2019年2月10日日曜日

 昨日の雪はたいしたことなかった。今年はやはり暖かいのか。
 さて、『俳諧問答』の方は一休みして、また俳諧を読んでいこうかと思う。
 旧暦の方でも春が来たので、延宝四年の桃青(芭蕉)・信章(素堂)の両吟百韻「此梅に」の巻を読んでみようかと思う。
 延宝三年の秋に江戸にやってきた宗因と一座したこの二人は、すっかり宗因流の談林俳諧に感化され、この百韻を巻くことに至った。そのときの空気を何とか読み取ってみたいと思う。
 信章はコトバンクの「世界大百科事典内の山口信章の言及」に、

 「江戸前期の俳人。姓は山口,名は信章。甲斐国北巨摩郡教来石字山口の郷士の家に生まれた。少年時代父に従って甲府に移り,さらに20歳のころ江戸に出て林家について漢学を修めた。その後しばらく京へも遊学したらしい。俳諧は季吟門と伝えたが,最初の入集は加友撰《伊勢踊》(1668)で,〈江戸山口氏信章〉として5句。1675年(延宝3)5月,江戸下向中の宗因を歓迎する俳席に桃青(芭蕉)とともに出座,以後,翌年には両人で《江戸両吟集》を発行するなど親交を深め,芭蕉らの新風を支持した。」

とある。
 「此梅に」の巻もこの『江戸両吟集』に収録され、この年の三月に刊行されている。
 信章は寛永十九(一六四二)年の生まれで、寛永二十一年生まれの芭蕉より歳が二つ上になる。
 コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、「延宝7 (1679) 年 38歳で致仕,上野不忍池のほとりに隠棲」とある。芭蕉の深川隠棲の一年前のことだ。
 天和期には素堂の俳号を名乗り、元禄二年刊の『阿羅野』で、

 目には青葉山ほととぎす初鰹     素堂

の句を発表し、今日でも日本中誰もが知る句の作者となった。
 芭蕉と素堂との交流は終生続き、元禄五年の夏には俳諧と漢詩による両吟「破風口に」の巻を巻いているのは、以前にもこの鈴呂屋俳話で紹介した。
 この百韻には「奉納貳百韻」とあり、『江戸両吟集』に収録されている

もう一つの、

 梅の風俳諧國にさかむなり      信章

 を発句とする百韻とともに、梅に縁のある天神様に奉納したものとされている。
 天神様というと江戸の三大天神というのがある。湯島天満宮、亀戸天神社、谷保天満宮のことだが、どこに奉納されたのかはわからない。谷保は遠すぎるので、湯島か亀戸のどちらかであろう。
 中世の連歌は寺社で興行されることが多かった。この時代の連歌は密室で行われるのではなく、寺社への奉納という形で公開で行われていたのだろう。そして出来上がった連歌はしばらく寺社に掲示されたりして、一般庶民の多くもその作品を鑑賞し、それが身分を越えた連歌の大流行を生み出し、庶民の識字率を高めるのにも貢献したと思われる。
 江戸時代初期の俳諧興行も、多分のその名残を留めていたと思われる。たとえば西鶴の矢数俳諧は、本当に即興で一日何千もの句を詠んだことを証明するには、衆人の見ることろで行われる必要があっただろう。
 宗因が江戸に来て、桃青・信章が参加した延宝三年の興行も本所の大徳院で行われている。
 それを考えると、この両吟もどちらかの天満宮で興行された可能性は大きい。当時の句のスピードを考えるなら、一日で百韻二巻も十分ありえたであろう。
 正月の梅の咲く季節に、この興行は桃青の発句でもって始まる。

 此梅に牛も初音と鳴つべし      桃青

 天満宮といえば梅は付き物だが、牛も神使とされている。ウィキペディアには、

 「菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。」

とある。ただ、撫で牛はこの時代にあったかどうか定かでない。
 宗因は梅翁とも呼ばれていて、去年江戸にやってきた梅翁に負けずに、自分たちもここで初音と洒落てみようか、という句だ。「牛」は神使でもあるが、鈍重なというイメージもあり、ここに「遅ればせながら」という意味を込めたと思われる。
 これに信章が脇を付ける。

