昨日は木枯らしが吹き、今日はさらに冷えまさる日だった。それでは、初しぐれの句の続き。
日本の文化の大きな特徴として考えられるのは、職人文化だということだ。
今日でも「ものづくり」がしきりに叫ばれ、技術はあってもビジネスモデルがないだとか言われるし、長時間労働体質も職人文化の、一つの技能に生涯命を賭けるべしという古くからのモラルが関係していると思われる。
それはおそらく日本の国の成り立ちが大陸から渡ってきた職能集団によるもので、職能集団が土着の狩猟民族や農耕民族を統治する所に最初の朝廷が立てられたことに由来するものであろう。
そのため、職人芸能の人たちは直接天皇に結び付けられ、皇族を祖先とする神話を持ち、天皇の供御人とされてきた。彼らは租税の免除と諸国往来の自由を認められていた。
中世にあっては彼らは寺社勢力と結びつき、公界を中心とした文化を生み出していった。連歌もその一つであり、能や茶道もこうした場から生まれた。
芭蕉の『笈の小文』の冒頭の、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一(いつ)なり。」という言葉も、自らをこうした中世の公界の文化の継承者に位置づけるものと見ていい。
しかし、江戸時代になると、こうした公界を自由に往来していた職人芸能の人たちに定住を命じ、その中の一部は非人弾左衛門(だんざえもん)の支配下に置かれ、士農工商の身分のさらに下に置かれるようになった。そこには歌舞伎役者も含まれていた。
芭蕉は、
節季候(せきぞろ)の来れば風雅も師走哉 芭蕉
節季候を雀のわらふ出立(でた)ち哉 同
から鮭も空也(くうや)の痩せも寒の内 同
納豆きる音しばしまて鉢叩(はちたたき) 同
年々(としどし)や猿に着せたる猿の面 同
といった句を詠んでいるように、節季候(せきぞろ)、鉢叩(はちたた)き、空也念仏(くうやねんぶつ)、猿引(さるひ)きなど、卑賤視された人々に常に目を向けていた。
芭蕉が一所不住を誓い旅に出るようになったのも、かつての中世の公界の精神に自らを同化させようとしてたからではないかと思われる。
江戸幕府の政策の中で抑圧されてゆくかつての公界の精神を、芭蕉は蓑笠を失い雨に打たれるがままになったサルの姿に託したのではなかったか。
芭蕉は延宝八年(一六八〇)に深川に隠棲し、天和二年(一六八二)の春には談林俳諧のリーダーだった西山宗因が死去している。宗因もまた旅に生涯を送る最後の連歌師の一人とも言える人物だった。芭蕉はそんな中で旅への思いを募らせてゆく。
その天和二年の冬の句、
手づから雨のわび笠をはりて
世にふるもさらに宗祇の宿りかな 芭蕉
は、中世連歌の大成者宗祇法師の発句、
世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇
のオマージュだった。
「ふる」は時雨の「降る」と、歳を取っていくという意味の「世に経る」との掛詞になっている。年老いてゆく苦しみは冷たい時雨の雨に打たれる苦しみと二重写しになり、そんな中で雨宿りにほっと一息つく、人生は苦しくもあればこうした幸せな瞬間もある、そんな句だ。
『去来抄』には芭蕉の言葉として、「上に宗因なくば、未だに貞門のよだれをぬぐうべし」と記されている。芭蕉は宗因を尊敬してたし、宗因との出会いがなければ蕉門の俳諧も生まれなかったであろう。その宗因の本職は連歌師であり、旅に生きたその姿はいにしえの宗祇法師にも重なるものがあったのではないかと思う。
天和二年は芭蕉にとっての大きな転機となった年で、各務支考が後に記す所によれば、この年の春に「古池の句」の着想を得ているし、暮れには八百屋お七の大火で芭蕉庵は炎上し、芭蕉自身も隅田川に飛び込んで難を逃れている。
このあと芭蕉庵再建までの間甲斐で過ごしたのが、最初の旅とも言える。
そして二年後の貞享元年(一六八四)の秋、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。
このたびの途中で、先の「笠もなき」の句のほかに、
この海に草鞋(わらんじ)すてん笠しぐれ 芭蕉
草枕犬も時雨(しぐる)るかよるのこゑ 芭蕉
の句も詠んでいる。この年は生類哀れみの令の始まった年でもあり、野犬がやがて大きな問題になっていく頃でもあった。
そして元禄二年の『奥の細道』の旅の途中では、
洞(ほら)の地蔵にこもる有明
蔦の葉は猿の泪や染つらん 芭蕉
の句を詠んでいる。古来楓や蔦の葉を赤く染めてゆくのは時雨で、
小倉山秋の梢の初しぐれ
今いくかありて色に出でなむ
藤原為相
初しぐれ降るほどもなくしもとゆふ
葛城山は色づきにけり
仁和寺後入道法親王覚性
などの古歌もある。それをサルの涙が染めるとした所に、この年の冬に詠む「猿も小蓑を」の句の原型ともいえるモチーフを感じさせる。
芭蕉は中世の公界の文化に憧れ、自らも中世連歌師のように旅をしようと試み、古人の魂に同化しようとした時、そこにあったのは、江戸時代の身分制度の下での蓑笠を失い時雨に打たれるがままの自分の姿だった。
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
猿が叫んだのはあの頃の公界の文化を、公界の自由と人としての権利を返してくれ、ということではなかったか。
猿は江戸時代の儒家神道では猿田彦大神として最高神として祀られている。猿田彦大神は道祖神や青面金剛とも習合し、庚申待ちは江戸時代の庶民に広がり、今日でも至る所に庚申塔を見ることができる。
