2017年5月12日金曜日

 この頃暑い日が続く。昼は飲み物がたくさん必要になって、出費が増える。
 さて、「木のもとに」の巻3も佳境に入る。

十五句目

   月見る顔の袖おもき露
 秋風の船をこはがる波の音   曲水
 (秋風の船をこはがる波の音月見る顔の袖おもき露)

 これは「秋風の波の音に船をこはがる」の倒置。上句下句合わせると、「秋風の波の音に船をこはがる月見る顔の袖おもき露」となる。
 これは『源氏物語』「須磨」の俤か。

 「すまには、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、せきふきこゆるといひけむうらなみ、よるよるはげにいとちかくきこえて、又なくあはれなる物は、かかる所の秋なりけり。
 御前にいと人すくなにて、うちやすみわたれるに、ひとりめをさまして、枕をそばだててよものあらしをきき給ふに、なみただここもとに立ちくる心ちして、なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。」

 須磨では今まで以上に気を滅入らすような秋風が吹き、海は少し遠いものの在原行平中納言の「関吹き越ゆる」と詠んだ浦に寄る波は夜ともなるとすぐそばのように聞こえて、これ以上悲しくない所はないような秋となりました。
 お側で待機する人もまばらな部屋で早々に寝入ったものの一人目が醒めてしまい、枕を縦にして身をやや起こして周囲で吹きすさぶ嵐の音を聞くと波があたかもここまで押し寄せてくるような錯覚にとらわれ、涙がこぼれたと思うか思わないかのうちに、枕が涙の海に浮かんでいるような心地にになりました。

 このあと沖を船が通る場面がある。

 「おきより舟どものうたひののしりてこぎ行くなどもきこゆ。」

 沖の方からは何艘もの船が大声で歌をわめき散らしながら通り過ぎて行く音が聞こえてきます。

 そして光が差し込み十五夜だったと知る場面が来る。

 「月のいとはなやかにさし出でたるに、こよひは十五夜なりけりとおぼし出でて、殿上の御あそびこひしく、所所ながめ給ふらんかしとおもひやり給ふにつけても、月のかほのみまもられ給ふ。」

 月の光が煌々と差し込んでくると、「今夜は十五夜だったな」とふと思い出して、宮廷にいた頃の楽器の演奏に耽ったのが恋しく、みんなじっとあの月を見ているのかなと思うと、みんなの顔が月になって見守っているかのようです。

 源氏の君の御一行は岸にいるが、それを船で旅する趣向に変えれば、何となくこんな感じの句になる。

季題は「秋風」で秋。「船」「波の音」は水辺。

十六句目

   秋風の船をこはがる波の音
 雁ゆくかたや白子若松     芭蕉
 (秋風の船をこはがる波の音雁ゆくかたや白子若松)

 次は花の定座ということで、春の帰る雁にも取り成せるように配慮された「花呼び出し」の一句。
 白子若松は東海道四日市宿から鈴鹿の方へ行かずに南へ行ったところにある伊勢若松とその先の白子のこと。昔は伊勢街道が通っていた。今は近鉄名古屋線が通っている。
 ここでは東海道七里の渡しのこととしたか。帰る雁は北へ行くが、秋の雁は南へ向かう。ちょうどその方向に伊勢若松や白子がある。芭蕉も何度となく通っている道だ。芭蕉の「杖つき坂詞書」、

 「さやよりおそろしき髭など生たる飛脚めきたるおのこ同船しけるに、折々舟人をねめいかるに興さめて、山々のけしきうしなふ心地し侍る。
 漸々桑名に付て、処々籠に乗、馬にておふ程、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。ひとりたびのわびしさも哀増て、やや起あがれば、『まさなの乗てや』と、まごにはしかられて、

 かちならば杖つき坂を落馬哉

終に季の言葉いらず。」

にある、飛脚がガン飛ばして怒ってたのもこの七里の渡しか。別の意味で恐い。
 『三冊子』「あかさうし」には、「前句の心の余りを取て、気色に顕し付たる也、」とある。船を恐がる人を旅慣れてないお伊勢参りの人と見て、その不安を直接述べずに、雁行く遥か彼方の伊勢街道に具現化したといっていいだろう。

