さて、「むめがかに」の巻は二表に入る。
十九句目
門で押るる壬生の念仏
東風々(こちかぜ)に糞(こへ)のいきれを吹まはし 芭蕉
(東風々に糞のいきれを吹まはし門で押るる壬生の念仏)
ここでまた壬生念仏の様子を付けると輪廻になって展開しないので、背景を付けて流したと言っていいだろう。
「門で押るる壬生の念仏」の句は、一句が独立しすぎて、他の意味に取り成すことが難かしく、展開しにくい。時期も舞台も登場人物も限定されていて、発展性がない。こういうときには、芭蕉といえども逃げ句になるのはやむをえない。
ここでふたたび壬生念仏を見る群集の景色に戻ってしまっては、輪廻になる。壬生寺が畑の中にあるところから、まわりの畑の景色に転じるというのが、一つの付け筋となる。打越に「町衆」という人倫の言葉があるから、人物を登場させることはできない。ただ、春風に畠の肥臭い匂いを付けるだけにとどめる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「壬生寺ハ畠中なり。○此附二句がらミに似たれど、全く前句の用といハん。」とある。
二句がらみというのは壬生念仏のつらりと酔うた町衆の情景に声の匂いを加えて三句連続のイメージではないかというものだが、そうではなく壬生念仏の群衆の押し寄せる様を体として、それに付随するものとして肥えの匂いを付けただけで、打越の酔った聴衆とは離れているというものだという。三句にまたがっていけないのは本来連歌俳諧の基本なのだが、江戸後期ともなるとかなりそれが忘れられている。だから、これを「二句がらみ」という人も結構いたのだろう。
前句の用というのは、たとえば川に橋を付けるようなもので、一つの趣向をこらした情景に対し、それに従属するような言葉を添えることを言う。壬生念仏に酔った町衆は体に体を付けているが、壬生念仏に春風は体に用を付けるということになる。
『去来抄』「先師評」に糞尿の句は嫌う必要はないが、「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」と、むやみに多用することを戒めている。ここでは、ただ春風だけでは発展性がないので、一つの趣向を立て、句の俳味を出すためにも、意味のある「糞(こえ)」の使い方だと言ってもいいだろう。
季題は「東風々(こちかぜ)」で春。
二十句目
東風々に糞のいきれを吹まはし
ただ居るままに肱(かひな)わづらふ 野坡
(東風々に糞のいきれを吹まはしただ居るままに肱わづらふ)
春風が肥えの匂いを吹きまわす頃はまだ農閑期で、農家の人はやることのないまま体がなまって肘などを痛めたりする。これはわかりやすい展開だ。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「田家の正月などミゆ。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「糞のいきれといふより転じ来て、百姓の此時節農隙(のうげき)ありて、ぶらぶら遊び居る体と思ひよせたり。日に日にはたらき馴れし身をあまり隙に居る故に、却て肱などいたしといふさま折々見聞処也なり。」とある。
「折々見聞処」つまりあるあるネタ。
無季。
二十一句目
ただ居るままに肱わづらふ
江戸の左右(さう)むかひの亭主登られて 芭蕉
(江戸の左右むかひの亭主登られてただ居るままに肱わづらふ)
「左右(さう)」というのは古語辞典によれば「かたわら」「あれこれ」「結果」といった意味があり、なかなか多義な言葉だったようだ。単にみぎひだりを言うのではなさそうだ。
この句は「向いの亭主登られて江戸の左右(聞く)」の倒置で、左右はあれこれという意味になる。「ただ居るままに肱わづらふに、むかひの亭主登られて江戸の左右を聞く」というのが二句通した意味。
『月居註炭俵集』(著者不明、年次不明、文政七年江森月居没す)に「前句の人、立病ミのぶらぶらして、向ひの亭主に江戸の左右抔(など)を聞也。」とある。
前句は農閑期の百姓のことだったが、ここでは京に住む店の奉公人に取り成されている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「店奉公の楽過たる趣をおかしくいへる按排に、前句を換骨し給へり。妙々。」とある。
無季。「亭主」は人倫。十八句目の「町衆」から三句隔てている。
2016年12月20日火曜日
2016年12月19日月曜日
『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)をめくっていたら、「無名宛(元禄七年春筆か)」に「木兔(みみづく)の角あるけしき先(まづ)感心仕候」というのがあった。芭蕉が褒めた句だからどんな句だったのか興味あるが、句は残ってないようだ。
「むめがかに」の巻の続き。
十六句目
はつ雁に乗懸下地敷て見る
露を相手に居合ひとぬき 芭蕉
(はつ雁に乗懸下地敷て見る露を相手に居合ひとぬき)
ここでは、前句の「見る」は試みるの意味になり、居合い抜きを試みるとつながる。山賊に備えてのことか。『奥の細道』の山刀伐(なたぎり)峠の所には「道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ふて人を頼み待れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携たづさへて、我々が先に立ちて行く。」とあるが、そのときのイメージかもしれない。「はつ雁に乗懸下地敷て露を相手に居合ひとぬきを見る」の倒置。
「露払い」という言葉もあるが、むやみに草や竹などの生き物を切るのではなく、そこに結ぶ露だけを切るというところに、命の尊とさを知る風流の心がある。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)にも「心がけのある武士と見て附たり。」とある。
『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年四月跋)には「風雅弁に、玉散るの詞を俗語の姿に強て仕立たる句也といふ。」とある。「抜けば玉散る氷の刃」は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の村雨という刀を形容した言葉で、これに類する言葉が芭蕉の時代にあったかどうかはよくわからない。
なお、『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には「此句此集出板の頃、翁旅立事序に見ゆ。其時島田の駅より杉風方への書簡に、予が居合い一抜の句、露を相手にと御直し可給候。くれぐれ野坡へ御伝頼入候とあり。」とある。一応『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)を調べてみたが、それらしきものはなく、「杉風宛(元禄七年閏五月二十一日─推定─付)の中に、「嶋田より一通、書状頼置候。相届候哉。」とあるから、それのことか。「曾良宛(元禄七年五月十六日付)」には「十五日嶋田へ雨に降られながら着申候。」とあり、この書簡については「曾良宛(元禄七年閏五月二十一日付)」に「嶋田より一通頼遣し候。相届申候哉。」とある。このことからすると、五月十六日頃に曾良宛と同様、杉風宛の手紙を書いていたと思われる。ただ、引用された文があったかどうかは今のところ定かではない。
季題は「露」で秋。降物。次は花の定座で、露のような、秋の季題でありながら春にもあるものを出すことで、季移りを容易にしている。
十七句目
露を相手に居合ひとぬき
町衆のつらりと酔て花の陰 野坡
(町衆のつらりと酔て花の陰露を相手に居合ひとぬき)
花見はもっぱら町人のものだったが、お忍びでやってくる武士も多く、中には刀を持ったまま堂々と来る者もいたようで、
何事ぞ花みる人の長刀 去来
の句もある。
大勢の酔っ払った町人の前で、これも酔った勢いで居合い抜きなど披露して、決まれば拍手喝采だが刀は無残にも空を切ってという落ちではないかと思う。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「歯ミがき売りの芸と転じて、見る方のさまをいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)なども大体同じことが書いてある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「花の頃賑合場所へ出て、居合を抜き人よせをして歯磨楊枝等を売ニ」とある。江戸後期や幕末の人には居合い抜きを見せながら歯磨きを売る姿はお馴染みのものだったかもしれない。ただ、芭蕉の時代にあったかどうかは不明。
