2018年6月10日日曜日

 今日は旧暦の四月二十七日。元禄三年の芭蕉は幻住庵に滞在し、元禄四年の芭蕉は落柿舎に滞在していた。
 今日は台風の影響で午前中から雨がぽつぽつと降ってきて、午後に本降りになった。眠かったので長い昼寝をした。

 『嵯峨日記』の四月二十一日のところに、「幻住庵記」の清書のことが書かれている。

 「廿一日 昨夜いねざりければ、心むつかしくて、空のけしきもきのふに似ズ、朝より打曇り、雨折々音信(おとづれ)れば、終日(ひねもす)ねぶり付たり。暮ニ及て去来京ニ帰る。今宵は人もなく、昼伏たれば、夜も寝られぬままに、幻住庵にて書捨たる反古(ほご)を尋出して清書。」

 前夜は去来が兄嫁から託された菓子・調菜を持ってきて、羽紅夫婦と飲み明かしたのだろう。明け方に羽紅夫婦は帰り、芭蕉と去来はそのまま一日うだうだと過ごしたようだ。雨の降る日は眠たいものだ。
 江戸時代になると今日のような甘いお菓子も作られるようになったが、ここでは本来の意味での木の実などではないかと思う。調菜も多分酒のおつまみになるような、野菜に簡単な調理をほどこしたものであろう。
 凡兆と羽紅は「羽紅夫婦」であり、今のような野沢夫婦という呼び方はなかった。凡兆の姓についてはウィキペディアには「姓は越野、または宮城、宮部とも」とあり、いずれも本来の意味での「姓」ではないし、武家のような正式な「苗字」でもなく、通名のようなものであろう。
 夕方に去来が帰り、夕方になったようやく起き上がると、今度は目が冴えてしまい、幻住庵で書き捨てた反古を取り出して清書したという。あれから一年経っている。
 幻住庵記の一番最初の元となった文章は、元禄三年四月十日付如行宛書簡で、その中に、

 「此度住る処は石山の後、長良山之前、国分山と言処、幻住庵と申破茅、あまりに静に風景面白候故、是にだまされ、卯月初入庵、暫残生を養候。比良・三上・湖上不残、勢田の橋めの下に見へて、田上山・笠とりに通ふ柴人、わが山の麓をつたひ、岩間道・牛の尾・長明が方丈の跡も程ちかく、愚老不才の身には驕過たる地にて御座候。されども雲霧山気病身にさはり、鼻ひるにかかりてゐ申候へば、秋末まではこたえかね可申候。身骨弱に而、つま木拾ひ清水汲事はいたみて口惜存候。」

とある。山々の列挙や笠とりの柴人など、既に「幻住庵記」の片鱗がある。
 その後、幻住庵滞在中に少しづつ書き進み、幻住庵を出たあと、「幻住庵ノ賦」が成立したのだろう。最後に庵を出るところが記されているから、その後だと思われる。
 これを順序を改め、幻住庵から出る場面をカットし、一日の記とした最終稿はこの頃に成立したのかもしれない。
 奥の細道の旅の終わりから庵を出るまでの時系列を追った紀行文的な体裁の「幻住庵ノ賦」から一日の出来事として切り取る日記的な体裁に改めたのは、『嵯峨日記』を構想した時に重なっていたのかもしれない。ただ、紀行文はこの次の年、江戸に帰ってから今の形に仕上がっている。草稿が書き溜められたのは幻住庵の頃だったのかもしれない。『笈の小文』の風雅論が生まれ、当初は「幻住庵記」に加えようとして、後にカットされたことから、平行して書かれていた可能性はある。

2018年6月8日金曜日

 安倍首相が是枝監督のパルムドール受賞に賛辞を送らなかった理由がようやく見えた。監督の方が辞退したからだ。
 国民栄誉賞を送るときは辞退されないように事前に打診して、受け取ってくれる人かどうか確認するという。だからあんなに活躍しているのにという人が何で国民栄誉賞を貰わないんだろうという人は、たいていはこの打診の段階で辞退しているという。
 賛辞を送る場合もそうした根回しがあり、監督が拒否したため賛辞がなかった、あるいは事前の調査で、そういうものを求めるような人ではないというのがわかっていてあえて声をかけなかったか、そう考えるのが一番自然だろう。
 さてそれでは「幻住庵記」の続き。