   此梅に牛も初音と鳴つべし
 ましてや蛙人間の作         信章

 『校本芭蕉全集 第三巻』(小宮豐隆監修、一九六三、角川書店)の補注に、謡曲『白楽天』の「されども歌を詠むことは人間のみに限るべからず。‥‥‥花に鳴く鶯水に住める蛙まで、唐土はしらず日本には歌よみ候ぞ」が引用されている。「花に鳴く鶯水に住める蛙」は古今集の仮名序による。
 蛙はそこから歌詠みの象徴でもあり、俳諧師もまたそれを引き継いでいる。
 牛も初音と鳴くのだから、まして俳諧師もここで句を詠まなくては無風流の極みだというところだ。

2019年2月8日金曜日

 アリアナ・グランデさんを悲しませてしまった「文化の盗用(cultural appropriation)」という言葉は、日本ではほとんど聞くことがない。一部の人権問題に深入りしている人くらいが知っている言葉ではないかと思う。
 おそらく本来は少数民族の文化が支配的な民族によって捻じ曲げられることを防ぐためにできた概念ではなかったかと思う。
 アメリカではよく使われ、しばしば悪用されている言葉なのかもしれない。ただ、普通の日本人の発想からはこの言葉は出てこない。
 七つの指輪のことを七輪と書いたことについては、日本人はそれを「外人あるある」の一つとして笑い飛ばすことを知っている。笑ってはいても悪意はない。外人の着ているTシャツの変な日本語を話題にするのと同じ感覚だ。
 少なくとも日本に生まれ育った日本人は、「文化の盗用」だなんてこれっぽっちも考えてない。むしろ外人が日本に興味を持ち、それを真似てくれるのをいつでも喜んで、日本の文化も国際的になったと誇りに思っている。
 だから侍や忍者や初音ミクのコスプレをする事を恐れないでほしい。叩くくとしたら、それは別の人たちだ。
 もちろん連歌や俳諧などの日本の伝統文化も、細かい所など気にせずにどんどん真似てほしい。それでバッシングする人がいたら、それも別の人たちだ。
 文化の多様性は世界中の人々の財産であり、特定の人たちだけの特権ではない。多様性は一つの文化が行き詰った時のための保険でもあり、誰もが使えるからこそ意味がある。
 今回のバッシングを見ても西洋人権思想のポリコレ棒の弊害は見えている。それを乗り越えるには日本の文化を積極的に盗用することをお勧めする。
 長くなったが、それでは『俳諧問答』の続き。

 「路通ごときのもの成共、急度俳諧を正敷あらため、血脈ノ句いひ出さば、三神をかけて予一番に門弟と成ル志也。
 路通一生涯の行跡の事ハ、予少も心にかけず。予が仁義の師となさば、似せる嘲りもあるべし。
 俳諧ニおいてハ、門前にたたずむ乞食成共、一芸のすぐれたる所を見出さば、何ぞ憚る所あらんや。千里を遠しせず、行て師とし尊トバむ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100~101)

 路通の句に血脈がないというのは何をもって言っているのか。根拠は示されてないし、示すことはできないだろう。自分を基準にすれば、自分と異なる才能は自分の血脈ではない。それだけのことだ。
 許六が路通を嫌っているのは嫉妬ではないかと思う。藩の家老まで務めた我が身が芭蕉になかなか会うことすら出来なかったのに、乞食坊主の分際で古くから芭蕉にぺったりくっついている。それだけでも憎むのに十分だ。
 それに加えて、いわゆる乞食坊主に対する差別の感情も否定できないだろう。乞食坊主が乞食坊主らしく生きていればまだ怒りも込み上げないが、それが芭蕉の高弟のような顔しているから余計憎いに違いない。
 ただ、その本音はあくまで隠し、「血脈ノ句いひ出さば、三神をかけて予一番に門弟と成ル」何ていっているが、血脈の匂いを出しても全力でそれを否定する理屈をこしらえるに違いない。
 「行跡の事ハ、予少も心にかけず」と言うが、本当だろうか。