「つらり」は今の「ずらり」で、あちこちに人ひとが分散している状態ではなく、ひとところに勢ぞろいして、というニュアンスで、見物人の人垣を連想させる。
季題は「花」で春。植物。「町衆」は人倫。
十八句目
町衆のつらりと酔て花の陰
門で押るる壬生の念仏 芭蕉
(町衆のつらりと酔て花の陰門で押るる壬生の念仏)
「壬生(みぶ)念仏」は壬生大念仏狂言のことで、壬生狂言とも呼ばれる。円覚上人が正安二(一三○○)年に壬生寺で大念佛会を行ったとき、集まった群衆にわかりやすく、無言劇を行なったのが起こりとされている。専門の役者ではなく地元の百姓が演じるもので、江戸時代にはその名が広く知れ渡り、境内の桟敷は京都・大阪から繰り出してきた金持ちに占領され、地元の町衆は門のところで押しあいへしあいしながら見物してたという。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「在所のものゝ桟敷をうらやむ以為を含め給へれど、人倫の異乱なき句作のちらしを見るべし。但、此会式を猿の狂言ともいふ。里人の鉦うちて、おかしき物真似をするなり。」とある。押し合いへし合いしながらも、さしたる混乱もなく行儀良く芝居をみている様子は、まさに「人倫の異乱なき」でこの国の誇りであろう。
「酔て」もここでは酒ではなく芝居に酔いしれていると見た方がいいだろう。
季題は「壬生の念仏」は春。釈教。「門」はこの場合、お寺の門なので、居所にはならない。
「むめがかに」の巻の続き。
十六句目
はつ雁に乗懸下地敷て見る
露を相手に居合ひとぬき 芭蕉
(はつ雁に乗懸下地敷て見る露を相手に居合ひとぬき)
ここでは、前句の「見る」は試みるの意味になり、居合い抜きを試みるとつながる。山賊に備えてのことか。『奥の細道』の山刀伐(なたぎり)峠の所には「道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ふて人を頼み待れば、究竟(くっきゃう)の若者反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携たづさへて、我々が先に立ちて行く。」とあるが、そのときのイメージかもしれない。「はつ雁に乗懸下地敷て露を相手に居合ひとぬきを見る」の倒置。
「露払い」という言葉もあるが、むやみに草や竹などの生き物を切るのではなく、そこに結ぶ露だけを切るというところに、命の尊とさを知る風流の心がある。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)にも「心がけのある武士と見て附たり。」とある。
『俳諧七部通旨』(蓮池主人著、嘉永五年四月跋)には「風雅弁に、玉散るの詞を俗語の姿に強て仕立たる句也といふ。」とある。「抜けば玉散る氷の刃」は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の村雨という刀を形容した言葉で、これに類する言葉が芭蕉の時代にあったかどうかはよくわからない。
なお、『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には「此句此集出板の頃、翁旅立事序に見ゆ。其時島田の駅より杉風方への書簡に、予が居合い一抜の句、露を相手にと御直し可給候。くれぐれ野坡へ御伝頼入候とあり。」とある。一応『芭蕉書簡集』(萩原恭男校注、一九七六、岩波文庫)を調べてみたが、それらしきものはなく、「杉風宛(元禄七年閏五月二十一日─推定─付)の中に、「嶋田より一通、書状頼置候。相届候哉。」とあるから、それのことか。「曾良宛(元禄七年五月十六日付)」には「十五日嶋田へ雨に降られながら着申候。」とあり、この書簡については「曾良宛(元禄七年閏五月二十一日付)」に「嶋田より一通頼遣し候。相届申候哉。」とある。このことからすると、五月十六日頃に曾良宛と同様、杉風宛の手紙を書いていたと思われる。ただ、引用された文があったかどうかは今のところ定かではない。
季題は「露」で秋。降物。次は花の定座で、露のような、秋の季題でありながら春にもあるものを出すことで、季移りを容易にしている。
十七句目
露を相手に居合ひとぬき
町衆のつらりと酔て花の陰 野坡
(町衆のつらりと酔て花の陰露を相手に居合ひとぬき)
花見はもっぱら町人のものだったが、お忍びでやってくる武士も多く、中には刀を持ったまま堂々と来る者もいたようで、
何事ぞ花みる人の長刀 去来
の句もある。
大勢の酔っ払った町人の前で、これも酔った勢いで居合い抜きなど披露して、決まれば拍手喝采だが刀は無残にも空を切ってという落ちではないかと思う。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「歯ミがき売りの芸と転じて、見る方のさまをいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)なども大体同じことが書いてある。『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)にも「花の頃賑合場所へ出て、居合を抜き人よせをして歯磨楊枝等を売ニ」とある。江戸後期や幕末の人には居合い抜きを見せながら歯磨きを売る姿はお馴染みのものだったかもしれない。ただ、芭蕉の時代にあったかどうかは不明。
「つらり」は今の「ずらり」で、あちこちに人ひとが分散している状態ではなく、ひとところに勢ぞろいして、というニュアンスで、見物人の人垣を連想させる。
季題は「花」で春。植物。「町衆」は人倫。
十八句目
町衆のつらりと酔て花の陰
門で押るる壬生の念仏 芭蕉
(町衆のつらりと酔て花の陰門で押るる壬生の念仏)
「壬生(みぶ)念仏」は壬生大念仏狂言のことで、壬生狂言とも呼ばれる。円覚上人が正安二(一三○○)年に壬生寺で大念佛会を行ったとき、集まった群衆にわかりやすく、無言劇を行なったのが起こりとされている。専門の役者ではなく地元の百姓が演じるもので、江戸時代にはその名が広く知れ渡り、境内の桟敷は京都・大阪から繰り出してきた金持ちに占領され、地元の町衆は門のところで押しあいへしあいしながら見物してたという。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「在所のものゝ桟敷をうらやむ以為を含め給へれど、人倫の異乱なき句作のちらしを見るべし。但、此会式を猿の狂言ともいふ。里人の鉦うちて、おかしき物真似をするなり。」とある。押し合いへし合いしながらも、さしたる混乱もなく行儀良く芝居をみている様子は、まさに「人倫の異乱なき」でこの国の誇りであろう。
「酔て」もここでは酒ではなく芝居に酔いしれていると見た方がいいだろう。
季題は「壬生の念仏」は春。釈教。「門」はこの場合、お寺の門なので、居所にはならない。
2016年12月17日土曜日
「むめがかに」の巻も「ゑびす講」の巻も『炭俵』だが、その『炭俵』に冬の猫の発句もある。
初霜や猫の毛も立(たつ)台所 楚舟
昔の台所は北側の寒い所にあることが多かった。初霜が降りる様な寒い朝、猫が台所で毛を膨らませている様を詠んだものだろう。
凩(こがらし)や盻(またたき)しげき猫の面(つら) 八桑
猫は普通あまり瞬きをしない。ゆっくり瞬きするのは愛情表現だという。もし盛んに瞬きするようなら目の病気を疑った方がいい。
さて、「むめがかに」の巻の続き。
十三句目
ひたといひ出すお袋の事
終宵(よもすがら)尼の持病を押へける 野坡
(終宵尼の持病を押へけるひたといひ出すお袋の事)
前句のお袋を存命の人として、尼の持病の看病を、お袋もそうだったからと一心に行うさまを付けている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「旅などに寝て慕ふさまならん。哀ふかし。但し、存命の人にかえたり。」とあり、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「よもすがら 看病ヲシナガラ、我母ノ持病ノコトヲ云出ス也。」とある。
持病というと代表的なのか「癪」で、ウィキペディアによれば「近代以前の日本において、原因が分からない疼痛を伴う内臓疾患を一括した俗称。」だという。江戸時代の読者も明治の人も大体持病というと癪のことだと思ったのだろう。『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)に「尼の持病を押える人、五十余の女にてもあらん。お前の母親も癪持で有た、或ハお前の事のミ案じてござつた抔(など)いふなり。」とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「私がお袋も癪持で」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも癪とある。
