ヤフー・ニュースにTOKYO FMの番組のソースで「晩年の松尾芭蕉が、旅の途中に大阪に向かった理由とは?」というのがあった。
「仲違いしている弟子同士を仲直りさせるため」というのがその答で、このニュースでは弟子の名前が出てなかったが、酒堂(しゃどう)と之道(しどう)のことだ。
芭蕉の最後の旅は元禄七年の五月のことで、「空豆の花」の巻の興行の後、子珊亭で「別座敷」の興行を行い、五月十一日に旅立つ。一説に大腸癌だったのではないかと言われる芭蕉の病気は既に進行していて、歩くことはおろか、馬も負担が大きいので駕籠に乗ったともいわれている。
旅の目的は、ひとまずは伊賀への帰郷だったが、それとともにまだ行ったことのない明石より西への旅も計画されてたという。死ぬ前に一度は行ってみたかったのだろう。『奥の細道』の旅の途中でも、芭蕉自身はもっと北へ行くことを望んだが曾良の反対で象潟をあとに北陸道を戻ることになった。
五月二十八日に伊賀に着いた芭蕉は、閏五月十六日に伊賀を発ち大津や膳所を経て京都へ行く。去来の落柿舎滞在中に大阪の之道を迎えて「牛流す」の巻の興行を行う。ここで大阪での酒堂と之道との対立のことをいろいろと聞かされたのだろう。
六月には再び膳所に戻る。七月にはまた京都へ行き、中旬には伊賀に帰る。九月八日に大阪に向かう。途中奈良に寄る。九月十日に大阪に到着するが、ここで病状が急変する。九月二十七日に行われた「白菊の」の巻の興行が、芭蕉にとっての最後の興行となる。この時酒堂・之道の両者も参加した。
ここで仲直りするかに見えたが、結局対立は解消されなかった。十月十二日に芭蕉は没す。このとき之道は立ち会っているが、酒堂は直前に姿をくらませたという。
「白菊の」の巻を見る限り、酒堂・之道の間にそんなに作風の相違は感じられない。対立は俳諧の方向性というよりはもっと個人的なものだったと思われる。
之道はもとから大阪の人であるのに対し、酒堂は膳所の人で後に大阪に移ったため、之道から見れば余所者だったのだろう。しかもその余所者に、大阪の蕉門は衰退しているから俺が立て直すんだみたいなことを言われたなら、そりゃあ之道の立場がない。
大阪の蕉門は衰退しているというよりは、元々大阪談林の力が強く、それに伊丹の鬼貫の一派が合流して、蕉門にとってはなかなか食い込めない土地だった。今でも関東の笑いと関西の笑いは違うといわれるが、この蕉門と大阪談林の頃からのものなのかもしれない。それを余所者にとやかく言われたくないという気持ちはあったのだろう。
しかも酒堂は膳所にいた頃は珍碩と名乗り、「木のもとに汁も膾も桜かな」を発句とした興行にも参加していたが、酒堂に改名したことで名前まで「しどう」と「しゃどう」でかぶっている。之道が楓竹に改名したのも、このかぶりを気にしていたのかもしれない。
結局大阪の蕉門は分裂したまま、芭蕉が命をかけて大阪まで来たにもかかわらず、蕉門は大阪を制覇できなかった。まあ、ここで酒堂・之道の和解が成立していたら、ひょっとしたら関西独自のお笑い文化はなかったかもしれないから、それはそれで別に残念に思う必要はないのだろう。
2017年2月8日水曜日
2017年2月7日火曜日
「梅若菜」の巻は二の懐紙に入る。二の表。
十九句目
灰まきちらすからしなの跡
春の日に仕舞てかへる経机 正秀
(春の日に仕舞てかへる経机灰まきちらすからしなの跡)
正秀も近江国膳所の人で、十七句目のところで触れた「鑓持のなほ振たつるしぐれ哉」の句で知られている。
芭蕉の元禄四年五月二十三日付の正秀宛書簡に「しぐれの鑓持句驚入、此集之かざりとよろこび申候。御手柄とかく申難候。」とあるところから、この句は元禄三年冬の句で、この「梅若菜」の興行のときは芭蕉はまだ知らなかったと思われる。当時の撰集向けの発句は時間をかけて推敲してから発表することも多かったので、まだ完成してなかったのかもしれない。
「経机」はお経を読んだり、写経をしたりする際の主にお坊さんが使うもので、畑から飛んでくる灰に悩まされ、遂に断念して帰ることにしたのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「灰をいとふの意にして体用の変あり。」とある。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「爰に起情して、千部などの法会勤て寺に帰る僧の永き日に倦たる模様迄、一句のうへに見せて、前の畑際を通る人の見出し也。僧とはいはずして経机と作りて聞せる所手づま也。」とある。打越の「鑓の柄に立すがりたる」も武人といわずして武人を表す。この辺が「匂い」となる。
季題は「春の日」で春。「経机」は釈教。
二十句目
春の日に仕舞てかへる経机
店屋物(てんやもの)くふ供の手がはり 去来
(春の日に仕舞てかへる経机店屋物くふ供の手がはり)
「てんやもの」という言葉は最近聞かれなくなったが、ちょっと前までは出前を取ったりする時に「てんやものですまそう」なんて言ったりした。本来は出前やデリバリーやケータリングのことだけでなく、宿屋や飲食店で食べるものも含め、店の食事を「てんやもの」と言った。
この句は経机をしまって帰る人を偉い坊さんにお仕えする小坊主のこととし、交替で非番になったのをいいことにお寺の精進料理ではなく、店で好きなものを食っている様を付けた。まあ、修行は大事だけど息抜きも欲しいというのは修行僧の本音だろう。今なら通学路で買い食いをする中高生のようなものか。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「買喰する体也。」とある。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「前の僧を院家と見て、供多く連たるさまの付也。」とある。
無季。「供」は人倫。
二十一句目
店屋物くふ供の手がはり
汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸 半残
(汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸店屋物くふ供の手がはり)
ここから先が伊賀での興行となる。何でこんな変則的な一巻になったのかはよくわからないが、『奥の細道』の山中温泉で病気で先に伊勢に向かう曾良への餞別の興行となった「馬かりて」の巻でも、曾良の参加は初の懐紙のみで、二の懐紙は芭蕉と北枝との両吟になっている。そこから考えると、ここでも乙州が明日の朝早く旅立つため、初の懐紙だけで早めに終わりにしたのだろう。
蕉門の俳諧は貞門談林の俳諧に比べ、技法が高度になった分速度が遅くなったのではないかと思う。百韻が少なくなり歌仙が主流になったのもその辺の事情があったのだろう。また、出勝ちに比べて三吟四吟などの順番の決まった形式の方が速度が落ちるのではないかと思う。一人で次の句を考えるより、大勢で考えた方が早くなるし、またスピードを競うようにもなる。