 「路通・洒堂ごときの者、一生の行跡嘸々乱随ならん。是少も予が障に成事ニ非ズ。
 此路通といふ者を見るに、俳諧も乱随也。一ツとしてとる所なし。
 しかれ共、先生ハ急度路通・洒堂のごときの者をにらミ、法を正敷し給ふ事、尤至極也。
 先生法をミだり給ふ時ハ、末々の門人猶ミだりに成て法を失ひ侍るべし。
 湖南の門人、洒堂を本のごとくに用ひ給ふ事、翁存命ニおいてハ、湖南の衆かくハちなみ給ふ事成まじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.101)

 「随」は従うことをいう。「乱随」となると、乱れたままにしておくこと、勝手気ままにふるまうことをいう。自由は誰もが求めるものだが、家老職の窮屈な生活を強いられてきた許六には、嫉妬の対象以外ではなかったのだろう。
 路通・洒堂に限らず、其角・惟然など、許六はこういう自由に生きている人間が癪に触ってしょうがなかったのだろう。
 洒堂は之道との確執があり、芭蕉の最後の大阪行きの時、二人を仲直りさせようとしたが不調に終った。洒堂も相当に一癖も二癖もある人物だったのだろう。ただ、芭蕉はその才能を認めていた。
 「医者の袷」の句は許六にとっては単なるネタ以上に揶揄する気持ちがあったのかもしれない。
 路通の場合、許六だけでなく他の門人とも確執があったが、これは単に素行の問題だけでなく出自の問題があった可能性がある。つまり被差別民だったのではなかったか。以前筆者も冗談で路通サンカ説があれば面白いとか言ったが、路通の嫌われ方や信用のなさは差別と関係があると考えた方が説明しやすい。
 「斎部」という失われた「姓」で呼ばれていたあたりも、その関係なのかもしれない。古代から続く斎部氏の末裔というところに、特殊な家柄という意識を持っていたのだろう。
 何で『奥の細道』の同行者が急遽曾良に変わったかについても、芭蕉や其角は気にしてなくても、やはり気にする門人が多かったのだろう。

2019年2月7日木曜日

 今日は夕暮れの空に三日月が見えた。正月も三日。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 さて、許六の血脈論の限界は大体見えてきたと思う。
 それは一方で血脈が人間として自然に備わっているものであるとともに、一方では師匠から継承されるものという二重の意味を持っているところにある。
 後者には自分が師匠である芭蕉に選ばれた限られた血脈の継承者であるというエリート意識以外に何もない。
 自分には血脈が備わっているが、他の人はなぜ血脈を失っているか、その答えとして「不易流行に迷い」ということが繰り返し提起されている。
 不易流行がすべての悪の権化であり、不易流行から遁れれば魔法のように名句が次々と生まれるかというと、もちろんそんなことはない。ならば許六自身はどうなのかということになる。
 仮に血脈が奪われることがあるとすれば、それは人間の持つ本来の性をゆがめるような暴力装置が存在する時に限られるだろう。
 いつの時代でもどこの国でも、すべて自由に表現することが許されているわけではない。そこには常に権力によって禁止されている表現が存在し、それを正当化するための様々な理論というかイデオロギーが存在している。そしてこうした理論はしばしば権威と見なされ、表現全体に圧力を掛けている。
 不易流行説にはそんな権威は存在しないし、もちろんそれに従わなかったからといって暴力装置が作動することもない。それは一つの仮説にすぎず、芭蕉が終生行ってきた試行錯誤の一つの過程にすぎない。
 人間の真実は未だ言葉にならず、すべての理論はその近似値を目指して試行錯誤を繰り返しているにすぎない。
 理論はあくまで理論であり、それにあまりに杓子定規に拘泥すれば、確かに創作を不自由な折に閉じ込めることになる。ただ、当時の不易流行説がそれほどの大きな力を持っていたかどうかは疑問だ。