無季。「終宵」は夜分。「尼」は人倫、釈教。
十四句目
終宵尼の持病を押へける
こんにゃくばかりのこる名月 芭蕉
(終宵尼の持病を押へけるこんにゃくばかりのこる名月)
終宵(よもすがら)という夜分の言葉が出たことと、そろそろ月を出さねばという所で、すかさず月を付ける。夜分三句去りなので、ここで出さないと花の上座の十七句目まで出さないか、夜分にならない明るいうちの月を出すことになる。
名月の宴のさなか尼が癪をもよおし、看病して戻ってきたらコンニャクだけが残っていて、他の御馳走はみんな食べられていたという一種のあるあるネタで、前句の看病の重苦しい雰囲気を笑いで振り払おうというものだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「暁ちかく酒盛を覗きたらん。執中紳に銘ずべし。」とある。『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)も「名月ハ人々酒のミものくひして、夜すがら月をながめあそびしに、ひとり尼の持病を押えゐて、月も見ざりしとの附合ならむや。」とある。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)にも、「其看病人夜フケ空腹ニナレバ、物クハントテ食物ヲ尋ルニ、イササカコンニャクノコリテアル暁方ノサマ也。」とある。こうした解釈でいいと思う。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「尼ヲ老人トミテ、歯ニ合ヌ蒟蒻ヲ附玉へり。」とある。看病してたら御馳走がなくなっていて蒟蒻だけ残っていたというだけでなく、その蒟蒻がまた老いた尼には噛めないと二段落ちになるというのだが、そこまで考えなくてもいいだろう。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には「こんにゃく斗 月見の夜の硯ふたやうのもの也。」とある。「硯ふたやう」というのは目出度い席などで硯の蓋に料理を盛り付けることで、最初は本物の硯の蓋を使っていたが、やがて専用の硯蓋状の容器を用いるようになったようだ。硯蓋には何種類もの料理を彩り良く盛ることが多い。
季題は「名月」で秋。夜分、天象。
十五句目
こんにゃくばかりのこる名月
はつ雁に乗懸下地敷て見る 野坡
(はつ雁に乗懸下地敷て見るこんにゃくばかりのこる名月)
街道の馬を利用する時には、まず馬に荷物を載せ、その上に人が乗るため、そこに薄い座布団のようなものを乗せる。これを乗懸下地(のりかけしたじ)という。前句を宴席から旅体に転じる。
句は倒置で「はつ雁に乗懸下地敷てこんにゃくばかりのこる名月を見る」となる。蒟蒻は昨日旅立ちの別れを惜しんで集まった人たちから振舞われた御馳走の残りであろう。
マガンは冬鳥で名月の頃から日本に渡ってくるため、名月に初雁は付け合いとなる。物付けと言っていい。渡り鳥を出すことも旅の情につながる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「残酒に朝出を祝ふならん。前句と時日を異にしたるの作略あり。」とある。
季題は「初雁」で秋。鳥類。乗懸下地は旅。
初霜や猫の毛も立(たつ)台所 楚舟
昔の台所は北側の寒い所にあることが多かった。初霜が降りる様な寒い朝、猫が台所で毛を膨らませている様を詠んだものだろう。
凩(こがらし)や盻(またたき)しげき猫の面(つら) 八桑
猫は普通あまり瞬きをしない。ゆっくり瞬きするのは愛情表現だという。もし盛んに瞬きするようなら目の病気を疑った方がいい。
さて、「むめがかに」の巻の続き。
十三句目
ひたといひ出すお袋の事
終宵(よもすがら)尼の持病を押へける 野坡
(終宵尼の持病を押へけるひたといひ出すお袋の事)
前句のお袋を存命の人として、尼の持病の看病を、お袋もそうだったからと一心に行うさまを付けている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「旅などに寝て慕ふさまならん。哀ふかし。但し、存命の人にかえたり。」とあり、『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「よもすがら 看病ヲシナガラ、我母ノ持病ノコトヲ云出ス也。」とある。
持病というと代表的なのか「癪」で、ウィキペディアによれば「近代以前の日本において、原因が分からない疼痛を伴う内臓疾患を一括した俗称。」だという。江戸時代の読者も明治の人も大体持病というと癪のことだと思ったのだろう。『月居註炭俵集』(年次不詳、文政七年江森月居没す)に「尼の持病を押える人、五十余の女にてもあらん。お前の母親も癪持で有た、或ハお前の事のミ案じてござつた抔(など)いふなり。」とあり、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)にも「私がお袋も癪持で」とあり、『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)にも癪とある。
無季。「終宵」は夜分。「尼」は人倫、釈教。
十四句目
終宵尼の持病を押へける
こんにゃくばかりのこる名月 芭蕉
(終宵尼の持病を押へけるこんにゃくばかりのこる名月)
終宵(よもすがら)という夜分の言葉が出たことと、そろそろ月を出さねばという所で、すかさず月を付ける。夜分三句去りなので、ここで出さないと花の上座の十七句目まで出さないか、夜分にならない明るいうちの月を出すことになる。
名月の宴のさなか尼が癪をもよおし、看病して戻ってきたらコンニャクだけが残っていて、他の御馳走はみんな食べられていたという一種のあるあるネタで、前句の看病の重苦しい雰囲気を笑いで振り払おうというものだろう。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「暁ちかく酒盛を覗きたらん。執中紳に銘ずべし。」とある。『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)も「名月ハ人々酒のミものくひして、夜すがら月をながめあそびしに、ひとり尼の持病を押えゐて、月も見ざりしとの附合ならむや。」とある。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)にも、「其看病人夜フケ空腹ニナレバ、物クハントテ食物ヲ尋ルニ、イササカコンニャクノコリテアル暁方ノサマ也。」とある。こうした解釈でいいと思う。
『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)には「尼ヲ老人トミテ、歯ニ合ヌ蒟蒻ヲ附玉へり。」とある。看病してたら御馳走がなくなっていて蒟蒻だけ残っていたというだけでなく、その蒟蒻がまた老いた尼には噛めないと二段落ちになるというのだが、そこまで考えなくてもいいだろう。
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)には「こんにゃく斗 月見の夜の硯ふたやうのもの也。」とある。「硯ふたやう」というのは目出度い席などで硯の蓋に料理を盛り付けることで、最初は本物の硯の蓋を使っていたが、やがて専用の硯蓋状の容器を用いるようになったようだ。硯蓋には何種類もの料理を彩り良く盛ることが多い。
季題は「名月」で秋。夜分、天象。
十五句目
こんにゃくばかりのこる名月
はつ雁に乗懸下地敷て見る 野坡
(はつ雁に乗懸下地敷て見るこんにゃくばかりのこる名月)
街道の馬を利用する時には、まず馬に荷物を載せ、その上に人が乗るため、そこに薄い座布団のようなものを乗せる。これを乗懸下地(のりかけしたじ)という。前句を宴席から旅体に転じる。
句は倒置で「はつ雁に乗懸下地敷てこんにゃくばかりのこる名月を見る」となる。蒟蒻は昨日旅立ちの別れを惜しんで集まった人たちから振舞われた御馳走の残りであろう。
マガンは冬鳥で名月の頃から日本に渡ってくるため、名月に初雁は付け合いとなる。物付けと言っていい。渡り鳥を出すことも旅の情につながる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「残酒に朝出を祝ふならん。前句と時日を異にしたるの作略あり。」とある。
季題は「初雁」で秋。鳥類。乗懸下地は旅。
2016年12月15日木曜日
今日も月が出ていたので、冬の月でもう一句。
影法師の踏つふまれつ冬の月 池天