初しぐれに叫んだサルは蓑笠を着た聖なる猿の幻想を生み、その姿は芭蕉の終生崇拝していた道祖神の姿でもあり、江戸幕府の精神的支柱でもある儒家神道の猿田彦大神の姿にも重なる。まさにそれが「俳諧の神」だったのではないか。
2016年11月10日木曜日
2016年11月9日水曜日
海の向こうではトランプ大統領が爆誕したとのこと。それについては鈴呂屋書庫の日記の方に譲るとして、ここでは風流の話をメインに。
蓑笠が雨具ではなく晴れ着あることは、芭蕉の次の句からも読み取れる。
たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠 芭蕉
降らずとも竹植ゑる日は蓑と笠 芭蕉
年暮れぬ笠着て草鞋はきながら 芭蕉
「たふとさや」の句は三井寺で卒塔婆小町の絵を見たときの句で、真蹟懐紙が残され、そこには少々長い前書きがある。
あなたふとあなたふと、笠もたふとし、蓑もたふとし。
いかなる人が語伝え、いづれの人かうつしとどめて、
千歳のまぼろし、今爰に現ず。其かたちある時は
たましゐ又爰にあらむ。みのも貴し、かさもたふとし
たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠
応定光阿闍梨之覓
卒塔婆小町は能の演目の一つでもあり、年老いた小野小町が卒塔婆の上に座って登場する。絵にはおそらく蓑笠を着た小野小町が描かれていたのであろう。蓑笠は落ちぶれた小野小町の卑賤さを現すと同時に聖なる存在であることをも表す。それゆえ「あなたふとあなたふと」となる。
「降らずとも」の「竹植ゑる日」というのは、旧暦5月13日の竹酔日のことで、この日に竹を植えると枯れないと言われていた。それゆえ「竹植ゑる日」は夏の季語となるわけだが、『去来抄』によれば芭蕉が見つけた季語で、「季節の一ツもさがし出だしたらんは後世によき賜也なり」という芭蕉の言葉を紹介している。この句も蓑笠が雨具ではなく晴れ着であることを示している。
「年暮れぬ」の句は『野ざらし紀行』の旅の句で、自らの旅姿を詠んだ物。旅もまた非日常であり「ハレ」といえよう。
蓑笠は世間一般の日常的な世界からの逸脱であり、それはドロップアウトでもあると同時に世俗のしがらみからの自由を得ることでもある。そこから卑賤は自由、何者にも囚われない聖なるものをも意味する。
網野善彦によれば、農民が一揆を起こすときも蓑笠を着たという。
こうした賎と聖との両義性は、わらわ髪、頭巾、柿帷子、乞食袋(大黒様の持っているような)、赤という色彩にも見られる。それらは両義的な意味で「お目出度い」というわけだ。
これに対して、蓑笠の喪失を訴える句も存在する。
笠もなき我をしぐるるかこは何と 芭蕉
これも『野ざらし紀行』の旅の途中で詠んだ句だが、『野ざらし紀行』には登場しない。
笠もなく冷たい雨にずぶぬれになっている姿は以下にも惨めだ。この感覚は近代に入っても受け継がれている。「雨の中傘をささずに」といったフレーズは演歌などでもありがちなフレーズだし、井上陽水の『傘がない』という歌もあった。
笠島はいづこさ月のぬかり道 芭蕉
これは『奥の細道』のなかで、藤中将実方の塚のある笠島を探した時の句だ。笠島という地名に掛けて、五月雨にぬかるんだ道を笠を探して歩くイメージが重ねあわされている。
「猿も小蓑をほしげ也」というフレーズも、雨の中で笠もなく濡れるがままになっている姿を描き出しているという点では、この二つの句の延長線上にある。
蓑笠は日常的世俗的な世界を追放される時の、家はなくても雨露をしのぐことを許す、いわば人間としての最低限の権利でもあり、自由の証でもあった。それがないということは、日本人にとってはもはや人間であることを否定されてるような惨めさを感じさせる。西洋人にはそういう感覚はないようだ。雨の多い風土が生んだ感覚だろう。
謡曲『蝉丸』では、皇子でありながら目が不自由だという理由で逢坂山に捨てられる蝉丸の宮を描いている。その時臣下の藤原清貫は蝉丸に蓑笠杖のセットを与えている。
清貫:この御有様にては、なかなか盗人の恐れもあるべければ、御衣を賜はって、蓑といふものを参らせ上げ候。
蝉丸:これは雨にきる田蓑の島と詠み置きたる、蓑といふものか。
清貫:また雨露の御為なれば、同じく笠を参らする。
蝉丸:これは御侍御笠と申せと詠み置きつる、笠といふものよのう。
清貫:又この杖は御身地しるべ、御手にもたせ給ふべし。
蝉丸:げにこれをつくからに、千年の坂も越えなんとかの遍照が詠みし杖か。
蝉丸は事実はともかくとして、琵琶法師の祖先とも言われている。実際、中世の芸能や職人の集団には、たいてい皇室を祖先とし、それを自らの技術の独占の理由とする伝承を持っていることが多く、このときの蓑笠杖のセットも、天皇の供御人としての身分を保証するものだったのであろう。
蓑笠は中世の「公界」と深く結びついたものだったと思われる。(続く)
蓑笠が雨具ではなく晴れ着あることは、芭蕉の次の句からも読み取れる。
たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠 芭蕉
降らずとも竹植ゑる日は蓑と笠 芭蕉
年暮れぬ笠着て草鞋はきながら 芭蕉
「たふとさや」の句は三井寺で卒塔婆小町の絵を見たときの句で、真蹟懐紙が残され、そこには少々長い前書きがある。
あなたふとあなたふと、笠もたふとし、蓑もたふとし。
いかなる人が語伝え、いづれの人かうつしとどめて、
千歳のまぼろし、今爰に現ず。其かたちある時は