季題は「雁」で秋。鳥類。「白子若松」は名所。

十七句目

   雁ゆくかたや白子若松
 千部読(よむ)花の盛の一身田(いしんでん) 珍碩
 (千部読花の盛の一身田雁ゆくかたや白子若松)

 一身田は伊勢街道を更に南へ向かい、志登茂川にかかる江戸橋を渡ったあたりの田園地帯で、本山専修寺がある。春になると桜が咲き、千部読経の声が聞こえてきたのだろう。
 白子若松の南になるから、春の帰る雁は北にある白子若松へ向かう。

季題は「花」で春。植物、木類。「千部読」は釈教。

十八句目

   千部読花の盛の一身田
 巡礼死ぬる道のかげろう    曲水
 (千部読花の盛の一身田巡礼死ぬる道のかげろう)

 前句を定例の千部会ではなく千部供養に取り成したか。死者を弔うのに千部読経を行うのは、『源氏物語』「御法」の紫の上の葬儀でも見られる。
 「かげろう」はしばしば死者の霊に喩えられる。おそらく火葬と結びついてのことだと思う。
 今では陽炎というと夏の暑い時にアスファルト上にゆらゆらゆれて見えるあれのことだが、本来は焚き火や野焼きなどをした際の炎が上がらず燻った状態の時に現れるゆらゆら(シュリーレン現象)のことを言ったのであろう。春の野焼きに結び付けられていたために春の季語になったと思われる。

季題は「かげろう」で春。「巡礼死ぬる」は哀傷。

2017年5月11日木曜日

 昨日は「日本ダービー(東京優駿)も三歳馬によって争われる。」なんて書いたが、考えてみると昔は数え年で今の満年齢とは違うから、芭蕉の句の三歳馬はいまの二歳馬に相当する。こんなことに気づかなかったなんて面目ない。
 まあ、気を取り直して次へ。

十一句目

   中にもせいの高き山伏
 いふ事を唯一方へ落しけり   珍碩
 (いふ事を唯一方へ落しけり中にもせいの高き山伏)

 「中にもせいの高き」を「中にも勢の高き」に取り成したか。「居丈高」なんて言葉もあるように、上から目線で高飛車に物を言う人間はいつの時代にもいた。
 あるあるネタだが皮肉が利いていて面白い。

無季。

十二句目

   いふ事を唯一方へ落しけり
 ほそき筋より恋つのりつつ   曲水
 (いふ事を唯一方へ落しけりほそき筋より恋つのりつつ)

 ここで恋に転じる。
 ほんのちょっとしたことから妄想を膨らまし「もしかしてだけどー、もしかしてだけどー」なんてどぶろっくのネタではないが、自分に気があると勘違いして、相手の言うことをことごとくそういう意味にゆがめてしまう。
 一時的な麻疹みたいなので済めばいいが、こじらすとストーカーへと一直線。あぶないあぶない。

無季。「恋つのる」は恋。

十三句目

   ほそき筋より恋つのりつつ
 物おもふ身にもの喰へとせつかれて 芭蕉
 (物おもふ身にもの喰へとせつかれてほそき筋より恋つのりつつ)

 ストーカーから一転して拒食症。「ほそき」を痩せ細ると掛けているあたりも芸が細かい。前句の男の体を女の体の取り成すのは定石。
 こうした盛り上がりは「木のもとに」の前の二つの巻にはなかったから、やはり名作とされている一巻は違う。

無季。「物おもふ」は恋。

十四句目

   物おもふ身にもの喰へとせつかれて
 月見る顔の袖おもき露    珍碩
 (物おもふ身にもの喰へとせつかれて月見る顔の袖おもき露)

 これは恋離れの逃げ句だが、

 嘆けとて月やはものを思はする
     かこち顔なるわが涙かな
              西行法師

の歌あたりをイメージしたもの。本歌とまでは密接に寄っているわけではなく、西行の俤と言っていいだろう。「涙」と言わずに「袖おもき露」に留めた所で、次の展開が楽になる。

