2016年11月20日日曜日

 今日は足柄峠へ行った。富士山がよく見えた。道了尊へも行った。紅葉が綺麗だった。
 それでは 「ゑびす講」の巻、四句目。

   番匠が樫の小節を引かねて
 片はげ山に月をみるかな    利牛

 第三が原因の「て」で付けたため、四句目も軽く流すようにさくっとつけようとすれば、第三が原因で四句目が結果になるという句になり、そのため脇句の趣向から思いっきり離さなくてはならないという苦しさがある。
 「片はげ山」はおそらく材木を取るために半分伐採した山のことなのだろう。番匠は本来建築だけでなく材木の伐採などに携わる者も含む建築一般に従事する人のことだった。ここでは大工の下働きという江戸時代的な番匠ではなく、律令時代の山から木を切り出していた番匠に取り成しているのであろう。樫の木を半分伐採した所で片禿になった山に月を見ている。
 古代のことなので句もやや古めかしく「かな」で留めている。和歌や発句では珍しくないが、連歌俳諧のつけ句としては珍しい。
 元禄三年の「灰汁桶の」の巻の、

   堤より田の青やぎていさぎよき
 加茂のやしろは能き社なり   芭蕉

の「なり」留めもそうだが、古い時代の素朴な感じを出そうという演出なのだろう。「かな」留め「なり」留めは和歌の体で、付け句の体ではない。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)に「古今抄に、番匠といふ詞の古雅なる万葉体の歌と聞なして、見るかなとハいへりけるとぞ。しかれバ論なふ二句一体にして、親疎に与奪の意あり。」とある。
 二句一体というのは付け筋によって付けるのではなく、最初から和歌を詠むかのようにストレートに言い下すことを言っていると思われる。「親疎に与奪」というのは、親句にすることで前句に生命を吹き込んでいる、といったような意味か。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)もほぼ同じ。ここでもコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ。
 『七部集振々抄』(振々亭三鴼著、天明四年)にも、「片はげ山 前の番匠の句を上の句として、歌のやうに付なしたる也。」とある。
 季題は「月」で秋。連歌では「光物」というが江戸時代の俳諧では「天象」と呼ばれていた。「片はげ山」は山類。
 月の定座を一句引き上げているが、蕉門の俳諧ではよくあることで、七七の短句で月や花を詠むことも蕉門では嫌っていない。そもそも定座というのは連歌の式目には無く、あくまで慣習にすぎないのだから、厳密に守る必要はない。

2016年11月19日土曜日

 さて、それでは「ゑびす講」の巻の第三を見てみよう。

   降てハやすミ時雨する軒
 番匠が樫の小節を引かねて    孤屋

 「番匠(ばんじょう)」は建築現場で大工の下働きをする人。樫の木を鋸で引いていると、小さな節があって堅くて切れないで困っているという情景だろう。うまく切れなくて四苦八苦しているうちに時雨になって、仕事の手を休める。「軒」はここでは今建てている建築物の軒ということになる。
 前句の「やすミ」を雨宿りのことではなく、仕事の手を休めることに取り成して付けている。『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)に「やすむの語に出て体用の変あり。」というのはそのことを言うのであろう。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)は同一の文章でコピペ。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も「休ムト言語ヨリ体用ヲワカテリ。」とある。
 軒での「休み」は雨宿りの「休み」なので名詞であって体言、引きかねて「休み」は休むという動詞の活用形なので用言となる。なるほと、古人は文法的な違いをよく観察している。
 これに対して、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)は前句の「やすミ」を雨宿りではなく時雨が降っては休むとし、時雨で湿った木を番匠が引きかねてと解する。『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)は「時雨ノ雨ヲイトヒテ、ハヤクシマハントスルニ、樫ノ節引割カネテ。」とする。
 この二つの解釈は一応理由がある。
 連歌も俳諧も第三は「て」で留めることが多い。これは「て」が原因にも結果にも使える便利な言葉だからだ。
 たとえば、

 急に雨降り俺はびしょ濡れ

という句にその原因を「て留め」で付ける。

   急に雨降り俺はびしょ濡れ
 油断して傘を持たずに家を出て

 これだと、

 油断して傘を持たずに家を出て急に雨降り俺はびしょ濡れ

とスムーズにつながる。
 結果を「て留め」で付けると、

   急に雨降り俺はびしょ濡れ
 脱いだ服ストーブの上で乾かして

となる。これだと、

 脱いだ服ストーブの上で乾かして急に雨降り俺はびしょ濡れ

となる。やや違和感はあるものの、上句の「て」で一度間を置き、一首全体が上句と下句で倒置になっていると思えば意味は通る。
 連歌俳諧ではこうした「て留め」で結果を付けることが多い。それは次の句を付ける人が結果を原因としてさくっと次に展開できるからだ。たとえば、