たましゐ又爰にあらむ。みのも貴し、かさもたふとし
たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠
応定光阿闍梨之覓
卒塔婆小町は能の演目の一つでもあり、年老いた小野小町が卒塔婆の上に座って登場する。絵にはおそらく蓑笠を着た小野小町が描かれていたのであろう。蓑笠は落ちぶれた小野小町の卑賤さを現すと同時に聖なる存在であることをも表す。それゆえ「あなたふとあなたふと」となる。
「降らずとも」の「竹植ゑる日」というのは、旧暦5月13日の竹酔日のことで、この日に竹を植えると枯れないと言われていた。それゆえ「竹植ゑる日」は夏の季語となるわけだが、『去来抄』によれば芭蕉が見つけた季語で、「季節の一ツもさがし出だしたらんは後世によき賜也なり」という芭蕉の言葉を紹介している。この句も蓑笠が雨具ではなく晴れ着であることを示している。
「年暮れぬ」の句は『野ざらし紀行』の旅の句で、自らの旅姿を詠んだ物。旅もまた非日常であり「ハレ」といえよう。
蓑笠は世間一般の日常的な世界からの逸脱であり、それはドロップアウトでもあると同時に世俗のしがらみからの自由を得ることでもある。そこから卑賤は自由、何者にも囚われない聖なるものをも意味する。
網野善彦によれば、農民が一揆を起こすときも蓑笠を着たという。
こうした賎と聖との両義性は、わらわ髪、頭巾、柿帷子、乞食袋(大黒様の持っているような)、赤という色彩にも見られる。それらは両義的な意味で「お目出度い」というわけだ。
これに対して、蓑笠の喪失を訴える句も存在する。
笠もなき我をしぐるるかこは何と 芭蕉
これも『野ざらし紀行』の旅の途中で詠んだ句だが、『野ざらし紀行』には登場しない。
笠もなく冷たい雨にずぶぬれになっている姿は以下にも惨めだ。この感覚は近代に入っても受け継がれている。「雨の中傘をささずに」といったフレーズは演歌などでもありがちなフレーズだし、井上陽水の『傘がない』という歌もあった。
笠島はいづこさ月のぬかり道 芭蕉
これは『奥の細道』のなかで、藤中将実方の塚のある笠島を探した時の句だ。笠島という地名に掛けて、五月雨にぬかるんだ道を笠を探して歩くイメージが重ねあわされている。
「猿も小蓑をほしげ也」というフレーズも、雨の中で笠もなく濡れるがままになっている姿を描き出しているという点では、この二つの句の延長線上にある。
蓑笠は日常的世俗的な世界を追放される時の、家はなくても雨露をしのぐことを許す、いわば人間としての最低限の権利でもあり、自由の証でもあった。それがないということは、日本人にとってはもはや人間であることを否定されてるような惨めさを感じさせる。西洋人にはそういう感覚はないようだ。雨の多い風土が生んだ感覚だろう。
謡曲『蝉丸』では、皇子でありながら目が不自由だという理由で逢坂山に捨てられる蝉丸の宮を描いている。その時臣下の藤原清貫は蝉丸に蓑笠杖のセットを与えている。
清貫:この御有様にては、なかなか盗人の恐れもあるべければ、御衣を賜はって、蓑といふものを参らせ上げ候。
蝉丸:これは雨にきる田蓑の島と詠み置きたる、蓑といふものか。
清貫:また雨露の御為なれば、同じく笠を参らする。
蝉丸:これは御侍御笠と申せと詠み置きつる、笠といふものよのう。
清貫:又この杖は御身地しるべ、御手にもたせ給ふべし。
蝉丸:げにこれをつくからに、千年の坂も越えなんとかの遍照が詠みし杖か。
蝉丸は事実はともかくとして、琵琶法師の祖先とも言われている。実際、中世の芸能や職人の集団には、たいてい皇室を祖先とし、それを自らの技術の独占の理由とする伝承を持っていることが多く、このときの蓑笠杖のセットも、天皇の供御人としての身分を保証するものだったのであろう。
蓑笠は中世の「公界」と深く結びついたものだったと思われる。(続く)
2016年11月8日火曜日
今は雨が降っている。これは寒冷前線の通過で、この雨が止むと西高東低の冬型になり、多分木枯らしが吹くのだろう。
東京生まれで横浜育ちの私としては、冬というと大体晴れた日が続き空気が乾燥していて、雨と言えば時折その冬型の気圧配置が崩れた時くらいだった。だから、長いこと「時雨」というのが何のことかわからなかった。
若い頃鹿児島で6年過ごした時、冬になると天気がいいのに夕方と朝方に決まって雲が出てきて一雨降るのが不思議だった。後になって古典を読むようになって、ああこれが時雨だったんだと思った。
時雨は日本海や東シナ海のような日本列島の大陸側の海が暖められて発生した雲によるものらしく、日本海の遠い横浜では縁がなかったのだろう。
時雨の句と言えばやはり一番有名なのはこれだろうか。
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
これは伊賀山中での句で、琵琶湖の北にそれほど高い山がないせいか、日本海で発生した時雨の雲は滋賀、京都そして伊賀の方にもやってくるのだろう。
芭蕉のこの句はかつては古池の句と並ぶ芭蕉の代表作で、この句ができたことを記念して去来と凡兆を中心に蕉門の総力を上げて作ったのが撰集『猿蓑』だった。『猿蓑』は軽みの風に至る前の蕉風確立期の蕉門の集大成と言っても良く、俳諧史上の一つの頂点とも言える。
『猿蓑』の序文は其角が書いている。