 そしてここで一句、

 先づ頼む椎の木も有り夏木立  芭蕉

 椎の木に一体何を頼むのかというと、夏ということもあってやはり日影を作ってくれることだろう。
 『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の補注には、三つの歌が引用されている。

 ならびゐて友をはなれぬこがらめの
     ねぐらに頼む椎の下枝
              西行法師
 立ちよらむかげとたのみし椎が本
     むなしき床になりにけるかな
              『源氏物語』椎本
 片岡のこの向つ峯に椎蒔かば
     今年の夏の陰に並みむか
            詠み人知らず(万葉集)

 椎の木の本意は木陰で休むことで間違いない。
 それに加えて椎の木に『荘子』の言う「無用の用」の意味も含めていたかもしれない。
 芭蕉の時代よりやや後になるが、『和漢三才図会』には、

 「凡そ椎の木心は白樫に似て粗く理(きめ)微黒、堅に似て蛙(むし)いり易く屋の柱と為すに堪えず、唯(ただ)繊(ほそ)長き木を用ふ、椽の用と為す、俗に椎丸太と云ふ」

とある。建材には適さないから椽(たるき)として用いるとあり、まったく役に立たないわけではないが、建材としてはあまり上等なものではなかった。
 『荘子』「逍遥遊篇」には、

 「恵子、荘子に謂いて曰く、吾(われ)に大いなる樹あり。人は之を樗(おうち)と謂う。其の大本は擁腫ちて(ふしくれだちて)縄墨(すみなわ)に中らず(あたらず)、その小枝は巻き曲がりて規(ぶんまわし)と矩(さしがね)に中らず、之を塗ばたに立ておくも匠者(だいく)の顧みるものなし。今、子(きみ)の言(ことば)も大きくはあれど用うるすべ無し。衆の同じく去る所なりと。
 荘子曰く、子(きみ)は独りいたちを見ざるか。身を卑めて(かがめて)伏せ、以て敖ぶ(あそぶ)者を候い(つけねらい)、東西に跳梁し、高きところも下きところも避けず、ついに機辟(わな)に中り(はまり)、罔罟(あみ)にかかりて死す。今、かのくろ牛は其の大いなること天に垂れる雲の若し(ごとし)。此れ能(まこと)に大いなれども鼠を執うる(とらうる)ことは能くせず。今、子に大いなる樹ありて、其の用うるすべ無きを患うる(うれうる)も、何ゆえに之を何も無き郷(むらざと)、広漠な野に樹えて(うえて)、彷徨乎(ほうこうこ)として其の側ら(かたわら)に無為い(いこい)、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥らざるや(ねそべらざるや)。 」

 芭蕉は『野ざらし紀行』の旅の二上山当麻寺の松を見て、この寓話を思い起こし、「斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ」と記している。
 昼は日影を作ってくれる椎の木の「側ら(かたわら)に無為い(いこい)、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥らざるや(ねそべらざるや)。」とすれば、この「幻住庵記」の「いづれか幻の住みかならずやと、思ひ捨てて臥しぬ。」の文章にうまく呼応する。
 下五に「夏木立」とあるから、ここでの椎の木は一本ではないのだろう。そして「夏」の季が入ることによって、「涼み」ということが強調される。冷房のなかった時代に夏木立の涼みは、一番贅沢なものだったのかもしれない。
 「幻住庵ノ賦」には発句はない。代りに「秋も半(なかば)に過行まま、風景・朝暮の変化とても、又ただまぼろしの住ゐならずやと、やがて此文をとどめて立さりぬ」と、庵を去ってゆく場面で終る。
 「幻住庵記」のもう一つの草稿と思われるバージョンには、もう一句、