 「横にこけ、竪ニひづミたり共、血脈さへあらバ、是上手の句也。
 近年の句ハ、よし共あしし共、一向にかたづき侍らぬゆへに、秀逸見度とハいふ事也。
 前ニいふ所のあやうき場所をしらず、あくまでいひ損ぜぬ心より出来る句共なれバ、よし共又あしし共かたつかず。
 此論ハ雑俳の事にあらず、芭門骨切の弟子共の上也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 理屈に囚われていては良い句を作れないというのはもっともな話で、それに異論はない。
 失敗を恐れ、冒険をしないなら、当然ながら進歩もない。
 ただ、ならば後に惟然が超軽みの冒険に打って出た時、許六は何をしていたかということにもなる。

 「一向に初心のともがらにハ、おもひ切ていひ出す所あれバ、天然まぐれあたりにいひ出す事も千に一ツもあり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 血脈が誰にでも自然に備わっていて、それを自然に言い出すなら、それは「まぐれ」ではあるまい。「まぐれ」というのは血脈を継承しなくてはいけないものだと思っているからだ。
 実際、素人の句がそんなに面白くないのは、素人ほど常識に囚われて、こうでなくてはいけない、こうでなくてはプロに笑われると思うからだ。それは素人であることの自信のなさだ。

 「血脈正しからざる人達チ人々、不易を心懸ヶ侍るゆへに、あやうき場所の句、闇に夜の明たるごときの句、曽てなし。俳諧根本の滑稽少し。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.100)

 この場合の「不易」も、常識に縛られて無難な句を詠もうとし、冒険を恐れるという意味であろう。
 近代俳句も昭和の頃までは様々な冒険が試みられたが、今はその焼き直しすら見当たらない。五七五で季語が入っていればという所でとりあえず納得しているような句が多い。昔のような無季題や自由率すらも影を潜めている。
 サラリーマン川柳なんかを見ても、日本にあれだけのお笑い芸人がいて、日々様々な刺激的な笑いを供給しているというのに、その影響を何ら受けることなく何であんな退屈な親父ギャクばかりを繰り返しているのかは永遠の謎だ。どこか川柳はこういうものという常識があるのだろう。

2019年2月6日水曜日

 昨日は旧正月で、あけおめ。俳諧のほうも春になる。
 それでは『俳諧問答』。一歩一歩少しづつ。

 「翁ノ笈の小文に書れらるる句、それハ一生一代の秀逸の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 芭蕉が目に留めた秀句を書き付けたという「笈の小文」は未だその存在が確認されていない。今日『笈の小文』と呼ばれている紀行文のことではない。
 ただ、『去来抄』「先師評」の「岩鼻や」の句のところに、

 「去来曰、笈の小文集は先師自撰の集也。名をききていまだ書を見ず。定て原稿半にて遷化ましましけり。此時予申しけるハ予がほ句幾句か御集に入侍るやと窺ふ。先師曰、我が門人、笈の小文に入句、三句持たるものはまれならん。汝過分の事をいへりと也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,18~19)

とあり、少なくとも去来・許六と複数の人がその存在を証言している。

 「只人の口ニ申觸るる程の句さへ、此ごろハなし。
 これハしるもしらぬも、不易不易といへる故に、あやうき場所をわすれたりと察ス。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 俳諧の衰退はもちろんそんな単純なものではない。
 一つには江戸庶民の娯楽の多様化ということもあっただろう。
 それとともに、かつて寺社などで盛大に興行された百韻の時代から、もっぱら個人宅に引き籠っての歌仙興行に変わっていったことも、俳諧を多くの不特定多数の人の参加の出来ない閉鎖的なものにし、世間の価値観と遊離する原因になったのではないかと思われる。
 そういう中で「不易」という言葉は世間から遊離した独特な価値観を表すのに便利な言葉になっていったのかもしれない。近代俳句も俳句をやってる人にしかわからない独自な価値観に凝り固まって既に久しい。
 ある意味で江戸中期になって俳諧を世間の価値観に引き戻したのは、柄井川柳の川柳点だったのかもしれない。
 許六も確かに談林の影響を受けた時代が長かっただけに、世俗的なネタをたくさん持っていて、それが「十団子」の句や、