季題は「月」で秋。夜分、天象。「顔」は人倫。「袖」は衣装。「露」は降物。

 連句を残すというのは一体何なのか、何の意味があるのか。
 談笑ならその場で言い捨てるべきことで、残すべきものではないというのが近代文学の立場だった。
 それは「真実」とは何かという根本的な問いなのだろう。
 近代文学は事実をありのままに書いたものが真実だと考えた。だが、どんな客観的に物を書いても、その題材は主観的に選択され、そこには一定の思想のバイアスがかかっている。近代文学はむしろより激しいバイアスのかかった「思想のあるもの」を良しとしてきた。
 つまり一定の思想的な見地からこれが真実だと信じて記したバイアスのかかった事実、それが文学だった。今日の十一句目ではないが「いふ事を唯一方へ落しけり」だ。

   いふ事を唯一方へ落しけり
 思想なくては成らぬ文学

とでも言うべきか。
 芭蕉の時代の人が真実だと考えてたのは、そういう近代的真実ではなかった。それは「心の花」とでも言うべきものだった。
 季節が循環するように人は生まれては死んで行き、それを果てしなく繰り返してゆく。その営みの中で真実というのは、その営みを続けてゆくための「花」と「実」だった。
 厳しい生存競争の中にあっても、つかの間の人と人とのふれあいがあり、そこで親しく談笑し、一時の平和で長閑なひと時を過ごす瞬間は何にも変えがたいものだった。
 人は戦うために生まれてきたのではないし、歴史を作るために生きているのでもない。それぞれに人が思い描く夢や野望はどんなに永久平和への情熱に溢れていたとしても、結局互いに衝突しあって終わりのない戦いの修羅の道に迷い込むことになる。
 真実だと思って記述したものも、言葉なんてどういう意味にも取れるもので、解釈によってまた争いが生じるし、人間の記憶なんてのもあやふやなものだし、時間が立てば無意識の内に自分の都合のいいように「構造化」されてゆくものだから、立場が違えば記憶もまったく違ったものになる。歴史認識は平和をもたらすどころか、いつでも戦争をもたらすばかりだ。
 そんなあいまいな「事実」の記述に血眼になった近代文学に、一体何ができただろうか。ただ分断をもたらしただけだった。文壇だけに、なんちゃって。
 大事なのは心の花だけ。それを知ってた昔の風流人は、ただ一つ、みんなが和気藹々と平和な時間を過ごした、その真実だけを書き残す。それが連歌であり俳諧だったのではなかったか。
 世界はまたそれぞれの国の相容れない歴史認識の違いから再び戦争への道を歩み始めている。風流人にできるのは、ただそんなことよりもっと大切な時間があったということを書き残すだけだ。

2017年5月10日水曜日

 「木のもとに」の巻3の続き。

四句目

   旅人の虱かき行春暮て
 はきも習はぬ太刀のひきはだ  芭蕉
 (旅人の虱かき行春暮てはきも習はぬ太刀のひきはだ)

 「ひきはだ」は革偏に背と書くが、フォントが見つからなかった。「蟇肌」とも書く。
 「ひきはだ」は山刀などを収める皮の鞘のこと。旅人が護身用に持ち歩く。「はきも習はぬ」は身に着けるのに慣れていないという意味。護身用とはいえ刀の類は物騒なので、使い慣れているよりは慣れてないほうが風流といえよう。
 芭蕉は『野ざらし紀行』の伊勢の所で「腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。」と言っているから、山刀は携帯してなかった。
 『奥の細道』で山刀伐(なたぎり)峠を越える時には、「さらばと云(いふ)て人を頼待(たのみはべ)れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫(かし)の杖を携たづさへて、我々が先に立(たち)て行(ゆく)。」と護衛をつけている。

無季。

五句目

   はきも習はぬ太刀のひきはだ
 月待て假の内裏の司召(つかさめし) 珍碩
 (月待て假の内裏の司召はきも習はぬ太刀のひきはだ)