 頓(やが)て死ぬけしきも見えず蝉の声 芭蕉

の句があった。季節が椎の木よりかなり後という感じがする。
 結びのところの文章も、「凡西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵に置る、利久が茶に置る、賢愚ひとしからざれども、其貫道するものは一ならむと」と後の『笈の小文』に流用される一文があり、「背をおし腹さすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋半に過ぬ。一生の終りもこれにおなじく、夢のごとくにして又々幻住なるべし。」と無常迅速で結び「頓(やが)て死ぬけしきも」の句になる。将棋では終盤のミスで勝つはず試合があっという間にに負けになる事を「頓死」というが。
 最終的には秋(七月二十三日)に庵を出たという記述はカットされた。そこでこの句を生かすことができず、「先たのむ」の句一句で落ち着いたのだろう。
 最初は『奥の細道』の旅を終え、ここにやってきた所に始まり、庵を出て行くところで終る、長い時間の経過を追う形で書かれていたが、最終的には幻住庵そのものを前面に押し出して、魅惑的なゆる隠棲の一日を描き出す形になった。
 前の年の初頭に「猿も小蓑を」の句を詠み、『猿蓑』の編纂の話も持ち上がる中で、俳文の一つの見本のようなものを提起したかったのだろう。そうなったとき、ただ時系列で順々に示してゆく紀行文的な手法ではなく、何か新しいものが欲しかったのだろう。
 一つには貞享元年の『野ざらし紀行』以来ずっと旅をしてきた芭蕉が、ここで持病の再発による体調不良により、旅が続けられなくなって、それに代わる何かが欲しかったのかもしれない。
 前にも引用した、四月十日の「如行宛書簡」に「持病下血などたびたび、秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とあるように、持病がなければ四国西国の旅に出ようと思っていたようだ。蝦夷千島の旅よりは現実的な計画ではあった。
 結局四国西国の旅も実現しなかったが、体の調子が良くなったらいつかはという思いはあったに違いない。
 幻住庵に来て旅の代わりになるものを芭蕉は見つけた。それがゆるい隠棲の記録、修行のためでもなければ世を捨て世からも捨てられた悲壮感もない、平和な江戸時代の新しいスタイルの隠棲、それが芭蕉の見つけた答だったのではないかと思う。
 そして、このコンセプトは翌年の夏の『嵯峨日記』に結実してゆくことになった。

2018年6月7日木曜日

 「幻住庵記」の続き。

 「昼はまれまれ訪ふ人々に心を動かし、或は宮守の翁、里の男ども入り来たりて、『猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふ』など、わが聞き知らぬ農談、ひすでに山の端にかかれば、夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。」
 幻住庵滞在中、芭蕉の門人も多数訪れている。『芭蕉年譜大成』(今栄蔵、一九九四、角川書店)には、

 「七月中、出庵までに来庵の人々─。尚白・木節・智月・昌房・何処・越人・洞哉。金沢の北枝より蓑、膳所の扇女より薬袋、京の羽紅より発句が届く(

『猿蓑』所収「几右日記」)。

とある。
 四月には野水も訪れている。
 その他にも八幡宮の宮守や近所の農夫などが尋ねて来たりしたようだ。猪に田んぼが荒らされただとか、豆畑の兎にやられただとかいう話は、農家の人にとっては「あるある」なのだろうけど、芭蕉には馴染みのないものだったようだ。
 芭蕉は農人の生まれとはいえ、数えで十三の頃から伊賀藤堂藩に奉公し、料理人を務めたりしていたし、江戸に出てきてからはずっと都会暮らしだったから、あまりあまり百姓事情には詳しくなかったのだろう。
 ただ、こういう雑談も多分無駄に聞いてたのではなく、後の軽みの俳諧のヒントにしていったのではないかと思われる。

   堪忍ならぬ七夕の照り
 名月のまに合せ度芋畑    芭蕉

   上下の橋の落たる川のをと
 植田の中を鴻ののさつく   芭蕉

のような後の句も、百姓との会話の記憶からひねり出した可能性はある。
 隠棲といっても結構尋ねてくる人はいて、そういう意味ではそれほど退屈もしなかったし、寂しくもなかったのだろう。まあ、夜ともなれば人も帰って、月を待つ間は闇に閉ざされる。
 「罔両」は「魍魎」に同じ。ウィキペディアには「山や川、木や石などの精や、墓などに住む物の怪または河童などさまざまな妖怪の総称。」とある。『淮南子』に既にこの用例がある。
 『荘子』には罔両と影との問答がある。元の意味は「影のまわりに生ずる薄いかげ」だったらしい。そこから幽霊や物の怪のようなものを指すようになったのだろう。
 山の中で真っ暗となると、何か出そうな雰囲気になる。暗闇に目を凝らし、物の怪ではないかと是非を案ずる。このあたりは『源氏物語』の夕顔の俤かもしれない。
 昼の絶景や農夫との雑談などのゆるい隠棲生活を語る一方で、夜の不安を対比させホラー感覚へと持ってゆく。なかなか面白い展開だ。