中世の連歌は千句興行などを行い、かなり速い速度で句が付けられていったと思われる。また近世の談林俳諧でも、井原西鶴の大矢数独吟興行は、ほとんど今のラップのように早口で切れ目なく句を詠んでいったのではないかと思われる。それに比べると蕉門の俳諧は熟考の俳諧で、量より質を重視したものと思われる。
半残は伊賀上野の人で伊賀藤堂家の家臣。芭蕉の元禄四年五月十日付けの半残宛書簡には、「いがの手柄大分に御座候。ご発句、花うつぼ・木兎など、人々驚入申候。」と、
鼠共春の夜あれそ花靫 半残
みみづくは眠る処をさされけり 同
の句を高く評価している。
さて二十一句目だが、前句の「手がはり」という言葉には体裁・形式などが普通と異なっているという意味もある。そこから店屋物を食う共のちょっと変わった体裁、と取り成して、汗ぬぐう布の端っこに紺の糸で印があると付ける。他の人、いわゆる傍輩の持ち物と区別するためだと思われる。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「店屋物くひに来りし供のもの、昼のあつさに汗ぬぐふ也。その手拭にしるしの付て有也。」とある。
季題は「汗ぬぐひ」で夏。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部に「汗巾(あせぬぐひ) 長さ一二尺の布の両端を縫ひ、これを用ふ。」とある。
十九句目
灰まきちらすからしなの跡
春の日に仕舞てかへる経机 正秀
(春の日に仕舞てかへる経机灰まきちらすからしなの跡)
正秀も近江国膳所の人で、十七句目のところで触れた「鑓持のなほ振たつるしぐれ哉」の句で知られている。
芭蕉の元禄四年五月二十三日付の正秀宛書簡に「しぐれの鑓持句驚入、此集之かざりとよろこび申候。御手柄とかく申難候。」とあるところから、この句は元禄三年冬の句で、この「梅若菜」の興行のときは芭蕉はまだ知らなかったと思われる。当時の撰集向けの発句は時間をかけて推敲してから発表することも多かったので、まだ完成してなかったのかもしれない。
「経机」はお経を読んだり、写経をしたりする際の主にお坊さんが使うもので、畑から飛んでくる灰に悩まされ、遂に断念して帰ることにしたのだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「灰をいとふの意にして体用の変あり。」とある。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「爰に起情して、千部などの法会勤て寺に帰る僧の永き日に倦たる模様迄、一句のうへに見せて、前の畑際を通る人の見出し也。僧とはいはずして経机と作りて聞せる所手づま也。」とある。打越の「鑓の柄に立すがりたる」も武人といわずして武人を表す。この辺が「匂い」となる。
季題は「春の日」で春。「経机」は釈教。
二十句目
春の日に仕舞てかへる経机
店屋物(てんやもの)くふ供の手がはり 去来
(春の日に仕舞てかへる経机店屋物くふ供の手がはり)
「てんやもの」という言葉は最近聞かれなくなったが、ちょっと前までは出前を取ったりする時に「てんやものですまそう」なんて言ったりした。本来は出前やデリバリーやケータリングのことだけでなく、宿屋や飲食店で食べるものも含め、店の食事を「てんやもの」と言った。
この句は経机をしまって帰る人を偉い坊さんにお仕えする小坊主のこととし、交替で非番になったのをいいことにお寺の精進料理ではなく、店で好きなものを食っている様を付けた。まあ、修行は大事だけど息抜きも欲しいというのは修行僧の本音だろう。今なら通学路で買い食いをする中高生のようなものか。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)には「買喰する体也。」とある。
『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)には、「前の僧を院家と見て、供多く連たるさまの付也。」とある。
無季。「供」は人倫。
二十一句目
店屋物くふ供の手がはり
汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸 半残
(汗ぬぐひ端のしるしの紺の糸店屋物くふ供の手がはり)
ここから先が伊賀での興行となる。何でこんな変則的な一巻になったのかはよくわからないが、『奥の細道』の山中温泉で病気で先に伊勢に向かう曾良への餞別の興行となった「馬かりて」の巻でも、曾良の参加は初の懐紙のみで、二の懐紙は芭蕉と北枝との両吟になっている。そこから考えると、ここでも乙州が明日の朝早く旅立つため、初の懐紙だけで早めに終わりにしたのだろう。
蕉門の俳諧は貞門談林の俳諧に比べ、技法が高度になった分速度が遅くなったのではないかと思う。百韻が少なくなり歌仙が主流になったのもその辺の事情があったのだろう。また、出勝ちに比べて三吟四吟などの順番の決まった形式の方が速度が落ちるのではないかと思う。一人で次の句を考えるより、大勢で考えた方が早くなるし、またスピードを競うようにもなる。
中世の連歌は千句興行などを行い、かなり速い速度で句が付けられていったと思われる。また近世の談林俳諧でも、井原西鶴の大矢数独吟興行は、ほとんど今のラップのように早口で切れ目なく句を詠んでいったのではないかと思われる。それに比べると蕉門の俳諧は熟考の俳諧で、量より質を重視したものと思われる。
半残は伊賀上野の人で伊賀藤堂家の家臣。芭蕉の元禄四年五月十日付けの半残宛書簡には、「いがの手柄大分に御座候。ご発句、花うつぼ・木兎など、人々驚入申候。」と、
鼠共春の夜あれそ花靫 半残
みみづくは眠る処をさされけり 同
の句を高く評価している。
さて二十一句目だが、前句の「手がはり」という言葉には体裁・形式などが普通と異なっているという意味もある。そこから店屋物を食う共のちょっと変わった体裁、と取り成して、汗ぬぐう布の端っこに紺の糸で印があると付ける。他の人、いわゆる傍輩の持ち物と区別するためだと思われる。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)に「店屋物くひに来りし供のもの、昼のあつさに汗ぬぐふ也。その手拭にしるしの付て有也。」とある。
季題は「汗ぬぐひ」で夏。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の夏之部に「汗巾(あせぬぐひ) 長さ一二尺の布の両端を縫ひ、これを用ふ。」とある。
2017年2月6日月曜日
「梅若菜」の巻の続き。
十六句目
懐に手をあたたむる秋の月
汐さだまらぬ外の海づら 乙州
(懐に手をあたたむる秋の月汐さだまらぬ外の海づら)