   脱いだ服ストーブの上で乾かして
 布団の上で猫もくつろぐ

のように。
 「番匠が」の句を脇句の原因ではなく結果だと解釈すれば、時雨が降ったので鋸を引きかねたというふうにも読めてしまう。ただ、節で引きかねているのに更に時雨で引きかねているとするのは屋上屋を重ねるようでくどい。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)は前句の時雨の降りては休みを鋸の屑のはらはらと落ちては節に引っかかって休みという比喩としている。これを「響き付け」としているが、明治三十年ともなれば蕉門の響き付けが正しく認識されていたかどうかは怪しい。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)は「時雨する櫨に番匠の鋸挽、樅の小節の厭はしきに渋り働きするさま、ただ是市井の有るところの情景なり。」と単に前句の景色から連想される景色を付けたとする。現代連句の付け方は大体こんなもの。俳諧に非ず。
 冬は三句まで続けることができるが、三句まで続けることは稀で、たいていは一句か二句で終わる。ここでも発句脇と二句で終わり、第三は無季になる。月の定座があるので秋に転じやすくしている。
 「番匠」は人倫。人倫と人倫は打越を嫌うが、発句の「振売」は行為を表すもので人倫ではないのでセーフ。「樫」はこの場合材木なので植物ではない。

2016年11月18日金曜日

 「ゑびす講」の巻、昨日の続き。
 「振売の」の句は倒置になっているので、それを元に戻すと「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也」となる。恵比寿講から「あはれ」を言い興す。
 連句の場合、去り嫌いなどの式目上のルールがあるため、分類される句材がある。「振売の」の句の季題は「恵比寿講」で冬。冬は一句から三句まで続けることができる。
 「振売」は「振売をする人」という意味では人倫になるが、ここでは「振売」という行為によって売られている雁なので、人倫にはならないと思われる。この辺は杓子定規に、ある言葉が使われていれば自動的に振り分けられるのではなく、実質的な意味で判断した方がいい。談林の頃は季題も句材も形式的扱われていたこともあったが、連歌や蕉門の俳諧では実質的に判断した方がいい。
 「雁」も同様、ここでは肉であって生きてないので生類にはならない。故に「鳥類」ではない。

 さて、それでは次の句、「脇」を見てみよう。

   振売の雁あはれ也ゑびす講
 降てハやすミ時雨する軒    野坡

 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)では「佇ミ居たる風情ならん。句作に哀調を和せりといふべし。」とある。
 「降りては休み」というのは時雨が降ったので雨宿りして休むという意味。時雨が降ったり止んだりというのではない。当時の語感では雨が休むという擬人的な言い回しはほとんどなく、「休む」と言ったらその主語は人だと読んだ方がいい。
 発句が「恵比寿講」から「あはれ」の情を言い興しているので、脇はその情に逆らわず、和すように作る。雁の哀れに時雨の哀れを添える。時雨の雨宿りといえば、

 世にふるもさらに時雨のやどりかな 宗祇

の句が思い浮かぶ。
 倒置を元に戻すと、「ゑびす講にて振売の雁はあはれ也、時雨する軒で降てはやすみ」となる。
 『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)も同じ、今だったらコピペのように同一の文章。『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も大体同じ説で宗祇の句についても触れている。
 『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)は「時雨の折々降休みては又降」と時雨が休むとしている。
 他は発句の解釈が異なるため省略する。
 句材の方は、まず「時雨」が冬の季題で降物(ふりもの)。「軒」は居所になる。俳諧は連歌の式目に準じるとはいえ、かなり簡略化され、特に歌仙などの短い形式で行われることが多いため、連歌では五句去りになるものも三句去りくらいにとどめている場合が多い。降物、居所なども俳諧ではおおむね三句去り。

2016年11月17日木曜日

 俳諧連句の面白さを知るには、やはり一巻を一句一句たどってゆくのが一番だが、なにぶん江戸時代のこととなると生活習慣も今と異なり、当時の人がどんなネタで笑っていたのか知るのは難しく、当時のあるあるも今では意味不明になってたりする。
 そういう時役に立つのが古註で、竹内千代子さん編纂の『「炭俵」連句古註集』(1995、和泉書院)は有難い。
 今回読んでみようと思ったのは、「ゑびす講」の巻。まずはその発句を見てみよう。