 太刀を身につけるのに慣れてない人を平安貴族とした。
 司召除目は秋除目とも呼ばれ、ネットで検索するとブリタニカ国際大百科事典小項目事典の解説として、

 「京官除目,秋除目ともいう。在京の官司すなわち京官 (けいかん) を任じる朝廷の儀式。 11月または 12月に行われる。地方官を任命する春の県召除目 (あがためしのじもく) に対し司召除目を秋除目といった。古代以来行われてきたが,室町時代には廃絶した。」

と出てくる。

季題は「月待ち」で秋。夜分、天象。脇の「西日」から二句隔てている。

六句目

   月待て假の内裏の司召
 籾臼つくる杣がはやわざ    曲水
 (月待て假の内裏の司召籾臼つくる杣がはやわざ)

 仮の内裏というところから田舎の舞台設定として、林業に従事する杣人がいて、籾摺る臼を簡単にさくっと作ってくれる。
 前句と言いこの句と言い、過去の王朝時代を想像して作った句でリアリティーには欠ける。まだ「軽み」の風には遠い。

季題は「籾臼」で秋。「杣」は人倫。

初裏

七句目

   籾臼つくる杣がはやわざ
 鞍置る三歳駒に秋の来て    芭蕉
 (鞍置る三歳駒に秋の来て籾臼つくる杣がはやわざ)

 馬は二歳で大人になり、三歳馬は若い盛り。日本ダービー(東京優駿)も三歳馬によって争われる。
 前句の「はやわざ」を臼を作る早業ではなく、籾臼で精米する早業と取り成し、精米した米を運び出す三歳駒を付けたのだろう。
 小学館『日本古典文学全集32 連歌俳諧集』の解説に「『秘註』に三歳駒の勢いと前句の早業とは響きであるという」とある。『秘註』は『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)。
 絵空事に流れがちな俳諧を現実に引き戻すのは、蕉門確立期の芭蕉の仕事でもある。
 「木のもとに」の巻2の三十三句目に、

   能見にゆかん日よりよければ
 乗いるる二歳の駒をなでさすり  三園

の句があるが、どちらが先かは不明。あるいはこの句の影響があったか。

季題は「秋の来て」で秋。「三歳駒」は獣類。

八句目

   鞍置る三歳駒に秋の来て
 名はさまざまに降替る雨     珍碩
 (鞍置る三歳駒に秋の来て名はさまざまに降替る雨)

 雨にはいろいろな呼び方があるか、そこは工夫したのだろうけど、ただ秋が来て雨が降るという内容しかない。遣り句と見ていいだろう。
 小学館『日本古典文学全集32 連歌俳諧集』の註にも、「『通旨』は、この付句を「天相」(天候)で付けた逃句だとしている。」とある。『通旨』は『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)。

無季。「雨」は降物。

九句目

   名はさまざまに降替る雨
 入込(いりごみ)に諏訪の涌湯(いでゆ)の夕ま暮 曲水
 (入込に諏訪の涌湯の夕ま暮名はさまざまに降替る雨)

 「入込」は雑多なものが入り混じることを言う。「混浴」という註もあるが、芭蕉の時代は混浴が普通だったから、ここでは身分や職種に関係なくいろいろな人が利用する山の中の温泉というような意味だろう。
 いろいろな地方から人が集まれば、雨の呼び方も様々だ。

無季。「諏訪」は名所。

十句目

   入込に諏訪の涌湯の夕ま暮
 中にもせいの高き山伏     芭蕉
 (入込に諏訪の涌湯の夕ま暮中にもせいの高き山伏)

 これは芭蕉の得意とするあるあるネタ。こういう山の中の温泉にいくといかにもいそうな人をすかさず出してくるあたりは流石だ。
 土芳の『三冊子』「あかさうし」には、「前句にはまりて付たる句也。其中の事を目に立ていひたる句なり。」とある。

無季。「山伏」は人倫。

2017年5月8日月曜日

 何だか急に暑くなった。
 東北の方では山火事が相次いでいる。大変だ。
 フランスの方ではマクロン大統領誕生。まあ、去年ブレグジットとトランプで右に振れすぎたからバランスを取ったというところか。フランスは異邦人を歓待するが、だからといってフランス社会に溶け込めるわけでもなく、程よく異邦人になれる国だとEMシオランが言ってたと思ったが。
 ゴールデンウィークが終わってそろそろ「木のもとに」の巻3に入ろうかな。発句は省略して。