懐で手を温める人を漁師か何かと見たか。位付けと言っていいだろう。次が花の定座ということもあってか、ただ場所だけを示す。「外の海」は内海に対しての言葉で、太平洋、日本海、東シナ海などを指すとみていいのか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海士や船人の天気を窺ふ様子ともみゆ」とある。
『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には「愚考、筑前玄界灘迄を内海と云、又瀬戸内といふ。是より九州地へかけて外海といふといへる説もあり。猶尋ぬべし。内海の汐の満干定りありと和漢三才図会に見ゆ。外海は汐の沙汰なし。」とある。
無季。「汐」「海づら」は水辺。
十七句目
汐さだまらぬ外の海づら
鑓の柄に立すがりたる花のくれ 去来
(鑓の柄に立すがりたる花のくれ汐さだまらぬ外の海づら)
さてもう一人の猿蓑の編者、去来の登場。そしていきなり花を持たされる。凡兆が月で去来が花と、これは芭蕉の粋な計らいと見ていいだろう。
これは秀吉の時代に朝鮮行きを命じられた武将の姿だろうか。なかなか汐が定まらず海を渡れないまま、今日も駄目かといかにも疲れたように鑓の柄で体を支えて佇んでいる。戦意が盛り上がらず、今日も長閑に桜の花に日は暮れてゆく。武将の苛立ちと平和が一番という庶民感覚とのギャップを感じさせる。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)はこの句を「いせをはりの海づらを打詠たる鑓もち也。」と鑓持ちの句としている。「鑓持ち」は大名行列などで、槍をかざして盛り上げる役で、
鑓持のなほ振たつるしぐれ哉 正秀
の句は『猿蓑』の見どころの一つとなっている。この正秀もこのあと登場する。ただ、伊勢尾張だと七里の渡しで外海とはいえない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「渡海を思ふ勇士のもやうなど見るべきか。」とあり、この方が良いと思う。
『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)は「前の海辺を軍場と見て勇士の風情を付たり。魏の曹操梁を横たへ詩を賦などの俤なり。」とするが、深読みのしすぎだろう。曹操は中国人が驚くほど今の日本では人気だが、江戸時代からそうだったのか。日本では元禄二年に『通俗三国志』が出版されているが、去来がその影響を受けたかどうかはわからない。
季題は「花」で春。植物、木類。「萩の札」から三句隔てている。
十八句目
鑓の柄に立すがりたる花のくれ
灰まきちらすからしなの跡 凡兆
(鑓の柄に立すがりたる花のくれ灰まきちらすからしなの跡)
これは、『和漢朗詠集』にある菅原文時の漢詩、
桃李不言春幾暮 煙霞無跡昔誰栖
桃李もの言わず春いくばくか暮れぬる
煙霞跡無し昔誰ぞ栖
の心か。鑓の柄に立ちすがるのは老いた武将で、「煙霞跡無し」を俳諧らしく芥子菜の菜の花の跡形もなく刈られて、土を作るための灰が撒かれている情景にする。こういう換骨奪胎は凡兆の得意とするところだろう。
この詩句は平家物語の少将都帰の場面でも引用されている。謡曲「泰山府君」には、「煙霞跡を埋むでは花の暮を惜み。」とある。
古註はいろいろ意見が割れていて、これといった有力な説はない。
季題は「からし菜」で春。植物、草類。
十六句目
懐に手をあたたむる秋の月
汐さだまらぬ外の海づら 乙州
(懐に手をあたたむる秋の月汐さだまらぬ外の海づら)
懐で手を温める人を漁師か何かと見たか。位付けと言っていいだろう。次が花の定座ということもあってか、ただ場所だけを示す。「外の海」は内海に対しての言葉で、太平洋、日本海、東シナ海などを指すとみていいのか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「海士や船人の天気を窺ふ様子ともみゆ」とある。
『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には「愚考、筑前玄界灘迄を内海と云、又瀬戸内といふ。是より九州地へかけて外海といふといへる説もあり。猶尋ぬべし。内海の汐の満干定りありと和漢三才図会に見ゆ。外海は汐の沙汰なし。」とある。
無季。「汐」「海づら」は水辺。
十七句目
汐さだまらぬ外の海づら
鑓の柄に立すがりたる花のくれ 去来
(鑓の柄に立すがりたる花のくれ汐さだまらぬ外の海づら)
さてもう一人の猿蓑の編者、去来の登場。そしていきなり花を持たされる。凡兆が月で去来が花と、これは芭蕉の粋な計らいと見ていいだろう。
これは秀吉の時代に朝鮮行きを命じられた武将の姿だろうか。なかなか汐が定まらず海を渡れないまま、今日も駄目かといかにも疲れたように鑓の柄で体を支えて佇んでいる。戦意が盛り上がらず、今日も長閑に桜の花に日は暮れてゆく。武将の苛立ちと平和が一番という庶民感覚とのギャップを感じさせる。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)はこの句を「いせをはりの海づらを打詠たる鑓もち也。」と鑓持ちの句としている。「鑓持ち」は大名行列などで、槍をかざして盛り上げる役で、
鑓持のなほ振たつるしぐれ哉 正秀
の句は『猿蓑』の見どころの一つとなっている。この正秀もこのあと登場する。ただ、伊勢尾張だと七里の渡しで外海とはいえない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「渡海を思ふ勇士のもやうなど見るべきか。」とあり、この方が良いと思う。
『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)は「前の海辺を軍場と見て勇士の風情を付たり。魏の曹操梁を横たへ詩を賦などの俤なり。」とするが、深読みのしすぎだろう。曹操は中国人が驚くほど今の日本では人気だが、江戸時代からそうだったのか。日本では元禄二年に『通俗三国志』が出版されているが、去来がその影響を受けたかどうかはわからない。
季題は「花」で春。植物、木類。「萩の札」から三句隔てている。
十八句目
鑓の柄に立すがりたる花のくれ
灰まきちらすからしなの跡 凡兆
(鑓の柄に立すがりたる花のくれ灰まきちらすからしなの跡)
これは、『和漢朗詠集』にある菅原文時の漢詩、
桃李不言春幾暮 煙霞無跡昔誰栖
桃李もの言わず春いくばくか暮れぬる
煙霞跡無し昔誰ぞ栖
の心か。鑓の柄に立ちすがるのは老いた武将で、「煙霞跡無し」を俳諧らしく芥子菜の菜の花の跡形もなく刈られて、土を作るための灰が撒かれている情景にする。こういう換骨奪胎は凡兆の得意とするところだろう。
この詩句は平家物語の少将都帰の場面でも引用されている。謡曲「泰山府君」には、「煙霞跡を埋むでは花の暮を惜み。」とある。
古註はいろいろ意見が割れていて、これといった有力な説はない。