   神無月廿日ふか川にて即興
 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 旧暦の神無月二十日は恵比寿講の日だった。江戸時代の商人の家では恵比寿様を祭り、恵比寿様にお供えをして御馳走や酒を振舞った。恵比寿様だけに特に鯛は人気があった。
 日本橋のべったら市は江戸時代後期なので、芭蕉の時代にはなかったと思われる。元禄の頃の恵比寿講はもっぱら各家ごとに行われていたと思われる。
 元禄6年の神無月二十日に芭蕉は、深川の第三次芭蕉庵(第一次は天和の頃八百屋お七の大火で消失、第二次は『奥の細道』旅立ちの時に人に譲る)で野坡、孤屋、利牛を集め、歌仙興行を行っているが、これもささやかな恵比寿講だったのか。
 「即興」というのは、今日即興演奏とか言う意味での即興とは限らない。文字通り興に即しで、「興」というのは言い興すことで、たとえば桃の花の興で嫁ぐ娘のあでやかさを言い起こしたり、鼠の逃げてゆく様から圧制の苦しみを言い起こしたり、本題に入る前にそれを言い起こすための明白なイメージを与えることを言う。
 この場合は折からの世俗での恵比寿講から何かを言い起こす、恵比寿講の興に即すという意味で用いられていると思われる。
 恵比寿講の興に即すというように、芭蕉の発句は「恵比寿講」という冬の季題で始まる。

 振売の雁あはれ也ゑびす講   芭蕉

 振り売りは天秤かついで売り歩く商人のことで、店舗がなくても、立派な屋台を設置しなくても、商品さえ仕入れてくれば手軽に移動しながら商いができるため、小資本でも始められる。当時は鴨や鴫などと同様、雁も食用として普通に売られていたのであろう。ここでは恵比寿講の御馳走にと売られていたのか。
 「雁」は春の季語だが、それは帰る雁を本意本情とするもので、この場合は無季として扱われる。
 単純に考えれば、恵比寿講のために殺生される雁が可哀相という意味でいいのだと思う。仏者で晩年は菜食主義者だった芭蕉としては自然な発想だったと思う。
 『「炭俵」連句古註集』に列挙されている古註の多くはそう解している。
 『俳諧古集之弁』(遅日庵杜哉、寛政4年刊)では「畚(ふご)のさかなの類ひにはあらで、秋に迎ひ春に送り詩歌の人にもてはやさるれバ、其姿を見其情を思ふにもなどか感慨のなからざらん。しかるを歌舞遊宴の夷講にかけ合せて、無尽の情を含められり手段常ならず。」とあり、『俳諧鳶羽集』(幻窓湖中、文政九年稿)には、「雁鴨など買て恵比寿講するは世のならひなるに、都で雁を売て夷講せうとは、さてもさてもあはれなる事よと観想の句なり。」とある。『俳諧七部集弁解』(著者不明、年次不明)や『秘註俳諧七部集』(伝暁台註・政二補、天保十四年成立)も同じような解釈。
 その他の意見としては、『七部婆心録』(曲斎、万延元年)の雁(がん)は元(ぐわん)に通じるから、雁を食うことは元銀を食うことになるので縁起が悪く、商人はそれを嫌う。それを知らない田舎物が雁を売り歩くのが哀れだ、としている。
 『俳諧七部集打聴』(岡本保孝、慶応元年~三年成立)では、雁の鮮度が悪くて、よほど売れなくて生活に困っているんだなという哀れとしている。
 『俳諧炭俵集註解』(棚橋碌翁、明治三十年刊)では、夷講は鯛を食うもので雁など売っても買う人もいないだろうにと解する。
 『評釈炭俵』(幸田露伴、昭和二十七年刊)もそれと似ていて、「雁の振売、何程の価にもあらざあるべきに、それさへ買手無ければ、しきりに雁や雁やと呼びあるかるるを、蛭子講の賑ひにつけて、雁あはれなりとは興じたるなり。」としている。
 これで見ると、天保までの古い解釈では雁は恵比寿講の時に盛んに食べられていたが、幕末の万延あたりでは食う習慣がなくなっていたのではないかと思われる。これより新しい解釈は、雁など売れもしないのに哀れだという解釈に傾いている。ここは古い解釈に従ったほうがいいと思う。