 さて、それではこの「幻住庵記」もそろそろ締めに入る。

 「かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずやと、思ひ捨てて臥しぬ。

 先づ頼む椎の木も有り夏木立」

 別に閑寂を好んでこの山に入ったのではなく、ましてここに骨を埋めようとも思っていない。実際に短期間の滞在で打ち払うことになる。『猿蓑』の「市中や」の巻の二十九句目ではないが、

   ゆがみて蓋のあはぬ半櫃
 草庵に暫く居ては打やぶり     芭蕉

だ。
 ここでの滞在は一つには持病が出たことによる。芭蕉の持病は疝気であり、コトバンクの「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」には、

 「漢方用語。下腹部の痛みの総称。胃炎,胆嚢炎あるいは胆石,腸炎,腰痛などが原因となることが多い。」

とある。
 元来胃腸が弱かったのだろう。最期も大腸癌だったと思われる。幻住庵に移って間もない四月十日の「如行宛書簡」に「持病下血などたびたび、秋旅四国西国もけしからずと、先おもひとどめ候」とある。『奥の細道』の旅の途中でも度々この持病が出てたし、その後の旅も負担になり、しばし休息するのが最大の目的だったと思われる。
 そして、そんな病身での隠棲は本当に世を厭うて隠棲している人に似てなくもない。ただ、違うのはほんの一時的なゆるい隠棲だということだ。
 そんななかでこれまでの人生を振り返る。
 「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。」
 これは『笈の小文』の、

 「かれ狂句を好むこと久し。終(つい)に生涯のはかりごとととなす。ある時は倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事をおもひ、ある時はすすんで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたたかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立てむ事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学んで愚を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして只此の一筋に繋(つなが)る。」

に似ている。『笈の小文』は未完の草稿で、後の元禄五年ごろに書かれたものだろう。その前身とも言える文章だ。
 「楽天は五臓の神を破り」は白楽天(白居易)の「思旧」という詩の一節「詩役五藏神」から来ている。長い詩なので、いつか暇な時に訳そうかと思う。

   思舊   白居易
 閑日一思舊 舊遊如目前
 再思今何在 零落歸下泉
 退之服硫黃 一病訖不痊
 微之鍊秋石 未老身溘然
 杜子得丹訣 終日斷腥羶
 崔君誇藥力 經冬不衣綿
 或疾或暴夭 悉不過中年
 唯予不服食 老命反遲延
 況在少壯時 亦爲嗜慾牽
 但躭葷與血 不識汞與鉛
 飢來吞熱物 渴來飲寒泉
 詩役五藏神 酒汨三丹田
 隨日合破壞 至今粗完全
 齒牙未缺落 肢體尚輕便
 已開第七秩 飽食仍安眠
 且進桮中物 其餘皆付天

 また「老杜は痩せたり」は杜甫が詩作のために痩せたということを言うらしい。自分なんぞは白楽天や杜甫の賢とは比べようもなく「愚」だが、と一応謙遜し、「いづれか幻の住みかならずや」と幻住庵の名前に掛けて、人生は所詮幻の住みか、人生は夢幻ということで締めくくりにする。
 「思ひ捨てて臥しぬ。」と、先に「夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。」と述べたのを受け、今日はもう眠りに落ちる、と結ぶ。

 ここから先は不快に感じる人は読まなくていい。
 まいんさんの『二度目の人生は異世界で』が何やらとんでもないことになっている。
 とはいえ、実のところまいんさんの作品は読んだことがないし、問題になったのはこの小説を書く前の2013年頃の古いツイットのようだ。
 ツイットの内容はいくつかネットで見ることができたが、2チャンネルあたりに普通にありそうな内容だ。まあ、ラノベもアニメも韓国や中国の市場を無視できないから、今回の厳しい処置もやむをえないのだろう。
 まあ、本は出荷停止でも、「小説家になろう」のサイトでは読むことができる。
 印象としては、やはり壊れているな、という感じだ。これは別にけなしているのではない。岩井恭平の『ムシウタ』に出てくる塩原鯱人のような、なかなか良い壊れ具合という意味だ。
 いきなり幼女を蹴飛ばしながら性的な感情がまったくなかったり、二人の女性を救うがほとんど興味なく、殺害に対してもあまり感情を持たない。おそらく物語は、この壊れた主人公の失われた生前の記憶への旅として展開するのだろう。
 まあとにかく、愛国心は理解できるが、作家なら言葉は選んだほうがいい。