季題は「からし菜」で春。植物、草類。
2017年2月5日日曜日
「梅若菜」の巻の続き。
十三句目
すみきる松のしづかなりけり
萩の札すすきの札によみなして 乙州
(萩の札すすきの札によみなしてすみきる松のしづかなりけり)
これは『撰集抄』巻六第八の「信濃佐野渡禅僧入滅之事」の本説による付け。本説なので元ネタを知らないと何のことだかよくわからない。元ネタを知らなくても大体わかるようなら「面影」になる。
ここではわからないので、その元ネタの文章を引用しておこう。
「永暦の末八月の比(注:一一六一年八月か)、信濃の国さののわたりを過ぎ侍しに、花ことにおもしろく、蟲の音声々鳴わたりて、ゆきすぎがたく侍りて、野辺に徘徊し侍るに、玉鉾の行かふ道のほかに、すこし草かたぶくばかりに見ゆる道あり。いかなる道にかあらんとゆかしく覚えて、たづねいたりて見侍るに、すすき、かるかや、をみなへしを手折て、庵むすびてゐたる僧あり。齢四十あまり五十にもや成ぬらんと見えたり。前にけしかる硯筆ばかりぞ侍りける。まことに貴げなる人に侍り。庵の内を見入侍れば、手折て庵につくれる草々に、紙にて札をつけたり。
すすきのやどりには、
すすきしげる秋の野風のいかならん
夜なく蟲の声のさむけき
かるかやのしとみには、
山陰の暮ぬと思へばかるかやの
下置く露もまたき色かな
ふぢばかまのふすまには、
露のぬきあだにおるてふ藤ばかま
秋風またで誰にかさまし
荻の葉のもとには、
夕さればまがきの荻に吹風の
目にみぬ秋をしる涙かな
をみなへしの咲けるには、
をみなへし植しまがきの秋の色は
猶しろたへの露ぞ変らぬ
はぎ咲けるには、
萩が花うつろふ庭の秋風に
下葉もまたで露は散りつつ
と札をつけて、座禅し給へり。」
(『撰集抄』西尾光一校注、一九七〇、岩波文庫、p.183~185)
まあ、文字通りの「草庵」といえよう。
この西のほうの山に六十余りの老僧がいるのを見つけ、行ってみると眠るように息絶えていて、木の枝にやはり札がつけられていた。そこには、
むらさきの雲まつ身にしあらざれば
澄める月をばいつまでもみる
という歌が記されていた。
前句の「すみきる松のしづかなりけり」から、この歌を連想したのだろう。何の木かは本文には書いてないが歌の「雲まつ身」が「松」との掛詞になっているとも読み取れる。先ほどの歌もこの老僧の書いたものと思われる。
松の木の下で成仏した老僧のことを思い、
萩の札すすきの札によみなして
すみきる松のしづかなりけり
と二句一章に詠んだとみて間違いない。
『去来文』(也足亭岸芷編、寛政三年序)に「是、撰集抄の故事をとり申候。」とあり、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)他多数の古註がこの『撰集抄』「信濃佐野渡禅僧入滅之事」を引用している。
季題は「萩」「すすき」で秋。植物、草類。
十四句目
萩の札すすきの札によみなして
雀かたよる百舌鳥(もず)の一聲 智月
(萩の札すすきの札によみなして雀かたよる百舌鳥の一聲)
ここで乙州の姉にして義母でもある智月尼が登場する。
さて、本説の後の逃げ句は難しい。どうしても展開が重くなりがちな所から、後の蕉門の「軽み」の俳諧では好まれなくなっていったのだろう。
ここでは「札」のことは単なるたまたまあった景色の一部とみなし、単なる萩や薄の原っぱとしてつけたのだろう。そうでもしないとなかなか難しい。
『標註七部集稿本』(夏目成美著、文化十三年以前成立)に「夫木鈔 後京極 すそのには今こそすらし小鷹狩山のしげみに雀かたよる」とあり、この本歌で付けたものと思われる。たかが来るので雀が怯えて茂みに偏るという本歌を少し変えて、百舌鳥の一声に変えている。「鷹の一声」だと本歌のまんまで、単なるパクリだが、少し変えることでオマージュになる。これは本歌を取る時の鉄則。
勿論ここでは秋の句を三句続けなくてはならない事情があり、「鷹」は冬なので付けられない。百舌鳥は秋になる。
この歌は藤原良経の家集『秋篠月清集』にもある。藤原良経は九条良経とも呼ばれ、小倉百人一首では後京極摂政前太政大臣と記されている。
季題は「百舌鳥」で秋。鳥類。「雀」も鳥類。
十五句目
雀かたよる百舌鳥の一聲
懐に手をあたたむる秋の月 凡兆
(懐に手をあたたむる秋の月雀かたよる百舌鳥の一聲)
ここで去来とともに猿蓑を編纂した凡兆が登場する。このあとには去来も登
場するので、智月とともに後から遅れて到着したか。
句の方はあり場のイメージか。中世連歌のかつて有名だった句に、
罪もむくいもさもあらばあれ
月残る狩場の雪の朝ぼらけ 救済(きゅうせい)
というのがある。秋なので雪ではないし、勿論そのまんまというのは駄目なので「懐に手をあたたむる」という誰もがするようなしぐさで朝の寒さを表現している。今ならポケットに手を入れて、というところか。(救済参加の連歌、文和千句第一百韻はここ。)
思えば芭蕉の「ほつしんの初」の句以来、古典に傾いた重い付け合いの句が続いた。そろそろ単純なあるあるネタで軽い展開に戻そうというところか。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「雀を襲ふる百舌のあはただしさを見る。ふところ手は朝月也。」とある。
季題は「秋の月」で秋。夜分、天象。
十三句目
すみきる松のしづかなりけり
萩の札すすきの札によみなして 乙州
(萩の札すすきの札によみなしてすみきる松のしづかなりけり)
これは『撰集抄』巻六第八の「信濃佐野渡禅僧入滅之事」の本説による付け。本説なので元ネタを知らないと何のことだかよくわからない。元ネタを知らなくても大体わかるようなら「面影」になる。
ここではわからないので、その元ネタの文章を引用しておこう。
「永暦の末八月の比(注:一一六一年八月か)、信濃の国さののわたりを過ぎ侍しに、花ことにおもしろく、蟲の音声々鳴わたりて、ゆきすぎがたく侍りて、野辺に徘徊し侍るに、玉鉾の行かふ道のほかに、すこし草かたぶくばかりに見ゆる道あり。いかなる道にかあらんとゆかしく覚えて、たづねいたりて見侍るに、すすき、かるかや、をみなへしを手折て、庵むすびてゐたる僧あり。齢四十あまり五十にもや成ぬらんと見えたり。前にけしかる硯筆ばかりぞ侍りける。まことに貴げなる人に侍り。庵の内を見入侍れば、手折て庵につくれる草々に、紙にて札をつけたり。
すすきのやどりには、
すすきしげる秋の野風のいかならん
夜なく蟲の声のさむけき
かるかやのしとみには、
山陰の暮ぬと思へばかるかやの
下置く露もまたき色かな
ふぢばかまのふすまには、
露のぬきあだにおるてふ藤ばかま
秋風またで誰にかさまし
荻の葉のもとには、
夕さればまがきの荻に吹風の
目にみぬ秋をしる涙かな
をみなへしの咲けるには、
をみなへし植しまがきの秋の色は
猶しろたへの露ぞ変らぬ
はぎ咲けるには、
萩が花うつろふ庭の秋風に
下葉もまたで露は散りつつ
