人口にかかる事を仕出し、其分ニても捨侍るか、あまつさへ梓にちりばめ、一天下の人の眼にさらしたる事、れきれきの宗匠達の寄合、歯がねをならす膳所衆など、さてさて頼母しからず。先生ハ其巻半ノ時、出座し給ふときく。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.149~150)

 この巻の十八句目と三十五句目には確かに去来の句がある。
 ただ「青唐辛子」や「落ち松葉」がこの頃夏の季語として確立されていたかどうかは微妙なので、あながち間違いとは言えない。

2019年8月3日土曜日

 「表現の不自由展」のコンセプト自体は悪くないと思う。けどちょっとマニアックすぎたな。
 トリエンナーレはもっと市民の誰もが楽しめるようなものであって欲しいね。お祭なんだから。まだ「モルゲッソヨ(총알맨)」でも展示した方がよかったと思う。
 政治性を抜きにしても、見れば感動できるような美しい作品ならいいんだけど、あれだけはちょっとね。
 第一回の横浜トリエンナーレに行った時は本当に感動した。世界にはこんなおもしれーこと考える奴らがいるんだと思った。ただ二回目は急にしょぼくなり、前回は結局行かなかった。

 「一、次でながら難ズ。
 亡師五七日追善、木曾塚ニて、嵐雪・桃隣など集たるれきれきの百韻の

巻に、
 青き中よりちぎる南蛮     乙州
 松の葉のちらちら落る月の影  朴吹
 たしかに鹿の鳴声を聞     丹野
 のびかがミ我身を楽にとり廻し 路通
 付ちらかして買ぬ小道具    臥高
 傘をさげてもどりし雲の峯   土龍
 乙州が『青き南蛮』といへるハ何ぞや。南蛮といへる物しらず。黍の事か、唐がらしの事か。平話にハいふといへ共、文章ニつらねる時、一句南蛮と斗いへるものなし。
 惣体ニて、唐がらしと成共、又ハ玉黍と成共、きこえ侍る句作ならバ、南蛮共下畧尤たるべし。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.148~149)

 この巻は路通の『芭蕉翁行状記』に収められている。

   翁二七日十月廿五日會
   追善各集粟津義仲寺譜直愚上人設斎
 木がらしや通ふして拾ふ塚の塵 路通

を発句とする四十四句俳諧があり、初月忌には乙州・木節の両吟歌仙があり、そのあとの五七日木曽塚會連衆、京、江戸、大津、膳所の四十八句の四句目から九句目がここに記されている。

 青き中よりちぎる南蛮     乙州

 この句の「南蛮」が問題になる。
 ちなみに今日のウィキペディアの「唐辛子」の所には、

 「『唐辛子』の漢字は、『唐から伝わった辛子』の意味であるが、歴史的に、この『唐』は漠然と『外国』を指す語とされる(実際の伝来経路については伝来史で)。同様に南蛮辛子(なんばんがらし)、それを略した南蛮という呼び方もある。」

とある。
 特に南蛮味噌の南蛮は青唐辛子のことで、乙州の句を証明するかのよう

だ。
 また、ウィキペディアの「南蛮」の所には、

 「『南蛮』の語は、今日の日本語においても長ネギや唐辛子を使った料理にその名をとどめている。『南蛮料理』という表現は、16世紀にポルトガル人が鉄砲とともに種子島にやってきた頃から、様々な料理関係の書物や料亭のメニューに現れていた。それらに描かれる料理の意味は、キリスト教宣教師らにより南蛮の国ポルトガルから伝わった料理としての南蛮料理と、後世にオランダの影響を受けた紅毛料理や、中華料理の影響、さらにはヨーロッパ人が船でたどったマカオやマラッカやインドの料理の影響までを含む、幅広い西洋料理の意味で使われてきた場合の両方がある。
 南蛮料理が現れる最も古い記録には、17世紀後期のものとみられる『南蛮料理書』がある。また主に長崎に伝わるしっぽくと呼ばれる卓上で食べる家庭での接客料理にも南蛮料理は取り込まれていった。
 唐辛子は別名を『南蛮辛子』という。南蛮煮は肉や魚をネギや唐辛子と煮た料理である。南蛮漬けはマリネやエスカベッシュが原型と考えられている。カレー南蛮には唐辛子の入ったカレー粉とネギが使用されている。文政13年(1830年)に出版された古今の文献を引用して江戸の風俗習慣を考証した『嬉遊笑覧』には鴨南蛮が取り上げられており、『又葱(ねぎ)を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり』と記されている。」