「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起(おこす)べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五徳はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆のほしげなるにまかせて書。」(『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫p.173~174)
俳諧の集を作るのは、昔も今も一緒でこの道を広く世に知らしめる必要のできた時で、俳諧は見えないものを見せるという幻術であり、句に魂が入ってなければそれは単なる幻にすぎない。(要するに、句自体が人々の脳内に作り出す世界は虚構にすぎなくても、そこには見えない真実が表現されてなければならない。)
長く人々に愛され、流行して止まぬものの中にも変わらないものがあることを人々に知らしむる。儒教で言う五常の徳(仁・義・礼・智・信)はもとより、『中庸』に「苟不至德、至道不凝焉。(苟し至德ならざれば、至道凝らず。)」とあるように、心に至徳をもたらすための修行でもある。
『撰集抄』巻五第十五「西行於高野奥造人事」では、西行法師が人から聞いた「鬼が人の骨を集めて人を作ったことがある」という話を信じて、実際原っぱで人の骨を並べて骨格を復元し、それに亜ヒ酸を塗ってイチゴとハコベの葉を揉み合わせて、藤もしくは糸などでその骨格を吊るして水で何度も洗い、髪の毛の生える辺りにはサイカチの葉とムクゲの葉を灰にして付け、土の上に畳を敷いてその骨格を置き、空気に触れぬようにして二十七日間置いた後、沈水香木を薫いて、反魂(はんごん)の秘術を施したものの、出来た物は人の姿に似てはいるけど色も悪く心を持たず、声はあっても管弦の音のようで吹き損じた笛のようにしかならなかったという。反魂の術が完全でなかったからだ。
それと同じように、俳諧も魂がこもればアイウエオの響きも整い、様々な名吟が生まれる。
芭蕉翁はただ俳諧に魂を入れなければと思い、『奥の細道』の行脚を終えて、伊勢から故郷の伊賀へ向かう時、伊賀越えの山中で猿に小蓑を着せて俳諧の神を入れた所たちまち断腸の思いを叫ぶこととなった。まさに身の毛のよだつほど恐ろしい幻術だ。
これを元にこの集を作り、「猿蓑」と名付けることとなった。この序文もこの趣旨に応じて共鳴し、撰者の去来と凡兆に求められるがままに書くこととなった。
この句は、今日なら単に冬の冷たいにわか雨に打たれたサルの姿が可哀相で、雨具を欲しがっているように見えた、ぐらいの解釈になりがちだ。そこに、サルだから蓑ではなく「小蓑」といった所が洒落てるだとか、動物への愛情が感じられるといった評が加わったりする。
そこには「猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」という其角の感動はどこにもない。まして、そのために門人一同集まって撰集を作ろうとしたあれがなんだったのか、残念ながら伝わってこない。
まず、其角が「猿に小蓑を着せて」と言っていることに注意しておこう。
句はあくまで「ほしげ也」と言っているだけで、小蓑がもらえたとは書いてない。そこから、近代的で合理的な感性は、これはあくまで雨に打たれたサルを描いたもので、「ほしげ也」は作者の主観にすぎない、ということになる。だが、当時の人はむしろ、書かれてないにもかかわらず蓑笠を着たサルの姿が浮かんでしまったという、そこに感動したのではないかと思う。
マイナーイメージだとか、言わずして言うとかいうと何てこともないが、見えないものを見せるというのが幻術の基本だ。
そしてそれが単なる「ゆめにゆめみる」ような意味のない妄想ではなく、何か大事なことをい意味していたということが重要なのではないかと思う。それが何だったか、確かに今日のわれわれの感覚では再現することは難しい。だが、それを再現するということが、この句を本当の意味で「読む」ということではないかと思う。
「蓑笠」の持つ意味については、歴史学者の網野善彦の指摘によれば、中世から江戸時代にかけて蓑笠から真っ先に連想されたのは「非人」だったという。今日であれば、お百姓さんを想像するかもしれないが、蓑笠は決して農民の普段着ではなく、田植えの時に着る一首の晴れ着だったという。
猿に小蓑を着せるというのは、サルを卑賤なものであるとともに聖なるものでもあるという二重性を持たせていた可能性がある。詳しくは次回に。
東京生まれで横浜育ちの私としては、冬というと大体晴れた日が続き空気が乾燥していて、雨と言えば時折その冬型の気圧配置が崩れた時くらいだった。だから、長いこと「時雨」というのが何のことかわからなかった。
若い頃鹿児島で6年過ごした時、冬になると天気がいいのに夕方と朝方に決まって雲が出てきて一雨降るのが不思議だった。後になって古典を読むようになって、ああこれが時雨だったんだと思った。
時雨は日本海や東シナ海のような日本列島の大陸側の海が暖められて発生した雲によるものらしく、日本海の遠い横浜では縁がなかったのだろう。
時雨の句と言えばやはり一番有名なのはこれだろうか。
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
これは伊賀山中での句で、琵琶湖の北にそれほど高い山がないせいか、日本海で発生した時雨の雲は滋賀、京都そして伊賀の方にもやってくるのだろう。
芭蕉のこの句はかつては古池の句と並ぶ芭蕉の代表作で、この句ができたことを記念して去来と凡兆を中心に蕉門の総力を上げて作ったのが撰集『猿蓑』だった。『猿蓑』は軽みの風に至る前の蕉風確立期の蕉門の集大成と言っても良く、俳諧史上の一つの頂点とも言える。