2016年11月16日水曜日

 昨日の夜のスーパームーンは朧月だったが、今朝のスーパー有明ムーンは澄んでいた。
 有明というと、『炭俵』にこんな句があった。

 在明となれば度々しぐれかな  許六

 関東では時雨ることはほとんどないが、彦根では有明に時雨はお約束なのか。
 同じ『炭俵』の時雨の句。

 黒みけり沖の時雨の行どころ  丈草

 『猿蓑』の時雨あるあるとはまた違った、水墨画の空を墨で暗く塗ったような、遠くから見た沖の時雨の風景を描く絵画的な句だ。
 丈草というと、『続猿蓑』に、

 あら猫のかけ出す軒や冬の月  丈草

の句もある。蕪村の風を先取りするかのような絵画的な句だ。
 『猿蓑』の頃にひととおりあるあるネタが出尽くしてしまったせいだろうか。芭蕉もまた『炭俵』に、

 鞍壺に小坊主乗るや大根引   芭蕉

の句がある。単なるあるあるネタから、ありがちな光景でも視覚的の鮮烈なイメージを狙う方向に発展して行ったのだろう。

2016年11月14日月曜日

 今日はスーパームーンだが、あいにくの雨。何かデジャブ感があるのは、このブログを始めた時に「今日は折りしも十五夜。あいにくの曇り空。」と書いたからか。

 さて、『猿蓑』では、芭蕉の「猿に小蓑を」の句の次には、序文を書いた其角の句が並ぶ。

 あれ聞けと時雨くる夜の鐘の声   其角

 ネットで検索するとトップに出てくるのが山梨県立大学の伊藤洋さんの「芭蕉DB」の

 「時雨の降る夜半、『あの鐘の音を聞いて』と遠くの寺の打ち出す鐘の音を抱き合いながら聞く男女二人。」

という註で、この解釈は19世紀の地歌「影法師」の歌詞、

 あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声
 寒さによする置炬燵
 ついとろとろとうたた寝の
 夢驚きて甲斐なくも
 しょんぼり二人が差し向かひ
 かきたて見ればともし火の
 曇りがちなる心のうち
 鬢のほつれや寝乱れ髪に
 やつれしゃんしたお前の姿
 私がやせたも道理じゃと
 私が泣けばお前も涙
 ほんにこの身はあるやらないやら
 夢幻の浮世じゃな
 なんとお前は思はんす
 返答しゃんせ影法師

の影響ではないかと思う。実際は男女二人ではなく、影法師だったという落ちになる。
 地歌の場合、この鐘の音は夜明けを告げる鐘であろう。
 この地歌が果たして其角の当初の意図に沿ったものかどうかは定かでない。其角に多い心余って言葉足らずの句で、この句に関しては謡曲『三井寺』ではないかという説も古くからあるようだ。
 謡曲『三井寺』では生き別れになった息子を探しに三井寺にやってきた母が、月夜に浮かれて鐘を撞くという「狂」に、何ごとかと駆けつけた修行僧の中に‥‥というわけだが、季節は時雨の季節ではない。
 ただ、時雨の後の月は古歌にも詠まれているし、本説をとる場合には元ネタをそのまんま使用するのではなく多少変えることになっているので、『三井寺』の可能性はある。
 「鐘」というと明け方の鐘か入相の鐘を詠むことが普通で、時の鐘を詠むことはあまりない。それでいくと夜の鐘は特殊で、そこから『三井寺』を連想が働いたのであろう。
 江戸時代の言語感覚だと、無生物を擬人化した表現というのはそれほど多くない。特に俳諧のような節約された言葉で主語が省略されている場合は、一番常識的に考えられる主語を求めた方がいい。となると、「あれ聞け」と言っているのは時雨や鐘ではない。人間と考えた方がいい。地歌説も三井寺説もその点では古い解釈に属する。これに対し、時雨や鐘の発言とするのは近代的な解釈ではないかと思う。
 三井寺説だと、「あれ聞け」と言われて耳を澄ますと、時雨の雲の切れ間から月が現れ、それに浮かれたかのような狂女の撞く鐘の声が聞こえてくる、ということになる。
 この句が単独ではなく、芭蕉の句の隣に並んだ時には、「あれ聞け」が芭蕉の声であるかのように聞こえるというのも、多分この配列の意図ではないかと思う。巻頭の芭蕉の句の、蓑笠着た猿の断腸の叫びを聞けというのをふまえて、あれは幻で聞こえてくるのは時雨来る夜の鐘の声だったと和す、脇句のような働きをしている。
 そして『猿蓑』の三句目からは、芭蕉の断腸の叫びの情を断ち切って、普通に時雨あるあるの句が並ぶことになる。