 行年や多賀造宮の訴詔人     許六
 人先に医者の袷や衣がへ     同

といった句を生んだといえよう。芭蕉が求めたのはそこでもあった。

 「一年の秀逸、一月の秀逸あるべき事也。是ハ血脈の慥ニ相続の上の事を、予ハ秀逸と云也。
 俳諧の眼共、又ハほそミ共、影共いふ也。少づつハいひかハりもあるべけれ共、畢竟ハ血脈第一の上也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 「眼」は眼目のことか。眼目は今日の俳句でもよく使われる。「影」はよくわからない。「眼」にしても「影」にしても用例を探す必要がある。
 「ほそみ」は『去来抄』にあり、「さび」「しほり」とともによく知られている。
 血脈はこれらの根底にあるという。ただ、それは風雅の誠のような普遍的なものでありながら、同時に相続されるという両面を持つ。

 「言葉のかざりニて、ほそミ・しほりなどいふて、益なき事を付がる事を、先書にハしるし侍る也。元来血脈のなき句の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99~100)

 「先書」は、

 「近年湖南・京師の門弟、不易流行の二ッにまよひ、さび・しほりにくらまされて、真のはいかいをとりうつしなひたるといはんか。たまたま同門にたいして句を論ずるに、ことばのつづき、さびを付けざればよしのといはず。一句のふり、しほりめかぬはかつて句とせず。これ船をきざみ、琴柱(ことぢ)に膠(にかは)するの類ならんか。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫 p.35~36)

のことであろう。

2019年2月4日月曜日

 今日は立春でその名のとおり暖かかった。明日からまた寒くなるというが、三寒四温の時期に入ったようだ。
 明日は旧正月で、一日だけだが年内立春ということになる。去年と今年が同時に存在する場所、古(いにしえ)と今が同居する場所、それが古今和歌集のコンセプトだったし、この鈴呂屋俳話も古と今の出会う場所であれたらいいなと思う。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「万葉の風、後ニ用ひずといへ共、血脈ハ万葉より継たる故に、古今集といふ物ハ出生したり。
 風ハ枝葉也。是古今の変有てかハる事慥也。
 段々血脈の動ぜざる所を相続したるに寄て、今日の翁の血脈を継で、各や我々にハ教へ給へり。
 風ハ此已後いくばくの変もあらん。予が論ハ全ク血脈の所を申也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 万葉の風は、この半世紀ぐらい後になると国学が起こり、復古万葉調が生じてくる。この流れは近代にも受け継がれてゆく。ただ、古今集の時代から芭蕉の時代に至るまで用いられなかった。
 古今集は万葉集と風は異なるが、風は「枝葉」であり、血脈は継承されている。万葉調、古今調は「風」であるが故に、不易流行説からすれば、血脈を不易、それぞれの風を流行と見る事もできよう。
 そこから芭蕉に至るまで、王朝の和歌から連歌へ、連歌から俳諧への流れもまた、風や形式は変わっても血脈は継承されている。それは伝統であるとともに、人間の普遍的な根本から生じる歌であれば、血脈は自ずと継承される。
 それは今日のジャパンクールに至るまで、血脈は途絶えていない。ただ、西洋的な理性から発せられる近代俳句は、果してこの血脈の上にあるのかどうかという問題はある。人間の根源的な欲望、感情、衝動などの混沌としたところから発せられるのではなく、むしろそれらをコントロールする所の理性から発せられる文学は、むしろそれを抑制ところに成り立っている側面がある。それが今日の世界的に広まる大衆文化と純粋芸術の境目になっている。
 西洋流の批評家は大衆文学を純粋芸術に高めたいようだが、そこで批評がが評価したものは必ずしも大衆的に浸透せず、大衆に大人気なものに批評家がそっぽを向くという現象が起こる。西洋流の芸術は血脈によるのではなく、血脈をコントロールする理性に発する。