『猿蓑』の序文は其角が書いている。
「俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起(おこす)べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五徳はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆のほしげなるにまかせて書。」(『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫p.173~174)
俳諧の集を作るのは、昔も今も一緒でこの道を広く世に知らしめる必要のできた時で、俳諧は見えないものを見せるという幻術であり、句に魂が入ってなければそれは単なる幻にすぎない。(要するに、句自体が人々の脳内に作り出す世界は虚構にすぎなくても、そこには見えない真実が表現されてなければならない。)
長く人々に愛され、流行して止まぬものの中にも変わらないものがあることを人々に知らしむる。儒教で言う五常の徳(仁・義・礼・智・信)はもとより、『中庸』に「苟不至德、至道不凝焉。(苟し至德ならざれば、至道凝らず。)」とあるように、心に至徳をもたらすための修行でもある。
『撰集抄』巻五第十五「西行於高野奥造人事」では、西行法師が人から聞いた「鬼が人の骨を集めて人を作ったことがある」という話を信じて、実際原っぱで人の骨を並べて骨格を復元し、それに亜ヒ酸を塗ってイチゴとハコベの葉を揉み合わせて、藤もしくは糸などでその骨格を吊るして水で何度も洗い、髪の毛の生える辺りにはサイカチの葉とムクゲの葉を灰にして付け、土の上に畳を敷いてその骨格を置き、空気に触れぬようにして二十七日間置いた後、沈水香木を薫いて、反魂(はんごん)の秘術を施したものの、出来た物は人の姿に似てはいるけど色も悪く心を持たず、声はあっても管弦の音のようで吹き損じた笛のようにしかならなかったという。反魂の術が完全でなかったからだ。
それと同じように、俳諧も魂がこもればアイウエオの響きも整い、様々な名吟が生まれる。
芭蕉翁はただ俳諧に魂を入れなければと思い、『奥の細道』の行脚を終えて、伊勢から故郷の伊賀へ向かう時、伊賀越えの山中で猿に小蓑を着せて俳諧の神を入れた所たちまち断腸の思いを叫ぶこととなった。まさに身の毛のよだつほど恐ろしい幻術だ。
これを元にこの集を作り、「猿蓑」と名付けることとなった。この序文もこの趣旨に応じて共鳴し、撰者の去来と凡兆に求められるがままに書くこととなった。
この句は、今日なら単に冬の冷たいにわか雨に打たれたサルの姿が可哀相で、雨具を欲しがっているように見えた、ぐらいの解釈になりがちだ。そこに、サルだから蓑ではなく「小蓑」といった所が洒落てるだとか、動物への愛情が感じられるといった評が加わったりする。
そこには「猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。」という其角の感動はどこにもない。まして、そのために門人一同集まって撰集を作ろうとしたあれがなんだったのか、残念ながら伝わってこない。
まず、其角が「猿に小蓑を着せて」と言っていることに注意しておこう。
句はあくまで「ほしげ也」と言っているだけで、小蓑がもらえたとは書いてない。そこから、近代的で合理的な感性は、これはあくまで雨に打たれたサルを描いたもので、「ほしげ也」は作者の主観にすぎない、ということになる。だが、当時の人はむしろ、書かれてないにもかかわらず蓑笠を着たサルの姿が浮かんでしまったという、そこに感動したのではないかと思う。
マイナーイメージだとか、言わずして言うとかいうと何てこともないが、見えないものを見せるというのが幻術の基本だ。
そしてそれが単なる「ゆめにゆめみる」ような意味のない妄想ではなく、何か大事なことをい意味していたということが重要なのではないかと思う。それが何だったか、確かに今日のわれわれの感覚では再現することは難しい。だが、それを再現するということが、この句を本当の意味で「読む」ということではないかと思う。
「蓑笠」の持つ意味については、歴史学者の網野善彦の指摘によれば、中世から江戸時代にかけて蓑笠から真っ先に連想されたのは「非人」だったという。今日であれば、お百姓さんを想像するかもしれないが、蓑笠は決して農民の普段着ではなく、田植えの時に着る一首の晴れ着だったという。
猿に小蓑を着せるというのは、サルを卑賤なものであるとともに聖なるものでもあるという二重性を持たせていた可能性がある。詳しくは次回に。
2016年11月7日月曜日
ネットを探してたら、其角自撰句集『五元集』に、
旅思 二句
みゝつくの独笑ひや秋の昏 其角
みゝつくの頭巾は人にぬはせけり 同
とあった。一つは前回紹介したが、もう一句も同じように自分の旅姿を詠んだものと思われる。
もう一つ、『五元集』の春の所に、
梟にあはぬ目鏡や朧月 其角
の句があった。例によって企画の句はわかりにくい。ここでも自分を梟に例えているのだろうか、あるいは梟と同化しているのか。夜目の利く梟でも眼鏡が合わなければ月も朧に見える。つまり、「眼鏡をかけているように見える梟もその眼鏡が合ってないのか、月が朧に見える」と言うような意味なのだろう。
近代俳句だが、
ふくろうの声ふところの孤独かな 窓秋
の句は何か惹かれるものがある。窓秋の句は近代俳句の中では前衛として扱われているが、案外ポップでわかりやすい句が多い。写生句か象徴詩かという近代俳句の枠組みに収まらないため、前衛として扱われているのだろう。