   木のもとに汁も鱠も桜かな
 西日のどかによき天気なり   珍碩
 (木のもとに汁も鱠も桜かな西日のどかによき天気なり)

 発句に対してあまり自己主張せずに穏やかに和した所は、脇句の見本なのだろう。

 ひさかたのひかりのどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ
                紀友則

の心か。前句の「汁も鱠も桜かな」に花の散る様を読み取って、本歌で付けたと言っていいだろう。
 「西日」は近代では夏の季語になっているが、江戸時代では無季。

季題は「のどか」で春。「西日」は天象。

第三

   西日のどかによき天気なり
 旅人の虱かき行春暮て    曲水
 (旅人の虱かき行春暮て西日のどかによき天気なり)

 曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』を見ても「虱」は春にも夏にも秋にもないところを見ると、「虱」は無季と言っていいのだろう。

 蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと  芭蕉

の句は「蚤」が夏になる。

 夏衣いまだ虱をとりつくさず   芭蕉

も「夏衣」という季語を別に入れている。
 前句の西日長閑な天気を花見から旅体に転じている。晩春は虱の活動の活発になる頃でもあった。ひさかたのひかりのどけき春の日も虱が出てくると思うと手放しに喜べない。今だったら花粉症のようなものか。

季題は「春暮て」で春。「虱」は虫類。「旅人」は旅体、人倫。

2017年5月7日日曜日

 浪江町の山火事が鎮火したと今朝の新聞にあったので何よりだ。
 内容はまったく違うけど言葉の続き具合がよく似ている句というのがあって、『去来抄』「同門評」には、

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆

の句が、

 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

に似ていると指摘されている。
 ここで「等類」ではないか何となく似ている句を「同巣」と呼んでいる。
 『去来抄』「修行教」には「同竈」とあり、読み方は同じ「どうそう」だから同じと見ていいが、同様の議論がある。いずれにせよ、「同じ巣の句は手柄なし。されど兄より生れ増したらんは、また手柄也。」としている。
 「先師評」では去来は、

 面梶よ明石のとまり時鳥      野水

の句を、

 野を横に馬牽きむけよほとゝぎす  芭蕉

の句と「一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主の手柄なし。」として『猿蓑』の撰の時に落選させている。
 芭蕉はこのとき、「句の働きにおゐてハ一歩も動かず。明石を取柄に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。」と言い。「明石のほととぎす」という所に一興あるなら入れるようにと言っている。」
 「同門評」には、

 蕣(あさがほ)の裏を見せけり秋の風 許六

の句でも同様の議論がある。これは、

 くずの葉の面(おもて)見せけり今朝の露 芭蕉

に似ているというのだが、この句は服部嵐雪が一度芭蕉に反旗を翻し、しばらくして戻ってきた時の句で、「面見せけり」には、背を向けていた葉が世間の厳しさに耐えられず、しおらしく自分の方を向いて帰ってきた、という含みがある。
 まあ、朝顔の句がいいなら、この句もありか。

 肉球のおもて見せけり昼寝猫

 以前「ゆきゆき亭」にアップしていた「『去来抄』を読む」を「鈴呂屋書庫」にあらためてアップしたのでよろしく。

2017年5月6日土曜日

 先月29日に福島へ行った時には帰りに雷雨になったが、家に着くころには雲も消え、三日月が見えていた。まだ新暦の四月だが旧暦ではもう四月、俳諧の世界では夏なんだなと思った。
 そういえば浪江町の山火事は昨日のニュースではまだ鎮火していないようだ。放射線量には問題はないようだが。やはりあの時の雷が原因なのかなあ、鎮火してからいろいろ原因を調べるのだろうけど。
 ゴールデンウィークは土曜出勤の暦通りで、今日も出勤。3日は横浜へ行って赤レンガ倉庫と吉田町でビールを飲み、山下公園や港の見える岡公園などの全国都市緑化よこはまフェアを見てきた。やはり花はいいね。
 昨日は久しぶりに古代東海道の旅の続きで、市川真間から柏まで歩いてきた。手児奈霊神堂には八重咲きの藤が咲いていた。