と札をつけて、座禅し給へり。」
(『撰集抄』西尾光一校注、一九七〇、岩波文庫、p.183~185)
まあ、文字通りの「草庵」といえよう。
この西のほうの山に六十余りの老僧がいるのを見つけ、行ってみると眠るように息絶えていて、木の枝にやはり札がつけられていた。そこには、
むらさきの雲まつ身にしあらざれば
澄める月をばいつまでもみる
という歌が記されていた。
前句の「すみきる松のしづかなりけり」から、この歌を連想したのだろう。何の木かは本文には書いてないが歌の「雲まつ身」が「松」との掛詞になっているとも読み取れる。先ほどの歌もこの老僧の書いたものと思われる。
松の木の下で成仏した老僧のことを思い、
萩の札すすきの札によみなして
すみきる松のしづかなりけり
と二句一章に詠んだとみて間違いない。
『去来文』(也足亭岸芷編、寛政三年序)に「是、撰集抄の故事をとり申候。」とあり、『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)、『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)、『猿みのさかし』(樨柯坊空然著、文政十二年刊)、『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年)、『七部十寸鏡猿蓑解』(天堂一叟著、安政四年以前刊)、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)他多数の古註がこの『撰集抄』「信濃佐野渡禅僧入滅之事」を引用している。
季題は「萩」「すすき」で秋。植物、草類。
十四句目
萩の札すすきの札によみなして
雀かたよる百舌鳥(もず)の一聲 智月
(萩の札すすきの札によみなして雀かたよる百舌鳥の一聲)
ここで乙州の姉にして義母でもある智月尼が登場する。
さて、本説の後の逃げ句は難しい。どうしても展開が重くなりがちな所から、後の蕉門の「軽み」の俳諧では好まれなくなっていったのだろう。
ここでは「札」のことは単なるたまたまあった景色の一部とみなし、単なる萩や薄の原っぱとしてつけたのだろう。そうでもしないとなかなか難しい。
『標註七部集稿本』(夏目成美著、文化十三年以前成立)に「夫木鈔 後京極 すそのには今こそすらし小鷹狩山のしげみに雀かたよる」とあり、この本歌で付けたものと思われる。たかが来るので雀が怯えて茂みに偏るという本歌を少し変えて、百舌鳥の一声に変えている。「鷹の一声」だと本歌のまんまで、単なるパクリだが、少し変えることでオマージュになる。これは本歌を取る時の鉄則。
勿論ここでは秋の句を三句続けなくてはならない事情があり、「鷹」は冬なので付けられない。百舌鳥は秋になる。
この歌は藤原良経の家集『秋篠月清集』にもある。藤原良経は九条良経とも呼ばれ、小倉百人一首では後京極摂政前太政大臣と記されている。
季題は「百舌鳥」で秋。鳥類。「雀」も鳥類。
十五句目
雀かたよる百舌鳥の一聲
懐に手をあたたむる秋の月 凡兆
(懐に手をあたたむる秋の月雀かたよる百舌鳥の一聲)
ここで去来とともに猿蓑を編纂した凡兆が登場する。このあとには去来も登
場するので、智月とともに後から遅れて到着したか。
句の方はあり場のイメージか。中世連歌のかつて有名だった句に、
罪もむくいもさもあらばあれ
月残る狩場の雪の朝ぼらけ 救済(きゅうせい)
というのがある。秋なので雪ではないし、勿論そのまんまというのは駄目なので「懐に手をあたたむる」という誰もがするようなしぐさで朝の寒さを表現している。今ならポケットに手を入れて、というところか。(救済参加の連歌、文和千句第一百韻はここ。)
思えば芭蕉の「ほつしんの初」の句以来、古典に傾いた重い付け合いの句が続いた。そろそろ単純なあるあるネタで軽い展開に戻そうというところか。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「雀を襲ふる百舌のあはただしさを見る。ふところ手は朝月也。」とある。
季題は「秋の月」で秋。夜分、天象。
2017年2月3日金曜日
今日は節分。曲亭馬琴編の『増補 俳諧歳時記栞草』の冬之部のところにこうある。
「凡(およそ)節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆(いりまめ)を殿中に撒(まか)せられて疫鬼(えきき)を逐(お)ふ。春にあるも亦然り。今夜、大豆を撒(まく)を拍(はやす)といふ。同夜、家々の門戸に鰯の頭首(かしら)、并に狗骨(ひひらぎ)の条(えだ)を挿む。伝へいふ、この二物、疫鬼の畏るる所なり。一家の内に事を執る者を年男といふ。声高に鬼は外福は内と呼て、疫を禳(はら)ひ福をもとむ。」
鰯の頭や柊の枝は廃れてしまったが、豆まきは今も健在だ。それと最近になって俄に登場し、ほとんど主役クラスになっているのが恵方巻だ。恵方巻は関西の海苔業者が考案し、セブンイレブンが全国に広めたと言われている。別に古い言われはない。
昔の祭は「まつりごと」で、共同体の起源や過去の事件、掟などを思い起こさせるためにあったのだろう。それと同時に共同体にわだかまる不満や様々な願望を表出させていたのかもしれない。
今の祭は共同体から切り離されて、何か刺激のあることを様々な多種多様な人間の間で共通の体験とすることの方に意味があるのかもしれない。それはクリスマスやハローウィンやバレンタインだけでなく、スポーツイベントや何とかフェスといわれるものも含まれる。
恵方巻も基本的には理由は後付で、とにかく家族や仲間と一緒に普段やらないようなことをすることで盛り上がるということが重要なのだろう。
豆まきで「鬼は外」と言わずに「鬼は内」と言う所もあるようだし、「福は内」だけしか言わない所もあるという。ただ、「鬼」がもともと疫鬼(えきき)のことで、今で言えば病原体のことだとすれば、やはり殺菌や滅菌をするように外へやりたいものだ。
まあ、あまり清潔すぎると今度は免疫がなくなるなんて問題もあるし、誤った知識で病気を追い払おうとすると、動物を扱う人たちへの偏見になったり、被爆者や原発避難者までも追い払ったり、困った問題も起こる。
テロリストは外、と言いたいのも確かにわかる。ただ、誰がテロリストで誰がそうでないか見た目でわからなければ、本当は役に立ついい人なのに追い出されたり、良い人だと思って入れた人が実はテロリストだったりする。
まあ、そうやって疑心暗鬼になって闇雲に何もかも排除しようとするというのが、実は「心の鬼」だというところで落ちをつければいいのか。
節分の句は芭蕉の時代の俳諧にはそれほど多くない。年内立春なら節分は普通に冬でいいが、年が明けてから節分が来ることもあるからややこしいというのもあったのだろう。乙孝撰の『一幅半』に二句見つけた。
大豆(まめ)まきや暗き所は大づかみ 枝鳩