 ×これは驚いた。中国人が道徳心って言葉を知ってたなんて!
 ○道徳は老子の道徳教に由来する言葉だが、儒仏老荘の古き良き伝統が共産党の支配によって一度破壊されてしまったのは残念だ。

 ×日本の最大の不幸は、隣に姦国という世界最悪の動物が住んでいることだと思う。
 ○日本の最大の不幸は、恨の国を併合してしまったことだと思う。

 この程度の配慮はしたほうがいい。

2018年6月6日水曜日

 カンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞した是枝監督の『万引き家族』は既に先行上映だけでも興行収入でも2億円に迫り、好調なようだ。
 受賞した当初は日本でも反応が薄く、首相もコメントしなかったということがフランスで話題になったようだが、実際に見た人が口コミでその良さを広めていけば、それなりの成功にはなるのではないかと思う。
 ただタイトルの「万引き家族」から受けるイメージというのは、日本では「あるあるネタ」ではないし、「さもあらん」でもない。多分知り合いにこんな家族がいるとか言う人はほとんどいないだろう。万引きで生計を立てる家族という設定は、一種の思考実験と言ったほうがいいのかもしれない。
 まあ、これでもしリアルな万引き家族逮捕なんてニュースがあれば、「本当にいるんだ」ということになって、もっと盛り上がるだろうが、捏造はやめてくれよ。
 あと、監督のあのインタビューは随分韓国のマスコミ(中央日報)によってゆがめられてたみたいだ。ったくネトウヨが韓国のマスコミ信じてどうするんだ。
 まあ、それはそれとして「幻住庵記」の続き。

 ヤマコレというサイトによると、現在の国分山は「展望はない。」ということで、芭蕉亡き後はすっかり木が生い茂ってしまったのだろうか。残念なことに芭蕉の描いたあの雄大なパノラマは今は見られないようだ。現在の幻住庵は平成三年(一九九一)に再現されたものだという。

 「さるを、筑紫高良山の僧正は、 加茂の甲斐なにがしが厳子にて、このたび洛にのぼりいましけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らるる。やがて草庵の記念となしぬ。すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曽の桧傘、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。昼はまれまれ訪ふ人々に心を動かし、或は宮守の翁、里の男ども入り来たりて、「猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふ」など、わが聞き知らぬ農談、ひすでに山の端にかかれば、夜座静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。」

 高良山(こうらさん)には筑後国一ノ宮の高良大社があり、創建は仁徳天皇・履中天皇の時代という伝承があるが、ここまで古いと本当の所はよくわからない。祭神の高良玉垂命について、ウィキペディアには、

 「高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。」

とある。
 やがて本地垂迹に基づき神仏習合の山として、明治の神仏分離まで栄えることになる。
 御井町誌というサイトによると、戦国時代には大友氏と秀吉との対立により荒廃していた高良山を立て直したのが高良山の五十代座主寂源だったという。この寂源こそが、加茂祠官藤木甲斐守敦直の厳子、幻住庵の額の文字を書いたその人だった。額というのは扁額(へんがく)のことで、お寺の門や神社の鳥居に掲げる表札のようなものをいう。
 ところで「幻住庵」を検索すると、博多の幻住庵というのが出てくる。こちらのほうが古い。しかもこの「幻住庵」のホームページによれば、幻住庵はここが最初ではなく中国に起源があるという。

 「中峰明本は中国禅宗界屈指の禅僧であり、五山第一位に住持するよう求められたが、これを拒否しています。中峰明本は名誉欲を捨て官寺の世界から抜け出し行脚の旅に出ます。
 そして行く先々で庵を創りこの庵をすべて幻住庵と名付け、そこで座禅をし自らも幻住と号しました。中峰明本のような世俗と一線をかく禅僧のもとに、西域・高麗・雲南・日本の人が集まってきました。中峰明本に学んで日本に帰国した禅僧は6名おり無隠元晦もその一人です。無隠元晦は師の中峰明本が名付けた幻住庵という庵に因んで、博多に天目山幻住庵を開きました。中峰明本の法系は日本では幻住派と呼ばれ中世から江戸にかけて日本禅宗に大きな影響を与えます。」