露川・燕説編の『北國曲(ほっこくぶり)』の句で、作者がどういう人なのかはよくわからない。影法師というと、
冬の日や馬上に凍る影法師 芭蕉
の句があるが、池天の句は夜の月の光の淡い影法師で、夜道を歩いている時の情景か。何となく幻想的で近代的な感じがする。露川と燕説も何となく捨て難い気がしてこの句を載せたのだろう。
「むめがかにの巻」の続き。
十句目
奈良がよひおなじつらなる細基手
ことしは雨のふらぬ六月 芭蕉
(奈良がよひおなじつらなる細基手ことしは雨のふらぬ六月)
これは「恋離れ」の一句で、天候などの話題に逃げるのは常套手段といえば常套手段だ。前句の「通ひ」という恋の言葉をあえて殺して、じ奈良へ行き来する馴染の零細商人同士が天気の噂をする情景とする。
『俳諧古集之弁』系の註釈は「さらし買出しの商人」としている。晒し布は奈良の名産品で、商人たちが買出しに集まってきていたようだ。
逃げ句とか遣り句とかは、一巻のメリハリの中では必要なもので、連句も初心の者はいかに良い句を作るかに腐心し、ついつい句が重くなりがちだが、上級者になると、逃げ句を楽しむ余裕も出てくる。適切な場所でうまい逃げ句が詠めるというのは、むしろ技術のいることであり、一巻全体の流れを支配することでもある。
季題は「六月」で夏。「雨」は降物。
十一句目
ことしは雨のふらぬ六月
預けたるみそとりにやる向河岸(むかうがし) 野坡
(預けたるみそとりにやる向河岸ことしは雨のふらぬ六月)
旧暦六月は今のほぼ七月に相当し、前半はまだ梅雨が続くが、後半には梅雨が明け、かんかん照りの日が続く。あまり早く梅雨が明けると、日照りによる旱魃の恐れが生じるため、水無月には雨乞を行う。
そんな農家の心配を他所に、商人にとっては川の増水の心配もなく船を走らせて、商売にいそしむ。味噌がよく売れれば、奉公人が川の反対にある河岸(かし、市場)に預けた味噌を取りに行ったりもする。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「水涸(みづがれ)の自由をいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「水涸になりたるゆへ、運ぶ自在をいへり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「水涸ニナリタル故ニ、自在ナル体ヲ言リ。」とある。
無季。「河岸」は水辺。
十二句目
預けたるみそとりにやる向河岸
ひたといひ出すお袋の事 芭蕉
(預けたるみそとりにやる向河岸ひたといひ出すお袋の事)
「ひた」は「ひとつ」から来た言葉で「ひとすじ」ということ。今でも「ひたすら」という言葉に名残をとどめている。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「ひたといひ出す ヒタハ一向也。一筋ニ也。孝心ノスガタ也。」とある。
お袋のことを一途に思って味噌を取りにいくところを、昔の人は既に亡きお袋の法事のために味噌が必要だと解した。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「ミその用あるを年回と見て、いひ出すとハ作り給ひけん。」とある。「年回」は年回忌のこと。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には、「此句につけて人にききける事あり。此前に御頭へといふ事ありて、又御袋といふ事いかがならむと翁にたづねけるに、翁のいハく、御袋より猶よき事あらバかへよ、もしかへがたくバ此巻の見落しにしておけ、といハれしよし。尊むべし、あふぐべし。翁の俳諧をさバける河海の細流を択(えら)バずといハむか、さし合(あひ)くりといハれむより上手といハれよといふも、俳諧の金言也。此事をしらざるものハ、たださし合のミにかかりて、俳諧の去嫌(さりきらひ)にあらざる事をしらず。翁のこのことバを紳(しむ)に記すべし。」とある。
連歌の式目には、同字五句去という規則があり、これは同じ字でも読み方が違えば問題はないのだが、「御頭(おかしら)」と「御袋(おふくろ)」の「御」の字は読み方も用法も同じで、しかも七句目の、
御頭へ菊もらはるるめいわくさ 野坡
の句から四句しか隔てていない。これは違反になる。
ただ、連句の去り嫌いの規則というのは、基本的には景物の多用を戒ましめるもので、ただ花やら鳥やら不必要に句をきれいな景色で飾ることを嫌うものにすぎない。意味もなく「御袋」を出したのではないのなら、それほど厳密に咎める必要はない。
「さし合のミにかかりて、俳諧の去嫌にあらざる事をしらず。」というのは、規則の判定ばかりに目を奪われ、去り嫌らいの本質を知らないという意味。
これはサッカーの判定のようなものかもしれない。ただ規則に厳密に笛を吹いていれば良いというのではなく、試合の流れをスムーズにするためには小さな違反は笛を吹かずに流すことも必要になる。
なお、江戸後期の俳諧師夏目成美(せいび)の『七部集纂考』(年次不詳)、『標註七部集稿本』(文化十三年以前成立)に、室町時代十五世紀前半の外記局官人を務めた中原康富の日記『康冨記(やすとみき)』の「亨禄四年正月九日今暁、室町殿姫君誕生也。御袋大館兵庫頭妹也云々。」を引用していることから、いくつかの注釈書もこれに習っている。「お袋」という言葉は室町時代からあった古い由緒のある言葉だということか。
『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年十二月刊)もこれを引用して、「愚考、後宮名目云、母を袋になぞらへる事ハ、腹中にその子籠れる時、袋の中にものの在如くに侍れバ、めでたき事にことぶきて申侍る也。山崎闇斎云、俗称人はハ袋と云、蓋胞胎之義を取矣。」と、お袋の語源についての薀蓄を披露している。
最近は関東でも「おかん」という人が増えて、「お袋」という言葉があまり聞かれなくなってきている。
無季。「お袋」は人倫。九句目の「娘」から二句隔てている。
影法師の踏つふまれつ冬の月 池天
露川・燕説編の『北國曲(ほっこくぶり)』の句で、作者がどういう人なのかはよくわからない。影法師というと、
冬の日や馬上に凍る影法師 芭蕉
の句があるが、池天の句は夜の月の光の淡い影法師で、夜道を歩いている時の情景か。何となく幻想的で近代的な感じがする。露川と燕説も何となく捨て難い気がしてこの句を載せたのだろう。
「むめがかにの巻」の続き。
十句目
奈良がよひおなじつらなる細基手
ことしは雨のふらぬ六月 芭蕉
(奈良がよひおなじつらなる細基手ことしは雨のふらぬ六月)
これは「恋離れ」の一句で、天候などの話題に逃げるのは常套手段といえば常套手段だ。前句の「通ひ」という恋の言葉をあえて殺して、じ奈良へ行き来する馴染の零細商人同士が天気の噂をする情景とする。
『俳諧古集之弁』系の註釈は「さらし買出しの商人」としている。晒し布は奈良の名産品で、商人たちが買出しに集まってきていたようだ。
逃げ句とか遣り句とかは、一巻のメリハリの中では必要なもので、連句も初心の者はいかに良い句を作るかに腐心し、ついつい句が重くなりがちだが、上級者になると、逃げ句を楽しむ余裕も出てくる。適切な場所でうまい逃げ句が詠めるというのは、むしろ技術のいることであり、一巻全体の流れを支配することでもある。
季題は「六月」で夏。「雨」は降物。
十一句目
ことしは雨のふらぬ六月
預けたるみそとりにやる向河岸(むかうがし) 野坡
(預けたるみそとりにやる向河岸ことしは雨のふらぬ六月)
旧暦六月は今のほぼ七月に相当し、前半はまだ梅雨が続くが、後半には梅雨が明け、かんかん照りの日が続く。あまり早く梅雨が明けると、日照りによる旱魃の恐れが生じるため、水無月には雨乞を行う。
そんな農家の心配を他所に、商人にとっては川の増水の心配もなく船を走らせて、商売にいそしむ。味噌がよく売れれば、奉公人が川の反対にある河岸(かし、市場)に預けた味噌を取りに行ったりもする。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「水涸(みづがれ)の自由をいへり。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「水涸になりたるゆへ、運ぶ自在をいへり。」とある。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「水涸ニナリタル故ニ、自在ナル体ヲ言リ。」とある。
無季。「河岸」は水辺。
十二句目
預けたるみそとりにやる向河岸
ひたといひ出すお袋の事 芭蕉
(預けたるみそとりにやる向河岸ひたといひ出すお袋の事)