 「近年血脈相続の句見えず。故ニ秀逸なしといへる也。
 先生の論ハ、一代の秀逸の事をいへり。和歌など猶以、一代の秀逸多クハなしときき侍る。
 しかれ共一代の秀逸といふにも其人によるべし。
 たとへバ予が為に秀逸ニあらずとて捨たる句、又予より遥におとりたる人の句にゆづれバ、其人の為にハ一代の秀逸ニ成るに似たり。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.99)

 人間が作る句であれば、基本的には血脈を備えているわけだが、それでも血脈相続がないというのはどういうことか。それは西洋の芸術が血脈より出るのではなく、それをコントロールする理性の伝統に立脚するように、芸術はその時代、その民族の文化によって様々な社会的制約を受ける。
 いわば、純粋に人々の感動に訴えるものではなく、理論や道徳や権力によってある種のものは禁止されたり、不当に価値を貶められたりする。
 この価値体系によって、同じ血脈から生まれているにもかかわらず、国や時代によって独特な「風」が生じているのではないかと思う。芸術に対して権力側の価値観が強く反映されればされるほど、血脈は失われる。自由な創作が続けられる時は作品は本来の血脈に戻る。
 「近年血脈相続の句見えず」というのであれば、俳諧が庶民の自由な判断でその価値が評価されず、選者の権威がものをいう状態になっているということが考えられる。ある意味蕉門があまりに巨大になりすぎたため、選者が権威になってしまい、庶民の嗜好が反映されにくくなったのかもしれない。
 「先生の論ハ、一代の秀逸の事をいへり」というのは、基本的に芭蕉が説いたのは自分の生きている時代の俳諧のことで、季吟のような古典の研究者ではなかったということだ。
 「和歌など猶以、一代の秀逸多クハなしときき侍る」というのは、一つには古今の時代といい新古今の時代といい、現存する作品が絶対的に少ないということもある。
 「秀逸といふにも其人によるべし」というのは、同じ血脈とはいえ人間の遺伝子は多様であり、さらには生まれや育ち、職業立場の違いなど社会的な多様性も加わり、脳の回路の形成や眼や耳の見え方聞こえ方の違いなど様々な要因で、同じ芸術作品でも人それぞれみんな感じ方が違う。誰でも自分にとっての秀逸があり、他人の秀逸も必ずしも自分にとって価値を持つとは限らない。趣味の多様性は江戸時代の大衆の間にすでに形成されていた。
 芭蕉が当時の俳諧の頂点に立ったとはいえ、貞門ファンも大阪談林のファンも根強く存在していた。また俳諧より歌舞伎や浄瑠璃だという人たちもいた。

2019年2月3日日曜日

 今日は寄(やどりき)の蝋梅を見てから曽我の梅林に行った。蝋梅は満開で、梅は三分咲きと言ったところか。
 ただ梅は木によって遅速があるため、満開の木もあれば咲いてない木もあり、三分咲きの木、五分咲きの木など様々で、全体として見れば三分かなくらいのところだ。