「ふくろう」と「ふところ」が何となく韻を踏んでいるのか踏んでないのかの微妙なつながりで、それに「こどく」と畳み掛ける言葉遊びが面白いし、情景としても梟の声を聞くようなところではきっと山奥で一人っきりなのだろう。梟の声にはっと我に帰り、孤独はいつでも自分の懐にあることを自覚する、という意味か。
旅思 二句
みゝつくの独笑ひや秋の昏 其角
みゝつくの頭巾は人にぬはせけり 同
とあった。一つは前回紹介したが、もう一句も同じように自分の旅姿を詠んだものと思われる。
もう一つ、『五元集』の春の所に、
梟にあはぬ目鏡や朧月 其角
の句があった。例によって企画の句はわかりにくい。ここでも自分を梟に例えているのだろうか、あるいは梟と同化しているのか。夜目の利く梟でも眼鏡が合わなければ月も朧に見える。つまり、「眼鏡をかけているように見える梟もその眼鏡が合ってないのか、月が朧に見える」と言うような意味なのだろう。
近代俳句だが、
ふくろうの声ふところの孤独かな 窓秋
の句は何か惹かれるものがある。窓秋の句は近代俳句の中では前衛として扱われているが、案外ポップでわかりやすい句が多い。写生句か象徴詩かという近代俳句の枠組みに収まらないため、前衛として扱われているのだろう。
「ふくろう」と「ふところ」が何となく韻を踏んでいるのか踏んでないのかの微妙なつながりで、それに「こどく」と畳み掛ける言葉遊びが面白いし、情景としても梟の声を聞くようなところではきっと山奥で一人っきりなのだろう。梟の声にはっと我に帰り、孤独はいつでも自分の懐にあることを自覚する、という意味か。
2016年11月6日日曜日
湯山三吟を鈴呂屋書庫の方にアップしたのでよろしく。他にも水無瀬三吟、文和千句第一百韻もあるし、蕉門の俳諧もあるからそっちもよろしくね。
連歌の面白さは新しい句が付くとそこにまったく違う世界が開けることで、百韻百句、千変万化して一つとして同じ世界はない。
だから連歌を読むときには斜めに読み飛ばすのではなく、一句一句立ち止まって、そのつど変化を楽しむ方がいい。
近代の連句だと、歌仙を三十六行からなる一つの詩みたいに捉え、イメージのシーケンスを味わうということもあるらしいが、連歌や俳諧にはそういう考え方はない。
よく、連歌、俳諧、連句何が違うのかというと、まったく同じで区別は不要と言う人がいるが、それは例えて言えばジャズもロックもクラッシックもみんな同じ音楽だから同じように楽しめばいいというようなものだ。
だが、理想はいいが、実際にクラッシックのコンサートに行ってロックコンサートの乗りでイェーッなんてやってたらつまみ出されるから、現実にはジャンルの壁というのは確かに存在する。
私の書いた連歌や俳諧の解説を読んで興味を持ったからといって、そのつもりで近代連句の会に行ったりすると顰蹙を買うこともあるので注意が必要だろう。私自身、連句のサイトではひどい目にあっている。文学に関してはとかく糞真面目で、笑いとなると親父ギャグレベルの人が多いので注意を要する。やはり連歌・俳諧と近代連句は別物だと考えた方がいい。
それはともかくとして、文化の日に掛川花鳥園に行ってたくさんフクロウを見てきたので、今日はフクロウ・ミミズクの発句を拾ってみた。
梟のこゑ拾ひ出す落葉哉 東月
『奥の細道』の須賀川の所に登場する等躬の撰の『伊達衣』の句。東月は山形の人。
落ち葉の音に耳を済ませているとかすかにフクロウの声が聞こえてくるのを、「拾い出す」と表現するあたりはなかなかだ。
梟の咳せくやうに冬ごもり 一旨
伊勢の乙孝(おとたか)撰『一幅半(ひとのはん)』の句。
梟の咳というのは「ほうほう」ではなく短く「ほっほっ」と鳴く時の声か。その声にせかされるように冬ごもりの季節がやってくる。
梟の世を昼にして月見かな 希志
許六撰『正風彦根体(しょうふうひこねぶり)』の句。
夜行性のフクロウは人間からすると昼夜が逆転しているので、フクロウからすれば月見をしている今が昼のようなものだという句。
梟は冬の季題だが秋にも詠む。
続いて、ミミズクの句。
木兎も寝に来る冬の案山子哉 等麗
等躬撰『伊達衣』の句。「等」がつくから等躬の身内か。
鳥除けのための案山子も稲刈りが終わってしまった後は冬休みか。ミミズクも安心して寝ている。
木兎の寝よふとすれば時雨哉 乙由
伊勢の凉菟の撰『皮籠摺』の句。
ミミズクの声がしてそろそろ寝る頃かと思えば時雨が降ってくる。
木兎やおもひ切たる昼の面 井境
これは『猿蓑』の句。井境は尾張の人。
昼のミミズクは目を細め体を丸くして眠っていることが多く、それが恋の思いを吹っ切って悟りきったような顔をしているように見えるということか。
みみづくは眠る処をさされけり 牛残
これも『猿蓑』の句。牛残は伊賀の人。
ミミズクの昼間眠っている所を見つけると指を指して「あれ、あそこっ」とか言いたくなるということか。
けうがる我が旅すがた
木兎の独わらひや秋の暮 其角
其角撰『いつを昔』の句。
これはミミズクを詠んだのではなく、自分自身の蓑笠来た旅姿をミミズクに見立てた句。ただ、昼間のくつろいだミミズクの顔が笑っているようにも見えるところから、そのイメージを自分に重ねたのだろう。
ふくろう同様、ミミズクも冬だけでなく秋にも詠む。
フクロウ・ミミズクの句の数はそう多くなかったようだ。芭蕉にフクロウ・ミミズクの句がないのは残念だ。
連歌の面白さは新しい句が付くとそこにまったく違う世界が開けることで、百韻百句、千変万化して一つとして同じ世界はない。