「ひた」は「ひとつ」から来た言葉で「ひとすじ」ということ。今でも「ひたすら」という言葉に名残をとどめている。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「ひたといひ出す ヒタハ一向也。一筋ニ也。孝心ノスガタ也。」とある。
お袋のことを一途に思って味噌を取りにいくところを、昔の人は既に亡きお袋の法事のために味噌が必要だと解した。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「ミその用あるを年回と見て、いひ出すとハ作り給ひけん。」とある。「年回」は年回忌のこと。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)には、「此句につけて人にききける事あり。此前に御頭へといふ事ありて、又御袋といふ事いかがならむと翁にたづねけるに、翁のいハく、御袋より猶よき事あらバかへよ、もしかへがたくバ此巻の見落しにしておけ、といハれしよし。尊むべし、あふぐべし。翁の俳諧をさバける河海の細流を択(えら)バずといハむか、さし合(あひ)くりといハれむより上手といハれよといふも、俳諧の金言也。此事をしらざるものハ、たださし合のミにかかりて、俳諧の去嫌(さりきらひ)にあらざる事をしらず。翁のこのことバを紳(しむ)に記すべし。」とある。
連歌の式目には、同字五句去という規則があり、これは同じ字でも読み方が違えば問題はないのだが、「御頭(おかしら)」と「御袋(おふくろ)」の「御」の字は読み方も用法も同じで、しかも七句目の、
御頭へ菊もらはるるめいわくさ 野坡
の句から四句しか隔てていない。これは違反になる。
ただ、連句の去り嫌いの規則というのは、基本的には景物の多用を戒ましめるもので、ただ花やら鳥やら不必要に句をきれいな景色で飾ることを嫌うものにすぎない。意味もなく「御袋」を出したのではないのなら、それほど厳密に咎める必要はない。
「さし合のミにかかりて、俳諧の去嫌にあらざる事をしらず。」というのは、規則の判定ばかりに目を奪われ、去り嫌らいの本質を知らないという意味。
これはサッカーの判定のようなものかもしれない。ただ規則に厳密に笛を吹いていれば良いというのではなく、試合の流れをスムーズにするためには小さな違反は笛を吹かずに流すことも必要になる。
なお、江戸後期の俳諧師夏目成美(せいび)の『七部集纂考』(年次不詳)、『標註七部集稿本』(文化十三年以前成立)に、室町時代十五世紀前半の外記局官人を務めた中原康富の日記『康冨記(やすとみき)』の「亨禄四年正月九日今暁、室町殿姫君誕生也。御袋大館兵庫頭妹也云々。」を引用していることから、いくつかの注釈書もこれに習っている。「お袋」という言葉は室町時代からあった古い由緒のある言葉だということか。
『七部集大鏡』(月院社何丸著、文政六年十二月刊)もこれを引用して、「愚考、後宮名目云、母を袋になぞらへる事ハ、腹中にその子籠れる時、袋の中にものの在如くに侍れバ、めでたき事にことぶきて申侍る也。山崎闇斎云、俗称人はハ袋と云、蓋胞胎之義を取矣。」と、お袋の語源についての薀蓄を披露している。
最近は関東でも「おかん」という人が増えて、「お袋」という言葉があまり聞かれなくなってきている。
無季。「お袋」は人倫。九句目の「娘」から二句隔てている。
2016年12月14日水曜日
今日は夕方から晴れ間が見えて、月が丸かった。久しぶりに満月を見たような気がする。冬の月、寒月といったところか。凍月というほど寒くはない。
皆落て木末に丸し月の影 孤白
は『卯辰集』の句。枯れ枝に月というのは百年のちの、
冬木立月骨髄に入る夜かな 几董
の句に受け継がれる。「骨髄に入る」というのは体の芯まで冷えるというだけでなく、冬木立の枯れ枝に我が身を投影させてのことではないかと思う。
さて、「むめがかにの巻」の続き。初裏に入る。
七句目
藪越はなすあきのさびしき
御頭(おかしら)へ菊もらはるるめいわくさ 野坡
(御頭へ菊もらはるるめいわくさ藪越はなすあきのさびしき)
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)に「御頭へ 前句の藪越はなすを押て、組屋敷などの附なり。」とある。「組屋敷」はネットで調べると「江戸時代、与力・同心などの組の者にまとめて与えられていた屋敷。」とある。これだとここでいう「御頭」は与力で、同心たちが組屋敷の藪越しに「御頭に丹精込めて育てた菊を取られてしまって、まったく迷惑な話だ」とか話しているということになる。
与力同心は直接罪人に触れる「不浄役人」で被差別民がその職務に当たっていたことを考えると、前句の所にあった『俳諧古集之弁』の「在所」はやはり被差別部落だったか。
いずれにせよ上下関係の厳しい世界で、御頭の言うことは絶対。菊を見て「くれないか」と言われて断れるもんではない。
季題は「菊」で秋。植物で草類。植物が二句続くが、二句までは問題はない。「御頭」は人倫。
八句目
御頭へ菊もらはるるめいわくさ
娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
(御頭へ菊もらはるるめいわくさ娘を堅う人にあはせぬ)
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)の三つは大体内容が似ているので、『俳諧古集之弁』系と言っておこう。『俳諧古集之弁』系は前句の「菊」を娘の名に取り成しての付けだとしている。これだと、御頭が嫁を探していてうちのお菊に白羽の矢が立ったら迷惑とばかりに、娘を御頭に合わせないように隠している、という意味になる。
その他の系統のものは、菊を趣味としている御頭をいかにも堅物な人物と見立てて、そういう親父は娘に虫が付いてはいけないとばかりに人に合わせないようにしていると解釈する。これだと位付けになる。
たとえば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は、「菊もらはるる迷惑と云やぶさかなる情より起し来て、六十前後の老と思ひよせたり。おもての色飽まで黒く、半白の髪の終にそそけたる事なくうるみ鞘の大小に葛布の古袴着て、極ていふ今の若きものは不人品也。容易に娘など出すべからずと、小家をつつまやかにおさめたるさまを余情に見せたり。」とある。
この句は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)に「ことに人のよくおぼえたる俳諧也」とあるように、かつては一般によく知られた芭蕉のヒット作の一つだったようだ。それだけに、いろいろ解釈するものがあり、そうした巷での論議を呼ぶというのも、人気の秘密といえるかもしれない。
私は前者の「菊」を「お菊さん」のことと取り成したとする説を採りたい。というのも、頑固親父の描写という説も確かに面白いが、それだと単純な「あるあるネタ」だけに終おわってしまうし、展開にも乏しい。
菊を大事にするのはともかく、娘を大事にするあまりに人に会わせないというのは、あくまで独占欲から来る私情であり、こうした情は風流に欠ける。
本当に迷惑しているのは、実じつは娘の方だったるする。むしろ、大事な家族を横暴な組頭から守るという方が、より人間としての真情が感じられるため、句としても深みがある。
無季。「娘を人に会わせぬ」が恋かどうかも、かつていろいろ論議があったようだ。中世であれば、自分の切ない恋の情を詠んだもの以外は恋句ではなかったが、江戸時代ではもう少し緩く解釈している。他人の横恋慕を恐れて娘を隠すのも、恋の一場面といえば一場面であり、恋句としても間違いではない。「娘」「人」は人倫。人倫が二句続くが、二句までは良い。
九句目
娘を堅う人にあはせぬ
奈良がよひおなじつらなる細基手 野坡
(奈良がよひおなじつらなる細基手娘を堅う人にあはせぬ)
「細基手」は今でいう小資本のこと。というわけで舞台は組屋敷や足軽屋敷から商人の家に変わる。娘を嫁にくれという商人が何人も足しげく通ってくるが、みんな似たり寄ったりの小資本の連中で、我が家の格には合わないとばかりに娘を隠しておく。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「娘をあハせぬを豪家と見て、乏しき商人の趣向を設け、うらやむ情を含めたらん。尤自他の変なり。○奈良がよひの語ハ、伊勢が艶詞の面影ありて、松をしぐれの染かねし恋をかくせり。さハ二句の間の余情といハん句作妙なり。」とある。
「松をしぐれの染かねし恋」は『伊勢物語』ではなく『新古今和歌集』の、
我が恋は松を時雨の染めかねて
真葛が原に風さわぐなり
慈円
ではないかと思う。『伊勢物語』で奈良と言えば、冒頭の「昔、男初冠して、平城の京、春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。 その里に、いとなまめいたる女はらから住けり。‥‥」のことか。