 ここはまだ春のままにて八重の藤

 今年は旧暦の夏の来るのが早く、四月に気温の低い日が続いたせいか花の咲くのが遅いから、ツツジや藤が夏に咲くことになってしまった。五月に閏月が入るというのは、芭蕉の最後の年と一緒だ。
 あと、「木の本に」の巻の①と②を鈴呂屋書庫にアップした。

2017年5月1日月曜日

 さて、最初に紹介した四十句からなる「木のもとに」の巻1は、『花はさくら』秋屋編、寛政十三年(一八〇一)刊、『十丈園筆記』天然居士編、文政年間刊、『一葉集』古学庵仏兮・幻窓湖中編、文政十年(一八二七)刊と、百年以上も後になってから発表されている。
 この中で気になるのが、『一葉集』で、

 「元禄三年三月廿七日 伊賀上野風瀑亭にて」

と前書きがあり、末尾に、

   「以下四十句
 元禄庚午の春、木のもとに汁も鱠もさくら哉の立句にて歌仙有。此巻と一折までは大かた同じ。末廿二句は大に異也。然ども祖翁の作なること明らけし。故に諸書所見なしといへども、猶捨るに忍びず、爰に挙て考証となす。」

と記されていることだ。
 まず日付の三月二十七日だが、今日一般的には三月下旬には伊賀を離れ膳所へ行き、『ひさご』に収録されている形での「木のもとに」の巻3が作られた頃だとされている。しかし、『ひさご』には特に日付は明記されていない。
 おそらくこういう推測によるものだろう。

 1、「木のもとに」の巻3は春の発句だから当然三月までに作られているはずである。
 2、芭蕉は三月十一日に上野東郊荒木村白髭神社で「畑打つ」の巻の興行を行っている。四月六日には幻住庵に入っている。ゆえに、芭蕉はこの間に伊賀から膳所へと移ったと考えられる。
 また、芭蕉には、

 四方より花吹き入れて鳰の波
 草枕まことの華見しても来よ
 行く春や近江の人と惜しみける

といった元禄三年三月の近江で詠まれた句が存在している。ゆえに三月末までに近江に移ったのは明らかである。
 3、「木のもとに」の巻3は膳所で作られたものだから、三月十一日から三月末の間に作られたと考えられる。
 4、故に三月中旬から下旬に作られたと想定できる。

 三月二十七にというのは、それゆえ「木のもとに」の巻1ではなく、「木のもとに」の巻3の作られた日付に近いと思われる。
 それと気になるのは、「此巻と一折までは大かた同じ。末廿二句は大に異也。」という件で、言うまでもなく「木のもとに」の巻1と「木のもとに」の巻3は発句のみしか一致してないから、「木のもとに」の巻2を念頭に置いて言っているとしか思えない。「木のもとに」の巻2は『一葉集』の三年前の文政七年(一八二四)の猪来編『蓑虫庵小集』で発表されている。そこには、「右一巻之連句ハ柳下生ノ家ニ蔵ス、乞テ世ニ披露ス」とある。
 「木のもとに」の巻1の初出は、寛政十三年(一八〇一)刊の秋屋編『花はさくら』で、その二十三年後に『蓑虫庵小集』の「木のもとに」の巻2が発表されたとき、真贋論争が起こったことは想像できる。そのさい、「木のもとに」の巻1の方は作風がもっと後の風に近いことと、四十句という半端さ、それに一の懐紙と二の懐紙で筆記者が異なるという弱点があった。
 そこで、こちらのほうは確かに真偽不明だがとことわった上で、「然ども祖翁の作なること明らけし。故に諸書所見なしといへども、猶捨るに忍びず、爰に挙て考証となす。」再提起したのではなかったか。
 どっちが本物により近いかといわれれば、おそらく「木のもとに」の巻2の方であろう。こちらの方が三月二日からそう遠くない日に作られた可能性が高い。だからこそ、あえてそれより後の三月二十七日という日付を入れたのではなかったか。