だから連歌を読むときには斜めに読み飛ばすのではなく、一句一句立ち止まって、そのつど変化を楽しむ方がいい。
近代の連句だと、歌仙を三十六行からなる一つの詩みたいに捉え、イメージのシーケンスを味わうということもあるらしいが、連歌や俳諧にはそういう考え方はない。
よく、連歌、俳諧、連句何が違うのかというと、まったく同じで区別は不要と言う人がいるが、それは例えて言えばジャズもロックもクラッシックもみんな同じ音楽だから同じように楽しめばいいというようなものだ。
だが、理想はいいが、実際にクラッシックのコンサートに行ってロックコンサートの乗りでイェーッなんてやってたらつまみ出されるから、現実にはジャンルの壁というのは確かに存在する。
私の書いた連歌や俳諧の解説を読んで興味を持ったからといって、そのつもりで近代連句の会に行ったりすると顰蹙を買うこともあるので注意が必要だろう。私自身、連句のサイトではひどい目にあっている。文学に関してはとかく糞真面目で、笑いとなると親父ギャグレベルの人が多いので注意を要する。やはり連歌・俳諧と近代連句は別物だと考えた方がいい。
それはともかくとして、文化の日に掛川花鳥園に行ってたくさんフクロウを見てきたので、今日はフクロウ・ミミズクの発句を拾ってみた。
梟のこゑ拾ひ出す落葉哉 東月
『奥の細道』の須賀川の所に登場する等躬の撰の『伊達衣』の句。東月は山形の人。
落ち葉の音に耳を済ませているとかすかにフクロウの声が聞こえてくるのを、「拾い出す」と表現するあたりはなかなかだ。
梟の咳せくやうに冬ごもり 一旨
伊勢の乙孝(おとたか)撰『一幅半(ひとのはん)』の句。
梟の咳というのは「ほうほう」ではなく短く「ほっほっ」と鳴く時の声か。その声にせかされるように冬ごもりの季節がやってくる。
梟の世を昼にして月見かな 希志
許六撰『正風彦根体(しょうふうひこねぶり)』の句。
夜行性のフクロウは人間からすると昼夜が逆転しているので、フクロウからすれば月見をしている今が昼のようなものだという句。
梟は冬の季題だが秋にも詠む。
続いて、ミミズクの句。
木兎も寝に来る冬の案山子哉 等麗
等躬撰『伊達衣』の句。「等」がつくから等躬の身内か。
鳥除けのための案山子も稲刈りが終わってしまった後は冬休みか。ミミズクも安心して寝ている。
木兎の寝よふとすれば時雨哉 乙由
伊勢の凉菟の撰『皮籠摺』の句。
ミミズクの声がしてそろそろ寝る頃かと思えば時雨が降ってくる。
木兎やおもひ切たる昼の面 井境
これは『猿蓑』の句。井境は尾張の人。
昼のミミズクは目を細め体を丸くして眠っていることが多く、それが恋の思いを吹っ切って悟りきったような顔をしているように見えるということか。
みみづくは眠る処をさされけり 牛残
これも『猿蓑』の句。牛残は伊賀の人。
ミミズクの昼間眠っている所を見つけると指を指して「あれ、あそこっ」とか言いたくなるということか。
けうがる我が旅すがた
木兎の独わらひや秋の暮 其角
其角撰『いつを昔』の句。
これはミミズクを詠んだのではなく、自分自身の蓑笠来た旅姿をミミズクに見立てた句。ただ、昼間のくつろいだミミズクの顔が笑っているようにも見えるところから、そのイメージを自分に重ねたのだろう。
ふくろう同様、ミミズクも冬だけでなく秋にも詠む。
フクロウ・ミミズクの句の数はそう多くなかったようだ。芭蕉にフクロウ・ミミズクの句がないのは残念だ。
2016年11月5日土曜日
さて、湯山三吟も残す所あと三句。
まず九十八句目から。
心をもそめにし物を桑門
いでばかりなるやどりともなし 宗長
この句もさらっと心(意味)で付けている。
「心をもそめにし」の心に執着するものを長年住み慣れた家のこととし、この世は皆仮の宿に過ぎないのだと思ってはみても、とてもそんな気にはなれないとする。出家するとはいえ、住み慣れた家をあとにするのは心残りだ。
次ぎ、九十九句目。
いでばかりなるやどりともなし
露のまをうき古郷とおもふなよ 宗祇
これは「咎めてには」という付け方で、前句がその前の句、つまり打越の心を受けて素直に付いているときに、それを否定する句をつなげることで展開を図ることができる。決して前句の作者を咎めているのではない。あくまでゲームとしての咎めにすぎない。
水無瀬三吟には咎めてにはの句が三句ある。
慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き
今さらに一人ある身を思うなよ 肖柏
老の行方よ何にかからむ
色もなき言の葉にだにあはれ知れ 肖柏
身のうきやども名残こそあれ
たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏
といずれも肖柏の句だが、その前句は、
山深き里や嵐におくるらん
慣れぬ住ひぞ寂しさも憂き 宗祇
見しはみな故郷人の跡もなし
老いの行方よ何にかからむ 宗祇
草木さへふるきみやこの恨みにて
身のうきやども名残こそあれ 宗長
といずれも前句に逆らわずに素直に心で付けている。こういう句の後に咎めてにはは一つのパターンなのだろう。
「露」が出て、季節は秋に転じる。次は挙句ということでこれは月呼び出しでもある。
そしてその挙句。
露のまをうき古郷とおもふなよ
一むら雨に月ぞいさよふ 肖柏
近世になると花の定座が挙句の手前と定まり、判で押したように最後は春で締めくくることになる。月で締めくくるというのは中世連歌ならではの面白さでもある。