 菅沼修理定知(幻住老人)がこの幻住派と関係があるのかどうかはよくわからない。
 さて、寂源に扁額の文字を書いてもらった芭蕉だが、「やがて草庵の記念となしぬ」という。この部分の「幻住庵ノ賦」には「其裏には予が名を書て、後見ん人の記念(かたみ)ともなれと也。」とある。
 「すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曽の桧傘、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。」とまあ、荷物は最低限にということで、旅に必要な蓑笠はいつでも手元においておく。幻住庵は別にここに定住することを意図したものではなく、あくまで旅の途中のかりそめの宿だ。
 実際に四月六日に入庵したものの、六月に一度離れ、六月二十五日に再び戻ってくるものの、七月二十三日には引き払うことになる。 木曽の桧傘は『更科紀行』の時のものか。越の菅蓑は『奥の細道』の旅を思い出すものであろう。『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の補注には、北枝の贈った蓑で、

   贈蓑
 しら露もまだあらみのの行衛哉  北枝

の句を引用している。

2018年6月4日月曜日

 「幻住庵記」の続き。

 虱というと、『野ざらし紀行』の最後に江戸に帰ってきたときの句に、

 夏衣いまだ虱を取り尽さず    芭蕉

の句がある。
 おそらく、隠棲を中国の隠士のような政治的なものや、仏教の過酷な修行のようなものと切り離し、別に俳諧師でなくても一般的な隠居生活の一つの楽しみとして「猿の腰掛」を提案した側面もあったのだろう。今だったらツリーハウスを作るところか。
 「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊(かし)ぐ。とくとくの雫を侘びて、一炉の備へいとかろし。」
 「まめ」というのは真面目(真目)という意味。毎日きっちりご飯を炊くのではなく、気が向いた時だけに炊いたようだが、なら普段はどうしていたのか。お弟子さんが持ってきてくれるのか。
 「炊(かし)ぐ」というのは甑で蒸す強飯(こわいい)に対して、釜で水を加えて煮る弱飯(よわいい)を炊くことを言う。
 ここまでくるとゆるキャンならぬ「ゆる隠棲」だが、本格的な隠遁者になるのではなく、この程度なら誰でも真似できるという所で、俳諧の風流な遊びの一つとして広めようという意図があったのだろう。
 「とくとくの雫」は芭蕉が『野ざらし紀行』の旅のとき、吉野の西行庵の跡を訪れた時、

 露とくとく心みに浮世すすがばや 芭蕉

と詠んだのを思い起こさせる。西行法師の歌と伝えられている、

 とくとくと落つる岩間の苔清水
     くみほすほどもなきすまひかな

が元になっている。
 「とくとく」は「とっとっとっとっ‥‥」という感じで間断なく雫が滴る程度の状態を言う。水が溜まるまでしばらく待たなくてはならない。
 使用する炉も一つだけで、たくさんの料理を作ったりは出来ないあたりも、今のキャンプ料理のようだ。
 「いとかろし」には出典にもたれすぎない「軽み」の精神を、隠棲においても実践しようというものだろう。いにしへの隠士の心にとらわれず、自由にという意味が込められているのだろう。
 この部分、猿の腰掛のところはほぼ一緒だが、そのあとは「幻住庵ノ賦」の方がやや詳しく書かれている。

 「つたへ聞ぬ、除老が海棠巣の飲楽も、市にありてかまびすしく、王道人が主簿峯の住ゐも、爰を捨てうらやむべからず。虚無に眼をひらいて嘯き、孱顔にしらみを捫(ひね)て座す。たまたま心すこやかなる時は、薪をひろひ清水をむすぶ。小歯朶・ひとつ葉のみどりをつたふとくとくの雫をわびては、一炉のそなへいと軽し。」