節分や亦来年の種を蒔(まく) 任他
「凡(およそ)節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆(いりまめ)を殿中に撒(まか)せられて疫鬼(えきき)を逐(お)ふ。春にあるも亦然り。今夜、大豆を撒(まく)を拍(はやす)といふ。同夜、家々の門戸に鰯の頭首(かしら)、并に狗骨(ひひらぎ)の条(えだ)を挿む。伝へいふ、この二物、疫鬼の畏るる所なり。一家の内に事を執る者を年男といふ。声高に鬼は外福は内と呼て、疫を禳(はら)ひ福をもとむ。」
鰯の頭や柊の枝は廃れてしまったが、豆まきは今も健在だ。それと最近になって俄に登場し、ほとんど主役クラスになっているのが恵方巻だ。恵方巻は関西の海苔業者が考案し、セブンイレブンが全国に広めたと言われている。別に古い言われはない。
昔の祭は「まつりごと」で、共同体の起源や過去の事件、掟などを思い起こさせるためにあったのだろう。それと同時に共同体にわだかまる不満や様々な願望を表出させていたのかもしれない。
今の祭は共同体から切り離されて、何か刺激のあることを様々な多種多様な人間の間で共通の体験とすることの方に意味があるのかもしれない。それはクリスマスやハローウィンやバレンタインだけでなく、スポーツイベントや何とかフェスといわれるものも含まれる。
恵方巻も基本的には理由は後付で、とにかく家族や仲間と一緒に普段やらないようなことをすることで盛り上がるということが重要なのだろう。
豆まきで「鬼は外」と言わずに「鬼は内」と言う所もあるようだし、「福は内」だけしか言わない所もあるという。ただ、「鬼」がもともと疫鬼(えきき)のことで、今で言えば病原体のことだとすれば、やはり殺菌や滅菌をするように外へやりたいものだ。
まあ、あまり清潔すぎると今度は免疫がなくなるなんて問題もあるし、誤った知識で病気を追い払おうとすると、動物を扱う人たちへの偏見になったり、被爆者や原発避難者までも追い払ったり、困った問題も起こる。
テロリストは外、と言いたいのも確かにわかる。ただ、誰がテロリストで誰がそうでないか見た目でわからなければ、本当は役に立ついい人なのに追い出されたり、良い人だと思って入れた人が実はテロリストだったりする。
まあ、そうやって疑心暗鬼になって闇雲に何もかも排除しようとするというのが、実は「心の鬼」だというところで落ちをつければいいのか。
節分の句は芭蕉の時代の俳諧にはそれほど多くない。年内立春なら節分は普通に冬でいいが、年が明けてから節分が来ることもあるからややこしいというのもあったのだろう。乙孝撰の『一幅半』に二句見つけた。
大豆(まめ)まきや暗き所は大づかみ 枝鳩
節分や亦来年の種を蒔(まく) 任他
2017年2月2日木曜日
さて、「梅若菜」の巻は初裏に入る。
七句目
二階の客はたたれたるあき
放やるうづらの跡は見えもせず 素男
(放やるうづらの跡は見えもせず二階の客はたたれたるあき)
これはおそらく『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)に「速に座を立たるをうづら立といふ」とあるように、二階の客を鶉に例えたものだろう。「うづらだち」という言葉は古語辞典にも載っている。急に帰る無作法をいう。こういう比喩の句だと、次の句は本当に鶉を放った情景として展開できる。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)に「客の逗留中など飼置たるを放ちやる也。一句放生会なり。」とある。確かに話としては通じるが、果たしてそのようなことは当時よくあることだったのかどうかが問題だ。多くの人が共感するような「もっとも、しかり」、今でいえば「あるある」と言えるようなことだったのなら、この解釈で良いのだろう。
季題は「鶉」で秋。鳥類。前句の「秋」もいわゆる「放り込み」で必然性のない季題だったように、ここの「鶉」も比喩ではあるが式目の都合上秋ということでいいのだと思う。
八句目
放やるうづらの跡は見えもせず
稲の葉延(はのび)の力なきかぜ 珍碩
(放やるうづらの跡は見えもせず稲の葉延の力なきかぜ)
飛び去っていった鶉の跡に残っているのは、ただ稲の伸びた葉に力なく風が吹いているだけ。
ここはお約束どおり、前句の鶉を実景として展開する。「力なきかぜ」は「秋風」が輪廻になるので、こういう言い回しになったのだろう。
『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)に「鶉飛行て見えず。其跡には、田面の稲葉のびの風にそよぎ侍るのみとなむ。」とあり、これで十分だろう。
季題は「稲」で秋。植物、草類。
九句目
稲の葉延の力なきかぜ
ほつしんの初(はじめ)にこゆる鈴鹿山 芭蕉
(ほつしんの初にこゆる鈴鹿山稲の葉延の力なきかぜ)
これは西行法師の面影。「力なき風」に無常の思いを読み取り、発心を付けている。
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて
いかになりゆくわが身なるらむ
西行法師
の歌は良く知られている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろがみにひかるる風情、力なきの語に出づ。刈萱西行などいふ面影ともみるべし。」とある。刈萱上人も妻子を捨てて出家するが、行き先は高野山だから鈴鹿山は越えていない。
無季。「発心」は釈教。打越の「放やるうづら」を放生会のこととすると輪廻になる。放生会とは無関係と見た方がいい。「鈴鹿山」は山類。名所。
十句目
ほつしんの初にこゆる鈴鹿山
内藏頭(くらのかみ)かと呼聲はたれ 乙州
(ほつしんの初にこゆる鈴鹿山内藏頭かと呼聲はたれ)
せっかく浮世を振り捨てたというのに、いきなり後ろから「内藏頭殿ではないか、またどうなされたのだ。」なんて俗世にいたときの名前で呼ばれてしまう。ありそうなことだ。「別人だ、人違いであろう」などと言っても「内藏頭殿であろう、間違いない」なんて言われたりして。
内藏頭で出家した人というのを史書で捜せば誰かしら出てくるかもしれないが、別に特定の誰かの故事を本説にしたわけではない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「懇友などの追来るならん。ふり向たる姿、眼下にあるがごとし。但京家の人とも見て此名を出せるや。」とある。
無季。「内藏頭」「誰」は人倫。
十一句目
内藏頭かと呼聲はたれ
卯の刻の箕手(みのて)に並ぶ小西方 珍碵
(卯の刻の簔手に並ぶ小西方内藏頭かと呼聲はたれ)
小西方は関が原の戦いで西軍(豊臣方)に付いた小西行長のことと思われる。実際には西軍は敵に対して左右に長く広げた鶴翼の陣を敷いたと言われている。箕手も27宿の一つ箕宿の星の形による陣形で、左右に長く広げて敵を取り囲むような陣形を言う。