 二もとの梅に遅速を愛す哉      蕪村

の句もあるが、三万五千本という梅林になっても梅の遅速を見ることができる。
 今日もまた春をフライングゲットした所で『俳諧問答』も機嫌よく行ってみよう。

 「人間生じて後目鼻なくば、人間の用ニハたたず。目鼻拵置て、人間を又作るべしや。
 五臓・五体兼備に寄て、人間成就し出生する也。
 句において、少もかはる事あるましじ。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 「人間生じて後目鼻なくば」というのは、別に目鼻を病気や事故で失う可能性のことを言っているのではない。それは本来あるべきものが偶然失われているというだけのことで、目鼻のない新種の人類が誕生しているのではない。
 たとえ五体不満足であっても、その遺伝子は五体不満足の子を生むことはない。それは乙武さんが証明している。
 LGBTにしてもべつに男でも女でもない別の性があるのではない。男として生まれ、あるいは女として生まれながら、脳の発達過程で偶発的にさまざまな性的志向が生まれるにすぎない。ゲイのカップルだからといってそこからゲイが生まれてくるわけではない。
 あらかじめ遺伝子の構造が全く異なっているなら、「人間の用ニハたたず」ということになる。サルに人間の目鼻を移植しても人間にはならない。
 ここで許六は不易流行もそのようなもので、元となる血脈が備わらないなら、不易も流行もなく、そこにあとから不易と流行を移植しても意味がないと考える。
 ただ、この喩え自身、不易流行説を説明するのに妥当ではない。
 芭蕉に血脈論があったとしても、血脈から不易・流行の二つの体に分かれるのではない。むしろ不易を深めていった結果として血脈に至るだけで、古典の不易に対して新作の流行を対比するやり方から、古典の底に血脈を見ることができる一方、古典といえども過去の流行にすぎないという所で、古典であろうが新作であろうが、時代を超えた不易を発見することが重要というところに至ったと思われる。
 古典の中にも流行を見、流行の中にも不易を見ることから、古典流行の底に真の不易を見出し、すべてを流行と見定めたのではなかったかと思う。
 同じ人間の遺伝子を持っていても、様々な人種、民族が生まれ、その中でも様々な個性を持つ人間がいて、結局一人として同じ人間はいない。
 それと同じで、古代から現代に至る様々な文学芸術があり、世界を見ればまたそこにさまざまな文学芸術がある。それぞれの文学芸術は流行にすぎないとしても、その根底は結局一つ、同じ人間の遺伝子から発している。
 それなら去来が不易の体、流行の体の句を作ったとしても、去来が人間である以上生まれながらに血脈を供えているのだから、何ら問題はないはずだ。一体何が問題なのだろうか。
 許六は結局血脈を二重の意味で用いてダブルスタンダードにしている。
 一方で血脈は人類普遍のものでありながら、一方では師匠から弟子へと継承される一種の家元の継承と見ている。
 句作一般を論じる時は前者で血脈を用い、自分と去来との違いを言うときには後者の意味で用いている。

 「先書ニ云ク、不易・流行を貴トせず共いへり。又何ゾいやしとせざらんや。
 不易・流行とわかれざる以前に、妙句あるまじき事ニあらずといひたるハ、血脈の正シキ所をさしていふ也。以前といふハ血脈の事也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.98)

 芭蕉が不易流行を言わなくなったからといっても、それは不易流行を賤しいと思ったからではないのは言うまでもない。
 「不易・流行とわかれざる以前」というのは、不易流行説が立てられ、不易体と流行体が意識して区別されるようになる以前という意味なら正しい。しかし明確に意識されてなくても、似たような発想は昔もあったかもしれない。
 それは正岡子規が写生説を説く以前に写生はなかったかというと、意識されてなかったというだけで写生的な句は存在する。それと同じだ。
 ただ、ひとたび写生説が立てられると、以前には存在しなかった写生説の価値観によって古典の句の良し悪しが判断されるばかりか、写生でなかった句までが強引に写生と解釈されてしまうことになる。これは法の遡及のようなものだ。
 万葉集や蕉門の俳諧を写生説で読解し価値判断をするのは、写生説が事後法であり遡及法であるという点で問題がある。
 不易流行説をそのような遡及法として過去の作品に用いるなら、確かにそれは正しくない。ただ、去来は決してそのようなことを行ってない。許六の作った藁人形だ。
 「血脈の正シキ所」は不易と言ってもいい。

2019年2月1日金曜日

 ネットを見ていたら、

 着ぶくれて慰安婦像の銅の髪 東国原英夫

の句があった。このテレビ番組は一度チラッと見た程度でよくわからないが、あいかわらず近代俳句はイミフな句が多い。
 まず切れ字がなくて句が切れてないし、「着膨れて」の言葉がこれでは生きていない。