 「軽み」という観点から言えば、この文章はまだ重い。徐佺や王道人をうらやまずに、というあたりにまだ彼等と同等になろうとして、「虚無に眼をひらいて嘯き」というあたりにも、まだ禅家の悟りのようなものを匂わせている。改作した時には、そういう古人のもつ隠棲の重みを捨て去る所で、隠棲という一つのライフスタイルに軽みをもたらそうとしたのではないかと思う。
 「心すこやかなる時は」では病んでるときと対比されるが、「心まめなるとき」だと心がだらけてる時と対比される。このあたりも等身大を意識している。
 飯を炊くだけでなく、薪を拾うことも含まれているし、このあたりもよりゆるくなるように書き改めている。そう見ると、当時の「軽み」は今日に「ゆるい」に近いのかもしれない。ゆる俳諧、ゆる隠棲、あまり古人の思想とかにこだわらず、ゆるく楽しもうというのが、晩年の芭蕉の境地だったのかもしれない。
 芭蕉の時代というのは、ちょうど木版印刷によって本が庶民の間に広まった時代で、それまで上流階級は僧侶でなければ知らなかったような古典の知識を庶民が得るようになった時代だった。
 そしてその古典の知識は、庶民の奔放な想像力によって、これまでなかったような世界を生み出した。俳諧もそうだし、歌舞伎、文楽、風俗画、様々な庶民向けの、しばしば大きなイラストの入った草紙類、これまでの支配者階級にはない自由な発想で古典は解釈され、独自の遊びの世界を生み出した。
 支配者階級の知識は支配するためのもので、単一性を志向する。意見が違えば独鈷鎌首でガチに争う。
 これに対して庶民の知識は多種多様な職業、身分、境遇、地域、性向を持った人が混在する都市という場所に置かれた時、多様性を認め合い、調和を重視し、ガチな争いを好まず、ゆるく行こうという空気が生じる。そこに様々な笑いの文化が生まれる。
 今の時代も似た所がある。インターネットの普及でこれまで上流階級や知識人階級に独占されてきた情報が、教育機関やマスメディアなどの検閲や編集なしに庶民に広まるようになった。そういう中でやはり庶民特有の多様な考え方の共存ということを求めるようになった時、ガチなイデオロギーの主張は嫌われ、ゆるさと笑いが重視されるようになる。
 芭蕉が「幻住庵記」で試みたゆる隠棲は、やがて『嵯峨日記』へと結実してゆくことになる。悲壮感のない楽しい隠棲は、やがて江戸時代の市井での隠居生活の手本となり、そこから江戸時代特有の文化が生まれて行ったのではないかと思う。
 「はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。」
 幻住庵の先住者は「心高く」無駄なものを置かない人だった。いわば昔ながらのガチな隠棲者だった。持仏、つまりマイ仏像を置く部屋一間(約1.8メートル)隔てて、夜具を置く部屋を作り、誰でも住めるような部屋に改装した。この心高き隠棲者との決別が芭蕉の求めた「軽み」だったのだろう。句においては、志の高い古典の表現に対し、出典の深い意味にこだわらずという「軽み」になった。

2018年6月3日日曜日

 今日は生田緑地に行って、花菖蒲と紫陽花を見た。今年は紫陽花の咲くのが早い。梅や河津桜までは遅かったが、その後咲く花はみんな早い。なぜにそんな花を急ぐのか。
 スペインは首相が変わりカタルーニャ自治州政府が復活したという。イタリアは「五つ星運動」と「同盟」の連立で落ち着くようだ。ネットによって庶民が容易に情報を入手できるようになったため、ポピュリズムといっても昔のような衆愚政治ではなく、却って既存の政党やマスコミのほうが古い価値観に縛られて、むしろ今や衆賢政治の時代が来ているのかもしれない。
 パレスチナにも独立して欲しいが、ただ今の状態だとイスラム原理主義の国になって、却って民も苦しむのではないかと思う。イスラエルの経済成長にコバンザメ商法のようにくっついていって、ある程度経済的に豊かになったところで民主国家として独立するほうが良いと思う。
 それでは「幻住庵記」の続き。

 「なほ眺望くまなからむと、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座を敷きて、猿の腰掛けと名付く。かの海棠に巣を営び、主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず。ただ睡癖山民と成って、孱顔に足を投げ出し、空山に虱をひねって坐す。たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの雫を侘びて、一炉の備へいとかろし。はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。」

 幻住庵からの眺望をこれまで述べてきたが、もっと眺めを隈なく楽しもうと言うことで、国分山に登り、松の棚を作り藁の円座を敷いて猿の腰掛と名付ける。
 松の棚は『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の注には、「『蘆のひともと』『猿蓑さがし』等には陳元信の「松棚ノ詩」を引く」とある。
 その「松棚ノ詩」を検索して探したら、さすがにグーグル先生、すぐにこの詩を出してきた。それは「『錦嚢風月』解題と翻刻」(堀川貴司)というpdfファイルだった。『錦嚢風月』は「相国寺の春渓が寛正年間に撰んで、唐宋金元明の詩三千余首を纂めたものである」という。寛正年間というと応仁の乱の直前だ。