いにしえの身分違いの恋の情を、奈良の豪家のところに通う小資本の商人の情に、いわば今風に翻刻したということか。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「奈良がよひ 奈良ニ遊女町アリ、木辻ト云」とあり、『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「奈良ノ木辻遊郭ニ通フ若者共ノ俤ナリ。」とある。奈良の木辻遊郭はウィキペディアによると西鶴の『好色一代男』にも「木辻」の名が出てくるというから、芭蕉の時代にもあったのは確かだろう。ただ、句の内容からすると直接は関係なさそうだ。
無季。「奈良通い」は恋。「奈良」は名所。「つら」「細基手」はどちらも人倫にはならない。「つら」は体の一部にすぎず、「細基手」は商売の状態を表す言葉にすぎない。人倫を三句続けてはいけない場面なので、うまく人倫の制をかいくぐっている。
皆落て木末に丸し月の影 孤白
は『卯辰集』の句。枯れ枝に月というのは百年のちの、
冬木立月骨髄に入る夜かな 几董
の句に受け継がれる。「骨髄に入る」というのは体の芯まで冷えるというだけでなく、冬木立の枯れ枝に我が身を投影させてのことではないかと思う。
さて、「むめがかにの巻」の続き。初裏に入る。
七句目
藪越はなすあきのさびしき
御頭(おかしら)へ菊もらはるるめいわくさ 野坡
(御頭へ菊もらはるるめいわくさ藪越はなすあきのさびしき)
『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年五月序)に「御頭へ 前句の藪越はなすを押て、組屋敷などの附なり。」とある。「組屋敷」はネットで調べると「江戸時代、与力・同心などの組の者にまとめて与えられていた屋敷。」とある。これだとここでいう「御頭」は与力で、同心たちが組屋敷の藪越しに「御頭に丹精込めて育てた菊を取られてしまって、まったく迷惑な話だ」とか話しているということになる。
与力同心は直接罪人に触れる「不浄役人」で被差別民がその職務に当たっていたことを考えると、前句の所にあった『俳諧古集之弁』の「在所」はやはり被差別部落だったか。
いずれにせよ上下関係の厳しい世界で、御頭の言うことは絶対。菊を見て「くれないか」と言われて断れるもんではない。
季題は「菊」で秋。植物で草類。植物が二句続くが、二句までは問題はない。「御頭」は人倫。
八句目
御頭へ菊もらはるるめいわくさ
娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
(御頭へ菊もらはるるめいわくさ娘を堅う人にあはせぬ)
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)の三つは大体内容が似ているので、『俳諧古集之弁』系と言っておこう。『俳諧古集之弁』系は前句の「菊」を娘の名に取り成しての付けだとしている。これだと、御頭が嫁を探していてうちのお菊に白羽の矢が立ったら迷惑とばかりに、娘を御頭に合わせないように隠している、という意味になる。
その他の系統のものは、菊を趣味としている御頭をいかにも堅物な人物と見立てて、そういう親父は娘に虫が付いてはいけないとばかりに人に合わせないようにしていると解釈する。これだと位付けになる。
たとえば、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は、「菊もらはるる迷惑と云やぶさかなる情より起し来て、六十前後の老と思ひよせたり。おもての色飽まで黒く、半白の髪の終にそそけたる事なくうるみ鞘の大小に葛布の古袴着て、極ていふ今の若きものは不人品也。容易に娘など出すべからずと、小家をつつまやかにおさめたるさまを余情に見せたり。」とある。
この句は『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)に「ことに人のよくおぼえたる俳諧也」とあるように、かつては一般によく知られた芭蕉のヒット作の一つだったようだ。それだけに、いろいろ解釈するものがあり、そうした巷での論議を呼ぶというのも、人気の秘密といえるかもしれない。
私は前者の「菊」を「お菊さん」のことと取り成したとする説を採りたい。というのも、頑固親父の描写という説も確かに面白いが、それだと単純な「あるあるネタ」だけに終おわってしまうし、展開にも乏しい。
菊を大事にするのはともかく、娘を大事にするあまりに人に会わせないというのは、あくまで独占欲から来る私情であり、こうした情は風流に欠ける。
本当に迷惑しているのは、実じつは娘の方だったるする。むしろ、大事な家族を横暴な組頭から守るという方が、より人間としての真情が感じられるため、句としても深みがある。
無季。「娘を人に会わせぬ」が恋かどうかも、かつていろいろ論議があったようだ。中世であれば、自分の切ない恋の情を詠んだもの以外は恋句ではなかったが、江戸時代ではもう少し緩く解釈している。他人の横恋慕を恐れて娘を隠すのも、恋の一場面といえば一場面であり、恋句としても間違いではない。「娘」「人」は人倫。人倫が二句続くが、二句までは良い。
九句目
娘を堅う人にあはせぬ
奈良がよひおなじつらなる細基手 野坡
(奈良がよひおなじつらなる細基手娘を堅う人にあはせぬ)
「細基手」は今でいう小資本のこと。というわけで舞台は組屋敷や足軽屋敷から商人の家に変わる。娘を嫁にくれという商人が何人も足しげく通ってくるが、みんな似たり寄ったりの小資本の連中で、我が家の格には合わないとばかりに娘を隠しておく。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「娘をあハせぬを豪家と見て、乏しき商人の趣向を設け、うらやむ情を含めたらん。尤自他の変なり。○奈良がよひの語ハ、伊勢が艶詞の面影ありて、松をしぐれの染かねし恋をかくせり。さハ二句の間の余情といハん句作妙なり。」とある。
「松をしぐれの染かねし恋」は『伊勢物語』ではなく『新古今和歌集』の、
我が恋は松を時雨の染めかねて
真葛が原に風さわぐなり
慈円
ではないかと思う。『伊勢物語』で奈良と言えば、冒頭の「昔、男初冠して、平城の京、春日の里に、しるよしして、狩りに往にけり。 その里に、いとなまめいたる女はらから住けり。‥‥」のことか。
いにしえの身分違いの恋の情を、奈良の豪家のところに通う小資本の商人の情に、いわば今風に翻刻したということか。
『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)には「奈良がよひ 奈良ニ遊女町アリ、木辻ト云」とあり、『標註七部集』(惺庵西馬述・潜窓幹雄編、元治元年)には「奈良ノ木辻遊郭ニ通フ若者共ノ俤ナリ。」とある。奈良の木辻遊郭はウィキペディアによると西鶴の『好色一代男』にも「木辻」の名が出てくるというから、芭蕉の時代にもあったのは確かだろう。ただ、句の内容からすると直接は関係なさそうだ。
無季。「奈良通い」は恋。「奈良」は名所。「つら」「細基手」はどちらも人倫にはならない。「つら」は体の一部にすぎず、「細基手」は商売の状態を表す言葉にすぎない。人倫を三句続けてはいけない場面なので、うまく人倫の制をかいくぐっている。
2016年12月13日火曜日
『むめがかに』の巻の続き。
四句目
家普請を春のてすきにとり付て
上(かみ)のたよりにあがる米の値 芭蕉
(家普請を春のてすきにとり付て上のたよりにあがる米の値)
上方の方面の情報で米の値が上がっているので、春の農閑期に家の改築に着手して、となる。「て」止めはこうした倒置的な用い方をする。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)に「これハ炭俵の一体なり。家普請を春の手すきにとり付たる人ハ、米商人(こめあきむど)の仕合よくて買こむだる米も次第に値上りするさま也。」とあるように、この句は前句の家の改築をする人を、農家ではなく、米問屋に転じたものだというところに、注意する必要がある。収穫直後は米の在庫が豊富にあるので、特に豊作の年は米の値は下がるが、春になり、やや品薄感が出てくると米の値はじわじわと上昇し、秋風の吹く頃には、
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
となる。