 着膨れの慰安婦像や銅の髪

ならば、手を打て「出来たり」というところだ。
 それでは『俳諧問答』の続き。

 「血脈備ハつて出生すれバ、目鼻ハ自然ニ出来たり。是不易・流行とわかれて、男と成、女と成るがごとし。
 故ニ先書ニ論じたる、不易・流行を前にをきて句を案ずる事あるまじとハ、如此也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.97)

 「血脈」をあくまで人間として本来自然に備わっている「性理」あるいは「誠」だとするなら、この主張は分かる。
 ただ、問題はそこに「継承」という概念を持ち込んで、限られた選ばれた人間だけがそれをできるということになると、それは違うだろう。
 今日の科学から見るなら、血脈は最初の生命の誕生から人類までの進化の過程で獲得したさまざまな欲望、衝動、感情、理性の総体であり、そこに明確な統一性はない。それは進化の過程でそのつど継ぎ足されたものであり、神によってあらかじめ設計されてたわけではないからだ。
 それは混沌としていながらそれでいて緩やかなまとまりを持っている。それは「道」の概念にも通じる。
 一人の人間の個体の中でも緩やかなまとまりしかないものは、大きな社会集団となっても同様、混沌の中に道がある。世界は多様なものの緩やかなまとまりであり、それ以上でも以下でもない。完全なカオスというのもなければ、整然たる統一もない。
 それは誰でも持っているが、誰も完全ではない。
 血脈をこのようなものと考えるなら、それは誰もが生まれながらに継承していて、特定の血筋の者だけが特権を持つわけではない。
 日本の様々な古典芸能に世襲や擬制の世襲が見られ、いわゆる家元が存在し、代々その家のものが権威を持ったりするが、俳諧はそのような家元制が形成されなかった。
 貞門でも貞徳亡きあと、誰かが二代目貞徳を襲名することはなかった。談林でも同じだし蕉門でも同じだ。そこが能や歌舞伎とは違う所だ。
 芭蕉以降となると嵐雪の血脈を継承する三世雪中庵蓼太や、巴人、蕪村、几董の夜半亭三代のようなものが存在する。もちろんそこには実際の血のつながりはなく弟子が擬制として継承している。
 こうした習慣は近代に入ると「俳統」と呼ばれるようになり、誰の弟子であるか、どこの結社に所属しているかが重要になる。ちなみに鈴呂屋こやんは誰の弟子になったこともなく、結社に所属したこともないので俳統は「なし」ということになる。
 俳諧は高度な芸や技術を要するものではなく、幼い頃から教育する必要もない。また、そういう教育を施したからといって面白い句が生まれるわけでもない。そういう意味では俳諧の誠は古代ギリシャでプラトンが論じた「徳」と同様、子孫に継承させることはできない。
 もちろん素質というか筋の良し悪しというのはある程度あるだろう。ただ、それはその人個人のもので、他人に継承させることは出来ない。
 風雅の誠をもって句を作るなら、その句は様々な姿をとっても元は一つであり、不易体、流行体というのがあるのであれば、そういう句もできる。それは別に間違ってはいないだろう。

 「是血脈相続の人にてなきしるしに、枝葉の不易・流行にからまされて、元来出生の血脈を失ひたる也。」(『俳諧問答』横澤三郎校注、一九五四、岩波文庫p.97~98)

 枝葉の不易と流行に惑わされる人は血脈がないのではない。ただ見失っているにすぎない。だから、厳密に言えば「相続の人にてなきしるし」ではない。先祖代々人間として生を授かっている以上、血脈は相続しているのだが、一時的にそれを忘れているだけだ。
 ただし、これは不易体、流行体とわざわざ分けて句を読む方法をいうだけで、どんな句にも不易の面もあれば流行の面もある。それをあとから分類してこれは不易の句、これは流行の句というにすぎない。以前に述べたとおりだ。