   松棚       陳元信
 旋斫松枝架作棚 蒼髯如戟昼崢嶸
 清陰堪愛還堪恨 遮却斜陽礙月明

 松の枝を断ち切り棚を作って架ける。
 蒼い髭のような松の枝は戟(げき)という鉾のように昼の空にギザギザと聳え立つ。
 その清らかな木陰は愛おしくもあれば恨めしくもあり、
 西日を遮ってくれるものの、月明かりを見るには邪魔である。

 「棚」という字には棚の意味もあれば、橋や屋根の意味もある。横に渡すものという意味なら、ここではベンチに近いかもしれない。
 赤松は太い枝が横に伸びるから、そこに横板を渡して、梯子を掛けて登るような空中のベンチを作ったのかもしれない。
 そこに藁を編んで丸くした座布団を乗せ、「猿の腰掛」と名付ける。茸の名前に掛けた洒落だ。
 「かの海棠に巣を営び、主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず。」の王翁は王道人で北宋の頃の人で、徐栓は徐佺で南宋の人。ともに、

   題灊峰閣     黄庭堅
 徐老海棠巢上 王翁主簿峰菴
 梅蘤破顏冰雪 綠叢不見黃甘

 老いた徐佺は海棠の木の上に巣を作り、
 王道人という老いた主簿は峰に庵を結ぶ。
 梅の花は氷る雪の中で破顏して笑い、
 生い茂る緑の中では蜜柑は見えない。

の詩による。
 蘤は花の異字体で、同様に𤾡という字もあるようだ。「汉典」という中国語のサイトに「古同“花”。」とある。
 芭蕉は自分は徐佺や王道人のような立派な人ではないと謙遜する。
 「ただ睡癖山民と成って、孱顔に足を投げ出し、空山に虱をひねって坐す。」
 「孱顔(せいがん)」は辞書には「山がやせほそって険しいさま」とある。そのまま読めば貧弱な顔だが、それを山に喩えたものだろう。ぽっちゃり顔のような山だと確かになだらかな感じがする。痩せると険しくなる。
 ただ山で隠居生活を送りだらだらと眠るだけで、険しい山に向って足を投げ出し、空っぽの山で虱を潰している。この「虱をひねって」に俳諧がある。

2018年6月1日金曜日

 今日は予報どおり晴れた。午後から雲が多くなった。
 それでは「幻住庵記」の続き。

 このあたりは「幻住庵ノ賦」だと、まず「山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。」の部分は最初に幻住庵を紹介する所にあった。
 「山はさすがに深からず、人家よき程にへだたり、石山を前にあてて、岩間山のしりへにたてり。南薫高く峯よりおろし、北風はるかに海をひたして涼し。おりしも卯月のはじめなれば、つつじ咲‥‥」
 このあと、比叡、比良、辛崎は一緒で、そのあとに「膳所の城は木ノ間にかがやき、勢田のはしに雨晴ては、粟津の松ばらに夕日を残す。」と続く。この辺は「城あり、橋あり、釣たるる舟あり」と大幅に省略されてしまった。その替りに笠取山、田植え歌、蛍、水鶏などが付け加えられる。
 そして三上山から田上山、ささほが嶽、千丈が峰、袴腰は同じで、その後にあった笠取山が削られて「釣たるる舟あり」の後へと移動する。
 『芭蕉文集』(日本古典文学大系46、一九五九、岩波書店)の注の「幻住庵ノ賦」の千丈が峰の所に、「千頭が嶽」とある。太神山(たなかみやま)ととそのあとに黒津の里が出てくるので、南東の方角を探してそれらしき山が見つからなかったが、千丈が峰は幻住庵の西にあった。確かに千丈川はこのあたりを水源としている。
 何でこんな方向違いの山が並列されたかというと、この位置に「笠取山に笠はなく、黒津の里人の色くろかりけむ」と続くと、南西に位置する笠取山が入るため、南東に限らない広い範囲の記述になるため、千頭が嶽が入ってもそれほど違和感はない。笠取山が始めのほうへ移動したため、千頭が嶽だけが浮いてしまったといっていいだろう。