春の農閑期に入る頃から米の値が上がり出すとなると、夏には米が不足しがちになり、かなりの高値がつきそうだと見込んで家の改築をやっているのである。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「さがるとせバ死句ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「上るといふに意味あり。さがるとせバ死句ならん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「上ルト言ニ普請ノ意味有。下ルトセバ死句ナラン。」とある。米が値下がりしたなら家普請どころではない。値下がりで家普請をするとしたら、米を金で買っている町人だろう。農家や武家や米問屋は値上がりを喜ぶ。
無季。
五句目
上のたよりにあがる米の値
宵の内ばらばらとせし月の雲 芭蕉
(宵の内ばらばらとせし月の雲上のたよりにあがる米の値)
前句の米の値上りを、春になって順調に米相場が上昇するという意味ではなく、収穫直前であれば、ちょっとした天候の変化に敏感に米相場が変動する、という意味に取り成す。今でも首都圏でちょっと雪が降ったりすると、たちまち野菜が値上りすることを考えればいい。実際に流通に支障をきたすほどの雪でなくても、心理的な要因で、相場は敏感に反応する。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の「根のなきあげと見てあしらハれけん。抑揚自在といふべし。」とあるが、「根のなきあげ」はそうした心理的な相場の変動のことか。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)にも、「稲の花ざかり頃は、鬢の毛三本動く風吹ても相場の狂ふ事、夜と日とたがふ其おもむきを月の雲にてあしらひたる也。」とある。
季題は「月」で秋。夜分、天象。「ばらばらとせし」は雨のことなので降物。
六句目
宵の内ばらばらとせし月の雲
藪越はなすあきのさびしき 野坡
(宵の内ばらばらとせし月の雲藪越はなすあきのさびしき)
「藪」は森でも林でもなく、手入れのされていない木や草の茂る場所をいい、古くは水の流れていない沢のことだったという。田舎でもさびれた荒果てた村を連想させる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「在所の気やすきさまならん。夜も又静かになりけらし。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「秋の寂寞、農家の気安きさま成べし。但し、世にいふ二百十日の前後無難にあれかしの話しならん。」とある。「在所」はここでは郷里のことで、特に被差別部落ということでもなさそうだ。
月の雲に藪越の顔を合わすこともない会話は、響くものがある。どちらも隠れていて見えないという共通点があり、響付けといえよう。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「月の雲といふさびしびの余韻をうけて、藪ごしに噺すとあしらひたり。言外の味あじはひなり。」とある。
季題は「あき」で秋。「藪」は植物。発句から四句隔てている。
四句目
家普請を春のてすきにとり付て
上(かみ)のたよりにあがる米の値 芭蕉
(家普請を春のてすきにとり付て上のたよりにあがる米の値)
上方の方面の情報で米の値が上がっているので、春の農閑期に家の改築に着手して、となる。「て」止めはこうした倒置的な用い方をする。
『芭蕉翁付合集評註』(佐野石兮著、文化十二年)に「これハ炭俵の一体なり。家普請を春の手すきにとり付たる人ハ、米商人(こめあきむど)の仕合よくて買こむだる米も次第に値上りするさま也。」とあるように、この句は前句の家の改築をする人を、農家ではなく、米問屋に転じたものだというところに、注意する必要がある。収穫直後は米の在庫が豊富にあるので、特に豊作の年は米の値は下がるが、春になり、やや品薄感が出てくると米の値はじわじわと上昇し、秋風の吹く頃には、
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六
となる。
春の農閑期に入る頃から米の値が上がり出すとなると、夏には米が不足しがちになり、かなりの高値がつきそうだと見込んで家の改築をやっているのである。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には「さがるとせバ死句ならん。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「上るといふに意味あり。さがるとせバ死句ならん。」、『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)にも「上ルト言ニ普請ノ意味有。下ルトセバ死句ナラン。」とある。米が値下がりしたなら家普請どころではない。値下がりで家普請をするとしたら、米を金で買っている町人だろう。農家や武家や米問屋は値上がりを喜ぶ。
無季。
五句目
上のたよりにあがる米の値
宵の内ばらばらとせし月の雲 芭蕉
(宵の内ばらばらとせし月の雲上のたよりにあがる米の値)
前句の米の値上りを、春になって順調に米相場が上昇するという意味ではなく、収穫直前であれば、ちょっとした天候の変化に敏感に米相場が変動する、という意味に取り成す。今でも首都圏でちょっと雪が降ったりすると、たちまち野菜が値上りすることを考えればいい。実際に流通に支障をきたすほどの雪でなくても、心理的な要因で、相場は敏感に反応する。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)の「根のなきあげと見てあしらハれけん。抑揚自在といふべし。」とあるが、「根のなきあげ」はそうした心理的な相場の変動のことか。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)にも、「稲の花ざかり頃は、鬢の毛三本動く風吹ても相場の狂ふ事、夜と日とたがふ其おもむきを月の雲にてあしらひたる也。」とある。
季題は「月」で秋。夜分、天象。「ばらばらとせし」は雨のことなので降物。
六句目
宵の内ばらばらとせし月の雲
藪越はなすあきのさびしき 野坡
(宵の内ばらばらとせし月の雲藪越はなすあきのさびしき)
「藪」は森でも林でもなく、手入れのされていない木や草の茂る場所をいい、古くは水の流れていない沢のことだったという。田舎でもさびれた荒果てた村を連想させる。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「在所の気やすきさまならん。夜も又静かになりけらし。」とあり、『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)には「秋の寂寞、農家の気安きさま成べし。但し、世にいふ二百十日の前後無難にあれかしの話しならん。」とある。「在所」はここでは郷里のことで、特に被差別部落ということでもなさそうだ。
月の雲に藪越の顔を合わすこともない会話は、響くものがある。どちらも隠れていて見えないという共通点があり、響付けといえよう。『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「月の雲といふさびしびの余韻をうけて、藪ごしに噺すとあしらひたり。言外の味あじはひなり。」とある。
季題は「あき」で秋。「藪」は植物。発句から四句隔てている。
2016年12月12日月曜日
昨日は千葉市美術館の「文人として生きるー浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術」展の後期を見に行った。前期は11月13日に見た。
今回はついつい字の方に気持ちがいってしまった。玉堂は隷書を多用しているが、行書や草書のものもある。やはりところどころ知っている字がある程度で、解説を見ながら、ああ、これがこの字かという程度で、これが全部読めたら玉堂の絵も違って見えてくるかななって思った。
今日は今年の漢字が発表になって、書かれた字が読めないと話題になっていた。確かに「く」の下に左右の点があって、中央にくちゃくちゃっと書いたあの字は、金の草書体を知らなければわからない。将棋をやっている人なら香車の裏にあるあの字だが。
今はなき古いHP「ゆきゆき亭」では「炭俵」の「梅が香にの巻」をアップしていたが、今回は書き直そうと思った。とりあえず第三まで。あと、「ゑびす講の巻」は鈴呂屋書庫にアップしている。
発句
むめがかにのつと日の出る山路かな 芭蕉
学校でも習う有名な句なので、ほとんど解説の必要はないだろう。
あえて言うなら、苦しい旅の中も、一瞬漂うほんのりとした梅の香と一気に昇る朝日の姿にしばし癒やされる。それを「のっと」という俗語を巧みに使って表現しているといったところか。