生きていくというのは様々な人間との軋轢の中で苦しいことも多い。だが、それもにわか雨のようなもので、涙の後には月も出るというところか。
そういうわけで、苦しくても頑張って生きてゆきましょう。いつかきっといいことあるよ。そう思いながらね。
人生でやり残したことが、これで一つ減った。
まず九十八句目から。
心をもそめにし物を桑門
いでばかりなるやどりともなし 宗長
この句もさらっと心(意味)で付けている。
「心をもそめにし」の心に執着するものを長年住み慣れた家のこととし、この世は皆仮の宿に過ぎないのだと思ってはみても、とてもそんな気にはなれないとする。出家するとはいえ、住み慣れた家をあとにするのは心残りだ。
次ぎ、九十九句目。
いでばかりなるやどりともなし
露のまをうき古郷とおもふなよ 宗祇
これは「咎めてには」という付け方で、前句がその前の句、つまり打越の心を受けて素直に付いているときに、それを否定する句をつなげることで展開を図ることができる。決して前句の作者を咎めているのではない。あくまでゲームとしての咎めにすぎない。
水無瀬三吟には咎めてにはの句が三句ある。
慣れぬ住まひぞ寂しさも憂き
今さらに一人ある身を思うなよ 肖柏
老の行方よ何にかからむ
色もなき言の葉にだにあはれ知れ 肖柏
身のうきやども名残こそあれ
たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏
といずれも肖柏の句だが、その前句は、
山深き里や嵐におくるらん
慣れぬ住ひぞ寂しさも憂き 宗祇
見しはみな故郷人の跡もなし
老いの行方よ何にかからむ 宗祇
草木さへふるきみやこの恨みにて
身のうきやども名残こそあれ 宗長
といずれも前句に逆らわずに素直に心で付けている。こういう句の後に咎めてにはは一つのパターンなのだろう。
「露」が出て、季節は秋に転じる。次は挙句ということでこれは月呼び出しでもある。
そしてその挙句。
露のまをうき古郷とおもふなよ
一むら雨に月ぞいさよふ 肖柏
近世になると花の定座が挙句の手前と定まり、判で押したように最後は春で締めくくることになる。月で締めくくるというのは中世連歌ならではの面白さでもある。
生きていくというのは様々な人間との軋轢の中で苦しいことも多い。だが、それもにわか雨のようなもので、涙の後には月も出るというところか。
そういうわけで、苦しくても頑張って生きてゆきましょう。いつかきっといいことあるよ。そう思いながらね。
人生でやり残したことが、これで一つ減った。
2016年11月1日火曜日
今日は午前中雨が振り午後からは晴れた。
夕暮れの空は大気が安定しているのか、地平線付近は赤みは少なくやや緑がかかり、その上の色をなくした空に爪で引っ掻いたような細い三日月が見えていた。今日は旧暦だと神無月の三日。もう冬だ。
さて、それでは湯山三吟の続きで、今日は九十五句目から。
誰よぶこどり鳴きて過ぐらん
おもひ立つ雲路ぞかすむ天津雁 宗長
「らん」は前句では疑問の意味だったが、お約束通りここでは反語となる。呼子鳥が鳴いて通り過ぎたかと思ったがそうではない、帰ろうと飛び去った天津雁の飛行ルートが霞んでいたためにその姿が見えなかったからそう思っただけだった、という意味になる。
九十六句目。
おもひ立つ雲路ぞかすむ天津雁
さこそは花を跡の山ごえ 宗祇
「思い立つ」を「思い断つ」に取り成し、花の咲く山を跡にして越え去ってゆく旅人の心情の句とする。「思い断つ雲路も霞むぞ、天津雁、さこそは花を跡の山ごえ」の倒置となる。相変わらず高度な「てには」の使い方で付けてくれる。
惜しむ気持ちを振り切ろうとすると雲路も霞む、天津雁よ、お前こそは花を跡にして山を越えて行く、という意味になる。
九十七句目。
さこそは花を跡の山ごえ
心をもそめにし物を桑門 肖柏
この付け句はわかりやすい。
前句の「花を跡の山ごえ」をいろいろな世俗への執着を断ち切って世捨て人になることの例えと取り成す。
心にいろいろ執着するものがあっただろうに世捨て人、それこそは花を跡にしての山越えだ、という意味になる。
夕暮れの空は大気が安定しているのか、地平線付近は赤みは少なくやや緑がかかり、その上の色をなくした空に爪で引っ掻いたような細い三日月が見えていた。今日は旧暦だと神無月の三日。もう冬だ。
さて、それでは湯山三吟の続きで、今日は九十五句目から。
誰よぶこどり鳴きて過ぐらん
おもひ立つ雲路ぞかすむ天津雁 宗長
「らん」は前句では疑問の意味だったが、お約束通りここでは反語となる。呼子鳥が鳴いて通り過ぎたかと思ったがそうではない、帰ろうと飛び去った天津雁の飛行ルートが霞んでいたためにその姿が見えなかったからそう思っただけだった、という意味になる。
九十六句目。
おもひ立つ雲路ぞかすむ天津雁
さこそは花を跡の山ごえ 宗祇
「思い立つ」を「思い断つ」に取り成し、花の咲く山を跡にして越え去ってゆく旅人の心情の句とする。「思い断つ雲路も霞むぞ、天津雁、さこそは花を跡の山ごえ」の倒置となる。相変わらず高度な「てには」の使い方で付けてくれる。
惜しむ気持ちを振り切ろうとすると雲路も霞む、天津雁よ、お前こそは花を跡にして山を越えて行く、という意味になる。
九十七句目。
さこそは花を跡の山ごえ
心をもそめにし物を桑門 肖柏
この付け句はわかりやすい。
前句の「花を跡の山ごえ」をいろいろな世俗への執着を断ち切って世捨て人になることの例えと取り成す。
心にいろいろ執着するものがあっただろうに世捨て人、それこそは花を跡にしての山越えだ、という意味になる。
登録:
投稿 (Atom)