卯の刻は夜明けの時刻で、関が原の戦いは夜明けとともに始まったとされている。
内藏頭は元は官職の名だったが、内蔵助などと同様、後に普通に人名として使われるようになった。『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には小西行長の家臣に小堀内藏頭がいたというが、グーグルで検索したけどこの名前は見つからなかった。特定の誰かを指すのではなく、ただありそうな名前というだけのことだろう。
無季。ちなみに関が原の戦いは旧暦九月十五日で秋。
十二句目
卯の刻の簔手に並ぶ小西方
すみきる松のしづかなりけり 素男
(卯の刻の簔手に並ぶ小西方すみきる松のしづかなりけり)
これは遣り句と見ていいだろう。合戦の場面に朝の景色を付けている。強いて言えば、合戦で多くの人が命を散らせてゆくのに対し、松の木は長年にわたって静かにそれを見守っているという対比が読み取れる。
無季。「松」は植物、木類。「稲」から三句隔てている。
七句目
二階の客はたたれたるあき
放やるうづらの跡は見えもせず 素男
(放やるうづらの跡は見えもせず二階の客はたたれたるあき)
これはおそらく『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)に「速に座を立たるをうづら立といふ」とあるように、二階の客を鶉に例えたものだろう。「うづらだち」という言葉は古語辞典にも載っている。急に帰る無作法をいう。こういう比喩の句だと、次の句は本当に鶉を放った情景として展開できる。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)に「客の逗留中など飼置たるを放ちやる也。一句放生会なり。」とある。確かに話としては通じるが、果たしてそのようなことは当時よくあることだったのかどうかが問題だ。多くの人が共感するような「もっとも、しかり」、今でいえば「あるある」と言えるようなことだったのなら、この解釈で良いのだろう。
季題は「鶉」で秋。鳥類。前句の「秋」もいわゆる「放り込み」で必然性のない季題だったように、ここの「鶉」も比喩ではあるが式目の都合上秋ということでいいのだと思う。
八句目
放やるうづらの跡は見えもせず
稲の葉延(はのび)の力なきかぜ 珍碩
(放やるうづらの跡は見えもせず稲の葉延の力なきかぜ)
飛び去っていった鶉の跡に残っているのは、ただ稲の伸びた葉に力なく風が吹いているだけ。
ここはお約束どおり、前句の鶉を実景として展開する。「力なきかぜ」は「秋風」が輪廻になるので、こういう言い回しになったのだろう。
『猿蓑付合考』(柳津魚潜著、寛政五年一月以降成)に「鶉飛行て見えず。其跡には、田面の稲葉のびの風にそよぎ侍るのみとなむ。」とあり、これで十分だろう。
季題は「稲」で秋。植物、草類。
九句目
稲の葉延の力なきかぜ
ほつしんの初(はじめ)にこゆる鈴鹿山 芭蕉
(ほつしんの初にこゆる鈴鹿山稲の葉延の力なきかぜ)
これは西行法師の面影。「力なき風」に無常の思いを読み取り、発心を付けている。
鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて
いかになりゆくわが身なるらむ
西行法師
の歌は良く知られている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「うしろがみにひかるる風情、力なきの語に出づ。刈萱西行などいふ面影ともみるべし。」とある。刈萱上人も妻子を捨てて出家するが、行き先は高野山だから鈴鹿山は越えていない。
無季。「発心」は釈教。打越の「放やるうづら」を放生会のこととすると輪廻になる。放生会とは無関係と見た方がいい。「鈴鹿山」は山類。名所。
十句目
ほつしんの初にこゆる鈴鹿山
内藏頭(くらのかみ)かと呼聲はたれ 乙州
(ほつしんの初にこゆる鈴鹿山内藏頭かと呼聲はたれ)
せっかく浮世を振り捨てたというのに、いきなり後ろから「内藏頭殿ではないか、またどうなされたのだ。」なんて俗世にいたときの名前で呼ばれてしまう。ありそうなことだ。「別人だ、人違いであろう」などと言っても「内藏頭殿であろう、間違いない」なんて言われたりして。
内藏頭で出家した人というのを史書で捜せば誰かしら出てくるかもしれないが、別に特定の誰かの故事を本説にしたわけではない。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「懇友などの追来るならん。ふり向たる姿、眼下にあるがごとし。但京家の人とも見て此名を出せるや。」とある。
無季。「内藏頭」「誰」は人倫。
十一句目
内藏頭かと呼聲はたれ
卯の刻の箕手(みのて)に並ぶ小西方 珍碵
(卯の刻の簔手に並ぶ小西方内藏頭かと呼聲はたれ)
小西方は関が原の戦いで西軍(豊臣方)に付いた小西行長のことと思われる。実際には西軍は敵に対して左右に長く広げた鶴翼の陣を敷いたと言われている。箕手も27宿の一つ箕宿の星の形による陣形で、左右に長く広げて敵を取り囲むような陣形を言う。
卯の刻は夜明けの時刻で、関が原の戦いは夜明けとともに始まったとされている。
内藏頭は元は官職の名だったが、内蔵助などと同様、後に普通に人名として使われるようになった。『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年刊)には小西行長の家臣に小堀内藏頭がいたというが、グーグルで検索したけどこの名前は見つからなかった。特定の誰かを指すのではなく、ただありそうな名前というだけのことだろう。
無季。ちなみに関が原の戦いは旧暦九月十五日で秋。
十二句目
卯の刻の簔手に並ぶ小西方
すみきる松のしづかなりけり 素男
(卯の刻の簔手に並ぶ小西方すみきる松のしづかなりけり)
これは遣り句と見ていいだろう。合戦の場面に朝の景色を付けている。強いて言えば、合戦で多くの人が命を散らせてゆくのに対し、松の木は長年にわたって静かにそれを見守っているという対比が読み取れる。
無季。「松」は植物、木類。「稲」から三句隔てている。
2017年2月1日水曜日
パーマ大佐さんと馬場祥弘さんは和解したようで何より。相変わらず「替え歌」と報道されているが、オリジナルの詞とメロディーを付け加えているだけで「歌詞の改変」はない。
取り成しは日本の伝統というところで、「梅若菜」の巻の続き。
四句目
雲雀なく小田に土持比なれや
しとぎ祝ふて下されにけり 素男
(雲雀なく小田に土持比なれやしとぎ祝ふて下されにけり)
しとぎは古代より神に捧げる餅とされ、本来は水に浸してふやかした生米を搗いて砕いて水で固めたもので、後に米粉を水で固めて団子状にし、豆や雑穀などを混ぜたものも作られるようになった。