「のっと」は「ぬっと」と同じで、oとuの交替は古語ではしばしば見られる。「こがね(黄金)」「くがね」、「まろ(麿)」「まる(丸)」、「しろし(白し)」「しるし」など。
『俳諧古集之弁』には、「かの檜木笠着そらしつつ、細脛に余寒の凍(こほり)ふミしだきて、によひ出給ひけん。」とあり、『俳諧鳶羽集』には、「如月のはじめつかた、いまだ夜深きに旅立、数里にしてほのぼのと明はなれ、右左の小家(こいへ)ありありと見えわたるに、栗柿の林は霜さえ、小笠の藪は赤ばみて今に冬のままながら梅ひとり咲出でて、ほのかに其香をはこび来る中より、朝日の隈もなくぬくぬくとさしのぼりたる味はひいはん方なし。風騒の人、神(たましひ)を奪るる処也。」とある。
『俳諧古集之弁』は遅日庵杜哉(ちじつあんとさい)の著で寛政四(一七九ニ)年三月刊。『俳諧鳶羽集』は幻窓湖中(げんそうこちゅう)の著で、文政九(一八二六)年九月稿、近代に勝峰晋風(かつみねしんぷう)によって翻刻されたもの。
季題は「梅」で春。植物(うえもの)、木類。「日」は天象。「山路」は山類(さんるい)。「旅体」の句。
脇
むめがかにのつと日の出る山路かな
処々に雉子(きじ)の啼たつ 野坡(やは)
(むめがかにのつと日の出る山路かな処々に雉子の啼たつ)
厳かな春の朝の情景にあちこちで雉が鳴き始める情景を、特に凝った意図はなく、さらっと付けている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「句作に巧ミを用へず。立の字ちからあり。」とあり、『俳諧鳶羽集』には、「脇は発句のいひ残しをいふこと勿論ながら、我力をぬきて少しも滞(とどこ)ほる方(かた)有べからず。いささかも節くれたる所あれば、発句にそふ事なし。雉子の啼立の詞、発句に覆ひかぶさりたるがごとく聞ゆる也。後世の亀鑑(きかん)ともいふなるべし。」とある。
脇は体言止めというのを規則だと思っている人もいると思うが、あくまでそれは習慣的なもので、そのような規則はない。あえて体言止めにこだわらず「啼きたつ」と力強く言い切ったあたりが、この句の芯とも言えよう。発句に「かな」という、主観性の強い、完全に断定しない曖昧な切れ字で結ばれている場合、それに答えるような断定が効果的になる。「~だろうか、そうだ‥‥だ」と覆いかぶさるような構成になる。これが、古註の指摘している点であろう。
季題は「雉子」で春。鳥類。
第三
処々に雉子の啼たつ
家普請(やぶしん)を春のてすきにとり付て 野坡
(家普請を春のてすきにとり付て処々に雉子の啼たつ)
雉の声と金槌で鑿を打つ音とが似ていて、相響く。蕉門の匂い付けの一つ、「響付け」といえよう。春のまだ農作業に取り掛かる前の暇な時期に家を改築しているのか修理しているか、工事を入れている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「脇の風調のおのづから鑿彫(さくてう)の音賑ひ初る村里の春色にひびきあり。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「第三は転の場也。処々といふをたしなく啼しさまと思ひよせて、正月末二月はじめ頃と転じたり。取つけてよむべからず。取つき(い)てなり。」とある。
『俳諧鳶羽集』は発句の初春の情を正月末から二月初めの情に転じたとしている。「たしなく」というのは「他事なく」で、一つのことに専念している様を言い、雉のあちこちで啼く声に、忙がしげに普請に取り掛かる様が響くもとのしている。「取付て」は「とりつきて」あるいは「とりついて」と読よみ、取り掛かる、始めるの意味。「とりつけて」と読むと、すがりつくという意味になり、意味が通らない。
季題は「春」で春。「家普請」は居所。
今回はついつい字の方に気持ちがいってしまった。玉堂は隷書を多用しているが、行書や草書のものもある。やはりところどころ知っている字がある程度で、解説を見ながら、ああ、これがこの字かという程度で、これが全部読めたら玉堂の絵も違って見えてくるかななって思った。
今日は今年の漢字が発表になって、書かれた字が読めないと話題になっていた。確かに「く」の下に左右の点があって、中央にくちゃくちゃっと書いたあの字は、金の草書体を知らなければわからない。将棋をやっている人なら香車の裏にあるあの字だが。
今はなき古いHP「ゆきゆき亭」では「炭俵」の「梅が香にの巻」をアップしていたが、今回は書き直そうと思った。とりあえず第三まで。あと、「ゑびす講の巻」は鈴呂屋書庫にアップしている。
発句
むめがかにのつと日の出る山路かな 芭蕉
学校でも習う有名な句なので、ほとんど解説の必要はないだろう。
あえて言うなら、苦しい旅の中も、一瞬漂うほんのりとした梅の香と一気に昇る朝日の姿にしばし癒やされる。それを「のっと」という俗語を巧みに使って表現しているといったところか。
「のっと」は「ぬっと」と同じで、oとuの交替は古語ではしばしば見られる。「こがね(黄金)」「くがね」、「まろ(麿)」「まる(丸)」、「しろし(白し)」「しるし」など。
『俳諧古集之弁』には、「かの檜木笠着そらしつつ、細脛に余寒の凍(こほり)ふミしだきて、によひ出給ひけん。」とあり、『俳諧鳶羽集』には、「如月のはじめつかた、いまだ夜深きに旅立、数里にしてほのぼのと明はなれ、右左の小家(こいへ)ありありと見えわたるに、栗柿の林は霜さえ、小笠の藪は赤ばみて今に冬のままながら梅ひとり咲出でて、ほのかに其香をはこび来る中より、朝日の隈もなくぬくぬくとさしのぼりたる味はひいはん方なし。風騒の人、神(たましひ)を奪るる処也。」とある。
『俳諧古集之弁』は遅日庵杜哉(ちじつあんとさい)の著で寛政四(一七九ニ)年三月刊。『俳諧鳶羽集』は幻窓湖中(げんそうこちゅう)の著で、文政九(一八二六)年九月稿、近代に勝峰晋風(かつみねしんぷう)によって翻刻されたもの。
季題は「梅」で春。植物(うえもの)、木類。「日」は天象。「山路」は山類(さんるい)。「旅体」の句。
脇
むめがかにのつと日の出る山路かな
処々に雉子(きじ)の啼たつ 野坡(やは)
(むめがかにのつと日の出る山路かな処々に雉子の啼たつ)
厳かな春の朝の情景にあちこちで雉が鳴き始める情景を、特に凝った意図はなく、さらっと付けている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「句作に巧ミを用へず。立の字ちからあり。」とあり、『俳諧鳶羽集』には、「脇は発句のいひ残しをいふこと勿論ながら、我力をぬきて少しも滞(とどこ)ほる方(かた)有べからず。いささかも節くれたる所あれば、発句にそふ事なし。雉子の啼立の詞、発句に覆ひかぶさりたるがごとく聞ゆる也。後世の亀鑑(きかん)ともいふなるべし。」とある。
脇は体言止めというのを規則だと思っている人もいると思うが、あくまでそれは習慣的なもので、そのような規則はない。あえて体言止めにこだわらず「啼きたつ」と力強く言い切ったあたりが、この句の芯とも言えよう。発句に「かな」という、主観性の強い、完全に断定しない曖昧な切れ字で結ばれている場合、それに答えるような断定が効果的になる。「~だろうか、そうだ‥‥だ」と覆いかぶさるような構成になる。これが、古註の指摘している点であろう。
季題は「雉子」で春。鳥類。
第三
処々に雉子の啼たつ
家普請(やぶしん)を春のてすきにとり付て 野坡
(家普請を春のてすきにとり付て処々に雉子の啼たつ)
雉の声と金槌で鑿を打つ音とが似ていて、相響く。蕉門の匂い付けの一つ、「響付け」といえよう。春のまだ農作業に取り掛かる前の暇な時期に家を改築しているのか修理しているか、工事を入れている。
『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政四年刊)には、「脇の風調のおのづから鑿彫(さくてう)の音賑ひ初る村里の春色にひびきあり。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「第三は転の場也。処々といふをたしなく啼しさまと思ひよせて、正月末二月はじめ頃と転じたり。取つけてよむべからず。取つき(い)てなり。」とある。
『俳諧鳶羽集』は発句の初春の情を正月末から二月初めの情に転じたとしている。「たしなく」というのは「他事なく」で、一つのことに専念している様を言い、雉のあちこちで啼く声に、忙がしげに普請に取り掛かる様が響くもとのしている。「取付て」は「とりつきて」あるいは「とりついて」と読よみ、取り掛かる、始めるの意味。「とりつけて」と読むと、すがりつくという意味になり、意味が通らない。
季題は「春」で春。「家普請」は居所。
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