 時雨きや並びかねたる魦(いざさ)ぶね 千那

 ひと時雨来た後だろうか、魦漁の舟が慌てて引き上げてきたせいで、きちんと並んで泊ってない。ありそうなことだ。

 幾人かしぐれかけぬく勢田の橋   丈草

 勢田の橋を幾人か慌ててかけてゆく。あるある。

 鑓持(やりもち)の猶振たつるしぐれ哉 正秀

 大名行列で先頭を切って勇ましく鑓を振りたてる鑓持ちが、冷たい雨の中でもそれでも振り立てているのが、何かミスマッチで可笑しい。これも時雨あるあるといえよう。

 広沢やひとり時雨(しぐる)る沼太郎  史邦

 京都嵯峨野の広沢の池では時雨で人もいなくなり、沼太郎(ヒシクイ)だけがぽつんと時雨に打たれている。これもありそうなことだ。

 舟人にぬかれて乗し時雨かな    尚白

 これは雨にかこつけて、川が増水して渡れなくなるから乗ってった方がいいよと言われて乗ったところ、時雨だからすぐに止んでしまったということか。これもあるあるネタ。
 こういった句はわかりやすく、素直に笑える。芭蕉・其角の句に対し、これが当時の当世風といったところだったのだろう。ただ、こればかりだと飽きてくるから、次は、

   伊賀の境に入て
 なつかしや奈良の隣の一時雨    曾良

 これは旅体の句。芭蕉の句も伊賀山中だったことも思い起こされる。連句で言えば、ここでひとまず遣り句して一休みという所か。
 このように『猿蓑』の句の配列はなかなか芸が細かくて楽しませてくれる。

2016年11月13日日曜日

 今日は千葉市美術館で「浦上玉堂父子」展を見た。そちらの話題はmixiの方で。
 時雨は冬の季題だが、紅葉を染める時雨は秋のものだった。

 龍田河紅葉はながる神なびの
    みむろの山に時雨ふるらし
              文武天皇
 しら露も時雨もいたくもる山は
    下葉のこらずいろづきにけり
              紀貫之

といった歌が『古今集』に見られる。初時雨も前回書いたように、秋に詠まれている。
 連歌の発句でも、秋の季題と重ねて秋の句として詠まれることもあった。

 長月や山どりのおのはつ時雨  智蘊
 露にみよ青葉の山ぞ初しぐれ  宗祇

 冬の時雨も『古今集』では詠まれている。

   貞観の御時、
   万葉集はいつばかり作れるぞと問はせたまひければ、
   よみてたてまつりける
 神な月時雨ふりおけるならの葉の
    名におふ宮のふるごとぞこれ
              文屋有季
   はゝがおもひにてよめる
 神な月しぐれにぬるゝもみぢばは
    ただわび人のたもとなりけり
              凡河内躬恒

 さらに『後撰集』では、

 神無月ふりみふらずみさだめなき
    時雨ぞ冬のはじめなりける
             よみ人知らず
   山に入とてよめる
 神無月時雨ばかりを身にそへて
    しらぬ山路に入ぞかなしき
             増基法師

 時雨の定めなさ、そして旅の僧に冷たく苦しく降りつける時雨の趣向は、『新古今集』の、

 世にふるは苦しきものを槇の屋に
    安くもすぐる初時雨かな
             二条院讃岐
 冬を浅みまだき時雨と思ひしを
    堪へざりけりな老いの涙も
             清原元輔

といった歌に受け継がれてゆく。
 さらに、時雨の晴れ間の月を見出すことによって、より冷えさびた趣向へと高められてゆく。

 月を待つ高嶺の雲は晴れにけり
    心あるべき初時雨かな
             西行法師
 たえだえに里わく月の光かな
    時雨を送る夜半のむら雲
             寂蓮法師

 連歌発句の、

 月は山風ぞしくれににほの海 二条良基

もこの系列にある。
 老いた旅の僧に定めなき時雨の苦しさは、「降る」「経る」「古る」の縁を見出すことで、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

の句に凝縮されてゆくことになる。
 芭蕉にも、「猿に小蓑」の句のほかに、『笈の小文』の旅立ちの句、

 旅人と我名よばれん初しぐれ  芭蕉

の句や、元禄四年の、

 宿借りて名を名乗らする時雨かな 芭蕉

 元禄五年の、

 けふばかり人も年よれ初しぐれ 芭蕉

の句がある。いずれも宗祇の時雨を引き継いでいる。