お祝い事などの時に一度神様にお供えして、後で神前から下げてみんなで食べた。この句ははっきり言ってそのまんまだ。古註もほとんどは「しとぎ」の説明に終始している。まあ、春だから色々祝い事はあるだろうし、その時にしとぎが配られることもある。四句目だから軽い遣り句と見ていい。
無季。
五句目
しとぎ祝ふて下されにけり
片隅に虫齒かかへて暮の月 乙州
(片隅に虫齒かかへて暮の月しとぎ祝ふて下されにけり)
正月の鏡餅は元は歯固めの儀式だったという。神の供えた後の鏡餅を鏡開きの時に食うのは、歯を丈夫にすることで長寿を祈る儀式だった。それを面影にすると、この句はまた別の味わいがある。
しとぎは柔らかいから歯固めにはならないが、それすら虫歯が痛くて噛めないとなると、なんとも情けない。周りはお祝いで盛り上がっているのに、一人片隅で歯の痛みに堪えながら夕暮れの月を見る。
ここは月の定座だが、お祝いに素直に月の美しさをつけても当たり前すぎるので、せっかくのお祝いに月が出ているのに、とちょっとひねってみたのだろう。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「祝ふてといへる其便を咎めて、歯などいためたる人の黄昏にうづくまり居る体。」とある。
季題は「暮の月」で秋。夜分、天象。
六句目
片隅に虫齒かかへて暮の月
二階の客はたたれたるあき 芭蕉
(片隅に虫齒かかへて暮の月二階の客はたたれたるあき)
虫歯の痛みを抱えて一人たそがれているのに加えて、二階にいたはるばる遠方より来たお客さんまで帰ってしまうとますますたそがれてしまう。「たそがれる」という言い回しはごく最近のものだが、何かそれがぴったり来る。「たそがれる」という言葉は当時はなかったにせよそういう雰囲気で付けている、響き付けの一種といえよう。
虫歯と客の関係が特に指定されていないから、そこにはいろいろ想像が入り込む余地があり、古註は意見が割れている。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)は「客戻れば、片隅へ入て虫歯やしなふと付たり。」とある。お客さんと楽しく談笑している時は忘れていた虫歯の痛みが、お客さんが帰ってしまうと思い出したように痛み出すという意味だろうか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「前句の姿のみすぼらしげに、くよくよものを思へるふぜいあれば、内証づとめする舟問屋の女などみゆ。」とする。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「立かはり入かはり客のおほき宿に、昼より客の事にうちかかりていそがしさに、持病の虫歯をいたみて片隅にかがみゐたるに、いつの間にかは二階の客は皆たちて跡しめやかなりとの句也。」とある。
『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)には「二階の客はもとより旅の人なれば、やがて別るる事ははじめより合点の事なれども、別れのかなしさ、去れとて人にかたるべきたよりもなく、むし歯といつはりかなしみたるなり。」とある。
まあ、この辺は自由に想像してねという所か。
季題は「秋」で秋。「客」は人倫。
取り成しは日本の伝統というところで、「梅若菜」の巻の続き。
四句目
雲雀なく小田に土持比なれや
しとぎ祝ふて下されにけり 素男
(雲雀なく小田に土持比なれやしとぎ祝ふて下されにけり)
しとぎは古代より神に捧げる餅とされ、本来は水に浸してふやかした生米を搗いて砕いて水で固めたもので、後に米粉を水で固めて団子状にし、豆や雑穀などを混ぜたものも作られるようになった。
お祝い事などの時に一度神様にお供えして、後で神前から下げてみんなで食べた。この句ははっきり言ってそのまんまだ。古註もほとんどは「しとぎ」の説明に終始している。まあ、春だから色々祝い事はあるだろうし、その時にしとぎが配られることもある。四句目だから軽い遣り句と見ていい。
無季。
五句目
しとぎ祝ふて下されにけり
片隅に虫齒かかへて暮の月 乙州
(片隅に虫齒かかへて暮の月しとぎ祝ふて下されにけり)
正月の鏡餅は元は歯固めの儀式だったという。神の供えた後の鏡餅を鏡開きの時に食うのは、歯を丈夫にすることで長寿を祈る儀式だった。それを面影にすると、この句はまた別の味わいがある。
しとぎは柔らかいから歯固めにはならないが、それすら虫歯が痛くて噛めないとなると、なんとも情けない。周りはお祝いで盛り上がっているのに、一人片隅で歯の痛みに堪えながら夕暮れの月を見る。
ここは月の定座だが、お祝いに素直に月の美しさをつけても当たり前すぎるので、せっかくのお祝いに月が出ているのに、とちょっとひねってみたのだろう。
『猿簔箋註』(風律著か、明和・安永頃成)には「祝ふてといへる其便を咎めて、歯などいためたる人の黄昏にうづくまり居る体。」とある。
季題は「暮の月」で秋。夜分、天象。
六句目
片隅に虫齒かかへて暮の月
二階の客はたたれたるあき 芭蕉
(片隅に虫齒かかへて暮の月二階の客はたたれたるあき)
虫歯の痛みを抱えて一人たそがれているのに加えて、二階にいたはるばる遠方より来たお客さんまで帰ってしまうとますますたそがれてしまう。「たそがれる」という言い回しはごく最近のものだが、何かそれがぴったり来る。「たそがれる」という言葉は当時はなかったにせよそういう雰囲気で付けている、響き付けの一種といえよう。
虫歯と客の関係が特に指定されていないから、そこにはいろいろ想像が入り込む余地があり、古註は意見が割れている。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)は「客戻れば、片隅へ入て虫歯やしなふと付たり。」とある。お客さんと楽しく談笑している時は忘れていた虫歯の痛みが、お客さんが帰ってしまうと思い出したように痛み出すという意味だろうか。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)は「前句の姿のみすぼらしげに、くよくよものを思へるふぜいあれば、内証づとめする舟問屋の女などみゆ。」とする。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には「立かはり入かはり客のおほき宿に、昼より客の事にうちかかりていそがしさに、持病の虫歯をいたみて片隅にかがみゐたるに、いつの間にかは二階の客は皆たちて跡しめやかなりとの句也。」とある。
『猿蓑四歌仙解』(鈴木荊山著、文政五年序)には「二階の客はもとより旅の人なれば、やがて別るる事ははじめより合点の事なれども、別れのかなしさ、去れとて人にかたるべきたよりもなく、むし歯といつはりかなしみたるなり。」とある。
まあ、この辺は自由に想像してねという所か。
季題は「秋」で秋。「客」は人倫。
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