とある。
 唐辛子を南蛮と呼び、唐辛子を使った料理も南蛮と呼ばれていたことからすれば、たまたま許六が唐辛子を南蛮というのを知らなかっただけかもしれない。
 許六が唐辛子か黍かわからないと言っているのは、確かにトウモロコシのことを南蛮黍と言っていたからだ。ただこっちの方は南蛮と略されてはいなかったのだろう。

 「青き中よりからき南蛮
 などあらバ、唐がらしの句ともいふべし。此句、秋なるや、夏なるや、慥ならず。青唐がらしならバ、夏たるべし。黍にても、青きとせば夏ニ成べし。青麦、春に成上ハ、是慥成夏也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.149)

 青唐辛子(青蕃椒)は曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』でも夏のところにある。

 青くても有るべきものを唐辛子  芭蕉

の句は元禄五年九月の句。赤くなった唐辛子を見て、青くてもよかったのにという句だから秋の句になる。

2019年8月1日木曜日

 今日は旧暦七月一日で今日から俳諧は秋になる。
 新暦でも八月一日で、今年は月遅れ七夕や月遅れ盆がそのまま旧七夕・旧盆になる。こういう年も珍しいのではないか。
 臨時国会が始まり、重度の障害を持つ舩後さん木村さんもたくさんの人の協力の中、無事に登院することができた。今後この二人の活躍によって、障害者が公的介護を受けながら働けるような法制度が作られてゆくことになるのか、応援していきたい。
 せっかく登院できる環境が出来たのだから、くれぐれも野党の悪弊の審議拒否なんてしないでほしい。
 それでは「俳諧問答」の続き。

 「惣別おもき・かるきといふ事、趣向又ハ詞つづき容易なるを、かるきとおぼえ侍りて、上をぬぐひたるやうなる句、此ごろいくばくか侍る。それハうつけたるといふものにて、かるきといふ物ニハなし。
 面白俗のよろこぶ所のしミつきたるごとき事を、おもきとハいふ也。かるきと云ハ、言葉ニも筆にものべがたき所ニ、ゑもいはれぬ面白所あるを、かるしとハいふ也。
 かるきとて、おもしろミのなき事ハ、うつけたるといふ物也。
 此事翁にたづねて、よく究置き侍る也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.147)

 元々は出典に寄りすぎた句を重しと言い、そこから抜け出そうとするところに軽みの風が生まれた。
 たとえば延宝四年の「此梅に」の巻、十五句目の、

   森の下風木の葉六ぱう
 真葛原ふまれてはふて逃にけり    信章

の「木の葉」に「真葛原」は重く、元禄五年の「洗足に」の巻の、

   今はやる単羽織を着つれ立チ
 奉行の鑓に誰もかくるる       芭蕉

は出典や古典の趣向に頼らずに自由に付けているから軽みになる。
 一見すると日常の言葉と発想で付ければ軽く、古典の言葉が入っていれば重いというふうに受け止められやすい。
 軽みというのは古典の言葉が入っていても問題はない、ただオリジナルに寄りすぎずにイメージを展開できるかどうかの問題になる。そこが本説付けと俤付けの境界にもなる。
 たとえば「此梅に」の巻の六十一句目、

   能因法師若衆のとき
 照つけて色の黒さや侘つらん     信章

は先の「都をば霞とともに立ちしかど」の歌の十訓抄や古今著聞集のエピソードをほとんどそのままなぞっている。
 これに対し元禄三年の「市中や」の巻の、

   草庵に暫く居ては打やぶり
 いのち嬉しき撰集のさた       去来

の句は、前句を西行法師の俤として、晩年自分の歌が『千載集』に入集したのを知った時は、さぞかし小夜の中山ではないが「命なりけり(生きててよかった)」と思ったに違いないという句で、出典となるような伝承は特にない。想像で作ったという所に「軽み」がある。
 ちなみにこの句は最初「和歌の奥義をしらず」というような句だったらしい。これは『吾妻鏡』の西行と頼朝が会ったときの話で、「詠歌は、花月に対し動感の折節、僅かに三十一字ばかりを作るなり。全く奥旨を知らず。」を出典としている。出典にべったりとくっ付いた重い句だった。
 重いというのは出典にもたれて新味がない、新たな動きがない、ということで、それをあえてはずして初期衝動のままに自由な想像をめぐらしてゆくところに軽みが生じる。
 これを理解せずに、ただ言葉が軽ければいいということになると、中身のない句が軽く、シリアスなテーマの句は重いと誤解することになる。今の俳人でも結構そう思っている人が多いのではないか。
 「上をぬぐひたるやうなる句」見える所だけさっと雑巾でぬぐったような、表面的には綺麗だが中身のない句ということで、「うつけたる(中身がない)」ということになる。
 「面白俗のよろこぶ所のしミつきたるごとき事を、おもきとハいふ也。」と許六が言うのは、要するに流行に対する感性の鈍い人は、新しいネタをやってもきょとんとしていて、昔からある古いネタをやると、ああそれは知ってるとばかりに笑ったりする。俳諧でも古典にべったりと付いた句は、世間の話題についていけなくなったお年寄りには喜ばれたのではないかと思う。
 「かるきと云ハ、言葉ニも筆にものべがたき所ニ、ゑもいはれぬ面白所あるを、かるしとハいふ也。」というように、最先端の笑いは頭で理解するよりもまず感性に訴えかけてくる。ただ、それで中身がなければただの「うつけたる」句になる。

 「又予が句、木曾山中にて、
 山吹も巴も出る田植かな
 是談林時代の句によく似たれ共、大きに相違也。
 談林の時代ハ、山吹・巴ニ直ニ田を植さセ侍るヲ、はたらきとハ申也。
 此句、山吹・巴はかり物にて、只田植の上をよくいはむ為斗ニ、かり用ひ侍るなり。嫂も、娘も、里にハ残りたるもの一人もなく出たると、見るやうにいはむ噂さ也。
 時代をよくしらぬ作者ともの論ずる事は、申までハなく侍れ共、かならずかならず耳にきき入給ふ事なかれ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.147~148)

 この場合の「山吹」は植物(うゑもの)に非ず。源義仲の便女の山吹御前のことをいう。そうなると「巴」も巴御前ということになる。

 山吹も巴も出る田植かな    許六

というのは、木曾義仲の俤を借りて、山吹御前も巴御前もいつしか戦列を離れて行き、独り落ち延びての田植とするが、この俤はあくまで比喩であって、「嫂も、娘も、里にハ残りたるもの一人もなく出たる」という一人淋しく田を植える姿が本来意図したところだった。
 山吹御前や巴御前など『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する二人の美女を並べるあたりは、談林の流行期に好まれた趣向だったのだろう。
 山吹御前と巴御前に田植をさせるというのはやや無理な感じもするが、

 山吹も巴も舞えや田植歌

くらいだったらありそうか。談林の頃だと、比喩だとか俤だとかではなく、あくまで古典の人物と卑俗な田植とのギャップあたりに笑いをもっていきそうだ。